2015/2/26 <太極拳を学ぶ目的>
少し立ち止まって考えてみると、私がクラスで教えることは往々にして自分自身が練習中のものを反映している。
古い生徒さんの中には、私が3,4年前に教えている内容と今の内容は随分変わったという印象を持つ人も少なくない。
6年前日本で教え始めた時分は専ら師父から教わったように教えていた。
しかし今ではかなり変わっている。
が、半年に一度師父に会うと、彼は彼でまた新なことをしている。
教える側もいつまでたっても未完成なので、新しい発見があれば教え方も更新されてしまう。つねに更新、更新。
私の大学時代の教授たちのように、毎年同じノートを見ながら講義している、なんてことはあり得ない。
結局、こんなメモ(ブログ)は書けても、まとまった書籍にはできないなぁ~、と思ってしまう。
つい最近、馮志強老師の内弟子に10年近くついて学んでいたという某老師から、私(や劉老師)の太極拳は拳理に基づいていない、という批判のメールを頂いた。
このまま広まると馮志強老師の太極拳が誤った形で広まってしまうのを危惧しているという。
今日の生徒さんの中には整体に関する本を良く読んでいる人がいるが、その生徒さんが読んでいる本は私が既に購読済みのものばかり。折しも、その生徒さんが今日、質問をしてきた。
「何故先生はそんなに整体関係の本を読んでいるのですか?太極拳と整体にどんな関連があるのですか?」
これを聞いて、私は思わず、「ということは、太極拳と整体は関係がないと一般に思われているのですか?」と聞き返してしまった。すると生徒さんは、「ええ、太極拳のクラスでは型を覚えて套路を練習するというのが普通です。」と答えた。確かに、型(套路)をやり、対練をし、技の用法を練習する、というのが太極拳の練習。私もそのように教えなければ、と思っている。しかし、気づけば私は内気の集め方、その動かし方、経絡上のツボを身体の内側から感じること、それを使って動けるようになること、といった、身体の開発を第一に教えている。ともすると型や技はおざなりになりがち(そうならないように気を付けていても、時間に限りがあって教えきれないというのが実情)。
こんなことがあったりして、もう一度自分が太極拳から何を学ぼうとしているのか明らかにしてみようと思った。
ここで、太極拳”から”、と無意識に言ってしまい、太極拳”を”学ぶ、とは言わない自分に注目すると、太極拳を学ぶのはあくまでも手段に過ぎないという立場のようだ。
太極拳は茶道、華道、剣道、弓道、・・・などの、『道』だと思っている(信じている)。
太極拳を学びながら、少しでも自分の中核に、そして真理に、近づきたいという大それた目標を持っている。悟りへの道、これを馮志強老師は”太極への道”と言い、馮老師自身、太極拳を極めたとは言えても太極の道においてはまだ小学生だ、と言っていた。
晩年の馮志強老師の演武を見るとかなり拳理から逸脱してしまっているが、それは老師の太極を体現する形だと見える。馮老師が陳式心意混元太極拳を作り上げた時は、本家本元の陳家溝からは異端と批判されていた。しかし、拳法を極めた老師だからこそ、その先の太極に至る道まで念頭に置いた体系を作り上げてくれることが可能だったのだと思う。
この太極拳は守備範囲がとても広いから、どこに重点を置くかでかなり違うものができてしまう。
馮志強老師のように一人ですべて兼ね備えられたら言うことはないだろうが、そのような弟子はなかなかいないだろう。
私がこの混元太極拳を選んで練習しているのは、その精神が禅と通じるからだろう。
劉師父は随分前、私に向かって、「私はあなたに太極拳を教えるのではなく太極を教えたい」と言った。これはまさにその意味だったと思う。
まずは心を静かに、立禅なり坐禅なりをして瞑想状態(思考の無い状態、禅定)に入る。
