2019/8/29
2019/8/27
劉師父と練習を初めてちょうど一週間。
毎日師父との練習は転腿で始まる。最初のうちは回転の悪い左足だけで1時間近くやっていたが、その後は両足で1時間ちょっと。その後、拍手功と足蹴り(歩きながら後ろ足の解ケイ穴で前足の承山穴を蹴る)を組み合わせて、公園を一周100回ペースで3周する。
動功は柔勁を高めていくために、腕の動きと腰の動きが”对拉(引っ張り合い)”になるように、注意深く正確に動く練習をしていた。
動功は単純な動きだけども、何を意識するかでいろんな練習ができる。
クワの回転とは腸骨の回転・・・左右の腸骨をそれぞれ別々に回転させるなんて意識したことがなかった。
24式と48式を師父についてゆっくりやる。
動きが正確でないところの修正。
今日の練習が終わって、師父が私に、なぜあなたにタントウ功をさせていないか分かるか?と聞いて来た。私が答えようとしたら、先に師父から、まずは二週間で集中的に癖を取る、それからだ、と言われた。一週間でもかなり修正はされつつあるのが分かる。マンツーマンでここまで仕込まれて上達しなかったら申し訳ない。2、3日前にNetFlixで見たジャッキーチェンの「ベスト・キッズ」を思い出した。師が心から弟子を育てようとする気持ちと、そして、外から見たら武術の練習とは思えないような練習をしているところがとても良く似ている。
ここまで来るともう何故自分がこの練習をしているのか良く分からなくなっているが、これも流れ、運命、カルマ、業なのだろうと、せざるを得ない何か、という、明るい諦めでやるしかなくなっている。
15年ほど前はあれほど学びたくて仕方がなかった太極拳。必死に師父に食いついて練習していたが、10年日本で教えて再びパリに戻って来ると、師父との練習も随分のんびりとしたものになって太極拳で目指す境地の一つ”太和“の”和”が少しだけ分かるような気がする。太極拳は本来はレッスンを受けるものでもなければ、練習するものでもなく、その流れの中でそうしているうちにそうなってしまうものだったのだろう。
2019/8/22
今日は八法(八勁)のうちの采を学んだ。
本気でやられてたら腕や指がちぎれてただろう。
十三勢を会得して套路を練習している老師がどのくらいいるだろう?
漫然と套路を練習していても十三勢は永遠に会得できないだろう。
技を知らずに太極拳の練習をすることはできないが、技を知るとやはり功夫が必要だと分かる。
功夫が足りないとせっかく技を教えてもらっても技にならない。
また基本功に戻る・・・が、その時はその基本こうで足りない何を養うのかが明確になっている。
基本功、套路、単式練習、技巧の研究、推手、武器・・・これらをぐるぐる循環させながら徐々に太極拳たるもののレベルを上げていく。
2019/8/20
パリでの劉師父との練習開始。第一日目。
師父は案の定私よりも随分前に公園に着て、私が到着した時には樹に脚を引っ掛けて圧腿をしていた。挨拶もそこそこ、「もう自分は拍手功を脚付きで既に1000回やって済んでるから、あなたもやりなさい。」と言われた。
拍手功は春に師父が来日した際に生徒さん皆に教えた基本功。全身の余計な力を抜き落とし、力を丹田に集中させられる。邪気を労宮から排出させ未病を出してしまうような効果もある。
どうせなら手だけでなく脚も、と一方の脚のふくらはぎの承山のツボをもう片方の足の足首の解ケイ穴の部分で蹴る方法を組み合わせてやる。
もっと強く!もっと松!と拍手を300回近くやると手が腫れて赤く熱を持った。
「非常好!」
手がじんじんする。今こそ腕を松して気の流れを感じる時。と、しばし軽くタントウ功。
その後は転腿。回転の悪い左足だけで1時間近く。そして右足20分。
師父とやると効果が全く違う。2時間やっても疲れない。やればやるほど体が馴染み、使ったことのない場所が開発されていく。二人で転腿しながらおしゃべりをする。ほとんど師父の話を聞いているのだが、質問もできる。十数年前にパリで習い始めたときは、こんな時に師父が話してくれる言葉を理解できないのが残念で、必死に中国語を練習した。今では松しながらおしゃべりもて練習もできる。そのぐらい余裕があると、気が流れやすい。集中し過ぎると、”頂”、”抗”となり、柔順という太極拳の原理に反してしまう。”道”から外れてしまうのだ、と師父が話してくれた。
真面目すぎて硬すぎては失敗。意が強過ぎると硬くなる。頭は攻撃的。心で理解する。
”心平気和”
今日学んだ言葉。
心が落ち着いて気が和む。
これが目指すべきところ。
だから
”柔順”
柔らかく、順う。
そういう意味ではパリはなにか柔らかい。
東京は皆イライラして時間に追われてるけど、ここは時間にもっと余裕がある。
昨日もスーパーでどのコーヒーを買おうかと迷っていたら私のせいで通路を通り抜けられなくなっていたムッシュがいたのだが、私が慌てて道を空けようとしたら笑顔で、どうぞゆっくり選んで下さい、と笑顔でジェスチャーをしてくれた。日本のおじさんはそうはいかないだろうな〜(苦笑)
身体は柔らかくありたいけど、心ももっと柔らかくありたい。
身体の硬さと心の硬さ、身体の柔かさと心の柔かさ、どのくらい相関関係があるのだろう?
