2020/6/30
朝歩きながら、昨日の「一音一音に落ち着ちつく」というヴィヴィアンの言葉を思い出した。
あれからまだピアノの練習をしていない、そうだ、と、歩きながら、心の中でゆったりと一音一音、しっかり弾いているかのように歌ってみた。滑舌の良いオペラ歌手みたいだなぁ、と自分がオペラ歌手になって歌っている姿が頭に出てきそうになって笑ってしまう。そう言われればオペラ歌手も垂直感がある。口が縦長に空いてそこから喉の奥までパカっと空いているのを間近で見た時にびっくりしたことがある。雛鳥が親鳥から餌をもらう時のように口を開けると胃に直通しているようだった。それに比べると一般の歌謡曲や民謡、演歌の歌手の歌い方は垂直感がない。横揺れや横に引っ張った感がある。
ヴィヴィアンは「音を垂直に立てる」と言ったけど、一音一音に落ち着くようにすると、一音一音丹田まで落とすことになる。一音弾くと一本縦線が描ける。ということは、鍵盤を触って底まで推す、という短い時間の間に、上丹田から下丹田まで繋いでしまっているのではないか?一音一音気沈丹田。そういうことでは?
一音一音気沈丹田できたとしたら、一音一音の長い垂直線が、横にたくさん並ぶことになるから、全体としてとても重厚な音楽を演奏できるだろう。一音一音が丹田に届いていなければ、音が縦長にならないから横に並べても面積は小さくなる。
しかも、下丹田はリズムをとるところ。黒人のダンスや、南米のダンスを見ていると、リズムは腹でとるというよりはヒップ(骨盤)でとるというのが正しいだろう。この下丹田(ヨガでいう第一チャクラと第二チャクラ)が活性化しないと体の奥底でリズムを刻むことはできない。(頭でリズムを刻むと混乱してしまう)リズムは骨盤に落とし込まなければならない。
ダンスの振り付けなどもまずは骨盤、腰あたりで雰囲気を覚える。”ノリ”、雰囲気をそこで覚えてしまうと、手足が自然に動いてくれる。これは太極拳でも同じ。覚えるのが苦手な人は腕や手の動きばかりに気をとられて、”ノリ”を忘れてしまう。このあたりがリズム、下丹田、根底に流れる拍動、地球の拍動、そして呼吸・・・と繋がっていくのだろう。
メロディは横に流れる。
これは主にハートでおこなうもの。
ベース(下丹田)のリズムの上にメロディが乗る。
根底のリズム、拍、呼吸を忘れることなしにメロディを乗せる、ということをヴィヴィアンは全く違った言葉で教えてくれたに違いない。
そして、それは太極拳であれ、なんであれ、共通したこと。
一緒にいて居心地の良い友達、それはベースのリズムが何らかの形で合うのだろう。息が合う、とか呼吸が合う、というのも同じこと。決して、口や鼻から吸ったり吐いたりする、そんな単純な息の話ではない。その時の息、呼吸は身体の深いところにあるリズム、それを指しているのではないか?
まずはリズム、拍。
原始的な音楽は太鼓などの打楽器で作られる。赤ちゃんも何か叩いてリズムをとったりする。
成長して、歳をとるにつれ、リズムよりもメロディ重視になるのではないかしら?
老人でのりのりでリズムを刻んでいる姿はあまり想像できない・・・
やはり下丹田、下半身の気が減って、ほとんどが胸より上に上がってしまうせいかしら?
と、ベースのリズムをしっかり刻みながら歌って弾いているお手本をyoutubeで探していました。
ヴィヴィアンの要求に答えるような演奏をしているのは、ルービンシュタインかなぁ。ホロヴィッツもやはり常に根底にリズムを刻み続けている。ブーニンもあって時々極端なテンポがあるけどとても良かった。ツィメルマンは思ったよりは流れていたかなぁ。ポリーニはイタリア語のようだった。ハメリンはフランス語兼の人だからか縦線よりやはり横の流れが目立つ。垂直に立ててきっちり弾けるようになった後はその中で自由に揺らせるのだけど、その際、その人が話している言語の影響を多く受けるようだ。幼いころから話している言語のリズムは身体の奥深くに染み込んでいる。
今日の太極拳の練習ではリズムを意識的に感じながらやってみたけれど、すると呼吸がすんなりと落ち着いていく。呼吸の前にリズムを感じる、というのは良いかも♪と思った次第。
2020/6/29 <一音一音に落ち着いて垂直に立てる 重さが出てから動かす>
今日は数ヶ月ぶりにヴィヴィアンにピアノのレッスンをしてもらった。
今週末はノルマンディーのヴィヴィアンの家で生徒たちが集まり好きな曲を披露するということになっている。が、ロックダウン以来、専ら自己流で好きな曲を好きなようにしか弾いていないので人前で弾くにはどれもお粗末な状態。せめて一曲だけでも形にしたいとスカイプでレッスンを受けることにした。
ヴィヴィアンのレッスンはコンクールで勝たせるためのレッスンではなく、真に音楽を歌わせる、身体の中を通して自然に歌わせるためのレッスンだ。彼女は幼い頃から神を自分の身体に通してそれを音楽として体現したい、と神に自分を捧げている人。存在が世俗から離れている。
毎回の彼女のレッスンで指摘されることは、常に太極拳の練習での課題に通じることだから、音楽と太極拳は同じなんだとヴィヴィアンも私も感激してしまう。音楽が太極拳に通じるのか、太極拳が音楽に通じるのか? いや、そうではなくて何でもその核心は共通している、その核心こそが真理、私たちがそれぞれ別の道から追求しているものなのだ・・・そんな共通した認識が私とヴィヴィアンの間にあるのはとても嬉しいことだ。
今日のレッスンではショパンのバラード3番をみてもらった。
ショパンのバラード4曲の中では技術的に一番弾きやすい曲で、かつ、最も明るい曲だ。
少し前までは激情的な曲が好きだったのに、この数ヶ月、風に乗って揺れるような優しく明るい曲が好きになったのはロックダウンの影響?社会、世界が緊張に溢れているから、自分の空間だけでも空気を解いて明るくしたかったのかもしれない。
と、この曲はただ自分の気持ちが慰められるように、細かな練習をせずに、ざ〜っと流して弾いて、通して弾いて気持ちよくなって、はい終わり、そんな弾き方しかしてなかった。
さて、ヴィヴィアンが私の演奏を弾いて最初に私に言ったこと。
「背骨がブレています。」
ん?と私が分からないといった顔をしたら、
「バラードとはどういう音楽ですか?」「どの曲も8分の6拍子ですね。」「6つの8分音符をすべてひとつひとつゆったりと聞いてください。北川さんは塊にして弾いて前に走っています。」
・・・・徐々に意味がわかってきた。
「一つの音がそこに落ち着いたら、次の音にいってください。次の音に落ち着いたらその次。いつも落ち着いたところに入ってから次に進むべきです。落ち着いたところにはいれば、力はいらない、身体が緩む、そして重さがでます。」
・・・・そこに落ち着く? すると重さが出る?
「そこに入って重さがでれば、根っこができます。根っこができれば真っ直ぐに立てる。音は動かす前に、まず真っ直ぐ立てなければなりません。北川さんのは、音が真っ直ぐになっていません。真っ直ぐに立たないうちに揺らしてしまっています。ルバートをしているつもりかもしれませんが、ルバートは真っ直ぐにしてからやらないといい加減になってしまいます。ショパンはロマン派と言っても作曲自体はとても古典的です。感情でいい加減に弾くのがロマン派ではない。私たちはロマン派の認識を変えた方がよいかもしれませんね。」
・・・・音を真っ直ぐ? 揺らしてるつもりはなかったけど。揺れてる?
