2018/8/30
今日はお義父さんの49日の法要である有名なお寺に行くことになった。
着いてみると何とも大きく立派なお寺で、沢山のお坊様が一斉に祈祷をしていた。豪華絢爛。
法要まで少し時間があったので、私達はお坊様が参拝の方々へ短いお言葉を差し上げるところに同席することができた。
ここしばらくは初期仏教の長老の説法ばかり聞いていたので、別の宗派のお坊様がどのような話をするのか私は興味津々。よーく耳を凝らして聞いてみた。
すると・・・話の内容が残暑お見舞い程度で何の中身もない!儀式の壮大さとは対極的。短いお話とは言え、お坊様のお話は聞けば少しはこちらが賢くなるはず、気づきがなければならない、と思っている(思い込みか?)私にとっては何とも肩透かしにあったような気持ち。これなら小学校の校長先生が朝礼でしてくれたお話の方がためになったかもしれない・・・。
ヴィパッサナ―瞑想は観察瞑想。しっかり観察をし続ける。
が、こんなんで、無常や無我を悟れるのかしらん?と多少疑心暗鬼になったりもして、6月の合宿以来、ヴィパッサナ―は専ら朝の忙しい時、道を歩いているとき、そして太極拳を練習している時に行う程度になっていた。
が、今日のお坊様のお話で、しっかり観察しなさい!、という長老の言葉が少し分かった気がした。
今日のお坊様のお話の一部はこんな風だった。
「今日もまだ暑いけれども、昨日までうるさく鳴いていたセミの声は今朝は見事に消えてしまった。代わりに鈴虫の声に変っている。セミはどこに行ってしまったのでしょうかね~、確実に秋になり、季節は移り変わっています。これを仏教では無常といって時の移り変わりとともに生きていくことを釈尊は教えられています。・・・残暑の折、お体に気を付けて。」
セミはどこに行ってしまったのでしょうかね~?
とお坊様が言った時、私は心の中で、死んだでしょう、と言っていた。実際、外にはたくさんのセミの死骸がある。うちの犬は何故かセミを食べるのが好きなので、散歩の時にそこから引き離すのにこちらが苦労しているくらいだ。
ちゃんと観察していればセミが最後どうなったのかははっきり分かる。そしてその死を見ることで無常、自分も無常、そのうち自分もセミと同じ運命になることがはっきり見える。だから限られた短い人生をしっかり生きなければならない・・・・と長老だったらそういう風に説法をするだろうなぁ、と思うし、そちらの方が本当に人のためになる説法だと思う。最も大事なこと=死、から目を背けさせるような説法は仏教のものとは思えない、観察が足りない、というか、観察が必要なのだ、しっかり観察していれば真理は見える、というヴィパッサナ―の手法が少し納得できた一瞬だった。
人は大事なところで目を背ける。本当に、一番大事なところで目をつぶる、意識を外す、それはこの数か月の太極拳の練習で気づいたことだった。
生徒さん達との練習、チャンス―でも円でも大事なそころで意を外す。でも本人は気づいていない。指摘してあげると本人も気づく。(私も自分の動画を見たり、師父と練習をしていると無意識部分に気づく)。それほど私達は通常、無意識で生きている。
今日のお坊さんはこんな話もしていた
・・・こちらでは動物の供養もしております。犬でも鶏でも、蛇でも・・・私は蛇は嫌いなのですが、やれと言われれば蛇でも供養を致します。・・・・
実は動物供養の話をする中で、「蛇が嫌い」と言う言葉を3度も繰り返した。
隣に坐っていた娘が思わず私に小声で「(お坊さん)普通の人だね。」と軽く言った。
普通=俗人?私も思わず笑った。 蛇と犬の何が違うのか?生命を見れば同じ生命。一体どの程度の修行のレベルなのだろう・・・?
