2015年12月

2015/12/30 <自主練の意味、師と一緒に練習する意味>

 

 昨日、今日は代々木公園で自主練をした。

 自主練、にしたのは私自身自分の練習に専念したかったのもあるが、生徒さんが自分で”盗み取る”機会を与えてみたかったこともある。

 普段は「教えなきゃ。」という私の意識が強いから、ともすると私が一方的に口出ししてしまったようになる。そして”教える”つもりで練習をしているので、その動きは自分で練習する時と多少違った形になってしまう。生徒さん達が初心者のうちはそれに合わせてあげた分かりやすい動きで良いのかもしれないが、内側の動きが分かりだした生徒さんに対してはもっと”本当の”動きを見せてあげなければならない。

 

 が、実際、馮志強老師にしろ私の師父にしろ、一人の時の練習方法、その動きは生徒さん向けのものと異なっている。毎日同じようにやるメニューもあるが、その日、その場の気の状態、自分自身の状態、などに応じてかなりspontaneous(即興的?)にやることもしばしば。ノリノリの時もあれば静~かなこともある。すべては内側の動きに応じている。

 

 私は師父が一人で練習している時は後ろで見ながら自分の練習をしていた。北京で陳項老師に習った時も老師の動きをよく見ていた。面白いのは、その時は何も理解できていなくても、後から思い出すと、「ああ、あの動きはこれをやっていたのね。」と頭の中に老師達の動きが動画のようになって現れ、それを今の自分が見て理解していたりするということ。

 ”見る”時は考えずにただ見る。するとそれは自分のどこかに録画のように残っていて、後で必要な時に浮かんでくる。(多分これは学校での勉強と同じ。先生が前で話している時に既に自分の頭の中でああでもない、こうでもない、と考えていると結局は先生が話していることを聞き逃して理解ができない。聞く時はただ聞く。見る時はただ見る。)

 私は師父達が動くのを見るのがとても好きだったから、見る時は身体全部が”目”のようになって見ていた。歩き姿、握手の仕方、指先の感じ、・・・どれもいい勉強になる。

 

 と、本当はこの二日間、全く教えないでいよう、と思っていたのだが、二日目の今日は(我慢できなくなって)少し教えてしまった。(師父は、今の私と練習するだけで生徒さん達は随分学べるはずだから私に教える必要はない、と釘を刺していたのだが。)

 一人に教えてしまったら、別の生徒さんを無視し続けるわけにもいかない。

 皆均等に教えなければ・・・なんて思い出した時、困ったことが起きてしまった。

それは30代になったばかりの男性がタントウ功をすると尾骨あたりに違和感がある、と言ってきた時。直感的に、この生徒さんにはタントウ功をさせるわけにはいかない、と教えるのを拒否したくなった。

 

 こんな気持ちになったのは初めてで、とっさにその理由を彼に述べたが、私自身釈明しながらそれで本当によいのかどうか100パーセントの自信がなかった。彼の顔が多少寂しそうになったのが気にかかって、どうしてあげたものか、とその後気になってしまい、帰宅後師父に電話をしてその件について師父の意見を求めた。師父も全く私と同意見。私の判断は間違っていなかったと安心。そこでこの場を借りて彼に対してなぜタントウ功を教えられないかの理由を書きたいと思った。

 

 彼は30歳。そして男性。健康体。体内の気の量が多く、タントウ功をちゃんとやればすぐに(数か月で)気が溜まって身体の内側からツボを開くことができるだろう。だが、逆に、少しでも間違えた方法でやれば、身体に悪影響を与える可能性も高いのも事実。このような生徒さんの場合はどんなに間をあけても一週間に一回は師と一緒に練習して調整してもらわなければならない。しかし現在の彼は仕事の都合で1,2か月に一回練習に来られるだけ。一か月も二か月も自分一人で練習したらどれだけ偏差がでるか分からない。私は怖くて教えられない。

 

 タントウ功は潜在力を引き出すが、その潜在力が大きければ大きいほど注意してやらなければならない。ただ套路(24式や48式)をやるだけなら一人で練習していてもそれほど害はないだろう。

しかし、タントウ功は内気を扱うので継続的な微妙な調整が必要。間違った方法でやっていると心身に害を及ぼす危険がある(まあ、これは何のスポーツをしても同じだけど)。ただ立つだけだから一人でできる、なんていう簡単なものではない。