「では、バッハのコラールのようにテンポ、リズム、全て正確に、一音一音たっぷりとって弾いてみてください。全部の音を歌ってみてください。」
・・・・言われて注意してやってみる。ん?少し油断すると、私より先に指が先に走ってしまう。しまった!と思うともう拍のカウントができなくなってしまう。弾きながら、あ〜、バラバラだ〜、と気づく。
「そうですね。もう分かりましたね。そういう練習を一度しっかりやってください。全て意識して全てを楽譜通り正確にゆっくり弾く練習をして、音一つ一つに落ち着けば、その感覚は自分の背骨に入りこみ、自分の軸として忘れないものになるでしょう。一度それができれば、もう大丈夫。寝て明日になっても覚えてますから。
そうしたら、風に揺らぐように、リズムやテンポを少し揺らしてみたらよいです。」
・・・ここまできて、ああ、同じだ!と気づいた。
音一つ一つに落ち着く。 これは音を出した瞬間、鍵盤を押したところ、押したところ、で放松する、ということ。垂直の動きだ。もし、鍵盤を押して音が出たところで放松したら・・・これはタントウ功の状態。気沈丹田の状態だ。
ピアノは一音弾いて終われないから、一音弾いたらまた次の鍵盤を押さなければならない。けれども、その音に落ち着く前に次の音を弾いたら、その音楽は落ち着きなく前のめりになっているように聞こえるのだ。一個一個落ち着いて(放松して)いたら、連続で10個音を出しても総体としても落ち着いている。もし一個目の音から一気に10個目の音まで弾いてしまうと、途中の8個の音は根無し草になる。どんなに高速であろうがその途中の音に根がなければ、浮わ滑りした浅い音楽として聞こえてしまう。
一つ一つ放松するにも、心が今、ここにあって、先に行ってしまわないようにぎゅっと手綱を握り続ける忍耐力がいる。
「私はその忍耐力がなくてすぐに先に走りたくなるのだけど・・・」とヴィヴィアンに言ったら、ヴィヴィアンも「私もよくそうなります。」とニコッと笑った。
そう聞いてちょっと安心した私。
意をずらさずそこに居続ける、というのは太極拳において非常に大事な練習だけれども、いざそれを違う場面でやろうとするとかなりの努力がいる。そういえば、ヴィパッサナー瞑想もそれだった。私自身は太極拳のように身体を全て巻き込んでやった方が”今””ここ”に入ってい易いかなぁ〜。でもそれを違う場面でもできるように範囲を広げていくべき。日常生活全てがそうなれば、ストレスゼロだ〜・・・理論的には。地道にやるしかない。
そして放松して、垂直に真っ直ぐ立てるようになったら重さが出る。
これは昨日のブログに書いた、放松→松開→松沈、の流れだ。
そして沈んで重さが出て、初めて、柔らかさ、松柔、になる。柔らかいということは音楽でいうところの揺らぎ、遊び、音の幅が出てくるということだ。
これをヴィヴィアンに言ったら(ヴィヴィアンのお母さんは台湾人なので彼女は中国語も堪能)、まあ〜、まさにそう、本当に同じなのですね、と驚いていた。
垂直に立って重さが出ていないのに、太極拳を真似事のようになると、平易な踊りのようになってしまう。垂直がないのに揺らしてはいけない、動いてはいけない、ということだ。
タントウ功は垂直を立てること。
套路はタントウ功を動かしたもの、というのはまさに的を得た言い方だった。
ということで、私はもう一度最初から、音を垂直に立てるような意識をいっぱいいっぱいに使った練習をしなければならない。ただ気持ちよく弾いてたらいつまでたっても上達しない。発散の繰り返し。酔った自分勝手ないい加減な音楽になる。上丹田でしっかりコントロールを効かせる忍耐力を養う必要あり、と自分に言い聞かせている最中・・・面倒臭い、という言葉は禁物(苦笑)
2020/6/28 <意気力 精気神 下丹田中丹田上丹田、と5つの身体の対応関係>
太極拳の理想とする身体は柔らかく、しなやか、しなる身体。
”柔は剛を制す” という理念の元に構築された拳法。だから鋼鉄のような筋肉で身体を固めるような練習はしない。放松(ファンソン)、放松、と、ことあるごとに力を抜くことが要求されるのは、筋肉の緊張を解かないとその内側のエネルギー(気)の流れが感じられないからで、その内側の感覚を感じることでその感覚を頼りに身体を操る技術を学んでいくことになる。
それはヨガなどの修行でも同じことで、5つの身体のうち、第一身体のフィジカル体から、その内側の第二身体のエーテル体(気の身体)に入っていくことが太極拳の練習の”入門”になる。
<参考:5つの身体>
外側から
①Annamaya kosha(食物鞘=肉体=フィジカル体)
②Pranamaya Kosha(生気鞘=気の身体=エーテル体)
③Manomaya Kosha(意思鞘=心の身体=アストラル体)
④Vijnanamaya Kosha(理智鞘=スピリチュアル体)
⑤Anandamaya Kosha(歓喜鞘=コーザル体)
通常の身体の運動は①の肉体次元に対する意識のみで行われるが、太極拳では主に②の気の身体の意識で身体の操作が行われる。
レベルが高くなると、③の”心”(意思)のレベルでの操作が可能になる。
(→馮志強老師が最初命名した「陳式心意混元太極拳」の”心意”はこの③の話。
④⑤はもはや太極”拳”を超えて”太極”を目指す域に入る。太極”拳”は”太極”に至る手段、道、だということもできる、と理解。)
太極拳で言われる『意到気到力到』。
意→気→力でありかつ意気力は同時に到達する、という意味だが、これと上の身体の対応関係は
”力”は①のフィジカル体、
”気”は②の気エネルギー、
”意”は③の心の領域、となる。
そしてこれに『精・気・神』を組み合わせると
下丹田の”精”は力→①のフィジカル体
中丹田の”気”は気→②のエーテル体
上丹田の”神”は意→③のアストラル体
と対応する。
フィジカル体における力の元は”精”
エーテル体におけるエネルギーの元は”気”
アストラル体の心における意のエネルギーの元は”神”
タントウ功や坐禅では主に精⇄気⇄神のエネルギー変換の練習をしているような位置付けになる。
生まれた頃は精気神が充満してどの身体もパンパンに膨らんでいるが、加齢とともにエネルギーが消耗し次第に全体量が減ってくる。精は気への転換を通して脳のエネルギー(神)になるが、精気が減ると神が減り、老眼になったり耳が遠くなったりボケてきたり・・・という現象が現れてくる。頭部の器官の作用が悪くなるのは下(中丹田や下丹田)から吸い上げられてくるエネルギー量の絶対量が足りないことに起因しているというのが中医学の根本的な身体の捉え方だ。
一日中パソコンを使ったり、一日中考え事、悩み事をしていると”神”の消耗や甚だしい。これを回復させるには、神のエネルギー消費をゼロにしてその燃料である気と精を養うこと。これが静功。目を閉じて(開けると目から神が出て言ってしまう)何も考えないで丹田に集中する。その後動功をして身体を動かせば、下の燃料が身体を循環して、精が神まで届き、中国語で言う所の”精神がある”=健康だ、ということになる。精が神まで届くと白目と黒目がはっきりして目が活き活きする。これが健康な状態だ。
一日中身体を動かして精力を消耗したら、それを補充するために、栄養のあるものを食べてよく休む。もちろんしばし坐禅をするとさらに精気が養われる。
ヨガではその先の④⑤、太極の道(道家の修行)では虚霊、という段階があるけれども、今はまだ射程距離にないので割愛。
まずは③までが目標。
2020/6/27 <扣とhappy toes、中心軸で立つポーズ>
今日は久しぶりの自分の生徒さん達とZoomで練習。
最初に何かやりたい練習があるかと尋ねたところ、ある生徒さんからfeetの使い方、また別の生徒さんから片足立ちの際の重心の取り方、という言葉があがったので、それが分かるような練習を試みた。
まずFeet(足)の話から。要領は、”扣”(kou)。
”扣“とはお椀を被せたような形を指すが、師父からは、踵に重心、足先に力をいれない(抓=掴む はダメ)、土踏まずが上がっている、そうすると扣になる、とこれまで教えらてきた。
今でこそそれがどんな足なのか理解できるのだが、以前はそれを理解、イメージするために随分試行錯誤した。
今はそれがどんな足なのか分かる。それは全身の経がくまなく通った時に仕上がる足で、その形になったということは、全身の経がくまなく通った、という証拠なのだ。Foot を構成する骨28個が全て機能する、関節化するような足。末端の足を構成する骨達がバラバラに動くようになっているような身体の持ち主は身体のどの箇所でも自由に動かすことができるだろう。隅々まで行き届いた美しい所作になる。
