2020年7月

2020/7/31

 

 昨日既に書きたいトピックがあったのだけど、意の話でいっぱいいっぱいだった。

 心や意というintangibleな(手で触れない、掴めない)ものに注意を注ぎすぎると、tangibleな(手で触れられる)ものに対する注意がおざなりになりがち。しばし身体を忘れていたが、微妙な身体の違和感で一気に身体に振り戻される。

 

 一昨日くらいから股関節と膝関節と足関節(足首の関節)の関係が気になっていた。膝を伸ばして立った時、脛骨は内旋か外旋か? 膝を曲げた時はどうか? と整理しようとしていたら、当たり前なのに気づいていなかった事実に気が付いた。 膝関節は曲げ伸ばししかできない・・・

 膝関節は屈曲と伸展しかできない。そう知ってびっくり。膝は回らない・・・

 じゃあ、膝回し、って何だったのか? 曲げ伸ばしでそう錯覚してるのか? そこで、ああ、股関節と足関節の仕業に違いない・・・と、その三関節の関係について整理してみたくなった。

 

そしていろいろ検索している時に見かけたのが左の図。

 

http://www.ysroad.net/shopnews/detail.php?bid=166849

 

自転車のペダリングの分析なのだけど、これはそのまま歩行に使える(太極拳なら進歩:前進。第7式の斜行などで練習する動き)のではないか?

 

それに、基本の動功の双手揉球を広げていって足裏まで立円を描くとこの動きになる。股関節(クワ)の回転の円は、太極拳の、ポン・リュー・ジー・アンで描く一つの円のようで、脚もポンリュージーアンが可能だったことを思い出した。

 

 この反対回転は退歩(後ろに下がる歩法)。

 退歩でずっと歩くことはとてもよい健康法で、中国の公園で女性たちがおしゃべりをしながらひたすら後ろ向きに歩いている。退歩は腰にも膝にもいい。会陰も引き上がる。私もよくレッスンで、退歩を使って会陰が命門に向かって引き上げる(引き上がる)要領を教えていた。が、進歩(前進)はとても難しい。上の図のように完璧に歩ける人なんてほとんどいない。上のブログで詳細に説明してくれているけど、そのポイントをすっと理解できる人はすでに素人ではない。普通の人が体感として分かるには、後ろ向きに歩いてみて、そのままの感覚で前向きに歩くのが簡単かなぁ、と思う。片足立ちも、前進で片足立ちするよりも、退歩で片足立ちする方がずっと簡単。なぜか? 私はその”なぜか?”に興味があってブログを書きたかったけど、相当労力を要しそうなのでまたいずれ・・・

 

 と、やはり、頭を使わず、私によって心地のよい、ピアノ演奏の紹介をします。

 昨日の”意”の話。”意”が目だけでなく、指先にも現れる。

 ピアノを大事に鳴らしてあげる。そんな愛情、思いやりまで感じられる。

 ピアノを打楽器のように叩いて鳴らすのはジャズではOKでもクラッシックでは戴けないはず。

 

 お手本的な懐かしい演奏がありました。

  (鍵盤におでこがつきそうなくらい前傾しているけど、背骨はまっすぐ。注意深さ、意識の開きが半端ない。)

 

 

  ミケランジェリは10本の指の先端それぞれに小さな目があるかのような印象を与える。指先端が目になってしまった。音の透明感、雑味のなさは他のピアニストが真似できない。感情やノリに溺れない意識の人。

 普通の上手なピアニストが弾くともっと重くまったりする(感情表現をしようとする)、か、ノリのジャズのようになる。

 あとは聞く人の好みの問題。

 

 ここ数年話題のミーシン君。随分大きくなったけど、彼のおかしいのは、正真正銘の子供なのに手首から先が巨匠。どうなってるのか分からない。周身一家とはどういうことかがよく分かる。意も全く外さない。最新動画ともう一つの全身が見える演奏動画。ほとんど立ち上がってる。気持ちの良い驚き♪ (英才教育で仕込まれたただのロボットのようじゃなくて、心の奥からピアノが好き、ピアノと一体化しているのが好印象を与えるのだと思います。)

