2016/8/29 <竪円、収腹功・混元円、纏糸勁から発勁へ>
ある男性の生徒さんからもう少し(日頃のストレスを)発散できるような練習がしたいとの要望を受けた。
そう言われてみれば、ここしばらく24式の復習をしながら、身体の中を更に細かく見ていく練習に重きを置く、言わば、”内向き”の練習に偏っていた。気の動きを逃がさず捉えていく練習は気が抜けない。身体は放松しなければならないが、意が内側に集中しすぎて神経質になり過ぎるおそれもある。
指摘されて私もはっとし、剛の拳である46式の炮捶(二路)をやるべきかしら、と劉師父に相談。それも一案と言いつつも、なぜ普段発勁させない?と逆に問われてしまった。
柔の拳である一路の24式や48式でも発勁できる箇所がある。一路は気を溜めるもの、との固定観念の強かった私は生徒さんにも発力を全く勧めていなかった。が、身体が特に弱いのでもない。成人男性にとっては、時に発力することは自然で大事なこと(ストレスがあるならなおさら!)発勁の時に合わせて哈(ハ)!と声を出せば効果が高まる。
ということで昨日は多少発勁をする練習をしてみた。
今日はスカイプで24式の第二式の冒頭の竪円を教えていた。
この一個の竪円には忘れられない思い出がある。
馮志強老師が代々木の体育館で表演をしたのを見に行った時の事。私はまだ太極拳は習い始めたばかりで、中国の老師達の武術の表演を見た際も蹴りや跳び技などのアクロバティックな動きに目を奪われがちだった。そこで最後に登場した馮志強老師。私は真正面にまだ幼い娘を膝に抱いて坐っていた。
馮老師はそれまでに表演した若い中国の老師方に比べればとても高齢だった。噂は聞いていたから、何がどんなにすごいのだろう、と興味津々。食い入る様に見始めた。
演武が始まり、ゆっくりほとんど棒立ちのままの第一式(それまでに少林寺系の武術を学んでいた私にとってはただのお遊戯?にも見えた)、そして第二式。票老師は第一式よりも腰をどっしりと沈ませて、両手で一つ大きな円をスルッと描いた。この円を見た時、どうしたことだろう?、私の目から涙が込み上げて落ちてきそうになった。私の真正面で、本当にまん丸の円がスルッと描かれた。それだけで胸が詰まるような、胸が開くような、何とも言えない刺激があり思わず涙が込み上げてきたようだった。
その後第二式の提膝(膝上げ)の動作で馮老師はバランスを崩して多少よろめいた・・・かと思ったら、老師は舌をペロッと出して笑ってそのままなんてことなく演武を続けた。
その後のことはもう記憶にないが、何といっても第二式の円(混元円)と失敗して舌を出した馮志強老師のことはよく心に残っている。
第二式の冒頭の円が最終的に馮志強老師が確立した”混元円”であることは実は最近知ったこと。
最初はチャンスー円だったのを混元円に徐々に変えていったようだ。
混元太極拳たる所以の混元円。最近北京の本部に行った時にそこで読んだ文献によれば、『混元円』こそが陳発科先生が最後の弟子である馮志強老師に”最後に”伝えたことだったらしい。
今日のスカイプレッスンでは竪円の練習をした。
収腹功から混元円へ、それからチャンスー(纏糸勁)を使った竪円へ。バリエーションがある。
冒頭に書いた発勁はチャンスー勁の先にある。
2016/8/25 <スカイプレッスンの復習、第一式に含まれる練習、ポン、按の要領>
今日はタイに住む女性と初>めてのスカイプレッスン。
第一式(起式)を材料に教えてみた。
以下は彼女に対する復習も兼ねたメモ。
1.起式を始める前は無極タントウ功から始める。
目で前方を直視してしばらく待ち光が戻って来たら目に引き込んで"目と耳の交差点”(祖窍穴)まで引き入れる。そこから丹田に向けて釣り糸を垂らしていくように”意”を腹まで降ろしていく。
<頭にある”意”を腹にある”気”まで降ろし、意と気を合わせる
→次第に丹田が形成される*毎日やって100日とか?要は毎日少しずつ続ける>
<胸(肺)の気が次第に腹に落ちていくようにする。自然に落ちなければ少し”形”を調整。
→ 沈肩と含胸を意識的に行う。 *この要領は後の動画を参照
→ 一旦腹に気が落ちたら、腹で肩と胸を引っ張り下げておく。
(これが分かるようになればしめたもの!)