私自身はまだまだそこには及ばないけれども、常に足がそうなるように練習を進めていけば間違えた練習にはならないからそれを目標に練習をしている。経(膀胱経→胆経→胃経→陰の経絡へと進めている)をつなごうとすると足の中の骨が目覚めて、次第に足が手のように器用に細かく動くようになるなるのは経験として知っている。
かなり時間と労力を使って試行錯誤してきたfeetの扣だが、このロックダウン中に少し試していたヨガのレッスンで、そのグルがとても面白い表現で同じことをシンプルに表現しているのに驚いた。
グルの表現は 「Happy toes」。ハッピーなつま先? と、それをやっているグルの足を注視したら、あ〜、これが完璧な扣だ〜! と感動。
ヨガもこのHappy toesを維持するのが原則だそう。
といっても当たり前といえば当たり前。
このHappy toesを維持した位置で直立できて、後頭部から踵のラインが揃い、百会と会陰を結ぶ中心軸が表れるのだから。
直立だけでなく、片足立ちであれ、弓歩であれ、馬歩であれ、happy toesを失った時点で中心軸を失ってしまう→余計なところに力がかかる→硬さや負傷につながる。
(Happy toesはそのグルの動画を見れば一目瞭然なのでここでは要領の説明は省きます。)
そして次に片足立ちの際の重心が外にブレてしまう場合の対処法。
実は正しい重心の取り方の要領は、上のHappy toesで直立した時の姿勢に含まれている。(股関節や膝を緩めたタントウ功をする前提として、ピンと直立できるようになった方がよいかもしれないというのが最近の私の意見。)
Happy toesで膝裏をしっかり伸ばし、踵から膝裏、太もも裏、をつなぎ、お尻を出さず、その上に真っ直ぐ骨盤、胸郭、頭蓋骨を乗せていくと、気づくことがある。それは、太ももが内旋してタイトになって引き上がるという現象。
重心は内腿から内踵に降りるラインにある。(本当は丹田から会陰、そして両内腿→両踵へと落ちる)
片足立ちになる時の地面に着いた軸足は少し内旋するのが正解だ。
軸足が外旋したらバランスを崩してしまう。
よくあるのは、どちらかの足の片足立ちが得意で、もう片方は不得意というケース。
その場合は得意な方をやってみて、その時の軸足の太ももどのように使われているのか観察して、不得意な方の時の軸足と比べてみるといい。上げる足よりも軸足が問題だ。
内旋するとフラフラしてしまうというのはその足の中で使えない骨があるから。何度も練習して使えないところを使えるようにするしかない。上げる足の膝を腹まで持ち上げて両手で抱えてしばらく固定して、軸足の内腿のラインを恥骨から前丹田まで繋げてしまえば両手を離してもふらふらしないはず。(このあたりは指導者に導いてもらうのが手っ取り早い)
(足先まで意識して膝を持ち上げたほうが断然片足立ちはしやすい・・・というのを今日の練習で試してもらったけれど、末端の”領”という要領で示されている指先、足先の重要さは練習がある程度進んだ生徒さんには教えていかなければならない課題。)
練習の最後に、脚力に頼らない重心の取り方をヨガのポーズを使って説明してやってもらった。うまくできた生徒さんもいたけれど、まだよくわからない生徒さんもいた。もう少しでできるかも、というところでzoomの時間切れ。
練習後、補充として、私が見ているグルのヨガの動画を生徒さん達に紹介しました。
このグルは意識が身体の隅々に行き届いていてとても美しい。
教える時の言葉の使い方も絶妙。こんなに簡単に重要なことを言ってしまって・・・これじゃあ、生徒さん達スルーしてしまうかも?と心配になるくらい。
下の動画にはHappy toesも 隙間としての重心の取り方が共に入っている。
(youtubeの字幕をONにすると英語字幕が見られます)
0'56"~1'05"
[Let's start.
Feet together, or slightly apart.
And feet parallel, happy toes, maintain good arch in your feet.]
↑動画の中のグルの足をよ〜く見てください!
小指から順番にぱらぱら・・・
happy toesで足の中にアーチができると言ってる。
1'07"~1'20"
Now shoulder down, you inhale, raise your arms up.
Exhale, bend your knees, (肩を下げて、吸って手をあげて、吐いて膝を曲げる)
↑肩を下げずに手をあげたり、吸わないで手を上げたりしたら、膝を曲げた瞬間に太ももが固まってしまい、その後どうやっても中心軸は見つからないことになってしまう。
Lean your body little bit forward, (身体を少し前に傾ける)
and touch the middle finger on the crown, (そして中指をクラウン(=百会)?に置く)
pointing tailbone back, lift chest forward. (尾骨を後ろに向けて、胸を前に上げる)
You can just hold there. (ここでしばらく保持)
二行目、何度聞いても私もこうしか聞こえないのだけど、”中指をクラウン(百会)に置く”?
表現としてはおかしく思うのだけど、言われると、確かに、両中指と百会(頭頂)を合わせないと両内踵→両腿の隙間→会陰にはいる隙間のラインを見つけられない(そうでないと腿に力が入ってしまう)。
そして、尾骨を上げて、胸を前に上げる。
尾骨を後ろに引き上げることで会陰から肛門へ、さらに胸を前方に引き上げることで肛門から長強、背中側の督脈を下から上、後頭部へと気が上がり、最初のクラウン(百会)へと一周することになる。
気が一周、貫通すると自然に中心軸が表れる。
Not leaning too much forward or backward, just find the center gravity where you are standing effortlessly. (前や後ろに傾きすぎないように。努力なく立てるような中心の重力を見つけてください。)
努力なく立てる位置、苦しくなく簡単に立ててしまう位置、これが中心軸で立った時の感覚。
Keep your belly in, Sometimes it's nice to use a block between your thighs to use the admiral muscles. (お腹を引っ込め続けて。両腿の間にブロックを挟むのもよいかもしれません。)
うまくいかない時はお腹が緩んでいないかチェック。
両腿で何かを挟んでやると腿が内旋してかつ円裆になり(股間に隙間ができて会陰に経が通りやすくなる)中心軸が見つけやすくなる。
以上、グルの20秒の簡単なインストラクションは、その含みを説明するとこんなに長い文章になってしまう。グルの言葉は余計なものがない、一語一句とも聞き逃せない。
ただその一語一語の重みに気づくにはそれなりの練習経験が必要。だから最初はスルーして身体の動きを真似していく。分からなくても一緒について真似するうちに身体が慣れてきて、そのうちそれまで聞き飛ばしていた師の言葉が突然意味を持って耳に入ってきたりする。
もちろん、理屈を知らずにできてしまえばそれに越したことはない、けれど、理屈を知るとまたそれはそれでその絶妙さに楽しくなってしまう。
2020/6/24 <認識のズレ 神経を張り巡らす>
ここ数日間、身体の奥の方の捻れが調整されてきているようで、首や肩甲骨、鼠蹊部など数カ所に違和感がある。ピークは超えたよう。ブログを書く気が起こらなかった。
自分が思っている中正よりもも少し左だったり右だったり前だったり後ろだったり。脳の認識と身体の客観的な位置はズレている。これを利用しているのがペインクリニックの治療だった。
自分でここが肘、と思っている場所と、本当の肘の場所が違うのは練習で生徒さん達によく確認してもらうこと。目をつぶって、ここが肘、と思った場所を触ると大抵は肘よりも数センチ上の場所になる。本当の肘を触ると、あれ、思っていたより遠くにある、と思うのが通常の私たちの感覚。肩先も随分遠くにある。それは触って確認してみないと分からない。
このあたりの認識のズレを調整していくのが太極拳の練習の基本練習なのかもしれない。
このズレに気づくのは自分一人の脳では不可能で対象物が必要になる。
