2020/5/31 <第15式三換掌の技の説明>
簡単に見える技。
だけど、この引き手が曲者。タントウ功がちゃんとできているかいないか、タントウ功の応用になる。急発進で引かれるから相手は引かれてしまう。この突然の動きを可能にするのが足裏から掌まで繋いだ勁。相手の手を掴んだ掌は足裏でもあり、足裏を踏んだ時には同時に掌が引けている。膝を不用意に曲げたら勁が途切れてしまうのは相手を引っ張ってみると分かる。このあたりは一人で套路だけ練習していてもなかなか分からない。私の師父は技をそれほど重視しないけれども、太極拳の師の中には対人練習を最も重視する人もいるのは、一人では正確に”勁”を感じることがほぼ不可能に近いからだ。力は対象物があることで認識が可能になる。自分一人では自分のことが分からない、相手がいて初めて自分が分かるようになるのと同じことだと思う。
師とは機会があれば手合わせしてもらうに限る。
その力を驚くことなく身体に記憶させておけば、いつか、その身体の記憶が役に立ち、ああ、あの時師父はこう力を使っていたのか、と分かる時がきたりする。力の感じ、身体の感じ、気の感じ、全て身体に記憶させておく(脳ではないからそんなに頑張らなくても覚えているものだから面白い)。
師父の力には、無理やり、と言う感じが全くない。無理やり引っ張られる、とか無理やり連れ回される、のではなく、いつの間にか引っ張られている、いつの間にか打たれてる、そんなものばかり。太極拳は瞬間技。瞬間技のためにあんなにゆっくり練習する。まあ、ピアノの練習もそんなところがあるかなぁ。極遅で完璧に弾けるなら極速で弾けるとか。
とはいえ、オンラインでは対人練習ができないのが残念・・・いつか対人練習するために一人の時は一人でせっせと一人でできる練習を積み重ねるしかない。あとは縁を待つ。
2020/5/29 <期間限定オンライン個人レッスンのお知らせ>
6/6(土)〜6/14(日)、オンラインレッスンが可能です。
時差があるため、開始時間は日本時間16時〜20時になります。
zoom、LINE、skypeなど使用できます。
レッスン料は40分まで3000円、60分まで5000円です。
レッスンご希望の方はお問い合わせから連絡をお願いします。
〜裸足族、少しずつ増えている? 私を含めて皆が口を揃えて言うのは、足元がポカポカ。足からポカポカする感覚は練習後も続きます。丹田がポカポカでなくて足がポカポカ。足元が冷えやすい女性はその違いは顕著なはず。婦人科系の病気は冷えからくるので足元がポカポカする裸足練習は本当におすすめです。靴を脱いでここまで感覚が違うなら、いっそのこと、服も脱いでしまいたい! とまで思ってしまいます。小さな子供が服を着せられるのが嫌で真っ裸で走り回る気持ちが理解できるよう。
2020/5/28 その2 <そして、今朝、ブログの読者の方から嬉しいメールが届きました!>
早速裸足練習を試してみたら効果覿面だった、という話。
裸足練習の具体的な効果が良く分かる文面なので、本人に了承を得て一部ここに紹介します。
『いつもありがとうございます。
今回の裸足練習も私には、またまた満塁ホームランでした。
庭に出て裸足で太極拳の練習をすると、すぐに下丹田が地の氣で満
裸足で動くときは体丸ごと移動しないと足の裏が痛くて動けません
また、靴を履くことに何の疑問も持たずに50年以上生きてきましたが、
本当にありがとうございました。』
色をつけたところは私が強調したいところです。
その後のメールでも、靴を履くことによって足裏から脳に伝わる刺激が激減し、様々な身体の不調の原因になったかもしれないとの指摘や、裸足で練習した後に足裏がずっとポカポカして身体が喜んでいるのが分かる、ということも書かれていました。
足裏ポカポカはまさにその通りで、私は套路練習で足裏ポカポカしてくると、その後馬力が生まれてきて身体がもっともっと動きたくなるのが分かります。足裏ポカポカは馬力を生む、そんな感じ。馬力、みなぎるパワー、それは下から生まれてくるよう。これが大地の気の効用なのか?
私の今住んでいる家は3階。タントウ功をほとんど家ではやらないのは足裏が大地の気を捉えにくいからかもしれない。以前11階の部屋でタントウ功しようとしたことがあるけど、その時は下がすっこ抜けているようで5分くらいでやめてしまった。坐禅はそこまで感じないかなぁ(お尻は鈍感?笑 実際にどうかは分かりません)。
私は今、ヨガをやる友人の影響で太陽礼拝もどきのことも試しにやっているけれど、太陽にしろ、大地にしろ、どれだけ使ってもタダのものは使うべきだ、と思う。自分一人で頑張ってエネルギーを産出しようだなんて思う必要はない。人の力も借りて、太陽の力も借りて、大地、水、食べ物、木々の緑、空気、良い言葉、良い音、良い笑顔、良い話・・・自分のエネルギーを高めるものはなんでも利用すべきだと。逆にエネルギーを下げるもの、悪口陰口批判やダークな話題からは離れるべき。このご時世、不安にさせる報道やSNSなども多いので要注意。自然に寄り添っていればまず安心。不安になりそうだったら自然に戻ろう。
2020/5/28その1 <裸足練習 4日目>
裸足練習4日目。今日は最初から裸足。裸足で師父と転腿を始めた。
ムムム・・・私の方が優勢ではないか?と脚を合わせて回し出した瞬間にそう感じる。いつもは自分の脚を回すのに精一杯なのに、今日は師父が身体のどの部分の力で脚を回しているのか察知できてしまう。ああ、今はお尻あたりから繋いでるのね、それなら・・・と私は一気に両肩甲骨の間、胸のだん中のツボの背中側(神道ツボあたり)まで繋いで膝を回してみる。案の定、そこまでまだ繋いでない師父は重心を逸した後回転してどうにか戻ってきた。
私は悦に入って、「中心軸が長くとれてないから侵入できてしまう、含胸が足りませんね。」と笑いながら言ったら、「私はまだ股関節を調整していたからそこまでは繋いでない。」と師父。ああ、そういえば転腿は別に相手を倒すものではなく、相手の力を気遣いながら相手に合わせて徐々に気を通していくもの、相手の状態を無視して一方的に力で攻めるのは太極拳の原理と反することだった。裸足だと一気に背中まで繋げられたので、嬉しくて思わず相手のことを考えずに攻め込んでしまった・・・相手が生徒さんだったらそんなことはしないのに、師父だから思いっきりやってしまったのだけれども、不意をつかれて重心を逸してもとっさに転腰して(腰を回転させて)元に戻ってこれるのはさすが師父。いずれにしても、通常なら私の力はこのくらい、と師父が思っていた以上の力が出たのは間違いない。
(靴を履いて足を踏ん張って太ももに)力をこめて太く短く力を出すよりも、(裸足になって=足裏を空にして)勁を長くする(身体の中で脚のラインを長くつなぐ)ことによって細く長い力を出す方が、実際に労少なくして相手を崩すことができる。それは、前者だと筋肉対筋肉:力の対決になるのに対し、後者だと直接相手の中心軸を崩すことができるからだ。今日、はっきりとそれが分かった。
そして套路練習。24式からやり始めたが、裸足、痛くな〜い!
えっ、今日は痛くな〜い。痛くないどころか、地面が友達、支えになってくれているようにさえ感じる。安心して地面に着地できる。足指が土を掴む、蹴る感じもとても心地よい。擦っても痛くない。
4日目にして地に対して安心感が生まれたかなぁ。不思議。
24式、48式、46式、とやった後で、師父が私に、(私が苦手だった)二起脚がえらく上手になったなぁ、と褒めてくれた。私も気づいていたけれど、裸足だとジャンプがとてもしやすい。ぴょ〜んといつもより軽くジャンプできるのは足指先端が使えるおかげ。靴を履いていると私はとても不自然な二起脚しかできなかった。
なんで今日は足裏が痛くなかったのだろう?と師父に尋ねたら、師父は、身体が松してきたから足裏に気が降りて、その結果足裏が痛くないのだろうと答えてくれた。私は、足裏が痛くないから身体が松したと思うのだけど・・・また、卵が先か鶏が先か、のあの話(苦笑)
2020/5/27 <裸足練習 扣になる>
今日の裸足での套路練習、なんだ、足を扣(お椀をかぶせたような形)にすれば痛くない。土踏まずは足の中央は浮いていて、地面に着いているのは(上手くできていれば)踵と足指先端(足指べったり、ではなくて先端のみ)、それに足の外側のラインが少し。
足指の先端は地面をしっかり蹴っても痛くない。足裏全般は小さい砂つぶを踏んだだけでも気になる程皮膚が敏感なのに、足指先端は比べ物にならないほど強力。足指がべったり地面に着いていると先端の力が使えない。扣にして足指先端だけ地面に着いた状態でいることによって、しっかり蹴りきれ、他の部分に負担かけることなく重心移動ができるのだと納得。以前師父にビデオで指導してもらった時に、なぜ足の指が伸びているんだ!と何度も叱られたけど、確かに、足の指が伸びていては正確な動きはできないのだと裸足になってやっと納得した。
靴を履いていると自分の足が扣になっているかどうかはチェックし辛い。きっと足全体が覆われていて全体に刺激があるから、自分の足のどこの部分を使っているのか特定の刺激を感知できないのだと思う。ましては、クッションが入ったり機能性を高めた靴など履いていたら、自分の足の感覚は薄まってしまう。足はとても敏感な部位だけれども、足を守ろうとするばかりに足の感覚が麻痺させられてしまっているのかもしれない。
裸足でやると、バカみたいに足を踏ん張れない。靴を履いていると知らず知らずのうちに足を踏ん張って、足首を固めてしまっているようだ。
今日の師父との転腿の練習では、最初は靴を履いてやっていた。靴を脱いだら師父の力に耐えられないと思っていた。師父の腿は重いからそれに対抗しようとすると足を踏ん張りがちになる。踏ん張ったら回しづらくなって更に踏ん張らなければならなくなる。足を踏ん張らずに、徐々に腰や背中、丹田、と上部まで繋げていって(クワから下の脚ではなく)繋いだ長い線を回すようにすれば足、や腿を頑張らなくてもいつの間にか師父の力と釣り合うようになる。そう頭では知っているのだけど、身体はそう簡単についていかない。頭は一瞬でわかっても、身体が分かるには時間がかかる。
30分回してくれれば身体が徐々にそこまでもっていってくれていただろうけど、師父は最近15分くらいで転腿を終了してしまう。私は不満足なまま。15分で繋げ、ということなのかもしれないけど・・・。と、そうだ、と靴と靴下を脱いで、師父にあとも少しだけ転腿をしてくれ、と頼んでみた。師父は裸足でやるのか?と怪訝そうな顔をしたが、私は実験してみたいからお願いします、と頼み込んだ。
で、裸足で転腿。あ〜、足首が回りやすい。足裏が地面を突っ張ってくれるから、上半身まで脚が繋がりやすい。さっきまで靴を履いてやっていたから、その違いは明らか。靴を履くと力は足裏へ下向きに落ちる。足裏が地面を踏みしめて動かなくなる。が、靴を脱いで裸足になると、足裏から上向きに力が通るようになる。地面を蹴ってジャンプする直前の足裏だ。だから土踏まずや足裏中央が上がって踵と足指先がメインで地面を蹴るような感じになる。アキレス腱が長くなり足首や膝が回りやすい。膝に負担がかからなくなる。
裸足練習後なんでこんなに疲れるのだろう?と師父に聞いたら、それは松してないからだということ。足元が気になっていつものように力が抜けない。それはあたかも、スケートをしたことのない人がスケートリンクに上がって恐る恐る滑り出す、そんな感じだとか。凍った地面を歩く時も疲れるだろう?同じ原理だ、と。が、一度慣れればスイスイ滑れる。そのためには全身を調整しなくてはならない。そういうことだとのこと。
だからかなぁ、屋内で裸足で練習したことはあったのだけど、その時は特になにも感じなかった。検索してみたら、芝生で太極拳をやってとても気持ちよかった、というブログもある。私が今回全く違った感覚を得ているのは、地面、土の状態がそれほど良くないから? まだまだ分からない裸足練習・・・。
2020/5/26 <裸足で練習して気づいたこと>
少し前から土の上で裸足で立つ時間をとるようにしている。
裸足だと何が違うのか? よく言われるようにグランディングが良くなるのか? 地の気を感じるのか?地の気を吸えるのか? 試してみよう、と思った。
土といってもパリの公園の土だからか、砂利っぽくて土がそれほど深くは感じられない。少し湿っていたり、小さな尖った石ころもあったり、枝が落ちていたり・・・まずは立つ場所の土をきれいにならして、そこで動功をしていた。
靴を穿かないと、まず、足首が動きやすい(周りやすい)。靴を履いていると足首の動きが制限されるようだ。(別にショートブーツを履いているわけでもないのに。なぜだろう?)
そして昨日、24式を師父についてやった後、そうだ、試してみよう、と続く48式は裸足になってやってみた。師父は私の前でやっていてこちらを振り返ることもほとんどないから気づかないだろうし・・・まあ、気づかれても困ることにはならない・・・と、動き出したら、足裏、痛い!
同じ場所で重心移動しているくらいなら痛くはないけれど、一歩前に出たり後ろに退いたりするたびに足裏が痛くて辛くなる。あ〜失敗!24式の時に裸足でやればよかった、と後悔。48式は飛んだり跳ねたり蹴ったり、脚を使った動きが多く、足が着地した時に足裏を擦る可能性がある。芝生だったらマシだったのかしら?と思ったところで時遅し。師父の立っている場所の方が土がきれい、もっと土のきれいなところでやるべきだった・・・と後悔の心が出てきたけど、一旦始まったら最後までやるしかない。仕方ない、と足裏が痛くないように気をつけながら48式を続けた。
と、48式が終わりに近づいた頃、足裏が痛くないような着地の仕方を発見!どろどろ順番に動くのではなく、一気に動けばよいんだ! 力は足裏から発する、とか思って、足から動いていたら足裏が痛くて仕方がない。足から動くのではなく、全身丸ごと同時に動けば足裏の痛みはほとんど感じない。身体の中に時間差があると足裏の痛みを感じるんだ・・・。
その次の46式もそのまま裸足で続行。
無事全部終わって師父が振り返り、私の裸足姿を見て、うん、それは良い練習だ、と言った。
今日は24式、48式、46式、一通り全て裸足だやったけど、頭でどう動くべきかは理解できたものの、全身丸ごと同時に”ゆっくり”動く、というのは骨が折れる。疲れる。
昨日も今日も、練習の後家に戻ったらへとへとで昼ご飯食べながら眠たくて仕方がなく、箸持ったまま寝てしまいそうだった。子供のようだ・・・と心の中で笑ってました。それほど疲れた。
足(踵)から力が発してそれが腰に伝わってそこでターボがかかりエネルギー(気)が増幅して手(拳)に伝わる
そう聞くと、力が 足→腰→手 と順番に伝わるように理解しがち。
意気力も意(will)→気(energy)→力(power)と理解しがち。
私はずっとそう思っていたけど、今回パリに戻ってきてから師父やピアノの先生に真っ先に学んだのが”時差なし”、同時、ということ。
足腰手、や、意気力、は横並びに書くべきでなくて、三文字重ねて書くべきだった、という大発見。もちろん、そのためには気が全身に満タンになっていて、蛇口をひねれば水が出てくる、という師父のたとえのようになっていなければならない(*これも図をかけば簡単に説明できるのだけど・・・)
裸足で練習していることを友人に言ったら、エチオピアのアベベは裸足で走ってマラソンの金メダルを取ったことを思い出させてくれた。エチオピアでは裸足で走っている子供も多いようだが、靴が買えないという事情もある一方で、訓練として裸足で走る方法を取り入れている場合もあるようだ。
裸足で走ると”足裏全部で着地する”ことが分かるという。
足裏全部で着地する、これは言い換えれば、足裏どこにも均等に力がかかるように着地する、ということ。踵からつま先に向けて順次に体重を移動させない、ということだ。
着地する時には着地する足の上に全身が乗っかってなければならない。
ほとんどジャンプの連続?
そして初めてアベベの走り方を見たけれど、虚霊頂勁がずっと維持され頭頂がブレない、顎もしっかりひけて、肩は沈み、胸も突き出さず(胸郭が大きい、肺活量が大きい)、丹田が収して(会陰引き上がっている証拠)、中正がしっかりとれている。乱れない。それは走り終わった姿、表彰台に上がった姿でも一目瞭然。
少し調べたら、実際に裸足で走る練習をしているアスリートの方のブログがあった。
このブログに書いてある裸足練習の末の気づき、それはまさに私がこの2日間で感じたこと、そのものでした。
①胴体を使って走ること。
=(私)胴体を使って動くこと(脚で動かない、手で動かない、丸ごとで動く)
②人間としてあるべき身体の使い方ができているのかどうかを身を以て知ることができること
=(私)丸ごと使えていないと足裏が痛い、もしくは足裏かばって膝が痛い、屁っ放り腰になる、そして足裏かばって着地するとよけいに足裏が痛い結果になる。
裸足でやると足裏にしっかり体重をかけることになるだろう、と思っていたけれど、やってみると真反対。足裏に乗る体重を減らすために胴体を軽くしようとします。会陰はもっと引き上げて、上半身はもっと軽く。知らなかった〜、上半身を軽くするための含胸、含胸で肺の中の空気量は増大する、浮きやすくなる。水泳なら肺は浮き袋。肺に溜めていないと沈んでしまう。
そう気づいて、隣の芝生で練習していた年配の太極拳サークルの人たちの動きを遠目にみたら、肺がしぼんでしまっていて上半身がどかっと下半身の乗っかって、下半身が重圧に負けまいと必死に頑張っているようだった。こうやって膝などをこわしてしまうのだなぁ、と。上虚下実の意味を見直さなければならない。下実になるために一旦は肺の気を下に落とし込むようにするが、動く時には肺に戻さないと下半身が重すぎて動けない。身軽な動作はできない。そのあたりはまたいつか整理します。
と、明日も裸足・・・足裏痛いし気づきもあったからもう良いかなぁ、と思ってたら、帰り際に師父が1ヶ月も続ければ足裏がしっかりして痛くなくなる、と一言。ああ、1ヶ月は続けなきゃならない・・・やり出したのだから足裏がへっちゃらになって、裸足でも靴ありでもどっちでも構わないと思えるまでやれ、ということかなぁ。
2020/5/24 <扣kouの正体、指先から気が出る、会陰と太ももは頑張って引き上げる>
今日たまたま見たバレエダンサーの家練の動画。あ〜、なんて手足が長くてきれいな男の子・・・としばらく見ていて、あれ? あー、そうだったのか〜、とずっともやもやしていた足の”扣”の要領が頭の中ではっきりしました。
足はつま先に力を入れない、お椀を被せたようにする(扣kou)、と何度も師父に注意されてきたが、つま先に力を入れないとべた足になるし、足裏の湧泉や土踏まずをを引き上げて扣にしようとすると足(foot)全体が亀の甲羅のように固まってしまったりつま先に力が入ってしまったりする。
実験してみると分かると分かると思うけれど、もしべた足で前後や左右の重心移動や馬歩をすると間違いなく膝の上に重さがかかってくる。太ももがグッと固まって太いソーセージのようになる。べた足は間違いなくNG!
