2013/5/29 <後天的な身体の矯正、素早い動きのためのゆっくり練習>
昨日は主に常連組の練習。今日は赤ちゃん連れママクラス。
ますます感じることだが、その人の体型を見ればその人の身体の使い方が分かる。
体型のみならず、声、動作、肌質、髪質、眼等まで加味すれば体質、クセ、性格などが分かる。太極拳をちゃんと練習すれば、いずれ人を見ればその人のことが”見透す”ことができるようになる、と昔師父が私に言っていたが、それもありなん、と思うようになってきた。
体型、体質は先天的に持って生まれた要素に後天的な要素が加わって出来上がる。
先天的な要素を全く変えることはできないが、後天的な要素、簡単に言えば”暮らし方”(飲食、睡眠、仕事・運動などを含めた活動の仕方、情緒など)次第で、良い方にも悪い方にも随分変えることができる。
小さい子供を見た時に、明らかに運動神経の良い子というのがいる。これは先天性のもので、こういう子供を選抜して国を挙げて運動選手に仕立て上げていたのが旧社会主義国家だ。そこまでいかなくても、話によれば、フランスのオペラ座のバレエ学校の入学試験では、背骨が真っ直ぐなことが絶対条件で、それに加え両親の体型もチェックされるらしい。
が、先天的な身体の条件が如何に良くても、その後、それを酷使したり、でたらめに使ってしまうと程なく支障が出てくる。最近小学校高学年や中学生で背骨や腰を痛めてしまう子供が多いようだが、運動神経が良い子と言えども無理な練習をさせれば故障をしてしまう。それど同じ道理で、スポーツ選手だからといって必ずしも”健康”なわけではなく、多くの選手が故障に悩まされながら頑張っていたりする。
翻って太極拳の練習はというと、先天的に異なる人達それぞれが、それぞれの現状を出発点として、少しでも今よりも理想的な身体の状態にしようと練習するものだ。相手に勝つためのゲームではない。もちろん本来太極拳は武術だから勝たなければならないのだろうが、その練習方法としては”相手を倒す”という意念を捨て、己自身がただ”強く”(精神的にも肉体的にもブレのない理想的な状態にあること)なることで、いざ相手が現われた時に「気がついたら倒していました。」みたいな状態になることを目指している。
とは言っても、実際は中国国内と言えども武術を使って自分の身を守らなければならないという場面は少なくなっているので、太極拳を学ぶ人の目的は、身体を強くすること、即ち養生法にシフトしている。
先天的な骨格や体質で多少”歪(いびつ)”な部分は、歳をとるにつれ、その歪さが増幅して現れてくる傾向がある。というのは、無意識的に自分にとって”自然”と思える楽な姿勢、動き方を後天的にしてしまうからだ。
しかしその一方で、親や先生に矯正されたり、周囲の人から感化されたりして、多少先天的要素が薄まったり、更には先天的にはなかった要素が出てくることもある。(例えば、同じ日本人両親を持つ子供でも、アメリカで育つのと日本で育つのでは、歩き方から物腰から肉付きから、相当な差が出てくる。また、学校で、良い姿勢、として腰を反らしてお尻をギュッと締めることを学んだ子供は「三つ子の魂百まで」というが如く、先生の教えに何ら疑問を挟むこともなくかなりの年数を生きてしまい、気が付けばかなりの腰痛持ちになってしまったりしている。)
ここで太極拳の練習と言えば、明らかに後天的な身体の矯正方法だともいえる。
基本となる站樁功では、静かにじっと立つことで、身体の歪な部分をゆっくり正していく。それは漬物を漬けるような感覚にも似ていて。じっくり正しい形で”漬け”れば漬けるほど、しっかり身体の奥まで浸透、しみついてくる。立った時に正しい姿勢がとれなければ、動いた時に正しい姿勢をとり続けるのは不可能で、まず站樁功で身体の形を正しくしつけて、その基本状態を崩さぬよう、ゆっくり単純な動きができるようにしていく。動いている間は、どこでストップをかけられても、どの一瞬で写真を撮られても、ポーズが決まっていなければならない。コマ送りで動きを見た時に、どのコマの静止画像内のポーズも歪なところがない、ということは、即ちスキがない、ということで、このスキのない動きを身体に染み込ませることで、瞬時の速い動きの時も正確な動作ができるようにする、というのが太極拳のゆっくりとした練習の意味だ。
