2014/7/31 <先週の飲み会、仲間>
もう一週間経ってしまったが、先週生徒さん達の顔合わせを兼ねた飲み会をした。
季節がらビールが良いだろうということでベルギービールのお店に決めたところ20人が集まった。
私は普段教えっぱなしで、生徒さん同士が仲良くなるような機会をもたないから、顔は見たことはあっても名前も知らないし、曜日が違えば全く面識がない。
昨年末に初めて飲み会をした時は中華料理やで大きな円卓を囲んでいたこともあり、私→生徒さんA、私→生徒さんB・・・という風に会話が進み、結局、生徒さん同士で自由に話す時間がなく、私もしゃべりに徹して料理を食べられなかった。
今回は前回の教訓を念頭に、敢えてわいわいがやがや騒げるビアホールにした。
始まってしまえば、美味しいベルギービールの飲み放題も手伝ってか、幾分おとなしめの生徒さん達も楽しそうにしている。会話がはずまなかったら私がつながなければ・・・などという心配は無用だった。初めて顔を合わせる人同士がどのように会話を進めていくのか、どのように仲を深めていくのか、本当はそれをこっそり観察していたかったが、私も楽しかったので生徒さん達が楽しそうなのを確かめた後は、皆が何をやっているのか全く関知しなかった。
2時間の飲み会がタイムアウトとなり退場。
店を出たところで皆が立ったまま話を続けている。なんやら本当に盛り上がったよう。やっと話が弾んできたところでまだ話したりないのかもしれない。
二次会?カフェ?なんていう声もあったがそこそこいい時間だったので解散にした。
翌日、数人の生徒さんからメールが来た。
どの文面からも仲間と話すことで更に世界が広がったということが感じられる。
どの人をとってもその人にはその人にしかない体験があり過去がある。人間一人をほじくっていくと、その深みは極まりない。表面的な共通点ではなく、深い部分での共通点でつながった仲間というのは独特の味わいがある。
生徒さん一人一人千差万別だが、その奥に”太極拳からいろいろ学びたい”という共通の想いがあるというのは嬉しい限り。
また飲み会をしましょう!(飲めない人は飲まなくてよいですよ。)
2014/7/26 <眉間から丹田をつなげる>
ここ一週間、鼻から吸った気を丹田に届け、その後その丹田の気を逃がさないように動く練習を試してみる。
鼻から吸った気をすべて丹田まで届けるには鼻から丹田に至る通路をしっかり作っておく必要がある。が、それはそんなに簡単ではない(もし、簡単!と感じたらおそらくできてはいないだろう)。鼻は眉間から伸びているが(眉間は鼻の”根”)、鼻から水が入ってツーンとする場所あたりに息をいれてそれを眉間の奥につなげ(祖窍のツボ 視床下部あたり)、その気をまっすぐ丹田まで落とす(途中で胸やみぞおちで引っかからないようにしなければならない)。
鼻から入った気を祖窍まで達するようにするには鼻先を下向き(丹田の方)に向くようにし、目線は鼻先を見ながら目の後ろをぐっと後ろに引いていかなければならない。
頭部が顎を引いた感じ(背泳ぎをする時の頭部の感じ)で、少し立ち上がったようにならなければ目や鼻の要領はクリアできない。両目平視、という要領があるが、これは目と耳を結んだラインが地面に平行になることも示している(目は上目使いのようになるが、これで初めてちゃんとモノを見ることができる)。こうすると自然に頸椎が伸び、虚領頂勁になる。