土踏まずや湧泉は引き上げなければならないが、会陰を正確にきちんと引き上げていればそれらも引き上がるはずだが、直立した時に土踏まずや湧泉が引き上がるように会陰の引き上げを調整して双方から調整していく必要がある。
最終的に目指すのは、足の中の骨が総動員されてアーチを描き、内踵に落ちて来た身体の重さが指先から地面へと流れ出ていくような使い方。東京タワーの体重がアーチを描いた土台によってうまく地面に分散して抜けていき、それによってとても安定する、倒れない、そんな原理に近いと思っている。骨盤がアーチ構造なのと同様、それぞれの足もアーチ構造のはず。
2018年の練習メモで、バレエのチャコットの「つま先を伸ばす」というブログからこんな写真や記事を紹介していました。
(https://www.chacott-jp.com/news/useful/lecture/detail001174.html)
「やはり趾はパーに広げて伸ばす」と上中央の平筆のような足をよしとして、
「趾を丸めて縮めるグーはNG」と、右端のような足をバツとする。
記事を読んでもっともだと思ったのだけど、その時の疑問は、「扣にしたら指先が熊手のように開いたままにはならない、趾は丸くなる。でもグーはダメだなんて、じゃあどうなる?」というものだった。
そして今日、たまたま見た美しい動画で、あ〜、そうだったのか!といろんなことに同時に気づいた。
注目したのは最初に出てくる足の曲げ伸ばし。ポワント(つま先まで伸ばす)とドゥミポワント(半分のポワント)。
あ〜、これが扣だ!(左の写真)
上のチャコットのグーの写真との違いは分かるかしら?
きっと足(foot)だけ見たらどちらも同じに見えてしまう。けれど、気の流れは全く違う。
左の足は指先からうっすら気が流れ出て行くような使い方。
チャコットのグーは気の逃げ場がなく足にこもってしまう。
それがはっきり分かるのがこの左のポーズ。
足首、踵が床から離れているのに注目!
(踵が床に着いていたらグーになりがち。離しておくとグーになれない。)
このポーズを真似したら謎が解けました。
だから師父はああいう風に圧腿を厳しく指導するのだなぁ、と。膝裏が伸びない、太ももが押し込めないと怒鳴られる(苦笑)
もちろん会陰の引き上げもマスト。彼のように両手をあげると会陰は引き上げやすい。
足の扣は全身で作るもの、足のグーは足で作っただけでした。べた足は論外。
(扣にしてしゃがんでいくと膝にかかる力が削がれていくのが分かる)
内功の11番目の乾坤開合法を紹介した動画の中で、手足を大きく開いた形が星型(頭と両手、両足)になると言ったと思うのだけど、この5点は身体の末端でどこも通路がわずかに開いていて外界と気の出入りができなければならない。頭(百会)が”虚霊”と言われるように、手足の先端も頭頂と同じように外界に通じている必要がある。バレエダンサーだけでなく気功法やヨガでも、指を更になが〜くして、とか、指先から水が出ているイメージで、というのはそのため。拳を握っても空拳。自分の中で気を堪えない。外に抜く。溜めるのと同時にそれを抜けないと圧がこもってしまう。(下痢も便秘も好ましくないのと同じ?)
中医の先生が、家族が脳溢血になった時は救急車を待っている間にその人の手指の先を針で突いて少し血を抜いてあげなさい、と言っていた。手先足先が詰まっていると心臓や脳にかかる圧力が高まってしまう。
それにしても上の彼のような美しいポーズはなかなかとれません。会陰や股間、太ももの押し込みに使う力が半端ない・・・この太ももの力の使い方は(完璧にできないにしても)覚えておくべき。ほとんどの人が反対向きに太ももを使っている。太ももは引き上げて股間に近い側の力を使う。膝は引き上がる。しゃがんだり中腰になる時も太ももは(腹や股間やお尻に向けて)引き上げ続けなければならない、緩めてはいけない。太もも一周、前も後ろも内も外もすべて引き上げられていたら、その時は足は彼のように扣になっているだろう・・・少しでも近づきたい。
ロックダウン中、たくさんのダンサーが家練の動画を出していたけれど、彼は格別きれいだ、誰だろう?とその後調べたらなんとオペラ座のエトワールでした。なるほど。バレエダンサーの中でもピカイチ。足もきれいなはずだ。ロックダウンだからこそ見せてくれた生足。感謝です♪
2020/5/23 <第9式 前蹚拗步の技の説明>
昨日の続きで第9式。
字幕をつけたので説明は動画を見てください。
何気ない太極円の中に挒(リエ)が隠れているとは思いもしなかった・・・。
挒(リエ)は関節を痛める技で対人練習する時は十分気をつけなければならない。が、相手を使って練習したことがないと力の使い方が全く分からない。動画撮った後で、挒のツボは中丹田だったと思い出しました。相手がいると目先に気が奪われて肝心なことを忘れてしまう。
靠もまだまだ練習の足りない技。46式にたくさん登場するから少しは慣れてきたけれど。
生徒さんに師弟漫才のようだと指摘されましたが、実際私も自分で見て笑ってしまいました。
師父はいつも大真面目で全く笑わない・・・。歯車がズレて噛み合っているようです(苦笑)
2020/5/20 <言葉とイメージと体験>
はっとする絵。
自然と一体になるとか無為とか無我とか言いながら、無意識にそうなっていないか?
言葉、コンセプトは、絵や図、イメージになって初めて意味が鮮明になる。
太極拳、その根底にある中国文化はイメージ=象(xiang)の文化。漢字がその代表格。
私たちはイメージでコミュニケーションしている。
言葉はイメージを作るのを助けるためのもの。イメージの浮かばない言葉は無意味では?
無我を絵に書きなさい
と言われてどんな絵が描けただろう?
正しいイメージが描けられるような学び方、教え方が大事になる。
正しいイメージのない空の言葉を使ってはいけない。
とはいえ、イメージは体験に基づいている。体験がなければイメージが浮かばない。(にんにくを食べたことのない人はその味や匂いをイメージできない。)
まずは正しい(真の)体験が必要なのでは?
結局は先に体験ありき。
新たな体験をもたらせてあげられるような指導ができるのが指導者の醍醐味。
そのためには自分が毎日新たな体験をしていかなければならない。常にフレッシュであるように。
2020/5/19 <笑うは百薬の長 舌抵上顎 衛気>
あるサイトで目にしたこんな言葉。
One minute of anger weakens your immune system for 4 to 5 hours.
One minute of laughter boosts your immune system for 24 hours.
1分怒ると免疫システムは4~5時間の間弱くなる。
1分笑うと免疫システムは24時間高められる。
笑うのは身体に良い、というのはよく聞く話。怒りや笑いが免疫システムにどう影響してそうなるのか詳しくは分からないにしても、そうなっていてもおかしくないだろうなぁ、と思う。
以前中国のテレビ番組の中で中医の先生が、女性でよく怒る人は乳がんになりやすく、怒りやストレスを堪えがちな人は婦人科系の病気になりやすい、と言っていたが、じゃあ、どうやって怒りやストレスを発散するのか?という問いに、「笑ってください」と答えていたのを覚えている。
笑いは百薬の長。
今更ながらだけど、思い出さなければならない。
今日早速その話を師父にしてみた。そうしたら、
笑一笑,十年少。
愁一愁,白了头。
(笑っていると10年若くなる。憂えていると頭が白くなる。)
という言葉を教えてくれた。中国語で読むと抑揚、リズムが一致していて歌のよう。
ヨガをやっていると、そのインドのマスターはポーズを持続して辛くなってきたころに「はい、ここでhappy smile♪」 「Happier!」と声をかける。そして辛いけどそうしてみると、不思議なほど楽になる。どうしてだろう?と身体を観察していたら、happyをやると胸(肺)が広がって胸から上がふわっと浮いたようになる。苦しくなってぐっと堪えていた力がふわっと外に抜けていく=つまり、一種の放松になる。外に抜けるとhappyになる(決して内側の気がなくなるわけではない、放射線状に限りなく伸びていく感じ)。身体の内側にこもっているとキツく重くなる。
太極拳や気功法で、虚霊頂勁して百会を抜いておく、足裏の湧泉を開けておく、両手の労宮のツボを開けておく、というのが同じことなのだけど、それを達成するにはまず丹田の気の量を増やして、最低でも、頭や両手両足の末端まで気を送り出しても中心の丹田が消えてしまわないくらいの丹田力が必要になる。が、そもそも丹田の気を養う時に”むっつり”していてはいけないことをこれまで指摘するのを忘れていなかったかしら?
口がへの字になっていたら丹田に気は溜まらない。
やってみるとわかると思うが、会陰が引きあがらないから、気が沈み込んでしまう。下が重くなると同時に上半身が死体のように下半身に乗っかってきてしまう。子供が嫌々ながらふてくされて片付けをするような感じ? この下半身の重さは上虚下実の”下実”ではない。
気功法では、少し口角を上げて、と指示されることがよくある。
内側で面白くなくても、口角を少し持ち上げると、ふてくされ感が減少する。胸の気が持ち上がって軽くなる。
太極拳の上顎に舌を貼り付ける、上顎を舌で支える、という要領も口角を持ち上げ微笑したようになる。
これで胸から上の気、プラーナ(胸の気=宗気)やウダーナ(首から上、頭部の気)をふわっと持ち上げる。するとその気が身体をとりまくようになってヴィヤーナ(全身を取り囲む気)を形成する。ビィヤーナは衛気に相当するようだから、これによって外界から邪気が体内に侵入するのを防ぐことができる。
腹の丹田に真剣に取り組む時に微笑を忘れない。
うまく行かなくても笑う。うまくできない自分を笑う。
笑うと気が増える。
真剣でも深刻になってはいけない
<今パリで見かける広告>
パリ市の広告ですが、さすが、色、デザインが良くて絵もかわいい。そしてユーモア・・・
決して脅したり命令しない。街を見るとマスクなしの人もかなり多く、緩すぎる感も否めませんが(苦笑)
①パリでは私たちはタッチなしで挨拶します。
②パリでは私たちは良い習慣を実行します。(手洗いや殺菌・・)
③パリでは私たちはその”流行りのアクセサリー"なしでは外出しません。
2020/5/18 <呼吸法 喉を開いておく 舌抵上顎 口で吸う>
今日は時間が空いたのでzoomで生徒さん達と練習・・・と言いつつ実は私は皆を実験台に使っているような面もある(苦笑)
早速試して見たヨガのウジャイ呼吸法。Ocean Breezeのように喉でスーと息の音を立てて呼吸をする。吸う方は難易度高くすぐに太極拳には応用できなさそうなので、簡単な吐くほうだけ、とやってみてもらった。喉でocean breezeのような息の音を立てて吐き続けると、無意識に息を止めてしまう、ということが回避できる。内功の第一番目の降気洗臓功で、両手を頭の上から下に降ろして行く際、息は当然吐いていくのだが、よ〜く注意していないと、両手が胸の位置からさらに下に降りる時には息が”んっ”と喉で飲み込んだように詰まってしまいがち。息を止めてしまうと腹まで息が通らない。それを回避する一つの方法として、ヨガでは、喉で音を出し続けることで喉が開いた状態を維持する、という方法が考案されているようだ。
以前ブログに書いたかどうかは忘れたけれど、立位で膝を伸ばしたまま前屈する時にマスクをつけてやってみると、マスクをつけないでやるよりも楽に前屈できる。それは確かロルフィングか整体の人が本に書いていたのだが、そこにはなぜそうなるのかの説明はなかった。が、私が自分で試してみて気づいたのは、マスクをしていないと、前屈していって胸が曲がったあたりで呼気が一旦止まって(詰まって)そこでさらに息を強めて吐いていかなければならないのに対し、マスクをすると、息がつまりそうになったところで自然に吸気に変わっていく、ということ。マスクをすると、俯いていくうちに鼻呼吸がし辛くなって身体が勝手に喉を開いて息を取り入れようとしてしまう。喉が開くと身体(背骨)の柔軟性は高まり結果として前屈がやりやすく感じる。
一方、マスクをつけないで前屈をした場合、通常は呼気で前屈を始めるが、前屈とともに首が曲がって喉が詰まると詰まったまま鼻から強烈に息を出そうと頑張ってしまう。息が喉から下に通らないので背骨は硬くなり、硬いものをむりやり曲げようとするからキツく感じる。
つまり、息を喉で詰めない、喉を貫通させることがとても大事、ということだ。
舌を多少巻き舌のようにして上顎に貼り付けるのも喉を開くため。舌が落ちると喉が閉じてしまう。
口呼吸はだめだ、とか言うけれども、”吸”という漢字には”口”がある。赤ちゃんがおっぱいを吸うのは鼻でなくて口。口で吸うのが吸う基本。ただ、赤ちゃんが舌と上顎の間におっぱいを挟んで吸うように、舌は上顎に付いて唇は軽く閉じていなければならない。口の中で吸えば鼻も吸っている。口の中の陰圧(口の”収”、後ろに引く)が大事。臍や目と同じ要領だ。
と、話は逸れたけど、喉を閉じない、のはとても大事。閉じると頭と胴体が分断されてしまう。
閉じると頭が一人歩きする。私が感じる限り、喉を開いたままにしておくと、妄想はできないのではないかしら? 脳が開きっぱなしになったようで簡単な足し算もできない・・・今・ここ、にいることしかできない・・・喉を開くことで丹田から脳まで一つになってしまうからかと思うけど。試してみてください、是非。
で、今日試したウジャイ呼吸法。私自身はヒット作だと思って紹介してみたけど、一人生徒さんがそのせいで頭がぼおっとして気分を悪くしてしまった。後で気づいたのは、この呼吸法の時には、腹はキュッと押し込んでいなければいけないということ。もし、腹を膨らませながら喉から息の音を出して吐いていったら・・・と試したら、私も頭がぼおっとした。
強力なメソッドはとても正確にやらなくてはならない。反省。
気功や太極拳ではそこまで無理に息を入れたり出したりしないから、少し間違えても許容範囲に収まる。やはり時間はかかっても自然にやっていくのが安全なのかしら?
そういえば、OSHOはヨガは男性の道、気功は女性の道、と言っていました・・・。
自分で道を切り開くか、道が開くのを待つか・・・
2020/5/17 <ヨガ、そしてカラリパヤット・・・>
昨日の”震”はまだまだ広がりと深みのあるものに違いない・・・
このロックダウンの時期に昔から友人に勧められていたインドのマスターのオンラインのトライアルコースを受けだしたのだが、ポーズもさることながら、様々な呼吸法が凄すぎる!
気功や太極拳ではもっばら自然呼吸、そして次第に腹式呼吸、と進めて行くところを、様々な呼吸法を駆使して息を増やし息を隅々まで吹き込んでいけるようにさせていく。その中には声を低くならせたり、オームやその他の音、マントラを使うものも多い。
ヨガの一つ一つの呼吸法にはそれぞれ目的がある。最終的には息が全身隅々までいき渡り、最終的には左の風船人形のように”周身一家”(身体が一つの空間で満たされる)ようになることことを目標にしている。
私たちは普通、四肢は胴体から離れているように感じたり、頭とお尻は別物だと感じたり、そもそも、私は手ではない、と思っている。しかし、もし ”私”=丸ごとの身体、になってしまうと、もはや、「私が脚を上げる」という論理はなりたたなくなってしまい、”上げたら脚が上がっていた”となるだろう。もはや、意→気→力、と時間差はなく、意気力は時間差なしで同時になる。
(実は馮老師が内功の動画でも何度もそのようなことを示唆していたが、それは丹田の気が身体の外枠まで広がって身体全体を一つの気で満たした時に感じられること。広義のポンの正体。)
ヨガで力強い呼吸を練習すると、その呼吸があたかも高い水圧でパイプの詰まりを吹き飛ばすかのように、身体の内側の開かない部分を突破することがはっきりと分かる。タントウ功ではそこまで無理やり圧をかけないけれども方向性は同じ。じんわり起こるのを待つか、自分の呼吸で積極的に道を貫通させるかの違い。上の風船人形を膨らますことを想像したら分かると思うけれども、胴体を先に膨らまして次に頭を膨らますところで息を一段強く吹き込む必要があるだろうし、そこから手や足を膨らましてぴょこっと出させるには顔が赤くなるほど頑張って息を吹き込まなければならない。それを一気にやろうとして血管が切れるようなことがないように、今日はここまで膨らまして見て、明日はまた最初からもう少し先まで膨らまして・・、と行ったり来たりさせながら、最終的には一気に全部膨らませられるようにする。 それが身体(フィジカル体)の目標で、そこから先は次の体の練習に重点が移って行く。
身体の練功については、それが息で完全に膨らめば、柔軟性や可動域も見違える様に向上する。内側からうにょ〜っと伸びてくれるので、外側の筋を引き伸ばした身体とは質の違ったしなりが出てくる。
と、インド武術、カラリパヤットの動画を見たら、うわ〜、柔らかい!
