2015年7月

2015/7/25 <夏の養生法 時空に合わせる 適者生存>

 

 暑くなると寒い時に増して体調管理が難しくなる。寒い時のように服を着ればよい、と単純にはいかない。汗がうまくかけないと熱が体内にこもって身体がおかしくなる。夏は熱が体表にでて体内が冷えているのだが(冬はその反対)、冷房をかけると体表の温度を下げ熱が体内に押し込められてしまうので身体が狂ってしまうということだ。

 

 『天人合一』とかいうように、自然と一体になるというのが太極拳の最も次元の高い理念だが、太極拳と同様、道教の影響を色濃くもつ中医学においても自然に即した生活をする、というのが養生法の基本となっている。

 なるべく自然に近く、という考え方は私達日本人には今更疑問をはさむ余地がないほど受け入れやすいものだと思う。

 といっても、自然農法、自然化粧品、自然療法、とか、自然△△、というような言葉が生まれるところを見ると便利さを追求した結果、現代の生活は自然から乖離してしまった。

 

 中医学の中には生活に即した養生法が数多くあるが、食べ物、食べ方については単純に、その土地におけるその季節のものを食べる、というのが原則になっている。北方に住んでいるのに南国フルーツを食べる、というのは不自然。旅行をしたら現地の人がその時期に食べているものを食べるのが理想的ということのようだ。

 この世は空間と時間、すなわち時空からできている(十干十二支の干が空間、支が時間を表している)。私達はその時空の中で生きているから、その空間と時間に合わせて生きる、それを食で表せばその土地と季節にあるものを食べるということになるのだろう。

 

 以前中国のテレビ番組でこんな内容の中医学の講義があった。

 氷はいつ食べるべきものか?

 では氷は自然界でいつ存在するか?それは冬。

 その時に自然界に存在するものを食する、という中医学の考え方からすれば、即ち、中医学では氷を食べるならそれは冬、ということになる。

 実際に、夏の身体は体表が熱く体内が冷えている。冬の身体は体表が冷えて体内に熱がある。

体内が暖かい冬であれば胃袋に少々冷たいものを入れても周囲の臓器まで冷やしてしまうということはないが、逆に体内が冷えている夏に冷たいものを胃袋に詰めるとそれはあたかも体内に氷嚢を抱えているがごとく他の臓器(特に近いところにある肺)を冷やしてダメにしてしまう。秋は肺を養う季節だが、それは夏の間に冷たい胃袋が肺を冷やし肺の機能低下をもたらす、というよくありがちなパターンを考慮したものともいえる。

 昔、中国では夏、氷を各家に売り歩く行商人がいた。彼は氷を売る時にその家の人から温かいお湯を一杯頂く、ということをよくしていたらしい。自分はたくさんの氷と氷水を持っているのにそれは飲まず、わざわざお湯をもらう。それは何故?行商人は、冷たい水をいくら飲んでも喉の渇きを癒せないことを知っていたからだ。

 喉の渇きを癒すにはただ水を胃袋に入れるだけではだめで、それを小腸が吸収しなければならない。吸収に適切なのは体温だが、冷たい水は身体の中で温められる際にエネルギーを奪ってしまい体力を落としてしまう。しかも冷たい水は一気飲みができて往々にして飲み過ぎ吸収効率も悪くなる。少しずつ温かいお湯を飲む、というのが夏バテせずに氷を売り歩く商人の知恵だった。


 確かにお腹がダブダブになるほど飲んでも疲労感が増すだけで渇きは癒えない。今では熱中症が流行っている(?)から、水分補給の仕方も昔ほど粗野に行わないと思う。が、昨年、一昨年ともに、熱中症を恐れるがばかり始終水分補給をしていた生徒さんが秋口に気管支炎や肺炎になる、という事態があった(一人は家に水のタンクを備え付けていていた)。この時、上に載せた中医学のお話の信憑性が数段増した気がした。

 

 ともあれ、夏は気力も落ちがち。熱さを恐れるだけでなく賢くそれに立ち向かっていく強さも必要かと思う。ある友人が昨年夏、バングラデシュ人の友達を日本に招待したらしいが、36度になる気温の時バングラデシュの人が「このくらいがちょうどいい。」と言ったとか。身体の構造が違えば耐熱温度も違うのか?(が、まだ自分にも望みがある、と気が楽になったのは私だけか?)そしてダーウィンのSurvival of Fittest(適者生存)ではないが、生き残るためには地球温暖化という気候変化にも対応していかなければならないということではないのか?