2.起式では体内で気が周天する。
特に分かりやすいのは第三の動作:ポン→按。
これは任脈が上がり督脈が下がる(順回転)。
★この準備運動として腰回し(立て円)の練習を行う。
順回転:
会陰→恥骨(曲骨)→関元→気海→臍 (以上任脈の上昇)
(臍から体内を後ろに貫通)→命門→腰陽関(腰椎4番と5番の間:腰骨ライン)
→腰俞(仙骨と尾骨の接点)→長強(尾骨の最後)→会陰 (以上督脈の下降)
逆回転は順回転の逆回り
まずは背骨(外:筋、骨、肉)を柔らかくする。
(いずれは外を動かさずとも内側で気が動くように練習していくが、今はその準備段階。)
3.起式の第三動作、ポン、アンの気の流れは次の通り。
ポン:会陰に力(気)を溜め、その気を使って会陰を上に引き上げる。
(この要領をレッスンでは"(畑の)カブを引き抜く”動作を使って説明。
腰の力で引き抜くのではなく、一旦会陰周辺に力を回してその力で引き抜いていく。
正確には会陰の力を命門に向けて斜め上に引き上げていくようになる。
会陰の力を使う感覚を身体で覚えるのが大事。)
按:ダン中(胸の奥のツボ)から会陰に向けて気を降ろす。
会陰は下丹田(男性は前立腺、女性は子宮口)まで引き上げたまま。
ポンと按をつなげた場合の気の流れは、会陰→ダン中→会陰(下丹田)となる。
最後に坐禅の形でポン、按、特に按の要領を伝えようとしたがスカイプの回線に混乱が生じ断念。その後彼女ために簡単にビデオに撮ったのでここに貼り付けます。
*坐禅でお尻を持ち上げる時、できるだけ骨盤は真っ直ぐなまま。(恥骨をしゃくれた顎のように前に飛び上がらせない。恥骨で折ると会陰が真っ直ぐに引き上がらない。)
*ポンで会陰から下丹田まで気を上げ、アンの時はその下の引き上げを消さないように胸の気を下に押し込む。下丹田(もしくは中丹田)でドッキングさせる。放松で会陰を緩めて下へ抜く。
レッスンは以上。
2016/8/19 <降気洗蔵功の呼吸から>
今週はスカイプレッスンを試してみた。
二人の生徒さんにタントウ功とその補助練習をそれぞれ教えてみた。
当初は30分で終わる予定だったが、やはりかなり延びてしまった。
ただ一人だけに注目できるので、その人の課題、癖は分かりやすい。そしてその課題に合った練功法を数ある練功法から選び出してくる作業はあたかも薬を選ぶ医者のようでやりがいがある。決められた時間内で処方箋を出すために私の頭もフル回転。余計な指示をせず、簡潔に、ピンポイントでアドバイスできるようになるには更に努力と経験が必要。これまでのグルグル循環するような練習とは少し毛色が変わっている。このまましばらくやってみるつもり。
レッスンの後、一人の生徒さんから呼吸について質問があった。
降気洗蔵功で手を降ろしてくる時に呼気が続かないとのこと。
この功法は手を上げながら大自然の気を取り入れ、手を降ろしながらその気を百会に入れ丹田、そして湧泉まで降ろしていくもの。気によって内臓を洗う。ちゃんとやるなら、百会から目の奥(祖窍)を通って、喉を通り抜け、胸(心臓)を通って胃を洗っていく。それから腹、臍、そして丹田に達する。足まで降ろすならそこから更に気を降ろして下丹田(腰骨の高さにある丹田)に達しそこから腰骨あたりで左右の脚に分けて股関節、太もも、脹脛、足裏(湧泉)へと達する。
スカイプレッスンでは生徒さんに手を上げる時に吸って、下げながら吐いて、と単純に指示をしたが、そのままやるとどうしても吐く息が続かず、途中で息継ぎが必要になるという。
実はこの練功の際も(も!)、呼吸は”自然呼吸”。
他の練功もそうだが吸ったり吐いたりの指示はない。
最初の頃は体内の気を上から下に下げていくためには、吐いた方が分かりやすい(吐き下ろす)。だから放っておけば生徒さんは手の動作と一緒に息を吐いている。息を吐き下ろしていくと、どこまで自分で呼気をトレースできるのかが自覚しやすい。喉で止まってしまうのか、胸までは息が通るのが分かるがその先が消えるのか?胃を通過するのは分かるか?腹まで落ちたのを実感できるか?
