2014/10/26 <改拳難、内動外不動、行気、運気、無我>
パリから戻ってすぐにクラスを再開。
生徒さん達を教えがら今回バリで学んだことを定着させようと図っていたりする。
が、私が今になってやっと得られた感覚を、練習期間の短い生徒さん達にどのように伝えればよいのか?伝わるかどうかも怪しいが、もし伝わったとしても、その生徒さんの練習段階にはそぐわない話になってしまい、余計なことを知ったがために却ってその後の練習に支障をきたすこともあり得る。
知識がいっぱいで頭でっかちの生徒さんの進歩は、往々にして何も知らない無知の生徒さんの進歩よりも遅かったりする。『学拳容易、改拳難』(拳を学ぶのは簡単だが、拳(の流派)を変えるのは困難だ)というのはそのようなことを指しているのだろう。
と言ってもいろいろ喋ってしまうのが私の癖。
が、生徒さんのその時の練習に全く関係ないことや、知ったがために却って混乱してしまうようなことはないよう極力注意しているつもり。
最近は、練習して1年以上経った生徒さん達の中には身体の内部の感覚が得られ出している人もいる。そのような段階の生徒さんには更に丹田の力を大きくさせるよう、初心者の生徒さんとはまた違った注意、練習方法が必要になってくる。練習方法はずっと一緒ではあり得ない。「一年前の練習と今の練習が同じだったら、それは即ち後退しているということだ。」と言われたことがあるが、毎日練習していれば、3か月も立てばまた新たな感覚があり、それに従って練習を変えていったりする。この変え時、変え方、についてはやはり師父(先生)の的確な指導が肝要になる。教える立場になった今、私自身がその役目をちゃんと果たせるよう、一人一人の生徒さんの進歩の度合いをいつもチェックしていなければならない。
今日の練習では、初めて屋外で練習した朝クラスの二人の生徒さんの進歩が目についた。
これまでスタジオ内でしか練習していなかったから私が見落としていたのか、屋外の練習で本人達の身体の感覚が変わったのか、表面的な原因はともあれ、二人とも毎週欠かさず1年半以上クラスに出て練習を続けていた。丹田という言葉は、往々にして固定された一点を指すように使われているが、この二人の生徒さんはその丹田がもっと大きな膨らみをもって腹の中を回るような感覚が少し生まれてきているようだった。腹全体がうっすらとした丹田のような感じに見えた。
この段階になると、動功や套路を練習するときに多少動作を小さくして腹の中の感覚に意識を集中させることが大事だ。ここにきて今までと同じように大きく動かしていると、次第に丹田が散っていって、終いには実体的な丹田がないまま、意識だけで身体をうねらせるようなことになってしまう(意→気→力の”気”が抜けた状態)。これは多くの人が陥る落とし穴。
少し丹田の感覚が出てきたからといって身体に回してしまっては丹田に集まった気はすぐに散逸してしまう。そうさせないよう、腹の中で気が動いても身体の外枠をあまり動かさないようにして腹の中の気を凝縮させる。
”外を止めると中が動く。外を動かすと中の動きが少なくなる。”
内気を増加させるには身体を止める(これがタントウ功の原理)。身体を動かすと内気は身体の末端に向かって循環する。
これを身近な例で言うと、例えばとても面白いことがあって笑いたい時、その場でハハハッと笑ってしまえばそこで終わる。が、もし笑ってはいけない状況で笑いたい時にそれを堪えていると、中から笑いがこみ上げてきて、それをかみ殺したと思ったら、また内側から笑いがこみ上げてきて・・・と、笑いが上がってきたら下げ、上がってきたら下げ、かなり腹や胸が苦しくなってきたりする。堪えるとそれが増大する、発散すればすっきりなくなる、そんな感じだろうか?