実はこれらはとりも直さず上丹田を作る要領。脳内の真ん中あたりに丹田を作るためには目や鼻、口などすべての感覚器官を一つにまとめる必要がある。両目を眉間で一つにまとめた後(凝神)後頭部の方へ引いたり、鼻の奥を開いて引いた目線とドッキングさせたり、微笑をするように口角をあげたり、そんな各々の要領がすべてそこに帰結する。
練習中はいろいろ言葉で説明したが、百聞は一見に如かず。
鼻先を腹のラインに合わせるには通常言われているよりもさらに身体を後ろ重心にさせなければならない(通常は鼻先は膝とつま先のラインに合わせると言われる)。これは私が目下練習中のことでとても良いお手本にはならない。そこで息の仕方、息の入っていき方がよく分かる馮志強先生の棒の表演の動画をここに載せます。
鼻筋が真っ直ぐで、眉間から丹田まですっと一本線が入っているようなのに注目。
これなら吸っても吐いても気が丹田にはいっていく。
この動画の馮老師の姿を見てから街を歩くと、ほとんどの人の鼻が曲がっていたり、浮いていたりして、鼻が相当テキトーに扱われているのに気が付く。鼻が四六時中腹とつながっている人はこの手の練習をしている少数の人に限られているのだろうが、鼻は本来丹田に空気を送り込む作用を持っている(無理に誇張した呼吸法をしなくても姿勢が正しく身体の中の通路が開いていれば自然にそうなるようになっている)。
これは美しい横顔のシルエットにもつながりがある。
美人の条件は鼻先と顎を結んだ線上に口があることらしいが、それは丹田に息が入るための要領と重なるところがある。
冒頭写真は(私の憧れる)美しい横顔のシルエット。太極拳の目指すシルエット(のはずと勝手に思っている)。
その他、シャーロックホームズやちょっとした猫の姿もその雰囲気がある。(真ん中の写真のワトスン博士は凡人の目線)
2014/7/21 <陰陽相済、任脈と督脈、周天、気を溜める>
練習をしていると次から次へと新しい発見がある。科学のミクロの世界と同じで細分化していくことにはキリがない。
「どんな小さな所でもそれはまた陰陽に分かれる」というが、身体の前側を陰、背中側を陽、と分け、その中でも左を陽、右を陰と分け、上半身は陽、下半身は陰、内臓も五臓は陰、六腑は陽、五臓の中でも肺、心は陽、肝、腎は陰、そして更に、心や腎の中でも心陽/心陰、腎陽/腎陰・・・と別れていく。
練習でよく意識する命門。命門の両隣には腎があるが、ここでも、命門は陽(火)、腎は陰(水)と分かれる。掌だって分けようと思えば陰陽に分かれるだろうし、最近私の興味の的である足の裏についても細かくみていけば、踵の中にも陰陽があったりして、これは1が2、2が4、4が8、8が16・・・と、易の道理につながっていくような感がある。
が、細分化はキリがないにしても、大事なのはこの分かれてしまった陰陽を離れてしまわないようにうまく循環させること。太陽と月と地球の関係でもそうだが、うまく引力が働いてグルグル回ることで付かず離れずのよいバランス(平衡)が取れる。人間も宇宙のかけらから生まれてきたのだから、究極的には同じ原理が当てはまる。平衡が大事。平衡を逸すれば不具合がでる。
中医学はまさに、平衡こそが人間の精神面も肉体面の健康を図る鍵である、という考え方をその根底に据えている。今ではそれは中医学に留まらず、西洋医学でも取り入れられている考え方であるのは巷の健康関連の本を読んで(実は立ち読み程度)も分かるところだ(免疫力アップには欠かせない!)。
さてどうやって陰陽のバランスを保つのか?