中国武術や日本の武道の祖先とは聞いていたが、日本に到着するまでに随分硬質になったようだ。
テコンドーや日本の空手をみると背骨がほとんど棒のように真っ直ぐだが、師父が言っていた様に、暖かい地域の人の身体は柔らかいから、気候によって身体の使い方が変わるのもある意味当然かもしれない。が、背骨はガチガチよりも子供の時のようにしなる方が運動面でも健康面でも良いというのは周知の事実。私たち日本人の背骨はなぜか固まっていてガチガチ(私の背骨も決して柔らかくない)。おそらく社会、文化、教育、いろんなものが関係するのだと思うけれど、固い人ばかり見ていると固いのが当然だと思ってしまう。強い部活に入れば自ずから上手になる、ということで、武術の祖先はこんな感じ、と脳に覚えさせておくのも無駄ではないと思います。特に太極拳は柔らかさとしなりが特徴。背骨や関節がガチガチではチャンスーはできない。
こんな風に動けるんだ〜動いてたんだ〜、とイメージで練習。
固めない、うにょうにょ動く・・・考えただけで笑える♪
<下の写真>
https://youtu.be/oI84oM_bJeg
上段の左背骨、肩甲骨が・・・
上段の右 足上げはもはや足上げではない。バッタになる。
https://youtu.be/EnsG0l41gf8
下段の左の女性は習いに来た西洋人。なかなか腰がしなれない(反れない)
下段の右側は先生。腰のしなりがものすごい。
左はイノシシの動きだったと思う。
真ん中が先生だとすぐ分かる。このくらい”尾骨から頚椎”までが繋がれば、腿に負担がかからない。お尻がここまで割れてやっと会陰まで使える。
右の女性は腰がしならない(=命門が活性化していない)ので背骨が首の下から腰椎までしか繋がっていない(だからしゃがんだ時に腿や膝に負担がかかる)。仙骨、尾骨まで使えるようになると首も繋がってくる。仙骨尾骨を活性化(動けるようにする)には命門、中丹田が操作できるようになる必要あり(左の先生と比較すると一目瞭然)。→太極拳の内功では採気功や開合法、帰丹田法などでそのあたりの練習を地味にしています。
2020/5/16 <拍打功 震の意味 十常四勿>
今日早速師父にお願いして拍打功(paida gong)をやってもらいました。
動画に字幕をつける作業をしていたのだけど、終わる直前に全て飛んでしまったのでギブアップ。私が師父の言葉を繰り返しているので動画を見れば分かると思います。
師父が強調していたのは叩き方。
”震”(zhen)という言葉を使っている。震脚の震。打ったらその震動、じ〜ん、というのが内側に響かなければならない。じじ〜んと鈍い感覚が響くよう、震動を中に入れ込むように叩く。叩く腕を放松して重力で重くして打つとうまくできる。太極拳の拳の打ち方と同じ。重い拳。相手の身体の中に衝撃が染み渡る・・・悪く使えば人を傷つけてしまうが、上手く使えば身体を養う、ドラッグと同じ?
ここで”震”の感覚が掴めたら”震脚”のやり方が変わるはず・・・地面の中に震動させて気を入れ込まなければならない。降ろした足が地面から跳ね返って来てはいけないということ。地面がじ〜ん・・・そして自分もじ〜ん
動画を見たら分かるけど、下半身は外側は胆経をたどればいい。内側は脾経をたどっていました。女性は特に脾経に気をつけて。婦人科系の疾患、冷え性などに関係ある。夜なら叩かずさする方がよい。
師父が紹介している三字熟語の連発
頭常理 面常洗 頚常擦 胸常摸 腹常揉 腰常转 四肢常揺・・・
原点は中国で最も長生きした乾隆帝の養生法”十常四勿”かな?
https://takeichi3.exblog.jp/28041014/
中国語だと三字熟語なので簡潔で覚えやすい。
<十常>
齿常叩 津常咽 耳常弹 鼻常揉 睛常转 面常搓 足常摩 腹常旋 肢常伸 肛常提
<四勿>
食勿言,卧勿语,饮勿醉,色勿迷
そして動画の中の丹田のハッ!
でんでん太鼓は心腎相済(火と水の相済→気の発生)を狙っていました。
2020/5/15 <拍打功の思い出 自分で自分を叩くと身体はどう反応するか?>
拍手功は最初師父から教わったが、北京で陳功老師に個人レッスンをしてもらった時も最後は拍手功でしめくくった。あの時はまず師父とは違った形のタントウ功を教わり、そのあと二人で向かい合って一時間弱立ったあと、次第に両手首の回転から腕のチャンスー、次第に太極円となっていった。当時は理解できないままただ真似をしたが、今振り返ると、あれが無極から陰用に分かれて太極になるさまをそのまま練功で再現したのだと分かる。
最後に拍手功を真似してやったが、両腕、両肩から胸腹。腰に移ってお尻から脚の後ろ側を下に降りて足をぐるっと回って前側を上がってくる・・・それは師父に教わったのと同じやり方だった。が、私たちが自分の身体を叩く時、どうしても自分では叩けない場所がある。それは背中。その時、陳項先生と言葉を交わしたような覚えはないからおそらくジェスチャーで、お互いにお互いの背中をパンパンと叩きあった。背中を叩いてもらう・・・野球やサッカーの選手がフィールドに出て行く時、コーチが後ろから、よし、行ってこい!と叩いてもらうのも背中ではないかなぁ?
背中を押してもらう、ではないけど、背中を叩いてもらうのはなんとも言えない気持ち良さがある。しかも陳項先生に叩いてもらえるなんて〜!
と、その後の御苑練習でも拍手功の最後に皆で列になって前の人の背中を叩いたりしていた。一人の練習では味わえない楽しさ。やはり気場を高めるには仲間がいた方がよい・・・ロックダウンではそれもできない。残念! 平常に戻ったら是非試してほしい、し、私もやりたい。練習はしかめっ面で一生懸命やるものではない。オリンピック選手の練習とは違う。少しお遊びがあると気が増える。
拍手功はパンパンと気を身体の中に入れ込むように叩くのがコツ。
パンパンほこりを出すようにはたくのではない。
練習の後で気の循環がよくなり皮膚が開いた状態のところで外の気を内側に入れ込むつもりで叩くのだ、と教わった。パン!と叩いたら叩いた手のひらで気を中に押し込むようにする、手のひらが多少ピタッと叩いた面に貼り付いたような感じだ。(台湾のサイトで、拍手功で死亡?なんていうのがあったけど、それは叩き方を完全に間違えている! )
中国のサイトを調べてみると、馮老師がやっているものは道家の拍手功だということが分かる。
下の老師はテレビ番組でそれを紹介していた。
しかし動画を検索していたら上の老師を除いて拍手功の模範になるものがほとんどなかった。馮老師や陳項老師、そして師父の動きを知っているからどうしても比べてしまう。
左の男性はまだ背骨が通っていない(命門が閉じていて上の老師のように頭頂から背骨、太もも裏、ふくらはぎ、アキレス腱 足裏、のラインが張っていない)から、帯脈(胴体の筒)がなく、くにゃくにゃしてしまう。頭が前に出て首が立っていない。上の老師のように”でんでん太鼓”になるようには身体が気で膨らんで”ポン”しなければならない。
自分で叩くことの素晴らしさは、自分である部分、例えば腹(丹田)を両手の拳で叩こうとすると、叩く前に腹が勝手に鼓のように膨らんで気のクッションを作ってくれるところ。ここには紹介していないが、師父は拍手功の最後はぽんぽこダヌキのように両拳で腹を3回、ハッ!ハッ!ハッ!と叩くことで締めくくる。ハッ!と言えば腹の気がぐっとさらに増えるのが分かる。しかも放松した柔らかい膨らみだ。もし、んっ!と言って叩いたら、腹の筋肉が硬くなってしまい気のクッションが少なくなる。実際に打たれた時はハっかハ〜で力を抜いた方が衝撃は少ない。注射をされる時に、んん〜と堪えるよりもは〜っと息を抜く方が注射針もスムーズに入るし痛みがすくないのと同じ。
腹がわかりやすいけど、身体の他の部分も同じ。太ももの胆経の風市を叩けば、太ももの側面が叩いてくる手を迎えるように膨らむのが分かる。叩いた箇所叩いた箇所がポンするのに気づくと自分の身体とはいえ自分の身体ではないような気がする。自分ではどうしようもできない部分の身体の反応をうまくつかうのが太極拳。だから、有意無意が真意、と言われる。太極拳は一生懸命やりすぎると掴めないのはそういうところ。意を使う、といいながらも、身体に任せることが大事。その辺りの塩梅はまだ模索中。
2020/5/14 <拍手功 ツボを叩いて身体で覚える>
今日は師父がお休みだったので一人でゆっくり練習。
昨日に引き続き内功は裸足でやってみる。足裏で地に立つと頭までまっすぐにそびえ立てるような感覚がある。天の気、地の気を真剣に意識できる。自分の足(feet)がどう使われているのか見ることもできる。どの足指がつかえていないのか、足のどのあたりの骨がつかえていないのかもよく分かる。足(feet)の中の骨、26個が全部使えていたらマスターレベルだろう。
足の中のある骨が使えていないから右腰が使えない(つながらない)、首が伸びない、というように、原因はくるぶし以下にあることが分かる。けれども、そんな足になってしまったのは、上部の身体の使い方が間違っていたからだろうから、これもまた、どっちを先に直せばよいのか、卵が先か鶏が先か、の議論になってしまう。結局、双方向から攻めていく(調整していく)しかない。
思った以上に身体が歪んでるなぁ〜、と自分の足や身体を観察しながらちょっとがっかりしたけれど、生まれてから今までずっと頑張り続けてくれたのだから労ってあげなければならない。古くなって多少傷があったり凹んでいたりしても一点物のアンティーク。丁寧に使って手入れをしてあげよう。身体は自分のもののようで自分のものではないのかもしれない。天からの借り物。使えなくなったら返還。借り物だと思ったらぞんざいには扱えない。
そんな風に思ったら、保健功がとっても意味あるものになった。
単純で簡単で、身体が喜ぶ。
今日は拍打功をやりながら、なんて賢い功法! と感動してしまった。
ただ身体や身体のツボをパンパン叩いていくだけなのだけど、身体がスッキリするのみならず、そのツボがなぜツボなのか、経絡の繋がりも感じられる。叩いた瞬間にその部分がポンするので本来の正しい位置に調整される。
身体を上からパンパンしていってみてください。
ここをパンパンするとどんな感じでどこに反応が出るのか・・・
<たとえば内関、手三里、曲池>
肘を開き(曲池)、力がこもりがちな前腕をほぐし(手三里)、手首を開き(内関)指まで気を通します。
特に下半身はツボを意識できてツボにひっかけて立つ、動くのが大事。
ツボを無視して使うのは故障のもと。
胆経の環跳、風市、陽陵泉は足の薬指へ、胃経の足三里は人差し指と中指へ、と叩けばその繋がりが感じられる。
←膝より下の大事なツボ
(https://ananweb.jp/news/189722/)
ツボは病気を直すために使うと思われているけれど、実は人間の身体が動く時にそれらのツボが刺激されているのだということが分かる。
動いているのにスルーして刺激されないツボがあったら動き方が自然ではないということ。
動き方が真に自然な人(癖がない人)は皆無に等しいにしても、目標は”自然”。
癖がなければ使いやすいし美しい。叩くと身体の癖も分かる。少しはとれる。
下のGIF写真を真似して是非やってみてください・・・
名称の入っていない4番目は極泉穴(腋の奥)、6番目は腎兪、11番目(血海ツボの次)は陽陵泉と陰陵泉を交互に叩いています。
ツボについて続きを書けたらまた書きます。
2020/5/13
11日(月)に外出禁止令が解除されたがパリの公園は相変わらず閉鎖中。ほぼ2ヶ月ぶりにメトロに乗って練習場所に向かったら、練習場所の公園は部分的に開いていた。久しぶりに会った師父はマスクをつけてフードも被って拍手功をしながら登場。一瞬誰か分からなかったが、あんな風に拍手功できる人は師父しかいない。
その日は10度以下まで気温が下がって風も強かったから短めに練習。
けれども、師父について練習すると一人でやるのとは全く違う。
横に立っているだけでその気配がこちらに影響する。あるレベルに達すると立ってるだけで普通の人とは違うのが分かる。修行者だと分かる。削がれた感がある。余計な雑なものが普通の人より格段に少ない。すがすがしい。
公園は全く手入れされていなくて荒れていたけど、それはそれで清々しい。
やはり外で練習するべき。
空と大地、太陽、そして緑。
コロナだのconfinementだのに全く無関係の自然界。
私たち人間だけがあたふたしている。
上からアリの集団を見て、あんなに慌ててどこに行くんだろう? と私たちが見るように、
私たちは見えているに違いない。
上を見上げれば全く違う世界があるのに、私たちの目は水平にしか見ない。
視野を高く広くするには心が広がる必要がある。心が広がるには身体のスペースが広がる必要がある。身体のスペースを空けて開けること、これが気を溜め気を通すことで、それが、”ポン”。
身体を萎縮させずに広げる。
ちまくなってはいけない・・・(こちらでNHK見るとそう思わざるを得ない 苦笑)
<下の写真>
練習場所。2ヶ月前は葉っぱがほとんどなかった木々が見違えるように葉を茂らせていました。
真ん中の写真:二人のうちの一人が猫を散歩させているらしく、猫は近くの大木を駆け上がっていったり降りてきたり・・・右写真はその拡大写真。猫が見えるはず。
犬は綱なしで散歩がこちらでは当たり前だけど、猫まで可能だとは・・・。驚きました。
2020/5/11 <目を引いて出す 丹田に引っ張り込んで出す 開合>
今日の生徒さんたちとのzoom練習でお遊び的に紹介した目をすっきりさせる功法。
テレワークやオンライン会話などで目ばかり酷使してしまうから特に大事。
子供の頃からすでに目が悪くなってしまっている異常な環境。上丹田ばかりが酷使される生活。
目をギュ〜っと引いて、突然パッ!と開く
それだけなのだけど、そんな単純な功法が効く♪
と、皆に紹介してやってもらったら、あれ、思ったほど効いてない・・・効いた、と感じないということは効いてない、ということ。よく見たら、パッと開いた手のひらの労宮も開いてない。
グッと握る、パッと開く
そんな単純な気功法はやるまでもないと思っていたけど、それが必要かもしれない
グッと握る、絞るのは肝の気、と中医学の講座で言っていたような気がする。
赤ちゃんはグッと握って開かない。指の間にほこりがたまる・・・
これは先天の気の強さの証拠。
グッと握れないとパッと開けない。
開合力、は、丹田力。握り込むのは丹田の気。目を引き込むのも丹田。丹田が目を引き込む。
目が上丹田まで引き込まれるのだけど、実は、上丹田は下の中丹田と下丹田へと引き込まれている。
覚者の目は下の丹田まで繋がっているから目の奥が深くてなんともいえない色合いがあると効いたことがある。瞬きをせずに目を見開いたままにする練習があるが、目を開いてその奥を腹の丹田の方まで引き込むと、確かに、瞬きをせずに長い間いられる。
本当はそんな難しいことを説明するつもりはなかったのだけど。
下の二つが馮老師による功法の紹介。
そしてこの下が、生徒さんに分かってもらおうと私がかき集めた材料。
ピンクレディはどの曲も全てマスターして踊ってたのを思い出しました。朝礼台に乗って皆に指導していたし、夏祭りで櫓の上でも歌った。ちびっこものまね歌合戦にも出たっけ(笑)
2020/5/9
昨夜書いた一文、
”一番下”は会陰・裆ではなくて足の裏では?
という質問はナンセンスなのにも(やれば)気づくのでは?
があまりにも無責任かと思い、朝、再度自分の動画を見直してみた。
中丹田と下丹田をつないで、命門から会陰(裆)まで気を下ろす(貫通させる)と足裏はどうなっているか?
骨盤から下で背骨をほぐしながら回した時の足裏はどうなっているか?
命門から会陰までつなぐと、足裏はしっかり地面を踏み突っ張っている。
足裏が地面に貼り付いて地面を推しているから、足首が”立って”回る。(足首は縦軸として立ってないと回らない。*身体の3つの縦軸:首、腰、足首)
骨盤から下でぐるぐるすると、足裏がぺらぺらして地面に着いてるところと浮いてるところがでてくる→足首がはっきりしない。足首が寝てる。(気は足首より上、ふくらはぎの下の方までしか降りていない)
そんなことがはっきりします。
とはいえ、自分の動画を見ると、左足首の回転が不十分。これは股関節がまだ開き切っていないため、自覚あり。
足裏がしっかり地面に貼り付いて腰柔軟に動かせる人は節節貫通ができている。
足首以下を見ればその人の功夫が分かります。
少しずす少しずつ練習するしかない。
内功の練習も丹田を作り動かしながら、徐々に(丹田を失わずに)下半身のクワ、膝、足首を回転させて通していけばいいと思います。
↓2つ並べると違いがよく分かる。
頭頂のブレ、肩の水平のブレ、体幹のブレ、裆(股、骨盤底筋)、腿の力の違い・・・
そして足首以下の違いも明らか。
なお、一番右は太極拳で打ったりする際の、腰、胯、裆(そして腿から足裏までの下肢)の動きの連携。この中丹田と下丹田の発動機で拳が出てくるのが太極拳の特徴。丹田がしっかりしていると腰が自由に動く。”太極腰”(太極拳は腰!)と言われる所以。) 肩がまだ抜け切ってないのが私の現在の課題・・・
そして下はノリで太極拳的に動いた時の丹田や腰の動き。左は打撃、連打、右は化勁で使うような速い丹田の回転。いずれも、腰、胯、裆(そして腿から足裏までの下肢)の動きが連携する。
この中丹田と下丹田の発動機で拳が出てくるのが太極拳の特徴。丹田がしっかりしていると腰が自由に動く。”太極腰”(太極拳は腰!)と言われる所以。帯脈回しの時の沈肩が不十分だ(苦笑)
2020/5/8 <バランスボールで中丹田と下丹田を使ってみる 裆劲>
ビデオレッスンで内功の復習をいていたら、生徒さんの弓歩の形がどうしても決まらない・・・身体がまっすぐ立たない。中丹田がしっかりしていない。中丹田がしっかりしないと頭が立たない。
生徒さん自身に自分の姿勢を見てもらおうと画面録画を始めたらそのまま撮りっぱなしになって私自身の教える姿も録画されてしまいました。教える時はアドリブが多いのだけど、今日も、そうだ!と転がっていた小さめのバランスボールを使って即興指導。生徒さんに動きを見せながら、そうそう、そうなんだ〜、と自分も学んでいるのがおかしい。自分で髪切ったこともあって頭ももじゃもじゃ、音声なしだとほとんどギャグ動画。何を教えているのか分かるかしら?