長年太極拳の練習をしていた生徒さんの中にも、太極拳は”ゆっくりしたもの”と信じ切っている人がいるが、それは大きな誤解。太極拳の技は”稲妻のように”速く、身体も瞬時に素早く動けなければならない。ゆっくりとした練習は速く動くための練習でもある。ゆっくり動くことで一瞬たりともスキのない正確な身体の動きを身体に染み込ませる。身体に染み込ませておけば、不意打ちになった時でも身体が勝手に正確に反応してくれるようになる。
そしてゆっくり、スローモーションで正確に動くことは速く動くことよりも難しかったりするのも事実。自転車の場合でも、速くこぐよりもゆっくりこぐ方が難しい。そして一番難しいのはその場で静止していることだ。その場で静止できる人は自転車を操る腕前はかなり高い。力や勢いに任せて動くよりも、有り余る力や勢いを制御しながら動く方が一段水準は上。そこには動きを統制、コントロールするための筋肉、神経系統、そして「意」の働きが更に必要となる。
90歳を越えた私の祖母の腰はかなり曲がってしまっているが、それは長年の間俯いて作業を行ってきたせいだ。曲がりかけたところでこのような練習をしていたら、背骨も真っ直ぐに戻せただろうと思う。私の生徒さんの中にも数名、曲がった背骨が随分真っ直ぐに戻ってきた人がいる。この練習は肉のつき方だけでなく骨までも変える、と師父が言っていたが、それを目の当たりにすると嬉しい驚きがある。生徒さん達の練習量はそれほど多くないが、長い期間(1年以上)続けているのと、私が練習の度に耳にタコができるほど同じ個所を注意するので、日常生活の中でも意識するようになるのだと思う。
意識は「火」だと前回さらっと書いたが、意識する、しない、で結果には雲泥の差がでる。肝に銘じたい言葉。
2013/5/25 <眼法、眼神内斂、眼と脳の連結、眼と意>
今週の練習を振り返ってみる。
私は専ら「眼」に関心あり。
実は、スマホに替えてから目が悪くなったのが悔しく、年齢上老眼に対しても関心が高くなってきたのがきっかけだったりする。が、太極拳には「眼法」があり、それは、「身法」「手法」「歩法」と並んで非常に大事な項目だ。これまでまだそこまで真剣に取り組んでこなかった分野だが、少し突っ込んで「眼」を学び始めるとまたまた面白いことが次々と出てくる。
眼の構造から、近眼や老眼になるメカニズム、それを回復させるトレーニング法等を調べていくと、ますます太極拳の際の芽「眼」の使い方が「眼」の健康のみならず「脳」の活性化のためにもとても有効なことが判明。
例えば、「眼法」の中で第一番目に重要なのは、「眼神内斂」。
眼は「神(シェン)」(≒精神)のツボと言われ、眼から「神」が出たり入ったりすると言われる。感覚的にも、眼からはビーム光線のように多大な量のエネルギーが出ていくのが感じられたりするのが、それはその一現象。
そして、太極拳の「眼法」では、できるだけ眼からエネルギーを漏らさないようにするのを第一とする。それが、「眼神内斂」、即ち、眼の「神」を内に引っ込めておくこと、だ。(右上のふくろうさんの眼のような感じ。逆に眼から「神」が出てしまっているようなのはこの左下の”とど”ちゃん、かと。そういう観点から改めて前回5/20のメモの馮志強先生の写真を見ると、その眼はやはり「眼神内斂」になっている。)
この要領は図らずも視力回復のトレーニング法と一致する。眼は何も目玉を指すわけでなく、後頭部の視覚野までつながる視神経まで全てをひっくるめて「眼」なのだが、視力回復の大事な要領は、目を視覚野の方まで引っ張る力を育てることのようだ。目の奥をギューッと後ろに引いて、目の奥が脳の後ろの方を刺すようにする。いろいろやってみると、目の奥のギューっとした絞りを使って、脳のいろんな部分を刺激することができるのまで分かる。ここは前頭野、ここは右脳の上の方、とかいろいろ遊んでいると、直近の記憶を探る時には脳前方の方を目の奥が刺激し、幼少時代の遠い過去の記憶を探る時には後頭部に近い脳の部分を目の奥が刺激しているのが分かったりする。結局、眼の動きで脳がいろいろ刺激できる、という(当たり前だったのかもしれないが)私にとっては新鮮な驚き。