これは中国語では『陰陽相済』と言い、”相済”という日本語では馴染みのない言葉を使う。
”相済”の”済”は救済の”済”、即ち助ける意味だ。だから”相済”は助け合うという意になるが、そこにはお互いに相手を成り立たせているような助け合いの関係、つまり相手がいなければ自分も成り立たない、といった関係がある。陰と陽に分かれていながら、分かれることはできない、二つが一つ、一つが二つ、という関係にある(単純に言えば(理想的な)男女の仲と同じ!)。太極図はまさにそれを表現している。
太極拳の練習をしていると命門と両腎が”相済”することや、最近なら踵の太谿(陰)と崑崙(陽)が”相済”するのが感じられたりするが、それをそんな狭い範囲でなく身体全体でやろうとする試みが背中側の督脈と任脈をつないでグルグルさせる周天(坐禅の形でやるのが小周天、足を含めて全身でやるのが大周天)。(左は小周天の運行図。参考にとどめて下さい。)
人間の健康に最も関係あるのは頭部を含めた体躯部分。四肢はなくても生きていけるが胴体部分がなくては生きていけない。そして古代の中国では身体の異常が胴体の腹側、背中側の中線に現れることに気づき、任脈と督脈、『任督二脈』という言葉が使われるようになった。
任脈と督脈を健康に保つことは薬に勝る、という言葉が黄帝内経の中にもあるそうで(まだ原文を確認していません)、そこから道教の仙術などで不老不死を目指した『周天』の功法が出てきたらしい。
任脈と督脈をつないで気を廻らす『周天』についての文献は様々だが、とても神秘的で難解な言葉が使われていて、実際、そのような修行をしても死ななかった人はいない(はず)。ヨガにも似たような功法があるが、この類の練習の最大の危険は気を意念で上げて根っこがなくなり(下丹田を保持していない)、身体の上部の胸や頭部に上がった気を下に引っ張り下げる術がなくなり上部で停滞した結果、心臓が詰まって痛くなったり、頭部の奥(耳や目や鼻の奥)、脳のどこかで異常を発生、下手をすれば発狂、精神病、その他発熱など様々な怖い結果をもたらす。
馮志強老師の師であった胡耀贞先生がはっきり記しているよう、上丹田(祖窍のツボ)から練習を始めてはいけない、というのはそのためだ。
常に臍より下の丹田(中丹田、下丹田)に意識を保ち、どんなに気が上に上がろうともある意味で知らんぷりをして、更に下、下と引き下げる方が結果として気は上へと開通する。
”下に一寸(下がれば)上に三尺(自ずから上がる)”と師父からよく言われたが、私も最初はその意味がよく分からなかった。が練習を一年、二年、と続けるうちに、命門から出発し、少しずつ下のツボを開けて下向きに督脈を通せば、それに対応して督脈が上方にも開くのが分かってきた。
督脈上の命門以下のツボはそんなに数がないが、命門の次の腰陽関門あたりが開けば上は至陽か神道あたりまで開くし、その次の腰愈あたりまで行けば上は大椎まで通る、長強に達すれば上は頭部の脳戸(私の場合は脳戸よりも膀胱系の玉枕の方が良く分かった)、そして会陰に達してようやく百会、という対応関係になっているようだ。
これは身体の姿勢、物理的な観点からみてもそのようになっている。尾骨から真っ直ぐ立ち上がれてこそ会陰と百会がまっすぐにつながるのであって、尾骨から真っ直ぐに立ち上がれない状態で小周天ができました、という人は意念で回しているだけで偏差がでるだけで何の役にも立たない。(身体を見れば練習がどこまで進んでいるかは一目瞭然)。
尾骨で立ち上がれるようになるには毎日毎日丹田に気を溜めて(これが静功)、その力で下腹部(”腹”とは言ってもそれは背中側の仙骨や尾骨を含む)を充実(膨張)させなければならない。この道理は起き上がりこぼしの原理と同じ(右の図は金沢大学航空宇宙工学科の越智教授の文献からのものです。飛行機の制御、不安定なものを安定させる自動制御システムの原理ということ。人体も原理は同じのような)。
ここまで書いて、やはり目標は起き上がりこぼしの達磨さんなのか?外見的にはあまり恰好良くないけれども、と心の中でブツブツ。冒頭写真の定番の起き上がりこぼし人形くらいなら受け入れられるかしら?
