2018/2/27 <腰についてあれこれ 太極腰、抜背、塌腰、 松腰>
太極拳は”ヤオ(腰)クア(胯)”と言われるが、中でも腰については『太極腰』、という言葉もあるくらいで、太極拳がどれほど腰を重視しているかが分かる。
腰を柔らかく、蛇のように使う。
どれだけ自由自在に柔らかくうねらすことができるか・・・。
概して日本文化は背骨をスッと立て腰も立てたまま。
人と話をしながら腰をグルグル回していたら顰蹙をかうことは必須。
私が小学生の時、本当に背中に物差しを入れられたことがあったのだから、日本の”背骨は真っ直ぐあるべし”の美意識は、今は多少崩れたにしろ根底では根強く残っていると思う。
問題は、背骨を真っ直ぐ立てようとして背骨を固めてしまうこと。
実際には、背骨、という骨はない。
背骨は三十数個からの脊椎の集まり。言い換えれば三十数個の関節から成るから、どの関節もスムーズに動けばいろんな形に変形する。
背骨を柔らかくするには椎骨間の隙間(関節)を広げて、そこを回すようにする(本当にはぐるぐる回りませんが)。
この椎骨間の隙間を広げる作業が、『抜背』。
広げた隙間(関節)を回すように使うのが、背骨の自転運動(抖劲、ブルブル震える力、も背骨の自転を使う)
背骨を構成する椎骨の中でも腰椎(5つ)、仙骨は二足歩行で立ちあがった際に胴体の重さが乗っかかってくる、最も不具合の出やすい場所。
腰椎2番と3番の間の『命門』は臍の真裏にあり、腰の背骨カーブの最もきつい場所で最も動かしにくい場所。
一番の難関である『命門』を開けられる(隙間をとれる)かどうかが、太極腰を作れるか、蛇のようにしなやかな背骨を作れるかの要になる。
腰椎間、仙骨の隙間を広げる作業は『塌腰』で行う。
太極拳の練習を始める際(タントウ功を始める際も)、まずするのは『松腰』(腰の力を抜くこと)。
「腰の力を抜いて下さ~い。」と言われて、「は~い!」とすぐ抜けるなら、かなり練習が進んでいる。最初は腰の力を抜く要領、感覚がつかめない。腰の力を抜いたら、ゆらゆらゆらと腰砕けのようになってへたり込んでしまうから、普通は立っていて腰の力を抜くことができない。
これもまた小学生の時に、椅子に座ろうとしたら男子に椅子を引かれてそのまま尻もちをつきそうになったことがあったが、腰の力を抜くとそういう風になる。
が、会陰を引き上げる要領を徐々に練習していけば、腰の力を抜いても会陰を引き上げる力で上体を支えることができることをある日知ることになる。(私自身、ある日の朝の電車の中で、突然その状態になり、驚いた記憶あり)
『松腰』から始める、と馮志強老師は言うが、その前にタントウ功で『抜背』や『塌腰』や『会陰』をある程度身に着ける必要があるかもしれない・・・・『抜背』と『塌腰』と『提会陰』ができれば『松腰』はできている(はず)。
2018/2/26 <噛み合わせ>
以前T君が送ってくれた歯医者さん用の図。ここにも円があった!
第5、第6チャクラの連携が自然にできるように歯が並んでいた!
この図のように噛んで食べていれば脳が活性化されそう。首の位置も調整できると思う。
・・・と、今日この図のことをもう少し調べてたら、噛み合わせ、顎と姿勢の関係で面白い図がいろいろ出てきました。
少し整理したら紹介する予定。
2018/2/22 <承扶のツボに坐れと言われ・・・>
(以下1/18のLINEの投稿)
生徒さん
「 昨日の練習の成果?クワ廻りが筋肉痛🙄
ショウフのツボを意識して歩くと、かなり踵先端(後ろ側)から地に足を付けることになり、
靴のかかとが早く減りそう😓
でも反り腰になりがちなので、気をつけないと腰痛になりそうです。」
私
「命門開いているのが大前提。
腰の要領、①松腰→②塌腰 が出来てから →③坐跨(承扶のツボに座る)です。
①②で命門、帯脈が開いているのを前提とした③。
腹を気で詰め下げていかないとできません。帯脈(ウエスト位置)をパンパンにしたまま気をクワラインまで落とし込むには15分以上は立たなければならない、いや、毎日1時間×100日(百日築基功)というのが古来からの言い伝え...