すると内側から自分の身体の微妙な動き、時に現れる思考の波、思考がない状態の時の意識としての自分、が徐々に分かるようになる。
眼を開けてみる外界と同じくらいかそれよりも広く深いスペースが自分の内側にあることを知るとき、内側が外側までも包み込んでいくような感覚にもなる。
自分の内側の世界を知っている人と知らない人の差異は一目瞭然。
内功を積むということは単に内気を増加させるというだけに止まらず、内視の力をつけ、内側により深く入っていくことになる。眼が深くなる。
私の描く武術家の理想の境地に達しているように見える一枚の写真がある。まさに一目惚れだった。それが冒頭の無影心月流の始祖、梅宮見鸞という弓道の達人の写真(甲野善紀さんの『武術の新人間学』の中にあった)。エピソードもすごいが、エピソードがなくてもこの写真だけですごさが分かる。静けさ、空気さえも静止させてしまうような凛とした身体、”正気”からくる真っ直ぐ感と安定感・・・。
他にも弓道の達人と呼ばれる人達の写真を見てみたが、このような立ち姿の人はまだ見つけていない。何故なのだろう?と疑問に思って調べたら、梅宮見鸞はそもそも9歳から円覚寺で禅の修行をし24歳で印可を受けていたとのこと。一説のよれば弓道を選んだのはそれが禅を理解するために一番適しているからだ、というのもあり、この立ち姿の内側に禅師の姿が入っているということが他の一般的な”達人”と一線を画する点かもしれない。
現在、太極拳の老師でこのような人を見つけるのはとても難しい。
中国の社会自体が競争社会になって静かさを失っているし、もし現存していたとしてもそのような老師はHPを立ち上げたりブログを書いたりしないだろうから・・・。
理想は心の中にしっかり描いて、そちらに向かって自分で進んでいくしかないと思っている。
太極拳を学ぶ人の目的は様々。
生徒さん達は自由に自分のニーズに合った先生を見つければ良いと思う。
2015/2/22 <前足を作る>
今週は主に”前足”を作る練習をしてみた。
タントウ功で上半身の力が抜け、腰から下、所謂下半身に力が出るようになるのがまず第一歩。そしてこれから丹田の気を増やして行くのだが、その際、『墜肘』によって『沈肩』や『含胸』を導き、上半身で胸の気を腹へ被せこむような要領を付け加えると、その丹田の気の集中度は格段に増す。
そのためには、まず私達が通常”腕”と思っている部位を、”前足”に変える必要がある。
クラスでは腕を内旋させたりヨッシャ!のポーズから肩甲骨から上腕、肘にかけての小腸経の経絡を意識させてみた(生徒さん達が感じたのはおそらく経絡そのものではなくもっと表面にある”筋”だろうが、現段階ではこれで良しとする)。
その”筋”を残したまま、通常のタントウ功の時の腕の形に戻してみる。下環でも中環でも無極の形でもよい。所謂二の腕の筋を感じたまま立つと、腕が足化して前足のようになっていく感じが出てくる。そう、何も二本の足で頑張って立つ必要はなかった!(・・・・これは電車の中で試してみると良く分かる。腕を使えば足二本で立つよりも安定性が格段に増す。)
腕が前足のようになってきたら、ここで少し調整。二の腕側の小腸経(小指側)ばかり意識していると、身体前面を走る親指側の肺経のラインが潰れていることが多い。背面、前面の経絡を平等に通すように調整すれば(肘の尺沢のツボに注意)、肩が前に出ることも後ろに引きすぎることもなく、真っ直ぐの位置にくる。肺経を通す時には、鎖骨まで含めて腕とし、右手と左手の接合点は喉の天突ツボあたりにすればうまくいく。
練習中に頭の中には昔公園にあった馬跳び練習用(?)の地面に埋め込まれたタイヤが二つ。
言葉でうまく説明できたかどうかは定かでなかったが、練習後に一人の生徒さんが上と鉛筆を持ってきて、イメージ図を書いて下さいと言ってきた。そこではテキトーにしか書けなかったが、そのイメージ図に小腸経、肺経のツボを加味したのが下の図。ご参考までに。