そして自分自身が起き上がりこぼしになるには、やはり馮志強老師を含め私の師父が(耳にタコができるくらい)繰り返して言うように、丹田に気を溜め続けなければならない。
「精が満タンになれば勝手に漏れるのと同様(遺精)、気も満タンになれば勝手に動き出す。くれぐれも”ない(存在しない)”気を運行させたりしないこと。気が溜るのを静かにじっくり待つ。」「くれぐれも本を読んで練習しないこと。道理の分かった老師について常に調整してもらいながら練習すること」これらはみな師父の言葉。今になってその言葉の重みが分かるところ。
気を溜めるのは私の練習の核心。生徒さんにもそのあたりをしっかり教えたいと思っています。
気を溜めることの意義、溜め方、運行の契機の作り方、コツ、などについては文章でまとめるのが大変なので、いずれ勉強会を開くのも良いかと思い始めました。
2014/7/17 <夏の体調管理は大変、整理したい話題>
暑くなって一番大変なのは冷房の効いた電車での行き来。
同じ30度でも湿度が高いと汗腺が開きずらくすっきり汗をかけない(空気中の水蒸気が飽和状態に近くなると人体からの水蒸気の発生が抑え込まれるのだろうか?ちゃんとした理屈があったはずだが調べるのが面倒臭いのでここはスルー)。
駅まで歩いてじわ~っと汗が出てきて、プラットフォームで立ち止まった瞬間背中から汗が噴出してくる。急いでタオルを取り出し下着と背中の間に入れ込む。これはよく子供にやる技で大人がやるものではないが、私は速乾や吸湿の加工の効いたエアリズムや何とかの皮膚に張り付くような下着が苦手なので、タオルに汗を吸い込ませて、綿100パーセントの下着には極力汗を染み込ませないようにしている。この歳、この境地(?)に至れば、人目は気にしない(し、人も私のことなど見てもいない、はず)。
電車が来て中に入ると、ひんや~りしてしばし極楽。寒い時に温かいお風呂に入るのと同じようなもので、どこかほっと安心する。
が、そんな気持ち良さは束の間の出来事。上からの冷風で肩が冷えてくる。冷風が当たらない場所を探すが逃げられる場所はそんなにない。次第に皮膚の表面が冷たくなって汗腺も閉じてくる。この状態で30分から40分。外に出るはずだった体内の熱気が閉じた汗腺のせいで身体にこもったままになる。
電車を降りるとまたあの蒸し暑さ。閉じてしまった汗腺が開くのにまた時間がかかる。
体内の熱の発散がうまくいかない。
思いっきり汗をかいてしまえばすっきりするのに、それが許されない身体は悶々とする。
・・・夏の体調管理は昔よりさらに大変になっている。
外の暑い場所と室内や電車内の涼しい場所を行ったり来たりしていると、ふと、「一度解凍したら再度冷凍しないで下さい」という冷凍食品にある注意書きを思い出したりする。
私の身体も生もの。溶かしてまた冷凍して、を何度も繰り返していたら絶対悪くなってしまう~、と悲しくなってくる。・・・じゃあ常温保存が良いのか、それとも冷蔵が良いのか?うちの犬猫は冷房の効いた部屋が大好きだど、彼らはこの時期できれば冷蔵保存してもらいたいのだろうか?(これらはみな雑念)
と、子供が夏休みに入りそれに付き合って出歩いていたりしたら、前回メモの続きを書くのをすっかり忘れていた。
私は自分の書いたものを全く読み返さないから、メモ書いても頭に残っていなければそのまま流れてしまう(これではメモの意味はない!)。私にとってこのメモはあくまでもその時点での頭の整理のためのもののようだ。
が、今一度、書きたい事柄のメモ。
・関節が緩むということ
・左顾右盼 (目の使い方)
・リクエストのあった「小周天」について
→この話題を書くには、督脈・任脈、ツボを開ける、気を溜める、気の循環、等についてもある程度説明しなくてはならない。タントウ功と大きくかかわる大きな題目。
・築基功について(小周天の前提)
→周天に関することを全て書こうとしたら本一冊分になってしまいそうだ・・・。一度この話題だけでどのくらい関わる事項があるのか整理してみるとよいかも。
・ブログでは話題があちこちに飛んでしまう。そろそろ全話題を通した”まとめ本”、もしくはガイドブックのようなものも欲しいところ。
とりあえず今日はここまで。
2014/7/12 <何の練習をしているのか? 最近の気づきメモ>
そういえばいつの頃からか自分の練習も教え方もかなりアドリブになってしまった。