2020/7/30 <意から動くとは? 意を働かせるには頭蓋骨前転が必要 下中丹田があっての上丹田>

 

  今日は、昨日気づいた”意”で動き始める感覚の再現を試みた。

 

 意で動くには、その動き出し、初動、が鍵を握る。動き出す、いや、動き出そうとする、その時、まさにその瞬間に、もたもたしないでおでこの奥で全身体をえいっと一斉に引っ張る。身体がちゃんと意にぴったりと引っ付いてくれていたら、意を使った時には気も力も使えてしまっている。気を運ぼうとか力を出そうということを意識する間もない。

 打った時には打ってしまっている。バン!とワンテンポだ。

 

 例えれば、バックスイングなしにバッターが球を打つとか、卓球で(まぐれではなく向かっていって)カウンタースマッシュをした感じだと思う。

 号令をかけたら一瞬の遅れもなく全身が一斉に動いてる。踵が先なのか、丹田が先なのか、手が先なのか、という動きの後先がない。動く時は全て同時、そんな状態だ。こうなると、気の流れは見えない。今日、意を意識しながら套路をしていたら、いつもは気の流れを見ているのにそれ(気の流れ)がないから、その変わりに、意(身体に対する号令・指令)の前に、心(こう動こうという思い)があることが見えた。

 

 心、まさに胸のあたりで、次の動きを思っている。それを意に上げるか上げないかには選択肢がある。一度意に上げたなら、ミサイル発動のスイッチを押したも同じ、最後まで行ってしまう。そんなメカニズムが面白かったので、しばらくその”心→意”の流れを観察していた。

 そのうち、ふと「もし心からダイレクトに動いたらどうなるだろう?」と好奇心が頭をもたげ、早速、套路をやりながらそれも試してみた。

 心でこう動こう、と思って(頭に上げて意に転換させることなしに)身体が動いた場合、首から上、頭部の私は別人格だ。首から下がやっていることを頭の中の私がぼおっと見てるようだ。身体を動かしながら身体を観察することもできるが、別のことを考えることもできる。

 これは日常的にもよくある現象で、例えば、考え事をしながら歩いたり、車の運転をしたりとか、携帯を見ながらご飯を食べるとか、ドラマの続きを考えながら料理をしてるとか、頭と身体が別々になっている現象と実質的には同じだ。太極拳の時は、通常、「目は手を見なさい」「このポーズの時はこちらを見なさい」とか教えられているから、そのように目線を向けているが、それは、教室で前に立っている先生を見ていないと叱られるから前を向いている生徒のようで、先生の話していることを吸収したいがためにそうなってしまっている目、内側からエネルギーが湧き出てくるような目とは全く違う。自分の心が意となって集約された時には、目も自然に収斂(内収)になる、と今更ながら確認した。

 

 ・・・とまた脱線。ざっと写真検索したら、上丹田いつもバッチリダントツで決まっているのは伊藤美誠選手。両目が上丹田(第3の目)にきっちり引かれていてブレがない。余計な動きが少ないのではないかなぁ。

 対照的なのは石川選手のポスター。目が全然入っていない(普通の目)。ポスター撮影でカメラマンが写したかったものは外形だったのかなぁ。目が表面に出てきてる。レシーブで構えている時の石川選手の目はもちろん内側で集約。本気の顔だ。伊藤選手も普段は普通。二人とも本気の時は下顎が引けて目と耳が水平になっている(頭蓋骨の前転)。口が軽く閉じられ舌も上方かつ後方に移動している。

 

 結局、本気の時、私たちは頭と身体が一体化するようだ。当然身体もそのような体勢になる。

 慣れたことはそれほど頭を使わなくてもできてしまう。昨日のピアニストでも同じで、達人は頭を使わずに身体(手)だけでも弾けてしまう。だけれどもそこに意が通っている時、私たちはその意の管の中に吸い込まれるような感覚を受ける。意は(意外にも)無色透明だ。心、感情(で弾いた場合、歌った場合、描いた場合)は色付きだ。濁りがある。心を意に転換する時に無意識が意識化され純化されるのかもしれない(太極拳に最も近いはずの道家の『太乙金華宗旨』(黄金の華の秘密)、以前読んで全く歯が立たなかったけど、やっとその趣旨がはっきりした感あり。)

