2013年12月

2013/12/31 <2013年最後のメモ>

 

今年ももうすぐ終わり。

あまり振り返ることはないのだが、少し思い出してみれば今年は新しい生徒さんとの出会いがたくさんあった。教えているからこその出会い。本当に人はそれぞれが個性的(当たり前だ・・・)。誰一人”普通”の人はいない。

身体も違うし性格も違う。

私にとって生徒さんたちはとても良い研究対象、サンプルになっている。私一人だけで練習していたらこんなに多くのことを知ることはなかっただろう。生徒さん一人一人を観察するのは洞察力を磨くこの上ない機会になる。練習に来てくれる生徒さん達に本当に感謝、感謝だ。

 

29日に最後の練習を終えた後、残った生徒さん達としばらく雑談をしていた。

練習を始めて腰の調子が良くなったとか、風邪をひきにくくなったとか、そんなことを言っている。確かにこれまでもかなり多くの人が腰痛が改善したと言っていた。膝の問題をクリアした人もいる。風邪をひきにくくなった、というのもよく聞く。が、そのような効果をあげている生徒さん達はみな家でもタントウ功をしたりちょっとした練習を継続しているようだ。自然に日常生活での姿勢、動作にも注意をするようになり、次第に問題が解決していくという筋道だ。

一方練習に定期的に参加してはいるもののなかなか変化が感じられない人もいる。頭のみで理解して身体を使った練習が足りないケースがほとんどだ。これはある程度練習が進んだ後に頭打ちになるような形で現れやすい。

初心者の頃は全てが新鮮で意欲が高い。目に見えた効果も表れやすい。しかしある程度立つと進歩が感じられなくなり練習もマンネリ化してくる。かなり地道にやり続けないと一段上には上がれなくなってくる。もう分かったという気持ちになった時、それが進歩の止まる時。どんなに先に行っても、いつまで進んでも、”分かった”ということは有り得ない。今ある状態からどうやって一歩前に進むか、常にそれだけを考えていれば、気が付けばかなり進んでいたりする。ゴールを目指すのではなく今、現在の課題に取り組むことを楽しめれば練習はず~っと楽しいはず。

 

また、最後の練習日の生徒さん達との雑談で面白かったのは、身体はその人を表しているという共通した認識。それも歳をとればとるほど、身体は如実にその人を表していく。生活習慣なり、姿勢なり、癖なり、すべてが蓄積されてそれが身体となって現れてくる。

身体をみればその人のことが大体分かる。顔も身体の一部だから、人相がその人を表すというのは何も不思議なことではない。

 

私がこの練習を続けるのは、心身ともに”すっと”させたいから。

太極拳の練習のキーワードは”自然”。

私にとって正しい練習とは、練習を続けることで身体や心の癖が減っていく、即ち、つまりやわだかまりが減って”すっと”した感じになっていくようなもの。もし練習すればするほど癖が強くなっていくなら、その練習は間違えていると思っている。

来年はただ身体の使い方を教えるだけでなく、身体を使って自然になることを念頭に置いて練習をしていきたいと思う。

 

2013/12/24 <冬練三九、寒さに対抗する、精神力>

 

一昨日冬至を迎えこれからが寒さの本番。

中国では昔から冬至を起算日として9日間ごとに『一九』『二九』『三九』、と数えていき、『九九』即ち冬至から数えて81日目に春が来る(暖かくなる)とみなされている。

『九九歌』という九日間毎の自然の特色をうたう歌もあり、冬の深まりから春への移行が表現されている。

その中で最も寒い時期とされているのが『三九』。即ち第3セット目の9日間(即ち冬至から数えて第19日目から第27日目)だ。そして『三九』については俗に『冬練三九』と言われる。これは最も寒い三九の時期は練功しなければならないという意味だ。

 

そもそもは上の言葉は『冬練三九、夏練三伏』の前半部分。後半は夏の最も暑い時期には必ず練習しなければならないと言う。(三伏:夏至後の第3の庚(かのえ)の日 を初伏、第4の庚の日を中伏、立秋後の最初の庚の日を末伏といい、この三つをあわせ て三伏。大体7月中旬から8月中旬。)

