2020/1/31
今日の練習、たった今終了。
転腿、拍手功、動功、そして24式、48式、46式を1回ずつ。そのあとドミニックと一緒に46式の前半やって師父に直してもらった。
新しい言葉、新しい発見。忘れないうちに。(説明は後で追加。)
<轻盈>
46式内にある私のジャンプを見て褒めてくれた師父の言葉。昔は"笨 "で、最近"轻灵"になったと思ったら、今日は轻盈、驚いた、とのこと。
昔は笨(ben)・・・間抜け?格好悪かった、という何ともストレートな表現。確かに、以前はジャンプの時の上半身、特に腕の使い方が分かっていなかった。ある時、翻花舞袖で(ジャンプして)身体の向きを180度回転させる時は、軸足側の腕(後から回転させる腕)を思いっきり使って重い軸足を引き上げるのだと気づいてからジャンプが随分楽になった。
一路の24式や48式にはジャンプ(蹦)はないが、48式で様々な蹴り技を学ぶと、蹴り技には腕と上半身が大事だと気づく。脚は上半身? ん?、とその時頭の中は24式まで巻き戻る。ああ、24式で腕は力を抜け、足で地面を蹴れ!上虚下実だ!、としつこいほど言われたのは、腕の動きは下半身が決める、ということだったのだ。
腕は下半身、脚は上半身・・・・太極拳でコサックダンスはしないのだ! と思い浮かべて可笑しくなったのを覚えている。太極拳では上半身だけ使ったり下半身だけ使うような、身体に負担をかける不自然な動きはない、ということ‼️
自然界の動物で不自然な動きをしているものはない。人間は創造的だから、いろんな面白い動きを編み出せる。ブレイクダンスを初めて見た時、なんて変な動きだろう、と感じたが、それ以上に、そんな動きができるなんて凄い!と思った。凄い!と思わせるものの中には自然の延長上にあるものと、自然と逸脱した我の強さからくるものがあるようだ。自然の延長線上にあるものからは力みが感じられない。どこか涼やかだが、凄い、いや、素晴らしい、と思わせるものがある。力みがある凄さからは努力と汗、きつい鍛錬が滲み出てくる・・・・とは言っても、最初から自然な動きができるはずはなく(天才でない限り)、普通は不自然なことをしながら次第に熟練して力を抜けるようになって自然になっていくのだと思う。少しだけ自然な楽さが分かりだしたかなぁ。少し放松が進んだよう。
と、ジャンプに不自然さがなくなったら、軽快になって、師父は少し前の私の状態を、”軽霊”だったと言った。軽く、素早い(=霊)という意味。軽いと素早いは同類の言葉。
そして、今日の私のジャンプを見て、”軽盈“と褒めてくれたが、 ”盈”は月が満ちる時のように、溢れ出る、豊満な、という意味がある。軽快で豊満? すっからかんの軽いジャンプでなくて、中身がぎっしり詰まっているけど軽快だ、という意味だろう。単純にいえば、軽くて重い。これも太極拳らしい言葉。
<没有拧腰没有発力>
肘法、なんかしっくりこない、と思ってたら、なんだ、そーだったんだ...
発勁する時は必ず拧腰(腰をひねる、というか、帯脈の回転・ひねり・震え)がある。
肘や肩ばかり気にしていたけど、拧腰使ったら一気に師父の動きに近づいたよう。
家帰って早速調べたら、馮老師、拧腰のオンパレードだった。
(拧腰をどうやるか・・・丹田が充実して松腰が徹底して基礎ができれば真似したらできてしまう。真似してできるなら基礎ができてる。説明はここでは割愛。)
2020/1/28
太極拳の練習には太極拳で使われる特有の用語の理解が不可欠になってくる。用語が練習の手がかりになり、また、それが練習の答え合わせになる。ヒントであり回答であるなんてどういうこと?と思うけど、ああ、それが太極拳! 円なのだ。
「太極拳は松に始まり松に終わる」というのはまさにその代表例。
太極拳の練習の第一歩は”松”だが、最終的に出来上がるものも”松”だという。
じゃあ、何も変わっていないじゃない?と思うかもしれないが、そうではない。ただの珍問答、頭の体操でもない。
こんな一見変な言葉が、あ〜、そうだったんだ、とある時突然理解できたら、その他のものも同じこと、ああ、これもか、ああ、あれもか、と気づきが広がってくる。そこにぐるぐる螺旋の太極拳の道が見えてくる。
今日の練習でもまた一つ。
これまで何度も何度も言われてきた「脚后跟要用劲!」(かかとの力を使え!)
太極拳では「力起于脚跟」(力は踵から起こる)と言われるくらい踵はとても大事だ。
踵をしっかり踏まないとつま先も使えないし、(実は)つま先がしっかり分からないと踵も限界まで使いきれない。(この辺りの試行錯誤の日々については昔のメモでも書いたので省くとして、)パリに来てから半年間、毎日のように師父と1時間以上の転腿をしてきたら、足(feet)
の感覚が以前には考えられないくらい細かくなってきた。以前頭でお勉強した、MP関節やらリスフラン関節やショパール関節などが、今度は足の中で実物となって現れてきてどの関節のどの部分がくっついていて動かないのか分かるようになってきた。
そして、今日、いつものように転腿しながら、次第に姿勢を頚椎まで調整してほとんど理想的なタントウ功の形になった時、突然、地に貼りついた両足の踵が、左右交互にペコペコ動き出した。
ペコペコ動いているのだけど、踵は決して地面から離れない。踵の中で足踏みをしているかのよう。師父が「転腿していても、あなたの力がどこから来るのか分からなくなった。」と言ってきた。私自身、踵から頭頂までが内側の細いピンと張った糸で繋がっている感覚がある。実際、百会の少し左のところに軽く内側から刺し上げる感覚が出ていた。
そしてふと気づいた。この状態が正しいのだとしたら・・・踵は、踵は決して地面を踏みしめてはいないじゃないか!もっと自由に動いている! 、と師父に尋ねた。「あなたがいつも踵の力をもっと使え、というのは、ぎゅっと力をいれて踏みしめることではなくて、踵の中がこのように動いている感じなのですか?」。
すると師父は、「力を使うには虚実虚実、と運動してなきゃならない。ずっと実では力は使えない。」(当たり前だろう!)という顔つきで答えた。
え〜〜!ショック!
力使え、というから、まじで一生懸命力を込めていたのに! それならそ〜いう風になんでいってくれなかったのだろう? と、一瞬師父を責めたくなりかけて、いや、師父は、勁を用いる、と言っただけで、力を込めろ、とは言ってなかった、じゃあ、私の勝手な思い込みなのか? と頭の中が高速回転。
いずれにしろ、師父にとっての、「踵の勁(力)を使え!」は「踵の中を活性化させて動かせ!」ということだった、と自分の踵を見て理解した。確かに虚実虚実虚実、と動くたびに虚実の転換がされている。この状態でやっと「踵の勁が使えた」と言うのか・・・としたら、これまで必死に力を使っていたあれは何だったのか?
