2015/11/22 <タントウ功の2ステップ、下へ!の大事さ>
今週嬉しいメールをもらった。
以前、遠方に住む生徒さんから、一人でタントウ功を練習し続け、結果、気を上げ過ぎて体調が悪くなってしまったという投稿があった。その時私は意念を下に、と文面で注意したが、その人から11/16の私のメモを見て立ち方を変えたところ、重かった脚が急に軽くなった、という報告メールが届いたのだった。
文面はこんな感じ。
『先生から<下からですよ>
11/16の先生の練習メモ、会陰は上へ横隔膜は下へ で、脚が軽くなりました!。
下から下から足から!でやってて、足が重くなり、抜けない、
この感動は<下から>
ありがとうございました!・・・・・・・』
私が嬉しく思ったのは、そのメールにあった最後の言葉。
このような効果が現れたのは、<下から>を実践してきた積み重ねがあったから、というその気づき。
この点は本当に大事で、私もこのメールを読んで改めてその重要さを認識した。
まずは放松、<下へ!>。
全身が下(重力)に引っ張られて足が重くなり、足裏が地面に沈み込む・・・。
ここまでできて初めて<引き上げ>を行う。そうして初めて丹田に気が溜まりはじめる。
この①下へ<流す>、それから、②引き上げ<溜める>、の2ステップ。
この手順を経ないとうまくいかない。
最初は余計な力が身体にこもっていてなかなか力が抜けない。これを抜く段階がステップ①。
過去にガンガン運動をして筋肉を鍛えてきたような人はこのステップ①に1年から2年かかることがある。特に男性がここをクリアするのが難しい。
これがクリアできたら、ステップ②の会陰の引き上げを本格的に行っていく。
女性はステップ①を案外簡単にクリアするが、このステップ②の引き上げたとても難しいようだ。
そして①、②の要領をともにクリアしたとしても、毎回立つ時は、まず①の状態を作り、足裏まで気が落ちたら②の状態に徐々に変えていく。
私の場合は、練習を始めて2、3年目は①をクリアするのに30分以上かかっていたように思う。調子が悪いと50分位経過してやっと”松”し、それから引き上げて溜め始める、ということもあった。
今では①をクリアするのに10分、15分かからなかったりするが、それでも毎日状態は異なる。
私の師父から聞いた話だが、師父の兄弟子(馮志強老師の高弟である王長海老師の弟子)がこっそり自分の師に内緒で北京の馮志強老師の元へ指導を受けに行った際、馮老師は彼に「二年かけてその余計な力を抜いて来い。」と言って彼の出身地を尋ね、「鄭州ならこの先生について習いなさい。」、と彼の師である王老師の名前を紙に書いて渡したそうだ。
その人は”力を抜け”としか言われなかったことにクサってしまい、鄭州へ戻った後もしばらくぶらぶらして練習をしなかったそうな。
概して、走ったり、筋トレしたり、何か”する”ことに関しては頑張れる人ほど、何も”しない”ということに耐えられなかったりするのではないか? 力を入れる、力を使う、ということを幼い頃から習得してきた私達が突然、力を入れるな、力を使うな、と言われても戸惑うばかり。
ただ待って力を抜く、というのは積極的に頑張るのとは全く異なる練習だが、それはそれでまた違った心の強さ、中国語で言うところの”恒心”、日本語で言えば”不動心”が必要になる。
最初のメールをくれた生徒さんは、私の”下へ!”という一言を忠実に守って一人ただそうしていた。それがもう飽和状態になった時にうまく私のメモからヒントを得て立ち方を少し変えてみた。
タイミング的にも絶妙。
対面で教えていてもなかなかそんなに絶妙なタイミングで絶妙なアドバイスができるわけではない。
生徒さんが最短距離で進めるような指導ができるようになりたいもの。自分だけできれば良い、というわけにはいかない・・・。もう一まわり大きな視野が必要だ。
2015/11/17 <心と脳、想うと考える、身体で悟る>
先日テレビで心臓移植をしたら性格や嗜好が変わったという事例を紹介していた。
心臓には記憶する細胞が少しながらあるらしい。
それでも心臓は単に筋肉の塊だと言ってそのような事実を認めない医者も少なくはないようだ。
中医学における五臓の一つである『心』は脳も含んだ概念だ。
古代の中国では脳のことを心と言っていたというようなことを胡耀贞先生の本で読んだことがある。
「心はどこにあるのか?」というのは古くからある命題で心臓にあるのやら頭にあるのやら未だはっきりしていないようだけれども、それくらい、心と脳は切っても切れない良く分からない関係にある。
とは言っても、実際、感覚的に言えば、考えるのは脳。だが、思ったり想ったりしている時は脳よりも心臓の部分が働いているのではないか?