身体が柔らかくて石頭、身体は硬いけど心が柔らかく寛容、というのもあり得るのか?
太極拳の練習では、身体の松→開→沈穏→柔→軽霊、の順で身体を開発していくが、おそらく、それと同時並行的(あるいは少し遅れて?)に、心の松(緊張していない)→開(心が広い)→沈穏(落ち着いている)→柔(柔軟性がある)→軽霊(執着がない)と進んでいくのではないか?
いや進んでいかなきゃダメだ!
結局は心の修行
身体で終わってしまったら”道”とは言えない!!
初日、スタートはそんな気づきと目標から始まった。
最後は師父と二回、ゆっくり24式。柔らかく、そして、収功した後は5分間Iの意守丹田。
時間に追われずに練習できるのはとても幸運なこと。
師父といると時間が消えるよう。
2019/8/
モンソー公園に向かう道沿いは邸宅が並ぶ。ファサードや柵のデコり具合がものすごい。かつてこの国にはどれだけのお金と建築家、アーティスト、そして労働者がいたのだろう? もう現代でこのようなものを作れる場所はないだろうなぁと思う。
そして忘れてはならない昨日カフェで見かけた目の透き通ったイケメンの男の子。カップルで現れた時は映画の一シーンかと思った。デートのためかきっちりスーツ姿で決めていたが、こなれた風でどこか緊張しているのが分かってとても初々しかった。彼のようなテロリスト風の髭もじゃがパリの若者の流行りだとか。これだけきれいだと髭もじゃも悪くないなぁ〜、なんて思う私はれっきとしたおばさんだと思う。
が、美しいものは美しい。若い時だけのものであっても。
2019/7/30
2019/7/22
昨日、一年で最も緊張するピアノの発表会を無事終了!
年齢も年齢だからトリを任される。太極拳の演武はそれほど緊張しないのになぜピアノはこんなに緊張するのだろう?
ピアノの先生に言わせると練習量の差。
確かに、ピアノは気分転換で弾くくらいで太極拳の練習のように根を積めたりしない・・・
ピアノは好きだけどそこまでのめりこまない。
太極拳は好きとも何とも思わないけどやらざるを得ない。気が付いたら考えているかやっている。
太極拳の練習のためにピアノをやっているのか、ピアノのために太極拳をやっているのか?
両方やるから面白い・・・套路と推手の関係みたいなところがあるような。
太極拳の練習はそのままピアノ演奏に反映してしまう(私の場合は)。
指先は気の流れの末梢部分。ここのコントロールがしっかりきいているためには神経、気の流れをきっちり整えなければならない。末端ばかり練習して身体の中心からの流れを無視していると雑な雰囲気だけの演奏になるだけでなく、腱鞘炎になったりイップスになったり故障をしてしまう。
ピアノ(楽器)は全身運動をして弾くべきのはず。
なら太極拳が関係ないわけがない!