結局、師父が要求していた、「踵の勁を使え」の真意は、それを達成しない限り理解できる余地はない。けれども、最初からそれに向けて、分からないなりに「踵の勁を使って」練習し続けなければならない。振り返ると、最初は明らかに「踵の”力”」を使っていた。踵がごちごちになりながら踏ん張って頑張っていた。それがやっとfeet全体に勁が通りだしfeetの中の関節が動き出したら、踵の中の関節も動き出したに違いない(おそらく、踵骨、距骨、舟状骨、立方骨の間に隙間ができて関節として動き出したのではないか?)。癒着していた骨と骨の間に隙間ができればそこに勁が通る。骨と骨がくっついている時は塊として外側から力を加えてそれでも動かそうと頑張るしか内側の小さな骨と骨を引き離すことはできないのだと今は分かる。
そうすると・・・、腰回しの時の「用勁(勁を用いる)」も同じこと。私たちは力を入れろ!と言われていると思って力をいれたりするが、実は腰の力(筋肉)ではなくて腰の勁(骨の隙間を通る力)を使わせようとしている。練習では腰の隙間を見つけられるように力を使う、という指導でそこに連れていこうと私はしているが、ひたすら腰の力を使い続けたり、同様に、丹田にひたすら力を入れたり、していたら、力を入れたその部位が固まってしまって動きに支障が出てしまう。
勁を使う、ということは動きがある、ということ、虚実があるということ、それは経験しない限り理解できないのだが、一度経験すればそんなもの、と当然のことになってしまう。
「松から始まり松に終わる」
最初の松は最後の松から見れば松をは言えないのだろうけど、それでもその時のできる限りの松をしなければならない。いつまで言ってももっと松が可能・・・。松が極まることはないから松で終わってしまうのかしら?
またあのぐるぐる渦巻き、そしてそれは上昇螺旋。
2020/1/27
このHP、そろそろ手入れをしないと雑草生え放題の庭のようになっている・・・
TOPページも長らく開けたことがない。
最近お問い合わせでレッスンを受けたいというメールを何通かもらったのだけど、私が今日本にいないことを知らなかったよう。HP整理しなければならない。一番苦手な整理整頓(苦笑)
TOPページに付け加えようと書いた文章。
HPの構成をもう一度考え直すべし。
<2020年1月追記>
「HP開設にあたって」で書いたように、私は2011年にこのHPを書き出しました。その後HPを見て習いに来てくれる生徒さんが増えました。生徒さん達を教えながら、私が教えようとしている身体の”内側”の世界に入る(=太極拳に入門する)までには平均2年の内功の練習が必要なことを知りました。一度入れば自転車に乗るのと同じで一生その感覚は失われないでしょう。たとえ太極拳の套路の順序や動作を忘れてしまったとしても、内功で得た感覚は一生残ります。
私は生徒さんの数を増やすよりも、太極拳の核心となる”内側”を知ってもう引き返すことのない太極拳の門をくぐる生徒さんを作ることに最も力を注いできました。内側を知ってその世界に入れば、一緒にその話題で盛り上がれる自分の仲間ができる! というのが本音でしたが。
2009年春に師父と別れて日本に帰国し教え始めて10年経った2019年春、突然再度パリに行くことが決まりました。せっかく育てて来た生徒さん達と別れるのは悲しいことでしたが、これは神様が再度師父のところで学べと仕組んだに違いないと瞬時に心が切り替わりました。もうこんなチャンスはないかもしれない・・・いずれにしろ、もっと太極拳を学べと言われている、と理解せざるを得ませんでした。
2019年夏にパリに引っ越し、それ以来、毎日午前中は師父と公園で練習しています。東京や横浜では生徒さん達が自主練をしています。生徒さん達、私なしで大丈夫かなぁ、と最初は不安でしたが、次第に何人か核となって練習をするようなスタイルができてきているようです。練習会に参加しなくても個人で練習を続けている生徒さんもいるようです。あと1年か2年後に帰国する時の私の功夫、太極拳の理解は、渡仏前に比べて数段格上げされているに違いありません。帰国後私がどんな教え方をするのか自分自身興味津々・・・ 将来の自分に教える機会を与えてくれる生徒さん達との縁を楽しみにしています。
なお帰国するまでは、一時帰国中のレッスンに加えて、スカイプでもレッスンをしています。また、双方録画形式で質問とそれに対する動作の指導をすることも可能です。書面での質問に動画で答えることも可能です。興味のある方はお問い合わせから連絡を下さい。
2020/1/26 <松腰から目指すもの、松腰から松胯へ>
松腰から始めて私たちが最終的に目標にする身体は周身一家。全身が一つになった身体だ。
が、その一つの身体、というのは一つの塊、という意味ではない。全身の内部がくまなく網の目、ネットワークで繋がり、どこで感覚を受けても適宜瞬時に的確に反応できる身体、外に発揮する力は身体の中心からそのままロスなく発揮される、そんな身体だ。
中国語の疏通(shutong)、通顺(tongshun)と言われるような、水道や排水溝が詰まりなく流れ、農地の灌漑のように全身にくまなく気血が行き渡った一つのネットワークとなった身体。一般のスポーツと異なり、太極拳の練習が内臓を養う養生法になる所以はここにある。ネットワークがよければ歪な姿勢や動きにはならないから部分的に筋肉を使って関節などを痛めるという危険性もない。
そのためには身体の中に見えない通路を作らなければならない。それが気を通す練習で、本来太極拳の練習では筋肉で説明を経絡で説明をする。経絡は気の通るルートだが、これは目に見えないが感じることができる。最初は経絡上のツボを意識する(できる)に過ぎないが、その点が増えていけば次第に線として意識できるようになる。
松腰から周身一家へ、とは言っても、そこへ到達するためには一歩一歩進んでいかなければならない。経典にはそのメルクマールとなる言葉がいろいろ書かれている。太極拳の師ならその時々に適切な太極拳特有の言葉を言ってくれる。
松腰で丹田を少しばかり作れたら、その丹田に頼ってさらに松腰、そしてさらに丹田の気が多くなりさらに松腰・・・・となると腰は「塌(ta)」、するっと抜け落ちたようになる。これが『塌腰』。腰が抜けちゃった状態になる一つ手前、ああ、腰が抜けちゃうかも?、みたいなところ。
この時、私も含めて大部分の人は、頭がふっと下がってお尻が内側に入るように(突然後ろから膝カックンされたような感じに)なるのではないかしら?この時頭のてっぺんだけ吊っておいて首筋や背骨が長〜く引き伸ばされたようになればすごいけど、最初からそんな風にはなかなかいかない。腰より上が一つの塊になって腰と一緒に落ちてきそうになる。その時にもし慌てず、冷静に、しっかり自分の身体を観察して、腰が抜けそうな自分を首や肩や背中の筋肉で支えないで代わりに出来立ての丹田、腹の空気で自分を支えるように意識できれば、さらに丹田の気が増えて丹田がしっかりする。そうなれば腰は抜けずに引き伸ばされた形で丹田で自分を支える状態になる。
この塌腰になる瞬間に丹田の方に力を移動させる要領が、『斂臀』。お尻、正確には仙骨を前に少し押し込む動作だ。最初は仙骨だけ動かすことは無理だけど、それでもできるだけお尻をすぼませないように意識しながら仙骨を前に入れる。すると腹の方に力が篭るはず。
仙骨を前に入れすぎると、電車でよく見かけるスマホをやっている人の姿勢になるから要注意。(左の写真)
お尻がすぼんで骨盤が後傾し鼠蹊部(前胯)が緊張し恥骨にのっかたようになる。せっかく作ろうとしていた丹田はなくなってしまう。
ここまできたら、胯(kua)、骨盤・股関節を緩める(松胯)要領が必要になってくる。
松腰から松胯へ・・・ <続く>
2020/1/25
空手のことをブログで書いたばかりだが、今日明日はパリで空手の世界大会が行われているということで主人がその大会を観戦をして帰ってきた。
私が批判混じりで出してしまった動画の女性、型の世界チャンピオンの宇佐美さんは今回コーチとして、動画の男子組手の荒我さんは選手としてやってきて、荒賀さんは今日準決勝まで勝ち進んで明日決勝戦に臨むことになったとのこと。(空手の大会がパリで行われるのも昨夜知ったばかりだが、二人の動画を取り上げていたのも先見の明あり、か?苦笑)
宇佐美さんは実際に会うと普通のかわいらしい女の子であの動画と同一人物だとは全く思わなかったらしい。演武の時とは全くの別人、だと言っていた。(もう一度動画を見たら、上丹田が内収していない(眉間にシワが寄りそう)から実践ではなく演技、演武だと分かる。演歌歌手の表情とも少し似ている?)
