2019/12/29
2019/12/27
パリは12月5日から鉄道、バス、メトロの一斉ストライキが始まり交通マヒ状態が続いてる。通勤通学はもちろん、クリスマスの帰省にも随分支障が出た。学校も閉鎖。
そんな中で迎えたクリスマス。
撮った写真をまとめてアップしました。
まずはクリスマス前の公園での練習風景。
ジュリアンが10歳の愛娘を連れてきた。ストライキのせいで学校が休みらしい。
ジュリアンに面と向かって尋ねてはないけど、師父の話では彼は離婚をして娘を育てているらしい。そういえば、ジュリアンを紹介してきた練習期間が私以上に長いフランソワも離婚をして子供を育てている(練習に来てもお昼に子供に食べさせなきゃ、と早めに帰ることがしばしば)。フランスは共同親権を認めているから、夫婦離婚後も子供はお母さんとお父さんの間を行ったり来たりしてるのだとは思うのだけど。
で、ジュリアンが連れて来た女の子。忍者になりたい♪ と言いながら、2時間半、ずっと木の上で読書をしていた。時々降りて来て公園を一周走っていたのは寒くなったから?
ジュリアンは娘のことが気になるらしく、ただでさえ覚えが悪いのにこの日は最悪。師父に叱られていた。
娘はお父さんが近くにいるので安心しきっている様子。読書に没頭。
やっとお父さんの練習が終わったら、木から降りて来て、ここまで読んだのよ、と本を開いてジュリアンに見せていた。ジュリアン、満面の笑顔でこう一言。
「ストライキのおかげで娘と一緒にいられる時間が増えてラッキー。ストライキ万歳!」
・・・・さすがだ。
うちはオスマン通りにあって、そのまま東に10分ちょっと歩くとデパード街、ギャラリーラファイエットがある。
パリでの買い物に興味がある時代はとっくに過ぎ、日常品以外の買い物にでないのだけど、夜、散歩がてらラファイエットに行ってみた。
あ〜、さすがの飾り付け。
スケールと色合いが・・・・これもさすが。
24日お昼。イブに向けて最後の食材買い出しに出かける人も多い。
モノプリの前を通りかかったら、屋台が出てる。赤い魚介と生牡蠣の箱が並ぶ。前菜だ。
牡蠣は大きさ、産地で等級がある。師父の奥さんの実家はボルドー近くの海辺なのだけど、毎年クリスマスが終わるとそこでとれた生牡蠣を持って来てくれた。今年もくれるはず。
牡蠣はレモンが必需品。スライスなんてしない。四つ切りでたっぷり絞る。
ネットに入ったレモンが売られていたけど、これだけ入って2ユーロ弱。普段は2個で1ユーロ超えてたと思うけど。せっかくだからレモンは買おう。そういえば師父は起き抜けに、レモン半個を絞ってレモン水を飲むと言っていたなぁ。私ははちみつ入れよう。
モノプリの中に入ったら、食材コーナー入り口はサーモンとフォアグラ。これも前菜。そのあとのカモも前菜。
数軒先の冷凍食品専門店ピガールではアペリティヴの食材がたくさん売られてた。エスカルゴも手軽に食べられる。やはりシャンパンやワインを飲むつまみがメイン?
七面鳥の丸焼きは見かけなかった・・・・ メインはもう売り切れていたのか?
25日クリスマス夜のSt.Augustin協会でのオルガンリサイタルは人はまばら。やはり多くは家で大人しく過ごすよう。と、終わって外に出たらなんとも微笑ましい二人組の後ろ姿❣️
左右に身体がぶれながらよたよたと歩く二人の姿がなんともかわいい。そのまま彼らはオーブンを陳列するショーウィンドウを手を繋いだまま見入っていました。も少し動画を撮り続ければよかったかなぁ。
こんな老年期を迎えられたらどんなに幸せ..