つまるところ、一年の一番寒い時期と暑い時期は必ず練習しなければならない、と言うことで、身体を鍛えることに加えて精神を鍛えるという意味合いが濃厚に感じられる。

 

暑くも寒くもない快適な環境で練習するのはとても気持ち良い。誰でもできる。

しかし、暑かったり、寒かったり、雨が降ったり、雪が降ったり、と快適な条件が崩れた時こそが精神を含めた鍛錬の機会となる。

温室育ちの植物は決して屋外育ちの植物のように強くはならないが、これは人間も同じ。人間は自ら快適な環境を作り出せる能力があるが、そのような人工的な環境に慣れてしまった身体は自然の変化に対応することができない。暑さにも弱く、寒さにも弱い、といった適応力のない身体になる。すると暑さ、寒さを怖がるようになり屋外にでることがさらに少なくなる。ますます適応能力が下がる・・・と負のスパイラルを描くことになる。

 

太極拳の練習は決して身体を鍛えることに留まらない。身体と精神は密接に関わっているから身体を強くするためには精神も鍛えることが必要になる。

ある中国のサイトでは『冬練三九』の意義を次のように述べている。

「練武は体質を増強するだけでなく、厳寒を恐れない堅強な意志を鍛錬することができる。身体の寒冷に対する適応能力を増強し寒邪(ウィルスなど)に対する免疫力を高める。全身運動を通して呼吸が深くなり消化能力が高まる。新陳代謝が旺盛になり身体条件を改善する。」

 

が、こんな話は何も今初めて聞く話ではなく、普通私達が子供の頃に言われてきたこと。”子供は風の子”とか言って、寒い時でも外で遊べと家から出されたことがことがある。当時子供だった私も寒いのは嫌。本当はこたつに入っていたいのに・・・と、家でぬくぬくしている大人たちを恨めしく思ったこともあったような。子供は寒さに強いはず、と決め込まれて真冬でも半袖短パンの体操服で運動場を駆け巡っていたが、そう言えば体育の先生は長袖長ズボンのジャージー姿だった。小学校から高校まで教室に暖房はなかったから、冬の朝の教室は2,3℃。ノートをとるにも指がかじかんで思うようにならない。先生の話を聞く時は太ももの下に手を入れて温めていた。でも思い出してみると職員室にはいつも暖房があった・・・大人になると寒がりになるということ?

一つには子供は元気が多い(気の量が多い)から、という中医学的な説明がある。しかしそれ以外にも要因がありそうな気がする。

例えば住環境が快適になってそれに身体が慣れてしまうこと。

子供の頃は大人から強制的に”鍛錬”させられるが、一度大人になってしまうと誰からも強制を受けないため苦しさを伴う”鍛錬”をしようとしなくなること。

子供はいとも簡単に遊び等に集中し外界のことが気にならなくなってしまうが大人にはもはやそれだけの集中力がないこと。

放っておけば楽な方に流れがちな心本来の性質。等々。

 

正直言うと私はもともと寒いのがとても苦手だが、オランダで真冬に自転車通勤をしたりフランスで零下8度の時に1時間以上タントウ功をしたり、と寒さに立ち向かう経験を通して以前ほどの苦手意識はなくなった。実際、寒さに立ち向かって自転車をこいだり、練習をしたりすると、身体の奥の奥の方からエネルギーが湧き出てくるのが分かる。自分が発熱装置を内臓しているのを実感できる。これは”立ち向かう”時に現れてくる現象。なまぬる~い環境ではその感覚は掴めない。

 

最近イチロー選手の独占インタビュー番組を見たが、彼は精密機械のように毎日決まった練習メニューを毎日決まった時間にこなしている。出番があろうがなかろうが、それは変わらない。インタビュアーはそれをイチローの”精神力の強さ”と捉えていたが、イチロー自身は逆にそれを”精神力が弱いからそうしていないと自分を崩してしまう”と捉えていた。

心の赴くまま、自由自在に、というのが人の最高の境地なのかもしれないが、そこに至るためには意志を固くもって毎日コツコツと惰性に陥らないように努力するのが必要なのだろう。

