2012/10/29 <筋肉(肌肉)の在り方>
今日はカルチャーセンター。
ここでもまた話したことなのだが、最近ことあるごとに生徒さんに話していることがある。それは中医学における「筋肉」の捉え方。
「筋肉」は中国語で「肌肉(ジーロウ)」という。
そして「肌」と「肉」は筋肉の別々の状態を指しているという。
「肌」は筋肉に力の入った緊張した状態。「肉」は弛緩した状態。
そして理想的な筋肉とは普段「肉」で、必要に応じて「肌」になるような筋肉。
日ごろ常に筋肉を緊張させ「肌」にし続けていると、気血の流れが滞り、硬直した筋肉は「肉」に戻そうとしても戻らず、力を出そうと思っても力がでなくなる。
できるだけ「肉」にして、気血の流れを良くし、必要な時に力の発揮できる弾力のある筋肉にする。(気血の流れの良い「肉」(筋肉)は決してブヨブヨの肉(脂肪)でないことに注意。気血の流れのよい筋肉の上には脂肪はあまりつかない。)
なんだか上等な××牛やサラブレッドを育てる時のような感じ。
結局人間も動物もその健康状態は「色艶」に出る。
上質な、使える肉を作りたいところ。
2012/10/28 <お茶と太極拳、”通る”感覚>
毎日のメモのはずがまたしばらく書くのをさぼってしまった。
ちょっと前の練習を思い出してみる。
10/22
雨のためいつもの練習はキャンセル。
が、上京中の大学時代の卓球部の先輩が、この機会に是非習って帰りたいということだったので、2人で雨をしのげる場所を探した後、2時間余りみっちり教え込んだ。
この先輩とは大学時代ダブルスも組んだこともある。
先輩と私の大学卒業後の紆余曲折にはどこか似たところがあり、ある時点でそれまでのキャリアに終止符を打ち、それから自分の好きなことに打ちこんでいるうちに、いつの間にかそれが生活の軸になっている。私の場合はそれが太極拳だったが、先輩の場合は”お茶”だった。
先輩は本当のお茶を学ぶべく台湾に渡り、そこで偶然出会った師匠の下で住み込み生活をしながら一からお茶を学んできた。茶葉を求めて山奥まで入って行ったりするところから始まり、焙煎を含めたその後の工程、そして最後に茶をふるまうところまで、全てを自分の手で行う。お茶にかけるその熱意、一途さ、心遣いの細かさには私も敬服するばかりで、私は自分がこのように太極拳を人に教える以前から先輩の生き方に憧れの念を抱いていた。
2年程前、たまたま先輩が都内でお茶のデモンストレーションをするということを知り、私は仲の良い生徒さん達とそのイベントに参加した。何年ぶりの再会だっただろう?とても懐かしく思うのと同時に、人前でお茶の説明する先輩の姿を見て、ああ、これが彼女の天職なんだなぁ、とじんわりと感激してしまった。
先輩が今回どうしても私に習っていきたいと言ってきたのは、一つは運動不足、体力の低下をどうにかしたい、という私の年代以降の人ならだれにでもある理由だったが、もう一つは、”良いお茶を飲むと、すっと丹田まで落ちる”という感覚を更に追求したいという理由だった。
ここでエピソードを一つ。
昨年パリに行った時に、先輩の師匠のお茶を持参し、お茶に関して造詣の深い(ちょっとうるさい?)私の師父に飲んでもらった。私は何も言わずにいつものようにお茶を入れて出したのだが、それを一口飲んだ師父は急に真顔になり、「これはすごくいい!」と一言。しばらく目を閉じてお茶を味わっていた。「これまで中国でもかなりお茶を飲んできたが、このお茶は人生の中で2番目に良いお茶だ・・・」と言う。
横で私もいっしょにお茶を飲んだが、実はその良さが分からず、師父に何で良いお茶だと言えるのか?と聞いてみた。すると師父は私に飲み方を見せながら、「ほら、この喉を通る時に、スルッと通るだろう?さっき飲んだ別のお茶ではこんな風にはならなかっただろう?」と説明してくれた。ああ、喉の奥ね・・・とその感覚をつなげると、確かにお茶がスルッと落ちていって、身体の中をスルスル、と下へ落ちていくのが分かる。
この後、私の師父は、こんなお茶を作る人の修行レベルは相当高いなぁ、とつぶやいていた。
何だかお茶と太極拳は共通するものがあるようだ、という漠然とした感覚が生まれた一つの出来事だった。
今回改めて先輩に太極拳を教えたり、話を聞いたりしたことで、当時感じた漠然とした感覚がかなりはっきりしてきた。
(先輩の追求する)お茶と(私の追求する)太極拳の共通点・・・それは”通る”感覚ではないか、と。
良いお茶は身体の中を通り丹田まで達するという。良い茶と飲むと身体もスッとして、これはきっと身体にも良いはずといういう感じがあるという。
確かに“通る”感覚はとても気持ち良い。
お茶を飲めばそれが身体を通り、練功では”気(空気)”が身体を通る。
道教を起源とする太極拳や気功の練習では、”気持ち良さ”を追求するのだが、その気持ち良さは、”通る”気持ち良さなのかもしれない。
身体の”通る”気持ち良さを少しでも味わうと、その感覚をさらに得たいという気持ちが出てくる。そのためには、身体を内側から開かなければならず、内側から開くためには内気を溜めなければならない。
つまり、内気を溜める→内側から外側に向けて身体を開いていく→開いた空間を気が通る、というのが練功の手順。
会陰から百会まで気が貫けば、まさに気が身体を貫通したことになる。すると外界と自分の境界線がなくなり、『天人合一』の境地に至るはず・・・。(急に話が飛んだ!ちゃんと自分で体験できねば、何の話か分からないような話。もう少し。頑張ろう~!)