2019/12/20
日本帰国中の怒涛のレッスンの一コマ。
足は全身(のチャンスー)で作るのだけど、とりあえず脛以下の巻きで体験してもらいました。
幼児の足はこうなっている。
足首以下だけで簡単にジャンプができてしまう、そんな強いバネのあるfeetが太極拳の力の元。
力起于脚跟
2019/12/3
明日日本へと発つ前に、と、お願いして撮らせてもらった煞腰压肘。
煞 (sha)という漢字、辞書で調べたことがあったけど、 煞腰って?とイマイチはっきりしなかった。
昨日帰り道、師父と雑談していて私が、「概してフランス人はウエストをシェイプしている服が好きみたい。女性もさることながら、男性のスーツもウエストシェイプしてピタパンの細長いシルエット(ルパン三世の漫画みていな感じ)、日本のおじさんたちと違う。」と言ったら、師父が、「煞腰だね。」と相槌を打った。「えっ?煞腰?」 と驚いて聞いたら、「そう、あの煞腰。」と返答。え〜、煞腰ってそんな意味だったの〜? ああ、じゃあ、私は教え方が甘かったかも、と生徒さんたちのあのガッツポーズのような格好が頭に浮かんだ。
んー、確かに、腰に坐ってしまったら肘の力が使えなくて圧肘にならない。腰をひねりながら腰を引き伸ばすように気をお尻の方へ落としていったら・・・・ほんとだ、足の力が肘まで伸び伝わってくる・・・とその場で身体で想像してみた。なんだ、そうだったのか〜。
ということで、今日実演でやってもらいました。
最初は義務的に教えてくれていたけど、そのうちノッてきて、後半は次から次へと目から鱗の実演が出てきた。ああ、そうだったのか〜、と、なるほど続きでしばし翻訳忘れてました。
敢松,敢进去
敢gan は勇気をもってやる、という意味。
打たれるのを怖れてたら相手の懐に入っていけない。
人間の行動の根っこにあるのは欲と怖れ(ラジャスとタマス、貪と瞋)。
この練習は怖れに立ち向かう意味もあった・・・松できないのは怖れがあるから、怖れがあるから緊張する、まあ、これもあたりまえかぁ。
と、またまた意味深い練習でした。面白い!
2019/12/1
ヨガの動画。最近流行のヨガは西洋の影響でアナトミー(解剖学)を意識して練習しているようだ。
https://yogaanatomy.net/lock-knee/
膝はロックすべきか、すべきではないか?
これは日本人にはほとんど無縁の問題。というのは、膝小僧を押し込んで膝の後ろを伸ばしきって立っている人は非常に少ないから。おそらく90パーセント以上は膝が前に出て膝裏の筋が伸びていないまま立ったり歩いたりしている。
この動画の中に出てくる女性のような立ち方はこちらフランスでもしょっちゅう見かける。昔娘をこちらのバレエのレッスンに連れて行った当時も、先生が子供達に、膝を伸ばしても膝を入れすぎてはいけません、と注意しているのをよく耳にした。
動画でデモンストレーションしているように、膝を入れすぎるとちょっとした外力でバランスを逸してしまう。だから先生は彼女に、膝のロックを外して少し緩めるように指導している。
そう、これが太極拳でいう、”膝を緩める” という話。
結果的に膝は曲がるが、膝を曲げているのではない。
膝を意識的に曲げてしまうと、外力に対し、今度は太もも前面の筋肉を固めて対抗しなければならなくなる。膝を曲げて、太もも前面の筋肉がこんもりと固くなったら間違っている。筋肉が肉の塊にならないような位置を探さなければならない(→会陰の引き上げ、腰の調整、足裏土踏まずを引き上げること等が必要になるだろう・・・)。
総じて私たち日本人の脚が身体に比べて太い、脚に筋肉がこんもりつきやすいのは、正座のせいではなくその基本姿勢、歩き方にあるのではないかなぁ。
筋肉は筋状につくのが理想。肉の塊のような筋肉は瞬発力が出ない。→チャンスーの練習につながる。
2019/12/1
ひたすら転腿の3ヶ月間。足の形が全く変わってしまったのには師父もびっくりしていた。
