2013/8/29 <矛盾の解消、パワーVS速さ、動的なバランス>
今日は久しぶりの屋外。
夏の間は御苑に訪れる人も少なく、木々の匂いがいっそう際立ち、自然界の精気をいっそうよく感じる。呼吸が自然に深くなり深呼吸、腹式呼吸になる。身体は外界の気の変化をみごとに感じ取って瞬時に反応する。身体は本当によくできているなぁ~、と自らの身体に関心しながら練習場所までわざと遠回りして歩いていった。
今日の練習でもさまざまなことがあったが、練習後改めて感じたのが、すべては二元対立、矛盾から成り立っている、ということ。”すべて”といってしまうと話が大きくなりすぎてしまうが、身体に話を絞ってみても、さまざまな点で二者の対立、矛盾がある。
これを太極拳の世界では、陰と陽の対立として説明している。陰と陽はAとBでも良いのだが、その二者の矛盾点を解消しようとする努力が功夫となり、矛盾を解消させた時にステージが一段上がる。するとそこにはまた新たな矛盾点がある。だからまた努力する、とこの繰り返し。
これは昔すこ~し習った弁証法と同じだろうと思う。二つの対立した命題を高い地点で統一する、つまり「正・反→合」となる、とそういう感じかと。中庸というのも同様の意味で、必ずしも”ど真ん中”を指すのではなく、対立するものをさらに高い地点で統一した地点、という、”次元の違い”が含まれているのだと思う。(…弁証法についてもう少し学びたいところ。)
さて、今日の練習での話はそんなに難しいことではなかった。
私が今日感じたのは、太っている人は力があるが動きが遅く、痩せている人は俊敏だが力がない、という、そんな一般論。
贅肉も肉体を構成する物質(精)であるから、とても俗っぽい言い方をすれば、太っている方がパワーがある。山のような安定感がある。だから普通はお相撲さんも重量がある方が有利だ。
他方、体重が重いと動きが遅くなる。体重が多少軽めの方が速く動ける。
例えば冒頭の図では縦軸をパワーの強弱、横軸を動きの速さ、としたが、理想となるのは『a』の位置。そして上の話で言えば、太っている人が入りがちなのが『c』、痩せている人が入りがちなのが『b』だ。『d』は最も努力が必要な状態。
結局、パワー(力)と速さのせめぎ合いになるのだが、この両者をともに備えるように努力するのがバランスのとれた練習の仕方だ。
例えば太っていて動くのが嫌いな人は、だからこそ余計に動く必要がある。ちょこまか動いてばかりで体力のない人は、静功をしたりしっかり食べて休まなければならない。
自分の不得手なことを率先してやることでバランスがとれるようになる。
太極拳(タントウ功)の姿勢の要領にもこのパワーVS速さの葛藤がある。
含胸、塌腰(腰を伸ばして落とす)、斂臀(お尻を内側に収める)は身体を地面に杭のように食い込ませて押されても引かれても動かないような安定性、パワーをもたらす要領にあるのに対し、、松胯(股関節を緩める)の要領はお尻を左右に膨らますような要領(氾臀)にもつながり、脚のすばやい動きやジャンプを可能にする。
つまり、
安定性 ← 含胸、塌腰、斂臀
速さ ← 松胯 氾臀
少し説明すると、前者の含胸、塌腰、斂臀は骨盤を後傾させるような骨盤回転をもたらし、後者の松胯は骨盤を前傾させるような骨盤回転をもたらす。
そして骨盤を後傾するように回転させると、背中側の気が踵に向かって落ちるため、身体が地面にしっかり根付くため安定性が増す。逆に骨盤を前傾するように回転させると、踵から上に向かって気が流れるため、身体を持ち上げるような力が働き動作が機敏になる。(なお、站樁功の時に全身に気をめぐらす大周天というのがあるが、前者の背中側を下向き、前面を上向きに流れる気の流れは”順回転”、後者のように背中側を上向き、前面を下向きに気が流れるのは”逆回転”と言う。)
この両者の葛藤はいたるところに見られる。スポーツの世界でも種目によって必要とされるバランスが異なるとは言え、基本的にはパワーと速さの葛藤を常に抱えている。
これは太極拳の練習方法で言えば、站樁功(パワーをつける)と套路(俊敏さを養う)の練習のバランスを取ることで均衡を図っている。
さらに日常生活の基礎まで落として考えてみれば、これは休息と活動のバランスの問題になる。休息(飲食も含めて)がなければパワーは養えないし、活動しなければ俊敏さは養えない。両者とも必要でそれもバランス。
”健康とはバランスだ”、という言葉を聞いたことがあるが、こう考えていくと、バランスは動的なもので、つねにバランスを取るようこっちにいったり、あっちにいったりしなければならないよう。決して一度均衡点が見つかったからといってそこに静止していられるものではない。・・・・・気は抜けないということ。