が、やはり上の動画では説明不十分かと思い、レッスンの余韻が残っているうちにバランスボールを使った動画を撮りました。
胴体を上中下に分ける(中医学の三焦の上焦・中焦・下焦に相当)。
胴体を上中下に分ける(中医学の三焦の上焦・中焦・下焦に相→ヨガの言い方だと、5つの広義のプラーナのうち、上焦の気(宗気)は(狭義の)プラーナ、中焦の気(中気)はサマーナ、下焦の気はアパーナに相当する:左の図参照)。
プラーナは呼吸器で取り入れる空気、酸素、軽い気。
中焦で食べ物を消化して下焦で吸収、排泄。
下にいくほど”気”は重くドロドロしてくるイメージ。
→上虚下実が正しい。
バランスボールに乗ると股間(裆)をしっかり使わざるを得ないので重い気が下に落ち、上虚下実になりやすい。気が会陰に向かって落ちると背骨が動きやすい、胴体が自由に動けるようになる。
中丹田は胴体を操る。
下丹田は脚(腿)を操る。
中丹田と下丹田を一体化させて一個の丹田にするのが目標。
これができれば上焦の気(プラーナ)は自然に入るようになる。中下を重点的に=体幹
動画でやったのは帯脈回し。中を回す。それには中下をつないで置く必要あり。
打撃も抖动も、動画の中では試していないけれど、きっと重心移動も、バランスボールに乗ってやれば比較的簡単にできるのではないか?
バランスボールを股でしっかり挟みこんでいれば裆劲がしっかり使える。分かりやすい。立位の馬歩や弓歩で裆劲を得るにはかなり内功を積まなくてはならない。腰とクワの要点をクリアして仙骨よりさらに下、長強穴や会陰、承扶穴あたりを使う(が、このあたりを使う頃には使った感がなくて股が浮いたように感じる)必要がある。バランスボールを使うとお尻=クワ(股関節)が開くので気が一番下(=会陰、裆)まで落ち切った感覚を経験しやすい。
”一番下”は会陰・裆ではなくて足の裏では?
という質問はナンセンスなのにも(やれば)気づくのでは?
だから古来からこの練習は命門から会陰までを下向きに開発していく、という手順で行われてきた。会陰までこぎつけば、下は足裏まで、そして上は頭頂まで気の道は開通する。裆劲を使えるということは虚霊頂勁ができている、ということ。そしてその頭頂と会陰に挟まれた部分の他の要領、沈肩やら含胸拔背 塌腰敛臀やらは全てクリアされているということだろう。
と、やってみるとそんなに難しい話ではないので、動画の中の説明を聞いてバランスボールで遊んでみて下さい。そっくりそのままできなくても乗って帯脈回しするだけで松して腰や股関節、背骨をほぐす効用やすぐに得られるはず。
2020/5/6 <保健功は面白い>
保健功が思いの外面白くて馮老師の歳を召されてからの動画をチェックしてみました。
ブルブル(抖动)の前に腿の放松の功法が2種類紹介されていましたが、この2つは劉師父が公園で一人でテキトーにやっているような動き。毎日何気なくやっていれば気がついたら片足立ちがふらつく、ということもないだろう。この程度は言われなくても毎日テキトーにやっておくべき。ちゃんと真剣にやるとこれは48式の蹬脚になる。
あのブルブル(抖动)については、膝と前後に関してはノーナレーション、金の鶏のブルブル(
金鸡抖翎)は”腰の放松”と言い換えられていました。そしてその後に、肩の放松が付け加わって、その中に爪先立ちから踵を下ろす動きが入れ込まれている。高齢になっても馮老師のブルブルはキメが細かい。ワサワサ震えずにさざ波のように震えられるのがレベルが高い(骨肉分離が進んでいる証拠)。
最後の『練眼神』=眼神(眼の奥の気)を出す練習は絶対にした方がいい!
スマホ老眼なのか本当の老眼なのか、老眼になるまえに近眼になる子供もとてもおおい現代、目を養うのはとても大事。ここで紹介されている功法は簡単だけど効く。
手の動きと合わせて馮老師を真似てやっていてください。
中医学で目指すのは、老齢になっても見えて聞こえること。簡単なようでこれをクリアできる人は少ないのではないかしら?
足がふらつかず、目がよく見え耳がよく聞こえる。
若い時には当たり前だったことがとても価値あることになってきた。
それぞれの器官のにはそれぞれ気(エネルギー)が割り当てられていて(先天の気)、気を使い果たした器官は衰え機能が止まる。大元の気の貯蔵庫である丹田の気を養いながら、身体の各器官に割り当てられるように導引する。それが内功であり、内功としての太極拳だと再認識しました。
2020/5/5 <保健按摩 その他>
内功13番目の保健按摩とその他2種類の(見かけは)簡単な功法を紹介します。
馮老師の動画に字幕をつけたので見てください。
1番目の保健按摩では大事なツボがいくつか出てきます。太極拳ではツボの知識が不可欠ですが、本来これは鍼灸師のように本で覚えるわけではなく、常にツボや経絡の名前を使って(太極拳の)指導を受けているうちに自然に身についてしまうようなものです。ここで紹介されているような叩いたり揉んだりするのもツボの体感を得る一つの方法なので実践してみるとよいと思います。ツボを叩くとビンとくる・・・
2番目の功法は踮脚踮背。踮脚(dianjiao)は踵を持ち上げて爪先立ちになるという意味。持ち上げた踵を下ろすことで身体を振動させる。踮背という言い方は普通はしないようだが、踵を持ち上げると背中も持ち上げたようになるのでそう表現したのではないか? 大事なのは降ろした時に身体が震えること。”震脚”は足の裏全体が同時に落ちるから身体の前面まで震えるが、これはつま先が固定されたまま踵のみが落ちるので背中側が震えるようになる。
3番目の抖动は3種類。両膝→前後→全身(有名な金鸡抖翎 )、右にいくほど難易度が高くなる。
やってみると分かりますが、抖动は見た目ほど簡単じゃない。
両膝を震わせるにしても、太ももではなく、膝、膝そのものを震わせるには、会陰や湧泉の引き上げ(脚の扣:土踏まずをしっかりあげること)が必要になる。私は左膝が不完全。(若い時に前十字靭帯を切ってそのままにしているから仕方がないのかもしれないけれど。)
前後の震えは下半身が前後に細かくふるわせられないとできないかな?
そして金鸡抖翎。鳥がブルブルっとして羽についた水を吹き飛ばす動きですが、これは腕や手を使って上半身をうまく震わせる必要がある・・・・昔師父からも習いましたがなかなか上手くできないのでずっと放置していました。改めてやってみると上半身がうまく震えない。どこから震えるのか?足裏からか?丹田からか? よくわからないので今日師父にビデオで指導を受けました。なんと、これは手と腕を使って上半身から下半身へ震えを伝えていく・・・師父から下半身の抖动は很好と褒められたけど上半身は今ひとつ。道を歩きながら、料理をしながら、思い出したら、抖、ブルブルっとできないか半日そればかりやっていました。ブルブル、っとするには・・・その前にタントウ功の形にならなければならない。骨肉分離できていない箇所はブルブルしない。課題が分かる。
子供ならそんなことも考えずに簡単にブルブルっとできるだろうに・・・が、老人になってもまだスキップしてたり、ブルブルっと震えられたりしたらさぞかし身も心も軽いことだろう。
2020/5/4 <抖动(ブルブル)から胯の松、松の意味へ>
週末土日にzoomで生徒さんたち十数人と練習してみた。
内功のおさらいが目的だったが、案の定、やってみると注意したいことがたくさん出て来てなかなか最後までたどりつけない。
一つ教えたかったのは含胸の重要性、と、その感覚を得る方法。
私自身、師父がなぜあんなにしつこく含胸を私に注意してきたのか、それが分かったのが今回パリに来てからだから、皆がその重要性を気づかないのは無理もない。けれども、その意味を知ってしまうと、一刻も早く教えてしまいたくなってしまう。性急すぎるのが私の欠点。
含胸ができるくらい首や肩や胸骨、胸椎まわりが柔軟だったら肩こりとは無縁だろう・・・そういう意味でとても大事。肩や首に力を入れずに頭部が支えられている大人なんてまずいないから、これができるようになるだけでもものすごいことになると思う・・・この点についてはまたいずれ書くことにして・・・
皆と練習すると気づくことがいろいろあったのだけど、その中でちょっと驚いたのは、練習の最後にお遊びがてらやった、身体をブルブル震わせる動き。内功の最後の保健功の中にある動きだ。
内功の動画の中で馮老師が膝をブルブルさせた後にやるのが、左のような動き。前後に身体をブルブルさせている(抖动)。
この動きのためには太ももを前後にブルブルさせられないとどうにもならないが、その太ももブルブルが思いの外皆うまくできていないのに驚いた。
案外多かったのは、股がカクカクして太ももが開いてガニ股と内股を繰り返すような動きになっているケース。太ももブルブルはスポーツをする前の準備として無意識にやりそうな動きだから教えるようなものではないと思っていたけれど・・・ん?何が難しいのか分からなくてどう教えて良いのか分からなくなってしまった。
が、練習後、グループラインで私との練習期間が最も長い生徒さんの書き込みを読んで、私も問題点が納得できた。
①ブルブルは前クワ(胯)の”松”ができるかどうかが問題。
②そして前クワの”松”のためには・・・・が必要。
そして、③”松”とは・・・・のような状態。
と、そんなことが分かるようなやりとり。
以下参考のため、適宜引用して紹介します。(ミソとなる点を太文字で強調しました。)
私「太腿ブルブル、案外難しいのですね。知らなかった...」
Aさん「うまく出来ませんでした😿」
Bさん「前胯パカッと開いている、会陰が引き上がってないとブルブルできないのでは?
私は先週までできなかった… 先週、鼠蹊部パカッと開かないように(内旋してます)」みたいなこと先生にLINEでやりとりして、その後自分をよく観察してみたらできてなかったという…自分のことは中々わからないものですね。
Aさん「前クワパカっと開いていてはいけない?」
Bさん「前胯開いていても鼠蹊部がきゅーっと引き込まれていれば、なおかつ前胯が力なく凹んでいないで引き離されていれば良いのだと思っています。
前胯が凹んでいても突っ張っているというか…
胃経が通っているというか…」
Aさん 🤔
私「 ”前胯が力なく凹んでいないで引き離されていれば”
”前胯が凹んでいても突っ張っているというか”
Bさんのその表現がまさに 前胯(鼠蹊部)の "松"
というか、実は、それが"松"の正体でした。」
お尻(後胯 環跳穴)の要領も同じ。
おしりのエクボ作ってるようだけどお尻の表面は膨らんだまま
これに気づくと、実は丹田もそうだったと気づく。
1 凹んでるけど凸してる
凸してるけど凹んでる
これが太極拳の原理。
結局、その隙間の中に居続ける...
まず隙間を開けるのが第一歩。
開けて隙間が見えてきたら、そその隙間を広げていけば良いです。
→結局それが丹田の気を増やすことだったとまた後で気づく。
私「話戻すと、Aさんだけでなく他の人も、前クワバカっと開いちゃダメです。
まあ、その時は会陰が緩んでる=漏れてる
内側の経、内踵側を繋げる必要あり→内旋が有効」
Bさんより思い出話・・・
「スキー⛷のウェーデルンの動きにそっくりだなーと思っています。学生のころを思い出しました🙂 コブ斜面を膝で吸収して滑る姿が印象的なウェーデルン。
ただ「膝を抜け」と教える先生もいるけれど、インストラクターからは「急斜面では前傾しろ!腹から足先までを突っ張れ!コブでは突っ張ったまま膝を曲げろ!そうすればコブを超えたら弾力で膝が伸びる!」と教わった。
不思議に思ったけれど、実際に滑って膝は曲げちゃいけないんだな、曲がるのだなーと納得した。腹で足先を突っ張って遠ざける感じを保ったまま膝を曲げても雪面を押し続ける、と当時は理解したのを思い出しました。懐かしいー🙂
私「過去の体験とつながってきましたね。」
皆どこかで体験してきている身体の使い方。気づくと、なんだ、あれと同じだ、と戻ってくる。実は、”戻る”、”思い出させる”ための練習なのかもしれない。
2020/5/1 <放松→丹田→節節貫通→放松→丹田 勁を通す>
太極拳は内功をその核心とするからこそいずれ”拳”を落としても内側での修行を続け”太極”の道を進むことができる。
馮志強老師が著書の冒頭で「私は太極拳を修めたが、太極の道に関して言えばやっと入門したばかりである。」と書いていたのはそういうことだろうと思う。太極拳は太極の道、自然との一体、存在との一体、この現意識をもっともっと膨らましたところにあるタオの入り口まで連れて言ってくれる身体の動きを使った修行法。無事に門にたどりつけば”拳”は捨ててさらに内側の修行に移行していくもの・・・・そんな風に頭では理解してそのように進みたいと思っていた。
と、今日、天気が今ひとつで気温も下がっていたため、家の下の箱のような中庭で練習する気になれず、運動目的の外出禁止でも買い物途中の散歩のふりをすれが大丈夫だろうと、近くにある公園に向かった。門が閉ざされた公園。いつもは門の近くに緑を求めて来るフランス人が結構いるのだが、さすがに天気が悪いと誰もいない。門の中の公園の樹々は数日見ないだけでさらに背が伸びたようだし葉っぱもびっしり詰まっている。放っておくと森になりそう、そうここは森の国・・・なんて思いながらしばらく緑を見ながら鳥の声を聞いていた。気がついたら(本当に気がついたのは終わってからだが)タントウ功をしていた。以前も感じたが、鳥の声から入ると自然に上丹田が放松して頭の北半球(頭部を耳のラインで横に切った時の上側=脳)の中がパカっと白くなって広がるのが分かる(これが”空白”か?)。それからその脳の空白を残したまま下向きに気を少しずつ落としていく・・・すると確かに、放松していくだけで自然に腹がしっかりし下半身が充実し両足が地面をしっかり掴んだようになる。どのくらいそこで立っていたか分からないけれど、戻ってきた(入静状態から)後感じたのは、いつかこれだけ(ただ立って放松するだけ)で十分になるだろう、ということ。さらに内側に入るには身体は要らない・・・帰り道歩きながら、最終的に身体を不要にするためにこんなに身体を鍛錬しなきゃならないなんて逆説的だなぁ〜、よくある太極拳的パラドックスだ、なんて考えて少し可笑しくなった。
ここがまだ緩められる、と気づいた箇所を緩めると、その分だけ腹に気が増える、という法則は最近はっきり意識できるようになったばかり。面白いくらいそうなっている。套路の時も、おっとここに力が入ってる、と気づいたらそこの力を抜いたり、生活の中の動作でも、ん?と気づいたら気づいたところの力を抜いたりしている。が、その作業がキリなく続くのが分かると、なんでこんなにひっきりなしに余計なところに力が入ってしまうのだろう?とがっかりしてしまう。ただはっきり分かるのは、①普段無意識で身体を使う時は、力を筋肉という身体の表面に移動させているという事実。そして②その筋肉の力を意識的に抜くとそれが腹に集約されるという事実。加えて、③筋肉の力を使って身体を動かしている時は腹に集約されたものが無くなっているという事実。そして更に言えば④意識的に丹田の気を保持させたまま身体を使うと筋肉が緊張しない(緊張できない)=力まない=放松している、という事実
これらの自分の身体で起こっている事実を合わせると、腹⇄筋肉 で”何か”が行ったり来たりしているということが分かる。 筋肉で”ぎゅっ”と感じるものを”力”と呼ぶとしたら、筋肉の”力”を抜いたときに腹に集まって重く感じるものを”気”と名付けたのかもしれない。”気”が筋肉に流れると”力”になるのだとしたらそれはエネルギー・・・といっても、エネルギーとは一体何か、は誰もわからない。エネルギーは仕事をさせるもの、エネルギーはパワーに転換されるもの、とその作用を介してしか定義できないように、気もそのようにしか定義できない。結局、気にしても丹田にしてもそれが使えるようになるのが大事で、(学者でもない限り)それが何かを知る必要はないということだ。
こんな簡単な放松と丹田の気の増加の関係、なぜこれまでそこまではっきり分からなかったのだろう?と不思議に思って早速師父にその現象の報告をした。そうしたら、師父が、「また一段進歩したなぁ。」と褒めてくれた。私はてっきり、「そんなこと、昔からずっと言ってるだろう!」と言われると思っていたので驚いたが、よく考えれば、ずっと昔の私が手の拳をぎゅっと握ってその拳を突然緩めたからといって腹に気が溜まるのを感じ取れたか?といったら、無理だっただろう。なぜなら、腹から拳までの通路が開通していなかったのだから。
結局、放松しても丹田の気が増えないの節節貫通がまだ達成されていないからだということ。
それを達成させるには丹田の気を溜めておいてそれを末端に向けて押し出す運動で内側から関節を開かなければならない。
それはあたかも最初ぺったんこだったホースに勢いよく水を流すことでホースの内側が広がる2020/5/31 <第15式三換掌の技の説明>
簡単に見える技。
だけど、この引き手が曲者。タントウ功がちゃんとできているかいないか、タントウ功の応用になる。急発進で引かれるから相手は引かれてしまう。この突然の動きを可能にするのが足裏から掌まで繋いだ勁。相手の手を掴んだ掌は足裏でもあり、足裏を踏んだ時には同時に掌が引けている。膝を不用意に曲げたら勁が途切れてしまうのは相手を引っ張ってみると分かる。このあたりは一人で套路だけ練習していてもなかなか分からない。私の師父は技をそれほど重視しないけれども、太極拳の師の中には対人練習を最も重視する人もいるのは、一人では正確に”勁”を感じることがほぼ不可能に近いからだ。力は対象物があることで認識が可能になる。自分一人では自分のことが分からない、相手がいて初めて自分が分かるようになるのと同じことだと思う。
師とは機会があれば手合わせしてもらうに限る。
その力を驚くことなく身体に記憶させておけば、いつか、その身体の記憶が役に立ち、ああ、あの時師父はこう力を使っていたのか、と分かる時がきたりする。力の感じ、身体の感じ、気の感じ、全て身体に記憶させておく(脳ではないからそんなに頑張らなくても覚えているものだから面白い)。
師父の力には、無理やり、と言う感じが全くない。無理やり引っ張られる、とか無理やり連れ回される、のではなく、いつの間にか引っ張られている、いつの間にか打たれてる、そんなものばかり。太極拳は瞬間技。瞬間技のためにあんなにゆっくり練習する。まあ、ピアノの練習もそんなところがあるかなぁ。極遅で完璧に弾けるなら極速で弾けるとか。
とはいえ、オンラインでは対人練習ができないのが残念・・・いつか対人練習するために一人の時は一人でせっせと一人でできる練習を積み重ねるしかない。あとは縁を待つ。
2020/5/29 <期間限定オンライン個人レッスンのお知らせ>
6/6(土)〜6/14(日)、オンラインレッスンが可能です。
時差があるため、開始時間は日本時間16時〜20時になります。
zoom、LINE、skypeなど使用できます。
レッスン料は40分まで3000円、60分まで5000円です。
レッスンご希望の方はお問い合わせから連絡をお願いします。
〜裸足族、少しずつ増えている? 私を含めて皆が口を揃えて言うのは、足元がポカポカ。足からポカポカする感覚は練習後も続きます。丹田がポカポカでなくて足がポカポカ。足元が冷えやすい女性はその違いは顕著なはず。婦人科系の病気は冷えからくるので足元がポカポカする裸足練習は本当におすすめです。靴を脱いでここまで感覚が違うなら、いっそのこと、服も脱いでしまいたい! とまで思ってしまいます。小さな子供が服を着せられるのが嫌で真っ裸で走り回る気持ちが理解できるよう。
2020/5/28 その2 <そして、今朝、ブログの読者の方から嬉しいメールが届きました!>
早速裸足練習を試してみたら効果覿面だった、という話。
裸足練習の具体的な効果が良く分かる文面なので、本人に了承を得て一部ここに紹介します。
『いつもありがとうございます。
今回の裸足練習も私には、またまた満塁ホームランでした。
庭に出て裸足で太極拳の練習をすると、すぐに下丹田が地の氣で満
裸足で動くときは体丸ごと移動しないと足の裏が痛くて動けません
また、靴を履くことに何の疑問も持たずに50年以上生きてきましたが、
本当にありがとうございました。』
色をつけたところは私が強調したいところです。
その後のメールでも、靴を履くことによって足裏から脳に伝わる刺激が激減し、様々な身体の不調の原因になったかもしれないとの指摘や、裸足で練習した後に足裏がずっとポカポカして身体が喜んでいるのが分かる、ということも書かれていました。
足裏ポカポカはまさにその通りで、私は套路練習で足裏ポカポカしてくると、その後馬力が生まれてきて身体がもっともっと動きたくなるのが分かります。足裏ポカポカは馬力を生む、そんな感じ。馬力、みなぎるパワー、それは下から生まれてくるよう。これが大地の気の効用なのか?