そしてその目の奥を後頭部から頸椎、胸椎、腰椎、と下げていくと命門に達し、そのあたりに目の奥を釘刺しにしておく、というのが、丹田に気を溜める際に不可欠な要領となる「三性帰一」(心で丹田を想い、両眼で丹田を見、両耳で丹田を聞く)のうちの「眼」の要領。しかし「眼」で丹田を釘刺しにしておこうとすれば、自然に心や耳も丹田に集中することになり、結局「意」が丹田あることになる。
「意」は例えれば「火」のようなもので、丹田に「意」を集中していれば、次第に丹田に「気」が溜ってくる。それは、前回書いた「意→気→力」のメカニズムと一緒だ。
だから形として站樁功ができても、この「意」が保持できずに、すぐに雑念が湧いてしまっては、「放松」はそれなりにできても丹田に「気」は溜らない。
站樁功で雑念が出てしまって困る、という人がいるが(時に私もそうだが)、これは「意」が丹田に留まっていない、即ち、両目の奥が丹田を釘刺しにし続けていない証拠。もし両目の奥が丹田を見ていたら、雑念を湧かせたくても湧かせられない。考えたくても考えられない。試してみると分かるが、私達が簡単な足し算をするにも、ちょっとものを考えるにも、眼が上向きに動かないと脳は動かない(眼を下に向けたまま、例えば目で鼻の頭を見たまま計算をするのは無理!)。
結局脳を動かすと眼も動くし、眼が動くということは脳が動いている証拠なのだが、こう見ていくと、「目は口ほどにものを言う」どころか、「目」はその人の頭の働き、頭の使い方、落ち着きのなさ、思慮深さ(浅さ?)等、こちらにそれらを見る「目」があれば、その人の本性全てをさらけ出してしまう。
なんだか面白くなって、道ですれ違う人の目をじっと観察してみたりしていたこの一週間。
引き続き「眼」「神」「意」「眼法」そしてできれば「脳」についてもう少し深めてみたい。
2013/5/20 <意→気→力、意識の拡大>
最近やっと、これまで曖昧だった「意」がはっきりしてきた。
もともと馮志強先生が体系づけたこの太極拳のフル名称は「陳式心意混元太極拳」。「陳式」+「心意」+「混元」の太極拳ということだったが、その後、陳式の発祥地である陈家沟の伝統的な陳式との微妙な関係からか、名前から「陳式」が落ち、そしていつの間にか「心意拳」との関連を思わせる「心意」も落ち、最後は馮志強先生オリジナルの太極拳として「混元太極拳」という名前になっていったように聞いている。
名前から「心意」という言葉は落ちてしまったとはいっても、やはり太極拳には「心意」は外せない。「心意」なくしては太極拳にならない。
中国語でも日本語でも「心意」というのは「こころ」という意味だが、よく考えれば「こころ」というのも実体が掴みにくいものだ。
中国語で「心」というのは「心臓」という実体のあるもの(実)としても捉えられるのだが、ここに宿る実体のないものが「意」だという。
では「意」とは何か?
これは随分長い間私の中で曖昧なところだった。
太極拳では「意到気到力到達」と言って、力が拳に達するためには、まず意念が届き、意念が気を連れてきて、そして力が達する、というように三段階に分けて説明している。
これは本当にゆ~っくり、超スローモーションで、一つの動作(例えば拳を出す動作)をしてみなければ分からないのだが、私達が動作をするにあたっては、まず、①「ここを打ってやろう」という気持ちのようなものがあって、そして②そこに向かってまだ身体は動いていないのだけれども腕の中に目標物に向けて力が込み上げてきて、③本当に腕が動いて目標物を打つようになっている。
最初の、目標に向けて動こうという気持ちのようなものが「意」で、そしてその後瞬時に身体の関係する部分の動く準備ができていくところが「気」が動いている様で、本当に身体が動く時は「力」が外に発現している、というようになる。
この3ステップの一番目の「意」(「よし、ここを打ってやろう」という気持ち)と、三番目の「力」(実際に腕が動いて打ちに行っているところ)はすぐに気付くと思うが、その中間にある「気」の段階についてはかなり意識をしていないと気付かない。
思ったらすぐに打っていた、というような状態だと途中の「気」がどのように動いたかは全く分からない。思ってから拳が対象物に当たるまでの経路を意念でつなぎながら、実際に身体や腕の”内側”をエネルギー(身体の内側の力、即ち「気」)が移動していくさまを意識して、その内側のエネルギーの流れに”随う”ように身体や腕の”外側”が動いていく。