2013/8/25 <やはり毎日やる、股関節の外旋、中臀筋>
今日は日曜でスタジオで練習。通常の朝のスタジオクラスの後に、御苑クラスもスタジオで練習する予定で集合してもらったのだが、私の手配ミスでスタジオ利用可能時間が延長できず、後半クラスの生徒さんは站樁功だけして退散することになってしまった。
後半クラスはただ站樁功だけ、という練習にはなってしまったが、前半クラスも含め、数人の生徒さんの立ち方がこの一週間で驚く程上達していたのがとても印象的だった。特に始めて2,3か月の比較的新しい生徒さん達が揃って一段水準が上がり、最大関門である太腿の痛さをほとんど克服したようだった。ここを抜ければ站樁功は”癖になる”可能性もある。私も何とも言えない嬉しさを感じた。
実際、站樁功の良さが分かってくれる生徒さんが現れると私は本当に嬉しくなる。お互いの感覚を表現しようと、言葉にはならないことを無理やり言葉にするのだが、感覚を共有できていれば多少言葉が正確でなくても伝わってしまう。共感、というのは心が溶けるような嬉しさがある。
数回教えたもののまだまだ站樁功の太腿の辛さに耐えられない生徒さんが、2分くらい站樁功をしては脚が痛くて立ち上がり、というのを繰り返していて、私に「太腿が痛いのですがどうしたら・・・?」と例の質問がしてきた。これまでかなり要領は伝えたし、これ以上私にできることはないのだけど・・・、と思い、隣で站樁功を楽そうにやっている生徒さんにその質問に対する回答を頼んでみる。すると「毎日やることです」、との一言。
上達が顕著に見えた別の生徒さん達に、何でこんなに上達したのか?と愚問を投げかけたら、どの生徒さんも「毎日立っています」と答えた。
やはり、毎日やる、それに尽きるのだと今更ながら実感したところ。
今日の生徒さん達に一律に注意した点は股関節の外旋。
外旋はがに股とは違う。股関節(大転子部分)を外側に旋回することで腰の腎臓部分を使って立てるようにするのが目的。外旋がないとただ脚で立ってしまい、脚と胴体(腰)が連結しない。脚とお尻そして腰をつなぐための要領とも言える。
実はこれは言い方を変えればお尻の中臀筋を使えるようにする要領でもある。
中臀筋というのは大臀筋の奥にある腸骨と大転子をつなぐような筋肉だが、この中臀筋、更にその奥にある小殿筋がどれだけ使えるかで足腰の安定性、股関節の可動域をおおきく左右する。中臀筋、小殿筋は臀部の中でも身体の側面に位置していて、大臀筋以上に鍛えるのが難しいと言われている。私がよく、「お尻に力を入れずお尻を左右に開いて下さい」というのもこの部分を使えるようにするため。お尻を中央に寄せてギュッと締めた状態が続くと中臀筋は硬直して使えなくなってしまう。子供の頃に円形だったお尻が、歳とともに両側から肉が削げたようになっていく理由の一つが中臀筋の衰えでもある。
しゃがむ動功(双腿昇降功)も、股関節を外旋させながら中臀筋を使いながらゆっくりしゃがんでいくのがコツ。間違っても和式トイレに入っているおばあちゃんのようになってはいけない。(中臀筋の位置については冒頭と左下の図を参照。)
先週頭に声楽家の先生とお会いした時、声を如何に四方八方に響かせ届かせるか、ということが話題になったが、その先生が注目しているのが身体の側面の開発だった。先日師父と話した時にも、身体の側面を走る胆経の重要性をかなり強調していた。
身体の側面の線は普段意識することが少ないけれども(横顔をあまりチェックしないのと同じ)、人体は円柱形だから正面、背面と同じくらい側面は大事だ。
中臀筋や小臀筋を意識するということは、胆経を意識することでもある。
站樁功の要領の中で、<お尻を収めて腰を真っ直ぐに伸ばすこと(塌腰、斂臀)>と<股関節を緩めること(松胯)>の間には大きな矛盾があるが、この矛盾の解消の鍵を握るのがこの中臀筋やら胆経の開発。お尻が横に開いてくれないと(=中臀筋が使えるようにならないと)この矛盾は解消しない。站樁功をして太腿前面が痛いのは太腿後面や側面が使えないからだが、そのためには股関節を外旋して中臀筋を使って立つようにしなければならない。ということは、股関節を外旋してもお尻は決して締めてはいけない、ということ。
・・・ここまでくると、やはり無理~、ということにもなりかねないが、とりあえず股関節を少し外旋して、お尻を締めないように努力して、できる範囲で毎日取り組んでみるのが大事。最後はやはり毎日やること、そのうち身体が徐々に慣れてくる。
2013/8/22 <クラスの再構成>
クラス編成を再構成してみた。