 ミケランジェリの音があんなにも澄んでいるのはやはり意に徹していたから。意は音質、その透明感に現れるようだ。とすると、真の”意”の人(=意識的な人)は無色透明になるに違いない。濁りがない。心が意になってしまっているから、すでに”無心”。心が意に昇華してしまっている・・・このあたりは独り言。   

 

 心から意を経由せずに行った行為を無意識的行為といい、心から意を経由して行った行為を意識的行為という。

 無意識的な行為がマズイのは、武術や対人競技なら、相手にスキを与えてしまうから。

 日常生活なら、無意識的行為の繰り返しは・・・ぐるぐる同じことの繰り返し。前進発展がない。起きているのに眠っているに等しい生活になるのだろう。

 

 そんなことまで考えてしまったら、意がうまく使えなくなってしまった。あれ? 意を使おうとしても身体がついてきてくれない・・・

 意や心、そしてそれに派生して余計なことを考えていたら、身体の基本的なアライメントや気の流れが崩れてしまっていたようだった。あらら・・・も一度最初からやり直し。

 意を使うには、まず身体と気を整備しておかなければならない、と知ったのでした。

 中でも、腰と丹田。

 腰と丹田が消えると意も消えてしまうから不思議・・・いや、だから、下丹田、中丹田 上丹田、というのか・・・下や中が消えれば上が消えてしまうのも当たり前だ(苦笑)

 

2020/7/29 <ピアニストの弾き方から意識の使い方を考察>

 

   今日でパリに来て丸一年。

 まだ一年しか経っていないのかぁ、と感じるのは、どういうことなんだろう?

   充実してるのか、そうでないのか?

 

 ともあれ、今日分かり始めたこと・・・

 最近若手のピアニストにしては驚くようなバッハの演奏を見つけたのだが、演奏者のダニール トリフォノフ君は以前からリストの超絶技巧練習曲全集で有名で、まさかバッハをこんな風に弾けるとは思っていなかった。今彼の演奏を聞くと、ヴィヴィアン(私のピアノの先生)が言っていることがよくわかる。指や手首の力を抜くとはどういうことか、そうするとどのような弾き方になるのか、そしてどんな音、どんな音楽になるのか、というのが彼の弾き方を見てやっとはっきりした。

 彼は完全なる没入型。一曲引き終わると汗びっしょりだ。鍵盤に顔がつくほどのめり込んでしまうその様はグールドを思い出す。

 没入してしまうと自分を忘れて観察ができないのでは? 

 

 私の頭には、私の好きな昔の巨匠達の姿、ルービンシュタインやミケランジェリ、ホロヴィッツなどの姿があった。いわゆる巨匠は原則坐禅(止観法:ヴィパッサナー)形。半眼だ。目・鼻先・指、を結ぶ線が一直線になっている。感情昂ぶろうとも外形は乱れない(ようにどこかで制している)。上丹田でコントロールしている。

 これに対して、現代多くなったのは陶酔型。ランランがその代表格だ。上を見上げて陶酔しながらも鍵盤の手は自由自在に動く。(女性のユジャ・ワン、アリス=サラ・オットなども)イマジネーションに浸っている(脳の中が拡大している感じ)

 止観法(ヴィパッサナー)から陶酔(サマーディ)への移行期に位置するのがサンソン・フランソワ、ツィメルマン、ブーニンなどのようだ。

 これにも時代の流れ、流行がありそうだ。

 

 この中で、グールドは没入型、一体化型。後で紹介するダニール君もそのタイプだ。

 

 

 芸術家はともかく、武術、そして覚醒を目標とする修行では、陶酔はできない。

 この時、自分の内なる目で自分の身体を他者として観察するのだと思っていたけれど、今日套路を練習していて、指先をダニール君のように思いっきり放松したら、意で(号令をかけて)身体が一斉に動く感覚が得られた。1、で全てが一斉に動く。今までは、身体がやっていることを頭の中の目(私)が傍観者のように見ていた。今日は、目(内なる目:上丹田)が真っ先に動いて身体を引っ張っていた。差し出した手を引くにも、下ろした手をあげるにも、まず意(脳の中)が引っ張る。丹田も意に引っ張られる。意が全ての”主宰”と経典に書かれている意味が初めてわかった瞬間だった。