練習の際の三性帰一(丹田を心で想い、眼で看て、耳で聴く)も”心で想う”という。決して頭で考えるとは言わない。
想うと考えるの違い。
馮志強老師の本にも書いているが、この練習では大脳皮質を休めることが大事だ。つまり考えてはいけない、ということ。
"Don't think. FEEL~!" とブルースリーも言っていたっけ。
私自身は、”考える”と”想う”の違いは言葉を使うか否かだと思っている(”思う”は”考える”にも”想う”にも使えるような?)。
言葉を使わないで考えることはできないが、言葉を使わなくても想うことはできる。
言葉を使って想ったら、思う→考えるに近くなってしまう。
この太極拳の練習は、頭という身体の一部分だけの練習ではないし、もっと言えば、身体だけの練習でもない。心身を操る気(エネルギー)を扱う練習で、その射程範囲は想像を遥かに超えるほど広い(私にもどこまで広がるのか分からない)。
そもそも私達が頭で考えられることはそれまでインプットされてきたデータに基づく範囲内で、全く知らないこと体験したことのないことは考えられない。それほど頭の中は狭い。これを打ち破るのは体験、体感、感覚の類。考えていては瞬間瞬間の大切なものを逸してしまう。
頭で理解するのではなく身体で理解する。身体で悟る。
以前ある高名な上座仏教の長老が、ある人の「一度悟ったら忘れないのですか?」という質問に対して、「頭で悟るわけではないからなぁ。」とボソッと言ったのを覚えている。その頃の私にはその返答が理解できず、「じゃあ、どこで悟るの?」と聞きたい衝動にかられたが、今になってみればその返答は尤もで、それ以上詳しく答えなかったのも理解できる。もしあの時私が長老に「じゃあ、どこで悟るのですか?」と質問していたら長老はどう答えただろうか。きっと長老がどう答えたにしろあの頃の私には理解ができなかっただろう。それはひとえに、その頃の自分はその段階にいたから。たとえ頭がどんなに良くてもどうしようもない話。そしてそれは今もそう。今の私に分かることしか分からない。分からないことは考えても分からない。・・・・確か仏教史上頭の良さで名高いナーガルジュナがそんなことを言っていたような・・・。
結局、どんな修行も坐禅をして思考を止め、静かに自分の内側に入っていく。
どんな本を読もうが頭の足しにしかならない。自分を増す、自己の実存を広げるためにはそんな地道な練習が不可欠だ。
内側から増していけば次第に外側(身体)にも変化が出てくる、これはそんな道理に基づいた練習法だ。
2015/11/16 <昨日の圆裆の補足>
昨日のドームの図形が夢の中に出て来て、少し書き足さないと誤解を生むかも、と不安になった。
本当はメモをすべて画像で表したいくらいだけど、私は絵が一番の苦手。
頭の中に画像があるのにそれをなかなか外に描き出せない。
でもこれも一つの練習・・・脳のトレーニング?
下の左側の図はドームの図形が圆裆に見えた時にあった私のイメージ。
右の図は、こう見られたら困るなぁ、と夢で心配になったイメージ図。
違いは重大!