気の場合は意識的に丹田に溜めるから、ムズムズして湧き上がってきたら意識的に下に押し込む、上がって来たら、押し込む、の繰り返しをして、マグマを増大させていく(ちょっと大げさ?)ということになる。
つまり、丹田に気を溜め続けるにあたっては油断は禁物。丹田が気で充満して自ずから溢れ出るまで、誘惑に負けず溜めつづけなければならない。
そして実はこれは、冯志强老師がいつも強調していた『行気』につながる。
「『運気』ではなく『行気』だ」という老師の言葉は、この混元太極拳の核心的な部分だ。
「気を運んではいけない、気を行かせるのだ」、それは非常に根本的な人生哲学が表明されている。
『運気(気を運ぶ)』というのは、”私が”気を運ぶ、ということ。
『行気(気を行かせる)』というのは、気が自然に流れるよう、私はただただ邪魔にならないよう、道を開けておくだけ。”私”は後ろに隠れている。「無我」の状態。
パリの滞在中に師父と様々な太極拳の動画を見たが、『行気』を行っている老師は中国でもあまり多くはない。内気で動いていたとしても『運気』の状態だったり、多くの人は内気さえもない筋肉と骨の運動の太極拳(これを師父は”体操”と呼んでいた)に過ぎなかった。
冯志强老師が何故”混元太極拳”を作り上げたのか、その実質的な後継者である陳項老師がテレビインタビューで、「陳式太極拳ではなく、陳式心意混元太極拳です。」と強調したのは何故か、師父が動画を見ながら、「これは我々の太極拳」、「これは我々のではない」と何故区別するのか、そのあたりの理由が私にもはっきりしてきた。
同じ太極拳でも目指しているものが違う、ということだ。
「無我」の境地に向かう一つの方法としてのこの太極拳の練習がある。ここに同じ思いで集まる練功家達がいる。
気を育てて実体化させる。そして、私はその”気”によって身体が動くのを眺める傍観者になる、そんなとこ。ろから「無我」を少しずつ味わっていけるのではないかと思う。
・・・壮大な目標に向かう小道を少しずつ歩む。仲間が入ればより楽しい。そんな気持ちで教えている。
2014/10/17 <パリの練習、箇条書きメモ>
今日の練習で新たに知ったこと。箇条書き。書き出して頭を軽くしてから寝ます。
・肘 左右の少海のポン勁(内から外向き)
・労宮どうしの合、そして臍と合させる
・松腕(手首)は内関、垂指は労宮を使う
・手と足の合、肘と膝の合(少海と委陽、尺沢と陰谷、のような感じだが、これは明日確認)、肩とクワの合、・・・この”合”の感覚。”合”の感覚がああこれだったのか、とやっとはっきりした。
・手と手の合・・・陳項先生が言っていたその意味もやっと判明
陳項先生は、上下の合、左右の合、手と手の合、と三合を説明していたが、これがあって初めて全身一つ(周身一家)になる。右手と左手、足と手はいつも連動、連結(遥相呼応)。だから防御ど同時に攻撃が可能。腰が中心。
・指の使い方。親指と小指。小指が領する(導く)チャンスー(順転)→心経が通る、脇まで感覚がなければならない。親指からのチャンスー(逆転)。雲手の時も忘れずに。指から脇までちゃんと通ってこその「手」。手首、肘、で止まっていないか確認。
・気を丹田に沈めるためには、右重心の時は左のクワ、左重心の時は右クワと緩める(脚をポンさせて股間を円く作らなければならない。馬に乗っている時のような股間。)
・手はもう少し遅く、脚はもう少し速く、との注意。(この含意は見かけよりもかなり深く非常に重要なことを示唆しているように思うのだが、聞いても師父はそれ以上説明してくれないので、自分で探らなければならない)
・足の外側を使った時も親指は浮かないよう注意。(ここもその違いを身体でちゃんと分かるよう、明日確かめる必要あり)
・技・・・「十字手は万能手」、
・相手が打ち込んで来たらそれを防ぎつつ(化)相手の力が届くよりも速く相手に打撃を加える→なぜそれが可能か?→「松」ができているから。速さは松から来る。力んでは速く動けない。反応も遅い。
・・・まだあったかもしれない。けど、これで寝れそうなのでもう寝ます。
2014/10/17 <ベルシー公園での練習風景>
昨日のベルシー公園の練習風景。
初めて会う生徒さん達がいた。奥の方で一人で練習しているのが私のパリ滞在時代から一緒に練習していたドミニク。彼はグラフィックデザイナーで身体はあまり強くなかったが10年近く練習して今では当初とは比較できないくらいの自信がみなぎっていた。