 

 話はサバイバル問題へと脱線しつつありますが、せっかくなので最後に太極拳の理念とも通じるダーウィンの名言を引用して今日のおしゃべりは終わり。

 

It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change.

生き残る種とは最も強いものでなければ最も知的なものでもない。それは変化に最もよく適応したものである。                           Charles Darwin


2015/7/18 <漢字、重心移動における腰の回転、言葉による意味の伝達>


 太極拳の様々な要領は漢字、それも往々にしてたった一文字の漢字で表されている。

 日本人は中国語と漢字を共有しているから、太極拳を学ぶ外国人の中ではとても優位な立場に置かれていると思う。

 とは言え、太極拳で使われる漢字の中には見たことのないものもよくある。また、日本語でも使っていても、意味が少し違っていたり、そこまで意味を掘り下げて考えたことのない漢字もしょっちゅう出てくる。中国語を学びながら、ああ、そもそもそういう意味だったのか・・・、と日本語を学ぶこともしばしば。


 太極拳を学ぶ時にまず習う、虚領頂勁、沈肩墜肘・松腕垂指、含胸抜背、塌腰斂臀、松胯曲膝、などどれも、絶妙な漢字の配列で要領を示している。

 例えば、沈肩墜肘。沈と墜の違い。墜肩沈肘、とは言わない。

 含胸は、合胸でもなければ挺胸でもない。抜背は驼背でもなく直背とも言わない。


 漢字は一文字に広がりのある世界を含んでいる。想像できる空間がものすごく広い。それによって人と人とのコミュニケーションを図る、イメージの伝達、それが象形文字だる所以?


 ところで、今週生徒さんに教えた左右の重心移動の要領を漢字で表すとこのようになっている。

     拧腰→展膝→蹬脚

 順番は必ずしも腰→足ではなく、蹬脚→転腰というのもある。

 これは拧腰(ねじる)と転腰の違い?・・・とまたまた疑問が起こったりする。

 いずれにしろ、左右の重心移動で大事なことは、必ず”腰”が回っているということ。

 馮志強老師のテキストを読んでいると、ただ左足から右足へ重心移動する動きの時に、まず、”腰を右に旋回させる”というところから動作説明の記述が始まる。まず足じゃないの?と最初は少し驚いた。でも重心移動は腰の重心移動。足の重心移動ではない。なら腰が回転するのは当たり前。

 加えて、人間の関節の付き方からしても、全ての旋回にはある意味でねじれが入っている。

腕の外旋、内旋でよく分かるが、その軌跡はメビウスの輪のようになる。決して平面上(二次元)を回っているのではない。ここに螺旋纏糸の動きが出てくる。これは人体、自然界、宇宙の規律なのか?


 今日師父と電話でタントウ功の話をしていたら、入静状態に入って初めて内側の動きが見えてくる、つまり、『不静不知動之奇』だと言っていた。

 またまた禅問答のようだなぁ、とワクワク。静かにならなければ動きの奇(意外さ?)が分からない、ということだ。(中国語は二重否定の言い方も非常に多い。何だかねじれた言い方だなぁ、ストレートに、”静かになれば動きの奇が分かる”と言ってはいけないのかしら?)