私の今住んでいる家は3階。タントウ功をほとんど家ではやらないのは足裏が大地の気を捉えにくいからかもしれない。以前11階の部屋でタントウ功しようとしたことがあるけど、その時は下がすっこ抜けているようで5分くらいでやめてしまった。坐禅はそこまで感じないかなぁ(お尻は鈍感?笑 実際にどうかは分かりません)。
私は今、ヨガをやる友人の影響で太陽礼拝もどきのことも試しにやっているけれど、太陽にしろ、大地にしろ、どれだけ使ってもタダのものは使うべきだ、と思う。自分一人で頑張ってエネルギーを産出しようだなんて思う必要はない。人の力も借りて、太陽の力も借りて、大地、水、食べ物、木々の緑、空気、良い言葉、良い音、良い笑顔、良い話・・・自分のエネルギーを高めるものはなんでも利用すべきだと。逆にエネルギーを下げるもの、悪口陰口批判やダークな話題からは離れるべき。このご時世、不安にさせる報道やSNSなども多いので要注意。自然に寄り添っていればまず安心。不安になりそうだったら自然に戻ろう。
2020/5/28その1 <裸足練習 4日目>
裸足練習4日目。今日は最初から裸足。裸足で師父と転腿を始めた。
ムムム・・・私の方が優勢ではないか?と脚を合わせて回し出した瞬間にそう感じる。いつもは自分の脚を回すのに精一杯なのに、今日は師父が身体のどの部分の力で脚を回しているのか察知できてしまう。ああ、今はお尻あたりから繋いでるのね、それなら・・・と私は一気に両肩甲骨の間、胸のだん中のツボの背中側(神道ツボあたり)まで繋いで膝を回してみる。案の定、そこまでまだ繋いでない師父は重心を逸した後回転してどうにか戻ってきた。
私は悦に入って、「中心軸が長くとれてないから侵入できてしまう、含胸が足りませんね。」と笑いながら言ったら、「私はまだ股関節を調整していたからそこまでは繋いでない。」と師父。ああ、そういえば転腿は別に相手を倒すものではなく、相手の力を気遣いながら相手に合わせて徐々に気を通していくもの、相手の状態を無視して一方的に力で攻めるのは太極拳の原理と反することだった。裸足だと一気に背中まで繋げられたので、嬉しくて思わず相手のことを考えずに攻め込んでしまった・・・相手が生徒さんだったらそんなことはしないのに、師父だから思いっきりやってしまったのだけれども、不意をつかれて重心を逸してもとっさに転腰して(腰を回転させて)元に戻ってこれるのはさすが師父。いずれにしても、通常なら私の力はこのくらい、と師父が思っていた以上の力が出たのは間違いない。
(靴を履いて足を踏ん張って太ももに)力をこめて太く短く力を出すよりも、(裸足になって=足裏を空にして)勁を長くする(身体の中で脚のラインを長くつなぐ)ことによって細く長い力を出す方が、実際に労少なくして相手を崩すことができる。それは、前者だと筋肉対筋肉:力の対決になるのに対し、後者だと直接相手の中心軸を崩すことができるからだ。今日、はっきりとそれが分かった。
そして套路練習。24式からやり始めたが、裸足、痛くな〜い!
えっ、今日は痛くな〜い。痛くないどころか、地面が友達、支えになってくれているようにさえ感じる。安心して地面に着地できる。足指が土を掴む、蹴る感じもとても心地よい。擦っても痛くない。
4日目にして地に対して安心感が生まれたかなぁ。不思議。
24式、48式、46式、とやった後で、師父が私に、(私が苦手だった)二起脚がえらく上手になったなぁ、と褒めてくれた。私も気づいていたけれど、裸足だとジャンプがとてもしやすい。ぴょ〜んといつもより軽くジャンプできるのは足指先端が使えるおかげ。靴を履いていると私はとても不自然な二起脚しかできなかった。
なんで今日は足裏が痛くなかったのだろう?と師父に尋ねたら、師父は、身体が松してきたから足裏に気が降りて、その結果足裏が痛くないのだろうと答えてくれた。私は、足裏が痛くないから身体が松したと思うのだけど・・・また、卵が先か鶏が先か、のあの話(苦笑)
2020/5/27 <裸足練習 扣になる>
今日の裸足での套路練習、なんだ、足を扣(お椀をかぶせたような形)にすれば痛くない。土踏まずは足の中央は浮いていて、地面に着いているのは(上手くできていれば)踵と足指先端(足指べったり、ではなくて先端のみ)、それに足の外側のラインが少し。
足指の先端は地面をしっかり蹴っても痛くない。足裏全般は小さい砂つぶを踏んだだけでも気になる程皮膚が敏感なのに、足指先端は比べ物にならないほど強力。足指がべったり地面に着いていると先端の力が使えない。扣にして足指先端だけ地面に着いた状態でいることによって、しっかり蹴りきれ、他の部分に負担かけることなく重心移動ができるのだと納得。以前師父にビデオで指導してもらった時に、なぜ足の指が伸びているんだ!と何度も叱られたけど、確かに、足の指が伸びていては正確な動きはできないのだと裸足になってやっと納得した。
靴を履いていると自分の足が扣になっているかどうかはチェックし辛い。きっと足全体が覆われていて全体に刺激があるから、自分の足のどこの部分を使っているのか特定の刺激を感知できないのだと思う。ましては、クッションが入ったり機能性を高めた靴など履いていたら、自分の足の感覚は薄まってしまう。足はとても敏感な部位だけれども、足を守ろうとするばかりに足の感覚が麻痺させられてしまっているのかもしれない。
裸足でやると、バカみたいに足を踏ん張れない。靴を履いていると知らず知らずのうちに足を踏ん張って、足首を固めてしまっているようだ。
今日の師父との転腿の練習では、最初は靴を履いてやっていた。靴を脱いだら師父の力に耐えられないと思っていた。師父の腿は重いからそれに対抗しようとすると足を踏ん張りがちになる。踏ん張ったら回しづらくなって更に踏ん張らなければならなくなる。足を踏ん張らずに、徐々に腰や背中、丹田、と上部まで繋げていって(クワから下の脚ではなく)繋いだ長い線を回すようにすれば足、や腿を頑張らなくてもいつの間にか師父の力と釣り合うようになる。そう頭では知っているのだけど、身体はそう簡単についていかない。頭は一瞬でわかっても、身体が分かるには時間がかかる。
30分回してくれれば身体が徐々にそこまでもっていってくれていただろうけど、師父は最近15分くらいで転腿を終了してしまう。私は不満足なまま。15分で繋げ、ということなのかもしれないけど・・・。と、そうだ、と靴と靴下を脱いで、師父にあとも少しだけ転腿をしてくれ、と頼んでみた。師父は裸足でやるのか?と怪訝そうな顔をしたが、私は実験してみたいからお願いします、と頼み込んだ。
で、裸足で転腿。あ〜、足首が回りやすい。足裏が地面を突っ張ってくれるから、上半身まで脚が繋がりやすい。さっきまで靴を履いてやっていたから、その違いは明らか。靴を履くと力は足裏へ下向きに落ちる。足裏が地面を踏みしめて動かなくなる。が、靴を脱いで裸足になると、足裏から上向きに力が通るようになる。地面を蹴ってジャンプする直前の足裏だ。だから土踏まずや足裏中央が上がって踵と足指先がメインで地面を蹴るような感じになる。アキレス腱が長くなり足首や膝が回りやすい。膝に負担がかからなくなる。
裸足練習後なんでこんなに疲れるのだろう?と師父に聞いたら、それは松してないからだということ。足元が気になっていつものように力が抜けない。それはあたかも、スケートをしたことのない人がスケートリンクに上がって恐る恐る滑り出す、そんな感じだとか。凍った地面を歩く時も疲れるだろう?同じ原理だ、と。が、一度慣れればスイスイ滑れる。そのためには全身を調整しなくてはならない。そういうことだとのこと。
だからかなぁ、屋内で裸足で練習したことはあったのだけど、その時は特になにも感じなかった。検索してみたら、芝生で太極拳をやってとても気持ちよかった、というブログもある。私が今回全く違った感覚を得ているのは、地面、土の状態がそれほど良くないから? まだまだ分からない裸足練習・・・。
2020/5/26 <裸足で練習して気づいたこと>
少し前から土の上で裸足で立つ時間をとるようにしている。
裸足だと何が違うのか? よく言われるようにグランディングが良くなるのか? 地の気を感じるのか?地の気を吸えるのか? 試してみよう、と思った。
土といってもパリの公園の土だからか、砂利っぽくて土がそれほど深くは感じられない。少し湿っていたり、小さな尖った石ころもあったり、枝が落ちていたり・・・まずは立つ場所の土をきれいにならして、そこで動功をしていた。
靴を穿かないと、まず、足首が動きやすい(周りやすい)。靴を履いていると足首の動きが制限されるようだ。(別にショートブーツを履いているわけでもないのに。なぜだろう?)
そして昨日、24式を師父についてやった後、そうだ、試してみよう、と続く48式は裸足になってやってみた。師父は私の前でやっていてこちらを振り返ることもほとんどないから気づかないだろうし・・・まあ、気づかれても困ることにはならない・・・と、動き出したら、足裏、痛い!
同じ場所で重心移動しているくらいなら痛くはないけれど、一歩前に出たり後ろに退いたりするたびに足裏が痛くて辛くなる。あ〜失敗!24式の時に裸足でやればよかった、と後悔。48式は飛んだり跳ねたり蹴ったり、脚を使った動きが多く、足が着地した時に足裏を擦る可能性がある。芝生だったらマシだったのかしら?と思ったところで時遅し。師父の立っている場所の方が土がきれい、もっと土のきれいなところでやるべきだった・・・と後悔の心が出てきたけど、一旦始まったら最後までやるしかない。仕方ない、と足裏が痛くないように気をつけながら48式を続けた。
と、48式が終わりに近づいた頃、足裏が痛くないような着地の仕方を発見!どろどろ順番に動くのではなく、一気に動けばよいんだ! 力は足裏から発する、とか思って、足から動いていたら足裏が痛くて仕方がない。足から動くのではなく、全身丸ごと同時に動けば足裏の痛みはほとんど感じない。身体の中に時間差があると足裏の痛みを感じるんだ・・・。
その次の46式もそのまま裸足で続行。
無事全部終わって師父が振り返り、私の裸足姿を見て、うん、それは良い練習だ、と言った。
今日は24式、48式、46式、一通り全て裸足だやったけど、頭でどう動くべきかは理解できたものの、全身丸ごと同時に”ゆっくり”動く、というのは骨が折れる。疲れる。
昨日も今日も、練習の後家に戻ったらへとへとで昼ご飯食べながら眠たくて仕方がなく、箸持ったまま寝てしまいそうだった。子供のようだ・・・と心の中で笑ってました。それほど疲れた。
足(踵)から力が発してそれが腰に伝わってそこでターボがかかりエネルギー(気)が増幅して手(拳)に伝わる
そう聞くと、力が 足→腰→手 と順番に伝わるように理解しがち。
意気力も意(will)→気(energy)→力(power)と理解しがち。
私はずっとそう思っていたけど、今回パリに戻ってきてから師父やピアノの先生に真っ先に学んだのが”時差なし”、同時、ということ。
足腰手、や、意気力、は横並びに書くべきでなくて、三文字重ねて書くべきだった、という大発見。もちろん、そのためには気が全身に満タンになっていて、蛇口をひねれば水が出てくる、という師父のたとえのようになっていなければならない(*これも図をかけば簡単に説明できるのだけど・・・)
裸足で練習していることを友人に言ったら、エチオピアのアベベは裸足で走ってマラソンの金メダルを取ったことを思い出させてくれた。エチオピアでは裸足で走っている子供も多いようだが、靴が買えないという事情もある一方で、訓練として裸足で走る方法を取り入れている場合もあるようだ。
裸足で走ると”足裏全部で着地する”ことが分かるという。
足裏全部で着地する、これは言い換えれば、足裏どこにも均等に力がかかるように着地する、ということ。踵からつま先に向けて順次に体重を移動させない、ということだ。
着地する時には着地する足の上に全身が乗っかってなければならない。
ほとんどジャンプの連続?
そして初めてアベベの走り方を見たけれど、虚霊頂勁がずっと維持され頭頂がブレない、顎もしっかりひけて、肩は沈み、胸も突き出さず(胸郭が大きい、肺活量が大きい)、丹田が収して(会陰引き上がっている証拠)、中正がしっかりとれている。乱れない。それは走り終わった姿、表彰台に上がった姿でも一目瞭然。
少し調べたら、実際に裸足で走る練習をしているアスリートの方のブログがあった。
このブログに書いてある裸足練習の末の気づき、それはまさに私がこの2日間で感じたこと、そのものでした。
①胴体を使って走ること。
=(私)胴体を使って動くこと(脚で動かない、手で動かない、丸ごとで動く)
②人間としてあるべき身体の使い方ができているのかどうかを身を以て知ることができること
=(私)丸ごと使えていないと足裏が痛い、もしくは足裏かばって膝が痛い、屁っ放り腰になる、そして足裏かばって着地するとよけいに足裏が痛い結果になる。
裸足でやると足裏にしっかり体重をかけることになるだろう、と思っていたけれど、やってみると真反対。足裏に乗る体重を減らすために胴体を軽くしようとします。会陰はもっと引き上げて、上半身はもっと軽く。知らなかった〜、上半身を軽くするための含胸、含胸で肺の中の空気量は増大する、浮きやすくなる。水泳なら肺は浮き袋。肺に溜めていないと沈んでしまう。
そう気づいて、隣の芝生で練習していた年配の太極拳サークルの人たちの動きを遠目にみたら、肺がしぼんでしまっていて上半身がどかっと下半身の乗っかって、下半身が重圧に負けまいと必死に頑張っているようだった。こうやって膝などをこわしてしまうのだなぁ、と。上虚下実の意味を見直さなければならない。下実になるために一旦は肺の気を下に落とし込むようにするが、動く時には肺に戻さないと下半身が重すぎて動けない。身軽な動作はできない。そのあたりはまたいつか整理します。
と、明日も裸足・・・足裏痛いし気づきもあったからもう良いかなぁ、と思ってたら、帰り際に師父が1ヶ月も続ければ足裏がしっかりして痛くなくなる、と一言。ああ、1ヶ月は続けなきゃならない・・・やり出したのだから足裏がへっちゃらになって、裸足でも靴ありでもどっちでも構わないと思えるまでやれ、ということかなぁ。
2020/5/24 <扣kouの正体、指先から気が出る、会陰と太ももは頑張って引き上げる>
今日たまたま見たバレエダンサーの家練の動画。あ〜、なんて手足が長くてきれいな男の子・・・としばらく見ていて、あれ? あー、そうだったのか〜、とずっともやもやしていた足の”扣”の要領が頭の中ではっきりしました。
足はつま先に力を入れない、お椀を被せたようにする(扣kou)、と何度も師父に注意されてきたが、つま先に力を入れないとべた足になるし、足裏の湧泉や土踏まずをを引き上げて扣にしようとすると足(foot)全体が亀の甲羅のように固まってしまったりつま先に力が入ってしまったりする。
実験してみると分かると分かると思うけれど、もしべた足で前後や左右の重心移動や馬歩をすると間違いなく膝の上に重さがかかってくる。太ももがグッと固まって太いソーセージのようになる。べた足は間違いなくNG!