指圧も勉強し、週に1、2回、ボランティアで精神的問題のある子供や10代の若者に病院で指圧をしているらしい。フランスではマッサージが心身症に効果があると認められてきているよう。マッサージは中高年の硬い身体をほぐすもの、という私の感覚は古いよう。
私は師父の指摘で初めて「墜肘」の意義を発見。ああ、肘が大事だったのね~、と目から鱗。「墜肘」で「沈肩」や「松腕」が導ける!タントウ功の時の腕の形を変えている。また生徒さんに報告しなきゃ(もう少し自分自身ではっきりさせてきます)。
2014/10/16 <パリ到着>
昨夜パリに到着。
今朝7時、外はまだ真っ暗。8時になってやっと明るくなってくる。
今日は太極棒を持ってベルシー公園に向かう予定。
天気は良さそう。今回の滞在で何が学べるか、とても楽しみ。
2014/10/9 <今日の生徒さんの報告、恒心、純粋な心>
今日の練習は練習期間が1年以上の生徒さんが8人ほど集まった。
最初30分ほどタントウ功をしたが、広々とした会場で気持ちが良かったのか、集まった生徒さん達で作り出す気場が良かったのか、はたまた機が熟していたのか、半数くらいの生徒さんに丹田に気が溜まる明らかな感覚が得られたようだった。
うち一人の生徒さんはその初めての感覚にえらく感動したようで、これなら今後家でも練習を続けられそうです、とのコメントを送ってくれた。
あれ?これまでは家で練習していなかったの?、という疑問も無きにしも非ずだが、何にも感覚が生まれないまま1年以上毎週練習に通い続けたというだけでも快挙!。効果が感じられるからこそ意欲が高まる、その通り!、と思う。
何をやってもそうだが、進歩や効果が見えない時に努力を続けるのには忍耐力がいる。こんな時に同じ道を辿った先輩(先生)や、同じ道を進んでいる仲間がいるのは心の支えになる。
といっても、個人的には「忍耐」という言葉は”がまん”といった暗くネガティヴな響きがあるように感じるからあまり好きではない。(小学校の書道の時間に「忍耐」という字を書かなくてはならない時にそれを拒否したことがあった。私の辞書に「忍耐」はありません、とか先生に言ったような・・・嫌味な子供でした。) 努力を続けられるのは「信じる力」というのが正しいと思う。では何で信じられるのか?そこに尊敬する先生がいて、先輩がいて、仲間がいて、そしてもう死んでしまっている昔の先駆者もいる。そんなところに信じる力が生まれ、これが「恒心」(変わらない心)となり、次第に「不動心」も培われるのだろう。浮気やつまみ食いをしていては道は究められない(と師父によく戒められる)。
今日初めて腹の中に気の溜まる感覚が出た生徒さんは1年以上もの間、”信じて”練習に来続けていたのだろう。本人も何を期待しているのか、何を信じているのか、はっきりとは分かっていないのだが、何かがある、という思いで通っていたようだ。
実際私にも”何”があるのか、の全体像はまったく見えないが、その部分部分を目撃しながら進んできている。丹田に気が溜まる感覚、というのもその一つ。ここからさらに身体の面白い現象を体験することになっていく。
今日の練習に来た生徒さんの大部分がとてもいい感じで静かに立っていた。
待ちの態勢。すると次第に呼吸が深くなり肚に気が溜まっていく。寝るのと同じでとても自然な過程。
一方生徒さんの中には、どうにかして肚に気を溜めようと、腹圧をかけたり腹をよじってみたり、腹の中をああでもない、こうでもない、と動かしている人もいた。この手の画策をするのは、往々にして身体について様々な知識がある人で、腹横筋がなんだとか、腹斜筋がなんだとか、頭が空っぽになることはない。
胡燿貞先生の本の中に、気功治療の効果が高いのは心の純粋な若者、というような文章があったように思うが、結果や効果を求める心は”がめつさ”を生み、その心が身体の本来の営みを妨げてしまう。身体の自然治癒力を最大限に発揮させるには心が介入してはならない。最高のパフォーマンスをするには無心になれ、というのもよく聞く言葉。胡燿貞先生の言う”純粋な心”というのは、ただ物事を”通してあげる”、そんな中空の竹のような心だろう。
結果や効果にこだわりすぎずに淡々と努力を積んでいくうちに、ある時思いがけず進歩が見えたりする。
今日初めて腹の感覚がでた生徒さんは自分なりのその要因を探っていたが、私から見れば、それは彼女の1年以上の練習の継続で機が熟していたところに、今日の体調や環境、時間などの要因が重なって起こったのだと思う。
次回の練習でまた同じような体験ができるとは限らないが、続けているうちに、そうなる確率が高まってくる。すると身体がコツのようなものを覚えてくれる。
タントウ功は寝付くのととても似ている。