☆ お茶の先輩については以下を参照してください。
「しゃおしゃん便り」http://xiaoxiang.exblog.jp/
2012/10/22
<腎臓周辺:腰の隙間?腰の間?腰の際?腰の眼?>
少し書くのをさぼると、毎日の気づきが記すことなく流れてしまう。
とりあえず、10/20土曜日の練習の気づき。
保土ヶ谷での、ああでもない、こうでもない、とみんなでワイワイガヤガヤの練習。研究熱心な生徒さんが多いせいか、生徒さんの間でも身体を触り合ったりして試行錯誤している。
その結果の結論:
『腰の腎臓部分(命門ツボの両横で、骨がなく柔らかい部分)が張り出していなければならない。』
ここは声楽家やダンサーが呼吸する場所でもある。まさにエラ呼吸のようにパクパクする。
太極拳では”腰”が要だが、経典の中で「常に注意していなければならない場所」としての”腰”は、『腰隙』とか、『腰間』とか、『腰際』とか、『腰眼』という言葉で表現されている。
この『腰隙』『腰間』『腰際』『腰眼』などが具体的にどこを示すか、というと、喧々諤々議論が繰り返され、命門だと言う人もいれば、それは特定できない知る人のみぞ知る場所である、とか、さまざま。
しかし、私自身の感覚としては、命門の両横の、空気をいれると膨らむ腎臓あたりのことを指しているのではないかと思っている。腎臓には先天の気を宿す場所でもあるし、多種のホルモンを産出する副腎もこの場所にある。先天の気や性ホルモンを刺激することが練功の核心にあることに鑑みるとやはり、このあたりがそうだろう、と思うのだ。
いずれにしろ、ここは体幹を構成する重要な場所。
ここがスルッとして張り出していない身体の人は、腰椎に過剰な負担がかかっていて腰痛、ぎっくり腰になりやすい。
またここは力を運用する場所。ここが使えないと身体にパワーがでない。
ウエストを細くしようとする女性も多いが、本当に使える身体はほとんどウエストがなく寸胴(以前載せたボリショイのバレエダンサー達の胴体を参照!)。内臓をウエストで分断させるなんてもってのほか。
・・・もちろん、ぶよぶよお腹でウエストがない、というのは別の話。
言うなれば、引き締まった寸胴が理想。
2012/10/19
今日は45歳の誕生日。ママクラスの後、その会場で誕生日記念に24式のビデオ撮影をしてもらった。
1年ちょっと前に撮影したものと比べると、落ち着き、安定感が増したのが分かる。
そして、最近周囲の人に指摘されるように、肩、首が力強くなり、胸や背中が広くなった(もともと胸はないからブラジャーも必要ないのだが、『含胸』により腹式呼吸を心がけているうちに、小胸筋が発達して胸板が厚くなった感じ)。
毎年歳をとっていくが、毎日鍛錬していれば、それだけの収穫はあると実感。
ご参考までに下に動画を貼り付けます。
昔の動画は公開するのが恥ずかしいところもあるのですが、比較のために載せます。
やっと内気で身体が動く感じ、すなわち『行気』(気を行かせることで身体が動く、気を”運ぶ”のではない)が定着してきたよう。
次の課題は『柔軟』、その前提としての『一緊一松』。
師父と私の大きな差はそこにあると改めて気づいたところ。
来年の誕生日に進歩が感じられるよう、また頑張ろう!