土踏まずや湧泉は引き上げなければならないが、会陰を正確にきちんと引き上げていればそれらも引き上がるはずだが、直立した時に土踏まずや湧泉が引き上がるように会陰の引き上げを調整して双方から調整していく必要がある。
最終的に目指すのは、足の中の骨が総動員されてアーチを描き、内踵に落ちて来た身体の重さが指先から地面へと流れ出ていくような使い方。東京タワーの体重がアーチを描いた土台によってうまく地面に分散して抜けていき、それによってとても安定する、倒れない、そんな原理に近いと思っている。骨盤がアーチ構造なのと同様、それぞれの足もアーチ構造のはず。
2018年の練習メモで、バレエのチャコットの「つま先を伸ばす」というブログからこんな写真や記事を紹介していました。
(https://www.chacott-jp.com/news/useful/lecture/detail001174.html)
「やはり趾はパーに広げて伸ばす」と上中央の平筆のような足をよしとして、
「趾を丸めて縮めるグーはNG」と、右端のような足をバツとする。
記事を読んでもっともだと思ったのだけど、その時の疑問は、「扣にしたら指先が熊手のように開いたままにはならない、趾は丸くなる。でもグーはダメだなんて、じゃあどうなる?」というものだった。
そして今日、たまたま見た美しい動画で、あ〜、そうだったのか!といろんなことに同時に気づいた。
注目したのは最初に出てくる足の曲げ伸ばし。ポワント(つま先まで伸ばす)とドゥミポワント(半分のポワント)。
あ〜、これが扣だ!(左の写真)
上のチャコットのグーの写真との違いは分かるかしら?
きっと足(foot)だけ見たらどちらも同じに見えてしまう。けれど、気の流れは全く違う。
左の足は指先からうっすら気が流れ出て行くような使い方。
チャコットのグーは気の逃げ場がなく足にこもってしまう。
それがはっきり分かるのがこの左のポーズ。
足首、踵が床から離れているのに注目!
(踵が床に着いていたらグーになりがち。離しておくとグーになれない。)
このポーズを真似したら謎が解けました。
だから師父はああいう風に圧腿を厳しく指導するのだなぁ、と。膝裏が伸びない、太ももが押し込めないと怒鳴られる(苦笑)
もちろん会陰の引き上げもマスト。彼のように両手をあげると会陰は引き上げやすい。
足の扣は全身で作るもの、足のグーは足で作っただけでした。べた足は論外。
(扣にしてしゃがんでいくと膝にかかる力が削がれていくのが分かる)
内功の11番目の乾坤開合法を紹介した動画の中で、手足を大きく開いた形が星型(頭と両手、両足)になると言ったと思うのだけど、この5点は身体の末端でどこも通路がわずかに開いていて外界と気の出入りができなければならない。頭(百会)が”虚霊”と言われるように、手足の先端も頭頂と同じように外界に通じている必要がある。バレエダンサーだけでなく気功法やヨガでも、指を更になが〜くして、とか、指先から水が出ているイメージで、というのはそのため。拳を握っても空拳。自分の中で気を堪えない。外に抜く。溜めるのと同時にそれを抜けないと圧がこもってしまう。(下痢も便秘も好ましくないのと同じ?)
中医の先生が、家族が脳溢血になった時は救急車を待っている間にその人の手指の先を針で突いて少し血を抜いてあげなさい、と言っていた。手先足先が詰まっていると心臓や脳にかかる圧力が高まってしまう。
それにしても上の彼のような美しいポーズはなかなかとれません。会陰や股間、太ももの押し込みに使う力が半端ない・・・この太ももの力の使い方は(完璧にできないにしても)覚えておくべき。ほとんどの人が反対向きに太ももを使っている。太ももは引き上げて股間に近い側の力を使う。膝は引き上がる。しゃがんだり中腰になる時も太ももは(腹や股間やお尻に向けて)引き上げ続けなければならない、緩めてはいけない。太もも一周、前も後ろも内も外もすべて引き上げられていたら、その時は足は彼のように扣になっているだろう・・・少しでも近づきたい。
ロックダウン中、たくさんのダンサーが家練の動画を出していたけれど、彼は格別きれいだ、誰だろう?とその後調べたらなんとオペラ座のエトワールでした。なるほど。バレエダンサーの中でもピカイチ。足もきれいなはずだ。ロックダウンだからこそ見せてくれた生足。感謝です♪
2020/5/23 <第9式 前蹚拗步の技の説明>
昨日の続きで第9式。
字幕をつけたので説明は動画を見てください。
何気ない太極円の中に挒(リエ)が隠れているとは思いもしなかった・・・。
挒(リエ)は関節を痛める技で対人練習する時は十分気をつけなければならない。が、相手を使って練習したことがないと力の使い方が全く分からない。動画撮った後で、挒のツボは中丹田だったと思い出しました。相手がいると目先に気が奪われて肝心なことを忘れてしまう。
靠もまだまだ練習の足りない技。46式にたくさん登場するから少しは慣れてきたけれど。
生徒さんに師弟漫才のようだと指摘されましたが、実際私も自分で見て笑ってしまいました。
師父はいつも大真面目で全く笑わない・・・。歯車がズレて噛み合っているようです(苦笑)
2020/5/20 <言葉とイメージと体験>
はっとする絵。
自然と一体になるとか無為とか無我とか言いながら、無意識にそうなっていないか?
言葉、コンセプトは、絵や図、イメージになって初めて意味が鮮明になる。
太極拳、その根底にある中国文化はイメージ=象(xiang)の文化。漢字がその代表格。
私たちはイメージでコミュニケーションしている。
言葉はイメージを作るのを助けるためのもの。イメージの浮かばない言葉は無意味では?
無我を絵に書きなさい
と言われてどんな絵が描けただろう?
正しいイメージが描けられるような学び方、教え方が大事になる。
正しいイメージのない空の言葉を使ってはいけない。
とはいえ、イメージは体験に基づいている。体験がなければイメージが浮かばない。(にんにくを食べたことのない人はその味や匂いをイメージできない。)
まずは正しい(真の)体験が必要なのでは?
結局は先に体験ありき。
新たな体験をもたらせてあげられるような指導ができるのが指導者の醍醐味。
そのためには自分が毎日新たな体験をしていかなければならない。常にフレッシュであるように。
2020/5/19 <笑うは百薬の長 舌抵上顎 衛気>
あるサイトで目にしたこんな言葉。
One minute of anger weakens your immune system for 4 to 5 hours.
One minute of laughter boosts your immune system for 24 hours.
1分怒ると免疫システムは4~5時間の間弱くなる。
1分笑うと免疫システムは24時間高められる。
笑うのは身体に良い、というのはよく聞く話。怒りや笑いが免疫システムにどう影響してそうなるのか詳しくは分からないにしても、そうなっていてもおかしくないだろうなぁ、と思う。
以前中国のテレビ番組の中で中医の先生が、女性でよく怒る人は乳がんになりやすく、怒りやストレスを堪えがちな人は婦人科系の病気になりやすい、と言っていたが、じゃあ、どうやって怒りやストレスを発散するのか?という問いに、「笑ってください」と答えていたのを覚えている。
笑いは百薬の長。
今更ながらだけど、思い出さなければならない。
今日早速その話を師父にしてみた。そうしたら、
笑一笑,十年少。
愁一愁,白了头。
(笑っていると10年若くなる。憂えていると頭が白くなる。)
という言葉を教えてくれた。中国語で読むと抑揚、リズムが一致していて歌のよう。
ヨガをやっていると、そのインドのマスターはポーズを持続して辛くなってきたころに「はい、ここでhappy smile♪」 「Happier!」と声をかける。そして辛いけどそうしてみると、不思議なほど楽になる。どうしてだろう?と身体を観察していたら、happyをやると胸(肺)が広がって胸から上がふわっと浮いたようになる。苦しくなってぐっと堪えていた力がふわっと外に抜けていく=つまり、一種の放松になる。外に抜けるとhappyになる(決して内側の気がなくなるわけではない、放射線状に限りなく伸びていく感じ)。身体の内側にこもっているとキツく重くなる。
太極拳や気功法で、虚霊頂勁して百会を抜いておく、足裏の湧泉を開けておく、両手の労宮のツボを開けておく、というのが同じことなのだけど、それを達成するにはまず丹田の気の量を増やして、最低でも、頭や両手両足の末端まで気を送り出しても中心の丹田が消えてしまわないくらいの丹田力が必要になる。が、そもそも丹田の気を養う時に”むっつり”していてはいけないことをこれまで指摘するのを忘れていなかったかしら?
口がへの字になっていたら丹田に気は溜まらない。
やってみるとわかると思うが、会陰が引きあがらないから、気が沈み込んでしまう。下が重くなると同時に上半身が死体のように下半身に乗っかってきてしまう。子供が嫌々ながらふてくされて片付けをするような感じ? この下半身の重さは上虚下実の”下実”ではない。
気功法では、少し口角を上げて、と指示されることがよくある。
内側で面白くなくても、口角を少し持ち上げると、ふてくされ感が減少する。胸の気が持ち上がって軽くなる。
太極拳の上顎に舌を貼り付ける、上顎を舌で支える、という要領も口角を持ち上げ微笑したようになる。
これで胸から上の気、プラーナ(胸の気=宗気)やウダーナ(首から上、頭部の気)をふわっと持ち上げる。するとその気が身体をとりまくようになってヴィヤーナ(全身を取り囲む気)を形成する。ビィヤーナは衛気に相当するようだから、これによって外界から邪気が体内に侵入するのを防ぐことができる。
腹の丹田に真剣に取り組む時に微笑を忘れない。
うまく行かなくても笑う。うまくできない自分を笑う。
笑うと気が増える。
真剣でも深刻になってはいけない
<今パリで見かける広告>
パリ市の広告ですが、さすが、色、デザインが良くて絵もかわいい。そしてユーモア・・・
決して脅したり命令しない。街を見るとマスクなしの人もかなり多く、緩すぎる感も否めませんが(苦笑)
①パリでは私たちはタッチなしで挨拶します。
②パリでは私たちは良い習慣を実行します。(手洗いや殺菌・・)
③パリでは私たちはその”流行りのアクセサリー"なしでは外出しません。
2020/5/18 <呼吸法 喉を開いておく 舌抵上顎 口で吸う>
今日は時間が空いたのでzoomで生徒さん達と練習・・・と言いつつ実は私は皆を実験台に使っているような面もある(苦笑)
早速試して見たヨガのウジャイ呼吸法。Ocean Breezeのように喉でスーと息の音を立てて呼吸をする。吸う方は難易度高くすぐに太極拳には応用できなさそうなので、簡単な吐くほうだけ、とやってみてもらった。喉でocean breezeのような息の音を立てて吐き続けると、無意識に息を止めてしまう、ということが回避できる。内功の第一番目の降気洗臓功で、両手を頭の上から下に降ろして行く際、息は当然吐いていくのだが、よ〜く注意していないと、両手が胸の位置からさらに下に降りる時には息が”んっ”と喉で飲み込んだように詰まってしまいがち。息を止めてしまうと腹まで息が通らない。それを回避する一つの方法として、ヨガでは、喉で音を出し続けることで喉が開いた状態を維持する、という方法が考案されているようだ。
以前ブログに書いたかどうかは忘れたけれど、立位で膝を伸ばしたまま前屈する時にマスクをつけてやってみると、マスクをつけないでやるよりも楽に前屈できる。それは確かロルフィングか整体の人が本に書いていたのだが、そこにはなぜそうなるのかの説明はなかった。が、私が自分で試してみて気づいたのは、マスクをしていないと、前屈していって胸が曲がったあたりで呼気が一旦止まって(詰まって)そこでさらに息を強めて吐いていかなければならないのに対し、マスクをすると、息がつまりそうになったところで自然に吸気に変わっていく、ということ。マスクをすると、俯いていくうちに鼻呼吸がし辛くなって身体が勝手に喉を開いて息を取り入れようとしてしまう。喉が開くと身体(背骨)の柔軟性は高まり結果として前屈がやりやすく感じる。
一方、マスクをつけないで前屈をした場合、通常は呼気で前屈を始めるが、前屈とともに首が曲がって喉が詰まると詰まったまま鼻から強烈に息を出そうと頑張ってしまう。息が喉から下に通らないので背骨は硬くなり、硬いものをむりやり曲げようとするからキツく感じる。
つまり、息を喉で詰めない、喉を貫通させることがとても大事、ということだ。
舌を多少巻き舌のようにして上顎に貼り付けるのも喉を開くため。舌が落ちると喉が閉じてしまう。
口呼吸はだめだ、とか言うけれども、”吸”という漢字には”口”がある。赤ちゃんがおっぱいを吸うのは鼻でなくて口。口で吸うのが吸う基本。ただ、赤ちゃんが舌と上顎の間におっぱいを挟んで吸うように、舌は上顎に付いて唇は軽く閉じていなければならない。口の中で吸えば鼻も吸っている。口の中の陰圧(口の”収”、後ろに引く)が大事。臍や目と同じ要領だ。
と、話は逸れたけど、喉を閉じない、のはとても大事。閉じると頭と胴体が分断されてしまう。
閉じると頭が一人歩きする。私が感じる限り、喉を開いたままにしておくと、妄想はできないのではないかしら? 脳が開きっぱなしになったようで簡単な足し算もできない・・・今・ここ、にいることしかできない・・・喉を開くことで丹田から脳まで一つになってしまうからかと思うけど。試してみてください、是非。
で、今日試したウジャイ呼吸法。私自身はヒット作だと思って紹介してみたけど、一人生徒さんがそのせいで頭がぼおっとして気分を悪くしてしまった。後で気づいたのは、この呼吸法の時には、腹はキュッと押し込んでいなければいけないということ。もし、腹を膨らませながら喉から息の音を出して吐いていったら・・・と試したら、私も頭がぼおっとした。
強力なメソッドはとても正確にやらなくてはならない。反省。
気功や太極拳ではそこまで無理に息を入れたり出したりしないから、少し間違えても許容範囲に収まる。やはり時間はかかっても自然にやっていくのが安全なのかしら?
そういえば、OSHOはヨガは男性の道、気功は女性の道、と言っていました・・・。
自分で道を切り開くか、道が開くのを待つか・・・
2020/5/17 <ヨガ、そしてカラリパヤット・・・>
昨日の”震”はまだまだ広がりと深みのあるものに違いない・・・
このロックダウンの時期に昔から友人に勧められていたインドのマスターのオンラインのトライアルコースを受けだしたのだが、ポーズもさることながら、様々な呼吸法が凄すぎる!
気功や太極拳ではもっばら自然呼吸、そして次第に腹式呼吸、と進めて行くところを、様々な呼吸法を駆使して息を増やし息を隅々まで吹き込んでいけるようにさせていく。その中には声を低くならせたり、オームやその他の音、マントラを使うものも多い。
ヨガの一つ一つの呼吸法にはそれぞれ目的がある。最終的には息が全身隅々までいき渡り、最終的には左の風船人形のように”周身一家”(身体が一つの空間で満たされる)ようになることことを目標にしている。
私たちは普通、四肢は胴体から離れているように感じたり、頭とお尻は別物だと感じたり、そもそも、私は手ではない、と思っている。しかし、もし ”私”=丸ごとの身体、になってしまうと、もはや、「私が脚を上げる」という論理はなりたたなくなってしまい、”上げたら脚が上がっていた”となるだろう。もはや、意→気→力、と時間差はなく、意気力は時間差なしで同時になる。
(実は馮老師が内功の動画でも何度もそのようなことを示唆していたが、それは丹田の気が身体の外枠まで広がって身体全体を一つの気で満たした時に感じられること。広義のポンの正体。)
ヨガで力強い呼吸を練習すると、その呼吸があたかも高い水圧でパイプの詰まりを吹き飛ばすかのように、身体の内側の開かない部分を突破することがはっきりと分かる。タントウ功ではそこまで無理やり圧をかけないけれども方向性は同じ。じんわり起こるのを待つか、自分の呼吸で積極的に道を貫通させるかの違い。上の風船人形を膨らますことを想像したら分かると思うけれども、胴体を先に膨らまして次に頭を膨らますところで息を一段強く吹き込む必要があるだろうし、そこから手や足を膨らましてぴょこっと出させるには顔が赤くなるほど頑張って息を吹き込まなければならない。それを一気にやろうとして血管が切れるようなことがないように、今日はここまで膨らまして見て、明日はまた最初からもう少し先まで膨らまして・・、と行ったり来たりさせながら、最終的には一気に全部膨らませられるようにする。 それが身体(フィジカル体)の目標で、そこから先は次の体の練習に重点が移って行く。
身体の練功については、それが息で完全に膨らめば、柔軟性や可動域も見違える様に向上する。内側からうにょ〜っと伸びてくれるので、外側の筋を引き伸ばした身体とは質の違ったしなりが出てくる。
と、インド武術、カラリパヤットの動画を見たら、うわ〜、柔らかい!
中国武術や日本の武道の祖先とは聞いていたが、日本に到着するまでに随分硬質になったようだ。
テコンドーや日本の空手をみると背骨がほとんど棒のように真っ直ぐだが、師父が言っていた様に、暖かい地域の人の身体は柔らかいから、気候によって身体の使い方が変わるのもある意味当然かもしれない。が、背骨はガチガチよりも子供の時のようにしなる方が運動面でも健康面でも良いというのは周知の事実。私たち日本人の背骨はなぜか固まっていてガチガチ(私の背骨も決して柔らかくない)。おそらく社会、文化、教育、いろんなものが関係するのだと思うけれど、固い人ばかり見ていると固いのが当然だと思ってしまう。強い部活に入れば自ずから上手になる、ということで、武術の祖先はこんな感じ、と脳に覚えさせておくのも無駄ではないと思います。特に太極拳は柔らかさとしなりが特徴。背骨や関節がガチガチではチャンスーはできない。
こんな風に動けるんだ〜動いてたんだ〜、とイメージで練習。
固めない、うにょうにょ動く・・・考えただけで笑える♪
<下の写真>
https://youtu.be/oI84oM_bJeg
上段の左背骨、肩甲骨が・・・
上段の右 足上げはもはや足上げではない。バッタになる。
https://youtu.be/EnsG0l41gf8
下段の左の女性は習いに来た西洋人。なかなか腰がしなれない(反れない)
下段の右側は先生。腰のしなりがものすごい。
左はイノシシの動きだったと思う。
真ん中が先生だとすぐ分かる。このくらい”尾骨から頚椎”までが繋がれば、腿に負担がかからない。お尻がここまで割れてやっと会陰まで使える。
右の女性は腰がしならない(=命門が活性化していない)ので背骨が首の下から腰椎までしか繋がっていない(だからしゃがんだ時に腿や膝に負担がかかる)。仙骨、尾骨まで使えるようになると首も繋がってくる。仙骨尾骨を活性化(動けるようにする)には命門、中丹田が操作できるようになる必要あり(左の先生と比較すると一目瞭然)。→太極拳の内功では採気功や開合法、帰丹田法などでそのあたりの練習を地味にしています。
2020/5/16 <拍打功 震の意味 十常四勿>
今日早速師父にお願いして拍打功(paida gong)をやってもらいました。
動画に字幕をつける作業をしていたのだけど、終わる直前に全て飛んでしまったのでギブアップ。私が師父の言葉を繰り返しているので動画を見れば分かると思います。
師父が強調していたのは叩き方。
”震”(zhen)という言葉を使っている。震脚の震。打ったらその震動、じ〜ん、というのが内側に響かなければならない。じじ〜んと鈍い感覚が響くよう、震動を中に入れ込むように叩く。叩く腕を放松して重力で重くして打つとうまくできる。太極拳の拳の打ち方と同じ。重い拳。相手の身体の中に衝撃が染み渡る・・・悪く使えば人を傷つけてしまうが、上手く使えば身体を養う、ドラッグと同じ?