それが対人練習だったり、バレエなら鏡を見ながらのバーレッスンだったり、外から誰かに正してもらったり、ということになる。膝だって足首だって、思った場所にはないのがわかる。自分が認識している自分の身体=充分機能している神経で張り巡らされた身体、の形はかなり歪かもしれない。この神経で構築された身体の形を本来の形に戻すには神経をさらに細かく長く張り巡らさなければならない。神経を分化させ伸ばしていくには意識と気(エネルギー)が必要で、それがあると神経は植物の根っこのように広がっていく、というのが私の理解。気功の上に神功があるというのは、気の次には神経がある、ということだろう。
考えてみると、合気道や太極拳は、人の認識の錯覚を利用した技が多い。だから小さな力で相手を倒せたりする。見ていて賢い、けど、少しずるい、と思ったりする。それは力ではなく、神経の作用を利用しているからだ。神経を研ぎ澄ませて神経を活かすには筋肉は弛緩させざるを得ない。感覚を研ぎ澄ませる。感覚の中に没入しない。感覚を他者として見る。
でも身体の中が痛いと、痛い!と目を背けがち。もしくは、それをどうにかしようとあがいてしまう。遠くからみて、放っておくことができたら・・・放っておく、というのはもう一つのキーワード。入り込まない。
<お知らせ>
オンラインレッスンを再開できそうなので、希望者は連絡を下さい。
30分3000円 60分5000円 Zoom、Skype, Lineなどを利用します。
2020/6/19
6/15のブログに載せた坐禅姿の写真一式を師父に見せて、どれが良いと思うか? と聞いて見た。師父は写真を見ながら、う〜ん、自分の感覚からすると、これ、これ、これ、と指差していく。あらら、やはり、指差したのは全てインドのマスターの坐禅姿。
じゃあ、ダメなのは? と聞いたら、これ、これ・・・と日本人の坊さんを指差していく。特にダメなのは、これとこれ、とピーンと背中を反り立てた姿を指したあとで、これはまだ完成していないが坐禅を数年やっている人の姿でとても良い、と指したのが下の写真。
私もこの写真を見て感じたことだが、この男性の坐禅の形は骨盤が立ち上がっていなくて背中も丸いのだけれども、放松して心が落ち着き、静かな状態になっている。
師父も同じように見方をしていて、「坐禅はまず心を静かにして身体を緩めることから始める、そうすれば次第に腹に気が落ちていく、丹田がしっかりしていく、この男性はその過程を練習している。とても好感の持てる坐り方だ。」とコメントした。
腹の気が充実してくればその気によって次第に骨盤が立ち上がってくる。それは坐禅をある一定期間以上やっていれば誰もが経験すること。しかし、最初の坐り方が緊張していると(例えば6/15メモに載せた坐禅写真の4番目や一番最後の姿のように)意識や呼吸が腹まで届かず、気持ちが緩まらない。腹がゆったりせず意識が身体の方へ出てきてしまう。これだと長期間練習してもなかなか深い入静状態に入れない。ともすると形を維持するだけの我慢大会のようになってしまうかもしれない。せっかく坐禅しているのにいつまでも深みと安寧がないならば醍醐味を味わい逸している。
坐禅は内側に深く入って行くための功法。ヨガや気功、そして気功をベースとした内家拳の練習には坐禅は欠かせない。中国に禅を伝えたインドの達磨大師はヨガの達人でかつ武術の達人だった。壁に向かって9年も坐禅していたと言われるが、坐禅なしには武術の功夫も一般人にはない超能力も開発できなかっただろう。
・・・と、師父の話を聞いたあとで、私としては、再度初心に戻って、上の男性のように、真摯に心を静かにするために足を組もうと思ったのでした。
2020/6/18
そうだとは思っていたけれど、師父と話して確信を得た。
命門を開くのも、含胸をするのも、実は同じこと。
腹腔、胸腔の容積を広げるための第一歩の要領だ。
命門を開こうと腹の気を背中の方に押し込み過ぎると腹がペタンコになってしまう。
含胸をし過ぎて胸の気を背中の方に押し込みすぎると胸が凹んで背中が丸くなり猫背のようになってしまう。
・・・やり過ぎの例だ。
腹と胸の高さにおける身体の前後の対応関係は、
臍ー命門(腰椎2、3番あたり)、ダン中ー神道(胸椎4、5版あたり)
となっている。
まずは臍のあたり、中丹田に気を溜めて、それを命門の方に動かせるようにする。
その時に注意しなければならないのは、中丹田(腹側)の気を少し残しておくこと。
腹側の気を全て背中側へ押し込んでしまうと、その後、腹側に気が増えなくなってしまう。常に気の”タネ”は残しておかなければならない(イーストやヨーグルトを増殖させる時に、常に”タネ”を残しておくようなもの)。
腹側に多少、”気のタネ”を残しながら気を背中側、命門へ移動させてしばらく待っていると、放松とともに、次第に腹に気が増えてくる。そうしたら、命門側の気を腹(臍)の方へ動かしてみる。今度は命門側に”気のタネ”を少し残しておくのを忘れずに。全部腹側へ移動してしまうと、腰が凹んで腰の気を増やせなくなってしまう。腹側へ気を移動させたら、また気のタネを残して命門へ。そしてまた腹側へ。もちろん気のタネはいつも残しておかなければならない。
こんな往復運動を繰り返しているうちに、そのうち、腹と背中側の気が混ざってきて、それほど”気のタネ”を残すことを気にしなくてよくなってくる。気の量が増えた証拠だ。
こうやって、腹腔内で気がパンパンになれば、帯脈が現れてくる(意識できるようになる)。
そして実は含胸も全く同じことを胸の高さ、胸郭でやっているだけ。
腹の方では、命門を開くと言って、含臍、とは言わないが、命門を開く時は、臍を後ろに引いているようになっている。臍を後ろに引くから気が後ろへ移動して命門が開く。(もし、身体の外側から腰を丸くしたら、腹はぺちゃんこになって気のタネが残らない。)
胸の場合は、神道ツボを開く、という表現はしないけれども、結果的には命門を開いたのと同じ感覚で督脈のツボが前から押されて推し広がる。
そして、(臍を引いて)命門を開けるのも、含胸をして神道を開くのも、最終的な目標は、腹腔や胸腔を最大限に広げること。丸くなって広くなる。
このあたりは、図で説明したら面白いのだけど・・・。
胸も腹も(そして骨盤も頭蓋骨も)、全て同じことをしようとしている。
広げる!
そう知って、今週撮ってもらったタントウ功の自分の写真を見たら、確かに、立ち始めより立って暫く経った時の方が、胸郭も胴回りもパーンと張って大きくなっているのが分かる。胴体の中の空間が増えて身体がしっかりすると内臓は喜びそうだ。空気、放松、そして時間が必要。
<今日の練習の最後に習った中国語>
『冰冻三尺,非一日之寒』
氷が凍って三尺の厚さになるには、一日寒い日があってもだめだ。
一日寒くても氷が凍って三尺の厚さにはならない。
ローマは一日にして成らず、と同じ意味。
ああそうか、と気づいて(悟って)、頭で理解できると練習の方向性がはっきりするけれど、それを身体で体現するにはかなりの時間を要するものも多い。(助言があってすぐにできてしまうテクニック的なものもあるけれど、原理的な要領は身体に染み付かせるのに気が遠くなるほどの時間を要したりする。)
練習はそんなもの。気長にコツコツやる。そんな師父からの助言でした。
2020/6/16 <タントウ功の変化>
今日は師父が私のタントウ功の姿を写真に写してくれた。
左が立ち始め。師父が姿勢を微調整してくれた。
そして右が約15分後。
<左写真>
立ち始め、師父に頭から胸のあたりまでかなり後ろに押し込まれたので、自分としてはめいいっぱい後ろ重心で立っている。これ以上おでこを後ろに推されたらひっくり返ってしまうだろう、そんな位置、立ち方。師父はそこまで私を後ろに押して、ここから立ち始めるように言った。
実際、こうやって写真を見ると、胸から上を推されたら転倒するだろうなぁ、と思うし、立ち始めの私自身の状態は、背中も脚もガチガチ、きつい!の一言。
<右写真>
きつい!と立ち始めたら、呼吸を意識的に楽にして、身体の中で、形を変えずに緩められる場所がないか探す。ここは(力が)抜ける!、と感じたところを抜く。またここが抜ける、というところを抜く。この作業をしていくと自然に丹田に気が落ちていく。抜けば抜くほど、丹田に気が落ちれば落ちるほど楽になる。はぁ〜、ようやく楽になった・・・こうなったのは立ち始めてから約10分〜15分後(正確には時間を計っていなかった)。
もし気を本格的に溜めたり、周天(気を巡らすこと)をしたり、丹田呼吸や入静状態に入っていくなら、丹田に気が落ちた(=気沈丹田)ここ、この状態が出発点。
左写真→右写真で、気が丹田に落ちたのは見てなんとなく分かるのでは?