最近日曜日の生徒さんの数が多くなり、これ以上増えると一人一人に目が届かなくなるのではないかという危惧から始まった作業だった。
そもそも屋外のみで教えているときは”クラス”というものがなかった。人数も少なかったので、一人一人個別に教えたり、集まったメンバーの顔触れに応じて一緒にできる練習は一緒に、分けてやるところは分けて、あるいは時間をずらしたり、と、随分融通を聞かせて教えていた。今でも平日の屋外練習はそのような雰囲気がある。が、去年からスタジオで教えるようになってから”クラス”として一斉に教えることが必要になった。ここで”月4回3か月コース”などといったコースを作ることも可能だったのだろうが、私自身あまり縛られたくないこともあり、一回事にレッスン料をもらうようなそれまでの屋外練習の形態を踏襲することにした。その結果、生徒さんは好きな時に練習に来られるが、一方で毎回メンバーの顔触れが変わり基本功はまだしも、24式を進められないというジレンマが発生してしまった。
新規の生徒さんを受け入れて、ある程度基本が分かるようにするまでには教える方もかなりの労力を費やさなければならない。見よう見まねで学ばせる、というのではおそらく永遠に分からないだろう・・・と思うと、こちらも気が付けばかなりの熱を入れて教えている。クラスの中にそのような人がいるとどうしても注意がそちらに行きがちになる。それでは先に進んでいる人を更に進ませることが疎かになってしまう。・・・・これは公立の小中学校で先生方が抱える問題と似ているかもしれない。
教え方をさらに工夫する必要がある。
私が生徒さんを教え始めて3年以上経ったが、24式が一通り自分一人でできるという生徒を増やす、というのが私の間近な目標。24式を一通りマスターしたあたりから、24式と站樁功・内功との関連が分かり始める。ここからが”内”を知る本当の練習の始まり。そしてそのあたりになれば生徒同士で推手の練習も入れていくことができる。
そこまで達するには早くて半年、ゆっくりペースなら1年という期間が必要。その期間を楽しみながら練習できるように私も導かなければならない。一旦身体の内側の動きが分かり始めると、そこからは面白さが増すから教える側がそれほど頑張らなくても学ぶ側の意欲は維持できる。
練習の継続のための大事な要素として、”環境”がある。今回のクラス編成の見直しの際に気を付けたのは、平日、週末共々、スタジオと屋外両方を使えるようにすることだった。スタジオは天候に左右されずに集中して学べるのが利点。ただ”気感”があまりよくなく身体の開く感覚は取りずらい。心の開き、放松の感覚も屋外に劣る。屋外はとても良いが、天候や観光客等の問題から練習しずいこともある。両方を適宜使えるのが最も理想的だ。
ここで生前、馮志強老師が太極拳を学ぶために必要な要素を挙げていたのを思い出した。それは、第一にお金、第二に良い老師、第三に練習の場、だった。(第一にお金!というのがなんとも中国人らしい?)
今回しばらく日曜の赤坂クラス、日曜の御苑クラスの新規募集を見合わせようと考えたのには以上のような経緯がある。日曜を暫定的に閉めた分、土曜日の午前中にクラスを作ることにしてみた。土曜クラスは赤坂スタジオが使える時はスタジオ、スタジオが使えなかったり、気候が良い時などは新宿屋外で、と適宜生徒さんと打ち合わせて練習する予定だ。
これまでの横浜地区の土曜クラスは継続者が多いので東京の午前クラスを作った後も午後または夕方の時間を使って練習を継続する予定。
まだまだ試行錯誤段階だが、しばらくこのスケジュールでやっていこうと思う。
スタジオクラスの利点は天候に左右されないことだが、站樁功の時間があまりとれないのが欠点。スタジオクラスに来る生徒さんには普段から毎日自分で立つように、時には外で立つことを促さなければならない。
秋になって気候が良くなったら、屋外で一斉に1時間立つような練習をしてみてもよいなぁ。
2013/8/18 <股関節の緩める、骨盤と太腿を切り離す、胯≠鼠蹊部、量をこなす>
站樁功に関する質問第三番目について昨日書いたメモを修正、加筆した。
三番目は站樁功をすると太腿前面が痛くて丹田に集中ができないし、長く立つことができない、という問題。
これは誰もが皆経験することで、私も数か月はこの問題でかなり苦しんだ。時計で時間を計りながら立っていたが、太腿が痛くてたまらないと時間が経つのが異常なほど遅くなり、時計とにらめっこをしながら気が付けば涙が出ていたこともあった。
太腿の痛さを解消するのためには、一言、「股関節を緩める」、これだけ。股関節を緩めてお尻に座る。それ以上、それ以外の要領はない。
ここで、「では、股関節をどうすれば緩められるのか?」という疑問が出る。