少なくとも、足の指でゴキブリと遊んであげる、という長老とは全く違う。
同じ仏教といえども中身は千差万別。太極拳も似たようなところはある。到達しようとしている場所の違いかしら?(まだまだ良く分からないことがたくさんある・・・)
2018/8/26
「太極拳とは空気中の水泳である。」は馮志強老師の有名な言葉。
クラスでも以前そんなことは教えたし、ブログでも書いたことがあったから、何度も繰り返す必要はないかと思っていたが、先日アジア大会で池江選手の見事は6冠達成の泳ぎを見て、馮志強老師のあの言葉が”膨らんで”しまった。
日曜クラス、早い人は私の到着1時間前からタントウ功なり動功なり自分の練習を始めている。昨日も私が着いた時は銘々準備が終わっている様子だった。それなら、とそのまま24式から練習を始める。そのあと48式をやって皆の動きがぼやっと見えた時、ああ、そういうこと?と水泳関連でアイデアがひらめく。
一通り動いた後で、ベテランの生徒さん一人に第17式第18式あたりをやってもらい、途中定式になったところでストップをかけてみた。なお、套路の定式(各式の最後のポーズ)はそのままタントウ功ができるようになっている(あるレベルになったらタントウ功は馬歩だけでなく弓歩でやってみる。最終的には套路中どこでストップをかけられてもタントウ功になっているのが理想。)
套路中のあるポーズをとったところで一時停止をかけられたM君。それを見てもらいながら皆に質問してみた。
「このM君をこのままの形で海に放り投げこんだら、浮くと思う?沈むと思う?」
皆がギョッとした顔をした。(意外な質問で一瞬頭が真っ白になったような顔・・・脳は一瞬開くが丹田を外してしまっているのでスキができてしまっている状態。でもそんな顔を見るのは楽しい。(笑))
「沈むと思う・・・。」
そう誰もが思う。M君本人だって、このまま海に投げ込まれたら沈んで死んでしまうと思ったに違いない。
「じゃあ、少しでも浮くように身体の中を変えられる?」
M君が身体の中をもぞもぞ動かしている・・・彼なりに精一杯、空気を入れて身体を膨らませようとしている。
振り返ると、他の生徒さんも真似をして身体を膨らませようとしていたりした。
「命門を開くという意味が分かったかしら?」
皆に聞いてみたけど、ピンときた人はどのくらいいただろうか?
水中で浮く時の身体の要領と太極拳の基本姿勢の胴体部分の要領はとても似通っている。ポイントは腰の隙間(命門や腎)に空気を入れること。そして最近の肋骨を意識する練習から気づいた点と重なるが、肺にそれなりの空気をいれておくこと。『含胸』とは胸から空気を抜いてぺっちゃんこにすることではなく、それによって二つの肺を右左にきちんと分割し、それぞれにきれいな空気がたくさん入るようにすること、というのが現在の私の理解。(だから脇や体側部分が膨らむようになる。腹圧をかけるため肋骨は閉じ気味にしておくのに、内側の空気量が増えるからこそ、”束肋”(肋骨を束ねた感)が出てくる。ただ肋骨を締めただけでは胸がぺっちゃんこ→そこから下腹が満タンになり、じょじょにその蒸発した気が胸へとあがって肺を満たすような経路をたどる:タントウ功がかなり進んで中丹田、下丹田が満タンになった人の練習の経路))
水中で浮く時の身体の状態については以前書いた覚えがあるので、検索してたら2013年12/13付けの記事に、腰痛のある人へ、という文脈から以下のように書いていた。
腰が反って腰痛になりがちな人に一つのアドバイス。
歩いているときに、頭の中で背泳ぎで浮く時の身体のイメージを再現してみる。浮ける人なら分かるはずだが、その時お腹が少し引っ込み(腹筋が使われている感じ)腰(命門)が開いたようになっている。もし腰が反っていたら沈んでしまう。逆に腰が丸くなりすぎていても沈んでしまう。
水面で働く浮力は水平方向の面積が広い方が強くなるから、背骨が通常のS字カーブよりも直線的になると浮きやすくなる。それが命門を開いた感じだ。
背浮きでも伏し浮きでも同じだが、水中で浮く時の身体の使い方はとりもなおさず上の①の要領。
今日生徒さんにもアドバイスしたが、歩いていて命門を開く要領を思い出せなかったら、水中で背泳ぎをする自分をイメージして、その姿勢のまま歩く、というのも好い練習になる。
日常のちょっとした意識の使い方が積もり積もれば大きな成果につながる。普段の生活でどれだけ意識的になれるか、それは太極拳の中で最も大事な修行だと思う。
(ちなみに、検索がてら自分の以前のメモを読んだら、思った以上にちゃんと書いている!復習になるので、生徒さん達は図のあるところだけでもざっと眼を通してみて下さい。今なら理解が簡単、あるいは、使える!はず。https://www.studytaiji.com/2013/12/01/2013%E5%B9%B412%E6%9C%88/)
昨日の、水中に放り投げられて浮くか、という視点を置くと、命門だけでは足りないのが分かる。関節の隙間も必要、力みもとらなければならない、空気を身体の中に蓄えなければならない。
完全にはできないにしても、そんな雰囲気が分かると、会陰を上げなければならないことも分かるはず。しゃがむような動作でも浮きながらしゃがもうとするとどうしなければならないのか?