 意が主宰すると、頭が身体と一体化する。 

 意が主宰していなくて傍観者として見ている(観察しているだけ)の時は、頭と身体が切り離れている。

 経典では”意を通す”というが、確かに、意を身体の中の通路に通して指先端まで、もしくは足先端まで出して来てあげなければならない。胃カメラを目から指先まで通して指先に目がきたような感じだ(手を動かす場合)。

 

 こんな風に意でコントロールかけるには、没入型がやりやすい。手芸で細かい作業をしていたり、危険な作業をしている時は、没入していって顔は対象物に近づいていきそうだ(針に糸を通す時を連想。)

 ただ、身体の一点だけを意で動かすことをやり続けていると、私たちは身体や精神のバランスを失ってしまう。意識は広げる必要がある。意識を身体全体に広げた上で、その瞬間瞬間に必要な箇所を意で動かすのかと思う。

 

 私たちは普段、意識を無意識に使っているけれど、意識を意識的に使えるとものの見え方、世界が変わりそうだ。少なくとも、世の中が無意識によって動かされているのが見え出してくる。自分がほとんどの時間を無意識的に過ごしている(無意識でいろんなことをしている)のにも気づいてしまう。ぼぉ〜と生きてるつもりはないけれど、かなりぼぉ〜としてる。套路をしていて友人のことをひとかけらでも思い出したら、今何時だろう?なんて浮かんだら、次なんだったけ?なんて心配になったら・・・もう意識は外れている。いや意識は外さないように努力するものではなく、意識を通してしまっていれば自分は内側に染み渡ってるから外れようもない、そんなことが感覚として分かり出した。

 ピアノの演奏会で一番怖いのは、途中でブラックアウトしてしまう(弾く音を忘れてしまう)こと。そのためにものすごい練習をして指に覚えこませるのだけど、指だけに覚えさせると指がひょっと混乱した時に記憶が断絶してしまうから、頭でも意識的に音を覚えるように、と言われていた。楽譜を再現できるように頭で覚える、とか言われたこともあるけれど・・・。このあたりはピアニストにアンケートをとってみたいくらいだが、やはり、頭と身体の両方で覚えるのが安全なのだと思う。身体の記憶、というのも実は脳じゃないの?とかまだまだ疑問はいっぱいだ。ランランのように上を向いてジャンジャン弾くのはジャズピアニストに多そうだけれども、これは頭よりも身体優位? 意識的な音楽というよりもノリの音楽、大衆を乗せる音楽かなぁ、という気がする。

 太極拳も派手な演武をして大衆を惹きつけるようなのもあるし、よ〜く見ないと良さがわからないようなものもある。私たちは自分の意識レベルに応じて物事を見ている。ヴィジョンの質的変換は意識レベルを上げる(無意識を減らして意識を増やす)ことでしか達成できないのだと思う。本をいくら読んでも、どれだけ知識を増やしても水平にしか広がらない。

 

 

2020/7/28

 

  コロナ問題、全く問題解決していないのだけど、フランス人はしっかり夏を満喫中。

 

 3/15から始まった2ヶ月弱続いたロックダウン。

 パトカーが常時見回っていて、街中から人の姿が消えた。近所なら買い物と散歩は可だったから、散歩のふりして歩きながら腰回しとかしていた。

 5/11からロックダウンは段階的に解除され、7月に入る頃にはレストランの中でも食事ができるようになった。最初は恐る恐るの外出が、今ではマスクがあればどこでも行ける♪ 人と人との距離をとって・・・ソーシャル・ディスタンス、という言葉はあるのだけど、友人との間では通用しないというのがこちらの常識なのかもしれない。しばらくぶりの再開にハグをしてたりする。くっつくのは癖らしい。私はもっばらお辞儀で対応するけれど、それがフランス人に好印象を与えるようだ。真似してお辞儀で返してくれる人もいる。

 ロックダウン中に繁盛したのはデリバリーの飲食。中でも、Sushi、Yakitori、Gyoza・・・これらが一緒くたになってサーブされるのは変な感じがするが、こちらは日本食がこれまで以上にブームだ。日本人(ジャポネ)だと分かるととても親切にされる。30年前には考えられなかった待遇。10年前もこんなにフレンドリーではなかった。今のパリは日本人の私にとってはとても居心地がいい。他人のことに干渉しない自由な明るさがあるのは、今自分が楽しむことだけを考えている裏返し? 