そもそも私達二足歩行の人間は四足動物よりもしっかりした骨盤が必要だ。そのため、立ち上がって生活しているうちに、いつの間にか”太腿と骨盤が一体化”してしまうきらいがある。この”太腿と骨盤の一体化”が”股関節の硬直化”だ。実際、ほとんどの人が、腰を前に出すと(お尻を収める、骨盤を後傾気味にさせると)それにつられて太腿の前面も張り出てしまう。腰(骨盤)が前後に揺れたときに大腿骨が一緒に前後に動いてしまうのが”股関節の硬直化”で、これでは通常の歩行でも上半身の重さが太腿前面と膝にかかってしまう(下の考察の人形の図を参照。)股関節が硬いと膝を痛めるのは時間の問題で、歳をとって膝を痛める人が多いのは不思議なことではない。
理想的な状態は、骨盤と太腿が切り離されて動ける状態で、これがまさに”股関節が緩んだ”状態だ。ある太極拳の先生はこれを”骨盤が宙に浮いたようになっている”と表現していた。骨盤が宙に浮いたようになっていれば、脚がどのような動きをしても身体の中心軸がぶれないし、外から圧力がかかった場合にもその力を足裏に逃がすことができる。
ここで注意しなければならないのは、”股関節”の意味。中国語では”胯”と表現するが、それは太腿の付け根をぐるりと一周するその線を指す。決して”鼠蹊部”だけではない。中国語では鼠蹊部は”前胯”(前の股関節)を言い、加えて、内腿の胴体との付け根の線は”内胯”、お尻と太腿の境目の線は”後胯”、太腿外側の付け根部分は”外胯”と言う。つまり、”股関節を緩める”というのは、この4つ部分からなる胯(=太腿の付け根一周)をすべて緩めるということだ。よく陥りがちなのは、鼠蹊部を開けば股関節が緩むという勘違い。鼠蹊部(前胯)を開こうとばかりして結果お尻を締めてしまい、後胯(お尻と太腿の境目)を緊張させてしまう(下の黄色いビキニの女性の四股を参照)。これでは”胯”(股関節)が緩んだ(=骨盤と太腿の切り離し)ができたとは言えない。胯が緩んだ形は下の図の馬が立ち上がった時のようなもの。前から見て扇型のようになっている。
ではどうやって股関節を緩めるのか?
実はその方法が站樁功。
が、「股関節が硬いため站樁功をすると太腿が痛くて困る、だから站樁功のための基本練習はないか?」と聞く生徒さんがいるが、站樁功自体が基本功なのに、その基本功のための基本功はありえない、ただ、站樁功で模索しながら股関節を緩めていくしかない、というのが回答。
ストレッチをすれば良いのでは?と言う声も良く聞くが、ストレッチは基本“伸ばす”もので、”緩める”ものではない。ストレッチは”緩めた”後にやって初めて効果がある。緩んでいない状態で引っ張ったら筋を痛めてしまう。站樁功で身体を緩めてからストレッチをする、というのが物事の順序。
ぐらぐらしてきた乳歯を抜く際や、チキンレッグを関節から引きちぎって食べようとする時など、まず、その部分を揺らすなり回すなりしてだんだん緩みを大きくして、よし、ここで引っ張れば抜ける(ちぎれる)、というところで思い切って引っ張る。
これが、緩めて→引っ張る、の例だが、自分の身体づくりも同様で、ストレッチ(引っ張る)前には必ず緩めなければならない。站樁功をするときにも、緩める(松)が最も重要で、足腰を踏ん張って立つのではなく、腰をスルッと緩めてちょっとゆらゆら気味に立つのがコツかと思う。
と言っても、股関節を緩めるのは”コツ”ではどうしようもないもので、試行錯誤して時間をかけて徐々に会得していくものだ。
站樁功をして太腿が痛くなってきたら、股関節をさらに後ろに引かなければならない、と気づいてそこで体勢を少し変えてみる。股関節を緩められる限度まできたら、そこでしばらく我慢してそこに乗っかっておく(漬物のように)。そしてまた疲れた微妙に体重を別のところに移してみる。太腿の側面近くを使ってみたり、太腿内側を使って立ってみる・・・・などなどの模索が大事。自分で試行錯誤するうちに、次第に身体も順応してくる。基本的には量がものをいう世界(まあ、何の修行でもそうだが)なので諦めずに、毎日のちょっとした進歩、変化を楽しみながらやると長続きすると思う。
20分、30分を毎日継続できたら1年後にはかなり進歩しているはず。調子が良ければ時間を延ばしてみても良いが、無理をして結局長続きしなかった、というのは残念なので、できる範囲で続ける。
今日久しぶりにピアノのレッスンに行って、理屈ばかり言っていたら、先生に「そうは言っても100回、200回でも弾いたら自然に弾けるようになるはずよ。」と言われてグサリ。実は2週間でその曲を練習したのは3回。これじゃいくら弾けない理由を考えても弾けないはずだ。”量”が足りない!