 

 タントウ功は本来は師弟関係で教わるもの。

 中でも年齢が若く熱心な生徒さんの場合は注意が必要。身体の変化が速いだけに教える側もその分神経を使う。

 

 彼には定期的に練習に来られるようになったら改めてタントウ功を教えるから、と言っておいた。

 まだ若いから慌てないで。機が熟したら学ぶ機会も現れるはず。それまでは基本功や套路をして、背骨や股関節、肩関節を柔軟にしておいてくださいね。(どんなに仕事が忙しくても身体の基本的な手入れは忘れずに。毎日リセットしておけば硬くなりません。)

 

2015/12/28 <太極刀の練習>

 

 昨日の今年最後の練習には太極刀を持ち込んで、陳式心意混元の38式の第24式までざっくり遊び半分でやってみた。

 私としてはこの重くて長い刀を使って練習してみることで、素手になった時に指先まで気が通る感覚が早く得られるのではないかという計算があった。

 

 刀法は様々なものがあるが、昨日やってみたものは、

劈刀 (上から下 刀の腹上部を使って切る)

砍刀 (上から下 多少斜めに腹の腹下部を使って切る)

撩刀  (下から上)

扎刀  (刃先で刺す)

缠头裹脑刀 (頭の回りをぐるっと回る)

架刀  (両手で刀を支え上げる)

推刀  (刀を押し出す)

のようなもの。

 

 残念ながら日本の公園では太極刀を振り回すことができないようなので、私もせっかく習った刀をずっと練習せずにいた。

 しかしつい最近、生徒さんの中に刀を練習してみたいと早速購入してしまった人がいたので、私も試しに教えてみることにした。

 

 教える前に家で復習。

 狭い家だから思いっきり振ることはできない。天井を気にしながら小さく練習していたら腕が痛くなってしまった。

 昨日は大きな体育館での練習だったので気兼ねなく動くことができる。思いっきり身体(腰)から振り回せば遠心力が出てかえって腕は疲れない。

「うわ~、思っていたより重いですね~。」という男性の生徒さん達の動きを見ていると、背骨が棒のようになっていて肩から先で振っているのが分かる。これもやはり”腰”。腰の柔らかさが大事だなぁ、と改めて思った。

 

 刀を使うと左手の動きが自然に”そうなる”。

 右手に持つ刀が重いから左手をうまく使わないと身体のバランスがとれない。

 素手で拳を練習しているときはともすると左手(引き手)を適当に使いがち。刀をやると左手がいかに大事か、いや、左手によっていかに身体を開かせているか、が良く分かる。

 これはテニスの錦織選手が打球の際、パーになった左手の指先まで気が引っ張られているのと同じ原理だ。一度中心(丹田)から末端(指先)まで気を通せれば、逆に末端から丹田に向けて気を引き込むことができる。

 

 一回の練習で生徒さん達が何かを得られたとは思わないのだけど、私自身は久しぶりの刀でいろいろと新たな発見があった。自分の練習にも良いから、どこか隠れてでも練習したいところ。

2015/12/23 <冬至の坐禅を終えて、坐禅のお手本>

 

 昨日22日は冬至。

 陰気が極まり陽気が芽生える時。転換点。これから夏至まで陽気が増えていく。

 

 この日は天文学的に地球にとって大事な転換点。そういう意味ではクリスマスや正月の比にならない重要な日。

 冬至の2,3日前から身体が重く沈んだようだったが、この日を境にマシになるのか?

 とりあえず坐禅をしなくては、と帰宅後いつも以上に集中して坐禅を行った。

 

 やはり腹(臍下)あたりに気が溜まっただけでは”立ち上がれない”なぁ。

 会陰や肛門の床についた面から膣が立ち上がったようになると姿勢的にとても安定する(男性には膣がないがきっと内部的な感覚は似たようなものになるはず)。会陰から下丹田(子宮あるいは前立腺の位置)をつなぐ管がグッと立ち上がると背骨が自然に伸びていく。

 恥骨から関元あたりまでの最下部の腹の力の漲りが完璧であれば、頭頂までどこにも力を入れず背骨を立てることができるだろう。最下部の腹に力がある時は、背中側の仙骨や尾骨も立ち上がり力がみなぎっている。