 実はこの逆の言い方もあって、『不動不知静之妙』という。動かなければ静の妙は分からない、だ。

 これも、この言葉を覚えても無意味で、まずはこの句の指し示すような境地を体験しなければならない。体験した後でこの言葉を聞くと、まさに、その通り、と言葉のメッセージがストンと入ってくるようになる。

 言葉での意味の伝達の前提には体験の共有がなければならないということ。

 体験は無形の財産と言えるかもしれない。




2015/7/14 <足裏の重心移動、陳鑫の本>


 私はヒール靴を履いたことのない大学生の頃、既に外反母趾になってしまっていた。

 卓球をやっていて踏み込んだ時になんだか足にうまく力が乗らない・・・と気づいた時には親指が内側に曲がっていて、親指に力が入らなくなってしまっていた。

 そんなこともあって卓球から離れたのだが、それ以後就職してヒールのある靴を履くようになったらその状態はもっと悪化してしまった。


 太極拳の練習はそんな状態で始めたのだが、練習では足指を意識する前に意識しなければならないことが多くあり(腰、腹、肩、股関節・・・)なかなか足指まで射程距離に入ってこなかった。

 練習し始めて3年以上経った頃、丹田の気が上は首、下は足首あたりまで達するようになり、初めて足首より先の要領を考えるようになった。


 少し説明すると、タントウ功で丹田に気を溢れ出るまで溜めれば、それは自ずから上下に背骨沿いに流れていく。意識は下向きにして上(半身)は力を抜いておけば自然に上がっていく。

 このような練習では腰から調整していくので、例えば腰痛のある人は比較的早く効果がでるが、問題のある部位が腰から離れれば離れるほど、調整するのに時間がかかることになる。腰→肩→首・のど→目、あるいは、腰→股関節→膝→足首、というようなもので、もし膝に問題があるとすれば、遡って股関節や腰を調整しておかないと膝の問題は解決できないということになったりする。


 このしていくと、指先というのは腰(丹田)から最も離れているから、そこを丹田とつなげてそこまで気を巡らす、というのはかなりの練習時間が必要になる。

 私は二年前あたりから足の小指と薬指が独立して動くようになったが(膀胱経と胆経が通ったということ)、外反母趾になっている親指が少し動くようになるには更に一年くらいかかった。そしてタントウ功の時に試行錯誤を重ね(足首やふくらはぎから調整)、今年に入って右足の親指に力が入るようになり、遅れて左足の親指も動くようになってきた。

 一度曲がった骨が元の位置に治るのかどうかは分からないが、指に力が入るようになると、「ああ、これまで指に力が入らずどうやって動いていたのだろう?」と自分で不思議に思ったりする。


 先週あたりに纏糸勁について調べていて、陳鑫(1849-1929)書いた陳式太極拳のバイブルのような本『陳式太極拳図説』の中に足の勁の運び方について次のような記述があることを知った。


 足の勁を運ぶ時は、踵で地を踏み、それを足通谷に至らせ、それから大鐘、そして外腓腹筋と陰白、大敦厲兌に通す。しっかり地を踏むこと(足指と足掌は地を摳(ほじくる?)しなければならない。湧泉は虚でなければならない。虚でなければ足指に力がなく力を使えない。足の前後は実で中間は虚でなければならない(土踏まずが上がっているということ))

 この記述に現れるツボをつないで勁の経路を示したのが冒頭の図。


 右の図はアシックスのHPにある歩行の際の正しい重心移動を示すものだが(http://www.asics.co.jp/walking/shoes-mechanism)、冒頭の図とほぼ同じ路線図になっている。


 100年近く前に書かれた陳式太極拳の理論書で足裏の正しい重心移動の仕方がはっきりと示されていたということにちょっと驚いた。


 目下、私は陳鑫の示してくれた”ツボ”を頼りに外反母趾の克服に向け努力中・・・(なるほど、大鐘から隠白に行く時に外腓腹筋を意識するというのはとても大事・・・すごいなぁ、指摘が行き届いている!)