「拳打万遍自然通」(100万回拳を練習すれば自ずから通る)という言葉を思い出した。コツ、要領に頼らず、量をこなす、これは私も肝に銘じなければならない。
以下、股関節を緩める、という理解の助けのための考察。
左の写真で二人の立ち方は外形上とても似ているが、この模型で人形を作れば、左の人形は倒れてしまうはず。これは力学上の問題。
これが人間の立ち姿なら、左の人は体重が膝にかかり、右の人は体重が股関節にかかっている。「股関節に座れ」とも言われるがごとく、正しい立ち方は右。こらなら太腿は痛くならない。
右と左の差は、腹からお尻にかけての斜めの線が一本あるか否か。
この線は冒頭の馬と人間の図の最も太い赤線部分に対応する。
この極太赤線の部分の力が足の力になる。站樁功でもこの部分で立てるように訓練している。脚や足で立つのではなく、腰とお尻で立つ。
さて、この極太赤線は具体的には何?実は私は感覚的にしか分かっていないのだが、それは腸腰筋?・・・いずれにしろ、”胯”に座る(太腿付け根断面の”円”の上に胴体をまっすぐ載せる)というのが大事。
それにしても四足動物の脚は細い!。胴体に割り箸がついているような体形。脚の力はお尻(太腿?)から来ている。
上の右の馬の立ち上がった際の股関節の形はお相撲さんや太極拳のマスターの立ち姿(冒頭写真参照)を思い出させる。左右の鼠蹊部をつないだ線が扇型になっているのがミソ。股関節が緩むとこのような形になる。
おまけが下の写真。下のお相撲さんたちは股関節が緩んでいるが、右の女性の鼠蹊部(前胯)が伸びているだけで、股関節(胯)は緩んでいない(お尻が締まって後胯が緊張している)。
2013/8/17 <丹田に気が溜まる感覚、感覚の伝達の限界>
昨日のメモの質問の続き。
第二番目の質問は、站樁功で気が溜まるとどんな感覚になるか?というもの。
熱くなるのか?丹田あたりで何かが動いた感じがするのか?というように聞かれるが、私自身は”熱い”と感じたことはない。丹田に気が溜まった後に、立ったままそれを少し動かしてみたりするが、それは、「気が溜まった」という感覚が先にあって、それから「じゃあ、”それ”を動かそう」という感覚が出てくる。溜まってもいないのに動かすことはできない(動かす”もの”がない!)ということ。
丹田に気が溜まると、まずは腹底が重くなって下っ腹に充実感が出てくる。身体の中のものがすべて腹底に沈殿した感じで、下っ腹が膨らんだようになる。上半身の力が腹底に移動する分、胸がしぼみ肩が下がり、上半身が小さくなったようになる。そして決定的なのは、丹田に気が溜まると、そこに”動こう”という衝動のようなものが生まれるということ。それは動きの芽生えのようなもので、ちょっと意念で後押ししてあげなければ動かないのだが、動かそうと思えば動けるような状態になっている。
100メートル走などの競技で、「よーい!」と号令をかけられた時に私達の身体がどのような動きをするのかよく観察すると、站樁功の時を同じようなことをしている。息を身体の下の方に吐き込み、胸をしぼめて下っ腹に気を集めている。そして会陰を引き上げ、脚の力を抜いていつでも走り出すようにする。この時体中の力は丹田に集中している。「ドン!」と号令のかかるまでこの丹田の力を溜め続け、「ドン!」とともに丹田の力を爆発させて身体の末端にまで届ける。この、「よーい!」から「ドン!」直前の状態を数十分継続させて行うのが站樁功で、実際そのつもりで立てば、丹田あたりがムズムズしてくるのが分かるかと思う。
・・・と私にはムズムズ感、くらいしか表現できないのだが、站樁功である程度感覚を得ている生徒さんに聞いてみた。やはり、表現は難しいと言いながらも、あえて言うなら、熱い感じがあったり、背骨を電流が走るような感覚があったりするという回答。師父にも聞いてみたが、言うなら熱い感じ、という。
このような感覚の表現は、同様の感覚を体験していないとどれだけ言葉を尽くしても伝達をすることはできない。感覚を共有していて初めて言葉が意味を持つ。黄色はどんな色?とか、ニンニクはどんな味?と聞かれても、せいぜい似たようなものから類推させるしかない。お腹がすいた感じはどんな感じ?疲れたというのはどんな感じ?というのも同類の質問で、先に体験ありき、だ。
類推させるなら、丹田に気が溜まった状態の真逆が、下痢で下っ腹に力が入らなくなる状態。逆に言えば、しっかり適量ご飯を食べて、腹がドスンと落ち着く感じが気が溜まった感じに似ている。下っ腹が膨張する感がある。
師曰く、毎日30分立つのを最低3か月は続けないと丹田の感覚はおろか、全身の力がある程度抜けて足裏に気が落ちる感覚は得られない。ここは我慢のしどころ。
2013/8/16 <站樁功の形、下丹田(関元)、中丹田(気海)>
最近站樁功についてメールでいくつか質問を受けた。
まず一番目は站樁功の型について。
具体的には、站樁功の中には両腕を胸の前でボールを抱えるようにして立つようなものがあるが、実際、腕はどのようにして立つのがよいのか?というもの。