考え事をしていたり、身体の筋肉を動かしたりしていてはとても寝られない。
腹式呼吸は寝に行けば勝手に起こるもので、自分で腹を出したり引っ込めたりしてやるものではない。タントウ功は芸当ではないので、安静、安心、気持ち良い、そんな自己満足がとても大事だと思う。
2014/10/8 <生徒さんからの練習報告>
私の生徒さんの中には黙々と練習を続けている人がいて、気が付くと随分進歩していたりする。
そういう人は普段あまり質問もしないしおしゃべりもしないのだが、あれ~、っと思って尋ねてみると毎日ちゃんと立っている。
最近は練習を始めて1年半近くになった生徒さんの中に明らかな進歩が見られる。逆にいうと、この練習の成果が現れるには1年以上の継続が必要なのかもしれない。
そのうちの一人の生徒さんが先日のレッスンの後で私に報告メールをくれた。
もともと腰の彎曲が少なくそのためにぎっくり腰をしたりしていたが、自分なりによく考えて練習をした結果、かなり腰に自信が持てるようになったようだ。そして腰に弾力が出たことから腰から足裏にかけての感覚が一気にレベルアップしたとの嬉しい報告。
彼の考察は私の勉強になるが、きっとその他の練習仲間にも参考になる部分があるはず。
そう思って以下、メールを整理したものを載せます。
「仲間のページに直接書き込もうとしたのですが、考えた末、先生にメールすることにしました。
今日の練習で、膝の後ろに引っ掛けておく、という説明についてです。1年以上練習に参加していると、もう4、5回は説明を受けていることですが、なかなかできないなと思っていました。
家に帰ってから、ちょっと閃いて試してみたらよさそうなので、聞いてください。」
1.”膝の後ろに引っ掛けておく”=脚の背面(ハムストリングス)で立つ
という指摘からの試行錯誤。
→これまでは後ろで立とうとすると上半身が前傾、or、お尻が後ろに突き出てしまう
→最近”脚の弓”の感覚がでてきたので、脚の弓の弾力を頼りに、弓を潰すように体重をかけ
てみたらどうか?と閃く
→ふくらはぎとももの裏に張りがでる(脚の背面を使っている実感)
しかも、
→下クワ(股間)が開き、足からお尻を通してもう片方の足へ繋がり(つまり圆裆 )、そこに
座る感覚がでる(坐胯 )
2.そのまま套路を行った時の新しい感覚
→地面が押せて、地面が押し返してくるのを感じる。
しかも
→地面を押すとは足裏だけでなく、脚の背面、お尻を通る大きな弧全体で押せると実感
3.”足の弓の弧を潰すように体重をかける”、という表現についての考察
→スキー板は板の真ん中が上に膨らむように反っていて、それを上から潰すように乗って滑る
弧を潰すというのはそのような感覚
弧を広げるという感覚から、下方にバネを押し潰すような感覚に転換させた
さらに考察
→弧を潰すという二次元ではなく、足の纏糸がか かって下胯が張り出す三次元の動きではないか?
外旋している足に下胯の内旋がかかった纏糸の状態で立っている感覚。
広い架式からどんどん狭めていって、三戦立ちの歩幅になると、纏糸がさらに強まるのを実感。
4.套路を練習して一番変わったことは、
→放鬆した時とそうでない時の差が はっきりと分かるようになった。
→尻で呼吸することが明確化、内胯で立つことや、安定した片足立ちへ取っ掛かりが掴めた。
4.どうして今までできなかったか?の検証
→外旋した足に塌腰した状態だけで座ると、外旋に外旋なので腰が前に突き出るだけになってしまう。
→腹に溜まっていない状態で、命門を張って体重を後ろにかけると、尻が後ろに突き出るだけになってしまう(また、命門を張らないと腰が反って尻がプリンと上を向くだけになってしまう)。
5.うまくいった時の身体の状態
→足を外旋して塌腰した状態で、命門の張りを保ちつつ、丹田を下に押し付ける(股間に胴体ををめり込 ませて左右に割るようにする)と下胯が内旋して張りがでて座ることができる。
→このように腰に座れるようになるためには、①腹が感じられるようになって、②塌腰ができて、③下胯が動 く程度まで腰が柔らかくなる必要あり。
6.今回の体験を通しての感想
「どれも先生のブログに既に書かれていることで、特効薬はないのだなという感想です。
しかし、足の弧の弾力を頼りに何とか座ってやろう という閃きを取っ掛かりにして分かったことですので、太極拳の練習を進めて行くには人それぞれがブレイクスルー(先生のブログにある悟性に当たると思います)していかなくてはいけないのだと改めて感じました。