会陰を引き上げてこその圆裆。会陰を引き上げ肺の気を下げる=骨盤底筋を引き上げ横隔膜を下げる、そこにサンドイッチされたところに気が溜まる。丹田が形成される。
右図のようにただ股を広げて立っていても体内の変化は何も起こらない。
2015/11/15 <今週の気づき、諸々>
この一週間の練習でもいろいろな発見、気づきがあった。
思い出せるものを箇条書きにしてみる。(順番は思い出した順。きっと直近のものから遡っていくと思う。)
1.裆(ダン:股)の話
以前『圆裆』について書いたことがあったが、股が円い、という感覚が更に進化。
前から見て円いだけでなく、後ろから見ても(お尻の方から見ても)円い。
が、本当に大事なのは、下から見て(最近のニュースで排水溝に隠れて下から写真を撮っていた男性がいたけれども・・・そんな角度から見て)、その面が丸いということ。言い換えれば骨盤底筋が前後左右にストレッチされている。こんな股間の上に上半身が乗っていれば、下半身はものすごく強い。
圆裆はアーチ構造の橋によく例えられるけれど、最近の私の感覚ではそれよりもドーム構造に近いような。足は左右の日本の脚だけではない。尾骨(尻尾)は後ろの足、残念ながら私にはないが男性が股間に持っているものは前部の脚になり得る(女性なら任脈最後の曲骨の延長線)。こうすると正方形の机の4本の脚になり、その中心にある会陰は引き上がってドームのようになる。
イメージ図は頭の中にあるのだが、それを書くだけの技術がないので、少し似た画像で我慢(右上図)。
両足を閉じてでもこんな裆(ストレッチされた骨盤底筋)が作れれば達人のよう。突っ立っているだけでもものすごい安定感と力がある。電車の中で脚を揃えて閉じて立って裆だけでバランスをとるような練習も面白いかも。
2.松の方法
生徒さんから馮志強老師のテキストの記述をリマインドしてもらった。
肩を緩めるには肩井、肘は曲池。股関節は環跳、膝は陽陵泉、足首は湧泉。胸はダン中。などなど。
ツボを意識することによって松していく。
今の私にはできるけれども、5年前の私にはそれほど有効な方法だったかどうか疑問は残る。
ある程度練習が進まないとツボを内側から意識できないかもしれない。
この辺りは時間があれば少し突っ込んで検討したいところ。(馮老師のテキストもちゃんと読みこまねば・・・宝の持ち腐れ?)
3.面にする
ツボは点。つなげば線、経脈になる。そして経脈がつながってくると面になる。
練習が進んできたら自分の身体が面で動くようにしていく。
体中の皮膚が使えるよう、皮膚呼吸ができるように練習する(人間が本当に皮膚呼吸しているかどうかは賛否両論あるようだけれども・・・)。
そのためには身体の内側に(空)気をためて膨らませるようにするのと、動作の時に気を纏うようにするのが大事。特に手には気が纏わりつきやすい(綿菓子を作る時のよう。かき混ぜていると棒に綿菓子がくっついて大きくなっていくように、腕を動かしていると腕に気が纏わりついてくる)。缠绕(纏わりつく)は缠丝勁の外向きの表現のよう(内側はドリル、钻、のよう)。
4.お尻をふわっと開く。
お尻を開きたいからと言って力を使って押し付けるようにしては逆効果。
腹の気を両お尻に分けるように沈めていく。
この辺りの要領はとっても微妙で、私が生徒さんを教えるのにとても苦労するところでこれまでうまく教えられたという実感がなかった。
が、今週、この要領を掴んだ生徒さんが二人出現(ひょっとすると三人)。最初の一人目が出現した時は、思わずその生徒さんに「何故分かるの?」と聞いてしまった。自分の拙い感覚的な表現でそこに導けた嬉しさは格別!それが体現できる人が増えれば、もっと良い教え方、表現の仕方をその人達から聞くことができる。
同じ感覚を共有していても、それをどう言葉で表現するか、その表現の仕方は人それぞれ。でも表現は違っても同じことを言っているのが分かる。何か奥の方でつながりあっている、そんな風に思える貴重な瞬間。
5.靠(体当たり)の練習
今日初めてこの練習(遊び?)をしてみた。
思っていた以上の収穫あり。
まずは松の練習ができる。裏返せば、丹田に力を寄せる練習ができる。
そして身体を面で使う練習。中正を崩さない。