③をやるためには気の量が足りない!と気づくのが大事(苦笑)」
いつも注意している環跳のツボと承扶ツボの位置、確認してください。
環跳穴は股関節のツボ。(後の話題にあがる第2チャクラ、下丹田の高さです。)
承扶穴はお尻と太ももの境目の腱の中。(裆の位置。会陰、第1チャクラの高さです。)
タントウ功で承扶ツボに坐るのは至難の業。腰を外さずここまで気を落とせるのは相当なレベル。
でも別の練習で意識できるようになっておくと、非常に役に立ちます。
2018/2/18 <心の力>
<以下今朝の私のLINEへの投稿をそのまま貼り付けます>
おはようございます☀
羽生君、金メダルおめでとう...録画で演技を観てたら涙出そうになりましたが、ここまで来ると観ているのは、ほとばしる生命力かと思いました。それも肉体自身の強さというよりも精神の強さ、"渾身の"演技と呼ぶに相応しい...
そう言えば中国語ではよくこの"渾身"という言葉を使いますが、私は単に"全身"の意味かと思っていました。今調べたら"渾"は混じり合うという意。
何が混じり合ってるのか?
渾身は全身全霊と同義だからおそらく身体と心、あるいは精神、意識、魂etc。
練習がそこから始まるところの"無"は"混沌、渾沌"と言われますが、それは身体とこころのようなものが一緒くたになったものなのかなぁ、と思います。
羽生君の姿が胸を打つのは彼の生命エネルギーのうち精神、こころのような非物質的部分から出てくるエネルギーが圧倒的に強いからかと感じました。
そう言えば以前紹介したビビアンのピアノもそうだった。
漫画のスワンの中のリリアナもそうだった(笑)
元々持っている肉体自身のパワーが少なめでも精神が強いと総合的な生命力があそこまで増える!
やはり最終的に身体を支えているのはこころかなぁ...
と、やっと馮老師テキスト冒頭に戻って来ました。
フルネーム
『心意陳式混元太極拳』
ある番組で司会者が、"陳式心意混元太極拳"と言ったら、馮老師の一番弟子の陳項老師が、「いや、"心意"陳式××××です。」、ときっぱり、言い直していたのを思い出しました。
<馮志強老師の『陳式太極拳入門』>
”太極拳の道を如何に進むか”、という章には全部で12の要領が挙げられているが、その中でも第一として掲げられているのが”心の虚静”。
心の強さは心の虚静から来ていると今は解釈。
抜粋を下に載せます。
・・・ここの文章がすっと腑に落ちるようになる頃には既に大師レベルかも?
全部消化できないにしても、読むだけで心が洗われる。とても美しい。
(―)心神虚霊清静根
太極拳は本質的に動静相兼の運動である。
それは動中求静、静中求動に よって実現 される。
そこで何よりも「虚静」が問われることになる。
「虚 静」―一切のとらわれのない、しかもすべてを包み込むひろが りをもった、 静かで安定 した状態。
この「虚静」によって「霊根」―おおもとの生命力 が養われ、最も原初的で深い「動」―太極の「動」の盤が形成されてい く。
無極靖柱功であろうと套路の鍛練であろうと、保健養生のためであろ うと、推手や実践武術の鍛練であろうと、この「虚静」 と切離して考える ことはできない。
静に始 まって静に終わる一終始一貫「虚静」が保たれて こそ真の練功になり得るし、効果をあげることもできる。
太極拳の「功夫 (ち から、レベル)」 はこの「虚静」の程度によって決 まる、といって も 過言ではない。
「虚静」を実現するにあたって、まず心が虚静 とならなければならない。
「心」は「一身之主宰」、全身を統括する、いわば司令官であり、心が静 と なれば、全身が静の状態 となり、心が虚 となればありとあらゆるところが 虚となる。
こうしてこころもからだも虚静 となることで「神」 も安寧 とな る。
「神」 とは「心中の神」 といわれ、より高次の、より本質的な精神活 動を指す。
「神」が 安定 し、「心」が静の状態 となることによって、「念」、 日常一般のこころのあり様 もあれ これ と動 きまわることをやめ、「気」は 本来帰るべきところに帰って くる。
何ひとつ思い考えず、何 もそこには存 在せず、自分の内も外 もない透明な状態。
この状態で「静待其動」、太極 の「動」が起 こって くるのを「待つ」のである。
2018/2/15 <『LINEの話題』の公開>
早速『LINEの話題』を閲覧希望の方々から連絡を頂きました。日本各地で太極拳や気功を熱心に、試行錯誤しながら練習している人たちがこんなにもたくさんいて、私の練習メモを長期間にわたり楽しみに読んで下さっていたと知り、とても嬉しくなりました。と同時に責任も感じました。
練習は”更新”の連続。
過去に感じたことがそのまま今もその通りとは限りません。私のメモはその時指が動くがままに書いて、後は全く読み返していないというのが事実(苦笑)。ですが、たまにあることを調べたくて検索すると、自分の文章に戻ってきたりする。その時”入魂”して書いたものはそれほど劣化しないのかもしれない・・・?