師父も毎年私のピアノ演奏での身体の使い方をチェックしてアドバイスをくれる。
昨年は曲の最後でやっと丹田でピアノを弾けたが、そこまでは虚霊頂勁も×で、右手が固まっていた。(右の写真)
この一年、右手をどうにかしようと練習していたが、結局それは骨盤のゆがみや腹斜筋の縮み、その大元を辿ると若い頃にやりこんだ卓球での不正確な動きの蓄積、から来ているから、そんなに簡単には直らない。元をただすにはやはり地道にタントウ功などで上書き修正していかなければならない・・・。
練習時間が思ったほどとれないまま一年過ぎてしまったが、右手は以前よりも使いやすくなった。そして下丹田に気を落としたままでいられるようになったら肩が前よりもフリーになった・・・が、ピアノの演奏をみると、肩は課題。今開きかけている肩や胸の中が練習で更にバキっと開いたら肩が翼を広げるように自由になるだろう・・・。
今年は一目惚れならぬ一耳惚れ?したバッハのオルガン曲をリストが編曲したものを弾いた。
好き過ぎて半年以上この曲しか家で弾いていなかった。ショパンやリストだの、ロマン派の曲に全く興味がなくなった一年だった。人間の感情などという俗っぽいものと関係のないところの崇高な音楽、決して酔わない音楽、覚醒した音楽・・・このあたりは太極拳とどこか通じるものがあると思った。
上丹田が少しでもブレると不安がよぎる。
酔わずに最大限の覚醒を長時間続けるには腹底の丹田に気を引っ張り続ける求心力が必要だと思いました。
それにしてもほとんど闘っているような演奏・・・聞いている人が疲れてしまいそう(苦笑)
2019/7/14
2019/7/8
月末のパリへの移動の前に、と普段やっていなかった家の雑事をし出したらキリがない。断捨離はタチに合わないからときめきの・・・とこんまり方式で始めたけど、やっているうちに、なんでこんなに捨てなきゃならないのか?と疑問が湧いてきた。宇宙は現在膨張期。ものが増えるのも自然な流れ。宇宙が収縮期に入れば自然と物も活動も減っていく・・などと勝手に結論づけて要らない、と思うものだけ処分することにした。そうしてみると分かるのは、めったに使っていないけど何かいつかに備えて持っているものの多いこと! 着るオケージョンのない余所行きの服、アクセサリー、雑貨、書籍・・・。あまりないのは食べ物や日常雑貨。以前主婦の友達数人を家に招いた時、うちにお菓子や保存食を含め食品のストックがあまりにもないこと、トイレットペーパーや洗剤などのストックもない(これらにストックが必要とは思っていなかったけど)ことに驚いていた。そう言われてみたら食べ物は毎日ちょこちょこ買っているから家にストックはあまりない。冷凍食品も買わないからうちの冷凍庫は生ごみの保管庫になっている・・・。
書籍の整理をしていたら中国語の太極拳や気功、中医学関係の本がとても多くなっていることに気づいた。買ってペラペラめくった程度でちゃんと読み切っていない。時々参照するから捨てられないけどパリに持って行くのは疑問。と、中を開いてみると、やはり、いいこと書いてる。何かの宝庫で、胸がわくわくする。これが、ときめき? じゃあ、捨てられるわけがない。ピアノの楽譜も小学生の時に使っていたものからほとんど残っているが、やはり捨てられない。やはり宝物。
先日文京区にある東洋文庫ミュージアムに行ってモリソン蔵書を見たが、迫りくる本、しかもどれも100年以上保管するに値する質の高い本、に囲まれると自分の奥がシンと静かになって本たちから発せられるエネルギーもしくはメッセージを吸おうとしているのが分かる。ゴッホやフェルメールの美術展人込みの中で絵を見てやろうというあのいやらしい目にはならない。聞くと観るのバランスがとれる時、静、になるのかもしれない。見てばっかりは出過ぎ、聞いてばっかりは引きすぎ、その両者のバランスが・・・と、推手で学んでいるのは結局そこでは?
目と耳を同時に使えばよいということ?
・・・・ああ、これが三性帰一・・・今気づいた。
昨夜見たパリコレ学。やはり百恵ちゃんがダントツだったけど、あの人のウォーキングの素晴らしさは腹の丹田(下丹田と中丹田)がちゃんと目の奥の上丹田と繋がっていること。目の弾き具合が他のモデルさん達と全く違うとは思っていた。が、これは耳と関係あり?
昨夜審査員のデザイナー(ザック・ボーゼン)がしきりに”目”が魅力的でなければならない、と言っていたが、日本の女の子たちはどんなに化粧をしても目が活きてないからただの人形、フィギュアみたいになりがち。フィギュアが好きなオタク的な男性には受けがよいかもしれないけど、それは世界的基準の女性の美ではない。それは・・・もしや、鏡ばかり見ていて、耳を働かせていないから?
目が活きてくるのは、目が内側のエネルギーを発するからで、その時目はかなり奥に入って耳や喉、鼻とつながっている(上丹田の位置にいる)。耳も内側に引いて澄ましたようになっている(→霊性)。耳の”霊性”目の”見性”がつながって(それに心の”勇性”がつながるのが、三性帰一。収功の度に行うもの)目の奥が生き生きしていればそれだけで目は美しく、目に縁取りをしたり人工的なまつ毛をつけるのは舞台メークとしてはありとしても日常的にそれをしているのは滑稽にしか見えない。(もちろん、自分の顔をいじって遊びたい年ごろ、そのままでは外に出られないと思うお年頃、もあって、習俗としてのメークを遊びとして楽しむこともできるから全否定はできないけど。)
そうみると、男性の方がメークをしない分、目、そのものの魅力が際立つのかもしれない。良い生き方、充実した生き方をしてきた、している男性の目はとても味わい深く魅力的。番組に出ていたザック・ボーエンの目は、それを久しぶりに思い出させてくれた。これも上丹田のなせる技(アーティストは特に奥深くなる。瞑想者は更に深い。逆に言うと、俗っぽいことしか考えていない人、見てばっかりいる人の目は浅い。猫の目が美しいのは耳がとてもよく働いているから?)