身体をゴムまりのようにして弾力を持たせる、身体のポン、の練習も可能。
遊びながらいろんなことが学べて楽しかった~。
今日の靠が面白かった、とその時のことを思い出していたら他の事を思い出せなくなってしまった。よってここで一旦メモは終わり。
2015/11/12 <抖(身体を震わせる)、その意義>
太極拳の”拳”を学ぶために行う基本功の種類はとても多い。
普段のクラスではタントウ功と主な内功3種類を定番としているが、内功は十数種類あるし、それ以外にも圧腿数種類(脚を広げるストレッチのようなもの)や歩く練習(これも数種)、関節を回す運動、それに缠丝功一式・・・私が今思い出せないもの、知らないものも合わせればかなりの数、量になり、とても毎回の練習で全部行うことはできない。
今週のクラスでは少し全身を奮わせる運動を紹介してみた。
これは私もパリでやらされたことがあるが、うまくできなくて、やっている自分がみっともなくて、ほとんど練習しないままになってしまった。太極拳は格好良いけど、このブルブルは格好悪くてやりたくない、というのが正直な感想だった。
が、今になって、ああ、これは丹田の形成に役立つか、もしくは、丹田があって初めて意味を持つ動きだったのね~、と納得。
昔見た馮志強老師の動画が頭の中に出て来て、あのように細かく震えるには丹田がとてもしっかりしてそれ以外がすべて放松していなければならないということが分かった。
生徒さん達に是非その動画を見せたくて、その部分をカットしてアップしてみました。
奮わせる動きは3種類紹介されている。両膝の抖动(抖:奮える)、 前後の抖动、 金鸡抖翎。
以前一度見て、馮志強老師の衣服が細かく波打つの姿が頭に焼き付いてしまいました。
動画の始めの部分は拍打功。これもクラスでやったことがあります。
中間が抖動。
最後が収腹功。(馮志強老師はいとも簡単に丹田を回していますが、私達にはこんな風には回せません。真似をするとただ手が回るだけ、あるいは、丹田が回っているような気がするだけ、になってしまいます。)
なお、最初の拍打功で打っているそれぞれのツボは大事なので徐々に意識できるようにしたいもの(クラスでも随分話しているつもりですが、分からなければ聞いて下さい)。
生徒さんに見せたかった抖动は1分45秒あたりから数秒です。
2015/11/5 <督脈と任脈、五臓と五行>
タントウ功はさらに進化を続け、今週に入って大きな自分でも感動的な発見があった。五臓が感じられるようになった!
ここ一か月の最大の課題は上焦(胴体を上から水平に三つに切った時の一番上の部分。天突とダン中の間、首から胸までの胴体部分)を緩めることだ。頸椎から胸椎5、6番あたりまでは特に凝り固まる場所。ここを含胸の要領できれいにつなげて開いていく。
これをするには命門を更に開かなければただの”せむし”のようになってしまう。更に後ろ重心~、と頑張ること一か月、頸椎から胸椎、そして腰椎、仙骨、そしてお尻と太ももの境目のツボ(承扶)から膝裏、膝裏から踵(踵は思っていたよりもまだ後ろがあったと判明)、そして踵から足裏に回り込んで5本の足指腹まで、がつながった。正確には上は頸椎よりも上、後頭部のてっぺんあたりからつながる。
ああ、頭から足裏までは一枚皮だったんだ~、と改めて知る。
このラインは督脈のライン。
ここから意識を身体の前面、任脈ラインに移していく。
それまではダン中をぐっと引いて曲骨(恥骨上にあるツボ)につなげていたが、上焦を緩めた(胸骨を背中側に押す要領:但し前肩にはしない)ことから、喉の天突のツボから一気に曲骨までつながる。もう少し頑張っていると、両目の下のツボ(承泣)から下向きに線がつながる。更に首を後ろに引き頭の角度を合わせていく。すると印堂穴(眉間の位置にあるツボ)、あるいはその奥の上丹田から曲骨までの線が現れてくる。
上丹田は、胸のど真ん中の空間と胃を素通りして下の丹田へとつながる。ああ、だから胸は開けなければならないのね、と含胸という言葉に秘められた意味を垣間見る。
こうして身体の背面の督脈と前面の任脈をつなげるようになり、しばらく練習を続けていたら、一昨日あたり、突然、あれ、肺が後ろにある?という感覚出現。肺は背中側にあったっけ?