帰宅した主人が一言、10年前に比べるとますます本来の空手とは別物になったなぁ、と漏らした。すごいし、面白い、けど、自分が道場で稽古してきた武道の空手とは全く違うなぁ、と。空手界ではもはやスポーツ空手と武道の空手は別物と思った方が良いらしい。試合に出る人はそれ用の空手を練習する。武道として練習する人は試合とは無関係に稽古を積む。太極拳もそうなってきているのだろうなぁ、と思う。
ひとそれぞれ目標が違う。追求するものも違う。年齢によって興味も変わってくる。
その時の自分のニーズに合ったものを学べる場所、先生が見つかれば、もう半分以上は成功したようなもの。あとは信頼して付いていくしかない。
2020/1/24 (松腰から骨肉分離へ)
先週は、太極拳の最大の特徴が腰であるという『太極腰』という言葉から、太極拳を練習するにあたって第一にしなければならない「松腰」ということについて書いた。
「松腰」、腰を緩める、ということは何も太極拳に限ったことではなく、運動をする時、動く時はまず腰を緩める、というのが基本中の基本。猫が獲物を狙って飛びかかろうとする直前に、毛を逆立てて腰をブルブル、ブルブル、とさせているのをよく見るが、まさに腰を緩めて背骨を緩めようとしている動きで、それによって身体が一つの弾丸のようにまとまって一気に動き出すことができるようになる。アスリートが走り出す前にも、身体を揺すったり軽く跳ねたり足踏みしたりいろんなことをしているが、それも腰から全身を緩める動きだ。
私たちだって急に”かけっこ”をすることになったら、その前に準備体操をして少し身体をほぐすだろう。ほぐす、緩める、これらの言葉はどういうことを意味しているのか?私たちは無意識にどんな動きをするのだろうか?
全力でかけっこをする前にどんな準備動作を行うかは人によって違いはあるだろうけど、おそらく首を回したり、膝や足首を回したり、腰を回したり、腿上げしたり、アキレス腱を伸ばしたり、前屈したり・・・そんなことをするだろう。
このうち、筋を伸ばす動きは筋を切らないためのストレッチ(拉筋)。
関節を回すのは関節の隙間を開けて関節がなめらかに動くようにするため。
そして腰を回したり、上体を回したり、軽くジャンプをしたりして身体を揺すったりするのは、筋肉をほぐすためだが、さらに揺すったり、(犬が水に濡れた後のように)ブルブルすることで(抖ドウ)肉を骨から引き離すことをする人もいる。
骨を肉から引き離す、肉を骨から引き離す、と、骨と肉の間に隙間ができてさらに動きやすくなる(身体がギュッと固まって重くならずに軽く伸びがよくなる)。動物は天性でそれを知っているが、私たち人間の多くは幼児期あたりでその感覚を失ってしまうのではないか?(背骨に限っていえば、四つ足のころは背骨が地面に平行で腹が下にたるんでいるから背骨をゆすると背骨と腹が分離するのがわかりやすいが、二本足で立ち上がってしまうと背骨を脱水槽のように回転させないとなかなか背骨とその周辺の肉が分離しないのだと思う。腹ばいで身体をずりずりすると背中が緩むのはその原理。)
太極拳では”骨肉分離”という言い方があるが、これは身体が松してほぐれた上体、出来上がり図だ。人体は5つの弓でできているが(背骨、上肢と下肢)、背骨をその周辺の肉から引き離していく、その最初の一歩が、”松腰”だ。
松、は隙間。
どれだけ身体の中に隙間をとれるか。
いずれはその隙間に気が流れ、勁が通るようになってくる。
松腰と表裏になっているのが丹田だと書いた。
丹田がなければ腰に隙間はとれないし、腰に隙間がなければ丹田はできない。
日本で主流の丹田の作り方は、往往にして丹田を固めてしまい、腰に全く隙間ができない。
腰に隙間がない=松ができていないなら、全身を松することは不可能。
手足だけ力を抜いて肝心な身体の幹、根の松ができない。
ゆっくり動いて雰囲気だけ松しているような太極拳を見て、「假松」(嘘の松)とコメントしていたのは馮老師だったと思うが、そんな言い方があるのかと驚いた記憶がある。
太極拳の目的は松ではない。丹田が目標でもない。
松や丹田は、気を身体の末端にまで勁として通して、最終的に身体が一つの気の塊になり、水道の蛇口をひねればすぐに水が出てくるように、意気力が時間差なしで発せられるようになるための条件だ。
そう聞いてもイメージもできないそんな現象が、一つ一つ体現されていった時、ああ、先人が伝えてきたことは嘘ではなかった、と自分で確認することになる。
まずは松腰と丹田。
なぜ丹田に気を溜めることが必要なのか、なぜ、松で骨と肉の間に隙間を作ることが大事なのか、その先に広がる見取り図についてはまた日を改めて書きたい。
<下の動画の3分あたりの動作が”抖”。保健功と銘打っているがとても大事な基本的な練習。これが発勁の基本。2路炮捶でとても大事になってくる。>
2020/1/20
週末こちらに教えに来ていた著名な空手の先生にお会いする機会があった。
歳は私よりも少し上で海外を飛び回って教授している。お会いしたらやはり武道家、付かず離れず淡々と心が明るい。さっぱりしていて一緒にいてとても気持ちが良かった。
が、一つ気になったのは歩き姿。左足を微妙にひきずっていて痛めているようだった。後ろから膝か?と見ていたが、左足が外回りして着地するところをみると股関節に違いないと思った。先生自身も教えてばかりでなかなか自分でじっくり練習する時間がとれない、と言っていたのを思い出して少し不憫に思った。
今日の練習で師父にその空手の先生の話をして、その空手の先生の動画を見せた。師父は、「空手は腰ではなく胯(クワ)で動くからなぁ。」とぽつっと言った。
あら、空手も? 太極拳の ”松腰なしに股(クワ)を使ってはいけない” という原理に反しているのは・・・。
そういえば以前代々木公園で行われた空手の全国大会を見に言った時、年配の空手の先生たちの背中がどれも板のように動かなくなっているのを見て驚いた。あんなに背骨が硬くなったら足腰が悪くなってしまうだろうと心配になったのを覚えている。背骨が固定されて動かなくなったら動物としては致命的。背骨をまっすぐに立てる、という要求が、背骨をまっすぐに”固定させる”結果になってしまうのは、腰を締めたままにして腹底まで息を落ちないためだろう(帯をぎゅっと巻くから腰が締まるのか?)。
背骨をまっすぐに固定させたまま運動をしたら身体を痛めるのは自明の理。そもそも”背骨”という一本の骨はない。脊椎は椎骨が連結したもので椎骨と椎骨の間は関節になっている。
腰を緩める、というのは、それによって脊椎の椎骨間の隙間を開いて椎骨と椎骨の間の関節が滑らかに動くようにすること。腰をぎゅっとしめたら脊椎は動かなくなる(腰をぎゅっと締めたら腰を回せない)。動かないドラム缶のような胴体を下半身で支え続けたら下半身は悲鳴をあげてしまう。胴体はうまく形を変えて下半身に過剰な負担をかけないようにしなければならない。これが、太極拳で学ぶところの”身法”だ。
太極拳には、身法、歩法、手法、眼法、の4つがあるが、初心者は手法ばかりに目がいきやすい。それから歩法に意識がいくのだが、盲点になりがちなのは身法だ。(眼法はさらに高度なのでここでは割愛)。
広く普及した太極拳に欠けているのは”松腰”=”丹田”、すなわち、身法、と言えるだろう。
手足の四肢運動にしてしまった太極拳はもはや”周身一家”になるはずもなく、”太極”でも何でもなくなってしまうだろう。
少し興味が湧いて空手の大会の動画を見たら、先週見た太極拳の演武の動画にそっくり(苦笑)
なんか”凄い!” が、腰(丹田)の力を意識的に通して使っている訳ではないので先天の気が減ってくるとどうもならないくなる。師父に動画を見せたら、凄い、凄い、と褒めていたが、私が「で、これが何のための練習か分かりますか?」と聞いたら「不知道(分からない)。」と一言。スポーツ競技になると武道の核心部分が抜け落ちてしまうのは太極拳だけの話ではないようだ。それにしても丹田が充実している若いうちはスポーツとして遊べるが、歳とったらこうは遊べない(苦笑)養生とは両立しない。
組手も今では、ぴょんぴょん跳ねて、腰の力ではなくて股関節以下で蹴りをしていた。一瞬、空手?と違和感を感じたのは私だけだろうか?