5年前に教え始めたころはメニューがきちんと決まっていた。
私自身の練習はパリ時代のものを踏襲。タントウ功(1時間~2時間)、動功三種類(30分~45分)、歩く練習や足上げ(10分~15分)、套路(24式、48式を通して2回程度、あと単式練習 45分から1時間)と合わせて3時間から4時間の練習をしていた。
生徒さんに教える時はそれを全て短くして順番に教えていた。
が、今では自分の練習も教え方も、良い意味ではフレキシブル(柔軟性がある)、悪い意味では無規則。練習の長い生徒さんはそんなスタイルになれているのだろうが、初めて来た生徒さん達は「一体これが太極拳の練習なのか?」と思ってしまうかもしれない。
太極拳の練習の守備範囲はものすごく広い。
敵を倒すための武術に留まらず、ただの健康法にも留まらない。
『性命双修』という言葉がある。”性”(天性、精神、性格等)と”命”(生命、身体、エネルギー等)を共に修めるという意味だ。『神形双修』(”神”は人を作るもののうち形のないもの、精神等、”形”は人を構築する物質的なもの)とも言う。
簡単に言えば”心身”を共に修めるという意味だとそのように納得していたが、最近『性命』は単なる”心”や”身体”よりもさらに深いということにうっすら気づいてきた。
”身体”も深めれば形なきものに至りそうだし、”心”も深めれば自分の奥の奥の奥をほじくっていくようなところもあるし、反対に肉体外にまで広がりそうなところもある。練習をしながら身体を操っている人が誰か分からないような時など、結局私はそれを肉体の外から見ている傍観者のようになる。・・・・おそらくそんな練習のはるかかなたの延長線上に、『性命双修』と言われる境地があるのだろう・・・。
と、そんなことを考えていると、練習がかなり感覚的になってしまう。
練習中あまりにも多くのことに気づくと、その気づきが流れて行ってしまう。
以下、忘れないための私自身のメモ。
と言いながら、既にいくつか忘れたような・・・。
説明があまりにも不十分ならまた別の機会に整理することにします。
1.太極拳で作る2種類の身体。
一つは頭のてっぺんと四肢のみ。胴体は空。提灯のような胴体。膨らめばあるようだが、実は触れば、ない。腕は胸の奥から生えている。足は腰から生えている。だから胴体は存在しない。
もう一つは全部が胴体になってしまった身体。四肢がない。前提として四肢を含めた身体の中身が空。身体の輪郭しかない(ひょっとしたら輪郭もない?)。丹田の気が膨張して人体型に膨らむ風船を膨らましたようになっている。関節がない。全身が一つの気球のようになる。
2.肩がなければ肩こりはない。腰がなければ腰痛はない。
子供の頃、”腰”がどこにあるのか分からなかった。小学校の時に体育の先生が「腰を回して~!」「はい、腰の運動!」とか言って前で体操をしていたが、私にはその部位は”背中”でしかなかった。背中の下にはお尻。どこに腰なんていうものがあるのか?・・・子供は恐らくそのような感覚だと思う。次第に私達は”腰”の存在に気づき始めるのだが・・・それは取りも直さずそのの辺りが固くなり始めた証拠。腰が自覚できないような身体が理想。
肩も然り。首から腕がぶら下がっていて肩が意識されていないような身体は理想的。本来子供の身体はそうなっている。犬猫には肩がない。肩がなければ肩こりがない。具体的には肩の支点を頸椎の両脇、肩中愈のツボ(小腸経)にとり、そこから腕が回る(動く)というようにすると良いようだ。
3.足裏が平らになる感覚
足の『松』。足裏が平らに地面に貼りついているような感覚。それは片足立ちで足裏をゆっくり降ろして行った時に、ふっと足首以下がなくなったようになる場所。
椅子に座って実験すると分かりやすい。片足をゆっくり降ろしていって足首以下がなくなる場所を探す。その位置でストップ。するとそれは腹の奥の筋肉がプルプルする位置のよう。腸腰筋と大きな関連がありそうだ。
太極拳の足は基本的に足裏が地面に平らに張り付いているが、それは腸腰筋が足裏を制しているということらしい。
4.足裏から地面の中へ根っこを生やす。
哈(ハ)だのアーだのの音は気を降ろす効果あり。脱力。会陰も下がる。足裏に体重が乗っかっていく。まずはこれをやって気を足裏まで降ろし、地面にしっかり根を生やす。
これができたら哼(フン)だのン~、だののちょっと鼻にかかった音で気を上げる。会陰も上がる。