心身を律することには厳しさもあるがそこに心の清々しさがある。外からみればそれは美しさとして感じられる。

精神が崩れると身体も弱くなる。気が張っているときは病気にならない。ある人が、暇な人はすぐ体調を崩す、と言っていたが、多少極論でであってもあながち否定はできない。忙しく責任ある仕事を持っている人の方が体調管理をうまくやっていたりする。精神が身体を支えるというのも本当だと思う(もちろん精神力だけで身体が維持できるわけではありません)。身体と精神は別物ではなく、身体の一番見えない部分が精神で、精神の一番見える部分が身体なのではないかと思ったりする。

 

寒ければ寒いほど精神が鍛えられる(といっても東京の冬なんて大した気温ではないけれど)。精神は身体を引っ張ってくれる。何事にもブレない、恐れない精神を持ちたいもの。がんばろう~。

 

 

2013/12/18

 

あの惨敗の結果に終わったピアノの発表会から半月が過ぎた。

あまりの無残さにしばらくはピアノを見るのも嫌だったが、陰極まって陽に転じたのか、またピアノが恋しくなってきた。

一昨日、一回も見ていなかった自分の演奏ビデオを始めて見てみた。今なら目をそらさずみることができる。

 

 発表会当日、ピアニストの生徒さんが私の演奏を見に来てくれた。プロを前にして難曲を弾くのはおこがましく気が引ける。が、素人だからこそ冒険ができる、と大きく構えていたものの、案の定、本番はかなりの失敗をしてしまった。

 とほほ・・・と肩を落として客席に戻った私に、ピアニストの生徒さんは「先生の演奏を見て開眼しました!」と満面の笑顔。私が落ち込んでいるから元気づけようとしているのかしら?と私はポカンと聞いていたが、まんざらお世辞だけでもなさそう。

 彼女は「やはり指の勁を通すのが大事ですね。」と言って音がきれいだとほめてくれた。また、曲の最後の最後のアルペジオがとてもうまく弾けたを賛辞して、どうやって弾くのか?と私に聞いてきた。ここは私もかなり研究して、最後は太極拳の按(下向きに押す力)と捋(リュー)(手前に引く、流す力)を混ぜたように腕を使うと指が軽くなることを発見。それ以降アルペジオが得意になった。

 ピアノの先生からは、「悪いところばかりではなかった」と言われた(ということは悪い方が多かったということ!)。きっとピアニストの生徒さんは私の良いところに焦点をあててそこから学べるものは学ぼうという態度なのだろう。どんな人からも学ぶことができる、と私の師父もよく言うがそのお手本のようだ。

 後日、その生徒さんが練習の時にさらに笑ってこんな一言。

「先生、胆力強いですよ。普通勝算5割で弾きません。勝算5割で8割弾けていたのだから十分です。」・・・・向こう見ず、恥知らず、も良く言えば、胆力の強さ・・・?

物事は常に陰陽両面あります。

 

 数人の人から演奏を見てみたいというリクエストがあったので、大失敗部分などもろもろカットして半分に編集したものを好奇心ある方のために下に貼り付けます。

 リストの超絶技巧練習曲ですが、私が弾いても”超絶”にはなりません(つっかえながら走る機関車のようだ、と娘の言葉)。やはりピアニストはものすごい練習をしているのだと実感します。リストの曲は手が大きくなければとても不利で、10度をバーンと掴める(鍵盤のドとオクターブ上のミまで指が届く)という前提で書かれているようなところがあります。私の手も女性にしては大きいですがそれには達せず、しかし、手のひらの労宮の開合で手のひらを“割る”ことで随分5本の指をバラバラに動かせるようになりました。指が届かない場合は肘と肩で連れてこなければならない、というのも太極拳の基本的な身体の使い方の応用で、今回の発表会に向けた練習でまたピアノ演奏と太極拳の関連性を強く感じました。

 (そもそも私が「太極拳”から”学ぶ会」としているのは、太極拳から応用できる様々な具体的なものを見つけていきたかったから。私にとってはピアノ演奏が太極拳の応用、実践の場になっています。)

 

2013/12/16 <加齢に伴う姿勢の変化、督脈と任脈、腹筋と背筋のバランス、上虚下実>

 