このようにすると余分な動作もなく、動作の途中で内側のエネルギーも漏れないので、その打撃の威力は最大限のものとなる。
これは何も太極拳に限ったことでなく、何気ない日常の動作も全てこのような仕組みでできている。簡単な動作は慣れてしまっていてそこまで意識しないが、慣れていない動作などは、意念と実際の動作の間にギャップがあり、思ったようにいかないその”途中”のところでもどかしさが感じられる(例えば初心者の書道とか、車を始めて運転する時、利き手でない手で字を書いたり歯磨きしたり・・・など)。気持ち(意念)はあるのだが、身体をうまく操れない、そんなもどかしさだ。
意念が身体をうまく操れないと、外に現れる身体の動きもおかしなことになる。
この現象を説明するのに、太極拳では「意念」→「気」(身体を内側から操るのに必要なエネルギー)→「力」(エネルギーの外側への発現)と説明している。
これを通常聞きなれた言葉で言えば、「大脳の指令」→「神経系統の働き」→「筋肉の動き」というようなことになるのだろうか。
ここで大事なのは身体を動かすには「気」という身体の内側のエネルギーが必要(衰弱しきっている人は腕を上げたくても上げる力がなくて上げられなかったりする)のみならず、「気」が正しく通る通り道を開拓しなければならない、ということ。身体の中にエネルギーがあるのに、右手ならできることが左手ではできなかったりするのは、その「通り道」が開拓されていないからだ。これは意念をつかって何度も使おうとすることによって次第に開拓されてくる。つまり、それまで使えなかった場所も、意識的に使うことによって使えるようになるということ。
このような一連の練習をするのが太極拳の練習。
人間の脳もその数パーセントしか使われていないというが、脳のみならず、人間の身体もその数パーセントしか使われていないのだと思う。意識できない部分の方が多いのだというのが私自身の感覚。意識をどれかで細かく使うことができるか、というのは一生かけての挑戦で、それはそれで楽しい。
昔ある太極拳の先生が、太極拳の指導者たる者は脊椎の一つ一つが意識できるようでなければならない(胸椎3番、と言えばその部分が動かせる、腰椎2番、と言えばその部分が動かせる、というように)と言っていたが、昔不可能だと思えたことも今ではさもありなん、というように感じるのは大きな進歩だと思っている。
意識を拡げていく(細かく分化させながら拓いていく)、というのは人が最終的に追求しているもの(無意識にでも)だと思うが、この太極拳の練習はまさにそのための練習。一生かけて追求する価値がある。
(思いつくままに書いていたら、結局、「意」とは何か?について書かないで終わってしまいました。「意」と「思う」「考える」とは大違い、という話。書き出すとまた長くなりそうなのでまた次回。)
2013/5/15 <腰が主宰、腎臓部分とお尻のほっぺの連結>
昨日は久しぶりに一番古い生徒4人組の一斉練習。24式をそろってやってみる。
一回目はそのまま、何も言わずにやってみる。
動作に大きな間違いはないが、手は手、脚は脚で動いているのが見て取れる。
二回目に入る前に、”次は注意を手足ではなく、腰だけに持っていくこと”と指摘して、第7式(斜行)を、手と足で動いた場合と、腰から動いた場合、二種類の動きを自分の身体を使って見せてみる。言葉だけでは抽象的で難解そうだが、動作で具体的に違いを見せれば彼女らも理解できたよう。
実際、第二回目は皆意識を腰あたりに集中して、”腰が手足を推し出して”くるような感覚を維持しながら最後まで24式を”打ち”終わった(中国語では、”打拳”という表現をする)。
腰が手足を”推し出す”ような感じで動くと、全身が一つになったような動きになる。太極拳の要領の中で「上下相随」とか「周身一家」と言われるのはその意味だ。腰(実際には腰部=腹も含む、即ち丹田のある場所)が中心にあって、これも太極拳用語だが、「腰が主宰」となる。
この腰中心で動いて手足をつなげる動きを(私なりに)分析すると、大事な要点は、腰の腎臓部分とおしりの”ほっぺ”の部分を張り出した弧線でつないでおくこと。ツボで言えば腰部にある腰眼(か、できれば胆経にある京門)を臀部の環跳のツボとつないでおくこと。