是非やってみて下さい。(今週の練習では生徒さん達にやらせてみます!)
下の馮志強老師や他の老師の動画。浮きそうかどうか、身体の中の空気量の違いが見えるでしょうか?
(全部見なくても少しみれば雰囲気は分かると思います。もちろん、どうやったって、実際には沈みます(苦笑)感覚的な説明です。実践系、演武系の人の目指す方向は違うのでその感覚は減るかもしれませんが、太極の道”に行くなら間違いなくこの方向でしょう。)
番外編。アジア大会も凄かったよう。が、これはどう見てもアクロバティックな体操競技。身体能力がとても高い。
いつの日かこの中から太極拳に入門する人が出てくるのかもしれません。
2018/8/25
暑くてサバイブするのが精いっぱい。家族行事もあってメモが遠のく。記憶も遠のきつつあるので書き出し作業。
①結局はタントウ功
24式、48式内の技の説明。技を丁寧に教えてもかけられない、痛くない!のはなぜ?
結局、タントウ功がしっかりできていない。
そこを注意させて補助してあげると、タントウ功をやってきた生徒さん達はクリアする。
肘技やカオ(体当たり)、膝崩しだって、全てはタントウ功をきつくやればよいだけ。
打つのも同じ原理。
中正不偏が太極拳の核心。一瞬たりとも崩れない。そのための腹の気(丹田)。
②会陰→舌→百会(眼)
身体を上に持ち上げる3点。
舌が落ちたり、眼が落ちては、虚霊頂勁はできない。
(ここから派生すること…多し)
③眼法
眼が手を追いかけてはいけない(眼がくらくらする…当たり前)
手が眼を追いかける。(実践すれば当たり前の話)
無駄に瞬きしない(そのためには丹田で上丹田を引き込み続ける必要かあり。
眼で脳を開ける(詳しくはいずれ)
④肩関節と股関節、四つの珠の隙間を開ける。四つの珠は四輪駆動。
⑤息
息で決まる! 自分の息が分からなければ、人の息を見てみるとよい。
転換点にスキあり。そこがチャンス―のミソにもなる。
「スタンフォード式」で説明されてた腹圧呼吸ではその転換点をどうするのかの説明なし。
尺八奏者が使う密息にはその転換術があるような気がする。
転換点で気が煉られ、力が増強する。
・・・・説明難しい。
⑥肋骨
肺にはプラーナ(軽い精妙な気)
タントウ功のした姿のまま海に堀投げられても浮いてられるか?
<LINEの仲間たちのページにもチャットを貼り付けました→仲間たちのページへ>
2018/8/14 その二
先ほど明日のお盆特別レッスンの生徒さんから、明日は彼が参加できなかった半年ほど前のクラスで私が教えたという『含胸』の要領を教えて欲しいとリクエストあり。
半年前の含胸?