私が普通行っているのは、腕を下に垂らして何ら”型”をつくらない「無極站樁功」に、ほんの少し手首を折り曲げて、気を手首の位置(=股関節、会陰ライン)まで引っ張り下げて、股関節ラインでボールを抱えて立つ「下環混元站」というのを混ぜたもの。
「下環混元站」は下丹田(会陰奥)に気を溜めるもの、へそ前でボールを抱えるような型の「中環混元站」は中丹田(臍奥)に気を溜めるものだが、手のある位置に気が導かれるのを利用してそれぞれ異なった丹田を鍛えている。
これに対し「無極站樁功」は、気を溜めるという意識よりも、力を抜くこと(放松)を第一に考えた立ち方だ。
下は馮志強先生による「無極站樁功」、「下環混元站」、「中環混元站」の写真。
練習としてはまず「無極站樁功」から始める。
気を丹田に集めるためるということは、丹田以外の部分の力(気)を全て丹田に移動させるということだが、力(気)をA点から丹田に移動させる方法は、A点の力を抜くことによって行われる(注:練習をある程度積んで丹田の力が出てくれば、丹田によってA点の気を引っ張ってきてA点を脱力させることもできる)。だから、練習はまず「松」(身体の余計な力を抜く)ことから始まることになる。
そして「松」とは”重力に任せる”ことに他ならず、重力を最もよく感じることができるのが「無極站樁功」だ。ただ身体を地球に預けて下向きに引っ張らせる。それでも立っていられるのが不思議だが、それは身体の知恵がやってのけてくれる(ここでは身体を上に引き上げるベクトルの力についての詳細は割愛)。
私自身は「無極站樁功」に「下環混元站」を少し混ぜたような形で立っている。それは放松しながら下丹田に気を溜めやすくするためだ。まず放松して全身の力を抜いたうえで、それから会陰を引き上げて徐々に下から気を溜めていく、という手順。下丹田に気が溜まれば自ずから中丹田にも気が満ちてくる。
「中環混元站」を使って中丹田(臍下あたりの腹)から始め、それを下丹田の方へ引っ張り下ろすことも可能だが、気の材料となる精は下丹田(生殖器官)にあるからそこを直接開発するようにした方が気の産出量が多く効率も良い(というのが師父の考え)。実際、下丹田は加齢とともに急激に力を失うので男女とも30歳を過ぎたら下丹田を鍛えなければならないという。ビール腹のようにお腹はでかいのに、その下の下っ腹は貧弱、という身体が典型的な中年以降の身体だが、それは下丹田が衰弱している証拠。臍より下の腹が充実して丸いのはよいが、ウエストあたりは無駄に肉をつけてはいけない。
手の置き場所については冒頭の写真のようなものがあったりバリエーションがあるが、「無極站樁功」の形に特定の場所に気を溜める意念を付け加えることによって、下丹田、中丹田、上丹田(眉間にある印堂穴)の開発がどれも可能になる。最終的には意念が重要で、手の位置はその意念を導く助けとなるに過ぎない。
站樁功では丹田の開発が最も重要な目的だと言えるが(精→気→神、の精気神説に基づく道教の修行)、その前提として立ち続けられる外型をマスターすることが必要になる。そこで最難関になるのが太腿の痛さだが、この問題をクリアできれば太極拳の練習でそれ以上に苦しい関門はないと言われている。この話は次の質問の回答に譲るとして、左は下丹田の位置(高さ)にある「関元穴」、中丹田としてよく使われる「気海穴」の位置を示す図。
実際には丹田は身体の奥にあるので図で見るように表面にはないのだが、高さを知る助けにはなる。
「下丹田」に意念を集中する際は、会陰を引き上げてその引き上げた先(男性なら前立腺、女性なら子宮)を意識する。その高さにあるのが「関元穴」。私がよく”下っ腹”と言うのはこの辺りだが、これは思っているよりもかなり下に位置している。膀胱の位置にも近いのでおしっこをしたいときにここを押すとまずい感じがする。「下丹田」では気の材料となる「精」が生成される。
これに対し「中丹田」は臍下の「気海」か臍の位置にとる。これは所謂”丹田”。ここに気が海のように溜まっているから「気海」と言われる。気の量を増やすにはここを意識することも大事だが、「精」という材料がなくなっては気も増えないので、中丹田を意識しながら次第に意識をさらに下の下丹田に移動させていくことが必要になってくる。いずれは中丹田と下丹田が融合して一つの大きな丹田になってくる。
二番目以降の質問は日付を改めて書きます。
2013/8/12 <背骨を真っ直ぐにする、不動心、精神力、脳脊髄液>
明日初めての勉強会を開くということで、一体何をどう話せば良いのか?とここ数日模索している。
このブログのように、頭に浮かんできたことをそのまま言葉にしていくことは簡単だが、それを時間やスペースに限りのある中にまとめ、系統立てし、順序立てて表現するのはまた一段難しい作業になる。おしゃべりは上手でも、人前で発表するのが苦手なのは頭が整理整頓されていないからだろうか・・・?、と、もともと片付けが苦手で、子供のころからどれほど母親に”片付けなさい!”と怒られたことか(反対に、それ以外で怒られたことはない)・・・と、もともと整理整頓が苦手なことを思い出してしまった。