そのためには、先生との練習で先生の動作を正確に見て自分との違いを認識して、どうやったら先生の動きに近づけるかという視点を常にもって練習を続けることが必要であると考えています。
そういえば、私が中国武術に興味を持つ切っ掛けになった漫画に「黙念師容」という表現があったのを思い出しました。師を良く見て真似る、これに尽きると思っています。」
以上。
コメントできれば後日コメントします。
2014/10/7 <私にとってのタントウ功>
タントウ功で身体の感覚を得て意識を開発していく過程は、そのまま太極拳を深めていく過程にもなっている。架式(型)や推手などの対練ももちろん大事だが、それは応用練習のような色合いも濃く、基本的、総合的な身体感覚、身体意識を育てるにはタントウ功が非常に効果的だと私は思っている。そして何と言っても、一人静かに自分の内側を見つめる時間をとるというのは、普段頭を使いすぎて混乱している私達現代人には最も必要なことだ。
思えば、15年程前、武術気功をある著名な先生に習っていた頃の私の最大の問題点は頭の動きが止まらないことだった。普段でも何かしら考えている。いつも考えている。寝ているとき以外は頭の中でおしゃべりをし続けているかのようだった。ある時、その先生に尋ねた。「どうしたら頭が止まりますか?」、すると先生は一言、「止めて下さい。」、そう言った。
その先生は厳しい修行をしてきただけあって、転換がものすごく早かった。考えない、と決めれば考えない。やると言えばやる。食べないと決めれば食べない。飲むと決めれば飲む。動かないと決めれば動かない。それは見事だった。(今は分かるが、これはある一定の境地に達した人の特質だ。)
が、その先生の下ではどうやって頭を止めるのか結局分からないまま、ほどなくフランスに行くことになった。
そしてフランスで今の師父の下で練習し、気が付けば以前のように勝手気ままに頭の中でおしゃべりすることがなくなっていた。考えない時は考えない、頭の”空”のすがすがしさが少しながら味わえるようになっていた。
人が健康を害すのはいわゆる”ストレス”と言われることが多い。
もし考えたい時にだけ考え、考えても仕方がない時には考えない、という、頭のスイッチのオンオフが完璧にできればストレスとは無縁だろう。たとえ死刑宣告をされたとしても死刑執行のその瞬間までそのことを考えずにいられたら・・・それはまさに超、超人だろうが、理論的にはストレスレスなのだ。
人には心があるから複雑。無心になれ、というのは無感覚、無意識になれ、といっているのではなく、余計な思索なしにそのまま(今、ここ)を意識で照らせ、ということなのだろう。
話を戻すと、私にとってのタントウ功にはそんな意味合いがある。
道はまだまだ続く~。
2014/10/2
先日ある人が『ゆる体操』の高岡英夫さんの著書を読んでいるのを見てまた読みたくなる。
十数年前だろうか、ゆる体操が流行った時に数冊本を読んだことがあった。その時は頭で理屈は分かったような気はしたが、実際に実践もせず、「なるほど。」という程度の理解で終わっていた。
2,3日前に古本で数冊取り寄せ読んだみた。私がやっていること、考えていることを、もっと学術的、理論的に書いている。さすが学者、私にはそこまで理論的には説明できないなぁ、と思う。
が、書いてあることはほとんど体感できるから、一冊の本を読むのにそれほど時間がかからない。
理論面が一番しっかりしている本を最初に読んでしまえば、その後の本は斜め読みでも事足りる。
センター(体軸)や丹田から始まって、高岡氏特有の呼び名で大事な身体意識を表している。
「運動科学」の研究から始まり、関心がますます意識やこころなど目に見えないところに向いていっているような感がある(ここ数年はますますスピリチュアル化している、という見方もあり)。
高岡氏の本を読んで相似点の多さに驚きながらも、改めて自分の立ち位置を問い直してみた。
立ち位置の相違点は以下のようなものかしら?
太極拳の練習には運動の側面の根底に養生の観点がある。養生とは修身養性、心身を養って健康に保つ修行とも言え、その毎日の修行の上に運動が成り立つ。
また、太極拳の場合は練習を積めば積むほど、大事なものはただ一つ、に集約されていく。学べば学ぶほど拡散していくのではなく、取り込む範囲は広くなりながらも、その中心点がますますはっきりしてくる。つまり中心に向かう練習。
その中心には、身体なら丹田(へそ奥)、そしてその先には『自然』『無為』がある。
『自然』が常に指標になる(ならどんなに極めても決して自己顕示欲は強くならないはず)。
とりあえず今日はこれだけ。