呼吸は目で見るというよりも耳で”見る”感覚だ。耳でよ~く見ていると自分の息がどこまで落ちていくのか分かる。
吐いて気を降ろした時にすぐに息継ぎが必要になるとしたら呼気が漏れている。丹田に向けて、グッと吐き込んでいくのがコツ。ぐっと、でも細く吐き下ろす。
丹田に呼気が届くころには丹田の感覚が形成されているはず。
逆に言えば、丹田の感覚なしに呼気を丹田まで降ろすことはできない。
会陰の上げ、これに寄るところ多し。
ここまでできるようになれば丹田で吸う感覚が出てくるから、次第に息を吸ったまま気を降ろしていくことができるようになる。
手を上げる時も下げる時も吸ったようになる。
が、本人には俗に言う”吸って”いる感覚はない。強いて言うなら吸っている感じ。
これはもはや鼻で吸うのではなく丹田で吸っているから。
丹田で(鼻から)気を吸い込んでいる。(が、鼻を使っている感覚はない)
太極拳で言う究極の”自然呼吸”とはこのような丹田による呼吸なのかもしれない。
下に馮志強老師の降気洗蔵功を載せます。
ずっと吸ったような感じ、なのが見て取れますか?
*注
もう少し正確に言うなら、練功中(太極拳を含めて)の息は、
吸って→溜めて(蓄)→吐いて→吐き切る(松)
となっている。
このうち、『蓄』の時間を最も長くとるのが内気を養うコツ。
吸うよりも吐くのを多くすると、通りが良くなるように感じるが、練習後の気の量は練習前よりも減ってしまう(若者向きの練習になる)。
高血圧や心臓病、脳の疾患のある人は呼気を多くしなければならないが、その他の人は徐々に吸って溜めて体内で気を循環させる時間を長くするよう練習をしていく。
馮志強老師の動画も、この『蓄』の時間が長いのが分かる。
(もしその他の内功も見たければこちらをどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=ZgqQJxmA3Fw)
2016/8/9 <内転筋群、恥骨に向かって引き上げる、圆裆>
私達が運動をする時は必ずといってよいほどちょっとした中腰姿勢をとる。
かけっこの”ヨーイ”の姿勢、ジャンプをする前の準備姿勢、テニスや卓球の構え、レスリングや柔道、相撲しかり、私達が動き出す前にとる準備姿勢は、実際のところ虎や猫などの四足動物が獲物にとびかかる前の姿勢と同じだ。
私達は本能的にこの姿勢を知っている。教わらずとも幼児の頃から自然にそうしてきている。きっと遺伝子にインプットされているのだろう。だから改めてその意味を問うことがない。
タントウ功はまさにその姿勢を保持するもの。
動き始める前の中腰姿勢をよくよく調べていくと、それは実は四肢をはじめとする身体中の筋肉から力を丹田に向けて移動させるものであることが分かる。これを使って身体の内側のエネルギー量を増やし、使う時には外周に向けて送り届けるようにする。使わない時にはまた中心(丹田)に力を引っ込めておく。その繰り返し。これが人体内でのエネルギー循環の図式だ。
タントウ功で間違えがちなのは、そのままスクワットのような中腰姿勢をして、脚の筋肉を固めたり腰を固めたりしてしまうこと。骨盤が固いと(坐骨や大転子あたりにゆるみがないと)膝に負担がかかって膝を痛めやすくなる。
注意点が多く一筋縄ではいかないタントウ功(二足立ち、二足歩行)だが、それまで知らなかった自分の身体を探求するにはもってこいの練習だ。
今日はある生徒さんのために内転筋を使うことを意識した練習をしてみた(今日は特別暑かった!)。
タントウ功に限らずどんな動きでも内転筋が”効いて”いなければならない。
内転筋がうまく使えないと会陰や肛門を引き上げることもできない。
下に図を載せるが、太もも前面の大腿四頭筋は丹田形成と直接関連しない。丹田形成=身体の中心に力を寄せる=身体のコアを作る、には俗にいうインナーマッスルを鍛えなければならない。
そういう意味で内転筋はとても重要な筋肉で、太極拳の練習の際、股関節を緩めたり、着地の際に内かかとから着地したりするのも、みな内転筋を作動させる効果がある(内転筋を使うと脚と腹がつながってくる)。