左の図で右背にある上の赤丸が京門、下の赤丸が腰眼、お尻の青丸が環跳。
この上下の二点をつなぐためには、背部の肋骨と寛骨の間の肉しかない部分を空気で膨らませて、かつ、おしりのほっぺも膨らましておかなければならない。
前屈をすれば用意にわかるが(水泳のスタートの時のように、足を肩幅にして、右足と右手、左足と左手、と二つの線を意識して)、手を伸ばせばその根っこは腰の腎臓あたりにあることが分かる(勿論ちゃんと床に手のひらがつくのが前提!これができない人は腰が硬すぎ。)
そして後ろに90度以上上げれば分かるが(バレエのアラベスク)、脚の根っこはおしりのほっぺの中あたりにある(実はここが骨盤と大腿骨の接合点だから当たり前)。
つまり、手の根っこは腰の腎臓あたり、脚の根っこはおしりのほっぺの中にあるということで、この手と脚の動きを協調させたければ、二つの根っこ部、腎臓部分とおしりのほっぺをつなげば良い、ということになる。
その二つをつなぐためには、上に書いたように、①腎臓部分を膨らませて(→命門を開く、塌腰:腰を伸ばす、斂臀:お尻を少し前方に押えておく=でっちりにしない)、かつ、②おしりのほっぺをふくらませる(→股関節を外旋させる、しかしおしりは締めない。環跳のツボを左右にちょっと”ひっぱり開く”感じ。)のが要領となる。
これは正に站樁功の時の要領だが、套路で動きながらいきなりこれをやるのは難しいので、初めは站樁功でそれを身体に覚え込ませて、動いた時もちょと意識すれば体現できるようにしておく。
実は太極拳の世界で、この要領がしっかりできている人は案外少ない。「上下相随」と言いながら”頭”で手と脚の動きを連結させているような気持ち(?)になっている人が非常に多いのが現実(一般の所謂先生レベルでもそんな感じ)。
ゆっくりの動作で対人練習もしなければ、そんな”気がする”程度で済んでしまうのだろう。しかし、あくまでも太極拳は武術。いつでも打ったり、蹴ったり、躱したり、即座に動けなければならない。それは一般のスポーツと同じ。いつでも、瞬時に動けるように、スキなくいるのがこの練習。背骨を真っ直ぐに硬直させて、優雅に踊っているのとは訳が違う。日本に入ってきた太極拳が既に中国で変形された”年寄相手の養生法”だったところから、一般的な太極拳のイメージはかなり歪なものになっている。
冒頭の松田選手の跳び込みポーズだが、ちょっと失敗してしまった(?)にしろ、核心はしっかりしている。腰が丸くなり、腎臓部分とお尻がしっかりつながっている(残念なことに写真にはあまりお尻は見えないけれど)。
このまま蹴って飛んだところの写真も見たいものだが、想像するに、腰が緩やかに丸みを帯び、肩甲骨と腕が真っ直ぐ一直線になり、身体全体が緩やかな弓の形で、どこからが上半身でどこからが下半身か分からなくなっているはず(お魚さんそのもの)。お尻が飛び出ていたりはしないだろうし、まさかお尻の肉がギュッと締まっていたりするはずがない。(蛇足だが、あまりにもお尻の肉をギュッとする人が多いので一言。試してみればよいが、お尻の肉をギュッと締めたまま、速く走ったり、ジャンプしたりはできません!素早い動きはお尻の肉が緩んでいなければ絶対無理。・・・そう言えばある太極拳の先生が出している本の中にポーズを背面から撮っている写真があり、そのお尻がぎゅ~っと締まっていたのを見て、師父が苦笑いして、「この本は読まなくていい」、と言ったことがありました。これはかなり初歩的なミスで、そのまま練習しても気が足に達することは有り得ません。脚の練習についてはそのうち書きたいところ。)
(ついでに。松田選手の写真で私が興味を持ったのは足の指がしっかり台を掴んでいるところ。今回の師父の指導で脚の指の要領を改めて教わったが、気が足指まで達するとこういう風になる、というお手本。站樁功の時は最終的に気が末端まで達した状態を先取りして最初形をつくり、少しでも早く気が充満するよう導いている。足の指についても面白いことがいっぱい。これもメモで書きたいお題。)
昨日の4人の練習に戻ると、実は彼女らが案外すんなりとこの腰中心の動きをやってのけたことに内心私はビックリ。実は練習後のお茶目的でやって来ているかもしれない(失礼?)ような彼女達が、この程度の練習(私自身の練習量と比べた場合)でここまでできるようになるの~?というのが実感。