 

 最近ミラノで開催されたハイブランドのファッションショーの動画を見た私の娘が、観客達がマ歩くモデルのすぐ際にマスクなしで座っている見て、「もうコロナは終わったのでしょうか?」とコメントをしたら、「ディスタンスはとっているでしょ。」「ちゃんと考慮はしてるよ。煩いよ。」というようなリアクション受けてショックを受けていた。日本の基準ならアウトらしい。娘にその動画を送ってもらって私も見てみたら、こっちの基準なら全然OKだなぁ〜という印象。娘は、「だからヨーロッパは(コロナが)拡がるんだ。」と一言。それは事実なんだけど・・・。ただ日本は大きな被害が出てはいない一方で長期に渡って自粛自粛でストレスフルな生活。五人組制度の名残のような国民相互間での牽制体制は利点もあるけど心理的にキツそう・・・日本の報道ニュースをつけると暗く心配顔のアナウンサーやキャスターが現れる。声にも悲壮感がこもりこちらまで暗くなる・・・なんなら一層のことこちらのようにポリース(警察)に取り締まってもらった方が気が楽なのでは?なんて思ったりするけれど、国家権力が抑え込むほどの被害になっていないからそうもいかない。実際の被害以上に先に恐怖感が煽られているように外からは見えるけど、そこに入り込むとそこの常識が現実になってしまうのはどこでも同じ。”今”に対処するしかない。

 私の東京の生徒さんたちは時々集まって公園で練習できているようだから、そこそこ発散できているのではないかなぁ。太極拳は距離をとって練習できるからこちらでも年配の人達が毎日公園に集まって練習しています。一人よりは集まって練習した方が気を大きく広げられて発散ができる。身体はあまり動かないのだけど、皆笑って楽しそう。それを遠目で見てると私も楽しくなる。歳とってもあんな風に仲間達と身体を動かして遊べたらいいなぁ、と思います。

 距離をとりつつ助け合える。開の中に合あり、か?

 

 

 下の写真

 <人でムンムンしているカフェ。距離の近い二人。ぽっちゃり(?)が多くなったパリ。>

2020/7/27 <内旋外旋 螺旋で円裆 螺旋で周身一家>

 

   「いい筋肉は塊状ではなくて筋状の筋肉だ。」昔から師父はそう言っていた。

  筋肉を関節ごとで分断して鍛えるとポパイのようなこんもりとした塊の筋肉になる。関節を構成する筋肉の両端の筋を引き伸ばして使うと筋肉は細長くつく。

  今では筋肉を肥大化させるよりも細長くつけることが故障を防ぐとともにパフォーマンスをあげることになるという理解が常識になっていると思うが、太極拳の動きで螺旋を基本とするのはまさにその筋状の筋肉を前提としているからだ。

 

 筋肉の螺旋、全身のスパイラルライン、アナトミーライン、筋膜連結・・・そんな語で検索すると筋肉の螺旋状の動きについてたくさんのサイトで説明されている。武術系の雑誌には身体の螺旋の動きについてこれまで何度も特集が組まれてきているようだ。

 

 私がパリにきてずっと格闘している身体の調整。幼少期から学生時代についた身体の癖、筋肉のつき方、使い方の癖をとるのはなかなか難しい。一年やってやっとゴール、目指すところがはっきりしてきた。そして気づいたこと。

 