その日のタントウ功の後、頭の中に、医者が健康診断で背中をトントンしていたのを思い出す。あれは肺の音を聞いていたのでは?
肺を背中側に感じるようになった翌日のタントウ功では、肺から下に降りれば腎臓、腎臓から斜め前に行けば肝臓、肝臓をあがれば心臓、心臓の裏には肺(ここで心臓から脾(膵臓)を経由して肺、というのもありだろう)という循環が現れる。これが中医学の五行理論。木火土金水。中国語だと金から初めて金水木火土、と言うよう。すなわち、肺→腎→肝→心。金(肺)は西、水(腎)は北、木(肝)は東、火(心)は南。土(脾)はど真ん中に位置する。
なお、先週あたりに肝臓に気を通すため右の骨盤と肋骨を少し開く練習をしていたから、肝臓は既に感覚が出ていた。腎臓はこの練習の要中の要だから改めて感覚をとるまでもなし。心臓はいつもドクドク動いているから私達がもっとも意識しやすい臓器だろう。ここに肺の感覚が現れたことで、脾以外のつながりが見えてきた。
中医学の五行による五臓のつながりは理論としてしかみていなかったが、身体の中で五臓は本当につながりあっているんだ・・・と一人えらく感動。
気のせいか、身体の前後の幅が膨らんだよう。
このままいけば、私の身体の左右の幅と前後の幅はいずれ同じになり、胴体の断面図がまん丸になるのかもしれない・・・・。
2015/11/2 <雑感、外側から内側へ、意識、量から質へ>
今日はお休みで朝から家でごちゃごちゃやっているが、ふとテレビをつけるとよくある通販番組になっていた。「歳をとると目元のしわ、気になりますよね~。たるみも気になりませんか?」
・・・そう言えば以前、ネイティブの英語教師を派遣する小さな会社でパートをしたことがあったが、その時社長は、「客の引け目、弱みにうまくつけこむのが商売のコツ」と教えて(?)くれた。
子供に英語のクラスに通うよう、父兄を誘うには、「今のうちから英語をやっていれば、将来、こんな可能性が広がる。」という言い方よりも、「今からやっていないと、将来あなたの子供さんの可能性は狭まり困ったことになりますよ。」みたいな言い方をした方が効果的、というのだ。
私は人を心配にさせて商品を売るようなことはできない、と、最後まで専ら前者のような言い方で通した。だって、別に将来英語ができなかったとしても、他の(もっと素敵な、大事な)ことができるようになったりするのだから。
老化、そして死は皆平等に体験することで、別に悪いことでも何でもない。
肉体が衰えていくことで、次第に肉体に止まらない自分の核というものに気づいていく。
いや、もし私達に老化や死がなければ、永遠に肉体的な表面的な生き方をし続けてしまうかもしれない。
肉体は滅びるもの、とちゃんと理解したうえで、じゃあ、私は何?と探索していくのが修行の本質。それはヨガでも道教の修行の流れを汲む太極拳でも同じ。
修行が身体を入り口とするのは一番入りやすいから。身体を内側から見る練習をしているうちに次第に自分が身体を操る人であり、身体を見守る人、身体とは別物だと気づいていく。そのうち、心(思考や感情)を見守るようになれれば、自分は心ではないと感じ始められる。私はもっと内側にいる。それはただの意識。曇りもない陰りもない意識だけが残る。
実はそんな”意識”の体験をかなり昔にしたことがある。
それは小学3年生の時の水泳のクラスの最中。ぼおっとプールサイドの柵によりかかって下にいるアリをみながら、「この私の身体はまだまだ大きくなって変わっていくが、これを見ている”私”はずっと変わらない。この”私”生まれた時からいたし、死ぬ時もいる。いや、生まれる前からいたし、死んだあともいる。」というようなことを感覚的に気づいた(もちろん、その時は文章なんて出てこない。後から文章にするとそんな感じ)。
それはとても不思議な体験で、その後、同じ体験をしたくて、校庭のユーカリの木をじっーと止まってみたり、その体験がおこったプールサイドに行ったりして、何度か試してみた。が、とうとう全く同じ体験は起らず、しまいには頭の中で同じ感覚を故意に作り出してしまい、子供ながら、いや、これは違う、と次第に諦めてしまった。
この流れで行くと、中学生の時の関心は理性と感情の関係だった。
これは対等なのか?どちらかがどちらかを制するのか?