一瞬面食らって、彼に、もう少し具体的に私が何を教えていたのか分かれば教えて欲しいと頼んだ。すると彼はそのころのブログ(?)から該当部分を引用してくれた。
『喉を無事通過すれば、胸のダン中つぼ。裏は肩甲骨間の神道ツボ。
ここを開く、いわば『含胸』の要領。
今日はここを中国風お祈りポーズで開く感覚を掴んでもらった。
この場所は魂が住んでいるから、特別のお部屋が用意されている(心包)。中の住人をつぶさないように、私達も胸の奥に隙間をあけておかなければならない(中医学の説明)。
両手を胸の前で合わせるポーズはそもそも胸の中を開けて胸の気を腹の方へ降ろすようにできている。
太極拳的には上肢は胸のど真ん中、肩甲骨のど真ん中から生えているように使う。含胸ができないと上肢、肩がうまく使えない。』
確かに私の文章だけれど、いつ書いたのか覚えていない。
これじゃあ、どうやって当時『含胸』を教えたのか分からない。
更に手がかりを探してもらうと、彼から、”ストロー”と”打人如接吻”、があがってきた。
ストロー? 最近知ったLINEの検索機能を使って検索。今年の2月にその会話があった。
『今日の練習には重要課題の息と心の第4チャクラの開発が含まれていました。
第1から第3までは身体のベース、この基礎を元に第4から上の開発に進みます。
呼吸は第6→第5→第4(鼻口付け根から肺)ですが、息は第4→第3→第2→第1まで行って"翻る"なり他の場所に動かす...と感じられますが最後までまだ追いかけられません。
息は血管の流れでもあるから、実は人体の壮大な地図を描くような話にもなり得る...。
ハート第4チャクラの開発は、胸前面のダン中のツボと背中側の神道穴を貫通させてストロー一本突き刺さったままストローを潰さないように腕を動かすことから始めました。要はこれが"含胸"。
(ハートが)開いても"乱開"しないためにとても重要な要領です。普段ハートに蓋をして生きているとある刺激で突然キレてしまう、というのも、普段この場所のストロー一本分の隙間が塞がれているから。ここの練習は芸術表現とも密接に繋がっていて個人的にはとても面白い。
今日Mさんが本当にきれいに含胸のまま第4を開いたり閉じたりしてくれました。これをすると丹田に気が溜まり足裏に気が落ちていて、あー、そういうこと、と私も見て納得。
静けさが美しい。
息がきれいに通ってる。
私も参考になりました。』
と、私も今読んで、参考になりました。
この時、既に、”この練習は芸術表現とも密接に繋がっている”なんて書いているのに、肝心のピアノの演奏ではそんな”ストローの隙間”なんて完全に忘れて表面的なところ(俗世界?)であたふたしてました。
過去の私がその様子を見たら、さぞかしがっかり・・・せっかく教えたのに・・・と(苦笑)
ともあれ、明日どのように『含胸』を教えるかは明日の私のみが知っている。
この半年間での気づき、そして生徒さんと直に相対して出てくる気づき、それに過去の蓄積、全てが一緒になって何が出てくるか、は明日のお楽しみ。
Mさんの動画、顏をぼかせたら載せます・・・。今見ても、きれい。
2018/8/14
今日の御苑練習。
昨年熱中症になってしまった男性が参加。用心しているが途中首元が熱く少しヤバくなったようでしばししゃがんで休憩。大丈夫かと私も心配で気が気でなかったが、その後も休憩をはさみながらゆっくり動き続けました。最終的には首に気が貫通したとたん、首の熱がとれ、頭もすっきりしたらしい。首の気の通りが悪かったのが問題だったんだ・・・と納得して帰りました。
首に気を通すのはとても難しい。
首がすっと、子供のように自然に立っている大人はほとんど見かけない。
太極拳の先生方の中でも首を”立てず”に”立って”いる人は少なく、筋肉や骨ではなく、気で立ち上がっているならその先生のレベルは非常に高い。それができて初めて本当に湧泉(もしくは会陰)から百会まで気が貫通する。真の意味での『虚霊頂勁』が完成する。
『虚霊頂勁』は太極拳(タントウ功)をする上での一番最初の要領だが、実はこれが完成するのは一番最後かもしれない。
様々な要領(虚霊頂勁、沈肩墜肘、含胸抜背塌腰、屈膝园裆松胯)などは一つ目がクリアできたら二つ目に挑むものではなく、ぐるぐる回しながら少しずつ会得していくようなもの。レベル1の習得度で一巡させれば全体としてレベル1、二巡めはレベル2の習得度で回して全体としてレベル2・・・いつまでやっても完全にはならないところでどこまで完成度を高められるか、そのようなもの。
