2017/2/26 <椎骨をばらばらにする、丹田の気で作るパイプへ・・・>
今日の練習で話したことの補完。
背骨という一本の骨は存在しない。
小学生の頃、姿勢を正しくするために背中に物差しを入れられた状態で机に向かうようなことを学校でさせられたことがあった。が、それは、ともすると、ぐにゃ~っとしてしまうほど骨や関節の軟らかい子供向けの話。
骨も骨と骨の隙間(関節)もがっちり固定されてバラバラに動けなくなってしまった私達成人の場合は、背骨を真っ直ぐに立てようとして決して”固定”させてはいけない。
ちなみに背骨がもし一本の棒になっていたとしたら、しゃがむこともできない。実験すればすぐ分かることだが、もし背骨を真っ直ぐに硬直させてしゃがもうとすると、太腿と膝に多大な負担がかかる。日本で太極拳を練習して膝を痛める人が多い大きな理由の一つは、背骨を真っ直ぐ立たせようとして”棒”にしてしまっていることにあると思う。
中国の伝統的な太極拳は背骨のしなりを命としているようなところがあるので膝にかかる圧が相当削がれるが、国民の健康法として簡化太極拳が制定されるとほとんどが四肢運動になってしまい(背骨を”通す”練習は一朝一夕にはできない、一般化して普及させるのは困難)、背骨を不自然なほど真っ直ぐに立ててしまったきらいがある。背骨が硬いと腰も固い。腰が固いと丹田を形成するのはまず無理・・・となると筋肉で動くしかなく、結局中国風体操になってしまう。
背骨は椎骨からなっている。
頸椎が7つ、胸椎が12個、腰椎が5つ、ここまでで24個。
そして仙骨一塊(もとは5つの椎骨)、尾骨一塊(3から5つの椎骨)。
仙椎や尾椎をバラバラに数えるなら、脊椎は32個~34個になる。
以前、本格的な練習を始めて間もない頃、ある中国の太極拳の老師が講義の中で、太極拳の老師なるものは脊椎をすべてバラバラに意識して動かせなければならない、と言ったのを聞いて驚いたことがある。胸椎3番、と言えばそこを、7番といえばそれ、腰椎5番はこれ、頸椎3番はここ・・・というようにピンポイントで動かせる(ということは意識して気をそこに注げるということ)なんて本当?
その頃は私には無理だなぁ、と思って話を聞いていたが、その老師は、「まずは、頸椎7つを一塊、胸椎の上部(1番から6番)を一塊、下部(7番から12番)を一塊、腰椎については少し細かく、命門が腰椎2番と3番の間、骨盤の上の縁が腰椎4番と5番の間を通っていること意識できるようにしなさい。」と生徒たちにアドバイスをしてくれた。そしてその後、「仙骨を意識できるようになり、尾骨まで意識して動かせるようになる頃には、頸椎から腰椎までも相当細かく意識して動かせるようになっていることでしょう。」と話をされていた(と思う)。
実際のところ、椎骨一つ一つを意識的に動かすことはそう簡単にできることではない。しかし、一つ一つの椎骨の隙間を開けて椎骨と椎骨の間の滑りを良くしておけば総体としての背骨は蛇のように滑らかに動くことができる。
先週ソウルに滞在していたが、噂通り街のあちこちで美容整形の広告を見かけた。歩いていても、「うん?たぶん、いじってる?」と疑問が湧いてきてしまう女性とすれ違ったり、「いや、絶対いじってる。」と確信できるような顔がつるつるした熟女達が連れだって歩いているのを見かけたりする。
何故おかしな感じがするのか?とよく観察していたら、2パターンあった。
単純に顔がつるつるで整い過ぎていて、かつ、表情が多少不自然でそう思うパターン。そしてもう一つは顔の若さと身体の動きがマッチしていないパターン(顔年齢が身体の動きから連想される年齢よりも10歳か15歳以上若い)。
公園で練習している時もよく思うが、かなり遠くを歩いている人であっても、その人がどのくらいの年齢かは大よそ検討がつく。その人の顔は全く見えていなくても、その人の身体の姿勢、体型、身体の動きで年齢はすぐに露呈してしまう。その中でも体型はある程度であれば衣服でごまかせてしまうが、身体の動きはごまかしようがない。少し歩かせれば年齢(そしてどんな身体か)は察しがついてしまう。
背骨について言えば、子供や若い子の背骨には緩みがあって硬直していない。子供の首は歩くたびに微妙にゆらゆらしているほど。まだ筋肉が十分発達していないから骨の支えが不十分な面もある。