ここで思い出されたのが、つい2ヶ月前に亡くなってしまった金澤弘和国際松濤館宗家。空手を世界に普及させた人物で「東洋のブルースリー」とも言われていた。
蹴りの名手、と名高いから、やはり胯(股関節)の人だったのだろうか?と動画を検索したら、ああ、これこそ私のイメージしていた空手。腹(丹田)がすごい。だから腰、背中が影響を受けない。腹側にいるから返しが早いし、何と言っても拳と蹴りに重さがある。一発が致命傷になり得る。上のテコンドーのような空手とは全く違う、というか、空手はテコンドーのようになってしまったのか?
相手のASANO先生は背中側で立っているから腰が危ない。金澤先生よりも胯が開いていて腹腰ではなく股関節以下で動いているのが分かる(やられ役だからわざとそうした?)。
いずれにしろ、金澤先生の動きをみたらドキドキしてしまった。やはり地に足ついてどっしりして重くて素早いのはカッコいい。
腰をとれば股が落ち(脚の素早さに欠ける)
胯をとれば腰が落ちる(どっしりした重さに欠ける)
卓球でも若いうちは脚(歩法)でかせいで、中年以上になると台に貼り付いてあまり動かず腹腰で巧妙な打ち方(身法)をしたりするなぁ。
腰と胯をともに使えるようにするには(天才でない限り)地道に一歩一歩丁寧に進んで行かなければならないと思う。
2020/1/19
昨日師父と一緒に48式の動画を撮ったのは、私がこの半年でどのくらい自分の太極拳が変わったのか見たかったからなのだが、実際撮ってみたら私は師父の身体に隠れて後方に小さくしか写っていない。一方師父は久しぶりに自分自身の拳のチェックができるということで、公園で真剣に動画をチェックし出した。自分なりに第三式のここの肩が上がっていたとか、あそこがああだったとか2、3箇所不満な点を見つけたようだが、総じて良いだろうとまあまあ満足していた。動画の中の私にはそんなに興味がないよう・・・。
が、その日、夜遅く師父からメッセージが届いた。
あの動画の中で私の青龍出水は”打的有味道了(味がある)”との褒め言葉。やった!初めてそんな風に褒められた!
が、ん? 1箇所しか褒めてくれる箇所はなかったのかしら?
なんて頭に浮かんだりもしたが、まあ良いだろう。
と、今日公園に行ったら、師父がすぐにあの青龍出水は良かったと褒めてくれた。
「味がある、と言ったのは、きっと最後の膝横で打つ右拳のことですね?」と私が聞いたら、「違う、最後だけでなくその前から、腰や胯、拳の出し方がとても良かった。」と言う。え〜、そんなに良かった⁉︎ と小躍りしかけたら、師父が「うん、一番最初の左拳を除いては。あれは腰が入っていない。」と冷静な顔で一言。
青龍出水は文字通り自ら龍が立ち上ってくる様を表しているから、くねりのある陳式太極拳にもってこいの動きだ。左拳、右拳、左拳、右拳、と1、2、3、4と腰で動きをつなげながら打っていく。最後の腰を捻りながら落ちて右拳を右膝横に出す動きは最も難しく、肩と胯が松してつながるまではなかなかしっくりこない。最近やっとそれができるようになって自分でも進歩を感じていた。が、最初の左拳?腰、入ってなかったかしら?、と師父に指摘されてその場でやってみたら、ほんとだ、腰が取り残されてる! そのあとの右拳左拳は大丈夫。
師父はパソコンを持っていないから携帯で動画を見ているのだが、よくもあの小さな画面で私の腰が入っていないところが見えるものだなぁ、と感心しきってしまった。私が動画を同じように携帯で見たら、そう言われればそう見えるかな、程度にしか見えない(パソコンで見たらかなりはっきりしたけれど)。師父になんで見えるのか?と聞いたら、あなたの師父だから、と笑って答えた。
レベルがそこに達すればそれが見えてしまう。
見えないということはまだそこに達していない、ということ。
参考までに該当部分の動画はこちら。その下は48式全部。
2020/1/18 <松腰→丹田 or 丹田→松腰?>
今週は腰について随分書いたが、こうやって、なぜ『太極腰』と言われるほど太極拳で腰が重要になるのか、を順序立てて考察してみると、結局、それが丹田の表裏の関係であることがはっきりしてくる。
腰を使う(自由自在に蛇のようにうねったり膨らんだり凹んだりする)ためには、腰が緩んでなければならない(松腰)。
松腰が徹底して、どこが背中でどこが腰か自分でも分からなくなった時(虚腰)、尾骨から頚椎まで勁が貫通するための障害がなくなる。腰で上半身と下半身が分断されることなく周身一家が達成される(子供の時のような身体になる)。筋肉ごとに力を使うのではなく、全てを連携させた最も身体に負担をかけない理想的な身体の使い方が可能になる。
私たち直立する人間にとって一番のネックになるのが腰。腰に力がかかり硬くなるのは避けられないというが、その負担を最小限に抑えるのが丹田の気の膨らみだ。
腹側の丹田の気が膨らんでいてクッションとして機能していれば腰への負担はほとんど感じられないのだが、年齢があがるにつれ子供の時はパンパンだった丹田が小さくなっていき腹に力がなくなってくるととたんに腰痛に悩まされることになる。腹筋や背筋の問題というよりも腹の中のクッションの問題。
松腰は丹田の気が充実してこそ可能になる。
丹田が感じられないと腰のあたりの筋肉を緊張させて身体を立てるしかなくなる。
丹田→松腰
だから、練習では丹田の気を溜めることから始める。
が、以前もどこかで書いたように、丹田の気を溜めるには腰をリラックスさせないとならない。
松腰→丹田
ということで、太極拳お得意の、循環論法がまた現れてしまう(苦笑)
松腰が先なのか、丹田が先なのか・・・
答えは簡単。左のような渦巻き図。
そんな風に練習していけばよい。
最初、自分で可能な限り全身をリラックス、放松させる。息が次第にゆっくりなって、さらにほぉ〜とリラックスしていって、だんだん安静状態が深まっていくとほんの少し腹が膨らんでくる。
そうしたらそのちょっと膨らんだ腹を頼りにさらに放松、腰を緩める。
するとその分だけまた少し腹が膨れる。
そうしたらまたそのさらに膨らんだ腹に頼ってさらに腰を放松させる。→その分だけまた腹が膨れる→その分だけさらに腰を緩める。→その分だけ丹田の気が増える→・・・・・ 松腰→丹田→松腰→丹田→松腰→丹田→・・・・
と、松腰の度合いと丹田の度合いは際限なく広がっていく。
全身が一個の丹田になった、というような感覚はその延長線上にある。全身が一個の丹田になったのなら、もう腰はないだろう。(松腰の程度を高めていくと背中や肩や脚は胸や腹など、身体全体を放松させていくことになる:全部膜としてつながっているから腰を弛めようとしているうちにいつのまにか他の部分も緩めていることになってしまう。)
松腰→丹田、はい出来上がり!