なお、この前足の感覚を保持したままで動けるようにしていくのが目標。太極拳の動きはすべてこのラインが消えないようにやっている。最初は意識し続けるのがとても難しく、超スローモーで動かざるを得ない。慣れないと注意力の維持がとても難しい。今日の練習では第3式くらいまでで生徒さん達の注意力は限界に達してしまったようだった。意を使った練習を徐々に取り入れていき、意→気→力を体感できるようにもっていきたい。
冒頭の冯志强老師の懒扎衣の定式の姿にはこの二つのタイヤ(弧)が維持されているのが見てとれる。
下に冯志强老師と中国の某老師の同じ型を並べてみる。前足の弧、後ろ足(脚)の弧(=圆裆)は橋を作るときのアーチ構造のようなもの。これがしっかり作られると構造物としての人体の頑強さが増す。
2014/2/16
先週はロシアのサンクトペテルブルグに旅行に行っていた。私にとっては初めてのロシア旅行で西欧諸国に行くのとは違った緊張感があった。少しはロシア語を学んでいった方が良いかも、とNHKのテレビロシア語講座などで勉強を始めたが、巻き舌がうまくできないところで躓いて、結局旅行前の2か月は巻き舌に始まるロシア語の発音を研究するだけで終わってしまった。
声楽家の人達から、ロシア語は低周波から高周波まで最も幅広い声域を持つ言語だと良く聞かされていた。これはオペラ歌手にとってはとても有利な条件になる。周波数の高い音を多くつかうロシア語や英語(イギリス英語)では上あごを持ち上げるようにして発声するので頭頂に抜けるような高周波の音がでやすいが、これに対して日本語は下あごを動かして発音するため周波数が低く、よって伝統的な歌い方は能の謡いのように下に押し付けたような声になる。
これを太極拳の練習でいうところの『哼(hengフン)哈(haハ)二気』に関連づければ、哼フン(とハン、の間のような音)は喉から頭頂の方に抜く音で、哈ハは喉から丹田に向かって吐き込む音となり、前者はキンキンした高周波の多いイギリス英語系、後者は落ち着いた感じの日本語系の音になる。
身体を内側から開けていく内功ではまず呼吸を丹田の方に落として丹田に気を溜めていくことから始める。タントウ功の立ち始めは放松するために息を丹田に吐き込んでいくが、これは哈の要領だ。それから時間をかけて丹田を満帆にしていった後、腹の奥底で哈を残して丹田に落としぶたをしたようにしたまま、かすかに哼をして息を吸い気味にしていく。特に気を頸椎から頭頂に抜くためには(哈で下向きに息、気を吐き込みながら、同時に)この哼で裏声のように喉の奥から頭頂に向けて上向きに息、気を通すことが必要になってくる。
哈で下向きに気を足裏まで通し、同時に哼で気を上向きに頭頂まで通すことができれば、全身は天と地を突っ張り棒のようにつなぐ柱になる。個人的には、これが、天地人、の感覚かしら、と思う。
なお、哼で頭頂に向け気を通すには、まず丹田に溜める気の量を格段に増やさなければならない。少ない状態で頭頂に向けて気を上げてしまうと、単に頭に血が上ったようになり健康を害したり(脳内の血管が切れたりもしかねない)、精神障害になる弊害がある。だからこの練習では、くれぐれも故意に気を頭頂に向けて動かさないようにする。ひたすら丹田に溜めることに徹してそれが自然にあふれ出てくるのを待つようにする(溢れ出てきたら通路だけ確保してあげる)。
また、頭頂に向けて気が上がるときにはその途中で内気によって頸椎が内側から外側(後ろ側)に向かって押し出されるようになる。頸椎が一節一節ずつメリメリ音を立てて開いていったりする。頸椎の通路を開くには時間がかかるが(もともとの通路が腰のように広くはないので)、この通路が広くなって初めてしっかり頭頂に気が達するようになる。