 太極拳は陰陽の道理に基づくというが、男女は陰陽の別を示す代表的な例。

 中医学では、「男性は督脈、女性は任脈」とか、「男性は気、女性は血」という言い方をしたりする。

 督脈は全身の”気”を、任脈は全身の”血”を総べる最も基本的な経絡。そして”気”は陽、”血”は陰、と言う。男性は陽→気→督脈、女性は陰→血→任脈、という論理で「男は督脈、女は任脈」と言うのが一般的な説明のようだが、正直言って私にはただのこじつけとしか思えなかった。

 が、練習でたくさんの生徒さんの身体を扱ううちに、男性と女性の典型的な立ち姿が対称的な関係にあるのに気付いてくると、上の言葉も大事な意味を持つことに気づくようになってきた。

 

 まずは加齢に伴う男女の立ち姿の変化の図。

 これはよくありがちなパターンで、皆が皆こうなるわけではない。男性でも女性パターンに近い人もいるし、女性でも男性パターンになる人もいる(女性で胸とお尻を突き出したような洋タイプは男性パターン。和服を着た女性のようなタイプは典型的女性パターン)。が、街中を見渡してみればおおよそそんな傾向があるのが分かる。

 

 まず男性の場合は加齢とともに腰が反ってお腹と胸が出てくる。上の中年前期の図あたりが恰好良いと思う人がいるかもしれないが、この時点で既に腹筋が緩みだし腰痛の兆しが出てくる。中年後期の図になれば腰痛は必至。老年期はしぼみが進んで胸の気が落ちてきたりする。

 逆に女性の場合は加齢とともにお腹が凹んでくる。胃のあたりがしぼんだようになり、お腹に横線が数本入ったりする。こうなると次第に胃も悪くなる。背中は丸くありお尻が垂れてくる。

 中医学的に言えば、男性の腰が反ってくるのは生殖器の精が減ってきて腎の先天の精を使うようになるから。尿が出にくい時に腰を反ることで勢いをつける感じに似ている。女性の場合は子宮あたり(下丹田)が冷えてきて力がなくなり身体前面を上って中丹田(臍奥)に達する気の量が減ってくる。そうすると胃のあたりがしぼんだような体型になる。(女性の場合はウエストを細くしたいとか、ヒールを履いて歩く時に膝を曲げて前のめりになるとか、ちょっと可愛く見せようとするなど、要因はいろいろありそう。西欧の女性は男性パターンの人が多いように思う。)

 

 そもそも正しい姿勢というのは、背中側の督脈とお腹側の任脈がどちらも開通している状態。”任督二脈を通す”というのは太極拳なり気功法なりの基本的な練習だが、これは別に特別なことではなく、赤ちゃんや子供の頃は皆自然にやっていたことだ。

 二足歩行というのは本当に難しいことで、立ち上がって歩いていた数年はかなり理想的なバランスを保っていられるが、10代終わりには既にズレが出ている。何も調整しなければ、歳を重ねるごとにそのズレが大きくなり、気が付いた頃にはズレを戻すのがかなり困難になってしまう。

 ズレが少ないうちに直すのが最も省エネで、毎日練習をして身体を調整するのもそのような理由がある。気持ち悪い身体に慣れっこにならないようにする。常に自分の身体の状態に敏感でなくてはならない。

 実際、任脈と督脈が一つの円環になり気が循環すれば気持ち良い身体になる。

 

 任脈と督脈の循環を考えた時、典型的な男性の場合は腰が反れてその部分で督脈が断絶することになる。女性の場合は凹んだ腹の部分で任脈が断絶する。

 それをイメージで示したのが下の図。

 

 

 タントウ功でまずは命門を開けろ、というのは男性に対しては本当に重要なことで、腰を本来の位置に戻さない限り督脈は貫通しない。女性の場合は命門を開くのにそれほど時間がかからなかったりするが、いつまでも腹がぺしゃんこではいけないので、更に気を下っ腹に押し込んで下っ腹から任脈沿いに上向きに気を引き上げることが必要なこともある(このあたりの調整はとても微妙だから画一的には言えない。ケースバイケース)。

 

 ここで上の中医学の「男性は督脈、女性は任脈」という言葉に話を戻すと、それは、”男性は督脈がつぶれやすいから督脈が大事、女性は任脈がつぶれやすいから任脈が大事”、ということなのではないかと私は思っている。