これが成人になる頃には筋肉がしっかりして骨を両側から支え、骨と筋肉がベストバランスになる。しかしそれもつかの間、日常生活で力をこめる場面が続くとあっという間に筋肉は硬化し、挟まれた骨の動くゆとりのスペースが失われてしまう。こうなると背中は一枚の板のようになり、歩いているのに背骨の蛇行が全くないような典型的な老人の身体の動きになってしまう。(腕や脚は背骨から生えているから、腕や脚が動く時は必ず背骨は動いている→猫ちゃんを参照)
ここでもやはり骨と筋肉を引き離す『骨肉分離』が大事。
で、上に書いた話について、練習の道筋はどうなっているのか?(ここからは私自身の頭のトレーニング)
<大目標>脊椎の椎骨を一つ一つ独立して動かせるようになる
<中目標>椎骨を一つ一つ意識できるようにする
→そのためにはまず、各々の椎骨と椎骨の間を引き離すことが必要
→引き離すためには、『抜背』(バネばかりに錘をひっかけて伸ばすかのように背骨S字カーブを引き伸ばすことが必要。頭頂は下がらないようにして(『頂勁』)、尾骨に錘をつけて下に伸ばすような感じ)
→その後背骨から力を抜いて腹側に気を移す。(背骨や背中の筋肉を使って立っていると脊椎を動かすことができない。腹側に意識(と気)を一度移して背中を空ける作業をする。
→即ち、丹田を形成する。
→ひたすら丹田を育て大きくし、その気球で背骨を動かせるようにする。
要は背骨で背骨を動かすことはできない、背中で背骨を動かそうとしない、ということ。
背骨より前(腹側)に形成する丹田で背骨を操る。
とすると、”背骨で立つ”とか”背骨で動く”という言い方は厳密には正しくない。
本当は丹田の気で立つ、いや、さらに厳密には、丹田の気を膨らまして身体の中心(もしくは背骨前)に作った”気のパイプ”で立つ、ということになりそうだ。
この最後の、”丹田で作った背骨沿いの気の縦パイプ”を、両手を広げて胸ラインで作る横パイプとつなげる試み、これが今日の練習でやったことでした。
実は今日はこの”パイプ”の話をメモに書くつもりだったのですが、行きつかず・・・。
次回に続く(予定)。
2017/2/24 <背骨で立つ、四肢は背骨から生える>
太極拳は四肢運動ではなく胴体運動。
胴体運動だから内臓もマッサージされ健康にとても良い効果があると言われている。
胴体運動を別の言い方をすれば背骨運動。
背骨で立つ、背骨で動く、ということもよく言われる。
が、背骨で立つ、背骨で動く、にはかなりの練習がいる。
まずはかなり強い丹田が形成されないと背骨は浮き出てこない。
更に、背骨から肉を引き離さないと背骨の感覚は生まれてこない。(『骨肉分離』)
昨日のスカイプレッスンで生徒さんに骨肉分離の練習実験としてやってもらった壁にくっついたまましゃがんでいく動作。両手をV字に上げることで腰椎だけでなく胸椎も引き離そうとしましたが・・・。
一番下のふすまを抱えた3枚の写真を見て分かるのは、一番高い姿勢の左端は脚でしっかり立っているため両手を離しても立っていられる、が、横の2枚は腰椎は使えていても胸椎、頸椎が浮き出ていない(故に腕が胸椎に繋がらない)ので、両手を離した場合確実に後ろにひっくり返ってしまう。
比較として陳項老師の24式の一場面を切り取りました。
頸椎から尾骨までがつながり、この背骨すべてを使って立っているのでとても安定感がある。
四肢が背骨から生えている。(この前提に骨肉分離があるが、それについてはまたいつか。)
写真の比較でどのくらい何が分かるか、見てみて下さい。
2017/2/19 <長引いた風邪の体験から、精気神、養神、五志>
この2月前半は珍しく風邪をひいた。それも2週間近く咳が胸の奥に残るようなもので、熱が上がったり下がったりを繰り返し完全に回復するまで予想以上に時間がかかった。これまでこれほど体調不良が長引く経験をしたことがなかったのだが、今回は、長引けば長引くほど自分の身体に対する自信が失われネガティヴ思考に陥っていく負のスパイラルを初めて垣間見た気がした。
体調不良の最中は、次第に落ち込んでいく自分の気持ちと、思うように回復しない自分の身体をただただ見つめているだけで、どうする気もなければ、どうにもならなかった。