生まれた時の足脚のまま、無理に圧をかけることなく、櫛で梳かすように流れに沿って使っていればあそこまで変形することはなかっただろう、と今は分かる。太陽系が宇宙の中心と想定されている場所から最も遠い場所にあるというカリ・ユガ期を脱してはいるというが、やはりまだ、”力”でねじ込める風潮は続いているだろう。生まれてから私たちはずっと力を使う練習をしてきている。紀元前3000年あたりから始まるカリ・ユガ期も一言で言えば戦争の歴史、誰が最も力があるか、mightyか、力の争いの歴史だった。この”力”が”意”に変わっていくのが地球規模でのアセッションだろうし、私たち個々人にとっては意識拡大・上昇の道になるはず。いかに力を使わず意を通すかhttps://yogaanatomy.net/lock-knee/、それが太極拳の核心、だからこそ太極拳は太極、高次元の境地(?)の道になる。(意は力で使わない。力を使って意を使うとそれは”集中”、火、になる。意を通すには、水を通すのと同様、まず身体の中の通路を開け、意が自然に流れるようにしなければならない。この身体の中の水路を整備するのに放松が必要になる。開いていない水路を開通するには高圧で気を流し詰まりを粉砕することも必要で、これには丹田の気の量と圧力が必要になる。)
放松が強調されるのは、力を使わさないため。力を使わせないようにして初めて意を使う要領を把握していくことができる。
物事は一歩一歩進む(この三次元の世界では)。
最初から意を使うことはできない。(最初から使うと力の意になってしまう=集中の意。集中の意は燃やしてしまうから通すことはできない。一点集中の火ではなく、大海のような意。老子は火よりも水のイメージ。)
武術家、武道家が修練を積んで意で戦えることが分かった頃にはとっくに戦闘心は消えてしまっているだろう。闘うのが馬鹿らしくなり技に対して淡白になる。いつまでも闘いたいとしたら”力”の世界を抜けてはいない。
転腿から帯脈ツボの開合(もしくは回転)の感覚がはっきりしてきたら、腹側の腸骨沿いのツボが意識できるようになり、それらとお尻の環跳ツボと合わせておおまかな三角形を認識しながら股関節の回転ができるようになった。前回転(=内旋)、後ろ回転(=外旋)、結局、回転は2種類しかない。あとはその組み合わせ。
帯脈ツボを引っ掛けて転腿ができるようになれば、胆経のラインを脇の方につなげて足、脚、腿、尻、腰を腕につなぐことができる。
今日の練習で、師父に、最近右肩が開きそうで開かないから寝ていると痛くなって仕方がない、と相談したら、転腿を俄かに止め単推手をさせてきた。推手はパリに来たばかりの時に少しやらされて、それではダメだ、ときっぱり言われてそれっきりになっていた。案の定、回し出したら、肩はもっと沈めろ手はもっと上げろ、手と肩を何で対撑しないのか?、と真剣顔で怒られまくり。うわ、どうしよう?と思った瞬間、あれ?この動きはこの1ヶ月間やらされてきた、双手揉球の、手と腰を半周ずらして回転させる(=引っ張り合い、太極図のように動く)動きではないか?、とその腰の動きを取り入れたら、ああ、師父の推手の動きに近くなってる! 師父の顔がやっと穏やかになって満足そう。「そうだ、そうやって推手をするんだ。推手は実は推脚なのだから。」
帯脈ツボが使え出したことに感謝。これがなかったら下半身と上半身はつながらない。
師父と推し合ってもどうにか対抗できる。腕は身体だった・・・が、まだ後肩がへばついてるなあ〜、と推手をしながら次の課題が分かる。
20分ほど推手をしたあと、師父が、このように動くと相手はあなたの力点が探せない、だから優位になる、と言った。確かに、以前のように、手を前に押し出す時に腰も前に押し出してしまうと相手に簡単に引っ張られてしまうし、引っ張られまいとすると一瞬身体に力が入ってしまう。しかし、手と腰を引っ張り合うように動かす(それには丹田の隙間、丹田の練り練りが必要)と、突然推されても影響を受けない(実際、推手の途中に突然師父が私を強く押そうとしたが、知らないうちに力が削がれて師父の方が重心を失していた。もちろん、それは師が私にその効果を体験させようとしたからだけど。)。
不思議不思議。本当はこんな風に推手をするんだ〜。
生徒さんに教えられるかなぁ。練習を積んで丹田を練られるようになっている生徒さんならその一歩めを教えられそう。帰国したら何人かを実験台にするかなぁ。
2019/11/20
実は3日前に師父を驚かせる進歩があって、昨日今日は、それが偶然、まぐれの進歩だったのかどうかをテストされていた。
師父は今年の春、私の股関節や背骨に歪みがあることを発見。これをどうにかしないと更なる進歩が難しい、が、一人で直すには大変・・・と話していた矢先、突然夏からパリ行きが決定。師父は、なんて強運な奴だ!と笑って私に言ったけど、それはこの機会を使って私の身体の歪みを修正しようと真剣に考えてくれていた。それが、タントウ功なしの徹底的な転腿という練習プログラム。