『LINEの話題』のコーナーはプライベートな記述があったりするかもしれないのでパスワードを必要とするページにしようと思いましたが、昨日アップしてみると反響がとても良い。今のところ公開に問題があるようなものではなさそうので、しばらくパスワードよりもなしで見られるようにします。また必要あれば限定公開に変更します。→『LINEの話題』
2018/2/14 <『LINEの話題』を設けました>
練習内容が更に広範になり、このブログに詳細をきちんと整理して書くことが難しくなってきました。今は専ら生徒さん達とのグループLINEに練習での気づきを書いていますが、その量は多くなることはあれ少なくはならない。しかも内容もLINEとはいえとても高度。
しばらく続けているうちに、LINEに参加していない私の生徒さん達にもLINEでの主要な話題について目を通してもらってほしいと思うようになりました。そこで試験的にこれまでの仲間のページを廃止して、代わりに『LINEの話題』として仲間だけが閲覧できるコーナーを設けてみます。閲覧にはパスワードが必要です。もし閲覧希望の場合は簡単な自己紹介をつけてお問い合わせ下さい。
ちなみに今日アップした話題は先月行われた全日本卓球選手権で、何故水谷選手が張本選手に負けたのか・・・上丹田、舌、そのあたりの要領です。
2018/2/13 <足裏に気が落ちた時の足裏の状態>
ある日の仲間内のLINEのやり取りを紹介します。
ある生徒さんからこんな質問が来ました。
答えられる人、いますか?
「站樁功の足の件ですが、
先生の以前のブログに、会陰を引き上げるためにも、足の指をお椀のように曲げて立った方が良いと書かれていたので、なるべくそのようにしていました。
しかし先日のご指導の中で、足に気を落としていって地面に足全体が貼りつくことを感じるくらいにまでなるようにと言われました。
とすると、足の指を曲げずに、足の裏全体で立つようにしたほうがよいのでしょうか?」
<仲間の反応>
「自分の感覚ですと、慣れてくると、
足がお椀のように曲がっていても、
その状態で普通に張り付いた状態になっています。
練習を積んで、感じ取っていくしかないと思いますが。」
「練習メモアーカイブ2012/1/17の生地には、足がお椀型、土踏まずを上げると書いてありますね。指を曲げるじゃなくてあくまで土踏まずを引き込むと行った感じでしょう。貼り付けてから吸い上げる!?」
<私の書き込み>
「一番最初のコメントがそのままそうだと思います。
普段私自身、自分がその時(足裏に気が落ちた時)足の裏が実際どうなってるかまではチェックしていません。ただ貼りついた感はある。(注:チェックしにかかると丹田が失われてしまう)
でも、質問を受けて、ではどうなっているのだろう、とその状態を再現してみました。するとどんなに足裏が貼りついてもベタ足になることはない。ただ最初よりは土踏まずの高さが下がってる。そのかわり足のもっと前の方(3分の2 湧泉)が上がるか吸うかしているよう。立ち始めは湧泉よりももっと後ろ(足心?)が上がってる。インドヨガは足心を使い、気功は湧泉を使うと聞いたことがあります。
いずれにしろベタ足のまま股関節を緩めると膝に力がかかって足裏に力は落ちません。
無理に足裏に気を降ろすのではなく、時間をかけてそのまま立って気がついたら降りてた、となる、待ちの姿勢が大事です。あとは動功を併用して(通路を)開けます。」