2014/11/26
<坐如鐘、立如松、行如風、臥如弓>
引き続き養生法の話。
結局、私のやっているこの練習は24時間養生法を実践する、ということのよう。
『坐立行臥不離練功』というのがそれを表している。
中国には『俗語』(民間に伝わる言葉)の中に養生法を示すものも非常に多い。そして上の”坐る”、”立つ”、”歩く”、”寝る”に関しては次のような言葉がある。
『坐如鐘、立如松、行如風、臥如弓』
鐘のように(どっしり)坐り、松のように(真っ直ぐ)立ち(※中国の松は真っ直ぐだとのこと)、風のように(颯爽と)歩き、弓のように(丸くなって)寝る。
坐ることは”養神”(精神を養う、落ち着かせる)、立つことは”養骨”(骨を鍛える)、寝ることは”養気”(気を養う、エネルギーを補充する)という説明もある。
どのように坐り、立ち、歩くか、これはタントウ功の姿勢を出発点に練習でも教えているところ。
どのように寝るか、即ち、弓のように寝る、については室内練習で説明したこともあったが、うちの子猫のお手本的な寝姿を写真に撮ったのでそちらを参照して頂きたいと思う。
もちろん、ここまでやるのは行き過ぎです(”弓”が”円”になってしまっています)・・・。
204/11/23 <乾隆帝の養生法② 十常四勿について>
昨日のメモの続き
”十常”について
①齿常叩
上と下の歯をカチカチ噛み合わせる
→固精(腎精→骨→歯 の関係)、唾液を出す
②津常咽、
唾液を飲み込む
→胃酸を中和し胃の粘膜を守る、唾液は黄金のネクター(?)
③耳常弹、
耳を弾いたり揉んだり摩ったりする
④鼻常揉
鼻の両側を鼻筋に沿って上から下へ揉む
⑤睛常运
眼をよく回す
⑥面常搓
顔を擦る
⑦足常摩
足裏を摩擦する、湧泉を揉む
⑧腹常旋
腹を時計回り、反時計回りに擦って揉む
⑨肢常伸
脚をよく伸ばす
⑩肛常提
肛門を引き上げる
”四勿”とは
①食勿言
食べながら喋らない
②卧勿语
床に入ったら話さない
③饮勿酔
飲んでも酔わない
④色勿迷
色に迷わない
・・・食べながら喋らないというのが養生法だったとは!
食事しながら商談、なんてもっての外、ということのよう。
そういえば私の子供の頃は食事の時はしゃべってはいけなかった。無言の食事時間。
今でも会話しながらの食事は苦手。気が付くとおしゃべりに没頭してほとんど食べてない時もある。
と、実は、吉野家であれフレンチレストランであれ、一人で食事するのが好きな私にはホッとするお言葉でした。
2014/11/22 <乾隆帝の養生法 その①>
話題が養生法になったこともあり、生徒さんの一人が中国の清朝第6代皇帝、乾隆亭の養生法について調べて掲示板に書き込みをしてくれた。
せっかくなので、メモにも取り上げてみたい。
乾隆帝(1711年~1799年)。25歳で即位し60年間在位した。中国史上最も長生きした皇帝と言われている。
乾隆帝の経験に基づいた養生法は以下の四訣としてまとめられている。
①吐納肺腑、②活動筋骨、③十常四勿、④适时进补
このうちの③の”十常四勿”は三文字ずつでまとめられていて、声に出して読むとそのリズム感がなんとも言えない(そういえば『弟子規』も三文字ずつで、意味は分からなくともその朗読を聞くのはとても気持ち良かった)。
唐詩や宋詞でもそうだが、太極拳の経典においても、決まった字数とリズムからなる口訣して耳や口で覚える(そして伝える)という方法がある。日本人は昔から文面(読み書き)で覚えるというのが主流のようだが、眼だけに頼らずに身体の他の部分を使って覚えるというのもとても大事なことだろうと思う。
以下”十常四勿”の説明。
”十常”とは
齿常叩、津常咽、耳常弹、鼻常揉、睛常运、面常搓、足常摩、腹常旋、肢常伸、肛常提
”四勿”とは 食勿言、卧勿语、饮勿醉、色勿迷。
十常の各々の要領についての簡単な説明など、この続きは明日書く予定。
とりあえず今日は途中まで。
2014/11/19 <老いと養生>
少し前、若い男性の生徒さんがクラスにヌンチャクを持ってきてくれた。「先生、やってみますか?」と言われたが、何故か試す気にもならず、「どうぞ、△△君、習ったことを応用して自分で練習して下さい。」と、せっかくヌンチャクを持参してくれた生徒さんに多少失礼な応対をしてしまった。
帰り道、私と年齢の近い他の女性生徒さんと談笑しながら、彼に一言。