 典型的男性のケースだと、腰が反って胸、腹が張り出した場合、気は任脈を上に上がりやすくなる。そして次第に上実下虚の身体を作り出し、心臓病や脳梗塞などの症状をつくることになる。男性の中にも典型的女性系の身体の人がいるが、その場合は気は下に流れ落ち、エネルギーの少ない虚弱な感じになる。前者の男性系の場合は顔色が赤くなりがちだが、後者の女性系の場合は顔色が悪くなりがち(だから女性はお化粧をするのだ、とある中医学の先生が言っていた)。

 

 理想は二つの中間。身体を横から見た時に腹筋と背筋がともに使われていて、重心が下っ腹の高さにある。私が見たところでは16歳以前の男の子の身体が理想。20歳の男性ではすでに胸が開いている。精が最も溜っている年齢の身体は重心が自然に下に落ちている。  以前学会用の資料を作成した時に、マイケルジャクソンがそんな体型を維持していたことに気づいて驚いたことがある。あの敏速なキレのよい身体はそんなバランスから来ているのかもしれない。彼のことを思い出したので彼の写真を載せます。

 冒頭の写真は彼の特徴的なポーズだが、この型を彼のように美しくキメるには脚力はもちろん、腹筋、背筋がしっかり胴体を立ち上げていなければならない(しっかり爪先で立つには腹筋が要になる。腰が反るのも背中が丸くなるのも腹筋がしっかり立ち上がっていないから。爪先立ち、爪先歩きの練習は効果あるはず)。

 下のマイケルの写真は「上虚下実」(上半身が軽くて下半身に力がある)が見て取れる。気が足に落ち足裏が地面に張り付いたよう。そういえばマイケルの手はしょっちゅう股間にあるが、これは気を下丹田に落とすのにとても効果的!(重心が臍位置にあるよりも股間にある方が上半身の力が抜け下半身が充実する。スケートの高橋選手もそのような感じ。)

 

 

下は以前学会で使った資料。

「上虚下実」と「上実下虚」の比較。

 加齢とともに足(脚)に力がなくなり重心が上に上がる(気が上に上がっていく、最後は頭から抜けてこの世から去ることになる?)というのが自然の摂理。それをそうさせないように、気を下げてて足が大地から離れないようにするのがこの練習。「老化は脚から」というのはその一つの表れ。

2013/12/13 <タントウ功の2ステップ、腰で立つ、太ももで立たない、背泳ぎ>

 

今週頭から4日間の予定で私の郷里、四国からはるばる練習に参加してきている女性がいる。

今日は第3日目。

彼女が今回上京した最大の目的はタントウ功のコツをつかむこと。

第一日目は初心者の多い生徒さん達に交じって主に理屈を教えた。

第二日目は実際に20分ほど立ってみたあと、ベテランの生徒さん達と一緒にバリエーションに富んだ練習をし、正しくタントウ功をするにあたってネックになっている身体の部位(お尻や股関節)に意識をもっていけるようにした。

今日第三日目は彼女ともう一人の生徒さん、二人だけだったので、私を含めて一緒に40分くらい立ち、その後、腰や腹から動く感覚をとれるような練習をした。

 

これまで私が見てきたところでは、一般的な太極拳経験者にタントウ功の姿勢をとらせると、直立状態からどしっと真下に重心を下し、太もも前側(大腿四頭筋)にしっかりと乗っかるようにすることが多い。だからかどうかわからないが、太極拳の演武の大会でよい成績を収めている人の大腿四頭筋は身体の他の部位に比べてよく鍛えられているようだ。以前中国のテレビ番組で見た楊式の世界チャンピオンの美人女性も、練功服に隠れた太ももが顔に不似合なほど発達していた。

 

このように大腿四頭筋を収縮させて立つことのデメリットは大きく力のある臀部の筋肉や太もも裏側の筋肉(ハムストリングス)を使えないしことだ。お尻やハムストリングスが使えないと速く走ったり跳んだりできず、動きに軽快さを欠くことになる。

またただでさえ特に女性の場合はお尻やハムストリングスの衰えが早い(後ろ上がりの傾斜のある靴を履くことが多く、その際に膝を曲げてバランスを取って歩いてしまうのが大きな原因か?)普通に重力に従った生活をしていると次第にお尻と太ももの境目が分からなくなってしまったりする。重力に抗して身体を支えるには会陰の引き上げが要になるが、臀部の筋肉とハムストリングスを使えるような姿勢は自然に会陰も引き上げやすくなる。