と、このような練習を今までにしてきたのだが、今回、ロシア語をかじって巻き舌ができないことに気付いた私は、自分の舌が思ったほど器用でないことに愕然とした。練習の時は舌を上あごに貼り付けるし、気を上向きに上げる力は、会陰、舌、百会、の三点からやってくる、と冯老師の本にも書いていた。舌は肉の末梢でもある。舌は、あの牛タンを思い浮かべればよいが、喉からうにょ~っと生えている、非常に力強い器官だ。
そんな大事な舌がこんなに使えないとは・・・、と巻き舌の練習を皮切りに、様々な子音の練習をしてみた。日本語はとても子音が少ない。だから舌の動きのバリエーションがとても少ない。舌を開発する、でも音を聞き取る耳自体が発達を終えていて新たな発音を会得するのは至難の業のよう。音、舌、のど、そして耳・・・と開発すべき地帯は増える一方のよう。
ともあれ、一人で行ったロシアでは終始英語で事を済ましてしまい、辛うじて、たまに小声でスパシーバ(ありがとう)を言うに止まった。でも数日ロシア語に囲まれた環境にいると多少ながら舌の動きに変化が出てきたようで、帰国することにはかなり上手に巻き舌の発音ができるようになっていた。練習もしていないのに不思議だなぁ、と思うが、身体は無意識的に周囲の環境に合わせているのかもしれない。
巻き舌ができるようになると、それまでできなかったのは舌に余計な力が入っていたからだと分かる。舌も放松が必要、なんて考えたこともないし、そんなことを書いている文献を目にしたことはないが、これも何やら大事なことのように思うので頭の片隅に問題意識を保っておこうと思っている。
そして実際にロシア滞在で得た一番の収穫は本当の直立姿勢。
待ちゆく人の歩き姿立ち姿は軍人かバレエダンサーに近いものがあった。顎をしっかり引いて首が立ち、背骨が真っ直ぐで重心がしっかり踵に乗っている。日本人でひざ裏をしっかり伸ばして歩ける人は非常に少ないが(その結果、ほとんどが身分の低い農民のような歩き方になってしまう)、ロシア人は真っ直ぐ、堂々と歩いている。その真っ直ぐ感はアメリカやイギリス、フランス人の比ではない。
そこで私も彼らの真似をして、もう少し身体を後ろに引いて立ってみる。自然に顎が引ける。後ろにそっくり返らないようにするには命門を開けるだけでは足りない。仙骨も後ろに引いて開け、最後は尾骨も後ろに押し、お尻を真下までしっかり左右に分離させるようにしなければならない。
お尻の一番下側で完全にお尻が左右に分離すると”お尻捌き”が良くなるような感じでとても気持ちがよい。これは尾骨と肛門の間にある長強のツボが開いた感覚だろう(カニの腹にある、所謂”ふんどし”をメリっとはずすような感覚)。
気が背骨に沿って頸椎、頭頂へと抜けるようになる時は、この長強ツボあたりから気が入ってくるようになる。
会陰⇔百会というのが完全な上下の対応関係だが、長強ツボから始めれば頭の強頭ツボ、腰俞なら風府あたり、腰陽関な上は大椎あたりまでだろうか?
このあたりの感覚は個人差があるのかもしれないが、以前メモに書いたことがあるように、命門から下向きにツボを開けていけばそれに対応して命門より上側のツボが開いていく、というのは実際に感じられるところ。
(右図は以前メモで載せたもの)
現地で、腰から長強ツボにかけてよく開いた感じのマネキンをみかけて一目ぼれ。
理想的な体型、と一人感動して何枚も写真を撮ってしまった。
さすがはロシアのマネキン!
左側の普通のマネキンと、右側のマネキンの差異はとても面白い。
左側は無極?(まだ準備できていない普通の感じ)。右側な腰やお尻が開き、太極的だ。
下半身の経絡が通るためには右側のマネキンくらい腰やお尻が開かなければならない。
太ももとお尻の境目もはっきりして(承扶のツボが使えている)、左右のお尻もしっかり分離している。股捌き、お尻捌きの良い、良く動けそうな身体だ。
練習で外形的にもここまで開発できれば大成功!