しかし回復してからあの出来事を振り返ると面白い気づきがいろいろ出てくる。
先ず大きな収穫。高熱が出たがために関節が緩み、これまで開かなかった場所が開き、身体の可動域が広がったこと。これで念願の右尻のツボ(環跳穴)と右足薬指までが貫通し、右脚のしっかり感が一段と増した。腰も更に伸び塌腰が左右の腰骨の位置でできるようになった。バレエダンサーやボルト―の歩き方が実はそのような腰からできていることを実感。
それから現象としてはマイナスだが、気づきとしてはプラスの面。
①気が沈み込んだ時の脳の状態。エネルギーが脳まで届かないと頭を使う気がしなくなる(使えなくなる)。丹田から遠い末端の脳の隅々までエネルギー(気)を届け続けるのが加齢と共に困難になっていくのが分かる。脳まで気を送り届ける作業を意思でやるのはとてつもないエネルギーが必要で長続きしない。丹田から溢れ出るエネルギー(気)があってこそ脳は潤滑な機能をする。老人でもウキウキしていれば気が溢れ出て脳も活発に機能するだろうが、一度仏頂面になってしまうと気が沈み込み脳まで届かず脳細胞も加速的にダメになっていくだろう。
②身体の不調が精神の不調を起こしていくということ。(これは改めて言うまでもない話)
③そしてまだ疑心暗鬼ながらもその反対、精神の落ち込みが身体の不調を引き起こすという現象。(これについて以下記述。)
今回風邪をひいた時、師父からすぐに「なぜ風邪をひいた?」と問われた。普通に練功していれば風邪はひかないはず、という前提の非難の混ざった問いだ。寝冷えをしたのか、流行性のウィルスに感染したのか、と問われたが、いずれも原因ではなかった。唯一考えられるのはその直前の不思議なほどの気持ちの落ち込み。
風邪をひく直前、ある友人のお勧めのアニメドラマを見た。それがとても良くて予想以上に感動したのだが、その感動が行き過ぎてどこか急所を刺されたようになり、そのあとほどなく気持ち(心)がドーンとどん底に落ち、気が身体の下の方へ沈み込んでベッドから起き上がる気がしなくなってしまった。身体が土に戻ってしまったようで地面の方へ引っ張られたまま30分以上そのままじっとしていたほど。頭まで気を上げるだけの力(気力)もなく、ただ、何もやる気がない、頭を使うのが面倒くさい、という感覚。通常は下に溜めた気が頭の方に上って脳がともするとヒートアップしてしまうのと真反対の味わったことのない低波動状態。
なんだろう、これ?と、しばらくそんな”ドロドロ”した感覚を味わっていたら、その翌日あたりから風邪をひいたような身体の感覚があり発熱が始まった
その後は39度を超える熱が出たかと思えばその日のうちに下がったり、体温が乱高下を繰り返し、しかし元気があるから家にじっとしていられず、練習をしたり、家にいても全く休まずピアノを弾いたり家事をしたり。医者に行く度にインフルエンザの検査をされたが毎回陰性、処方された薬が抗生物質だったのでそのまま処方箋を捨ててしまって、まあ、直ぐに治るだろうとたかをくくっていたら、胸の奥に残った咳がいっこうに治らない。寝ると出てくるので寝ずらい。眠れないから治りも遅い・・・と10日以上経ってくると少し気弱になってくる。ひょっとしてずっと治らないのでは?と、夏目漱石もグレングールドも50歳に達する前に亡くなったし・・・と死までが頭をよぎってくる始末。肺炎かも?と最後は少し大きめの病院に行って検査をしてもらう。別に問題はないらしい。医者はただ、「動き回らないで静かに休んで下さい。」と言い、それから「もういい歳なんですから定期的に健康診断を受けて下さい。」と一言、そして、「もうここまで自力で治したなら最後まで自力で治して下さい。薬は処方しません。」とそのまま帰されてしまった。
それでもまだ身体に不安は残っていて、あと数日は無理だろう、とどこか心の底で決めていて、治るとしたらそれは次の月曜日!と思っていた。というのは月曜日には心がワクワクするイベントが待っていたから。