 

今回練習に参加している女性に対してもまずはその部分を直すことを教えた。重心を太ももから腰(命門位置)まで引き上げることを指示。そのためにはまず身体を直立姿勢から”真後ろ”にスライドさせ命門を突き出すようにする要領を掴む。この時はお腹が命門を押すような形になっている(お腹が凹んでいる)のが普通。そしてそこから徐々に股関節を緩めて真下に坐っていく。命門から下向きに徐々に線が伸びていく(命門から下向きに腰椎、仙骨、尾骨が一直線に並んでいく)ような動きだ。

要約すれば、①直立姿勢から真後ろに移動(命門を出す)、そして、②そこから(①の位置を前提にして)真下に移動、だ。①の移動は段階がないが、②の下向きの移動は身体の状態をチェックしながら、命門が閉じたり股関節が前に出ないように徐々にゆっくり行う。

この②の要領は以前紹介した壁に張り付いてしゃがむ練習と同じものになる(→蹲墻功の説明はこちら)。

 

まずは①が②の大前提。どれだけ低くしゃがめても①がクリアされていなければ太もも前側を肥大させるか、もしくはその筋肉の力が及ばず膝を痛めるか、はたまた腰を反ることでバランスをとって腰をいためるか、いずれはそのような結果になってしまう。

急がば回れ、で①は毎回毎回チェックしなければならない。私や師父も立ち始めからしばらくは体重を下に落とさずに命門あたりに維持している。腰や腹に十分力(気)が漲ってきたらさらにその気を腹底に押し下げるようにすることにより、外形的には重心が下に下がったようになっていく。

 

「もう①はクリア!」、と侮ることなく、歩くとき、座るときも常に意識する。癖になるまで意識し続ける。

今日の練習の帰り道、もう一人の生徒さんと一緒に歩いていて、ふと彼女の腰が反っているのを発見。タントウ功の時はできていることでも、動功になると少し忘れがち、套路(24式など)になると更に忘れがち、そして恐ろしいのは練習が終わった後。歩いたり、座ったり、友達とおしゃべりしていたり、気を抜いた時の自分の姿勢がどうなっているか・・・?練習の成果は往々にして練習外の場で現れる。

 

腰が反って腰痛になりがちな人に一つのアドバイス。

歩いているときに、頭の中で背泳ぎで浮く時の身体のイメージを再現してみる。浮ける人なら分かるはずだが、その時お腹が少し引っ込み(腹筋が使われている感じ)腰(命門)が開いたようになっている。もし腰が反っていたら沈んでしまう。逆に腰が丸くなりすぎていても沈んでしまう。

水面で働く浮力は水平方向の面積が広い方が強くなるから、背骨が通常のS字カーブよりも直線的になると浮きやすくなる。それが命門を開いた感じだ。

背浮きでも伏し浮きでも同じだが、水中で浮く時の身体の使い方はとりもなおさず上の①の要領。

今日生徒さんにもアドバイスしたが、歩いていて命門を開く要領を思い出せなかったら、水中で背泳ぎをする自分をイメージして、その姿勢のまま歩く、というのも好い練習になる。

日常のちょっとした意識の使い方が積もり積もれば大きな成果につながる。普段の生活でどれだけ意識的になれるか、それは太極拳の中で最も大事な修行だと思う。

2013/12/4 <脊椎を伸ばす、背骨の柔軟性>

 

最近は隔週で行っているママクラス。毎回連れてくる赤ちゃん達の成長ぶりの速さに驚かされる。この前までは皆寝転がっていたのに、今日はちょこんとお座りしている子が多くなっている。気が付けば私の真ん前で座り込んでじっと観察しているような子までいる。どの子もお尻がどっしりとして骨盤が真っ直ぐ立っている。模範的な坐禅姿だ。私もしっかり観察させてもらう。

 

今日は数人腰痛持ちのママがいた。

このクラスではタントウ功をする時間はないのだが、タントウ功の基本姿勢は腰痛にはとても効果的なので、今日は特に腰椎を伸ばすということに焦点を当ててその要領を教える。