石の上にも三年、とか塵も積もれば山となる、とか、継続は力なり、そして続けていく意志の固さと練習中の集中力、こんな要素が相俟って徐々に進歩していくのだろう。
「套路は覚えてからが楽しい。」、彼女達が言ったそんな言葉がとても嬉しかった。
2013/5/10 <動画:套路の変化>
劉紅旗老師の演武の動画をアップしました。
最近のものから新しい順に並べています。
歳をとって更に柔らかさと力強さが増していくのが見てとれると思います。
通常人間の身体は加齢とともに可動域が衰え硬くなっていきますが、それを日々の練功によって”食い止める”にとどまらず、更に開発し続けることが可能であることが分かります。
24式や48式等の套路の練習は、身体の可動域を最大限に拡げ、かつ、意識を無限に深めていくような効果があります。ある域に達すると太極拳は健康法や武術の域を超え、身体芸術といえるようなものになります。身体が動きながらも内側が動かず静まりきった瞑想状態は太極拳の目指すところです。
2013/5/8 <最近の練習での気付きを列挙>
連休に入りしばらくメモを書く時間がなかったが、練習だけは続けていた。その間、新しい発見も多々あり、メモしておくべき、とその度思っていたが、少し溜めすぎてしまった感もあり、何から手を付けてよいのか分からない。
とりあえず自分の頭の整理のために項目だけ思いつくままに列挙。
1.含胸から始まる腹式呼吸
☆息=気の経路を作る
<どのように鼻から丹田(できれば下丹田)までの気=息の”道”を開通させるか?>
鼻から胸までは気管があるから何の問題もない。問題は胸から丹田までの道。
ここで体躯を見ると、上から胸→腰→腹(下腹)の順番に並んでいることに注意。
(背骨は頸椎、胸椎、腰椎、仙骨、尾骨からなるが、胸には胸椎が対応。胸椎の下に腰椎。丹田のある(下)腹に対応するのは仙骨や尾骨。)
⇒胸と腹を結ぶには、腰を経由しなければならない!
★結論
まず、①含胸で膻中のツボを後ろに引き、胸の気を背中側に回しながら下に引きこんで命門(腰)まで落とす。それから②腰、骨盤、股関節を緩めて開き気味にしつつ、お尻を少し前に収めて(斂臀)、腰まで落ちてきた息(気・力)を下っ腹に流し込んでいく。
前半が胸→腰の第一段階、後半が腰→丹田の第二段階。
これでやっと腹式呼吸のための経路が完成する。
これは站樁功での大事な要領。
含胸なしには気が腹まで落ちない。含胸は本当に大事。
2.腰を緩める必要性
上の記述で何気なく書いたが、腰、骨盤を緩める(力を抜く)のは基本中の基本の要領。腰に力が入っていると上半身と下半身が分断されて全身が一つにならない。上半身の力が下に抜けないので身体が硬くなる。肩が上がる。肩が凝る、背中が痛い、等は腰の力が抜けていないことに起因。
本来腰は”無い”のが理想。子供の頃は皆、「腰」の意識がなかったはず(少なくとも私はそう)。背中の下にはお尻がついていた。小学校の先生が「これは腰の運動だ!」と言って体操をさせても、「これは背中でしょ?」と思っていた記憶あり。運動をしている時にとても調子がよいと感じられる時は、「腰」の意識がない。背中がお尻や脚にそのままつながっているような感覚。→目指すは腰がゆるくて、”無い”ような身体。
3.つま先は地面にひっかかっていなければならない。
站樁功の時、重心は踵(足の後ろ三分の一の面:足首が乗っている部分)にあるが、つま先は地面から離れてはいけない。足はお椀を伏せたような形になっていて、土踏まずが上がっていなければならない(”土踏まず”は”土を踏んではいけない”場所)。
足指は弓なり(全ての関節が少し曲がっている)になりつま先が地面をひっかけているような感じ。
実はこれは、丹田の気が充満して、気が足指まで達した際に自然となる身体の形状。
まだ気が溜っていない状態のうちから、充満した際の身体の形を先取りすることによって早くその状態に持っていこうとする一つの技術。
<参考>
足裏まで気を回さなければならないのはジャンプの際。