タントウ功に取り掛かる前はまずハ~で足裏まで気を落として、それから僅かに心の中(腹の中で)フ~ンを言っているかのようにして丹田に気を溜める。たまにハーを入れて脚に気を通したり。
いずれにしろ、気をどう動かしても(身体をどう動かしても)足裏から生やした根っこを抜いてはいけない。抜けた時は丹田の気も消失している。腕を上に上げた時はなおさら根っこを深く生やさなければならない。
5.太ももの外の側面をしっかり使う。
太もも裏側(ハムストリングス)だけでなく胆経の通る太もも外側も非常に大事。
立ち姿に安定感のない人はそこが使えていないようだ。太腿側面は手でパンパン叩いて刺激すると良い(朝がベスト、寝る前は興奮するからダメ)。太腿側面を膨らますように立つと安定感が増す。この時中臀筋も使うことになる。お尻を締めていてはこの部分が使えない。
6.関節を緩めるということ
・・・時間が遅くなってきたので、この続きは明日か明後日に。
番外編
疑問・目で首を操る? しばらく研究する必要あり。
2014/7/7 <足首以下を「松」する実験、足から動く>
週末は生徒さん達を使って(?)足首から下に意識を置いた練習をしてみた。
最近読んだ内功に関する本の中に、ある太極拳の尊師は更なる境地を求めて3年山にこもり身体の上から下に向けて順番に練習していったが足首で行き止まり、更に5年の年月をかけて足首と足を通した、という逸話が書かれていた。
私はパリで師父と練習していた最初の3年半のタントウ功で丹田から下向きに気を通していったが(下を通せば上はおのずから通る、と言われていた)、帰国した頃はまだ足指には至っていなかったのを覚えている。足指がばらばらに意識できて身体の他の部分との連結を感じられるようになるには更に数年の練習が必要だった。
本の内容と自分の経験とを合わせて考えてみると、足首から下(足)を通すのはかなり難しく、逆に言えば、足首と足が通れば(「松」)すれば、身体の上の部分も「松」しやすいのではないか、とも思える。
私の読んだ内功の本では「松功」として足から緩めることを推奨していたが、果たしてその方法は効果的なのだろうか?と、早速生徒さん達に試してもらった次第。
足は足指と足踵と足掌の3部分からできている(前、後ろ、真ん中)。
本では、「まず足指の13個の関節を緩めなさい」という。13個?…思わず足指の関節の数を数え始める。親指以外は3つずつ関節があるはずだけど、それだと14個になる。でも自分の小指をみれば2つしか関節がないよう。調べてみると日本人の過半数は小指が退化して2つしか関節がないとか。ちょっと悲しくなったが、本には13個と書いているのだからそれで良しとする。
「関節を緩める」には、骨と骨の隙間をちょっと広くするようにすればよい。足の指の関節でそれを感じるのは難しいが、肩や肘ならそれほど難しくない。肘なら上腕と前腕を引き離すように引っ張ればその間に隙間ができ肘関節が緩んだようになる。その”引っ張り合い”を身体中の関節で自作自演するのが太極拳の特徴。だから脚や腕、背骨は全て通常より長~くなる。
足指の関節を緩めると多少指が伸びたようになる。そしてそうなった時にはきっと体重は踵の方に乗っている。
ここで「踵の力を抜きなさい」という。
ということは体重を少し前、足掌と呼ばれる場所の方に移動させるということだ。
そこで一瞬足裏がなくなったような位置が見つかれば、そこが足が「松」した場所だという。
それは5つ星ホテルのふかふかの赤絨毯の上に裸足で立っているような感じ。
地面が硬い板や石ではなく柔らかいクッションのあるようなものに感じられる。ある生徒さんが、バースデーケーキに蝋燭をズボッと刺しているような、そんな感じでしょうか?といっていたが、蝋燭が脚だとすればその末端は地面の中に沈み込んで”杭”をうったようになっているのがまさに「站椿功」(「站」は立つ、「椿」は杭の意)。動いているときも「活椿功」と言われるように杭は保持し続けていなければならない。
と、こんな練習をしながら生徒さんを見ていると、やはり練習を長くしている生徒さんはその感覚を比較的簡単に得られやすいよう。練習して間もない生徒さんはなかなかそうにはならない。結局足がそのような状態になるには、腰、股関節、膝が緩んでいなければならない。足首以下を「松」させることを目標とさせながら、実はその前提となる腰、股関節、膝を緩ませることを気づかせようとしていたのか?