 

 これは坐っていても立っていても同じこと。

 私はしょっちゅう道端の猫じゃらしを見ては、「なんであんなに大きな頭をあんな細い茎で持ち上げてられるのだろう?」と無邪気な面白さを感じるが、と同時に、そこにものすごい生命力を感じて心がじわ~っときてしまう。あの力は土の下に隠れている根っことそこから立ち上がった根元の茎の強さからきているに違いない。茎は上部にいけばいくほど細く放松し、簡単に風になびくようになっている。ああ、私達も同じだ!、私達も本来そういう身体を持っているはず、と猫じゃらしの姿は私にとって良いお手本になっている。

 以前、南京玉すだれ、が頭をよぎり、あれはどうやって立ち上がらせるのかしら?なんて考えたこともあるが、結局あれも人が根元をしっかり握った、その力が末端まで貫通して先端まで動きをもたらすことができるのではないかしら?(ということで右端の写真は南京玉すだれ)

 

 ・・・と、昨日の坐禅の話に戻ると、最下部の腹に気が沈んで立ち上がるまで来るのにきっと30分近くはかかっていただろう。本当の坐禅はここから出発する。ここまでは形を整えて以降形にとらわれずに内側に入れるようにするための準備に過ぎない。とはいうものの、ここに来るまでに何年練習しなければならないのか?内気が充満している若い頃に正しい指導を受けて練習すればかなり速く習得できるようだが、正しい指導者に出会わなかったり、かなり年配になってから練習を始めるとさらに長い時間がかかるか、多くの場合は入り口となる形の準備にも至らないまま終わってしまうことも多いという。

 

 結局、身体が放松しなければ身体より内側の動きは分からない。身体を忘れられるようになるために多くの時間を身体の鍛錬に割かなければならない。なんか矛盾するようだけれども、それくらい私達は身体にとらわれて生きている。

 タントウ功も坐禅も、ひいては太極拳も、最終的には身体を忘れて最奥の意(もしくは無為)だけになるところが(私の)最終目標だが、そのような面ではヨガ行者がやっていることと共通する。

 ヨガについては最近まとめて本を読んでいた。結局ディヤーナ(禅定)に入るためのアーサナ(坐法)を習得するために様々な鍛錬があるのだと知って、やはり身体にとらわれなくするための身体作りに多くの時間を割かなければならないのは同じことなのだと感じた。そしてその前提段階となる身体の鍛錬だけを取り出せば、健康法にもなるし美容法にもなりうる。こうしてこの部分が一般大衆に広まった、というのはヨガも太極拳も同じようだ。

 が、もし身体よりも内側を探求したいのであれば、それで一生費やすわけにはいかない。内側の探求も念頭に置いて練習を進めなければならないだろう。

 

 ヨガ行者の坐禅姿はどんなものか、とざっと画像検索していたら、美しい姿がいくつか目にとまった。どれも下っ腹に力があり、身体全体がとてもゆったりしている。

 このような坐り方は到底私達一般の人は真似できない。坐り方を通して心の統一が成し遂げられているのが分かる。

 ・・・と、これらの写真が誰なのか、全く分からず選んだが、それを調べたら、両者ともヨガ史上名に残る、私が評価するのは到底おこがましいような方達でした。

 

  左端はヨガナンダの師、ユクテスワ。 右二枚の写真は203年生まれでなお26歳の肉体を保持し続けているというババジ(1812歳?それにしてもカッコいい!)。冒頭の写真は無名のヨガ行者だが、腹の充実感がよく分かる。しばらくはその形が私のお手本・・・(下の二人は人間を超えていてお手本にはならないかも?)