「この歳になると、武術の技よりも養生第一になるのよね~。」
今日の夜クラスには若いOLさんがいる。服装が若い(脚の露出度が高くヒール靴を履いている)。
帰り道、私と同年代の女性は彼女らを後ろから見て一言。
「先生、当然、私達は気を漏らさないことを第一に考えた服装ですね。」
太極拳は生命エネルギーが頂点に達して下降線を辿りはじめた頃から習い始めるのがよくあるケースだ。
20代の元気いっぱいで身体のどこにも問題がない頃はなかなか身体の内部の感覚をとるのが難しい。静かにじっとしていること自体がその年代にはあまり適していない。ありあまるエネルギーは外へ発散したがっている。心身ともに多少”枯れ気味”の若者でない限り、太極拳には興味が湧かないのが自然かもしれない(といっても最近はアクロバティックな太極拳もあるようだけど)。
男性なら35歳前後、女性なら出産後等、体力の衰えを感じ始めた頃がよくある太極拳の始め時。
内気を溜めて内気で経絡を通しツボを開くつもりなら、まだ精力の残っている頃に練習を始める必要がある。年齢が低ければ低いほど内気を溜めるために要する時間は短く、年齢が高くなればなるほど時間を要するようになる。
とは言っても、太極拳を練習する人の中で所謂”達人”の域を目指す人はそういない。普通は内気を溜めて循環させることにより、現時点よりも身体の状態を良くすること、もしくは現状維持をすることを目標とする。
人間はみな平等に歳をとり、どんな元気な人でもいずれは老いていく。そしてこの練習はその老いを正面から見つめ続ける格好の機会となる。
老いのせいでどうしようもないこともある一方、地道に取り組めば以前よりも状態が改善することもある。歳だから、と簡単にはすまされない身体の奥底に眠る力が発現した時、身体に対する敬虔な気持ちが芽生えたりする。
この練習は自分の身体や心との対話でもあるから、どれだけ続けても飽きることはない。
どれだけやっても終点はなく、まさに死ぬまで続けられてしまう。
私自身の人生の最大かつ最後の目標は、死ぬ時に意識を失わずに自分の死を見守ること。そして、静功で自分の内側の核心に到達してじっと見守っているようなことは、そのための準備練習のように思う。まずは眠っている間に意識を保つことができなければ死ぬ時云々の話はできないが、これまで数度、自分の奥底で豆電球のような意識が点灯したまま眠っていることがあったりした。自分が自分から乖離しているような不思議な感覚、
・・・・話が逸れてしまったが、老いとともに養生という自分との対話の機会が生まれる。
どんな機会も積極的に利用したいもの。
2014/11/15 <感覚での理解>
今日は腹の中から手のひらを出さないように動く練習をした。
腹の中から手のひらを出さない?なんてかなり怪しそうな表現でやってみたが、意外なことに生徒さんがその要領をすぐに会得したのにはびっくり。
この位置なら手がまだ腹の中、この位置にいけば腹から出てしまう・・・・人にはそんな共通した感覚がある。
理論的な頭での理解ではなく、感覚での理解ができる、というのがこの練習の鍵。
感覚の共有は理性的な理解の共有と比べ物にならないくらい深みがある。
私達が言葉を使って理解し合おうという努力も、実はその底にある感覚の共有を求めているのだろう。
2014/11/13 <会陰や肛門を引き上げたまましゃがんでいく練習>
思い出しながらのメモ。
昨日のクラス。
午前中は赤ちゃん連れのママクラス。
出産直後のママたちの課題は緩んでしまった膣を引き締め、かつ引き上げること。
フランスでは出産後の女性は病院でそのような研修を受けることになっていると聞いたことがあるが、日本では出産後にそのような大っぴらな研修を受ける機会がない。何か緩んだ気がするがどこがどうなっているのか分からないまま忙しく過ごしているうちに、尿漏れをしたり内臓が下がってきたりしてしまう女性も少なくはない。
巷では肛門を締めることによって膣を締めるという要領を教えることが多いようだが、問題は決して肛門などの表面の”点”だけにあるわけではなく、そこを発して体内に入り込むライン、即ち、大腸(直腸?)だったり膣という空間をとりまく部分をいかに引き上げておくか、というところにある。
そして実は、これはとりもなおさず、太極拳でいう『提肛』や『提会陰』という要領。