そこで今更ながら、最近よくテレビに出ている東進ハイスクールの林修先生の講義を参考にしようと、以前あるテレビ番組で所謂落ちこぼれの若者や小学生の子供を持つ母親相手に講義をしていたものを引っ張り出して見てみた。
話術の巧みさ、語彙の豊富さは当たり前としても、その内容の豊富さ、独自の物の見方、と、結局見ている私も講義に引き込まれて、分析をするところではなく、ましてや、そのマネはできるはずもない、とはっきり分かった。自分のオリジナリティでいくしかない。
と、講義の仕方について参考にするのはあきらめたが、林先生が子育て論を論じる中で、親のしつけで最も大事なものは『姿勢!』と断言したので、まさにその通り!と私も何だか嬉しくなってしまった。
親の役目は「背筋をまっすぐした子」を作る、ということだが、あるお母さんが、「背筋をまっすぐにすることと、集中力がつく(勉強ができるようになる)ことには関係があるのですか?」と質問したところ、「大きな関係があります。」と林先生は答え、「背筋が真っ直ぐできちんと坐っていられる子で精神力の弱い子はいない。」と能をやる人達などが、どれだけの時間を『型』の習得に充てているか、という話をした。
『不動心』はそのような背筋が真っ直ぐな正しい姿勢から生まれる、と一言。
そうそう、「正しい形が正しい心を作る」とか「形が気を導く」というなぁ、と、私はすぐに太極拳の道理に引きつけて解釈したのだが、『不動心』という言葉に脳が反応。身体を動かさず心も動かさない、これ、まさにタントウ功のことではないか?、と、タントウ功によって精神が強くなる、という単純な事実を思い出した。
タントウ功は、正しい形で身体と心を動かさないでいる練功。気を溜めるとか気を循環させるということ以前に、”動かない”ということだけで身体と精神が両方鍛えられる。
以前五木寛之さんが息に関する対談の中で、(静座で)脳を動かさないということは脳を動かす以上に難しく、よってかえって脳を鍛えることになるのではないか、というようなことを言っていたように記憶しているが、確かに脳や身体を意識的に休息の状態に置き続けることは作為によって無作為を作る高度な技術なのだと思う。言い換えれば有為によって無為を作り出し、心身の能力(自然治癒能力も含めて)最大限に発揮させるというのが静功の醍醐味だ。
”動かない”で一体何の練習になるのか?というのが一般の人の考えだが、人は一生、”猿のように”頭や身体が動いて止まらない動物だけれども、自分の意念で身体や心、脳の動きを止めることができるようになって初めて、自分で自分を統制できる一人前の人間になれるのかもしれない。自分で自由自在に脳や心を操れるようになれば、ストレスからも無縁になるのだが、そんな域に達するにはあとどれだけ修行しなければならないか分からない(が、目標はそこにおいている)。毎日少しずつ意志力や忍耐力、自律心等を鍛えていくしかない(そのためには気力を支える健康な身体が必要!)。
林先生の背骨と集中力の話に戻ると、道を歩いていても、背骨がぐにゃ~としている若者は大体が勉強嫌いのよう(所謂ヤンキーでシャキッとしている子は見たことがない)で、私の娘も高校受験のために塾に通っていた頃、ハイレベルの生徒が集まる教室に行くと、みんな背中が真っ直ぐでシャキーンとしている、と言っていたことがある。机に向かって坐った時の座り方、そしてその背骨を通して生まれる目の輝きでその生徒の出来がほとんど分かってしまう。
少し科学的に言えば、骨盤がちゃんと立って、尾骨から頸椎までが真っ直ぐ立っていれば、脳脊髄液もよく循環して頭の働きも良くなるということなのだろう(冒頭の図参照)。
まだ明日の準備ができていないが、まずはこれからタントウ功をして髄液をグルグル回して頭を活性化させてから取り組もうかしら(タントウ功に”逃げている”感もあり?)。
2013/8/5 <外丹、内丹>
太極拳の成り立ちについて改めて文献をさらってみると、『精気神理論』に立脚した道家の内丹術がその中心部分にあることが分かる。その練功法の代表が”周天功”であり、そのために站樁功(大周天)と坐禅(小周天)が必須になることになる。
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更に突っ込んでみると、”内丹”というのは”外丹”に対する言葉だが、道家は古来、不老不死を目指してそのための薬(=外丹)を製造することに力を注いできた。中国の唐の時代には随時代に勢力のあった仏教を抑えて道教が国教となるが、道家の持つ不老不死の薬、外丹は皇帝達に取り入るに非常に有効な手段だったようだ。外丹は当初は薬草で作られていたようだが次第に水銀や硫黄、金などの鉱物が使われ、これによって命を落とした者も少なくないという。結局この道家の”命を懸けた”実験は中国の漢方の知識や火薬の発明などにつながるのだが、このような体外の薬に頼らずに、身体の中で同様の薬を作り出そうとしたのが『内丹術』だということ。
内丹術では身体を一種の窯と見立てて、この中で「精・気・神」を原料にして錬金術を行い、体内に薬=内丹を作ろうとする(右上の図が『内経図』と言われる案内図)。