 転腿でしつこくやってきた内旋と外旋。ただ回せればいい、と最初はやっていたが、そんなものではないことに気づいてきた。

 少し前から気分転換にやっているオンラインヨガ。立位前屈をする時は太ももは内旋、かつ太ももは緩めずに”active"にしろという。マスターの指示通り前屈しながら腿を内旋させると私の太ももの前側は緩んでしまう。ん?どうやって太腿前側を引き上げるのか? 他にも、様々なポーズの時に、脚を外旋させろとか内旋させろとか指示がある。指示通りにやると確かに安定する。マスターの指示は説得力がある。そのマスターの足首以下(feet)はものすごく美しくて私はいつも見とれているのだが、きっと脚を(いや、下半身を、いや、全身を)そのように正しく使えば優雅で美しい足になるに違いない・・・足は土台。ここが崩れたら身体は真っ直ぐ立てない。が、足はただ仁王立ちするだけでなく素早く動けなければならないから、がっしりしているだけでなくアーチのある弾力に富んだ足になりたいと思う(願う)。

 

 ヨガでも内旋外旋とかいうのだから、もっと動きの多い太極拳や武術で言うのは当たり前なんだ、と套路をしていたら、気づいた。外旋とかいうところでも内旋が同時にはいっている。内旋といいながら外旋の要素も入っている。早速師父に聞いてみる。すると師父も順チャンスーしながら逆チャンスーをいれたり、とかしているとのことだった。あまり意識しすぎると動きがおかしくなるからおすすめしないが、開胯や円裆を意識するがばかりに開きすぎてしまっている(外旋が行きすぎている)場合には同時に内旋を加えてみることも一つの手だと思う。

 今は宇宙の膨張期で全てのものが開いていく傾向にあるという。身体も歳をとればとるほど開いていって集約力、内側へ引っ張る力が失われてくる(目や口、会陰や肛門もしっかり引っ張れなくなって緩くなる)。開に対抗する合の力が常に必要になる。(腰も開いて平腰になってしまう。内側に引っ張って=絞って、S字を取り戻す必要がある→丹田の吸引力 

 

 

左は馮志強老師の馬歩の写真。

 

この時、老師の左右の脚はそれぞれ外旋している、と見えるが、実はそれに対抗する内旋の力も働いているのが分かる。

 

外旋オンリーだと膝がもう少し外を向く。すると足首の角度も代わり、股関節も影響をうけ、結局上半身と下半身の勁が断絶してしまう。

 上の左端と真ん中の写真は開合法の動作。二枚の写真の下半身の形は外から見ると同じだが、左の”開”の時は外旋の意識が主で内旋は従。真ん中の”合”の時は内旋が主で外旋が従のはず。

いずれにしろ、外旋と内旋のバランスが取れているところが関節に負担がかからない、全体として中正のとれる場所。この時、筋肉は理想的な螺旋で流れている。

 内旋外旋のバランスと筋肉の螺旋、そしてできあがる股間のアーチ(円裆)・・・

 右端の高齢になったときの老師の写真をみると、脚と股間をつなぐアーチがブリッジ(橋)のアーチ構造を思い出させる。私たちの下半身はアーチ構造・・・

 全身が一つ(周身一家)も螺旋が前提なのが分かる。

 

 そう見てから、このような私たちがやりがちなポーズを見ると、紙人形のように見えたりしないか? 二次元の平面の世界のお人形さんみたいだ。

 螺旋がないから、円裆(下半身のアーチ)が作れない。ずっとそこで我慢比べのようにポーズをとり続けることはできても、素早い動きができるような姿勢ではない。太ももが塊になり、股関節や膝に多大な負担がかかる。

 

 上の写真を見て、ひょっとして歌舞伎のポーズはこんな感じだったかな?と調べたら、少なくとも浮世絵はそんなことなかった。以前見た運慶快慶の金剛力士像などは筋肉の螺旋が感じられたなぁ。今改めてみると、ヒンズー教の像のようだけど。

 螺旋を入れると活き活きとした躍動感、3Dになる。

 (一枚混ざった人間が最も平面的に見えたりする? 背骨の螺旋(弓)がないからかなぁ。)

 