2015/7/11 <第十式を覚える>


たった今横浜でのクラスが終わり直帰したところ。

第10式を覚えてくることを半ば無理やり宿題にしてきた。

24式を覚えられない、そう言う人がとても多いのは教え方にも問題があるかもしれない。

ただ、習う方もかなり努力をしないと覚えられないのも事実。


第10式は長いので2つか4つに分けて練習するとよいと思う。

以前撮った動画を分割してみたので使って復習に使ってもらいたい。


まず第一段。

第二段の第1回目の掩手肱捶(手を隠して上腕から拳で打つ)へとつなぐ、方向転換を兼ねた動き。


(1)第九式定式から放松。右手は降ろして左膝前に、左手は上弧を描いて右頬の前。重心は左足に移す。これが準備の体勢。


(2)それから腰を右に旋回しながら左足のつま先を浮かし、右足へ体重を移すとともにつま先を東に向ける。

 共に右手は竪円の上弧を描いて逆纏、右クワ横へ按する。

 左手は右腹前を通って下弧を描き逆纏、左クワ前で按。続けて順纏に変わり竪円の上弧を描いて胸前で棚ポン(挒リエの力を使っても良い)。


(3)更に腰を右に回し完全に右足に体重が乗ったら、右足を踏んで腰は左に旋回させ体重を左足に移動していく。

 按していた右手は順纏に変わって上弧で胸前にポンする。

 胸前にあった左手は右足への重心移動とともに右腹前を通って、左足への重心移動に伴い逆纏になって左クワ前へ按する。


(4)胸前に差出した右手は腹へ、右足は左足へそれぞれひきつけた後、左手は最初逆纏、それから順纏で立円を描き右手手首を切るように合わせる。同時に右膝を上げ90度外旋して左足横に震脚をする。右足先は南、左足先は東を向いている状態。


次に第二段。

ここに一つ目の掩手肱捶がある。

(やはり文章による動作の説明はえらく大変なので割愛。気が向いたら後で付け加えます。)

第三段。

まず磨盤穿掌。(これは基本の纏糸功)

それから差し出した右手でリュー、按。股間を守るようにする。

左手は鼻の先に立掌でジーする。

最後重心は左足へ。左腰に坐る(全部しゃがみ切る必要はありません。これは単に足腰の練習でやっています。)

第四段


見たままだが、この最後の掩手肱捶は大技。

クラスはかなり多くの留意点を指摘したが、あまりにも多過ぎて書くのが大変。もし書く気になったら付け足します。

この一つの動作の練習だけで1時間でも足りないほどかも・・・。

最後に続けてやるとこんな感じになる。

と、くどいブログになってしまいましたが、生徒さん、ちゃんと復習して覚えて来てください。

練習して分からないところはクラスで聞いて下さい。

 

『1万遍やれば自ずから通る』と師父に言われたことがある。

何でも費やす時間と回数は必要ということ。


<付け足し>

馮志強老師のこんな動画があるのでご参考までに。

生徒さんの空手のような打ち方と馮老師の内勁による打ち方がはっきり対比できると思う。

2015/7/9 <双重の病、無極→太極→陰陽>


 先日、橘バレエ学校学長の牧阿佐美さんの講演会を聞く機会があった。

 太極拳の練習とも通じる面白い話がいろいろあったが、その中で一番印象深かったのが、さらっと触れられた次のようなお話。


「私達はオーデションの時に、ダンサーが自分の番を待っている時の立ち姿を見ています。何気なく立っている時に両足に体重をかけて立っている人は採りません。1を2にするのは大変ですから。」


 そう話す牧阿佐美さんの隣では、バレエ団の教官でもある男性のロシア人ダンサーが、両足を揃えて真っ直ぐ立っていた。牧さんが、「そう、このように片足に重心をかけて立っていなければなりません。両足に体重をかけていたらすぐに動けませんから。」と教官を指してコメントをした。


 そう、両足を揃えて真っ直ぐ立っていても、常にどちらかに重心がある。片方の足が軸足となっている・・・これは新鮮な驚きだった。頭の中が高速回転をする。・・・そしてそうそう、太極拳では『双重の病』という言葉があった。左右の重心は常に明確に分けなればならない。『陰陽分明』だ。動いている間中、いつも左右の重心移動がある。それも太極拳では左右の重心移動は腰の重心移動、腰も左右に分かれるということ・・・・・あれ?じゃあ、タントウ功、あの両足を肩幅に均等に開いてやるタントウ功はどうなっている?両足に均等に体重が乗っているかしら?