ここで、”提”という漢字が使われていることに注意が必要。”提”は”引っ張り上げる”という意味だ。決して”締める”とか”閉める”という意味ではない。
今日のクラスでもある鍼灸師の生徒さんが、「肛門は締めるんですよね。」と聞いてきたが、「じゃあ、ギュッと肛門を締めて、走ってみて。」とやらせてみたところ、「ああ、走れません。」と納得したようだった。
先生によっては、”下痢(便)を我慢するような感じ”と教えるひともいるようだが、もし、肛門を締めたら走ることはままならなくなる(そう言えば中学時代、初めて下剤を飲んでその翌日に町の駅伝大会に出たことがあったが、下剤の効果が走っている最中で現れ顔は蒼白、足は空回り、という切羽詰まった状態に陥ったことがある・・・)。
逆に、肛門を引き上げるようにすると脚は軽くなり早く走れるようになる。引き上げる時には少し引き締めている感覚もあるから、肛門を締めるというのも全く間違いではないのかもしれないが、そのあたりの微妙な違いを理解しておかないと、道を誤ったまま運転を続け、気が付けば目的地とは全く違う場所(行き止まり)に着いていた、ということになりかねない。
ということで、昨日のママクラスでは机に捕まって、会陰(膣)を引き上げたまま徐々にしゃがんでいく練習をしてみた。膣がどの地点で下がってしまうのかを一人ずつ指摘して、本人に引き上がっている時と落ちてしまっている時の違いを身体で感じられるようにする。
目標は日常生活でも引き上げてられるよう、常々思いだして各自姿勢を調整できるようにすることだ。
昨日の夜は通常クラス。
ここでも同じように徐々にしゃがんでいく練習をしながら、それをタントウ功につなげていく。
机につかまりながらのタントウ功。会陰が下がる時点=腰が開かなくなる時点、だ。命門(腰椎2,3番)から初めて、4番、5番、そして仙骨、尾骨、と左右に開いて行かなければならないが、関門は仙骨、尾骨。三角形に固まってしまったような仙骨や形骸化した尾骨を少しでも動かせないと会陰を引き上げたまましゃがんでいくことはできない。
会陰が上がっていれば太ももの前側や膝に力はかからないが、腰が開かなくなった時点から骨盤が後傾ししゃがむと膝に体重がかかるようになってしまう。
このあたりの練習はバレエのプリエや相撲の四股とかなり相似する。
身体の背面、脚、腕、すべてを総動員するための基本となるのが会陰を引き上げた状態で立ったりしゃがんだりすることなのだと思う。
昨夜のレッスン、今日のレッスンでは、一部の生徒さんに腕の内関のツボを意識した心包経を使った動き、腋の極泉のツボ(心経)の使い方、などを教えてみた。
腋、肘、手首、指先、・・・このあたりはまだまだ開発できそう。
以前あまり良く分からなかった、缠丝(チャンスー)と抽丝(チョウスー)の違い、 缠(チャン)と 绕(ラオ)の違い、がやっと分かってきたところ。
「やればやるほど、できないことが増える~。」とある生徒さんと冗談を言ったりしていたが、なんだかそれも楽しい(少なくとも私は)。
下はダメ押し。玉三郎さんのトレーニング(かなり昔の映像ですが)。
5分あたりにタントウ功、それからしゃがみ込む、という練習がある。
やっていること、原理はほとんど同じ・・・・。
2014/11/9 <丹田、腹の内剛外柔、外柔内剛>
私の現時点の理解では、”腹の『内剛外柔』『外柔内剛』”が丹田に気が溜まった時の腹の状態を示す最適な言葉のように思われる。腹がただ膨らんでいたり(全て『柔』)、反対に、腹が外も内も引き締まっていたり(全て『剛』)、という状態では丹田は存在しない。
このような丹田が存在しない状態でずっとタントウ功をしていてはいつか身体に支障を及ぼすことにもなりかねない。
具体的に言えば、腹にただ腹圧をかけて腹を膨らました状態だと、痔にもなりかねない。
「腹を膨らまして腹式呼吸にすればですよね。」と、腹芸ができるかと思うほど腹を膨らませたりする人もいる。が、腹横筋やら腹斜筋やらをやたら外に張り出すように腹圧をかけて、さらに下に、と肛門まで押し下げるようにしてしまうのは痔になるような身体の使い方だ。
中国の太極拳サイトの中で、太極拳をやると痔になる、という投稿があったが、これはそのように間違った腹圧のかけ方をして練習し続けた場合の帰結。