ここで”震”の感覚が掴めたら”震脚”のやり方が変わるはず・・・地面の中に震動させて気を入れ込まなければならない。降ろした足が地面から跳ね返って来てはいけないということ。地面がじ〜ん・・・そして自分もじ〜ん
動画を見たら分かるけど、下半身は外側は胆経をたどればいい。内側は脾経をたどっていました。女性は特に脾経に気をつけて。婦人科系の疾患、冷え性などに関係ある。夜なら叩かずさする方がよい。
師父が紹介している三字熟語の連発
頭常理 面常洗 頚常擦 胸常摸 腹常揉 腰常转 四肢常揺・・・
原点は中国で最も長生きした乾隆帝の養生法”十常四勿”かな?
https://takeichi3.exblog.jp/28041014/
中国語だと三字熟語なので簡潔で覚えやすい。
<十常>
齿常叩 津常咽 耳常弹 鼻常揉 睛常转 面常搓 足常摩 腹常旋 肢常伸 肛常提
<四勿>
食勿言,卧勿语,饮勿醉,色勿迷
そして動画の中の丹田のハッ!
でんでん太鼓は心腎相済(火と水の相済→気の発生)を狙っていました。
2020/5/15 <拍打功の思い出 自分で自分を叩くと身体はどう反応するか?>
拍手功は最初師父から教わったが、北京で陳功老師に個人レッスンをしてもらった時も最後は拍手功でしめくくった。あの時はまず師父とは違った形のタントウ功を教わり、そのあと二人で向かい合って一時間弱立ったあと、次第に両手首の回転から腕のチャンスー、次第に太極円となっていった。当時は理解できないままただ真似をしたが、今振り返ると、あれが無極から陰用に分かれて太極になるさまをそのまま練功で再現したのだと分かる。
最後に拍手功を真似してやったが、両腕、両肩から胸腹。腰に移ってお尻から脚の後ろ側を下に降りて足をぐるっと回って前側を上がってくる・・・それは師父に教わったのと同じやり方だった。が、私たちが自分の身体を叩く時、どうしても自分では叩けない場所がある。それは背中。その時、陳項先生と言葉を交わしたような覚えはないからおそらくジェスチャーで、お互いにお互いの背中をパンパンと叩きあった。背中を叩いてもらう・・・野球やサッカーの選手がフィールドに出て行く時、コーチが後ろから、よし、行ってこい!と叩いてもらうのも背中ではないかなぁ?
背中を押してもらう、ではないけど、背中を叩いてもらうのはなんとも言えない気持ち良さがある。しかも陳項先生に叩いてもらえるなんて〜!
と、その後の御苑練習でも拍手功の最後に皆で列になって前の人の背中を叩いたりしていた。一人の練習では味わえない楽しさ。やはり気場を高めるには仲間がいた方がよい・・・ロックダウンではそれもできない。残念! 平常に戻ったら是非試してほしい、し、私もやりたい。練習はしかめっ面で一生懸命やるものではない。オリンピック選手の練習とは違う。少しお遊びがあると気が増える。
拍手功はパンパンと気を身体の中に入れ込むように叩くのがコツ。
パンパンほこりを出すようにはたくのではない。
練習の後で気の循環がよくなり皮膚が開いた状態のところで外の気を内側に入れ込むつもりで叩くのだ、と教わった。パン!と叩いたら叩いた手のひらで気を中に押し込むようにする、手のひらが多少ピタッと叩いた面に貼り付いたような感じだ。(台湾のサイトで、拍手功で死亡?なんていうのがあったけど、それは叩き方を完全に間違えている! )
中国のサイトを調べてみると、馮老師がやっているものは道家の拍手功だということが分かる。
下の老師はテレビ番組でそれを紹介していた。
しかし動画を検索していたら上の老師を除いて拍手功の模範になるものがほとんどなかった。馮老師や陳項老師、そして師父の動きを知っているからどうしても比べてしまう。
左の男性はまだ背骨が通っていない(命門が閉じていて上の老師のように頭頂から背骨、太もも裏、ふくらはぎ、アキレス腱 足裏、のラインが張っていない)から、帯脈(胴体の筒)がなく、くにゃくにゃしてしまう。頭が前に出て首が立っていない。上の老師のように”でんでん太鼓”になるようには身体が気で膨らんで”ポン”しなければならない。
自分で叩くことの素晴らしさは、自分である部分、例えば腹(丹田)を両手の拳で叩こうとすると、叩く前に腹が勝手に鼓のように膨らんで気のクッションを作ってくれるところ。ここには紹介していないが、師父は拍手功の最後はぽんぽこダヌキのように両拳で腹を3回、ハッ!ハッ!ハッ!と叩くことで締めくくる。ハッ!と言えば腹の気がぐっとさらに増えるのが分かる。しかも放松した柔らかい膨らみだ。もし、んっ!と言って叩いたら、腹の筋肉が硬くなってしまい気のクッションが少なくなる。実際に打たれた時はハっかハ〜で力を抜いた方が衝撃は少ない。注射をされる時に、んん〜と堪えるよりもは〜っと息を抜く方が注射針もスムーズに入るし痛みがすくないのと同じ。
腹がわかりやすいけど、身体の他の部分も同じ。太ももの胆経の風市を叩けば、太ももの側面が叩いてくる手を迎えるように膨らむのが分かる。叩いた箇所叩いた箇所がポンするのに気づくと自分の身体とはいえ自分の身体ではないような気がする。自分ではどうしようもできない部分の身体の反応をうまくつかうのが太極拳。だから、有意無意が真意、と言われる。太極拳は一生懸命やりすぎると掴めないのはそういうところ。意を使う、といいながらも、身体に任せることが大事。その辺りの塩梅はまだ模索中。
2020/5/14 <拍手功 ツボを叩いて身体で覚える>
今日は師父がお休みだったので一人でゆっくり練習。
昨日に引き続き内功は裸足でやってみる。足裏で地に立つと頭までまっすぐにそびえ立てるような感覚がある。天の気、地の気を真剣に意識できる。自分の足(feet)がどう使われているのか見ることもできる。どの足指がつかえていないのか、足のどのあたりの骨がつかえていないのかもよく分かる。足(feet)の中の骨、26個が全部使えていたらマスターレベルだろう。
足の中のある骨が使えていないから右腰が使えない(つながらない)、首が伸びない、というように、原因はくるぶし以下にあることが分かる。けれども、そんな足になってしまったのは、上部の身体の使い方が間違っていたからだろうから、これもまた、どっちを先に直せばよいのか、卵が先か鶏が先か、の議論になってしまう。結局、双方向から攻めていく(調整していく)しかない。
思った以上に身体が歪んでるなぁ〜、と自分の足や身体を観察しながらちょっとがっかりしたけれど、生まれてから今までずっと頑張り続けてくれたのだから労ってあげなければならない。古くなって多少傷があったり凹んでいたりしても一点物のアンティーク。丁寧に使って手入れをしてあげよう。身体は自分のもののようで自分のものではないのかもしれない。天からの借り物。使えなくなったら返還。借り物だと思ったらぞんざいには扱えない。
そんな風に思ったら、保健功がとっても意味あるものになった。
単純で簡単で、身体が喜ぶ。
今日は拍打功をやりながら、なんて賢い功法! と感動してしまった。
ただ身体や身体のツボをパンパン叩いていくだけなのだけど、身体がスッキリするのみならず、そのツボがなぜツボなのか、経絡の繋がりも感じられる。叩いた瞬間にその部分がポンするので本来の正しい位置に調整される。
身体を上からパンパンしていってみてください。
ここをパンパンするとどんな感じでどこに反応が出るのか・・・
<たとえば内関、手三里、曲池>
肘を開き(曲池)、力がこもりがちな前腕をほぐし(手三里)、手首を開き(内関)指まで気を通します。
特に下半身はツボを意識できてツボにひっかけて立つ、動くのが大事。
ツボを無視して使うのは故障のもと。
胆経の環跳、風市、陽陵泉は足の薬指へ、胃経の足三里は人差し指と中指へ、と叩けばその繋がりが感じられる。
←膝より下の大事なツボ
(https://ananweb.jp/news/189722/)
ツボは病気を直すために使うと思われているけれど、実は人間の身体が動く時にそれらのツボが刺激されているのだということが分かる。
動いているのにスルーして刺激されないツボがあったら動き方が自然ではないということ。
動き方が真に自然な人(癖がない人)は皆無に等しいにしても、目標は”自然”。
癖がなければ使いやすいし美しい。叩くと身体の癖も分かる。少しはとれる。
下のGIF写真を真似して是非やってみてください・・・
名称の入っていない4番目は極泉穴(腋の奥)、6番目は腎兪、11番目(血海ツボの次)は陽陵泉と陰陵泉を交互に叩いています。
ツボについて続きを書けたらまた書きます。
2020/5/13
11日(月)に外出禁止令が解除されたがパリの公園は相変わらず閉鎖中。ほぼ2ヶ月ぶりにメトロに乗って練習場所に向かったら、練習場所の公園は部分的に開いていた。久しぶりに会った師父はマスクをつけてフードも被って拍手功をしながら登場。一瞬誰か分からなかったが、あんな風に拍手功できる人は師父しかいない。
その日は10度以下まで気温が下がって風も強かったから短めに練習。
けれども、師父について練習すると一人でやるのとは全く違う。
横に立っているだけでその気配がこちらに影響する。あるレベルに達すると立ってるだけで普通の人とは違うのが分かる。修行者だと分かる。削がれた感がある。余計な雑なものが普通の人より格段に少ない。すがすがしい。
公園は全く手入れされていなくて荒れていたけど、それはそれで清々しい。
やはり外で練習するべき。
空と大地、太陽、そして緑。
コロナだのconfinementだのに全く無関係の自然界。
私たち人間だけがあたふたしている。
上からアリの集団を見て、あんなに慌ててどこに行くんだろう? と私たちが見るように、
私たちは見えているに違いない。
上を見上げれば全く違う世界があるのに、私たちの目は水平にしか見ない。
視野を高く広くするには心が広がる必要がある。心が広がるには身体のスペースが広がる必要がある。身体のスペースを空けて開けること、これが気を溜め気を通すことで、それが、”ポン”。
身体を萎縮させずに広げる。
ちまくなってはいけない・・・(こちらでNHK見るとそう思わざるを得ない 苦笑)
<下の写真>
練習場所。2ヶ月前は葉っぱがほとんどなかった木々が見違えるように葉を茂らせていました。
真ん中の写真:二人のうちの一人が猫を散歩させているらしく、猫は近くの大木を駆け上がっていったり降りてきたり・・・右写真はその拡大写真。猫が見えるはず。
犬は綱なしで散歩がこちらでは当たり前だけど、猫まで可能だとは・・・。驚きました。
2020/5/11 <目を引いて出す 丹田に引っ張り込んで出す 開合>
今日の生徒さんたちとのzoom練習でお遊び的に紹介した目をすっきりさせる功法。
テレワークやオンライン会話などで目ばかり酷使してしまうから特に大事。
子供の頃からすでに目が悪くなってしまっている異常な環境。上丹田ばかりが酷使される生活。
目をギュ〜っと引いて、突然パッ!と開く
それだけなのだけど、そんな単純な功法が効く♪
と、皆に紹介してやってもらったら、あれ、思ったほど効いてない・・・効いた、と感じないということは効いてない、ということ。よく見たら、パッと開いた手のひらの労宮も開いてない。
グッと握る、パッと開く
そんな単純な気功法はやるまでもないと思っていたけど、それが必要かもしれない
グッと握る、絞るのは肝の気、と中医学の講座で言っていたような気がする。
赤ちゃんはグッと握って開かない。指の間にほこりがたまる・・・
これは先天の気の強さの証拠。
グッと握れないとパッと開けない。
開合力、は、丹田力。握り込むのは丹田の気。目を引き込むのも丹田。丹田が目を引き込む。
目が上丹田まで引き込まれるのだけど、実は、上丹田は下の中丹田と下丹田へと引き込まれている。
覚者の目は下の丹田まで繋がっているから目の奥が深くてなんともいえない色合いがあると効いたことがある。瞬きをせずに目を見開いたままにする練習があるが、目を開いてその奥を腹の丹田の方まで引き込むと、確かに、瞬きをせずに長い間いられる。
本当はそんな難しいことを説明するつもりはなかったのだけど。
下の二つが馮老師による功法の紹介。
そしてこの下が、生徒さんに分かってもらおうと私がかき集めた材料。
ピンクレディはどの曲も全てマスターして踊ってたのを思い出しました。朝礼台に乗って皆に指導していたし、夏祭りで櫓の上でも歌った。ちびっこものまね歌合戦にも出たっけ(笑)
2020/5/9
昨夜書いた一文、
”一番下”は会陰・裆ではなくて足の裏では?
という質問はナンセンスなのにも(やれば)気づくのでは?
があまりにも無責任かと思い、朝、再度自分の動画を見直してみた。
中丹田と下丹田をつないで、命門から会陰(裆)まで気を下ろす(貫通させる)と足裏はどうなっているか?
骨盤から下で背骨をほぐしながら回した時の足裏はどうなっているか?
命門から会陰までつなぐと、足裏はしっかり地面を踏み突っ張っている。
足裏が地面に貼り付いて地面を推しているから、足首が”立って”回る。(足首は縦軸として立ってないと回らない。*身体の3つの縦軸:首、腰、足首)
骨盤から下でぐるぐるすると、足裏がぺらぺらして地面に着いてるところと浮いてるところがでてくる→足首がはっきりしない。足首が寝てる。(気は足首より上、ふくらはぎの下の方までしか降りていない)
そんなことがはっきりします。
とはいえ、自分の動画を見ると、左足首の回転が不十分。これは股関節がまだ開き切っていないため、自覚あり。
足裏がしっかり地面に貼り付いて腰柔軟に動かせる人は節節貫通ができている。
足首以下を見ればその人の功夫が分かります。
少しずす少しずつ練習するしかない。
内功の練習も丹田を作り動かしながら、徐々に(丹田を失わずに)下半身のクワ、膝、足首を回転させて通していけばいいと思います。
↓2つ並べると違いがよく分かる。
頭頂のブレ、肩の水平のブレ、体幹のブレ、裆(股、骨盤底筋)、腿の力の違い・・・
そして足首以下の違いも明らか。
なお、一番右は太極拳で打ったりする際の、腰、胯、裆(そして腿から足裏までの下肢)の動きの連携。この中丹田と下丹田の発動機で拳が出てくるのが太極拳の特徴。丹田がしっかりしていると腰が自由に動く。”太極腰”(太極拳は腰!)と言われる所以。) 肩がまだ抜け切ってないのが私の現在の課題・・・
そして下はノリで太極拳的に動いた時の丹田や腰の動き。左は打撃、連打、右は化勁で使うような速い丹田の回転。いずれも、腰、胯、裆(そして腿から足裏までの下肢)の動きが連携する。
この中丹田と下丹田の発動機で拳が出てくるのが太極拳の特徴。丹田がしっかりしていると腰が自由に動く。”太極腰”(太極拳は腰!)と言われる所以。帯脈回しの時の沈肩が不十分だ(苦笑)
2020/5/8 <バランスボールで中丹田と下丹田を使ってみる 裆劲>
ビデオレッスンで内功の復習をいていたら、生徒さんの弓歩の形がどうしても決まらない・・・身体がまっすぐ立たない。中丹田がしっかりしていない。中丹田がしっかりしないと頭が立たない。
生徒さん自身に自分の姿勢を見てもらおうと画面録画を始めたらそのまま撮りっぱなしになって私自身の教える姿も録画されてしまいました。教える時はアドリブが多いのだけど、今日も、そうだ!と転がっていた小さめのバランスボールを使って即興指導。生徒さんに動きを見せながら、そうそう、そうなんだ〜、と自分も学んでいるのがおかしい。自分で髪切ったこともあって頭ももじゃもじゃ、音声なしだとほとんどギャグ動画。何を教えているのか分かるかしら?
が、やはり上の動画では説明不十分かと思い、レッスンの余韻が残っているうちにバランスボールを使った動画を撮りました。
胴体を上中下に分ける(中医学の三焦の上焦・中焦・下焦に相当)。
胴体を上中下に分ける(中医学の三焦の上焦・中焦・下焦に相→ヨガの言い方だと、5つの広義のプラーナのうち、上焦の気(宗気)は(狭義の)プラーナ、中焦の気(中気)はサマーナ、下焦の気はアパーナに相当する:左の図参照)。
プラーナは呼吸器で取り入れる空気、酸素、軽い気。
中焦で食べ物を消化して下焦で吸収、排泄。
下にいくほど”気”は重くドロドロしてくるイメージ。
→上虚下実が正しい。
バランスボールに乗ると股間(裆)をしっかり使わざるを得ないので重い気が下に落ち、上虚下実になりやすい。気が会陰に向かって落ちると背骨が動きやすい、胴体が自由に動けるようになる。
中丹田は胴体を操る。
下丹田は脚(腿)を操る。
中丹田と下丹田を一体化させて一個の丹田にするのが目標。
これができれば上焦の気(プラーナ)は自然に入るようになる。中下を重点的に=体幹
動画でやったのは帯脈回し。中を回す。それには中下をつないで置く必要あり。
打撃も抖动も、動画の中では試していないけれど、きっと重心移動も、バランスボールに乗ってやれば比較的簡単にできるのではないか?
バランスボールを股でしっかり挟みこんでいれば裆劲がしっかり使える。分かりやすい。立位の馬歩や弓歩で裆劲を得るにはかなり内功を積まなくてはならない。腰とクワの要点をクリアして仙骨よりさらに下、長強穴や会陰、承扶穴あたりを使う(が、このあたりを使う頃には使った感がなくて股が浮いたように感じる)必要がある。バランスボールを使うとお尻=クワ(股関節)が開くので気が一番下(=会陰、裆)まで落ち切った感覚を経験しやすい。
”一番下”は会陰・裆ではなくて足の裏では?