肩の沈みや肘の墜、抜背、命門の開き、松胯、斂臀も右写真の方がよくできている。
パーツパーツは意識していないけれど、力を抜けるところを抜いて気が丹田に沈んでいけば、自然に沈肩や抜背、松腰、松胯・・・などの要領がより良い状態になっていく。(これらの要領は、できてるかできていないか、もあるが、できていたとしてもその程度が様々。程度が高くなればなるほど功夫が高い。松にキリはないという・・・)
かなり昔(2013年)のコラムにタントウ功の説明や写真を載せていましたが、今改めて見ると、練習を積むにつれタントウ功の形が変わっていくのが分かります。
当時はとにかく気を落とすことが最重要課題。放松して丹田に気を落とす。足裏まで気を落とす。督脈や膀胱経を通すことを意識していた頃。脚が重くしゃがんでしまったようになっているのは身体の側面の胆経が通っていないためだと今は分かる。
とは言っても、胆経を通す前提として督脈や膀胱経がそこそこ通っている必要がある。身体の背面が第一歩。一歩一歩進む必要があるので、最初しばらくはこのような立ち方になる。その後、気のたまり具合、経の通り具合によって、徐々に立ち方を指導者に調整してもらう。だんだんと通せる経絡が増えていくと、身体は球に近づいてくる。(経線の数を増やしていくと地球になるのと同じ?)
いつまでも同じ立ち方をしていられないのがこの練習の難しいところで、タントウ功だけをとってもやはり師や指導者に定期的にチェックしてもらう必要がある。
最後にもう一度、7、8年前と今の立ち方を比べてみると・・・
すぐに気づくのは、今の方が、上下の引っ張り感(撑:四方八方への広がり)があるということ。
以前の立ち方は上→下。下向きに気が落ちてはいるが、その力が地面から上むきにはまだ上がってきていない。
足裏の湧泉や会陰の引き上げ(引き上がり)に差があるのが分かる。百会の領(虚霊頂勁)もやっと感覚がでてきた。
胆経を通すと立ち方が全く変わるが、最初に調整しやすいのは太ももの側面のラインを合わせること。胆経のラインを合わせると、とたんに太ももが膝→股関節へ、と引き上がる。太ももが股関節→膝へ、と落ちるような感覚の時はまだ胆経が通せていない証拠。
・・・にしても、この練習、本当に時間がかかる。この変化をもたらすのに7、8年もかかってしまった・・・と呟いたら、師父は7、8年でこれだけ変われば大したもの、ちどこか誇らしげ。7、8年前の写真の立ち方も、あれはあれで良い、と言ってくれた。
時間がかかることを知っている師はその時その時に必要なことを教えてくれる。どびこして先を教えたりしない。だから太極拳は基本的に個人レッスンになる。
2020/6/15 <良い姿勢 イメージを再確認する>
私達は背骨がピーンと伸びた姿勢を良い姿勢だと思っている。けど、果たしてそうなのか?
最近インドのヨガのマスターの動画を見ていたら、ああ、そうだったのか、と気づくことがあった。
上の写真を見ると、誰がマスターで誰が弟子かはすぐに分かる。もちろん、服装と風貌でわかってしまうのだけれども、それを抜きにして坐り方(形と雰囲気)だけでも分別可能なはず。
マスター(Akhanda YogaのYogrishi)は背骨が伸びているが心なしか座高が低く感じる。なぜだろう? いや、マスターの座高が低いのではなくて、弟子達の腰と首は反ってしまっているため、彼らの座高が高くなってしまっているのだ。
つまり弟子達の腰椎と頚椎がまだ緩んでいないということ(腰椎→命門、頚椎→大椎 この二つのツボが関門だと言われる所以。 だから、左の写真の男性は首から上が上に出てしまっている(水泳で頭を出して泳いでいるような感じ)。右の写真の女性の場合は目から頭頂までが外(上)に出てしまっている。それに対し、(右写真のマスターを見ると分かりやすいが)マスターは頭頂までしっかり水面下(自分の中)に入っている。クラウンチャクラ(百会)を意識すると、通常の人は上の弟子のようになりやすいが、本当はこのマスターのようにならなければいけない。が、そのためには丹田の気が頭頂まで達する必要がある。
このあたりは、年月をかけて徐々に練習していくしかないので、私達は、まず、完成形をイメージしておくことが大事だと思う。間違えたイメージを持っていると間違えた方向に行ってしまう。
特に、私達日本人は、不自然な ”正しい姿勢”のイメージを叩き込まれている。
緊張を強いた直線の背骨は間違えている。
始点(会陰)と終点(百会)を結ぶ線は弧線から始めるべき。
弧線から直線に近づく中で空間が現れる。空、隙間が現れる。
最初から直線を求めると永遠に空間は現れない。緊張だけが残る。
ヨガも太極拳もそのことを知っているから、いろんな動作や練習をしながら徐々に直線に近づく。
直線は空として現れる(シュシュナ)。太極拳もヨガも共通した認識。
2020/1/12のブログで紹介した写真。
「命門外撑放松」というタイトル。
(練習メモのアーカイブに移す時に写真が消えてしまっているのに気づきました・・・)
こんな風に私達大人はまず座れない。
なぜなら筋肉がガチガチになってこんな風に放松できないから。
というのがこの写真を紹介していた動画の趣旨(https://v.youku.com/v_show/id_XMzk3MjQ0MTUyNA==.html)
この動画を見た時は、そんなもんかなぁ、と思っていたけれど、上のマスターや他のインドのマスター達を見ていたら、この赤ちゃんの身体の写真を思い出してしまった。ああ、確かに、マスター達はこんな風に坐っているし、必要ならば、もっとピーンとも座れる。自由自在。
少し写真を集めたので、放松した坐り方とはどんな感じかイメージを作って見てください。
ポイントは、骨盤が立っている、という条件の上で背中が緩んでいる、ということ。
骨盤が沿っても寝てもいけない。骨盤が立っていて(坐骨で坐っている、会陰が真下を向いている)かつ背骨に緊張なく、百会が天を指している。これが完璧にできたら、ヨガや太極拳の身体の修練は完成したと言えるのだろう・・・ ゴールはまだまだ先でもゴールのイメージは大事なはず。
<追記>
写真を並べて見ると、坐り姿で瞑想の深さも分かってしまうのが怖い・・・
目を瞑ってそれっぽく坐っていても入静状態に入っていないのもバレてしまう。
逆に、目を開けているのに、深いところから見ている人もいる。
形だけで精一杯の人もいる。
入り口は最後から2番目の初老の男性のように、放松して丹田に気を溜めるところから始めるのが無難。丹田の気が増えてきたら、その気を下に押し込んで徐々に骨盤を立てていく。最初から一番下の写真のように座ると放松できず丹田に気を溜めにくそう(不可能ではないけれど)。
2020/6/13
昨日の片足立ちの要領について、文章では分かりづらい部分があるかと思い動画を撮りました。
裸足で一通り練習を終わった後で撮ったので足が泥だらけです。中高時代にがむしゃらにスポーツをしてなってしまった外反母趾。これでも随分マシになりました。脚力よりも足力の方が大事ではないかと思う今日この頃。裸足練習続けたら足はもっと使えるようになるはず!