これまでの運動経験などから、”コツ”で一気に足首以下の「松」を達成してしまう人もいるとは思うが、大部分の人はきっと腰から徐々に下に緩めていかなければならないかと現時点では思う。
練習の方法は上から下だの、下から上だの、真ん中から上、下になど、各種組み合わせても良いと思うが、大事なのは下は足裏、それも足裏の下に根っこを生やすこと(つまり杭を打つこと)。これもある生徒さんからの情報だが、マイケルジャクソンは踵に錘をいれて前方45度(以上)に倒れるパフォーマンスをしていたというが、まさに足首やら踵やらに錘をつけているような足が太極足かと思ったりする。
そこまで意識や気が落ちて(つまり脳神経が一気に足首やら足裏に連動して)、初めて『其根在脚』(根っこは足にある)『勁起与脚』(足から力が発生する)が可能になる。
足を地面に捻じりこんで発生させた力が膝、股関節を通り抜け腰に達し、腰で溜めてターボをかけ方向を定め(腰は『主宰』)それから上半身なり必要な場所に力を伝える。
生徒さん達に足首の二つのツボを意識させて回すように言うと、大体、ふくらはぎか膝の力を使って足首を回してしまう。私が膝を手で固定してしまうと、足首自体はそれほど回らなくて皆歯がゆい思いをする。脳から最も遠い場所にある足を手のように動かす練習をするのは神経系統のよい訓練になり、痴呆症予防にも絶対に良いだろう、と余計なことも考えてしまった。
なお膝が足首を動かすこともあるが、突然進みだすような動きは足首の小さな動きが膝から上の動きを発生させる。それはあたかも大木の根っこが地震で震えれば、地上の幹や枝、葉っぱはぐらぐら、ゆさゆさと揺すぶられるようなものだ。枝や葉っぱだけを見ている人には気づかないかもしれないが、その源は地中にある。
太極拳の実践の達人などはほとんど動いていないように見えたりもするが、ただ手だけで処理しているような技も実はその「根」がしっかり地中に埋まっていて、その根の力が手まで達している。足下から手の指先、頭の先までが”通っている”のだ。
視野を広くしようと思えば目を引いたようにしなければならないが、それと同様に、自分の身体の頭の先から足の先までを意識しようとしたら内視する自分もすごく奥に引っ込めなければならない。この状態でいる練習を四六時中やるべきなのだろうと私自身の新たな課題が見つかった。
そんなことを考えているところで、この週末に開かれた武術太極拳の大会の模様がテレビで流れる。これも太極拳?あれも太極拳?