ジャンプする時は、身をかがめて(肩を落とし、腰を丸め、股関節、膝関節、足首全てを曲げて緩め)、一度身体の全ての力を足裏まで落とし(注:ジャンプの予備動作では会陰も緩めて一気に力を足裏まで落としてしまうが、もし会陰の力を抜かなければそれはまさに站樁功の要領になっている。)、それから一気に足裏で地面を蹴ってジャンプをする。
足裏で地面を蹴る動作をコマ送りで見れば、踵が地面を蹴った後は土踏まずの部分はさらに上に引き上げられて足の甲が伸びがような形になって最後は足指が地面を蹴ることになる。(少しトウシューズの中のバレリーナの足のようになっている?この辺りはさらに研究必要)
4.意念
全ては意念から始まる。意が気を導く。気が力を導く。意を正しく使う。
意はどこにある?それは頭ではない。頭にあるのは”思”。思は考えること。これは頭の働き。これを使うと頭と身体が分断して頭が独り歩きする。考えるのは分からないから。分かっていれば=見えていれば、考えない。考えていては遅すぎる。
⇒意を使う訓練が必要。
意は心意ともいう。つまり意は心にある。中医学では心に”神”(日本語の”精神”の意に近い)が宿るといい、心が身体全てを司るという。
中国語では、”心意”とか”心神”と言うように、心、意、神、はある意味セットで用いられている。
心が乱れては意は使えない。
心を安寧な状態にして初めて意を使い、鍛えることができる。(大脳がお休みして入静状態にある時中枢神経が最も良く働く、というのと関係している。)
⇒心を安寧にするにh・
心を下に向ける=心を丹田の方に向ける=心を丹田に一体化させる。
心が丹田を観ていれば次第に丹田の気も増え、そのうち心の”神”を更に上方に押し上げてくる。これが上まで押し上げられてくると、眉間のツボ(印堂穴=上丹田)まで神が上がってきて、眼に輝きが出てくる。下丹田の”精”と上丹田の”神”がつながり、”精神”のある状態=中国語では”元気がある”状態になる。目がきらきらしている人は元気が漲っている証拠。
⇒意と眼の関係、眼の使い方、内視についても重要なことあり。これもいずれメモする必要がある。
5.呼吸
吐く=開、吸う=合
吐くと気は丹田から末端に向かう。
吸うと気は末端から丹田に戻る。
これを意識的に使っていつもの練功をするとまた違った効果がある。
これもまたもう少し具体的に書きたい項目。
6.套路の位置づけ
24式は主に身法、手法の練習。基礎の基礎。徐々に気を養って脚に気を落としていく。48式では歩法、即ち脚が自由自在に動くのを目標にする。理想は脚が腕の如く動くこと。足が手の如く動くこと。脚、足がきめ細やかに動くには意識が隅々まで届かなければならない。
第二路系の46式では更に身体全体に気が漲り、打撃が爆発するようになるのが目標。脚も飛ぶ動作が多い。これも足技の爆発と言える。第二路が別名”炮捶(paochui)”(大砲ように爆発して拳で叩く)と言われる所以。
とりあえず今日のメモはここまで(整理できたのだかどうだか却って分からなくなったかも?)
・・・とりあえずこの程度。
2013/5/1 <含胸から始める第一段階(胴体)、第一段階(胴体)から第二段階(脚)へ)
今回の集中練習で改めて感じたこと。それは『含胸』の大事さ。
どの生徒さんも站樁功の時に随分強く胸を後ろに押されたが、それはとりもなおさず、胸の気を腹に落とすために必要な要領だからだ。
『含胸』なしに腹式呼吸は有り得ない。『含胸』なしに丹田に気を溜め、丹田中心で動くことは不可能だ。
とは言っても実は、いきなり腹式呼吸をしたり丹田に気を溜めるのは難しいから、まず、比較的操作しやすい”胸”をつかってそれを可能にするといような側面もある。
站樁功もまず『含胸』から始めると、その他の要領が連なってクリアされていくように思う。
ここで『含胸』についての注意点。
含胸は決して胸を後方に引いて”閉じて”しまうことをを指すのではない(”合胸”ではない)。ただ胸を後ろに引いたのでは肩が前に出て、背中上部が丸く突き出てみっともない姿勢になってしまう。
含胸は、胸の中央(両乳首を結んだ中点)にある膻中のツボを意識して、そこを後ろに引きつつ下に引き下ろすのがコツだ。①後ろ→②下方、と二段階に分けてやってもよいかもしれない。
言い方を変えれば、含胸は、膻中のツボを、①会陰と百会を結ぶ身体の正中線上に乗せて、かつ、②丹田(もしくは会陰)に向けて引っ張り下げる、ことで可能になる。