タントウ功の大事な要領の一つはは背骨を伸ばすこと、言い換えれば脊椎間の距離を開けることだ。

 

背骨は上から頸椎7個、胸椎12個、腰椎5個、仙骨1個、尾骨(3~5個、個人差あり)から成り立っている。これら各々の椎骨がじゃらじゃらと動くのが理想の背骨だ。背骨の異常、よくある腰痛などはこれらの骨同士がくっついてしまったかのように固まってしまうのが大きな原因の一つだ。背骨は真っ直ぐでなければならないが、決して棒のようになってはいけない(そう言えば昔小学校の時に学校で背中に竹の物差しを入れられた・・・)。直立時には一つ一つの骨がブロックのように積みあがって真っ直ぐになってはいるが、動けばその動きに応じて全ての骨が瞬時に身体の中正を保つように微妙な調整をする。

ストレッチで両足の180度開脚ができると身体が柔らかいと言われたりするが、本当の身体の柔らかさは背骨の柔軟性。両足が180度開かなくてもすぐに内臓に影響がでるわけではないが、背骨が凝り固まれば腰痛のみならず神経系統にも内臓にも影響がでてくる(とは言っても、両足開脚が苦手な人は大体背骨も硬いような気もする)。

今日ママたちに教えたのは背骨の自然な伸ばし方。私が後ろから頭を持って支えておいて、その上で身体の力を抜いて尾骨を下に垂らしてもらった。こうすると整骨院などで見かけるような牽引のような形になる(右の図参照)。違いは牽引器は首を上方に引き上げるため頸椎の伸びがよく意識されるが、タントウ功の姿勢で自分でやる場合は首を固定しておいて自分の尾骨を下に引き下げるため、頸椎のみならず腰椎もが下に引き伸ばされているのがよく分かる。うまくやれば頸椎から尾骨までが一本の弓のように張っているのが分かる。たるんだ弓よりも張った弓の方がエネルギー量が高いが、背骨に関しても同様の道理が当てはまる。適度に張った適度の緊張感のある背骨は強い(この”適度”がまたまた大事なところ)。

 

下にスケッチ図を載せるが、通常S字カーブを描いている背骨を少し下方に引き伸ばすと背骨自体が少し長くなる。腰痛持ちの人は腰椎のカーブがきつい人が多いが、背骨を下に引き伸ばすと腹が背中を押すような形になり自然に命門(腰椎の最もカーブの強いところ、へその裏)が後方に移動し腰のカーブが緩くなる。

もともと背骨の湾曲は二足歩行に必要なものだが、赤ちゃんの時にはほとんどない湾曲が成長とともに湾曲してくる(頸椎が前湾、胸椎が後湾、腰椎が前湾してくる)。問題はその湾曲が往々にして行き過ぎてしまうこと。そこを適正な湾曲に戻すには、上述のような形をとって自分で背骨が頸椎から尾骨までつながった感覚を探せばよい。うまくいった時の姿勢は図らずもタントウ功の姿勢になっているはず(股関節が緩み、命門が開き、腹に気が落ち、重心が踵の方に移動してしている)。

今日練習に来ていたママ達も私が思った以上に簡単に感覚を得ていて、皆、”背骨が伸びて気持ちい~い!”と喜んでいた。

 

背骨は伸びたり縮んだり、真っ直ぐになったり曲がったり、さまざまな動きが可能だ。

先日生徒さん達と話していたが、練習中の自分たちの身体をレントゲン動画のようにして見られたらとても面白いだろう。肉を削げば私達はみなじゃらじゃらの骸骨・・・私達の実態はそんなもの?

 

 

2013/12/1 <ピアノの演奏、経絡を通す、力を抜く>

 

昨日はピアノの発表会だった。

今回も自分の実力を上回る難曲に挑戦したのだが、結果、やはり力及ばず惨敗!(演奏会は試合ではない・・・)来てもらった友人たちをハラハラさせたひと時だった。

そもそもこの数年、約二年に一度開かれるピアノの発表会に出ている理由はただ一つ。太極拳の練習の成果をピアノにどのくらい活かせるか、それを身を以て体験するためだ。

 

私は高校三年までピアノを習っていて当時は作曲家になるのが夢だった。できれば芸大、音大に進学したいと考えていた。が、結局田舎でピアノを習っている程度では受験しても受かる可能性は少なくその夢を断念、その後大学進学で上京してからはピアノと縁がなくなりそのままになっていた。