と単純にいかないのが太極拳の面白さ。
松腰にも丹田にも程度がある。
そしてそれにはキリがない!
静功はそんな自分の身体の中の変化を傍観者として見て楽しんでいる作業かもしれない。
そして気づくかしら?
丹田を見れば松腰は見えないし、
松腰を意識していたら丹田は意識できない。
そう、それは老婆と若い娘、と同じ関係・・・・(師父にそれを言ったらニヤっと笑っていた)
2020/1/17 <腰の虚実のない太極拳は太極拳なのか?>
腰を緩めて開く(腰の松開)ということを知らずに中腰の姿勢を続けたら身体を傷めるのも時間の問題。しかし今では本家本元の中国でも腰を緩めることをしっかり教える老師も減ってしまったよう。特に大衆化されて広く普及した楊式太極拳はその傾向が甚だしい。
腰は太極拳の命だが、腰を虚にして(虚にできるようになって)自由自在に使えるようにするには丹田の気をしっかり溜める必要があり、それには地味な長期間の練習=功夫(ゴンフ)が必要になる。大衆化させる時に手間と時間のかかる功夫を落とし、筋骨皮の運動として太極拳を使ったのは仕方なかったのかもしれない。
ただ、一生懸命やればやるほど負傷者が増えていく事実は軽視できないと思う。
下の動画は中国の老師のようだが、典型的なよく見かける楊式太極拳。
腰が全く使えていないから足に気が落ちず足の力が掌に伝わらない。太極拳のことをほとんど知らない人にこの動画を見せたら、ダンス?、と答えた。まさかこの原型が武術だとは信じられないようだった。
このような腰は”束腰”と表現される。キュッとコルセットで閉めたような腰だ。丹田を使っていないから腰は締まって脚だけで動いている(違う言い方をすると、腸腰筋が使えていない)。腰が使えていないと短足に見える。
ここまでくるとアクロバテッィク競技。いずれにしろ、太ももがパンパンで上半身と下半身が別人のようになりがち・・・股関節か膝か腰か、いずれかを傷める可能性が大。丹田の気を貫通させてないから打撃にも蹴りにも重さがない(まあ、本人も武術だとは思っていないだろうけど)。
中国のサイトを見ていてもなかなか腰を緩めて使えている老師は少ない。健康法として大衆化せず武術という原型を保っているものの方が<腰を虚にすることの重要性>=<丹田の重要性>(両者は裏表の関係)を認識しているようだ。
打撃が足、腰から、というのがはっきり分かるのは・・・そう、これ!
彼のパンチ力は足裏から発しているのがよく分かる。腰でターボがかかる。
太極拳の力の使い方とほぼ同じだ。
偶然にも今日師父が生徒さんと推手をしているところを撮ったところ。太極拳の推手はとりもなおさずパンチの練習。勁を繋いで重いパンチになるよう、推す動作で勁のつながりを確認しながら練習している。村田選手の身体の使い方と同じで、勁が足裏から手に達するよう、縦ラインで通じている。腰がターボになる点も同じ。
私はボクシング選手のことはほとんど知らないのだけど、続きに出てきた下の選手のパンチは村田選手と異なり、いわゆる”横勁”、肩甲骨から腕へと横向きに伝わる力を使っている。上半身と下半身は腹腰の位置で分断。腕は腕、脚は脚。空手や少林拳など外家拳の力の使い方、と聞いたことがある。これは若者向きの力の使い方。35歳すぎたらこの力の使い方はキツくなる(先天的な気が減って丹田力が弱くなるから)。その後は丹田開発に励む?
2020/1/17 <腰の虚実なしに重心移動なし。腰の虚実転換なしには歩けない?>
腰についてあれこれ考察してきたら、以前一生懸命まとめた、ここに戻ってしまいました。
今読むと理解度が全く違う! 当時あんなに何回だった文章が簡潔明瞭に感じる。
記述に合わせて身体を操作できるようになったのは、頭じゃなくて身体が分かるようになった証拠♪
2020/1/16 <転腰松胯へ>
そしてやっと”転腰松胯”の話。
なんでこんなに前置きが長くなったのか、もう一度思い起こしてみると・・・
そもそもは、先週、東京にいる生徒さんの起式とタントウ功の動画を見たことがきっかけ。
<以下、私の中での一人会話>
ありゃ〜、脚が固まって居ついているし(松股が足りないから足裏に気が落ちていない)、それに(腰が緩んでいないから)お尻が突き出ている。
じゃあ、頭からストンと足裏へと体重が落ちるようにするためにはどこから手をつける?
まずお尻の三角形(=仙骨)部分をもう少し前に押し込まなければならないなぁ(斂臀)。
けどこの生徒さんの感じだと、仙骨を押し込んだら、きっと両脚の鼠蹊部まで前に移動して途端に身体の重さが太ももの前側にかかるだろう。(前太ももに力こぶができるか膝が痛いと言い出すか。)でもそれだとそれでは足裏に体重が落ちない。太ももと膝で体重を支えることになる。
両脚はそのままで仙骨を前に押し込めなきゃならない。ん〜それには仙腸関節がも少し緩んでくれなきゃならないなぁ。
<とここで下のような骨格模型が頭に浮かぶ>
<そしてまた独り言>
こんな骨格模型を見せたら分かってもらえるかしら?
カップの形をした骨盤を動かさずに(股関節に影響を与えずに)仙骨を動かそうとするなら、仙骨と腸骨のつなぎ目(仙腸関節)に少し隙間がなければならないということを。
加えて、S字になった腰椎部分を少し後ろに押し出すように動かせばそれに応じて仙骨は前方向に移動する、というのもイメージ可能かな? もちろんそうなるためには腰椎一つ一つが蛇腹のように動いてくれなければならないけど。(※実は腰が模型のようにS字になっていない平腰の人が日本人には案外多いこと注意しなければならない。腰が蛇腹として機能していない。そのような場合は最初に背骨のS字カーブを取り戻すために一刻も早く丹田の力を増強して腰に乗っからず腹に乗っかる癖を身につけそこから腹を使って背骨を動かす練習をしなければならない。平腰の人がさらに腰を押し出すようにすると腰を痛めてしまう。)
腰椎と仙腸関節、ということは腰椎と仙骨、結局、腰とその下の仙骨、骨盤を丹田の力を使って動かす練習が必要だ・・・。
で、彼の股関節はどうなっているかというと・・・
ん?股関節に乗っかってるから股関節より下に気が落ちない。
股は開いているのだけど何で通り抜けていないのだろう・・・
そもそも股関節を緩める、ってどういうことだったっけ?