転腿はいわば推手の下半身版。陳式に特有の練習メニューだ。
二人の膝下を合わせて、粘连粘随をする。これを実力互角の生徒同士でやると、自分の力を感じるのが精一杯で相手への気遣いがゼロになってしまうのだが、実力差のある師父とやると、師父は私の力を感じてそれに対し私の身体の内部の力の出方が変わるような方向に推し返してくれる。それまで使ったことのない部分を使えるようにうまく力の向きや強さを変えてくれる。
最初は師父の力についていくのが精一杯で、一生懸命頑張って脚を回していたが、師父が何度も言う「让我拨开你」(私にあなたを開けさせてください)という言葉に従って、ひたすら師父の力に乗っかるように自分を無くして(頑張って頑張らないようにして、自分を消していく・・・無我?)いったら、あら、なんか身体の中が気持ち良い。任せると楽ちん。で、身体の内側のへばりついたところをピンポイントで回し広げてもらってしまう。私はもっぱら受け身で、師父の身体の中を探る余裕がないけれども(いや、探そうと何度かしたけど、どこから力が出てくるのか探し当てられなかった)、実際にはお互いに探り探られ、がやれれば二人の練習になる。
と、こんな転腿を毎日1時間半続けてちょうど3ヶ月。
この数週間で骨がめきめき動いて、夜も起きてしまうほどだった。首や肩に限らず、股関節や腰、そして脚、と、朝起きて歩き出した瞬間にあら?昨日と違う、の連続。毎日毎日新しい感覚(だから同じ地味な練習でも飽きない)。
そして最近、一番の課題だった、足、の感覚、形が変わって、足首が回り出した! と思ったら、師父が突然真顔で、信じられない!どうしたんだ?!、と驚いたのが3日前。「昨日までとは別人じゃないか! 脚の力が昨日の2倍になっている、これでは私もちゃんとやらないとあなたに押されて立っていられない・・・」
言われた私は力を使っている感覚がないから、師父のリアクションがよく分からない。ただ、これまでと違うラインで線を長くつないで立って脚を回しているだけ。位置が変わるとそこまで出力するパワーが変わるのか・・・・。力を筋肉で出そうとすると力を出している自覚があるが、位置(骨や筋肉のアライメント)を整えて、その内側を開けてトンネルを長くつないでいくと、トンネルが長く太くなればなるほど相手にとって強大な力が出てしまう。本人が力を使っている自覚はない。
以前第19代の先生が、改札から走ってでてきたおばちゃんに正面からぶち当たったらこっちがふっとびそうになった、あのおばちゃんの状態が太極だ、と言っていたのを思い出す。全身が一つの水袋のようになって当たってくると相当な衝撃がある。当たってやろうと当たった時以上の衝撃になるのは、当たってやろうと身体を備えた瞬間に身体が緊張して収縮し身体の表面は凸凹、局所的にしか当たれず身体の全体の力は無駄になってしまう。当たった時にビチャ〜っと水袋のように当たると丸ごとの力が相手に推しかかってくるのとは対照的(太極拳ではその丸ごとの力を整勁という。)
私のこの進歩は師父にとって想定外だったようで、何度も首をひねっていた。けど、最後には、自分もちゃんとよく教えたし、私もよく練習したから、進歩するのは当たり前だ、と一人で納得していた。私は力が云々よりも、長年の悩みだった外反母趾の足の形が徐々に変わって、足自体の認識、使い方がガラッと変わってしまったのが嬉しい。バレーダンサーの足も同じだ!やっと分かった、”足”の奥深さ!!
足について書き出したらキリがなさそうなので、今日はここで止めよう。
2019/11/17
第28式前後招(前招+後招 招zhao=招手は”技”の意味)と第35式指裆捶の動画をアップしました。
師父に昨日私が書いた独り言の内容を話したら、「それはその通りだが套路に含まれる技(の解説)も秘伝だ。」と言っていました(苦笑)。
現代ではもはやその技を盗んで使って相手を負かしてやろう、なんて思っている人はいないはず。ピストルが普及してから実践としての武術の役割がガクッと落ちてしまったと師父も言っていた。中国国内も今や警察機能が完備されて、師父が若い頃の文革期のように自己防衛のため実力行使をするという必要性もなくなってしまった。それでもやはり秘伝、内緒にしておきたいという心理は何なのだろう?