参考までに下に内転筋と大腿四頭筋の図を載せます。(右下は大腿四頭筋、その他は内転筋群)
(内転筋、動かせますか?特に、左上の図の恥骨筋を意識して動かせるようになるのが大事。)
馮志強老師の姿を見ると内転筋が”効いて”いるのが一目瞭然。会陰が引き上がっている感じも一緒に移っている生徒さんと比べると分かると思います。(股ぐらが丸くなっている:圆裆)
中国のサイトから、主に大腿四頭筋の力で立っていて内転筋が効いていない例もとってきました。
会陰が引き上げられないため膝に余計な力がかかってしまっています。(股ぐらも四角い。)
写真に力のかかり方を示唆する矢印を入れてみました。馮志強老師の写真には矢印を入れてないものがありますが、力のかかり具合、内腿が、恥骨筋の付け根に向けて力が集約するように引き上がり、そのまま会陰の引き上げにつながっている感じが見てとれるでしょうか?
これは最悪!
(なぜ馮志強老師の組織のオフィシャルサイトにこの写真が載っているのか分かりません。楽しく遊んでいる様子?)
素人が太極拳の真似をすればこんな感じ。会陰が下がって良いお手本の真反対の下半身。
これに脚力をつけると上の三人のようなよくある太極拳の選手の姿になります(スポーツ選手化する)。体内の気を操るにはそのうえの馮志強老師のような脚、股、腰にもっていかなければなりません。
北京の馮志強老師の武館の隅に置いてあった”按”のポーズの像も、良く見れば内転筋が使えているのが分かる。(この像はそれ以外にも見るべき箇所が多々あります。背景が雑然としていていますが、私がこっそり写してきた写真を見てみて下さい。)
2016/8/7 <腕の生え方>
腕がどこから生えているのか、その感覚は練習とともに変わっていく。
待ちゆく人を観察すると、腕がもはや胴体から切り離されてしまったかのように歩いている人が非常に多いことに気づく。
四足歩きの練習をすると良く分かることだが、本来四肢は背中やお腹といった胴体部分、もっと細かく見れば背骨から生えている。背骨の”しなり”がない状態で四足歩きをすると非常に滑稽な恰好になる。背骨のしなり、動きがあってこその四肢の動きだ。(ちなみに、どんなに化粧や整形、増毛をして若い恰好をしようとも、その人の動きで遠目からでも何故か年齢が分かってしまう。動きの若さ、その要は背骨のしなり。これは外科手術ではどうしようもない。)
私達は立ち上がって二足歩行になってしまったため、すぐに四足時代を忘れてしまう。その結果脚だけに頼った立ち方、歩き方になり、腰痛や膝の痛み、肩こりなどの四足動物にはない症状に悩まされがちだ。
『周身一家』、即ち、全身を一にする、ということは四肢も亀のごとく胴体部に一体化していなければならない。まあ、私達の四肢は長く(?)関節も多いからすぐに胴体から切離れて動いてしまいがちなのだけど。
丹田には上、中、下、がある。そして馮志強老師の『陳式太極拳入門』によれば、上丹田(祖窍穴)は上肢、中丹田(臍奥)は胴体、下丹田(会陰を引き上げた場所)は下肢を操るという。
中丹田と胴体の連結は分かりやすく、下丹田と下肢の連結は少し練習すれば得られるようになる。ところが、上丹田が上肢を操る、というのはなかなか得ずらい感覚だ(というのが私の経験)。
手と脳の関係は密接で、脳を鍛えるには手を使うようにすればよい、というのは良く知られた話(親が私にピアノを習わせたのもそもそもは頭を良くするため、とか)。
だから手は脳から直接指令が行きやすく、かならずしもその途中の背骨ルートを正確に通らなくても動かすことができる(これがイップス症候群の原因)。
太極拳のマスター達は皆年月をかけて、脳から指先まできちんと気を通す練習をしてきた。経絡の流れがその正確な流れの指標になる。手や指の動き、覚醒度をみればその人の功夫のレベルが分かる、というのもその通りだ。
ここで私なりに腕や手の感覚の開発過程を図にしてみました。
A~Cは素人にありがちな腕の付き方。