<と、以下、股関節を緩める、について考察>
股関節を緩めるのは仙骨まで落ちてきた体重が左右の脚に流れて足に落ちて行くために必要。それはトイレに行きたいのをずっと我慢していてやっとトイレに座ったときの感じ。腹のちからをほっと抜いて骨盤もほっと開く必要がある。(骨盤をほっとリラックスさせる!)この骨盤の開きのないまま、骨盤を閉めたまま股を開くと、仙骨まで落ちてきた体重は股関節で止まってしまう。もしここで止まったまま運動を続けたら股関節を傷めるだろう。
股関節、大腿骨が骨盤に差し込まれた部分は球状なので、鼠蹊部の方の前側だけでなく、外側、内側、そしてお尻側にも隙間を開けられなければならない。これが不十分だと膝に負担がかかる。(尻側が開いていない)。でっちりにすれば股関節は緩んで使いやすいのだが、そうすると腰が閉まる。重量挙げの選手のように腰に強力なベルトをしない限り腰は傷んでしまうだろう。
ということで、股関節を緩めるには骨盤の開合ができなければならない。
そして骨盤の開合を可能にするのは丹田の気の膨らみと収縮。それが仙腸関節の開合も可能にする。
<では、どうやって練習するか?>
まずは丹田に気を溜める。(=タントウ功)
そうしたらその腹の気を使って腰や骨盤の中を回転させる。(=動功)
→仙骨を腸骨を縦線で引き離すような動きは腰の縦回転。腰椎から仙骨を一緒に縦回転させることで徐々に仙腸関節を引き離して行く。仙腸関節と腸骨を横向きに引き離すのは腰の横回転。斜め回転ができれば一番効果的。斜めに引き離すから一番距離が大きくなる。
いずれの回転も腹側の丹田の気を使って内側から外側に背骨(腰椎や仙骨)を押すようにするのがコツ。背骨を動かそうとするとあまり回らないし脊椎に無理な力をかけることになりやすいから、丹田の気が使えるようになったらその気を使って腰や骨盤を回転させる。
<整理すると>
まず丹田の気を溜める
→(丹田の気を使って)腰・骨盤の回転で腰椎、仙骨が動くようにする
→仙腸関節に隙間ができると骨盤の開合(丹田の開合)が可能になる
→股関節が自然に緩むようになる
そして以前書いたことがあると思うが、丹田に気を溜めるには、腰を緩めればいい!
腰の力を思い切って抜いてみるとその分、腹側の気(空気)が増える。(うつ伏せになった時に腹の方に腹圧がかかるのと同じ。ただやりすぎると腰が反るので注意。腰が凸にも凹にもならない中庸のところを見つける。)
ということで、腰の力を抜く”松腰”→丹田の気を溜める→・・・・・→股関節が緩む”松胯”。
すなわち、松腰→松胯
だから、松腰なしには松胯しない、という結論になる。
とてもくどくなってしまいましたが、下の動画を見て下さい。
この動画を見せればそれで済む話だったかもしれませんが、こんな単純なことにとても重要なことが含まれている、太極拳を間違えて練習して身体を故障しないように、と敢えて長々と書きました。
2020/1/14 <”曲膝” から無為の道?>
中国語は漢字一文字で表現するから自動詞か他動詞か分からないこともしばしば。「曲」と書いて、「曲げる」とも「曲がる」とも読めてしまう。私は”曲膝”の要領は”膝を曲げる”のではなく”膝は曲がる”のだと解釈している。前提には、(松すれば・・・)もしくは(松したければ・・・)が隠れている。
”(膝を松すれば)膝は曲がるはず” ”(膝を松したければ)膝は曲がるはず”。
決して”膝を曲げれば膝を松できる”わけではないことに注意しなければならない。
その他の要領のほとんども同様に解釈できる。
例えば「虚霊頂勁」。これも”虚霊頂勁すれば勁が頭頂を貫通する”訳ではなく、丹田の気が膨らんで頭頂に達する頃には”虚霊頂勁になっている”ということだ。
古来のマスターたちは完成形、理想形に達した自らの身体の状態を観察しそれをパーツに分けて表現したに違いない。ああ、この時、頭頂はこうなっている、肩はこうなっている、肘はこうなっている、胸はこうなっている、腰はこうなって、クワはこうなって、尻はこう、膝はこう、足首は、足指は・・・、という具合に。そのレベルに達した人たちは皆自分の身体がその表現のようになっているのを確認した。そしてそれば今ではあたかも、身体をその状態に導く”条件”のように伝えられてきている。それは確かに道しるべになるのだけれども、やろうろするとそうはならない、そこがもどかしいところ。そうなるようにもっていかなければならない。
太極拳は自我の道ではない。やろうとすればするほど力が入って緊張してしまう。コツは、たまたまできた時にその感覚を覚えておくこと。本来身体はそのようにできている。意志で身体をコントロールしつくそうとしないこと。身体が持っている知恵を丁寧に聞くこと。忘れかけている、もしくは埋もれた身体の知恵を引き出すように自分は従者となって従わなければならない。太極拳が無為の道、というのは何も雲をつかむような話ではなく、身体の自然治癒力を引き出すのと同様、身体の自然な動きを意志(自我)で邪魔しないこと、そういうことのはず。自分の思い通りに動いてくれない身体を罵るのではなく、ここまで自分を連れてきてくれた相棒だと思って労をねぎらってあげなければならない。身体は本当に限界まで頑張ってくれる。愛馬と同様、メインテナンスをして無茶をさせなければ、元の資質に応じてそこそこ良いところまで連れて行ってくれる。身体を奴隷のように扱う人は太極拳には向かない。身体の知恵を敬い感謝できる人がこの道に向いていると思う。そして練習すればすぐに気づくけど、実は完成というものはない。だから焦る必要もない。身体と対話をしているうちに知り得ないことを知るのだから。
2020/1/13 <さらに松腰について>
昨夜は腰とクワの調整についての重要な注意点を書こうと思いながら、そのための大前提となる”松腰”の話で尽きてしまった。
結論だけ書けば、「松腰なしに松胯をしないこと」。
それは当たり前だ、とすぐに分かる人に説明する必要はないのだけれども、一般的に広まっている太極拳は腰を緩め開く(松開)ことなく股を開かせているから、練習すればするほど太ももがカチカチになり、膝か股関節、ひいては腰まで痛めてしまう。必死に練習して太極拳の試合に出る頃にはどこか負傷してしまっている、というのはよく聞く話だ。
松腰、というのは何も太極拳に限ったことではない。
私たちが一歩足を踏み出して歩き出そうとする時は、片足をあげたその瞬間に腰を少し緩ませている(無意識だが)。もし腰をコルセットで固めて微塵たりとも動かないようにしたら軸足の膝を曲げない限りもう片方の足を持ち上げることはできない。科学未来館で見たASIMO君の動きは素晴らしかったが、膝は決して伸ばせない!なぜなら、腰の柔軟性が皆無だから。脊椎、腰を関節化させたロボットを作るのは至難の技らしいが、ASIMO君はロボットだから、ずっと膝を曲げて作業をしても膝を痛めない(もともと人工関節?)。でも私たちがASIMO君のような動きで生活し続たら間違いなく膝を痛めてしまうだろう。