月曜日の前日の日曜日に思いがけず携帯を落としてそれまでの二週間ぼお~っとしていた頭が一気に覚醒、文字通り”目が覚めた”。目が覚めて頭がはっきりしたら、身体もしゃっきっとして風邪も吹っ飛んでしまったかのよう。そして予想通り月曜日は心も晴れ晴れで楽しみにしていたことをやり遂げたのでした・・・・。長いトンネルを抜けた嬉しさ一杯で、その翌日の練習では生徒さんから風邪をひく前よりも力が増えたようだと言われたほど。
と、今回このような経験をして今改めて分析してみると、これは神(精神活動)のうちの五情の乱れが身体の不調を導いた例だったように思う。
中医学における養生の道は身体(精・気)を養うだけに限られない。五情を含めた精神面(神)を守り養うことも同様に重要視されている。養生は、養精・養気・養神、この三つが揃って初めて成り立つものだ。
中医学によれば、人間には三つの宝、即ち、精、気、神、がある。
私の大雑把な理解では、精とは身体を作る物質の大元となるもの(燃やせば熱になるもの)、気はあらゆる活動、動きをもたらすエネルギー、神は知覚、精神、情緒などを統括するものだ。
蝋燭の火で例えて言えば、燃えている炎の核心が精、その周りの炎(光焔)が気、そして炎の先に立ち上る光(光芒)が神、ということになるという。
つまり、炎が勢いよく燃えて初めて光が立ち上るように、精気(身体)が充実して初めて神(精神)が充実する、というからくりだ。
精・気・神はお互い密接な関係があるから、身体(精・気)を損なうと精神(神)もおかしくなるし、逆に神(精神)が乱れると精・気(身体)を損なうことになる。
私達もよく、ストレスで病気になった、という言い方をするが、その”ストレス”というのは精神的圧迫、すなわち、情緒の乱れ=神の乱れ、に異ならない。だから中医学では”養神”の道、と言って、いかに”神”を守り養うか、具体的には五蔵の五志(志:心の赴く方向性)の安定を保つか、簡単に言えば、情緒の安定の必要性を強調している。
五蔵の五志とは以下のようなもの。
心は喜び(をその方向性として持っている)
肝は怒り
脾は思考
肺は憂いや悲しみ
腎は驚きや恐れ
そしてどの情志も度を越した時にそれに対応する臓器が損なわれる、という説明がなされる。
古代の中国で科挙を受けようとして頭ばかり使って考えている者は往々にして胃が悪いとか、怒りが強い人は肝臓を損ねるとか、老人が喜びすぎて死ぬとか、そんな例が出されたりする。
今回の私の場合は、度を越した感動が憂いや悲しみのようなものになって肺(気管支)を損ねたのか? 本当にそうだったのか?と多少は疑問が残るところながらも、あの気が沈んで身体がドロドロになったような記憶は鮮明。そうだった可能性は高い。
いずれにしろ、身体を健康に保つには情緒(神)を安定させておく必要がある。
『静即神蔵、躁即神亡』
(静かにしていれば神を蔵すが、ざわざわ落ち着きがなければ神を亡くしてしまう)
そういえば、馮志強老師のテキストの太極拳への入門要領の第一番目は
『心神虚静貫始終』
とある。
ポイントは”静”。
今回の体験は、そろそろ、入門の第一要領を真剣に練習に取り入れるべし、という神様からのお告げかもしれない。"静”、”虚静”、これまたとてつもなく奥が深そうだ。
2017/2/8 <冬(蔵)から春(生)へ>
2月4日の立春も過ぎ、太陽の日差しは完全に春。紫外線が気になる季節に入っている。
いつも練習をしている新宿御苑は一年中何等かの花が咲いているが、立春前から寒桜は満開、梅の花も咲きあふれ、真冬は静かだった園内も散策やカメラマン達で賑わっている。
身体も確実に春仕様に移行中。
冬の間はもっぱら丹田に気が蓄積(蔵)、今年はこれまででもその溜まる感覚が著しく、身体全体に気が充満してしていった。寝てる最中など、時に気がむくむくと動き膨れ上がって、骨を内側から押し上げてくるので一度起きて身体を更に開いて(更に身体全体をポンする感じ)、寝直さなければならなかった。内気が骨を押すと、骨と骨のつなぎ目である関節が押し開かれてポキっと鳴ったり、ときには数個の関節が連鎖的に開いてメリメリという音が出る。もうとっくに成長期は過ぎているからこれ以上骨が長く伸びることはないだろうが、次第に骨格は変わっていく。
半年ぶりにあった生徒さんが私の身体をみて、以前をフォルムが変わりましたね、と言っていたが、私自身も、なんか膨らんだなぁ~、と自分の身体を見て感じていた。ある生徒さんは、私の身体が全体に丸くなったと言い、ある親しい友人は私をふなっしーみたいだ、とからかってくれた。