排便は排尿よりも短時間でやるように、と私は師父から言われたことがある。言われた時は意味がはっきり分からなかったが、それは肛門に圧力のかかる時間を極力短くするため。長い間踏ん張っていてはいけない。直前までは肛門を引き上げて、ギリギリでさっと肛門を開く。排便も一つの練習の場だと後々知るようになった。
ちなみに、排尿については、つま先立ちで行う練習をするように言われた。これは男性の場合でも同じ要領だが、普段坐って排尿する女性は任脈を下向きに引き伸ばして使うようなことがないので、概して腹に力がなく腹に横線が入っていたりする。つま先立ちをして腹の線を(任脈を)下に引っ張り下ろすように排尿する練習によって、任脈を会陰まで通し、背中側の督脈を上に上げる練習ができる。排尿の際に周天の練習をしているようなものだ。(なお、これらの排便や排尿の要領は師父のオリジナルではなく古くから気功法として伝わっているもの。)
元の話に戻ると、腹を引きあげて引き締まった状態で丹田を作る、というのは太極拳の世界ではあまり聞かないが、ダンスを始め他のスポーツや運動の世界で言われるようだ。私からみると、それは単に腹を固めただけではないか?と思うのだが、これをやっていても確固たる『丹田』は空間的にも実感できないし、なによりも、気が腹よりも上に上がって身体が緊張して胸が詰まったようになり気血の循環が妨げられる。いつも頭が働きリラックスできない。現代人にありがちの状態が増幅される。上虚下実の反対。
ではどうやって理想的な腹の状態、『内剛外柔』『外剛内柔』を作るのか?
これがまさしくタントウ功の大事な要領になる。
先生方の中には、”タントウ功には百害あって一利なし”と言う人もいるようだが、この要領を間違えるとそのようにもなりかねない。私の生徒さんの中にも、他の先生の所でタントウ功を習ったが身体を痛めてしまった、という人が数人いるが、見てみると皆、肝心な要領を外して立っていた。
タントウ功はそんなにも難しいものだったのか・・・、と今になって改めて知ったりする。
要領についてはクラスでいろいろ教えているが、次回現時点でのまとめを書けたら、と思う。
2014/11/3 <腕の円環、掌と足の裏、内踵から内膝>
メモに書くのが億劫になるほど次から次へと新しい発見がある。
クラスではその度毎に新たな気づきに関連した練習を試している。
ヨガでかなりのレベルに達している男性が練習に来た際、「先生のクラスは情報量が多すぎます・・・。」と言っていたのを覚えている。確かに、こんなに毎回毎回新たなことをやっていては生徒さんがついてこれないのかも?と不安になる。しかし、この練習は必ずしもレッスン1、レッスン2、レッスン3・・・とリニアに進んでいくものではなく、ある理想とする到達点を目指し、様々な角度からいろいろと試みているうちに、気が付いたらかなり進んでいた、というようなものかと思うようになってきた。いわば、山頂に向かって真っ直ぐ上がっていくのではなく、裾野からぐるぐる回りながら登っていくような、そんな感じだ。
この練習は、数学のようにあるところで躓くとその先に決して行けない、というものではないようだ。はっきり分からなくても、正しい方法でいろいろやっているうちに、総体的にレベルが上がっていき、その時に以前分からなかったことが自然に分かるようになっていたりする。分からないこと、できないことがある時に、しばらくそれに取り組むことは大事だが、ダメなら諦めて別の練習をしてみる。身体はどのパーツも関連しているから、全く関係ない練習をしているような時にも、実はその問題点と関連したことをしている可能性がある。問題点の原因が思いもよらないところにあることが分かると、身体のパーツの連関は神秘的だとさえ感じたりする、
この一週間、生徒さんに教えたことをすべて思い出すことはできないが、覚えていることを数個書き出してみる。
1.身体のパーツの連関について
「合」の感覚でこれはとらえられる。クラスでやったのは手の平と足の裏の不思議なほどの相似性。
まずは喉からダン中までの上焦の任脈を少し背中側に引くようにして(「含胸」)、左鎖骨と右鎖骨を”腕化”させる。喉の天突のツボで右腕と左腕が連結するような感じ。こうすると右腕と左腕は一つの円環となる(上と左の猫の写真はそのイメージ図)。