私達の胴体には33個の椎骨があり、それが蛇腹のように関節として動くようになっている。そのS字の並びとその形の変形により、様々な運動が可能になっている。下半身だけで歩いたりしゃがんだり飛んだりしているのではない。歩き出す時には歩き出す前に胴体の椎骨が微妙にアライメントを変えて脚が前に出るようにしている。しゃがむ時も膝を曲げる前に椎骨の並び具合が先にS字から弓状に変形する。高い塀から飛び降りる時、背骨をまっすぐにしたまま飛び降りる人はいない。どれだけ猫のように丸くなれるか・・・それが股関節や膝への負担を軽減する。
つまり、運動するにはまず、椎骨が自然に自由に動けるよう、椎骨と椎骨の隙間を少し開けてあげなければならない。関節をうまく使うには、関節を構成する2つの骨が擦れてゴリゴリしないよう、2つの骨を引き離してあげなければならない。通常、それを関節を”緩める”と表現している。
腰(椎)を緩める、という感覚をとるのは最初は少し難しいかもしれない。
そんな時、私はまず、生徒さんに膝回しをしてもらう。
膝を伸ばして、気をつけ、の姿勢から、膝を回そう・・・とする時、そこでストップ‼️
「なんで膝を曲げたの?」と尋ねてみる。「えっ、でないと、膝は回せません・・・。」
でもかと言って、膝を深々と曲げて膝を回そうとする人はいない。皆、ビミョーに膝を曲げている。そう、そこの微妙に曲げた、その位置が、膝関節が最も緩んでいる位置。大腿骨と脛骨の接着面の隙間が最も広い位置だ。
頭で考えると難しいけれども、私達の身体は知っている。ここなら回せる、と言う位置を。
太極拳の要領の中に「曲膝」と言うのがあるけれど、これは単純に膝を曲げるという意味ではない。膝関節が緩んだ状態は外から見れば膝が曲がっているから曲膝、と言っているだけで、本質は、松膝だ。だから、タントウ功をしようが、套路の定式でポーズを決めている姿勢であろうが、そこで膝を回せなかったら「曲膝」の要領をクリアしていないことになる。いつ何時でも膝を回そうと思えば回る位置に膝関節の位置を調整していなければならない。膝関節の緩みを保つためにどのくらい膝を曲げなければならないかは、その時、その時の姿勢に応じて変わるのだから(頭で考えると発狂しそうになるが、身体は最も負担のない自然な場所を奥底で知っているから、意識的に余計な力を抜いていくうちに自然にそのようになってくる。)
膝関節で、関節の緩み、の感覚を少し掴んだら、それを身体の他の部位でも試していけば良い。
膝回しをしようとして少し膝を緩めた時、ふっと、急に落下してちょっと浮いたようなそんな感覚はないかしら?(私は遊園地で乗った急落下する乗り物に乗った時、車に乗っていて急に下に沈んだ時の感覚を思い出します・・・)。そんな感覚が、関節の隙間をとった時の感覚だと掴めたら、それを腰で試してみる。あ〜、びっくりして腰を抜かした、なんて経験はないにしても、きっと腰を抜かす感じが松に近いのではないかなぁ。
実際に腰の松の感覚を会得するには、バレエのバーレッスンのようにバーを両手で握って立ち、手のひらに頼って腰を丸く(弧線で)伸ばすように少し沈む(しゃがむ)動作を繰り返しやるのが効果的かと思う。バーを握った手のひらの感覚を敏感にして、手のひらであたかも腹を掴み続けるように、腹で沈んでいくのがコツ。腹ではなく、腰に当たりそうになったら上がってくる。もう一度手のひらで(バーを握りながら)腹を確かめつつ身体を沈めていく。そして腹の感覚がなくなったらまた立ち上がる。これを繰り返して、腹で降りれる距離を増やしていく。(文章で説明して分かるのだろうか?)腹で降りる(=腰を緩めて降りる)と膝に負担がかからないのが分かるはず。
バーを持たずにただ直立した状態からしゃがむとすぐに膝に負担がかかる。手は腰をうまく使うためには欠かせない。(手と丹田の関連についてはここでは割愛)腰が緩められなければ膝に負担がかかる。
最初の命題、松腰なしに松胯をしてはいけない、に話を戻すと・・・
腰を締めたまま(関節化しないまま)股関節を緩めると、そう、ASIMO君になってしまう。
私達の膝はその荷重な負担に耐えられないだろう(膝が耐えられたとしたら負担は腰にかかるだろう)。
松腰せず松胯もしなかったら歩くことさえできない。
脚を使うためには股関節(胯)を緩めて動かさなければならないのだけど、股関節を緩める前に腰を緩めなければ下半身の関節を痛めてしまう危険性が高くなる、ということ。
そのくらい松腰は重要だ。その重要性は何も太極拳に限ったことではない。
人間の身体の動きの根本だ。
2020/1/12 <太極腰 タイチーヤオ>
太極拳の練習には ヤオクワ ヤオクワ ヤオ(腰yao)と クワ(胯kua)が欠かせない。
師父と練習していて最もよく聞く言葉はファンソン(放松)。そしてそれと並ぶのが、ヤオ(腰)。クワ(胯)はその次?
『太極腰』という言葉がある。それは『太極腰・八卦歩・形意拳』と、よく他の拳法との比較で使われたりする。
太極拳を太極拳足らしめるもの、それはその”腰使い”。柔らかくしなやかな強い腰が太極拳の動きの要になる。だから腰はさびないように毎日毎日回して練って弾力性を保つようにする。師父は歩く時も料理中も腰を回している・・・腰は放っておくと固まる(最も固まりやすいのは座った姿勢)。どんなに整形しようと若作りしようと、腰の動きで年齢はバレてしまう。活腰(イキのよい腰?)を目指す。
腰という漢字自体が腰は身体の要だと言っている。
けど、要、ということは必ずしも力を使う、という意味ではない。
腰を活性化するということは、腰が自由自在に動くようにすること、すぐに躱せる、腰に負担がかからないように動きに応じてとっさに形を変えられる、そんな猫のようなしなやかな腰にすることだ(腰がしなやか→背骨がしなやか=脊椎が蛇腹のように動くように作っていく)。
そんな腰に仕立て上げるには筋肉でガチガチにしてはいけない。腰を締めて力を使っていると筋肉が硬直してしなやかさがなくなっていく。ボディービルダーのような身体になってはいけないのだ。
だから太極拳では、放松、放松、と、力を抜くことが求められる。
腰は力を抜いて使う。
腰に力がかからないようにする。そして腰に”当たらない”よう、極力を抜いてタントウ功なり腰回しなり套路をすれば、そこで気づくことがある。そう、腰に寄りかからないためには腰の前側、腹の方に空間(気)がなければならないということだ。腹側の空間はまさに丹田の気が膨らんだもので、結局、丹田の気が少ないと腰に負担をかけてしまうことが分かる。
ぎっくり腰をよくする人は腰の筋肉が固すぎて丹田の気が広がらない。
腰の筋肉を緩めれば緩めただけ腹側の気が増える。(実は腰だけに限らず、今、私がパソコンを打っている、その手や腕の力を少し緩めて抜こうとするとその分だけお腹の気が増える。意識的にどこかの力を抜いて代わりにどこに力が溜まるのか、よく観察すれば放松と丹田の関係がわかる。これが開合、ひいては発勁にまでつながる。)
腰は虚であれ!空であれ!
そう聞いた時、えっ?腰は”実”ではなく”虚”や”空”なの?と思った記憶がある。
けれども、思い起こせば、子供の頃は腰がどこか分からなかった。小学校の体育の授業でラジオ体操第2をやっていて、何をやっているか分からない動きがあったが、先生はしきりに腰の運動だとかなんとかと言っていた。腰ってどこだろう?と聞いたら、背中だった。その頃の私は、首の下からずっと背中でその下はお尻になっていた。腰と背中の違いが分からない、それが子供の時の身体意識だった。
いつからだろう?腰が分かりだしたのは?