本当に物質化した薬ができるのかどうかは?だが、これにより人間のパワーが養われ、身体が強くなり長生きにつながるということはかなりの確証があり、この修練法と武術を合体させたのが前回挙げた張三豊ということになっている。
站樁功をするのは内丹術を実行していることなのかと思うと、何だか神秘的で隠れてやるようなもののように感じてしまう。ただ腰痛を治すとか、お尻を使えるようにする、というような外形の話ではない。
站樁功(そして坐禅も)も本来は楽ちんな形で、その姿勢なら何時間でも身体を忘れ、よって身体の内側に集中していられる(丹を練り上げる!)というようなもの。私自身、あまり外にとらわれず、真剣に内側に向かって取り組まなければならないと思う。いずれにしろ、人体実験が一生続くことになりそうだ。
2013/8/1 <内家拳、道家、煉丹術、中医学>
蒸し暑い中での練習。
公園には毎日站樁功をしに来ている外人さんがいる。樹に向かって両手を胸の位置で丸く合わせて立っている。時々私の生徒さんなのかと間違える人もいる。
これまであいさつはしても会話をしたことがなかったのだが、今日はひょんなことで久しぶりに英語を使って話してみた。
聞くと彼は英語の先生で、都内で意拳を習っているらしい。毎日学校に出勤する前に静かな公園に練習に来るとのこと。意拳も太極拳も同じ内家拳で、站樁功は基本中の基本の練習だ。何といっても毎日やるのが大事!と彼と私が口をそろえて言ってしまったのが印象的だった。
内家拳というのは少林拳に代表される外家拳に対する言葉で、おおざっぱに言えば、筋肉よりも気を鍛え練り上げていくことを核心としている武術だ。
「気」を中心に置いたこの内家拳の源流は宋時代の道士、張三豊(右上写真:ジェットリーが扮する『太極張三豊』)が道教の修行法である煉丹術と少林寺で学んだ少林拳を結合させたものだと言われている。(なお、張三豊はその後仙人になり明初まで生きたことになっている(1247-1458 ?!)。)
内家拳の練習の中で丹田を練り上げる煉丹術、内丹術が核心となるのはこのような経緯からも明らかで、内家拳の基礎には道家(道教の修行者達)の仙人になるための修行法がある。
ここで中医学の話に移すが、中医学とは中国本土で伝統的に伝わる養生法、治療法の総称だが、中医学は「長生きのための道具」とも言われるが如く養生法をその核心としている。そしてその養生法には、中医学のバイブルである黄帝内経にも見られるよう、道家の修行法の影響が色濃く残っている。
中医学ではまず病気を防ぎ、長寿で、かつ、質の高い生命活動(歳をとっても目が見え、耳がよく聞こえる、というのが基本。その他、話せる、歩ける、活動できる等々)が可能になることを第一に考える。治療は二の次。日本では一般的に中医学と言うと、漢方薬とか按摩や指圧、鍼灸などを思い浮かべやすいが、これらはいずれも治療法だ。
老化を防ぐ第一は気(生命エネルギー)の枯渇を遅らせること。
生まれた時に持っている先天の気が徐々に失われなくなった時に死ぬところ、如何に先天の気が減っていく速度を緩めるか?
第一は、余計なことをして余分なエネルギーを使わない。即ち自然に即した生き方をする。ここから、季節や一日の時間帯、年齢に合わせた生活の仕方についての話が出てくることになる。
第二は、余計な気持ちを使わない。七情(喜、怒、憂、思、悲、恐、驚)を控え、恬淡な気持ちでいるというのが理想。
第三は、後天の気で先天の気の補充をするという方法。これには、精を練って気を増やすという内丹術や、食物から取り入れるという方法がある。私達が練習でやっている站樁功や坐禅はこの内丹術にあたるが、食物から取り入れるだけでは効果がなかなか上がらないので、意念を使って気を練り上げるということがとても重要になってくる。
最近数人から耳鳴りがするという話を聞いたが、中医学では、耳鳴りは耳聾(じろう・耳が聞こえないこと)の初期ともとらえるようで、これも老化現象の一つと言われている。歳がとって目が悪くなり耳が遠くなるのは、気が減少して頭部まで達さないからだ。そういえば白髪もそうだ。気が減ってくると丹田から遠い場所から機能が落ちてくる。脳の働きも然り。脚が弱くなるのもその一つ。生命維持に直接かかわる内臓部分には優先的に気が回るようになっている。
先日膝の故障を直すために毎日欠かさず站樁功をしている生徒さんの話を書いたが、彼は膝の治療のために整形外科に行ったが埒が明かず、治すためには気を溜めなければならないという結論に達し、たまたま私のブログにたどり着いたとのことだった。なぜ膝を治すために気を溜めなければならないと思ったのか?そこのところをまだ聞いていないのだが、見事な推測であり、かつ、見事に効果を上げているなぁ、と感服してしまう。
たまたま生徒さんの中から、中医学についての勉強会のようなものを月一回でよいから開いてほしいという話があり、私にとってもよい勉強の機会だと何かやってみようという気持ちになっている。中医学をテキストに沿ってそのまま読んでもドライで面白くないので、私自身の感覚、経験と合わせて、いろいろ膨らませて面白い話ができたらよいと思っている。今月中に案を固めて、その後月一度、プチ講座が開けるようにもっていきたい。