Aはまさに”手”だけの感覚(こんな人は逆に少ないかもしれません)、Bは肘から下、前腕と手の感覚の人(これがとても多い)。Cは肩先から腕がぶらさがるようについている人(何かしら少し練習をしている。が、胴体とは連結していない。)
Dは『沈肩』を心がけ、肩井のツボを下に引き込むことを知った段階の腕の付き方。
なで肩になる。『含胸』が形成されつつある。
この『含胸』を徹底させつつ喉の天突のツボを引き、それでも前肩にならないように頑張ると鎖骨が浮き出てくる。ここで腕の出発点が鎖骨(喉の下)だったことに気づく。右腕と左腕は鎖骨でつながり一本の”弓”になることが分かる。(以上、E)
Dの『沈胸』と『含胸』を徹底させつつ、頭のてっぺんを心持ち上に引っ張られているようにし(『虚霊頂勁』)、下あごを弾いて舌で上あごを支えるようにする(『下颚内收』『舌顶上颚』)、頸椎は下に伸ばされる感じ)と、Fのように腕が首筋からついているようになる。
首から肩先までが第一節、肩先から肘が第二節、肘から手首が第三節、手首から指先までが第四節、そんな感覚だ。
そして気が頸椎を通って玉枕レベルまで上がってくると、それにつられて、Fで腕の出発点と感じた首筋の点も玉枕まで上がってくる。ここですでに上丹田の高さ(祖窍は脳のど真ん中にある:目と耳と鼻の交差点、これを前方に移動されると眉間の奥のツボの印堂穴、後方に移動させると脳戸だ。玉枕あたりの感覚を脳戸まで伸ばしそこから脳の内側に引いていけば、最終的に腕の出発点が脳の中の上丹田になる。
この段階に達した頃には、足も足先まで気が通り、全身気がみなぎっているはず。
全身が山のように一つになる。
ただ、細かな理屈はここでは省略するものの、上肢の開発にはまず下半身の開発が必要になる。
背骨で言えば、命門から尾骨までを開発が必至。
上肢や上半身の開発をしながら下半身の更なる重要さが分かってくればしめたもの。
2016/8/1 <タントウ功から纏糸功、そして内功へ、静⇔動のグラデーション、意気力の合一>
今週はタントウ功からそのままチャンスー(纏糸)の動きにつなげていく練習を試してみた。
通常の教則本的練習では、タントウ功はタントウ功、内功は内功、纏糸功は纏糸功、套路は套路として別々に練習する。
が、今回北京の陳項老師に学んだタントウ功はそのままチャンスー功、そして内功につながるものだった。
そもそもタントウ功と動功は決して静と動と二分されるものではなく、電球の光を暗いところから明るいところまでスライド式に変化させられるのと同様、タントウ功と動功は同じ数直線上に並んでいる。動きが極小化すればタントウ功になるし、動きがある一定のレベルを越えれば外から見ると動功をしているように表れてくる。
同じタントウ功といってもどのレベルまで静止させるかによって静止度が異なってくる。一部分の筋肉だけでなく全身の筋肉を静止させたり意識までも静止させようとするならそれにはとてつもない自己による自己の心身のコントロール能力が必要となる。静止して初めて自己と意識と身体(心を含めた物質的なもの:身心)が別々のものとして認識できるようになり、自己による意識と身体の制御が可能になるのだろう。(太極拳では意識と気をコントロールする。気は意識と身体をつなぐ媒介。意識を身体を動かすために必要となるエネルギーに変えたもの。)
私達は生まれてからずっと動く練習ばかりしているが、実は動くより止まっているのが大変で苦痛を伴うのは通常の私達の様子を見れば一目瞭然。じっと何もせずに何も考えずに座っていることがどんなに難しいことか。気がつけばすぐにスマホを手にしたり、本を読んだり、考え事をしている。このような人間の落ち着きの無さは基本的に猿と大差がない。真の意味での意識的な人間とは自分で自分の身体や自分の心、意識の流れを自由自在に操れるような存在だろう。太極拳の練習をこの境地の達成に資するものにしたいというのが私の個人的な目標だ。(ここまでできないと病や老化、死を心地よく向かい入れられないという危惧がある。)
なお、太極拳ではそこまで追求しないだろうが、これがヨガの世界であれば呼吸や気の流れ、心臓の動きまで止められるようになるというのだから静止する練習は奥が深い!