2015/12/17 <48式の練習 足技の意義 脚を柔らかくする>

 

 数週間前から48式を教え始めている。

 

 24式を覚えるだけでも大変なのに~、という生徒さんもいるが、通常の進み方では一回のレッスンで一つの式を確実に覚えていって24週で大まかに24式を仕上げることになっている。

毎週ちゃんとレッスンに来ていれば24週、即ち半年で一通り24式を覚えることになる。

 その間、タントウ功や動功を併行して練習してきているから、第二回目にもう一度24式を第一式きらおさらいする時少し内側の動きを取り入れていく。が、第二回目の重要な課題は外側の動き(外形)を規範に近づけることだ。この時細かな身体の動きをチェックし、すぐに直せないものについては身体を根本的なところから開発する必要があるということだから、動功、基本功を見直して開発必要箇所の開発に取り組むことになる。

 24式の外形を規範に近づける努力を半年ほど行い、そこそこ外側が仕上がったら、48式を練習していくことになる。

 

 太極拳の套路は第一路と第二路がある。

 第一路は”松””柔”を得るための套路で、これを基礎として第二路の”剛”、即ち発力、発勁が行われることになる。ある意味、第一路は気功風、第二路は本格的な武術。が、実際は第一路の基礎の下に第二路が成り立っている(第一路だけでもれっきとした武術。晩年の馮志強老師は第二路をも一路風に”松””柔”でやっていた)。

 

 そして第一路の中から重複した動作を取り除いて編成されたのが馮志強老師による48式。その後、太極拳が普及し始め女性や老人の生徒が増えた時に48式から足技を抜いて再編成されたのが24式だと聞いている。

 私の師父が学び始めた頃は48式しかなかったから、皆最初から48式を学んでいたという。

 そもそも、あの24式のように、ただ左右の重心転換のみで歩いたり走ったり跳んだり蹴ったりしないような武術なんてあり得ないのだが、広く普及させるには馮老師も妥協せざるを得なかったのかもしれない。

 しかし、24式をそのつもりできちんと練習すれば腰が柔らかくなり、足腰も鍛えられる。そうすればその後の48式の足技の基礎が築けることになる。

 こう考えると、最大限に簡易化された24式はその後の足技を念頭に練習しなければならないということではないだろうか?(しゃがめない、跳べない、足が上がらない、では武術にならないのだから。)

 

 48式を教えてみると生徒さんの動きからまたまたいろいろな発見をする。

 足が上がらない、旋風脚に遠心力が働かない、脚にバネがない・・・・といろいろあるが、大体は腰が固く脚が硬い。腰の固さは腕の動きではごまかせても足技ではごまかせない。脚は直立でしか使わないと思っていると脚が潜在的に腕のように動くということが想像できない。

 纏糸勁は丹田の力を末端に届けるための力の運用の仕方だが、末端とは指先と足先。四肢と言う通り、腕は前足、脚は後ろ足。4本同じように動けるのが理想だろう。脚も腕と同じように纏糸勁の螺旋運動ができなければならない。脚も腕と同じように”松”して柔らかくしなければ弾力(バネ)がでてこない。

 

 この関連で言えば、タントウ功もある段階に来たら脚の力を抜く練習をする。本当に脚の力をすべて抜いてしまうわけではないが、脚を”松”することで筋肉を硬直させずに立つ要領を取得する。脚が硬直していたら力を上下に伝えることができないしバネも出てこない。ある時ある生徒さんに、「脚の力を抜いてね。」と言ったら「脚の力を抜いたら立てないでしょ。」と言い返されたことがあったが、理屈的にはおかしくてもそうとしか言いようのない大事な要領だ。これは身体で分かってはじめて納得するようなこと。頭で考えても分からない。

 

 羽生君の動画を師父に見せて、なぜこんな身体でこんなに跳躍力があるのだろう?と質問をしたら、「彼の筋肉は条性(一筋、一筋で成り立っている)で、塊性ではない。」という短いコメントをしてくれた。

 筋肉は塊にせず、一筋一筋の集まりにする。これがバネのもと。

 そんな脚の筋肉を作るにはやはり力をこめないようらせん運動をしながら気(空気)を通さなければならない。柔らかい脚をつくる。48式を練習すると脚の奥深さが見えてくる。24式の練習や基本功までもがまた違ったものになってきそうだ。

 

 

2015/12/14 <芸術←テクニック←基本功、細かくチェックする>

 

本当は昨日、最近の練習で注目していた点につき書き出すつもりだった。が、帰宅後すぐに羽生選手の演技を見てから夜までその感動と甘い余韻に浸ってしまったため、練習のぐじゃぐじゃとしたことを忘れてしまった(思い出したくなかった?)。

 