(このような上がったお尻は『泛臀』と言います。『斂臀』をしっかりやって命門から下向きに尾骨に向けて(身体の前面で言えば、臍から気海、関元、曲骨へと)気を溜めながら降ろしていくと、自然にお尻が左右に分かれて『泛臀』が現れてきます。絶対に腰を反らせてお尻を上げてはいけません。腰痛の元です。)
2015/2/6 <正座での練習、腎で上半身と下半身をつなげる>
今週は坐って行う練習が面白かった。
最初はしゃがむことから始めたが、そのうちそれが正座になり、坐禅の形になり、と坐る形のバリエーションをつけて練習してみた。
中でも正座は骨盤が立つので会陰の動きや丹田への力の集まり方が分かりやすい。
第一式を正座でゆっくりやってみると、ポンは会陰が行う、ということが良く分かる。
外見的にはただ手を上げていくだけのポンの動作だが、実は会陰が上がると同時に、左右の坐骨が床(足)を押す(即ち、お尻の底のラインの真ん中が上がり両サイドが下がる)という、相反的な上下のベクトルの力が組み合わさった結果、腹に丹田がしっかりできあがることになる。
・・・と、こんなに細かく自分の身体の動きを見られるのは正座ならでは。
立ってやると、ここまではっきり股間や腹付近の力の動きは分からない。
もともと正座は中国で行われていたという。が、今では日本人くらいしかやらなくなった、と嘆いている中国の中医学の先生がいた。正座にしろ、坐禅にしろ、足はいろいろ曲げたり組めたりするくらい柔らかいのが理想。足が腕並に動くなんて、なかなかあり得ない話だが、腕の回転のように脚が回転したり(肩関節と同じように股関節が動く)、手の指と同じくらい足指が器用だったら、どんな感じだろう・・・?
私達は立ち上がった結果、足は頭から最も遠く離れ、足指に関してはほとんど独立して一本一本を動かすことができなくなってしまった。
今週の練習では、猫のモミモミ運動を使って、手のひらの労宮ツボの開合と足裏の湧泉ツボの開合をやってみた。手のひらと足裏は連動する。四足時代の名残?足裏と手のひらをモミモミしながら左右の重心移動をしたり、少し前後に腕を回転させたりしていると、そのうち、前進運動につながっていく。手も足も前回転しながら前進していくこの動きはまさに四足での歩行姿。そしてこの動きが太極拳での”進歩(前進)”の基本の形になる。所謂ナンバ歩きのような感じだ。
第7式の斜行でもこの形を使うが、うまくできない人には、ピッチャーになったつもりでボールを投げる動作をしてもらう。右手で投げるなら、左足前、右足後、右足に体重を載せて右腕を回転させて腰を連れてきながら、体重を左足に移していく。ボールを投げ切ったあと、右足は自然に前にでる。・・・これで一歩前に進んだことになる。この次は、同様に左手でボールを投げる動作をすれば、投げ切った後に左足が一歩前にでる。これで二歩目。・・・と、右腕と左腕を交互に回転しながら一歩ずつ進んでいくのだが、この要領の鍵は”腰による上半身と下半身の連結”にある。腕を回転させることによって、腰(寛骨と肋骨の間の部分=腎の部分)を伸ばすと、その伸びによって脚が引っ張られたようになる。手は手、足は足、として動いてしまうと上半身と下半身がバラバラになってしまう。慣れてきたら、腰の腎の部分をただ伸ばすだけでなく、内側に空気を入れて膨らますようにし、①腕の回転→腰の伸び→脚が引っ張られて前進、から、②足裏が地面を蹴り込む→伸ばした腰を通過→肩→肘→手首→手指、と足から手に力が向かうように練習してみると良いと思う。
①の動き方で、腰の腎の部分を単に”伸ばして”上半身と下半身をつなぐのは、所謂”筋”をつなぐ、というやり方。
②の動き方で、腎の部分に空気を入れてその空気部分を通過するように上半身と下半身をつなぐのは”勁”をつなぐ、ということになる。
”勁”は”筋”よりも内側、かつ、実体が掴みづらい。
このあたりは、『填腰』と中国語で表される、腰に気を充当させるための功法とも関連してくる。
巷に出回っている、体幹を鍛える運動などは”筋”や”筋肉”、”骨”などの所謂”外”を鍛える方法。
内功で最も重視するのは、それよりも”中”の話。
カイロプラクティスや整体、指圧などの専門の生徒さんがその感覚を感じ取った時、「そこは筋肉で言えばどこにあたりますか?」と尋ねたら、「ああ、ここは筋肉よりももっと中です。・・・どこと言ってよいか分かりません。」と答えていた。
結局、分かる人同士なら、「そこ」とか「それ」、で終わってしまう話のよう。