 日本文化は平面文化だけど、身体の使い方は3Dにするのが自然。歩く時にも螺旋運動(内旋)が必要。でないとガニ股のおっさん歩きになる・・・

 合を ”絞る力”と表現する人もいる。絞る力は内旋と外旋を併用することから生まれるのかもしれない(昨日の二つの円のせめぎ合いと関連するかなぁ?) 絞るためにはまず開いていることが前提となるけど、開いている人は絞るための中心点(=丹田)を作る必要がある。という流れ。

 

2020/7/26 <姿勢 二つの円のせめぎ合いと追いかけ合い>

 

  結局のところ、私が太極拳で学んでいることは、如何にして自然に真っ直ぐ立てるようになるか、真っ直ぐに座れるようになるか、なんだと思う。

 タントウ功も坐禅も、天と地の間を垂直につなぐ真っ直ぐの姿勢を養うためのもの。すくっと立て、すくっと座れるのなら、大概のことは何でもできてしまうだろう。外側から作った固めた姿勢ではなく、内側から、種から発芽していずれ真っ直ぐの木が育つように、そんな風に真っ直ぐ立てるのなら、内側は”通顺”(どこにも引っかかることなくすらすら、滑らかに通るさま)だ。息も気も血も、食べたものも、体内の液体、脊髄液、その他様々なものが全てが滞りなく流れれば健康だ。頭の働きもいい。心身健康であればその先の可能性もさらに開きやすくなる。

 

 人の姿勢を見ればだいたいのことが分かってしまうという。動作にするとさらにその人が浮き彫りになる。喋らせると丸わかり・・・この手の練習をしているとそのようなことに嫌でも気づくが、練習をしていなくてもそこそこは本能的に嗅ぎ分けられる。

 私たちが王様、キング、をイメージすると、冠を被って頭頂を真っ直ぐ天に向けどっしりと立っている男性をイメージする。猫背で下を俯いている王様を想像しない。物乞いは猫背のイメージ。堂々と胸を張っているイメージではない。政治家は腹を突き出して威張っているイメージ・・・(偏見も含むイメージです)学生時代の男友達などは就職して数年立つとその業界の”姿勢”や喋り方になっていたりして驚いたけれども、姿勢や喋り方は環境の影響も大きいのだと思う。

 子供の頃は親、家庭環境が絶大だろう。親の姿勢や言葉遣いが悪いと、子供もそうなってしまう。特に女の子は母親の口調そっくりになるから、私も娘の喋り方を聞いて、自分がこんな喋り方をしているのかと愕然としたことも。

 

 椅子の座り方を気をつけるだけでも、かなりの運動量になる。腹筋はしめずに丹田を出すように座ると骨盤が前回りして坐骨で座れるようになる。

 が、骨盤前回り(逆回転)だけでは腰が反ってしまうから、①丹田の重さで骨盤前回り(お尻は出っ尻・坐骨に座る=股間と太ももの三角形で座る感じ)をした後は、②丹田から命門→肛門方向へと骨盤後ろ回り(順回転)を入れて腰を開く。(座面の三角形はずらさない:骨盤は立てたまま)

 この丹田の逆回転と順回転をともに入れることで腹も腰も充実して、ど真ん中の空間(=丹田)で骨盤を保持できるようになる。

 これが真っ直ぐに立ったり座ったりする時の核心(種)になる。

 この骨盤の中の空間の感覚がとれないと、どこかの筋肉に頼って(どこかの筋肉を収縮させて)立たなければならなくなり、どうやっても負担がでる。

 このことを巷では「筋力に頼らずバランスで立つ」と言うのではないかと思う。

 

 丹田の縦方向の逆回転(督脈↑任脈↓)と順回転(任脈↑督脈↓)は太極拳の基本中の基本(周天)。これを動作としてだけではなく、静止状態でも応用するべき。(まずは動作で練習して、それから静止状態に応用する。)

 

 椅子に座る場合は逆回転してから順回転。

 順回転させてから逆回転を加味するとうまく座れない(骨盤が立たない)と思う。

 

 坐禅の場合は最初から逆回転させて骨盤を立てるのが困難なので、通常、順回転で骨盤を少し寝かせた状態で含胸を大げさにやり、胸の気を落として腹に気を溜めてから、その腹(丹田)の気を使って徐々に逆回転をかけて骨盤を立ち上げていく。