 と、ここまで考えた時に、あの、一見両足に体重をかけているようなタントウ功をやっている時、実は左右(前後もあるが)に外からは分からないほどの微妙な重心移動が丹田付近で行われていることに気づいた。だから『静中求動』、(身体の)外は止まっているが(身体の)中が動いている、外を止めるから中が動いている、ということになる。外からは見えない内側での動き。


 無極(0)→太極(1?)→陰陽(2)→四相(4)→八卦(8)→(16)→(32)→(64)→ ・・・・・・

 と永遠に広がるが、普段のタントウ功で練習しているのは、無極→太極、の過程。

 馮志強老師のテキストの最初の「拳の練習は無極から始めるべし」には無極から太極、陰陽に分かれる道筋が書かれているが、これは具体的に身体で実感しないとただの哲学か観念論に陥りがちなところ。

 無極で立ち始めて、そのあと腹の奥底で何か動く兆しが現れたところ、これが”無極から太極が生まれる”ということで、この動く兆しが生まれて実際に動きが芽生えて(動き出して)しまう時、それは既に太極が陰陽に分かれてしまう、ということだろう。


 タントウ功を教える時、よく、「よーい、ドン!」とスタートをする時の状態を例にとっている。

 恐らく、「位置について」、とスタート位置について心を静かに(無心で)静止して立った時、これが無極の状態。

 そして「よーい」の合図とともに腰や股関節をはじめ体中の関節を緩め(少し曲げ)全身の力を腹に移動させた状態(腕や脚は軽くしていつでも動けるように力を腹、即ち丹田に移動させている状態)、これが太極の状態。もし「よーい」の合図が長くて、なかなか次の「ドン」が来ないと、我慢できなくなって飛び出してしまう。これが太極の状態で持ちこたえられずに陰陽に分かれてしまった(動いてしまった)状態。逆に言えば、陰陽に分かれなければ動きにはならないわけで、「よーい」と号令がかかっても、生ぬるく力を丹田に溜めていれば、いつまでも陰陽に分かれるまでの沸点に達さず、そのまま不発になるか、中途半端なまま(丹田の力が使えないまま)無理やりに動きださなければならなくなる。そうなると、本当の意味での陰陽転換のない(身体の中で陰陽転換がない、丹田の回転がない)、ただの筋骨肉だけの動きになってしまうことになる。


 と、このあたりはかなり自分の身体を注視する必要がある。自分の身体の内部がどう動いているのか、力がどう動いているのか、それが勁の動きとしての自覚につながっていく。

 頭で考えてもしょうがないので、ただ経験するしかない。


 タントウ功の時に石のように固まって立っているように見える人は、往々にして双重になっている。ただ、これは左右の足に交互に体重を乗せればよいというものではなく、それが高速運動になってほとんど分からなくなるくらいの転換で、その際、その動きを操っているのは、会陰を引き上げた先(下丹田)になっている。

 結局は丹田が陰陽に分かれているのかもしれない。丹田が回るということは既に陰陽に分かれていた、ということだった・・・。


 以前、馮志強老師の師である胡耀贞先生のテキスト中の人体図を見たときに、なぜ丹田が陰陽2つに分けられているのか分からなかったが、やっとそれが分かった(ような気がする)と一人嬉しくなっていた。そもそも丹田が無極から太極、陰陽に分かれ、さらに再現なく枝分かれする、ということだったよう。


 このあたりはくれぐれも考えないように。頭で考えても永遠に理解できないし、何の足しにもならないだろうから。


 と、突然、ここで、前に紹介した汤鸿鑫老師の「蹲墙法」に関する新しいプロモーション動画を紹介します。画像を見るだけでも口直しになる?