2020/6/12 <片足立ちは命門を開く 王選手の一本足打法のイメージ>
今週オンラインレッスンをしていて気づいたのが、片足立ちに自信がない、という生徒さんが思いの外多いこと。
片足立ちに自信がなくなると、脚の筋力をつけなければ、と思うようだが、それは問題の解決にはならない。全身の使い方を見直さなければならない。
脚だけの話ではないが、ある箇所に筋肉をもっこりつけると筋(スジ=筋肉の量端っこ)の伸びが悪くなる。スジが伸びが悪いと、筋肉と筋肉の連結が分断されて、全身が一つの筋肉としてつながらなくなってしまう。
片足立ちは全身運動。決して”片足をあげる”という局部的な話ではない。
片足を持ち上げるためには丹田の力がいるのはもちろん、腹、腰、そして背骨の伸びや丸みが必要になってくる。
片足をあげるときに”提膝”ではなく、太ももをあげてしまうと大失敗する。
なぜ膝をあげるのかというと、(太ももではなく)膝をあげれば股関節が連動するから。
股関節が起動するということはお尻や腰が連動して動くということ。
腰が動くということは背骨の形態が変わるということ。
背中に定規をいれられて真っ直ぐを強いられたら太極拳で言うところの全身を使った片足立ちはできない。身体の構造上無理なのだ。
もし背中ピンと真っ直ぐに立てたまま片足を持ち上げられたとしたら、太もも以下だけで持ち上げている。私たちが歩く時は、右片足→左片足→右片足→左片足・・・・の連続だが、もし、背骨を真っ直ぐにして動かさずに太もも以下だけで歩いていたら、膝や腰を痛めるのは時間の問題だろう。
私が生徒さんに片足立ちを教える時は、(少し古いけれど)王選手の一本足打法をイメージさせる。単鞭で左足を滑り出すように左に大きく出す時はまさにそんな一本足打法の形になる。
この時大事なのは命門の開き。
王選手は見事に命門を開き、腰を開いて、腰=帯脈の位置で立っている。
実際、帯脈=中丹田の位置で立つ感覚は片足になった方が分かりやすい。両足だと湧泉や会陰をを意識的に相当上げないと中丹田で立つ感覚はとれない。爪先立ち(踵をあげるだけでなく爪先!)をするのも一つの手だ。
もう一つは陸上部がよくやる腿上げ。これは腹が笑うとできない。つまり、腹で脚が上がるということ。腹で脚を上げた状態だと脚の重さがそれほど感じられないから、様々な蹴り技はその位置から腰や腹の力を使って繰り出されることになる。太ももから蹴っても”はないちもんめ”の蹴りを少し強くした程度の威力しかない。腹と腰の力を足裏まで貫通させて初めて蹴りは威力がでる(頭の中でブルースリーが浮かんでいます)。
王選手とその他の選手の一本足打法の画像を集めてみたので比べて見てください。
背骨の丸さが全身をつなぐポイント。
頭→背中→お尻→脚と弧線を描くようになる。
このつながりで脚が上がっている。
下に荒川氏が王選手を指導している古い写真があるが、それをみると、王選手の身体がいわゆる”真っ直ぐ”ではなく、かなり後方の押されて弧線になっているのが分かる。身体をあのように引くことによって脚が上がっていた。脚を上げた、のではなかった。身体の形、重心の位置を変えることによって脚が自然に上がっていくようにしていたということだ。
これに対して、王選手を真似て一本足になった選手はほとんど皆”真っ直ぐ”。腰が丸く開いていないから、胴体とお尻(股関節)以下が分断され、脚力に頼った打ち方になる。
大豊という選手が王選手に近いけれども、命門を胯(クワ、腸骨)に繋げるなら、状態をもう少し起こす必要がある。
やはり太極拳的にみて完璧なのは王選手のよう。
命門が開いて腰が丸くなって初めて周身一家になる。
日本文化は背骨を真っ直ぐにさせすぎて脚力に頼りすぎるきらいがある(だから脚が太い)。
中国武術では腰を丸くくねらせたり背骨の形態を色々変えるものが多い(ジャッキーチェンをイメージ)。背骨真っ直ぐにしかならないのは固すぎ。といっても私達は小さい頃からずっとそのように躾けられてきたからすぐには変わらない。
背骨を柔軟に動かせるようにするにはやはり丹田、腹の重しが必要になる。歳をとればとるほどますます硬直してくるから、毎日サビを落とすつもりで回したり動かしたりしなければならない。
姿勢の良さ、というのも曲者。ヨガのグルと日本の坊さんの坐禅姿の違いを見るとそう思わざるを得ない。背骨がどんなに真っ直ぐでも背骨が硬直しているのは良い姿勢ではない。真っ直ぐにもなるし丸くもなる、ただ骨盤は立てたまま。背骨がしっかりしてかつ形が柔軟に変えられるなら片足立ちは問題なくできるはず。基本に戻る必要がある。
2020/6/11 <呼吸法を試す>
今週は師父が不在のため空いた午前中に日本にいる生徒さん達のオンラインレッスンをしている。
レッスンをして毎回驚くのは、どの生徒さん達も前回私が指摘したこと、与えた課題をよく覚えて練習していること。私は一旦レッスンが終わればその人にどんな指摘をしたのか特段覚えてはいないのだけれども、次のレッスンでその生徒さんを教え始めて前回の課題を聞くと、頭の中で前回のレッスンが蘇ってくる。前のレッスンからその生徒さんがどのくらい変わったか、身体の使い方はどのくらい変化しているか、進歩していればそれを踏まえてその一歩先へ、あまり進歩していなければ全く違う角度、違うことをさせてみて、レッスンの最後までには実はそれも同じところにいきつくことを納得させられるように努力している。
今週教えた生徒さんの中で付き合いの長い人には、私が最近意識的に取り入れている呼吸法を教えてみた。
実はロックダウン中にヨガのオンラインクラスを受け始めたのだが、いくつかプラーナヤーマ(呼吸法)をやったらその賢さに驚いた。套路の時に無意識でやっている息が実は一つの呼吸法として更に精度をあげて修練されていた。太極拳でも呼吸法は非常に大事。が、ここしばらく気を溜めるとか通すとか、含胸にするとか胯を松するとか、そんなことに意識が向いていて呼吸についてはしばらくあまり意識していなかった。
(一路から二路への練習に以降する頃、呼気と吸気をひっくり返して套路を行う(通常力を発する時(打つ時)に吐くところを発する時に吸うようにする)という練習をしたが、それも随分前の話。いつの練習メモに書いたのか自分でも不明。呼吸に関する学会で発表した時には随分呼吸について考察したけれども、終わってしまえば呼吸はほとんど意識せず、やはり”自然呼吸”が一番、という結論に戻ってしまった。)
ヨガでは様々な呼吸法が取り入れられていてすぐにマスターできるようなものではないのだが、その中でUjjayiという呼吸法とBhramareeという呼吸法はすぐにピンとくるものがあった。
UjjayiはOcean Breezeの呼吸法とも言われ、吐いても吸ってもザ〜〜というような息の音が聞こえる呼吸法だ。そのやり方はここでは割愛するけれども、それを試すと分かることは、私たちは息を止めてはいけない、と知っていても、知らず知らずのうちに息を止め堪えてしまっているということだ。私は以前から套路の時に、自分が小さく唸っているような声か息かがよく聞こえていて、自分でも面白いなぁ、と思っていたけれど、このUjjayi呼吸法を知って、実はそれは息を末端まで届けようとしていたからなのだ、と理解できた。
Ujjayi呼吸法は横隔膜を使った呼吸になるそうだが、吐く時だけでなく、吸う時も息の音たてようとすると丹田の気を使わなければならなくなる。つまり丹田に気が溜まっていないとUjjayiができないから、Ujjayiをしようとすると自然に含胸になってしまう。私は含胸がまだまだ甘いので、この呼吸法を普段から意識的に取り入れて、平常時に含胸、丹田に気を落とし続けられるように修練すれば良いのだと気づいた。