両目が奥で一つになっているのは一流モデル→目と耳、両方使っている。
2つの眼球が目になっているのはカタログモデル→目だけ。耳で聴く意識なし。
(卓球の真剣試合と温泉卓球の違いと同じでは?温泉卓球で真剣勝負の目でやったら、おかしいでしょ!!)
静功はなおさら。目を閉じると余計に目の深さが分かる。目の深さは入静の深さ。
ヨガナンダと弟子の写真が顕著だが、上丹田は身体の中正がとれていないとしっかり機能しない→腹の丹田が非常に充実している必要あり。
・・・と、本当は最近の練習のメモだけ手っ取り早く書いておこうと思ったのに、気づいたらこんなに書いてしまった。
最近の練習。
➀息を通して套路をやっている人とそうでない人の違い。
私のところに来る前に別の教室で太極拳をそこそこ学んできた人に共通するのは、息が自分の中を通っていないこと。外の空気を吸って外に吐いてしまっている。これではいつまでも体操の域をでない。
内功から入った人は、自分の中で吸って吐いて息を通そうとするから、身体にうねりが出る。最初は形がきれいではないけれど、そのうち真っ直ぐになってくる。
②その息。教え方としては、胸郭の操作(下のブログ)の説明をした方がうまくいくようだった。
③首の立て方
いや、首は立てたらもうアウト。
首は立つ。自然に立ってしまうのが目標。
これには以前紹介した墙蹲功を復讐、分析するのが役立つ(2015年7月のメモ)
下の動画はとてもよい背骨の柔韧性のお手本。
最後の1分間の動きを見ると、首がどう立ち上がるかが分かる。
これは、タントウ功の要領ができているかどうかのテストのようなもの。
含胸、抜背、松腰、松クワ、曲膝、虚霊頂勁・・・これらができていればできる。
途中で引っかかるとしたらどれかができていない。
④足の扣の作り方
<LINEの投稿を貼ります>
昨日今日と教えた足の関節をつないで立つ方法。これをすれば自然な扣になる。
つま先、tips から意識していくのが踵を使い切るコツ。
①つま先先端(指の腹ではない!)
→②MP 関節→③リスフラン関節→④ショパール関節
→⑤アキレス腱下の踵先端
で、特に、③と④が扣、アーチをつくる要。
まず片足のつま先を地面につけて、➀から⑤の順番で、一個ずつ折って静止しながら次第に踵を床に降ろしていく。関節ごとにペダルを踏むように降ろしていけば、⑤まで行った時に足が自然な扣になる。③と④のところがアーチとなって力がかかるのがミソ。最近のしっかりしたスポーツ用のソックスはこの部分が補強されている。この足のホールド感がなくならないように動けるようにするのが目標。常に体重が真っ直ぐ脛下に降りている。
あとはこれらの骨をバラバラに動かせるように....でないと足首が回らない。捻挫の元。どんな体勢でも足裏がピッタリ床から離れないのはこの足の中の関節の柔軟性。
ここから先の話は私の今後の整理の課題。とても大事なことが含まれている。生徒さん達はおそらくチンプンカンプン(笑)
<LINEから貼り付けます。)
足の着地を調べてたらこんな動画が。韓国語だけど元は日本の番組のよう。
山本さん、踵から着地 ショパール→リスフランへ それから爪先へと抜ける
が、それでは遅いらしい!
マカウ選手、スネの立ち具合が全く違う。そしてなんと美しい脚!
マカウ選手は足を振り出して空中で爪先まで勁を通し、その劲が踵方向に戻る時に着地。爪先から踵方向へ地面を撫で蹴って(蹴り戻して)いる。
踵から着地する山本さんは劲が一旦踵で切れるので、踵から爪先までの力が身体に伝わらない→脚が腰に届かない。
逆に言えば、マカウ選手は腰高で脚が細くて軽く、跳躍力のある身体だから、空中で振り出した足の爪先まで操作できてしまう。
足の爪先まで操作しようとすると嫌でも命門まで腰を引き上げなきゃならない=会陰をぐっと引き上げなければならない。
今日の練習で、絶対に足の爪先先端を意識すべし、と言った理由はそこにあります。
踵→爪先 だけでなく、爪先→踵 も大事。
この動画についてのブログhttp://blog.livedoor.jp/ikejimasekkotuin/archives/46177936.html
外側の現象について分析しているけど、核心を突いていないような・・・。