2015/7/6 <套路練習を見直す、太極拳を学ぶ>


 これまで『太極拳 ”から” 学ぶ』という意識が強かった。太極拳の知恵を使って如何に身体を開発するか、不調を治すか、そういうことをメインに考えていたこともあって、練習ではタントウ功と動功に時間を割きすぎて肝心な套路の練習が手薄になってしまっていた。

 套路はまず一通り動作を覚えてしまわないとそれより先に深く進まないと思うのだが、教えてみると、なかなかスムーズに覚えられない生徒さんも多く、覚える気持ちが初めからないのかもしれない、と勝手に思い込んで私もあまり教えなくなってしまったクラスもあった。

そんなところへ、ある生徒さんから、「三年近く練習しているのにまだ24式が覚えられないのは悔しい。」という声が上がった。すると他の生徒さん達からも、「全部覚えられないにしてもとりあえず一通り24式を教わりたい。」という声が続く。

 言われてやっと知った生徒さん達の本音。

 教え方で悩んでいる私に「できない、覚えられないからと言って、必ずしも嫌いなわけではないのですよ~。」と優しく言ってくれる生徒さんもいて少し心が軽くなった。


 私が教え始めた頃は生徒さんの数が少なく、二人や三人を教える、ということが多かった。その頃は各々の生徒さんのニーズに応えようという気持ちが強く、いわばセミオーダーメードのような教え方をしていた。が、次第に生徒さんの人数が増え、特に週末のクラスなどでは、とても一人一人の要求に応えるということが難しくなってしまった。団体練習では互いに刺激しあって切磋琢磨するというメリットもある。それをうまく使いながら、一人一人に的確な指示を与えられるようになる、というのが課題だと思っている。教える、というのも私にとってはとても大事な修行だということ。


 少し前から練習の方法を変えてみている。

 毎週24式の前半(第一式~第十三式)から1式、後半(第十四式~第24式)から1式を取り出して説明しながら皆で練習するようにしている。

 一度24式一通り学んでいる生徒さんにとっては、さらに動作を正確にし、動作の意味を知る、という練習、初めての人にとっては、その動作を覚える、というのが目的になっている。

 前週に習った前半、後半1式ずつを復習して、新たにその週に習う1式ずつを加えると、一回の練習で全部で最低4式は練習することになる。24式を2式ずつやっていけば3か月で一巡する。どこから参加しても3か月毎週一回参加していれば24式は覚えられるという計算。(実は、劉師父から、その師父である王長海老師が以前公園で教えていた時の教え方を聞き、それを参考にした。)


 もちろん、覚えるためには毎日欠かさず家で復習する必要がある。

 習ったその日のうちに家で復習しないと、翌朝には恐らく忘れている箇所が出てくる。一週間何もしないで次の練習に出れば前回習ったことを覚えているわけがなく、これを「私は記憶力が悪いので・・・」と言われても、ただの努力不足としか言いようがない。

 私が師父について学んでいた三年間は、覚えたところまで毎日最低5回は練習していた。24式すべてを通してできるようになった後は、師父から毎日10回24式を通してやることを要求された。

 タントウ功1時間から1時間半、その後動功を30分~50分、そして24式を10回やったら、練習時間は優に4時間は超える(これに夕方坐禅を一時間やっていた)。

 あの頃は練習と家事以外特にやることがなかったからそんな生活ができたが、普通は仕事もあるしそんな生活はなかなかできない。自分の生活の中に細切れの練習時間を組み込んで練習を日常化する工夫が必要だと思う。


 先週は前半では第八式(提収)をおさらいして第九式(前蹚拗步)を説明した。

 後半では第十五式(三換手)、第十六式(倒巻肱)をかるくおさらいして第十七式(退歩圧肘)を練習した。第十五式を基本として、それで後ろに下がっていくのが第十六式、そして更にそれから肘の回転を使って関節技(擒拿)をかけるのが第十七式だ。