話を陳項老師のタントウ功に戻すと、老師はタントウ功の際に腕を下に垂らし、手首を幾分内側に追ってほんの少し下に引っ張り下ろすように立った(これは劉老師と同じだった)。こうすることで腹(丹田)と両手首に力を溜めることができる(そういう意味では厳密には無極タントウ功とは言えない)。そして数十分立った後、少しずつ老師の首が動き出したかと思ったらいつのまにか微妙に体重移動をしながら拳になった手首がゆっくり円運動を始めていた。
私は内心、あれ、いつのまに拳に?と思ったが、すかさず真似をして拳を軽く握り動きを真似し出すと、陳項老師は目くばせと小さな声で、「丹田の気に合わせて手首を回すよう、慌ててはいけない」と促した。ああ、タントウ功で丹田の気が拳まで達したのを前提としたチャンスー功なんだ、と即座に身体が理解したので、後は、老師の手首の円運動が肘へ、肩へ達し、最後は両腕による竪の太極円に展開していく動きをひたすら老師の丹田を凝視して追っていった。
老師は本当に慌てることがない!丹田の動きがなく身体が動きを開始する、ということはあり得ないのだ!、ということが間近で見ながらよく分かった。意と気と力がぴったし一つに合っていた。(日本に戻ってきて改めて陳項老師の24式を見たら、その合一(全ての合一!)がはっきり見て取れた。終始貫徹した合一!だからあの独特な動きになるのだ、と嬉しい納得。)
実は、これはピアノを弾いた時にも必要な大事な要領。「走っちゃだめよ」と先生に注意されるような弾き方は、気持ちが音楽よりも先に行ってしまって動きが後れをとっている感じだし、「ちゃんと歌って弾きなさい」と言われる時は、”心意”のうちの”心”が抜けて機械的に指が動いている感じだ。少し気持ちが前を走っているような弾き方は感情的な音楽になりロマン派の曲では許されることがある。”心意”のない弾き方の良い例はピアノの自動演奏で、どんなに上手に弾いても人の心を揺さぶることはできない。バッハなどを弾く時は見事に意(厳密には心と意を合わせたもの)・気・力をブレなく揺れなく、ぴったり一致させなければならないだろう。この点では太極拳はバッハを弾くに近いかな、なんて(今の)私は思ったりしている(ロマン派では流れ過ぎかなぁ。まあ、これも好み。)
途中時間を気にする本部の人が何度か覗きに来たが、陳項老師は全くテンポを変えず、ゆっくり統一のままで動き、そして収功に入った。最後は拍打功(全身を叩いていく功法)を一通りおこなって導引をしたが、これまで拍打功を軽んじていた私にとっては目から鱗の練習だった。まずは丹田に気を溜めそれを労宮に集めて掌を磁化(気化?)させてから叩く、というのが理想的だ。
タントウ功からチャンスー功、そして内功、拍打功による導引(気を全身に導くこと)、と一連の練習をつなげるとなんとも自然な練習になってくる。
頭で整理して編集した練習と身体が自然にそうなるようにやる練習。
最初数年は決められた通りにやって身体を慣らせ馴染ませて、いずれ、気が付いたらそんな動きが出てきてしまった・・・という風に練習をしていけたらよいのだろう。
”とりたてて技の練習をしなくても、型(単式や套路)を何万遍も練習していれば、必要な時に必要な技が出てくるものだ”というような言葉を疑心暗鬼で聞いたことがあったが、意識して身体に染み込ませておけばいざとなった時に無意識でその動きがとび出てくる、というのも今では納得のできるものになってきたようだ。