こうすることで、身体の中心線が定まるともに、気が胸から腹に落ちるようになる。
ついでに言えば、『含胸』では、膻中を丹田(もしくは会陰)に引き下げる感覚とともに、膻中のツボによって両肩の肩井のツボも同時に膻中に向けて引っ張り下げられるような感覚が得られる。両肩の肩井のツボと膻中のツボが逆三角形となり、膻中が肩井戸を引っ張り下げているような関係。これで、太極拳の大事な要領である『沈肩』が達成される。
そして含胸によって膻中が丹田に向けて引っ張られれば自然に命門が開き(腰が開き)、『塌腰』(腰が真っ直ぐに落ちるような感じ)そして『斂臀』(尾骨が後ろに跳ね上がらないように少し内側に巻き込む要領)が可能になる。
以上の流れは、含胸→沈肩、と、含胸→命門開く→塌腰→斂臀。
これで身体の中心線の上から下(肩から会陰へ)と気が落ちる要領が完成することになる。ここまでで站樁功の第一段階。
この第一段階終了で胴体部分の調整がほぼ完了するのだが、ここで問題となるのが、『斂臀』に伴って股関節が前に出てしまい(鼠蹊部の”折り目”がなくなってしまう)、太腿前面のみに力がかかってしまうこと。これでは脚が使えない!胴体の気(力)を脚に落としていく作業が第二段階になる。
そのため、ここから先は、第一段階の要領を全て保持したままで、股関節を緩める(=鼠蹊部を後ろに引いて”折り目”をつける)練習をしなければならない。
通常私達人間の股関節(太腿の骨と骨盤の接合点)はかなり固定化されていて、グルグル回すことができなくなっているから、命門を開いて腰を真っ直ぐにしてお尻を後ろに出さないようにしながら、鼠蹊部を後ろに引くことはとても困難になっている。
ここが練習のしどころ。
昨日生徒さんから、「お尻を少し前に入れたようにすると、股関節が一緒に動いて鼠蹊部が前に出てしまいます。鼠蹊部を後ろに引くとお尻は後ろに上がってしまいます。前後に行ったり来たりの繰り返しです。お尻を前に入れつつ鼠蹊部を後ろに引いておくことなんて可能なんですか?」というような質問を受けた。
ここでその回答として参照すると良いのは人間の骨模型。
左の写真が前から見た骨盤、右の写真が斜め後方から見たもの。
ここで、上の第一段階の要領とは、腰椎から仙骨、尾骨を少し身体前面に向けて入れ込むことだが(右の写真の青い矢印の線)、この時、赤丸をした仙腸関節(腸骨と仙骨の接合点)と股関節(寛骨と大腿骨の接合点:ちなみに寛骨=腸骨+坐骨+恥骨)がガチガチに固定されていたら、青矢印のように背骨を動かした時に、それに連動して骨盤も太腿も前方に移動してしまう。
つまり、仙腸関節と股関節が固定されていると、背骨が動くたびに骨盤や脚が動いてしまうことになるということ。
上体がどのように動いても下半身がどっしり安定しているためには、背骨の動きに拘らず骨盤が常に真っ直ぐを保っていなければならない。そのためには仙腸関節と股関節が動かなければならない(もちろん、仙腸関節の動きは微々たるもの。股関節は肩関節の如く動くのが理想)。 ある中国の先生は「骨盤は浮遊しているかの如く」と言っていたが、それは仙腸関節と股関節の緩まり、可動域の大きさを逆から描写していたのだと分かる。
なお、関節の可動域を制限しているのは硬く締まった筋肉や靭帯。そもそもは骨を補強したり守るための筋肉や靭帯だが、これが硬くなると関節の可動域を狭めてしまう。
だからこれらの筋肉や靭帯をゆるくして、本来の関節の可動域を戻してあげるようにする練習が必要になる。そのためには、筋肉に力を込めずにゆるくしながら、気(呼吸)や血を通しながら練習する必要がある。お尻の肉をギュッと締めて練習するのがご法度なのはこの点からも理解できる。
以下ご参考までに。
背骨を真っ直ぐにして尾骨を多少内側に入れるという第一段階の胴体の要領をクリアしながら、どのように第二段階の脚の要領をクリアするのか。そのヒントとなる画像。
左は仙腸関節を少~し横に引きのばしたようにして、おしりを中央の仙骨部分と左右の寛骨部分に分断した感じ。
右はペンギンの骨模型だが、股関節が旋回することによって、斂臀しながらも脚が自由に使えている例。
そう見ていくと、何てことない冒頭タイトル横の犬の木製模型も良く作られてるなぁ、と感動したりする