 一つの式を練習するだけでもその中にはたくさんの学ぶ内容が盛り込まれている。

 套路については私もまだまだ勉強しなければならないことがいっぱい。


 結局、『太極拳 ”から” 学ぶ』ためには、まず、『太極拳 ”を” 学ぶ』必要がある、と気づいた次第。


2015/7/3 <腰から動く、穴位の意識、呼吸の種類>


 教え方が更に分からなくなったこの一週間。

 自分の気づきをそのまま生徒さんに伝え教えてしまうと生徒さんは更に混乱してしまう。

 師父がよく言う喩えだが、小学校1年生に中学校で習うことを教えても役に立たない。その段階、その段階に即したことを教えなければならない・・・・。

 とは言うものの、私にはレベル別にクラス分けする気もなく、メソッド化するつもりもなく、ある意味混沌とした練習の中で毎回小さな発見があることに嬉しさと満足感を得られる生徒さんだけが残るような、そんな教え方しかできないような気がする。大量生産は無理のよう。


 こんなに練習していてもまだ分からないことがいっぱい。

 やればやるほど、立ち方一つとっても、歩き方一つとっても、更に難しくなってくる。

 もしちゃんと立てるようになったら、どんな動作もなんなくできてしまうようになってしまうのではないか?立つだけで一生終わってしまうかも?でも、言葉を変えれば、人間の二足歩行というのはそれほどに凄いことだったのだ、ということ。何やら感慨深い。

 さて、今週は自分の練習として、腰が身体を主導するよう、幾分腰を前方に押し出して腰に脚がついてくるような立ち方、動き方を試みていた。結局は骨盤がきちんと脚に乗っている、ということだが、多くの場合、脚が先に進んで腰が後からついてくる、といった現象になりやすい。通常街で人の歩く様を見ていても、脚だけで歩いているために腰が微妙に後ろに取り残されている、というのがほとんどのようだ。

 左の女性がヒール靴を履いて歩いている姿がその代表例。この状態でスキーやスケートをしたら、きっと腰が引けて尻もちをついてしまうかなぁ?と想像したりする。


 太極拳では、腰は主宰、力は脚踵から、という言い方がある。

 動くときはまず腰が動こうとしなければならない(その前に、心意で、”動くぞ!”と決める。心意の命令が腰を動かせる)。腰が動こうとした時にそのための動力が踵から上がってくる、というメカニズム。脚が動いて腰が後からついていくのでは全身の協調性が保てない。広い意味での腰は丹田を含むから、結局丹田が身体を引っ張っていく、という感じになるのだろうか。

 このあたりについては引き続き注意して練習していくつもり。

 立ち方も少し改良していっている。


 缠丝勁の練習も面白い。脚の缠丝も徐々に練習していく予定だが、缠丝の練習を通して、また新たに意識するようになったツボが増えた。

 経絡やツボの意識は太極拳の練習には欠かせないが、それは本を見て頭で覚えるのではなく、身体の内側からその”点”を意識できるように(できてしまうように)する。それは目をつぶって自分の人差し指がどこにあるのか内側から認識できるのと同じような感覚。だれでも手のそれぞれの指を内視(見ずに内側から感覚的に探ること)することはできるが、これが足指になると親指以外は少し曖昧になってしまう。意識を通し、気を通すと、外側から触ることなく内側から、ああ、ここは足の薬指、とか、ここは肩井穴、ここは曲池穴、ここは命門穴、ここは環跳穴・・・というように意識できるようになってくる(これは神経をつなぐ練習だと思う)。

 自分が自分の身体で意識できるツボについては、他人の身体でもすぐにその正確な場所を推すことができるから、馮志強老師も含め、太極拳の老師たちは一般の按摩師よりも腕が良かったりする(ツボの知識もさることながら気を通した指先の感覚は通常の人には敵わない)。


 缠丝の練習で新たに知ったことについてはまた次回のメモで。

 今週のクラスでは、呼吸の『風、喘、気、息』の違いを少し話したが、普段の練習では『気』から徐々に『息』(胎息)で練習していけるように、息を腹よりもさらに下に押し込んでいく要領を身に着けていきたい(『息』で呼吸すると声を出すことができなくなるから、私的には教える時にしゃべる量が減る、ということになりそうだけど)。


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練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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