含胸→腹に気が落ちる、なのだが、むりやり含胸をしようとすると、息が胸でつまり身体がこわばってかえって腹に気が落ちなくなったりしがち。腹に気が落ちれば→含胸になってる、をねらって、とりあえず腹に気を落とそう、落とした、と思っても、果たして本当に腹に気が落ちているのかわからない。それに街を歩きながら、含胸を試みたり、気沈丹田を試したりするのは落ち着かない。が、このUjjayi呼吸法は歩きながらでも試せるし、息の音を聴きながら息が腹に入ってさらに股関節から足裏まで届くのが確かめられる。息の息が切れたらそこでゲームオーバー。足裏まで吐く息の音を届かせたら、今度はつま先から息の音をさせて吸い上げてくる。丹田まで吸い上げられればよしとして、そのうち、もっと上まで吸い上げられるように歩きながらも試すこともできる。
Ujjayi呼吸法にしてもやり込んでいくと更に高度なものになっていくのだろうが、今は初心者のUjjayiを普段の練習に取り入れるだけでも十分と割り切り、早速生徒さん二人に教えてみたのだが、その効果は予想以上(吸気では行わず呼気のみで試してもらった)。息の音があれば、息が身体のどこまで届いているのか本人にもよく分かる。息が届かないということは気が届かないということだから、息が全身隅々までいきわたるように、身体の末端までいきわたるように練習していけばいい。息が足りない、呼吸が浅い、息が続かない、というのは肺だけに問題があるのではなく、横隔膜の動き→肋骨や内臓の動きが不十分だから。胸腔や腹腔の中のしきりや内臓やその他諸々のものを動かせないと呼吸は深くならない。が、それらを動かそうとするよりも、息の音を出し続ける練習をした方が簡単。(ujjayi呼吸は丹田呼吸やヘソ呼吸とは別物。それに至る前段階の、全身に息を巡らせる呼吸法としての位置付けのだと思う。)
私が学んだ先生のujjayi呼吸法動画はyoutubeでは見られないので(https://akhandayogaonline.com/programs/ocean-sounding-breath-ujjai?categoryId=16802)、他の先生がstep-by-stepで教えてくれている動画を紹介します。最初の方だけでも真似してみると腹を使うのが分かる(が、その後で高音を出していくところは私は知らなかった)。まだまだ奥が深そうなので自分でやっていく必要があるけれど、あまりマニアックなところまで深追いはしなくても良いかなぁ。
(付け足し:Bhramaree呼吸法はBumble bee呼吸法とも言われていて、ん〜、と小さく声を出して身体の中で響かせるのだけど、この振動、そう、震動は震脚や拍打功で得られる効果。内側を震わせることの大事さ・・・これもまだ奥が深そうだ。呼吸法、面白い♪)
書いたあとに思い出しましたが・・・
ujjayiは吸いながら息の音を出すのが難しい。腹がなくなって胸だけになるとヒ〜〜とおかしなことになる。と、そういえば、以前、師父が息を吸いながら双腿昇降功をしてくれたことを思い出しました。普通は吐きながら降りるけど、套路などでは吸いながら降りた(しゃがむ)方がそのあと上がって来やすいので楽。それに吸いながら降りるとお尻がよく開く。動画の中の師父の息の音、確かにocean breezeになってた・・・。
2020/6/8
昨日の夜の公園。21時。まだ明るいけれど昼間とは打って変わったひっそりさ。
早速裸足になって芝生に寝っ転がったら空が目の前に。
ここは森の国だったことを思い出しました。
2020/6/7 <最もスローなのが最も速い?>
今日は一人練習だったので、ゆっくり近くの公園に向かい木漏れ日のさす芝生で練習。
何をやろうとしても気の量が足らないとどうしようもない、例の含胸にしても、まだまだ十分でない原因はそこにある。そう反省して、静功にもっと力を入れようと思ったばかり。
太陽に向かってタントウ功をし出したのだけど、そうだ、せっかくなら、と坐禅に変えてみた。
これまで外で坐禅はしたことがなかった(と思う)。
坐禅の方がタントウ功よりも気が早く溜まるのだけれども、緑に囲まれた中でお尻をしっかり土につけ、上には空、太陽が自分を照らした空気の良い静かな場所でやる坐禅は屋内の坐禅とは比べ物にならなかった。気が溜まるのも早いし、入静状態に入るのも早い。中断されなければかなり長い時間入って入られただろう。
立ち上がって歩き出したら、全身が繋がっていてとてもゆっくりしか歩けなかった。
「なんでそんなにゆっくり歩いてるの?」と迎えに来た主人に聞かれたが、「なんで皆そんなに速く歩いてるの?」と思わず聞き返してしまった。皆下半身だけで歩いてる・・・身体がばらばらだ・・・。この感覚は、数年前に一週間弱のヴィパッサナーの無言合宿に参加し後、下界(?)に戻って来た時に感じたものと全く同じだった。普段私たちは歩きながら何か考えていたりする。頭と身体が別々、身体のパーツも別々。小さな子供だけが鞠のように身体丸ごとで歩いている。
全身が丸ごと一個になっていると、着地の時に足裏がほぼ同時に着地、気が全身に充満していると着地が足裏一体になる、というのは裸足練習で知ったことだ。普段の時のように踵で着地してつま先に移動、という風にはならない。裸足練習をした読者の方が、”足裏でそっと優しく着地” というように表現していたのはそのことなのだと思う。(→道が凍っている時に滑らないように歩く感じをイメージすれば良いかと思う。全身丸ごと同時に前に運ばないと滑って転んでしまう。着地は足裏一体同時のはず。)
家の近くまでその状態を維持してゆ〜っくり歩いていたけれど、怪訝そうな表情で私と微妙な距離を保って歩く主人が少し可哀想になって、最後の最後に種明かし。「気を漏らさないように歩いてるからこんなに遅いけれど、実はこれはそのままジャンプできるし、最も速くダッシュできるのよ♪」そう言って、突然そこからホップステップジャンプ♪の大股で一気にダッシュして一人家まで駆け抜けていった。ダッシュする前からそうなるだろうとは思っていたけど、自分でも感激するようなダッシュ力。最初のスタート、ダッシュだけならいける!持続力は別問題だけど・・・ と笑っていたら、それを見ていた初老のおじいさんが駆けっこをする真似をして笑っていた。
丹田(の気)を足裏まで広げていれば、丹田から足裏に気を落とす必要がない分、早く踏み出せる。しかも踏んだ足が地から跳ね返りの力をよりたくさん得る分、通常よりも一歩が大きくなる。イチロー選手に内野安打が多いのは、バットを振った後のダッシュ力に鍵があると指摘している人がいたが、そんなところにも秘密はあるのかもしれない。太極拳のポン勁がこれなはず。
ただ、私の場合は、練習後日常生活に戻ってしばらくすると普通の丹田に戻ってしまい、そんな風な力はでなくなる(苦笑)。
明日も一度試してみよう。
2020/6/5 <技巧と功法 学太極拳VS学太極 >
ブログの読者の方から、師父との実践用法の動画を見ると私の理解が頭に止まっていて真の理解に及んでいないと思える、という指摘のメールをもらいました。
実際、技をかけてもらったり技を教えてもらうと、自分の日頃の練習の至らないところ、まだ鍛錬が必要な箇所、欠点、が明らかになります。一人でやるとできるのにいざ相手がいるとそうできない。自分の課題が明らかになる。
と言っても、あの動画は私のできなさを見せるつもりではなく、私自身が生徒の代表として、師父の技がどう使われるのか皆に分かるように説明してもらおう、という意図で撮っていました。よくある技の動画のように、かけられてただ痛い、とか跳ね飛ばされてるだけでは、技が実はどのように作用しているのかわからない。それでは学べない。神業や不思議な技、一瞬芸を見せられても腹の足しにならないからそこをどうにか噛み砕いて見せてもらおうと・・・幸い、師父は聞けば教えてくれる。
技巧を学んでもほとんどの場合は即座にマスターできない。(試したことのある人は分かるはず)
技巧は功夫の上に成り立つけれども、功夫があればできるというものではない。身体の条件を整えて功夫を高めた上で、さらに技巧は技巧として磨かなければならない。