たまたま今住んでいる家のすぐ近所に良いピアノの先生がいるのを知ったのは娘のピアノの先生を探している時だった。娘は小学校2年で既にピアノの練習が嫌になりやめてしまったが、その後しばらく経って私がその先生に習うようになった。

 

太極拳を練習してからピアノの演奏がかなり変わった。共通点が多々ある。

その昔、”音が汚い”と言われたことがあったが、どうすれば音がきれいになるのか具体的に教えてくれる先生がいなかった。当時高校生だった私は、音が汚いのはきっと”性格”に問題があるからに違いない、と真剣に思うようにさえなっていた。

その疑問が解けたのはつい最近のこと。指先まで気が通れば、指を”落下”させればきれいな音がでる。鍵盤を叩いたり押し込んだりする必要はない。

この”落下”の要領はまさに太極拳で身に着けたもの。震脚は”落下”の足バージョンだ。

落下、というのは言い換えれば”重力に任せる”ということで、まさにそれが”松song(力を抜く)”と同義になる。

手の力、指の力を抜いてただ指を落下させて弾くことができれば、その音はあたかもうまく炊けたご飯のように、一粒一粒がピカッとするような音になる。

 

フレーズを流れるように弾く時の手首、肘、肩の螺旋運動も太極拳と纏糸勁と同じだ。ピアニストがよく痛めがちな手首に過度の負担をかけないためには、手首のそれぞれのツボと肘、肩の対応するツボをつなげる(経絡を通す)ことが大事だ。

私自身今回リストの練習曲に挑戦していて無理に指を開いたり動かしたりしているうちに一時期手首や指が痛くなってしまった。それを機に改めて経絡の走行から腕、手首、指の使い方を見直したところ、小指を使うときには小腸経、親指を使う時は肺経、と各々の指に対応する経絡上の手首、肘、肩(腋)のツボをきちんと使うようにすることが手を痛めないための重要なコツだと分かった。

たまたま先日ETV特集で「左手のピアニスト」と題して右手を痛めてから左手のピアニストに転向した智内威雄さんのドキュメンタリーを見たが、ピアニストの中には手を痛めて弾けなくなってしまった人が思いのほか多いことに妙に納得してしまった。微妙にズレた状態で弾き続けていれば次第に指や手首への負担が積み重なり最終的に取り返しのつかないような結果になる。プロはそのあたりを感覚的に調整していくのであろうが、経絡に関し何ら知識のないピアニスト達は”経絡の通った”状態を”力が抜けている”感覚として捉えているのではないかと思う。

 

実際、”経絡が貫通する”ということは”力(気)が途中で滞ることなく流れる”ということだ。力(気)が流れる、というというのは文字通り、力が”抜ける”、ということ。

上の智内さんの左手のピアノ演奏も、いかに力を抜くか、が演奏のキーになっている。左手だけで弾く場合には両手以上に音色の美しさ、音の響きが重要になる。それを決めるのが脱力、力まない、という要領だ。

智内さんの演奏を見ていても指、手、手首等の力が抜けていて音の響きがとても美しいのが分かる。しかし、ドキュメンタリーの中で智内さんがかつてのドイツ人の恩師を訪ねた際、その教授がスクリャービンの前奏曲の冒頭部分を弾くのだが、その教授の手は更に力が抜けていて音色が非常に柔らかく表情豊かだった。”(いくら松songして)もまだ松songできる”というのが太極拳で言われるが、力を抜くにしても上には上があるのだなぁ~、と音楽の世界におけるゴールのない飽くなき追求を垣間見た気がした。

 

私のピアノはまだまだ発展途上だが、以前技術的にできなかったこと、表現できなかったこと、分からなかったこと等が太極拳の練習とリンクして少しずつ解明されていくのはとても面白い。ただその解明のためにはそれ相応の努力と時間を投入する必要がある。何でも成し遂げるには時間がかかる。速成は期待できない。

最近ピアノのために夕方の坐禅の時間が犠牲になってしまっていた。しばらくはピアノをお休みして坐禅に戻りたいなぁ(ピアノは疲れた~)。

 

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練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

   馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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