太極拳で学ぶものは他の武術でも日本の武道でも、楽器演奏でも日々の暮らしの中でも、ためになることがたくさんある。普遍性をもつ道理があまりにも多くて驚いてしまう。真理に近くなればなるほど何にでも応用が可能となる。そんな智慧は是非とも多くの人に共有してもらいたいもの。
2019/11/16 <套路の実践運用の動画について>
私がこちらで師父に習ってアップしている動画について、心配の声が届いた。
それは、套路の各式に含まれる実践的意味に関する動画は一般公開すべきではないのでは?というもの。
私からすれば、套路はもともと技を繋ぎ合わさせたものだし、その実践技撃は本や動画でも公開されている。別に秘密でもなんでもない。ただ、全くの初心者、気の流れ、丹田の使い方が分からない人に教えても意味がないからすぐには教えないだけで、ある段階になれば(使わずとも)知らなければならない。知らないと各式の動作における正確な身体の使い方、気の運用の仕方が分からず、ただの武術的ラジオ体操や武術的ダンスになってしまうからだ。
技自体は秘技でもなんでもない。秘伝となるのは技自体ではなく、技がかかるための身体作りにある。
太極拳の核心は、丹田に気を溜めて量を増やし、その溢れる気の圧で内側から関節を突破して(節節貫通)、結果として全身を一つの袋のようにしてしまう(周身一家)、そんな身体を作るところにある。そんな身体ができれば、技自体は知ってしまえばできてしまう(と、それが分かるようになるにもかなりの年月の積み重ねがいるのが厄介なところだが)。逆に、技を知っても身体ができていなければいくら努力しても技を会得することはできない。技を学んだのにその通り相手に技をかけても効き目がない、としたら、自分の身体作りがまだできていないのだ、と悟って、タントウ功や他の基本功を見直してさらに功夫を積む必要がある。技を知ったらできる、なんて思ったら大間違い。技を知ることで自分の足りないところを知る、そこに大きな意味がある。
技を一つ一つ覚えていくのは、数学で模範解答を一つ一つ横に並べて暗記していくようなもので応用が利かない。核心にある重要な定理の導き方をきちんと理解していれば、解答は暗記する必要はない。ある程度解けば定理から発展させられるパターンがいくつか見えてきて、実はパターンはそれほどたくさんないことがわかる。あとはパターンのバリエーション。
このあたりがちゃんとわかると師父のように、技のことなんて忘れて基本功だけしていれば実践に対応できてしまうはず。身体が太極拳的に反応してしまうのだから。
師父は私に、技は知っておくに越したことはないが、大したものじゃない、という。
私はまさかそれを実践で使おうなんて思ったりしないが、技を知ると、なんて太極拳って賢いのだろう!と心の奥がワクワクしてしまう。基本功でそこまでワクワクすることはないなぁ〜。技を学ぶのは楽しい。でも学んだのに師父と同じようにはかけられないのが分かるとがっかり。まだまだだなぁ、と思う。技がうまくかかると、ああ、やはり、ここはこうなっていたんだ、と自分の身体の開発が進んでいることを確認できる。師父に思いがけずうまく技をかけてしまった時は、やった!!と小躍りしたくなる(苦笑)
表面に見えるものだけ見ていては練習にならない。その下、それを支えているものに気づくかどうか。そうやって核心から始まり核心に戻っていくのが太極拳の醍醐味。
ちなみに、秘伝だからと言って本当に内緒にする老師もいるが、私の師父は全く違う。
師父は全部教えてしまう。全部言ってしまう。なぜか?というと、一言。
「教えてもどうせできないから。」
そう、秘伝というものは、教えたところですぐにできる人はいない。相当な”身体の悟性”があれば別・・・。
が、哀しいかな、”身体”の悟性は身体を開発しないことには現れない。
結局、太極拳の練習は身体の悟性を発現させるものに他ならない。
2019/11/13
第32式 摆脚跌叉→第33式金鸡独立
第34式十字摆莲
の動画をアップしました。→パリの練習動画
第32式
摆はここでは振り回す意。摆脚→脚を振り回す。
跌はつまづく、下降する意。
叉は二股に分かれる、とか、フォークみたいなもので刺すと意。(フォークは叉子)
下降して股割りのようにするから跌叉か?