丸一日たって、やっと頭が普通に戻ってきた。

そう、羽生選手の演技がいかに芸術的でもその表現の根底には確固たる技術がある。

芸術は技術プラス表現。両者揃えるというところがミソだ。

テクニックだけでも表現だけでもダメなのだが、通常、まずテクニックを磨いてそれを基礎に表現をしていく。技術は表現の基礎。これは太極拳でも同じだ。

 

そして技術の習得とはその種目に特有な身体の使い方を学ぶということだが、実はその前提として非常に重要になってくるのが、そのような身体の使い方ができるような身体を作るということ。これが所謂、基本功と呼ばれるものだ。

 

基本功は身体を使うスポーツ、芸術ならほぼ共通する。

力をつける。そして可動域を増加させる。この2点だ。

太極拳の練習なら築基功(タントウ功)で気を丹田に溜めるとともに下半身の力をつける。

その後の動功で気を流しながらツボや経絡を開いていく(関節を開くも含まれる)。

 

昨日の練習では坐禅をやった。

お寺でやっている坐禅やヨガの坐禅と異なる、腹に気を溜めるための坐禅。

かなりの苦しさきつさに顔が歪んでいる男性もいた。

まず腹に気を溜め会陰まで気が落ちていくようにする。その過程で徐々に骨盤を立てていく(股関節を更に緩めていく)。意識は下にありながらも自然に背骨が気で押し広げられていくようになっていく。

これも毎日20分から30分以上続けるのが大事。

身体に気が満ち溢れた時、まさに自分の身体が”充電”されたように感じる。

足先まで気が達すれば、坐禅で脚の経絡を開くことができるのも分かる(肩、腕の経絡を通せば指先まで気が達する)。

 

拳において、拳の力は3割、足の力は7割、というような記述を見たことがある。

力は脚根(踵)から、という言い方もある。

いずれにしろ手の力は足から発する。

ここで注意するのは、”脚”、即ち、太ももや脹脛から発するのではない、ということ。

足は足首から足先までの部位だ。

足裏(足指から踵をつなぐ一周)で地面を”钻”(ドリルのようにねじ込む)して力を産出させる(その前提として身体の気を足裏まで落とす。身体の気がいったん地面下へ潜ってまたそれが足裏に戻ってくる、という人体と地の間での気の循環。)。

 

めでたく足裏から力が発せられたとしてもそれが拳に届くには何個もの関所を通り抜けなければならない。関所は主に関節部分にある。

足裏→足首→膝(膝裏のツボ)→股関節(環跳)→腰間(腎の部分)→肩甲骨→脇→肘→手首

この途中で引っかかれば気はそこで断絶してしまう。

どこで断絶してしまうのか、時には一つ一つチェックしていく作業が必要になる。

どのパーツもそこそこ難関(だから関所!)。

雑に練習していると、永遠に経路を外れたままの動きになりかねない。

 

羽生選手の動きがとても細やかなのも、身体のパーツパーツ、隅々まで神経が行き届いているからだろう。本当に丁寧な練習がなされている、その賜物。

この辺りも見習いたいところ。(また羽生君の話に戻ってしまった!)

 

2015/12/13 <羽生選手の演技、松、陰陽のバランス>

 

 アイススケートのグランプリファイナルで羽生君(選手)がまたまた記録を更新したと知って、帰宅後すぐにその演技の動画を見た。

 この前のNHK杯の演技で既に最高の域に達していたが、今回は点数上それを上回っていた。

前回の演技も今回の演技も私はユーロスポーツの英語解説で見たが、その中で解説者達が、「なんと容易く(”easy")4回転を決めることか!」とか、「これだけの演技をこれほどの容易さで("with ease")でやり終えるとは!」というような表現で、何度も"easy"という言葉を使っていた。

 

 私はNHK杯の後のインタヴューで羽生君が、「血のにじむような努力をしました。」とはっきり言いきっていたのを知っている。彼の演技は彼にとっても決して"easy"ではないはず。だけど見る人、少なくともイギリスの解説者には、"easy"、に映るようだ。

 

 私にとってその"easy”はまさに太極拳で言うところの”松”。

 羽生君のすごさはその”松”、余分な力が抜けた、抜け感、にある。

 普通なら、腕と肩を固め、力を込めて4回転!というというところが、彼の場合はそうではない。手足の力が抜けているから(筋肉の硬直がないから)、力が中心から末端へと滞りなく流れていく。すると手足の回転は遠心力として働く。もともと長い手足が更に長く見える。