人が腰がどこか分かるようになった時点で、既に腰は硬くなっている。違和感が出ている証拠だ。
幼児の時のような背骨の柔らかさを少しでも目指すなら、腰を”無くす”方向に進まなければならない。そして腰を無くすためには・・・腹が必要になる。腹の空間、丹田の気のくっしょん)が必要になる。
子供の背骨が柔らかいのは腹側のクッションに頼っているから。成長するにつれ腹のクッションがなくなっていき、その分背筋やら何やら筋肉に頼るようになってくる。小学生や中学生が大きなランドセルやリュックを背負って歩いている姿を見ると、こうやって筋肉を使うことを覚えていくんだなぁ、とかわいそうな気もする。けど、気を消耗してでも筋肉を発達させなければならない時期がある。10代後半から20代前半は内気の量と筋肉量のバランスが取れたとても良い時期かもしれない。その後はだんだんと身体の弾力性が失われてくる。ゴムまりのような弾ける身体ではなくなる。内臓を守るクッションが減ってくる。このあたりで太極拳に移行する人が多いのも頷ける。
太極拳の練習、まずは松腰。腰の力を抜くこと。
どうやって力を抜くが分からなかったら・・・私は最近、下の2枚の写真を思い出している。
これはある中国の動画で”命門外撑放松”(命門を外に張り出して放松させる)という説明の中ではっとしたことなのだが、左の幼児と右の大人の背中を比較した時に、幼児は背骨が見えず、両腰の横にぷにょっと肉がはみ出ている。対して大人は背骨部分が彫り込んだようになって、腰が閉まっている。大人が左の子供のようにお尻の割れ目があのように見えた状態で、腰が締らず幼児のように筋肉をリラックスさせて座れる大人はなかなかいない、ということだ。
お尻の割れ目が見えなくなった状態で座ると背中や腰は緩むが、その時は前肩、猫背になってしまって百会がまっすぐ天をさしていない。虚霊頂勁を失わずに幼児のように座るには相当な丹田が必要になるが、それは、少しでもその状態に近づけてみようとするといろいろなことが分かってくる・・・なぜ含胸が必要なのか、なぜ沈肩になるのか、なぜ松胯が必要なのか、なぜ斂臀なのか・・・。お手本は幼児の身体にある。発勁で勁を貫通させるにもそんな身体が必要だ。左のような身体だと、筋肉のつなぎ目(関節)で勁が分断されてしまうから。筋肉で打つのではなく、”意”で勁を通して力を使うにはそれ用の身体を準備する必要がある。そしてそれが身体に優しい自然な使い方になるのみならず、心の健康、意識の拡大にも資するのだから挑戦する意義は大きい。身体の美意識、少し転換させなければならないかもしれませんが(苦笑)
<付け足し>
こちらでももっぱらバッハの練習をしていますが、バッハはやはりチェンバロ、ハープシコード、と見ていたら、掘り出し物に出会いました。意で弾く、松の仕方が半端ない。調べたらフランス人の奏者でした。早速に師父に見せたら、(ここまで放松できるとは)天才だなぁ、と唸ってた。そして、私のピアノの先生のヴィヴィアンがバッハはロックだ♪と言ってたけど、本当、その通り!バッハってこんなノリが良かったんだ〜。キレキレに弾けるのはまさに放松して身体の奥(丹田)で弾いてるから。ヴィヴィアンはお尻で弾けって言ってた・・・師父が言うことと全く同じ(腰は空になると尻、裆で操作ができる)。
※腰とクワを使う順番について書くつもりが話が逸れてしまったので、それはまた次回に。
2020/1/6 <含胸 それから抜背へ>
ストライキが始まって1ヶ月。まだ終わらない。私は無人電車を使って公園に行けるのだけど、師父は朝6時半から9時半までだけ動くメトロでやってきて、帰りはバスを乗り継いで帰っている。
生徒さんから含胸について質問を受けたが、私自身、最近やっと師父にちょっと注意されればその状態を作れるようになったばかり。含胸をして胸骨を下げれば胸骨の終わった鳩尾から腹がぷくっと膨らみがはじまり、恥骨までが一つのなだらかな丘のようになる。
家に帰って鏡で改めて自分の身体を見ると、どこかでみたような・・・そう、子供の時の身体だ(→昨年実家に戻った時に見つけた昔の写真。そう、こうなる!)
ここまでたどり着くのにこんなに時間がかかるんだ〜。
それに、通常の美的感覚なら女性はこんな身体を目指さないだろう(苦笑)
もちろん、含胸をやめれば、お腹も凹んで人様に見せられる身体になる。
含胸には程度がある。
初心者のうちは猫背にならない(前肩にならない)ようにすると、ほんの少ししかできない。
様々な練習をして背骨や腰、股関節、胸郭が動きだすと、前肩にならないままでもう少したくさん含胸ができるようになる。
徐々にしか進まないのでごりごり毎日練習するしかない。
含胸がある程度できるようになると、含胸は肩を引っ張り下ろすことがわかってくる。含胸は沈肩だった。そして含胸がしっかりできて丹田の気が増えて丹田が大きくなれば、含胸は抜背を導くとわかってくる・・・抜背は背骨を上に引き上げることでも、引き下げることでも、背中をテントのように押し拡げることでもない。丹田の気が自然に広がって内側から背中側を広げていく現象・・・含胸と抜背の関係、ちゃんと説明している人は少なそう。抜背は筋肉や骨をどうにかするのではなく気の作用。無理に広げたら丹田がなくなってしまう、試してみればすぐに分かる話。このあたりは中級者以上にしか説明できないかなぁ。
まずはできるだけ含胸をして丹田の気を増やす。それしかない。
2020/1/2
2020年、元旦の出会い!
気功・太極拳で日本→中国、と来ると、その延長線上にインドが見えて来る。
ツボも経絡も丹田もインドが発祥の土地ではないかと思えてくる。
ツボはマルマ、経絡はナディ、丹田はチャクラの一つ。どれもインドの方が詳細で理論的だ。
太極拳で必要となる『節節貫通』は、丹田の気を身体の隅々まで流し通すことで作られるが、その大本となる督脈任脈の開通、周天はインドのヨガでいうところのクンダリーニの覚醒とそれによるチャクラの開花に他ならない。ヨガも気功も修行法の中核は同じ。が、ヨガの目的は”解脱”なのに対し、気功は道教の仙人思想を反映した”不老長寿”。早く身体を捨てたいか、いつまでも老いない身体が欲しいのか、このあたりは微妙、好みかなぁ〜。
ともあれ、インドは私にとって近くて遠い国。行ったこともない。けど、30代から今まで、毎日のように聞いているのはインドのグルと呼ばれる人たちの様々な講話。それは太極拳関連の中国系のインプットをはるかにしのぐ。英語ができて良かったと思うのはそのような貴重な話をダイレクトで聞けること。以前スマナサーラ長老が自分のインプットはもっぱら英語、日本語はアウトプットだけです!、と言っていたが、私も随分それに近い。智慧の宝庫はインドあたりにありそうな気がする。
そして昨日、一人で公園で練習していたら、通りがかりの男性に何をやっているのか、と声をかけられ、太極拳、と言ったら、少しでいいから教えて欲しいと頼まれた。これは練習に時間がかかるからすぐに教えることはできない、とあしらって逃げようと思ったが、彼がにこにこしながら横で一緒にモノマネのように動くので、仕方なく第一式と第二式を3回繰り返してあげた。そのあと彼にどこから来たのか?と聞いたら、インド、と返答。ん?インド?と興味が出て、まじまじと彼を見る。インド人ならグルのことを知ってるでしょう?とけしかけたら、サドグル?オショー? ・・・え〜!ドンピシャ!、とびっくりしたら彼が笑っていた。インド人のコモンセンス?
彼に何をやっているのか?と聞いたら、今年パリの有名なビジネススクールに留学する予定でその最後のエッセイを書くのに欧州を回っている、と答えた。学生?じゃあ、一体何歳?と聞いたら、22歳!え〜、私はてっきり35歳くらいかと思ってた。22歳なら私の娘と同じ年。なんだ・・・と言ったら、向こうもびっくり。私の歳を二十近く間違えていたよう。
彼が娘と同じ歳だとわかったら、心がど安心、バスでコペンハーゲンに行くまでに1時間ちょっと時間があってどこかで昼ごはんを食べたいというものだから、行きつけの中華街のお店に連れて言ってあげました。その間、いろんな話を聞きました。22歳とは思えない成熟度。聡明、その一言。脱帽でした。さすがインド!奥が深い!
後で彼からインスタの投稿写真が送られて来ました。
パリ→コペンハーゲン→ブタペスト→ウィーン→ミラノ→ワルシャワ→クロアチア、で計1ヶ月、そんな旅だとか言ってたかなぁ。元気でインドに戻ってまた今年の秋に再会できることを楽しみにしています。その頃はきっと娘もこちらに留学してきているはずなので次回は娘と一緒にラグジュアリービジネスについて語り合ってください・・・。
若い子が目をきらきらして将来を語る姿はとてもきれい。透明感は心の開きと一途さのコンビネーション・・・開の中に合あり、だなぁ。