跌叉の動作の際、師父が大事なのは下に下降することではなく、左足で”ツー"することだと動画の時に何度か言っていたのに漢字が浮かばず意味が分からなかった。あとで調べたら”蹴”でした。
左足の足裏かかとで相手の足首を蹴る、ということです。
第33式は上下に開く。
第34式
出だしの方向転換の際の足の運び方がややこしい。けど、このようにしないと左半身の背中側の勁がつながらずスムーズに身体の方向が変えられない。左内かかとの力を左肩までつなげられるかがキーになる。
ちょこちょこ間違いを指摘されました。動画を見てください。
2019/11/9
昨日が立冬。ぐんと冷えた。
昨夜は自宅で大規模な宴会を開いて夜中に片付けをしたから今日の練習は思いっきり寝不足状態。
運動量を抑え気味にする魂胆で師父に技の説明の動画撮りを頼みました。
技を最初に学ぶ時は頭は使うけど体力は使わない。
技を習得するとなると気を運用してマジでやらないといけないから慣れないうちは消耗する。
気の運用の仕方がわからなければ技を習っても会得できない。
会得しても何度もやって身体に染み込ませないと使えない。
私は技に対してはまだまだ頭の段階・・・
<第26式、第27式の撮影>
第26式の出だしの拧腰は太極拳の基本。とは知っていても、実際に相手との関係でどう使うかは分かっていない!相手の攻撃を交わして(化してから)反撃、は太極拳の戦い方だけど、交わすためには腰が素早く回転しなければならない。そう、毎日の基本練習は、そんなとっさに交わすための動き、腰の回転とともに全身が一斉に回る、そのための身体を作るためのものでした。応用できないような基本練習じゃダメだ・・・。
第27式、技の原則は相手の力を利用する(借力)こと。相手の力の出方でこちらの技が変わる。
其々の式には相手がどのように攻めてきているか、という各々の場面設定がある。だから技を教える側としては相手に”そのように”攻めてきてももらわないと技をかけることができない。
(最も困るのは攻めてくれないこと。女性の生徒さんを相手にすると往往にして全く攻める意思がなくてふにゃふにゃの手で握ってきたりするので、すごい先生でも技はかけられなくなる。攻めてこない人相手に打ちに行くことはありえない、のが太極拳。攻めなければ攻めてこられない・・・先手必勝とは真反対・・・ある意味平和的な拳法。)
で、私はここで師父の手を握って自分の方へ引っ張ろうとしたものだから、話がおかしくなった。そんなバカな自分に不利になる動きをする奴がいるか! 分かれば確かにそう。だけど、実践度素人だとそれさえ気づかない(苦笑) やはり経験則が必要だ。
<第43式雀地竜 第44式上歩七星の撮影>
この2つの式は実践的につながっている。途中で切れない。套路で2つに分けるのは第43式の定式の箇所で一旦丹田に気が集まり(合)、その力を使って第44式の技が繰り出されるから。気を丹田に集め戻すことをおざなりにしてそのまま第44式に流れ込むと上歩(前に一歩進むこと)した後の打撃に威力が出ない。
これら二つの式のネーミング、なぜ雀なのか、なぜ7つの星なのか、がまだいまいち分からない。分かったら追記します。
2019/11/5
雨の降らない日がなくなってしまったパリの秋。
毎日の基本練習はこなせても、プラスαー的に師父にお願いしている動画撮影はなかなかしづらくなった。
今日は雨じゃない!続きを頼もう、とやってもらった48式の中の第41式連珠炮。
46式の中にも入っている技だ。なんで、珠が繋がる、みないなネーミングなのか?
そんな疑問から切り出して教えてもらったら、なんと、たちまち第42式の白猿献果(白い猿が果物を捧げる、ような形の技)へと突入してしまった。ああ、連続技だったんだ・・・。
連続技にすると師父のようにスムーズに機敏に動けなくなってしまう。もどかしい。
が、待て、よく考えれば分かるはず。套路での練習は、この連続技がスムーズにできるようにするためのコツを学んでいるはずなのだから・・・。と、混乱してしまった頭を落ち着け、套路での動作を、放松を入れて丹田の気の流れを確認しながらゆっくり再確認。ああ、ここで一旦丹田を回して気を下に落とし込むんだった。
それに気づけば、師父のやってくれたような連続技へと応用が可能。もちろん、あのレベルになるにはもっともっと練らねばならないが。
私の呑み込みが遅くて随分長い動画になってしまいました。(途中どこからか電話がかかってきて動画が切れた。)その3は納得した瞬間。身体はまだまだ躾が足りないけれども、道理が分かった(分からない問題が解けた)のは良かった!