卓球の試合でもそんなことを気にしていたことがある。試合中に感情を出してよいのか?
すごく調子が良いときは思考も感情もない。ちょっと崩れてくると思考と感情が湧き出てくる。
高校生になり、関心は言葉を浮き上がらせない状態、というものだった。
すこしでも言葉が出てきそうになったら、それが音を形成する前にぐっと飲み込んでみた。
言葉、音を出さないように圧をかけておくと、頭には思考が形成されない。
この状態で数学の問題は解けるのか?・・・全く駄目だった。
そして次第に生きる意味について考えたくなり、高校の先生に「何で生きるのでしょうか?」と聞いたところ「そんなことには回答がないし、考えていると大学受験に失敗するから考えるな。決して変な本には手を出さないように。」と言われ、私は素直に(?)をれに従った。
思えばかなり遠回りをしたけれど、今になって誰からも何も言われず好きなことを追求できる。
私が太極拳の練習を通して学んできていることを、なぜ学校では教えてくれなかったんだろう?と思ったこともあったが、このようなことは外界世界を一通り見てからやるのが順当なんだろうと思う。外を知らずにただ内向きに練習してしまうと人間としてのバランスを欠いてしまうだろう。
バランス感覚、陰陽の平衡、というのは太極拳の根本的な理念だが、××バカになってしまうと大きな視野が得られず、他者と一体になれないばかりか、永恒への感覚、宇宙との一体感、という壮大な目標には決して届かない。何とも一体になれない孤立した自分はずっと不幸に違いない。
私も娘を見ているとそのピチピチした若さが羨ましく思ったりするが、もしこの歳で20歳前後の女性のようなピチピチ感があったら、それはそれで気持ち悪いだろう。外が枯れてきたらその分内側はもっと充実させなければならない。外は外で大事だが、内側はそれ以上に大事で、最終的には内面的なものが外面に現れてくる。この練習をすればするほど、人の内面が外面を通して見えてくる。
先日の練習では、普段私が自分一人でやっている套路練習の仕方で、生徒さんを後ろにつけてやってみた。
内側の遠い自分(”意識”)が、超スローで動く自分の身体の、できるだけすべてを観察し続ける。
後ろで生徒さんがどんな風に真似するのか私には全く分からなかったが(遅すぎて間延び、間が持たない、あるいは飽きるかなぁ、と心配だった)、後々話を聞くと、とても良い練習だったという声も案外あった。遅れて練習に来てその光景を眺めていた生徒さんは、「皆の集中力と質の高さに感激しました。自分も次回は参加していです。」と言っていた。
質が変わる、というのは最近の私の気づきでもある。
身体(心を含めた心身)から意識への変化。
量(身体の練習の量)が達すれば質が変わる。quantum leap!
水は100度に達すれば気化する。90度では永遠に気化しない。
まずは量をこなすこと。
そしてあるところに達すれば質が変わる。