 

 羽生君の身体の使い方は太極拳的身体の使い方のお手本

 彼がどうやってそれを習得したのか知らないが、それは恐らく、彼の中性的な身体とも関係があるのではないかと思う。通常の男性なら筋肉がもりもりになっても良いところ、彼の身体は女性的な柔らかいしなる筋肉でできているようだ。普段の仕草にも女性的なところがあったりするから、そのあたりで陰陽(男性、女性)のバランスがうまくとれているのかもしれない。

 

 太極拳は女性的な面が多く含まれている。

 攻めるよりも守る(守りながら攻める)。

 自ら動くよりも相手の動きを待つ。

 まず静、動きはその後。(だから静功は必須)

 見るよりも聴く(見るは主導的、男性的。聴くは受動的、女性的)

 考えるのではなく感じる。

 出すのではなく、取り入れる(推すのではなく引く:推していても引いている)

 

 聞いた話によると、あの馮志強老師でさえ酒の席で、「自分も太極拳を学んで女性ぽくなった。」と言っていたことがあるとか。

 男性ならそこに女性の質が入り込む、女性ならそこに男性の質が入り込む。それでやっと一人の人間の中の陰陽のバランスがとれるのかもしれない。

 

 昔ブログのエッセイで書いたことがあったと思うが、太極拳で得られる質に”秀"というものがある。

 ここでの”秀”の意味は、”秀麗”に使われるように、麗しい、美しい、という意味だ。

 太極拳を練習すると次第にそういう人になっていく、というのが理想だ。

 ただ強いだけの筋肉隆々とした粗野で下品な人物は理想ではない。あらゆるものの機微を感じられるような敏感さ、しかし、敏感であっても感覚に翻弄されない芯の強さがあり、加えてそこには仏教の蓮の花で表現されるようなどこにあっても汚れない高潔な精神、高貴さまで感じられる。それが私のイメージする”秀”だ。

 

 今回羽生君のフリーの演目が『陰陽師』だったが、イギリスの解説者はそれを「古来の日本の男性の強さと美しさを表現している」と言っていた。ああ、そこには男性でありながら何という透明感があることか!(彼は安倍清明でなくて光源氏でも演じられそうだ。)

 羽生君の滑りはもはや舞のようで、アイススケートがもはやスポーツではなく芸術と化していた。「こんなクォリティで滑れるスケーターは羽生以外にいない!」と解説者も絶賛。

 

 ・・・私も太極拳でそんな風な質を表現したいなぁ。

 太極拳の場合は演じての表現ではなく、自分の核心の質が身体を素通りして表現されるのだろう。身体はもはや空。

 身体が空になったらどんなに楽だろう。どんなに透明感が出ることだろう。

 そんなことが可能かどうか分からないけれど、羽生君を見ているとそんなこともあり得るのではないかと思ってしまう。

 でも最後に彼の言葉、「血のにじむような苦労をしました」、がやはり心に残る。


2015/12/10 <丹田に帰する、入門、『師父領進門、修行在各人』>


 先週末に無事忘年会を終了(何が”無事”だったのか?)。

 普段顔を合わせない別のクラスの生徒さん達と交流を持ってもらおうというのが私の狙いだったけれども、料理の美味しさにワインも進み、気が付いたら料理とお酒を堪能して終わった・・・という人もいたような。


 お酒を飲まない(飲めない)私は、酒を飲んで酔ったり上機嫌になったり、という体験がないからその楽しさは皆の様子を見て想像するしかないのだが、そこから察するに、お酒があれば月並みな話でもかなり楽しめるようだ。かえって頭を使う深い話はそぐわないのかもしれない。

 ともあれ、お酒が入ると人は普段言えないことを言ったり本性を露呈する。冷静にそれを観察するのも面白い。生徒さん達の練習時とは違った一面が垣間見れる貴重なひと時だが、酒で練習をチャラにしているのではないか?と心配させるような人もいる。やはり酒好きは酒を制御するのが難しそう・・・。酒で練習が元の木阿弥にならないように。これも修行。