2018/8/10
2018/8/6
先週末、娘は南仏トゥールーズから車で1時間ほど離れたBeauvilleという場所のミュージカル・キャンプに出かけた。そこには毎年主にイギリスから8歳から18歳までの子供が集まり、一週間キャンプ生活をしながらミュージカルの作品一本を仕上げる。土曜日集合で翌週金曜夜がパフォーマンス。その夜は父母や村の住人がパフォーマンスを見に集まり、そのまま夜中は村のお祭りになる。
娘は8歳の時にパリに行き4年近くをそこで過ごしたが、実は彼女の人格形成にとって多大な影響を与えたのが、このBeauvilleスクールと『奥様は魔女』のDVD。
パリのインターナショナルスクールに入った時、娘は全く英語ができなかった。渡仏する前に某大手英語スクールにも通わせたが何の意味もなかった。学校では英語だが、街はフランス語。テレビをつけてもフランス語。仕方なくCartoon networkをつけていたが、ある時本屋で懐かしい『奥様は魔女』のDVDを見つけ、私が見るつもりで買ったら娘が大ハマり。毎日毎日(そして20歳を過ぎた今でも)見ていた。サマンサ、そしてあの時代のファッション、暮らし方は彼女の理想になった。家でもきれいな服を着てヒール靴をちゃんと履いているような生活がしたい・・・実際、インターで仲良くなった外国の友達の家に行くとそうだったりするようだから、彼女にとってはとりたてて特別のことでもないようだ。英語は全くできないうちから母国語は英語だと自分で勝手に信じていたくらいだから、彼女はもともと英語が好きなのだろう。
9歳の夏休み、6月から3か月近くも休まれたら困る!(太極拳の練習がし辛くなる!)と、私は娘を7月末まで日本人学校に通わせようと考えた。しかし希望者が多く抽選でみごとに外れてしまった。がっかりしたその日、たまたまアメリカンライブラリーの壁に小さな張り紙で、子供ミュージカルのサマースクールの募集をしているのを発見。南仏でかなり不便な場所、が、彼女なら大丈夫!と、娘に、行きたい?と即話を持ちかけた。もともと歌ったり踊ったりするのが大好きな女の子だから、すぐに、行く〜!!!との返答。即決! 慌てて手続きをして、瞬く間にパリのオルセーから一人で飛行機に乗らせて行ってもらったのでした。
一週間後、車でBeauvilleまで南下。丘陵地帯の小さな村。夜のパフォーマンス(その時はロミオ&ジュリエットだった)を見にいったら、なんと東洋人は私達だけ。イギリス人の小さな男の子がパフォーマンスを見ずにずっと私の顔を横から眺めているのが変な感じだった。それほど私の顏は君と違うのか?同じ人間とは思えないのか?、英語ができるならそう聞きたいくらいだった。
うちの娘は小さいながらもよく馴染んでいてとても楽しそうだった。一週間ぶりに会って彼女と話したら、一週間前の彼女と全く違っていた。英語もイギリス人みたいになってるし、ジェスチャーも、自信の漲り方も、英国化していた。
その後彼女は毎年夏にはBeauvilleに行き、18歳まで10年間、多くの思い出と仲の良い友人を作った。19歳の時はスタッフとして呼ばれ、衣裳の着付けや練習の手配など、50人ほどのイギリス人の子供達をマネジメントしていた。自分の娘ながら、凄いもんだ、と感心。私には無理だなぁ、と今でも思う。
今回21歳でスクールに参加。これは学校ディレクターの特別な計らい。他の先生方にも内緒でうちの娘を参加させたらしい。現地到着したら、先生方も含め、イギリス人の友人達が涙を流して喜んでくれたというから本当によかった。
昨夜電話がかかってきて、本当に楽しい、と言ってたけど、ぽつっと、日本の彼氏に会えないのが辛い・・・(といっても彼氏はすぐに娘をおいかけて南仏入りするのですが)。
彼女は中学生の時既に、パパに似た男の子がいて好きなの、と私に言っていたが、大学に入ってその子と再会。相思相愛になって付き合うようになった。本人同士は結婚を考えている。
娘を見てると、「××君が好き」「△△ちゃんが好き」というのがあっても「●●ちゃんが嫌い」というのはこれまで聞いたことがない。
好きな人がいるだけで咎められそうだった私の子供時代とは全く違う。
真っ直ぐ捩じれず単純に育ったのは元々の彼女の質だろう。伸び伸びしていて娘ながらどこか羨ましい。