最近見たテレビ番組の中で、全くピアノを弾いたことのない漁師のおじさんがフジコヘミングのラ・カンパネラに感銘を受けたのをきっかけに一念発起、7年かけてラ・カンパネラを弾けるようになった、という実話を紹介していました。最後におじさんはフジコヘミングの前でピアノを披露するのですが、その手、椅子の座り方、弾き方を見ると、漁師として功夫を積んできた人なのだとすぐに分かる。フジコヘミングも、「あなた、良い手をしてるわねぇ〜。」と一言。どっしり感、安定感、集中力、余計な力が入っていない身体、そして厚みのある手としっかりした指・・・これらはおじさんがピアノで習得した功夫ではなく漁師の仕事で習得した功夫なのだろう。
が、ピアノはそれだけでは弾けない。さまざまな技巧がある。それをおじさんは毎日7年間、ひたすらこの曲だけを練習して徐々に身につけていった。もしベースの功夫がなかったら、7年以上かかっただろうし、もしくはとっくに諦めていたかもしれない。
つまり、技巧は技巧としてやはり練習しなければならない。
馮志強老師が言うように、一に功夫、二に胆力、そして三に技巧。
技巧は3番目、といえど、太極拳を拳、武術として極めるなら技巧を磨く必要がある。
ブログの読者が、私が何を目指しているのか混乱してしまっているのではないか?と指摘してくれましたが、はっきりしているのは、武術を極めようとは全く思っていないこと。太極拳を極めようと思ったことはなく、ただ、太極拳から学べる”大事なこと”を学びたい、と思っている。馮老師が、「自分は太極拳を修めたが太極についてはまだ入門したばかりだ」と言っている、その”太極”にあたるものなのかもしれない。師父も私には「太極を教える」と最初から言っていた。
なお中国語には「私は太極を学んでいる」という言い方がある。陳項老師も師父も「私は太極を学んでいる」と言い、決して「太極拳を学んでいる」とは言わない。それは、「太極拳を通して太極を学んでいる」という意味に違いなく、目標は太極にあるからだ。太極拳は道。ゴールは太極。
実際、拳の技巧、枝葉に入りすぎるとかえって太極、中心、核心から離れてしまうおそれがある。技術ばかり練習していると身体を痛めてしまう、ということはスポーツ選手や演奏家がよく知っている。
私自身のブログについて言えば、これは自分の練習の記録でもあり、試行錯誤、紆余曲折の記録。私自身は一度書いたら読み返さない。書きながら自分の中で起こっていることが大事で、書きあがったものはすでに過去のもの、書けばそこから離れられる。
どんな本もそうであるように、自分に役立つと思えば読めば良いし、役立たないなら読まなければいい。気分を害すならば見なければいい。人の道は千差万別。交わったところで交流し、道が分かれたら別れればいい。
太極拳は腹の大きな寛容の道。他の流派や他の拳、他の武術や武道、他のスポーツ、他の修練法、他の職業や他の人種、他の生き物、そこに違いを見るよりも共通点を見るような視点を養っていきたい。学べば学ぶほど違いが見えるとしたら、学べば学ぶほど批判したくなるとしたら、道を誤りかけていると自分を戒めなきゃならない。偏狭になったら間違ってる。
太極拳を一生懸命練習しても深刻になる必要はない。一生懸命遊べたらそれでいい。笑えなくなったらおしまい。私のそのスタンスはずっと変わらない。
2020/6/4 <含胸 横隔膜を下げっぱなしにする リラックス 無為>
師父にはしょっ中胸骨が上がっている(含胸ができていない)のを注意される。
ぐっと手で押し込まれると、こんなに押し込まれたら猫背になってしまう・・・と思うのだが、その後、すっと胸の気が腹に落ちてクワが安定し立ち易くなる。毎回そうなるのだから、最初から自分でちゃんと含胸をすれば良いのだが、他の箇所に気をとられて忘れてしまいがち。
以前、他の武術の教室で含胸を徹底的に教え込まれて、みぞおちが凹んで胃が気持ち悪くなってしまったという男性が来ていた。胃がぺったんこで骨盤が滑ってしまったように後傾して立っていた。含胸以外の要領を無視してしまったために起こった現象だ。タントウ功の頭頂から足までの全ての要領を”同時に”クリアして初めて正しい立ち方ができるのだが、実際のところ、含胸をしながら胯(クワ)を緩める(骨盤をまっすぐ立てておく)のはとても難しい。上手くいった時にわかるのは、それらの矛盾しがちな要領を同時にクリアするには丹田の気、腹の気のクッションが必要だということ。だから子供のお腹はあんなに丸く膨らんでいるのだ、と納得する。
含胸については今までも随分考察してきたが、やはり自分がまだ完璧にはできないところを見ると本当には分かっていないのかもしれない。最近のヨガの呼吸法で得た新たな見方も合わせて、師父と含胸についていろいろ話した結果、一点、大事なことが分かった。それは「横隔膜を下げたままにしておく」ということ。
横隔膜が下がると肺に空気が入る。
緊張すると横隔膜が上がったままになる。
リラックスすると横隔膜は下がる。
横隔膜を下げたまま吐くには内臓や腹の筋肉がリラックスして動いてくれなければならない。
これらのことは”横隔膜を下げたままにする”と検索すればすぐに出てくる。
あ〜、だから、放松、なのね、と納得。
横隔膜が下がっていれば含胸になっている
含胸なら横隔膜が下がっている。
じゃあ、どうやったら横隔膜を下げっぱなしにできるか?
いろんな人がいろんなストレッチやほぐし方を紹介しているけれど・・・
何個か動画を見たら、やはり、ゆったり立って自然にリラックスさせるのが一番無難なのではないかと、出発点に戻ってきてしまいました。
ああしよう、こうしよう、これではダメなんではないか、とあれこれ考えてあの手この手を使っているうちに混乱して訳分からなくなる可能性もある。さんざん試して、ダメだ、どれも、と諦めて、何もしない=無為、の方法に転じた時うまくいったりするのかもしれない。
本来、子供の頃はそうだったのだから。
元に戻る、自然に戻る。
<付け足し>
下の動画、古武術の方法のようだけど・・・効果あり? あ〜、確かに。
2020/6/2 <用法解説 第14式双推手、第16式肘底捶と倒巻肱>
用法解説は頼めばやってくれるけれど、特に頼まなければスルーされる。
套路の練習で形がおかしいのを指摘され直されるが、なぜそれがそうなのか、その動作の技撃的意味が分かっていないとただの猿真似になってしまう。
修練があるレベルを超えると実践にそれほど重きをおかなくなる。
若い頃にさんざん打撃、実践をしてしまえば、その後は相手を打ち負かすことよりも、己の内側の修練に重点が移っていく。師父は最低限の防御ができれば良い、と言ったりするけれど、馮志強老師であれ陳項老師であれ、そして私の師父であれ、あるレベル以上に達した修練者は歳を取っても武術家ならではの独特の気勢があるから、ただ立っているだけで相手が怯んでしまう(のを私は知っている)。いや、それが実力、実力があるから手合わせをせずとも勝ってしまう。動物の世界と同じか?(苦笑)
私は技を学んでも一生実践的に使うことはないと知っているけれど、技を学ぶのはとても楽しい。毎回、凄いなぁ〜、賢い!! と感動してしまう。人間の身体、意識の使い方を最大限に使い、そしてその裏をかいたりしながら、巧妙にさばく。
そしてまさにこの”巧妙”さこそが太極拳の技の真髄。
巧みでもない、妙でもない、ただ力任せの技は太極拳の技とは言えないのだ。
粋な技、だからそこに美を感じるのは私だけではないはず。
掴み合いをして力任せのドロドロの取っ組み合いとは真反対。
汗をかかずに一発で躱して終わらせてしまう。こめかみに青筋立てたり睨んだり怒鳴ったりはしないのだ。極めてクール。
そのためにせっせと気を溜めて経を通して・・・他のスポーツから見ると不思議な練習をコツコツ積むのです・・・。