という質問はナンセンスなのにも(やれば)気づくのでは?
だから古来からこの練習は命門から会陰までを下向きに開発していく、という手順で行われてきた。会陰までこぎつけば、下は足裏まで、そして上は頭頂まで気の道は開通する。裆劲を使えるということは虚霊頂勁ができている、ということ。そしてその頭頂と会陰に挟まれた部分の他の要領、沈肩やら含胸拔背 塌腰敛臀やらは全てクリアされているということだろう。
と、やってみるとそんなに難しい話ではないので、動画の中の説明を聞いてバランスボールで遊んでみて下さい。そっくりそのままできなくても乗って帯脈回しするだけで松して腰や股関節、背骨をほぐす効用やすぐに得られるはず。
2020/5/6 <保健功は面白い>
保健功が思いの外面白くて馮老師の歳を召されてからの動画をチェックしてみました。
ブルブル(抖动)の前に腿の放松の功法が2種類紹介されていましたが、この2つは劉師父が公園で一人でテキトーにやっているような動き。毎日何気なくやっていれば気がついたら片足立ちがふらつく、ということもないだろう。この程度は言われなくても毎日テキトーにやっておくべき。ちゃんと真剣にやるとこれは48式の蹬脚になる。
あのブルブル(抖动)については、膝と前後に関してはノーナレーション、金の鶏のブルブル(
金鸡抖翎)は”腰の放松”と言い換えられていました。そしてその後に、肩の放松が付け加わって、その中に爪先立ちから踵を下ろす動きが入れ込まれている。高齢になっても馮老師のブルブルはキメが細かい。ワサワサ震えずにさざ波のように震えられるのがレベルが高い(骨肉分離が進んでいる証拠)。
最後の『練眼神』=眼神(眼の奥の気)を出す練習は絶対にした方がいい!
スマホ老眼なのか本当の老眼なのか、老眼になるまえに近眼になる子供もとてもおおい現代、目を養うのはとても大事。ここで紹介されている功法は簡単だけど効く。
手の動きと合わせて馮老師を真似てやっていてください。
中医学で目指すのは、老齢になっても見えて聞こえること。簡単なようでこれをクリアできる人は少ないのではないかしら?
足がふらつかず、目がよく見え耳がよく聞こえる。
若い時には当たり前だったことがとても価値あることになってきた。
それぞれの器官のにはそれぞれ気(エネルギー)が割り当てられていて(先天の気)、気を使い果たした器官は衰え機能が止まる。大元の気の貯蔵庫である丹田の気を養いながら、身体の各器官に割り当てられるように導引する。それが内功であり、内功としての太極拳だと再認識しました。
2020/5/5 <保健按摩 その他>
内功13番目の保健按摩とその他2種類の(見かけは)簡単な功法を紹介します。
馮老師の動画に字幕をつけたので見てください。
1番目の保健按摩では大事なツボがいくつか出てきます。太極拳ではツボの知識が不可欠ですが、本来これは鍼灸師のように本で覚えるわけではなく、常にツボや経絡の名前を使って(太極拳の)指導を受けているうちに自然に身についてしまうようなものです。ここで紹介されているような叩いたり揉んだりするのもツボの体感を得る一つの方法なので実践してみるとよいと思います。ツボを叩くとビンとくる・・・
2番目の功法は踮脚踮背。踮脚(dianjiao)は踵を持ち上げて爪先立ちになるという意味。持ち上げた踵を下ろすことで身体を振動させる。踮背という言い方は普通はしないようだが、踵を持ち上げると背中も持ち上げたようになるのでそう表現したのではないか? 大事なのは降ろした時に身体が震えること。”震脚”は足の裏全体が同時に落ちるから身体の前面まで震えるが、これはつま先が固定されたまま踵のみが落ちるので背中側が震えるようになる。
3番目の抖动は3種類。両膝→前後→全身(有名な金鸡抖翎 )、右にいくほど難易度が高くなる。
やってみると分かりますが、抖动は見た目ほど簡単じゃない。
両膝を震わせるにしても、太ももではなく、膝、膝そのものを震わせるには、会陰や湧泉の引き上げ(脚の扣:土踏まずをしっかりあげること)が必要になる。私は左膝が不完全。(若い時に前十字靭帯を切ってそのままにしているから仕方がないのかもしれないけれど。)
前後の震えは下半身が前後に細かくふるわせられないとできないかな?
そして金鸡抖翎。鳥がブルブルっとして羽についた水を吹き飛ばす動きですが、これは腕や手を使って上半身をうまく震わせる必要がある・・・・昔師父からも習いましたがなかなか上手くできないのでずっと放置していました。改めてやってみると上半身がうまく震えない。どこから震えるのか?足裏からか?丹田からか? よくわからないので今日師父にビデオで指導を受けました。なんと、これは手と腕を使って上半身から下半身へ震えを伝えていく・・・師父から下半身の抖动は很好と褒められたけど上半身は今ひとつ。道を歩きながら、料理をしながら、思い出したら、抖、ブルブルっとできないか半日そればかりやっていました。ブルブル、っとするには・・・その前にタントウ功の形にならなければならない。骨肉分離できていない箇所はブルブルしない。課題が分かる。
子供ならそんなことも考えずに簡単にブルブルっとできるだろうに・・・が、老人になってもまだスキップしてたり、ブルブルっと震えられたりしたらさぞかし身も心も軽いことだろう。
2020/5/4 <抖动(ブルブル)から胯の松、松の意味へ>
週末土日にzoomで生徒さんたち十数人と練習してみた。
内功のおさらいが目的だったが、案の定、やってみると注意したいことがたくさん出て来てなかなか最後までたどりつけない。
一つ教えたかったのは含胸の重要性、と、その感覚を得る方法。
私自身、師父がなぜあんなにしつこく含胸を私に注意してきたのか、それが分かったのが今回パリに来てからだから、皆がその重要性を気づかないのは無理もない。けれども、その意味を知ってしまうと、一刻も早く教えてしまいたくなってしまう。性急すぎるのが私の欠点。
含胸ができるくらい首や肩や胸骨、胸椎まわりが柔軟だったら肩こりとは無縁だろう・・・そういう意味でとても大事。肩や首に力を入れずに頭部が支えられている大人なんてまずいないから、これができるようになるだけでもものすごいことになると思う・・・この点についてはまたいずれ書くことにして・・・
皆と練習すると気づくことがいろいろあったのだけど、その中でちょっと驚いたのは、練習の最後にお遊びがてらやった、身体をブルブル震わせる動き。内功の最後の保健功の中にある動きだ。
内功の動画の中で馮老師が膝をブルブルさせた後にやるのが、左のような動き。前後に身体をブルブルさせている(抖动)。
この動きのためには太ももを前後にブルブルさせられないとどうにもならないが、その太ももブルブルが思いの外皆うまくできていないのに驚いた。
案外多かったのは、股がカクカクして太ももが開いてガニ股と内股を繰り返すような動きになっているケース。太ももブルブルはスポーツをする前の準備として無意識にやりそうな動きだから教えるようなものではないと思っていたけれど・・・ん?何が難しいのか分からなくてどう教えて良いのか分からなくなってしまった。
が、練習後、グループラインで私との練習期間が最も長い生徒さんの書き込みを読んで、私も問題点が納得できた。
①ブルブルは前クワ(胯)の”松”ができるかどうかが問題。
②そして前クワの”松”のためには・・・・が必要。
そして、③”松”とは・・・・のような状態。
と、そんなことが分かるようなやりとり。
以下参考のため、適宜引用して紹介します。(ミソとなる点を太文字で強調しました。)
私「太腿ブルブル、案外難しいのですね。知らなかった...」
Aさん「うまく出来ませんでした😿」
Bさん「前胯パカッと開いている、会陰が引き上がってないとブルブルできないのでは?
私は先週までできなかった… 先週、鼠蹊部パカッと開かないように(内旋してます)」みたいなこと先生にLINEでやりとりして、その後自分をよく観察してみたらできてなかったという…自分のことは中々わからないものですね。
Aさん「前クワパカっと開いていてはいけない?」
Bさん「前胯開いていても鼠蹊部がきゅーっと引き込まれていれば、なおかつ前胯が力なく凹んでいないで引き離されていれば良いのだと思っています。
前胯が凹んでいても突っ張っているというか…
胃経が通っているというか…」
Aさん 🤔
私「 ”前胯が力なく凹んでいないで引き離されていれば”
”前胯が凹んでいても突っ張っているというか”
Bさんのその表現がまさに 前胯(鼠蹊部)の "松"
というか、実は、それが"松"の正体でした。」
お尻(後胯 環跳穴)の要領も同じ。
おしりのエクボ作ってるようだけどお尻の表面は膨らんだまま
これに気づくと、実は丹田もそうだったと気づく。
1 凹んでるけど凸してる
凸してるけど凹んでる
これが太極拳の原理。
結局、その隙間の中に居続ける...
まず隙間を開けるのが第一歩。
開けて隙間が見えてきたら、そその隙間を広げていけば良いです。
→結局それが丹田の気を増やすことだったとまた後で気づく。
私「話戻すと、Aさんだけでなく他の人も、前クワバカっと開いちゃダメです。
まあ、その時は会陰が緩んでる=漏れてる
内側の経、内踵側を繋げる必要あり→内旋が有効」
Bさんより思い出話・・・
「スキー⛷のウェーデルンの動きにそっくりだなーと思っています。学生のころを思い出しました🙂 コブ斜面を膝で吸収して滑る姿が印象的なウェーデルン。
ただ「膝を抜け」と教える先生もいるけれど、インストラクターからは「急斜面では前傾しろ!腹から足先までを突っ張れ!コブでは突っ張ったまま膝を曲げろ!そうすればコブを超えたら弾力で膝が伸びる!」と教わった。
不思議に思ったけれど、実際に滑って膝は曲げちゃいけないんだな、曲がるのだなーと納得した。腹で足先を突っ張って遠ざける感じを保ったまま膝を曲げても雪面を押し続ける、と当時は理解したのを思い出しました。懐かしいー🙂
私「過去の体験とつながってきましたね。」
皆どこかで体験してきている身体の使い方。気づくと、なんだ、あれと同じだ、と戻ってくる。実は、”戻る”、”思い出させる”ための練習なのかもしれない。
2020/5/1 <放松→丹田→節節貫通→放松→丹田 勁を通す>
太極拳は内功をその核心とするからこそいずれ”拳”を落としても内側での修行を続け”太極”の道を進むことができる。
馮志強老師が著書の冒頭で「私は太極拳を修めたが、太極の道に関して言えばやっと入門したばかりである。」と書いていたのはそういうことだろうと思う。太極拳は太極の道、自然との一体、存在との一体、この現意識をもっともっと膨らましたところにあるタオの入り口まで連れて言ってくれる身体の動きを使った修行法。無事に門にたどりつけば”拳”は捨ててさらに内側の修行に移行していくもの・・・・そんな風に頭では理解してそのように進みたいと思っていた。
と、今日、天気が今ひとつで気温も下がっていたため、家の下の箱のような中庭で練習する気になれず、運動目的の外出禁止でも買い物途中の散歩のふりをすれが大丈夫だろうと、近くにある公園に向かった。門が閉ざされた公園。いつもは門の近くに緑を求めて来るフランス人が結構いるのだが、さすがに天気が悪いと誰もいない。門の中の公園の樹々は数日見ないだけでさらに背が伸びたようだし葉っぱもびっしり詰まっている。放っておくと森になりそう、そうここは森の国・・・なんて思いながらしばらく緑を見ながら鳥の声を聞いていた。気がついたら(本当に気がついたのは終わってからだが)タントウ功をしていた。以前も感じたが、鳥の声から入ると自然に上丹田が放松して頭の北半球(頭部を耳のラインで横に切った時の上側=脳)の中がパカっと白くなって広がるのが分かる(これが”空白”か?)。それからその脳の空白を残したまま下向きに気を少しずつ落としていく・・・すると確かに、放松していくだけで自然に腹がしっかりし下半身が充実し両足が地面をしっかり掴んだようになる。どのくらいそこで立っていたか分からないけれど、戻ってきた(入静状態から)後感じたのは、いつかこれだけ(ただ立って放松するだけ)で十分になるだろう、ということ。さらに内側に入るには身体は要らない・・・帰り道歩きながら、最終的に身体を不要にするためにこんなに身体を鍛錬しなきゃならないなんて逆説的だなぁ〜、よくある太極拳的パラドックスだ、なんて考えて少し可笑しくなった。
ここがまだ緩められる、と気づいた箇所を緩めると、その分だけ腹に気が増える、という法則は最近はっきり意識できるようになったばかり。面白いくらいそうなっている。套路の時も、おっとここに力が入ってる、と気づいたらそこの力を抜いたり、生活の中の動作でも、ん?と気づいたら気づいたところの力を抜いたりしている。が、その作業がキリなく続くのが分かると、なんでこんなにひっきりなしに余計なところに力が入ってしまうのだろう?とがっかりしてしまう。ただはっきり分かるのは、①普段無意識で身体を使う時は、力を筋肉という身体の表面に移動させているという事実。そして②その筋肉の力を意識的に抜くとそれが腹に集約されるという事実。加えて、③筋肉の力を使って身体を動かしている時は腹に集約されたものが無くなっているという事実。そして更に言えば④意識的に丹田の気を保持させたまま身体を使うと筋肉が緊張しない(緊張できない)=力まない=放松している、という事実
これらの自分の身体で起こっている事実を合わせると、腹⇄筋肉 で”何か”が行ったり来たりしているということが分かる。 筋肉で”ぎゅっ”と感じるものを”力”と呼ぶとしたら、筋肉の”力”を抜いたときに腹に集まって重く感じるものを”気”と名付けたのかもしれない。”気”が筋肉に流れると”力”になるのだとしたらそれはエネルギー・・・といっても、エネルギーとは一体何か、は誰もわからない。エネルギーは仕事をさせるもの、エネルギーはパワーに転換されるもの、とその作用を介してしか定義できないように、気もそのようにしか定義できない。結局、気にしても丹田にしてもそれが使えるようになるのが大事で、(学者でもない限り)それが何かを知る必要はないということだ。
こんな簡単な放松と丹田の気の増加の関係、なぜこれまでそこまではっきり分からなかったのだろう?と不思議に思って早速師父にその現象の報告をした。そうしたら、師父が、「また一段進歩したなぁ。」と褒めてくれた。私はてっきり、「そんなこと、昔からずっと言ってるだろう!」と言われると思っていたので驚いたが、よく考えれば、ずっと昔の私が手の拳をぎゅっと握ってその拳を突然緩めたからといって腹に気が溜まるのを感じ取れたか?といったら、無理だっただろう。なぜなら、腹から拳までの通路が開通していなかったのだから。
結局、放松しても丹田の気が増えないの節節貫通がまだ達成されていないからだということ。
それを達成させるには丹田の気を溜めておいてそれを末端に向けて押し出す運動で内側から関節を開かなければならない。
それはあたかも最初ぺったんこだったホースに勢いよく水を流すことでホースの内側が広がるようなもの。折りたたまれた消防ホースがポンプから勢いよく出された水の水圧によって丸く広がる様は勁(丹田から末端にエネルギーを運ぶ道)を通す様にそっくり。
そして右の写真は、このような状態でホースを使ってはいけないという例。折れ曲がっているところでホースが破れてしまうらしい。
この折れ曲がったところを関節と見立てると、丹田から末端に気を送り出した時、こんなに曲がっていたら気は関節のところで止まう。ここに気を通して道を開通させるには鈍角、なだらかなカーブにしなければならない。一方、前にならえ、のように肘を伸ばして腕をまっすぐにのばすと肘の関節は緩みがないので気は貫通しない。緩みがある状態、関節に隙間がある状態、鈍角であれば、水圧でホースがピンとまっすぐになるように、関節も勁が通って節節貫通となる。これも”関節を緩める”という要領で示されているところ。
あとは、ポンプの馬力を上げて=丹田の馬力を上げて、水圧=気の圧、を増やすこと、そして、身体を動かすことによって気の通り道を開けていくことが必要。気の通り道を開けるためには、その外側にある筋肉の筋の伸縮を高める必要がある。これは拉筋(筋を伸ばす)として八段錦や易筋経などの気功法でもよく行われている”外”の練習。内側(丹田や内臓)の練習は外側(筋骨皮)の練習と並行して行う必要がある所以。
馮老師の編纂した内功は、まさに、丹田を作り、その馬力を上げ、そして筋の伸縮を高めるとともに内側の勁を通すことを目的としている。それがある程度できると、放松が丹田の気と直結するようになる。が、最初の”丹田を作る”ためには放松が必要・・・馬虹老師が「放松に始まり放松に終わる」と言った意味が分かりだした気がする。ようなもの。折りたたまれた消防ホースがポンプから勢いよく出された水の水圧によって丸く広がる様は勁(丹田から末端にエネルギーを運ぶ道)を通す様にそっくり。
そして右の写真は、このような状態でホースを使ってはいけないという例。折れ曲がっているところでホースが破れてしまうらしい。
この折れ曲がったところを関節と見立てると、丹田から末端に気を送り出した時、こんなに曲がっていたら気は関節のところで止まう。ここに気を通して道を開通させるには鈍角、なだらかなカーブにしなければならない。一方、前にならえ、のように肘を伸ばして腕をまっすぐにのばすと肘の関節は緩みがないので気は貫通しない。緩みがある状態、関節に隙間がある状態、鈍角であれば、水圧でホースがピンとまっすぐになるように、関節も勁が通って節節貫通となる。これも”関節を緩める”という要領で示されているところ。
あとは、ポンプの馬力を上げて=丹田の馬力を上げて、水圧=気の圧、を増やすこと、そして、身体を動かすことによって気の通り道を開けていくことが必要。気の通り道を開けるためには、その外側にある筋肉の筋の伸縮を高める必要がある。これは拉筋(筋を伸ばす)として八段錦や易筋経などの気功法でもよく行われている”外”の練習。内側(丹田や内臓)の練習は外側(筋骨皮)の練習と並行して行う必要がある所以。
馮老師の編纂した内功は、まさに、丹田を作り、その馬力を上げ、そして筋の伸縮を高めるとともに内側の勁を通すことを目的としている。それがある程度できると、放松が丹田の気と直結するようになる。が、最初の”丹田を作る”ためには放松が必要・・・馬虹老師が「放松に始まり放松に終わる」と言った意味が分かりだした気がする。