私がやっている太極拳と体操競技のような見栄えの良い太極拳の差は開くばかりのよう。
2014/7/5
先週から気になっているのは足首の二つのツボ、崑崙と太谿(マリリンの足の緑の○が崑崙、赤の○が太谿)。
崑崙は膀胱経のツボで、これまでもタントウ功、動功、架式で足から腰に向けて力を伝える時(逆転)、反対に、腰から足に気を降ろす時(順転)、ともに、要となる場所として意識してきた。生徒さん達には特に『双腿昇降功』の降りる動作の時に崑崙ツボの意識を開発できるよう、昇降の時は手で足を触りながら行うように指示してきた(ツボは触ったり押したりして外から受ける刺激としての感覚を持った後、次第に触らなくても自分の内側からそのツボを意識できるようになる。)
もう一つのツボの太谿はこれまで私自身の意識が幾分薄かった場所。
太谿は内かかとの真後ろの凹んだ部分にあるツボ。これは腎経のツボで足裏の湧泉から上がってきたものがここを通って内腿奥を進み、腎経自体は会陰あたりから身体内部に入り腹部奥を上がっていく。
太極拳では足から力が生まれるという(『其根在脚』『劲起于脚』等の言い方あり。なお中国語の”脚”は日本語の”足”。日本語の”脚”は中国語の”腿”)。
そして足から力を発生させるためには地面を『钻』(ドリルのように足を地面に捻じり込むこと)が必要となる。ただ上から下に踏みつけるのではなく、踵が地面を踏んで離れる、その瞬間にちょっとした足(踵、くるぶし)の外旋あるいは内旋がある。その”ちょっとした”動きが「太谿→崑崙(内旋:逆纏)」、あるいは「崑崙→太谿(外旋:順纏)」で行われる。
注意しなければならないのは、この時二つのツボをつなぐ経路はくるぶしの後ろ側をぐるっと回るようにすること。太谿と崑崙を直線でつないで(踵を串刺しにするかのように)動いてしまっては足首が倒れ足裏で地面を蹴りこむことができない。
このように二つのツボを行き来を意識して動くと足から根っこが生えたような地に足がついた安定感がある。
片足立ち(単腿)の苦手な人を見ていると、軸足の太谿のツボがしっかり意識できていないまま片足になってしまう傾向があるのが分かる。バレエダンサーはピルエット等の片足立ちを行う前に軸足の足先をかなり外に向けるが、これも太谿のツボをしっかり出して会陰につながる内腿のラインを使って立つ準備をしているのだと思う。
崑崙や太谿のツボは頭から最も離れた場所にあるので、”そこ”から動き出す、というのはしばし練習しないとできないようだ。そこから動いているようで、よく見てみると膝から動いていたり、太ももから動いていたりする。崑崙と太谿のツボを意識して踵を地面に捻じり込む動作がうまくできれば、身体は上下にはねることなく水平移動することができる。
小中学校の体力測定でやらされた「反復横跳び」もこれを使えばかなり良い記録がでるだろうなぁ~、としばし反復横跳びを練習してしまった。
さて、この二つのツボが腰に向けてどのようなラインを描くのか、私自身の感覚を線で示してみた。
身体を膨らました状態(ポンの状態)で崑崙のツボを使うとそれは膀胱経から胆経をまたぐような範囲に力が伝わってくる。一方太谿のツボは本来は腎経で腰に出てくるものではないのだが、少し意識すれば背骨の両脇のライン(膀胱系の一列目)に出てくるような気もする。
水色の四角で囲んだ部分には比較的多くのツボがあって”絶対にこことつながる”とは言えないが、現時点では崑崙から上がってきたライン(緑のライン)は腰眼というツボあたり、太谿から上がってきた線(赤のライン)は腰骨と脊柱起立筋が交わるあたり(大腸愈あたり?)に届くような感じがする。
なお、腰椎3番、4番と肩甲骨を結んだラインを意識して(黄緑のライン)、常に肩甲骨を腰椎で下に引っ張ったようにしておくと肩も上がらず(沈肩)「抜背」も意識できる。
まだばらばらの気づきで統一感がないが、とりあえず今日はここまで。
マリリンの脚を改めて見ていたらその脚に対する意識の高さが感じられ、セクシーな中にも上品さと可愛らしさがあったのだなぁ、と久しぶりに感動した。現代の女優さんにはなかなかない質かもしれない。足の先まで意識的・・・う~ん、(女性として?)学ばねばならない!
以下目の保養のための番外編。
(膝の裏の伸びがとてもきれい。日本人女性は膝裏がなかなか伸びない。)