 忘年会では複数の生徒さんから、私の教え方は独特で毎回違ったことをして面白いというようなことを言われた。毎回新しいことを言うので最初の頃は面食らったという話も聞いたが、次第にそれに慣れていって徐々に辻褄が合うようになった、と言ってくれたので、内心ほっとした。


 練習の中ではここはこうあるべきだの、あそこはああだの、細かく言ったりするが、最近はっきりしてきたのは、それは全て丹田への集中に帰するためだからこそ、ということ。

 太極拳の基本的な要領、虚霊頂頸、沈肩墜肘、含胸抜背、塌腰敛臀、松胯屈膝、五趾扣地、提肛、提会陰、松腕垂指、舌抵上颚、なども、一個一個個別にできるのが目的ではなく、総体として要領をそこそこクリアしていくと丹田に力が出てくる、という丹田形成が目的になっている。

 これらの要領は、丹田に力(気)を集めている状態なら総体としてそうなっているはず、という、いわば”完成形”から引き出された要領だから、逆に言えば最初からすべて同時にクリアできるわけがない。この要領をクリアすると別の要領が落ちる、という仕掛けになっている。そんな矛盾をうまく解消しながら徐々に完成形に近づいていく、陰陽が混ざって一つになっていく、そこを味わうのも練習の一つの醍醐味だ。


 太極は無限の観念が含まれているので、ある意味終焉を意味する”完成”ということはあり得ない。いつも未完成でだから進歩し続ける。

 が、かと言って、”完成形”が全く見えない”未完成”の状態があまりにも長いと人は次第に意欲を失ってしまう。

 ちらっとでも”完成形”らしきものが感じられると、もう少し進もうという意欲が湧いてくる。

この練習では丹田の感覚、内気、内動が感じられるのが、”完成形”のちょっとした一部分を見た気にさせてくれる。この内側の感覚が出てくれば太極拳の門をくぐったことになる。ここで初めて入門。そうすれば練習はやめられなくなる(はず)。


 『師父領進門、修行在各人』(師は弟子を門まで導くが、その後の修行は個々人で行う)

という言い方がある。

 私の役目は取り合えず門まで連れていくこと。そこまで行けば各人一人一人で練習できるような基礎ができる。

 それまでは少しでも多く一緒に練習すること。毎週一回コンスタントに練習に来ていれば2年から2年半くらい。室内練習だけだとそれより多くかかるかもしれない。練習に来る頻度が少ない場合はさらに時間がかかるか、もしくは内気を感じるところまでもっていけないかもしれない。

 このあたりは一人練習がとても難しい。本をいくら読んでも無理。師父の臨在の下に、なんて言葉はあまりにも仰々しいけれども、できるだけ一緒にいて感じる、というのが最も大事なことだろう。身体の外側の要領や技術はただ教わることができるが、内側については教わるというよりも、一緒にいて感じやすくなり次第に導いてもらう(気が付いたらそうなっていた)、という経路を辿る。


 前回のメモにも書いたが、最近やっと内側の感覚がとれる生徒さんがちらほら出てきたので、すべて言葉で説明しなくても、私がやってみせて(内気を動かしてみせて)それを真似させれば事足りるという省エネの教え方ができるようになった。身体の中正をとるにも、まずは丹田を失わないように動く、という丹田をメルクマールにした練習ができるようになった。土踏まずが下がると丹田の感覚が失われるとか、膝を曲げる時に丹田の感覚を失わないように曲げるには膝裏をひっかけておかなければならないとか、肩が上がると丹田がなくなるとか、そういう感覚が分かる生徒さんが増えてきた。

 ここまでくれば、なぜ胸は少し含まなければならないのか、なぜお尻に力を入れてはならないのか、などの疑問は、丹田との関係で自ずから自分自身の身体が回答を与えてくれる。


 今週は足首に注目していた。

 足首は思っている以上に固く、使えていない!