丹田に気を溜める作業が進み全身に丹田の気が満ち溢れるようになった時に身体がどのような感じになるのか、それがやっと実感として分かったこの冬。全身が一つになる=『周周一家』という感覚も、身体というゴムボールの中に空気をパンパンに注入したが故に生まれる感覚だったんだ、と納得。
そういう目でみれば、この左のコラムにあるテキスト本の表紙の馮志強老師なんて、気が頭の先から指先、足先までパンパンに充満している。横からの写真がないのが残念だが、横から写せば、胸、腹、背、腰、すべてが気で膨張(これを広義のポンという)しているのが見えるだろう。
私達は乳児、幼児の時はパーンと張った(膨らんだ)丸い柔らかい身体をしている。(→冒頭の乳児の写真)
そして小学生、中学生、高校生ごろまでは、たとえ瘦せ型であっても健康体であれば、萎みやたるみのない、肉や皮までピーンと張った身体をしている。これは内気が充実して内側から身体を膨らませている状態だ。
その後、20歳頃までには気が腹から胸に移行し、下半身よりも上半身の力が増してくる。胸を中心とした上半身が比率的に大きくなってくる。
30歳頃になると女性は既に身体が崩れ出す。お腹やお尻、太ももの肉にたるみが生じる。男性は気の流れが滞り、身体(背骨)が硬直しがちになり腰痛持ちが増えてくる。
中医学で言えば、女性は21歳から28歳の間、男性は32歳から40歳の間に身体的なピークを迎え、そこからは徐々に衰退、萎んでいく。
タイヤに空気がいっぱい入っていれば地面の上を回転しても磨耗は最小限に食い止められるが、タイヤの空気が少ない状態で自転車を運転すれば、ボコボコして乗り心地が悪いだけでなく、タイヤ自体に相当のダメージが出てしまう。
人体も全く同じ原理。
内気が少なくて力が出ないのに、無理に鍛えて筋肉や骨を鍛えようとするのは、タイヤの中の空気を充当せず、変わりにタイヤに何か貼り付けたり細工をしてどうにかしようとするのに等しく何の根本的な解決にならない。
・・・・話を冬の”蔵”に戻すと、冬に気をパンパンに溜めておけば、その蓄えた気(エネルギー)を使って、春の”生”(芽が出て)と夏の”長”(大きく伸びる)へと展開が可能になる。秋になれば収穫(”収”)し内側に戻っていく→そして冬(”蔵”)へ。
立春の頃から私の身体の内側は荒れ模様。まだ溜めていたい部分と、外に気を出そうとする部分と、せめぎあいが発生。内気が不安定になると精神的にも不安定になる。
うずうずした春の感じがそのまま心身に反映されたかのようなこの一週間。表面的には風邪のような症状で高熱が出たりすぐに下がったりを繰り返して医者にも診断がつかない状態だった。
ただ、私自身の身体の開発の観点から言えば、発熱のおかげで関節が緩み、その前に開きそうで開かなかった部分が数か所一気に開いた。脚と腰のつながりがさらに強固になり、脚の付け根の感覚、そしてなかなかつながらなかった右脚の太もも側面から足の薬指にかけての胆経のラインが開通した。新しくつながったラインを味わおうと、夜の散歩は少しゆっくり長めに・・・そんな楽しみがあったりする。
春は長所はさらに伸び、短所はさらに悪く出る、と言われている(どちらにも”伸びる”)。
身体に悪いところがあれば、それが誇張されて出てくるし、精神的に不安定にもなりがち(春は風も強く、大気も不安定)。
やはり、毎日淡々と落ち着いて練習するのが外界のちょっとした春の混乱を通り抜ける最善策なのだろうと思う。
外がどんなに変化しても自分が乱れない(あるいは自分も一緒に変化する?)くらいの境地を目指したい。
<付け足し>
ちょっとした好奇心から、ふなっしーの画像を検索。
確かに丸い・・・
けど、左の写真をよ~く見ると、
まず、両腕には全く気が通っていない!(しょぼすぎる!)
そして左脇から左腹も凹んでいて気が足りない。
両足先端、特に左足はかかとまで気が届いていないなぁ~。
とすると冒頭の乳児モデルの僕は、指先、足先までしっかり気が詰まっている。骨盤もしっかり立ち上がってとても安定した坐り姿。背骨も真っ直ぐ。
すべては内気の充実からくる自然体。
・・・私達が学ぶべき、戻ろうとする姿。