2012/10/12 <太極拳とダイエット、聡明な身体>
パリから帰国して翌日より練習を開始した。今日ははや3日目。
パリの滞在期間は5日間と短く、時差ボケが治らないうちに帰国したのか、そのまま日常生活に戻っている。
今回は10か月ぶりのパリだったが、ますます移民の比率が増えたかのようで、メトロに乗っても街を歩いても有色人種の顔が目立つ。もちろん、私が行動する場所が観光地や高級住宅街でないことも関係するだろうが・・・。
それはともかく、いずれにしろ、私が最初にパリに行っていた20数年前と比べて、美しい女性は激減している。当時は清楚な服装ですらりとした脚にパンプスをはいたような女性が多かったが、次第にフランスもアメリカナイズされ、食べ物もジャンクフードが増え、ジーパンにスニーカーとラフな格好が増えた。平均体重もこの10年くらいで8キロくらい増えたという記事も見たことがある。確かにたるんだ大きなお腹を出して歩いている女性がとても多くなった。生活全般がルーズでだらしなくなっているのがその身体から感じられる。
日本に戻ってくると、その点、日本人は神経質なくらいダイエットに励んでいるよう。すでに細いのになんでダイエットが必要なのだろう?と思うような人も少なくない。”華奢”が度を越して”貧弱”になっていたりする。もちろん、その一方で、ダイエット、ダイエットと口では言いつつ、やはり食欲には勝てず次第に肥えていく人も多いのは確か。
小学生の会話の中でも、すでに、脚が細くなりたい、とか、痩せなきゃ、という言葉が表れてくる。これはきっとテレビや雑誌で常にその話題が取り上げられているせいだろう。巷で売られているダイエットの本やグッズはどれだけあるか分からない。
以前太極拳の問合せで、「太極拳をすると痩せますか?」というものがあった。
・・・痩せるために太極拳をする?単に痩せるためだけなら、別に太極拳のような複雑なことをしなくても、食生活を見直して(腹6分目か7分目で押さえ、絶対間食はしない)、軽く走ったり踊ったり身体を動かすことをする、くらいで良いのではないかしら?・・・と、私にはすぐには返答できず、このような質問をする人にどう説明すれば良いものか、しばらく頭を悩ました。
太極拳はそれほどカロリーを消費するわけではないだろうから(量ったことはないが)、そんなに一気に体重ば減るとは思えない。ただ、心身を自然に合わせて調節していくうちに、身体が次第に余計なものを欲さなくなってくるように思うが、その調整にはそれ相当の期間が必要だ。「一週間で3キロ痩せた!」とか「一か月で5キロ痩せた!」ということは考えられない。
その時具体的にどう返答したのか今は覚えていないが、その後、この件を師父に離したら、「なぜ、一言、はい、痩せます、と答えなかったんだ?」と言われたのを覚えている。
当時は「はい、痩せます!」と言い切るのには躊躇があったが、このように自分自身の練習や教える経験を積んで来た今では師父の答えが決して過大広告でないことが分かる。
太極拳の練習と言っても、その内容は広範囲に亘る。
世間一般の人が想像する、公園で老人が一斉にやっている一種踊りのような動作は「套路(トウロ)」と言って、太極拳の技をつなげて24式や48式等にした所謂『型』。
これが太極拳の練習の中心にあることは間違いないが、それを支えるための各種の基本功(静功、動功)がある。また、2人組で行う対練も重要な練習だ。
ここまでが通常の意味での「太極拳の練習」。
しかし、本当の「練習」はこれでは終わらない。
太極拳の練習は太極につながるための道。
身体はできる限り純粋な状態、自然な状態にもっていかなければならない(これが養生法となる。)
そこには当然、食生活と休息がとても重要な要素として含まれている。
『どんなに一生懸命太極拳の練習をしても、食生活と休息が適当でなければ、練習の成果は上がらない』というのは古来から言われてきている。(これは以前コラムで書きました。)
つまり、「坐立行臥不離開練功」と言われるように、坐っても、立っても、歩いても、寝ても、練功から離れてはいけない。一日24時間全てが練功ということ。そしてここに文字として表れてはいないものの、食べることも一種の練功だと私は思っている。
なんでもかんでも欲するものを食べていては身体は純粋な状態にならないが、実は、練習を積んでいくと、身体が欲するものだけを食べていれば間違いはない、という状態になってくる。
即ち、身体が聡明になってくる。
これが太極拳の練習の醍醐味。
私自身体験してきたことだが、ある時点から、自分の頭(頭脳)より身体が賢いということを実感するようになる。頭は人間の部位の中で最も進化した部分である反面、自然から最も乖離していることもあり、とっさの時や大事な時に不安定な働きをしてあまり信頼がおけない(あまりに暴走しすぎれば気違いになる!)一方、まだ自然とつながっている身体は、その中に悠久の智慧を含んでいて安定した働きをする。
結局、養生法の極意は「身体に人工的な頭を介入させず、自然のまま機能させるようにする」ということなのだろうと思う。
自然状態で生きている野生の動物に肥満はない。人間に飼われた動物はダイエットが必要になったりする。
人間も自然な状態なら太ったりしないはず。
自然に戻ることが究極的にはダイエットになるのだが、ダイエットのために自然に戻る、というと何が目的で何が手段なのかを取り違えていて、あまりの視野の狭さにこれ以上議論する余地はないかと思うところ。
養生法を含めた太極拳の練習は高度な知的なお遊びかもしれない。
結果よりもその過程を楽しむのが大事。