 足首が固いと膝に負担がかかる。

 首、腰、足首、三つの”枢軸”についてはまたの機会に(書けるかなぁ?)。




2015/12/1 <生徒さん達の進歩>

  (12月1日に書いたものがアップできていなかったのを今日5日になって気づきました。遅ればせながら。)


 早くも12月の突入。

 またしばらく書くのをサボってしまったが、その間に相当の量の書きたいネタが頭の中に浮かんで、そのうち半分以上は消え去っていった。

 

 まず、自分の練習でまたまた面白い身体の変化、気づきがあった。

 足裏のウェーブ、股関節と肩関節との連動、尻で跳ねられそうなほどお尻に気が溜まりだしたこと、等々。一つ一つが面白い現象で、説明するのが少し複雑なので(頭を使わなければならない!)、これらについては機会があれば追々書くことにしたい。

 

 そして自分以外、生徒さん達の最近の身体の変化。私が目で見て分かるものもあれば、会話で分かるもの、報告を受けて分かったものなど様々。

 

 私が教えている太極拳の核心は身体の中の動きが分かるようになり、いずれは内側の動きが身体の外側(筋肉や骨)を動かすようになることだが、2年ちょっと練習し続けている生徒さん達の中に内側のつながりを感じるようになった人がポツポツ出てきたのが分かる。が、必ずしも本人がその感覚に核心を持っているわけではない場合も多い。が、指示をするとその通り内側を動かせたりする。

 このような現象については既に以前のメモでも書いたように思う。が、それに加えて最近そうかなぁ~、と思うのは、このような感覚はある時急に、劇的に感じられるようなものではなく、気がついたら”できる”ようになっているような類のものらしいということ。感じよう、感じよう、としている頃は感じられないのだが、それも忘れて黙々と練習しているうちに、気がついたら内側を操作できるようになっていて、そして初めて感覚が定着する、という順番かもしれない。

  できる→感じる or 感じる→できる?

  ”できる”のは身体、”感じる”のは脳。身体の経験が脳を変える、というのを聞いたことがあるけれど・・・(面白い話題だけどこの辺りはまだ分かっていないのでこれ以上深いりしないことにします。)

 

 生徒さんの進歩の例。

 ある生徒さんは、朝起きたら寝違えたようで首が痛かったので、しばらく寝ころんだまま中をつないだら首の痛みが軽減しました、という報告をしてくれた。”中をつなぐ”という表現を当然のように使っているが、内功をやっていない人には恐らく意味不明の言葉だろう。

 別の生徒さんも丹田に気を集められるようになり、それを練習中に他の生徒さんに、ここをこうして、ああして・・・と他の生徒さんに説明していた。私も一緒に聞いていて、ああ、そう説明するのね、と、私とは違う表現で同じことを言っているのが理解できたが、まだその域に達していない生徒さん達にとっては分かるようで分からない話なのだろうなぁ、と何だか面白かった。

 その他、本人が気づいていなくても私が練習中に見て確実に進歩しているのが分かる例は最近とても多い。

 

 そのような中で、一人、大きな病気を二年の練習で克服したという生徒さんがいることを間接的に知った。なんだかあの人、最近明るくなったなぁ、と話していたら、別の生徒さんがその生徒さんのブログを読んでいて、実は彼は病気を克服したようですよ、と私に教えてくれたのだった。

 なんで私に直接言ってくれないのかしらん?、と思ったりしたけれど、聞けば話してくれても自分から話さない、という人がいるのも確か。たまたま同じ病気を患う生徒さんに出くわしたことから、彼の了解を得てブログをその人に紹介することにした。・・・・病気のある人は健康体の人よりも真面目に練習しているなぁ、と私も刺激を受けた次第。(彼のブログは掲示板『仲間のページ』の方に紹介します。)

 また、以前一度大阪からわざわざ東京まで個人レッスンを受けに来た生徒さんは、最近私が書いた、アーチの話の中の”横隔膜”に反応して、現時点における身体の中の感覚について報告をしてくれた。その文面から、一人地道にタントウ功を行っている様子も伺えるとともに、「サイフォン式タントウ功」と自らネーミングしたというところに、彼が確実に進歩してしているのも分かりとても嬉しかった。

 この生徒さんのメールの一部分も彼の了承を得て掲示板に貼り付けます。

 

 そして最後に最近の横浜クラス。タントウ功の集中度がグッと上がった。私が動功を始めようと思っていも皆はまだタントウ功をし続けたい様子。私の方が気を使ってしまう。

 生徒さん達が進歩すると私ももっと努力しなければならない。生徒さんから刺激を受けられるのはとても嬉しいこと!

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『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

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練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

   馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

発表の抄録、資料はこちら