左鎖骨を左腕の付け根とし、右鎖骨を右腕の付け根とし、右腕左腕を真ん中でつなぎ円環となった状態でタントウ功。その感覚を身体に染み込ませる。それから動功、または24式を開始。円環を潰さないように注意して動く。
胴体の中心軸(任脈でもよい)を動かせば腕が連動してしみ動いてしまう。どちらかの腕が動けば反対の腕も連動して動いてしまう。少しロボットのような動きになるが、これが胴体と腕が一体化した感覚(この練習は身体の前面でつなぐ練習。背面でつなぐ練習は先週やった二の腕と体側部の一体化で行う)。
右腕と左腕を円環にするには「含胸」が必須だと、改めて「含胸」の大事さを知る。
また、左手が引くからこそ右手が打てる、というような”引手”の力の伝わり方もこの右腕左腕の上胸での円環で体感することができる。
なお、この基本姿勢でタントウ功をすればほとんどの人に手の平のぼわ~っとした感覚が生まれる(身体の全面は腕の陰面とつながるから当たり前)。
手の平がぼわ~っとしてきたら、この感覚を維持したまま、少し動いてみる。どんな動きでも構わないが、手の平を地面に向けて「アン」したまま動くと手の平が動くように足の裏が動いているのが見えるはず。
(第一式の初めの「ポン」の後の)「リュー」をする時に、手の人差し指の中指の先端を意識して、少しそこが誰かに引っ張られているように掌根を使って後ろに引く。中指・人差し指の先端から掌根まで、一本線が入るような感覚がでればしめたもの。この引っ張り感のある”線”をよ~く意識して、その後、同じ「リュー」の動作の時に足の裏にも足の指の先端から踵に向かって"線”が入ることを確認(”線”が確認できない場合は”線”が生まれるように調整。スキーやスケートなどで地面を足の裏で”漕ぐ”(?)時にできる足の裏の伸びのライン)。
2.足の裏
上の話の続きになるが、足の裏にグッと伸びた線が入る(土踏まずが上がっている)と、足の裏に力が生まれることになる。タントウ功の時は足の裏に力が生まれるように立っていなければならない。ただ、足の裏を地面に置いていては力は発生しない。「力は脚根から」と言われるが、足の裏を地面に置いて重心を踵あたりにくるように立っても、決して力は発生しない。力は足指から踵に向かう、地面をズリッと擦るような、その摩擦力から生まれる。
私の現在の感覚で言えば、足の裏の指から踵までは脚の第一節、踵から膝までが第二節、膝から環跳のツボまでが第三節、環跳から腎(命門の外側、ウエストラインの後ろ外側)が第四節、という感じだ。
太極拳の動きは足の裏の力が非常に大事になる。左右の重心移動も足の裏(足指から踵まで)の力が使えるように丁寧に行わなければならない。膝から膝に重心移動していては膝を壊すのも時間の問題。足首から足首の重心移動ができるように練習して、その後、足裏からの練習をしていくのが順序かもしれない(足の裏の力を使っても足首が回らないとせっかく生まれた力が足首を通らないため)。
ちなみに、この要領を教えてから、第十一式の披身捶を改めて練習した生徒さんはその違い、しっくり感に驚いていた。
3.内かかとからひざの裏→丹田の意識へ
太溪と陰谷のツボを結ぶラインができるだけ地面に垂直に立つようにタントウ功でしつける。(私はこれをバレリーナをイメージしてやったりしている。両足を揃えれば身体のセンターの軸が一本通る。猫はこのラインがとてもきれい。右の写真にツボを結ぶラインを引いてみました。猫の膝はかなり上にあります。)
このようにすると重心がかなり後ろになり上半身を前に倒してバランスを取りたくなるが、そこを我慢して腰と腹の奥でグッと立つ。腹の中に締め感があるのがポイント。これは会陰が上がって、かつ、腰がかぶさっている(塌腰)状態。この二つの矛盾する要領(お尻を上に向けると会陰が上がりやすいが腰がそりがちになる、足が浮きがちになる。腰をかぶせるとお尻が前に入って会陰が下がる、これでは動けない。)の妥協点を見つけることで、腹の中に丹田が意識できるようになる。正・反→合、こんな弁証法の図式?
4.腹の内柔外剛、と外柔内剛
・・・書く量が増えてきたのでこの話題については次回に。
ある生徒さんが「腹が膨張するようになったのですが、これで良いですか・」と質問してきたので、その質問に答える形で書きたいと思う。
まだ書き切れていないが、取り合えず今晩はここまで。