 二つの円のせめぎ合い(二つの円の反対方向回転の引っ張り合い)はバランスのとれた(いつでも動けるニュートラルな)静止状態を作ることができる。

 

 これに対し、太極拳の動き、中正のとれた(バランスのとれた)動きは、というと、二つの円の追っかけ合い(180度の引っ張り合いで二つの円が同方向に動く:太極図)が必要のようだ。。どんな動作にもその対(つい)になる動作が隠れているはず・・・さっと右手が動いた時にその他どこも動かないとしたらバランスを欠いている。丹田と右手が繋がって入れば嫌でも左半身のどこかが連動してしまう。内側は一つの空間。

 

 なお、せめぎ合いも引っ張り合いも“对拉”(引っ張り合い)を作ります。(→これが広義のポン勁(膨張の力)を形成)

 

 <生徒さんからの質問>

 『下顎内収』で顎を引くと二重アゴになってしまうのですが、どうしたら良いですか?

  

 <回答のヒント>

  下顎を引く=頚椎が伸びる(湾曲が減って直線に近く)

  この頚椎の動きに対(つい)になる動きを加味すれば不必要な二重アゴにはならない。

 

2020/7/25 <外側と内側 ブレークスルー>

 

  太極拳の練習では、自分がうまくできないところを師(や先生)に質問することもあるけれど、自分では気づいていなかったところを師に指摘されることの方が多いかもしれない。そしてその指摘された箇所は往々にしてその時自分が認識していたうまくできない箇所の解決に導いてくれたりするから、師のアドバイスはその時すぐに消化できなくても身体の中に残しておく必要がある。

 

 形を直されるということは、内側の気の流れ、気の使い方が間違えている、至らない、ということだ。この手は肩の高さだとか、この手はクワの位置だとか、目はこっちを見ろ、足先はこっちを向けろ、腰を緩めろ、肩を落とせ・・・細かい指示を受けて形を調整したら、内側でその感覚を覚えておく必要がある。内側の感覚で覚えていないものは再現ができない。

 

 頭で動きを覚えることは外側から動き(形)を作ることにつながる。套路を最初に覚える時に手の動きから覚えようとする人がほとんどだが、これは頭で覚えようとしているからだ。稀に全身の動きを大雑把に掴んで覚えようとする人もいるが、その場合は手の動きは適当で、腰や骨盤、足の運びに注意が払われ”雰囲気”をつかもうとする。もともとダンスが得意な人などはそのように覚える。腰で覚えることは内側で覚えるということだ。

 

 外側か、内側か、という例。

 例えば自転車に乗る時。最初はガチガチで筋肉をこわばらせて漕いでいたかもしれないが、そのうちスイスイ。そして10年くらい乗らなくても、乗れば乗れてしまう。目をつぶって自転車を乗っている感覚を再現することもできる、身体が覚えている、これは内側が覚えているということ。

 

 ここ数週間ある箇所に行き詰まっていて、どうやっても内側の感覚がしっくりこないことがあった。師は外から見ると問題ないとして、内側の違和感を察知してくれない。このまま練習を続けたらそのうち膝を痛めるだろうと私は確信していたからその違和感を解消する突破口をずっと模索していた。昨日は師父も手伝ってくれたが、やはり解決には結びつかない。疲れもあって嫌気が差してきて、久しぶりに、もうだめだ、と一瞬諦めてしまった。そんな私を見て師は早く帰って休んだ方がいいと私を促したのだけど、その時、なにかがムクッと頭をもたげた。先に帰ってください、と師に先に帰ってもらい、その後、24式をとてもゆっくり自分のペースでやってみた。途中、あれっ?と踵が承扶穴(お尻と太ももの境にある膀胱経のツボ)を踏むような感覚が出現した。あら、面白い!と、そのまま注意して一歩一歩、踵がそのツボと対応するように動いてみた。なんて全身が使いやすいんだろう・・・初めての感覚。少し嬉しくなって公園を後にした。

 今日の練習はその新しい感覚を師父に伝える間がないまま、一緒に套路をすることになった。24式の途中から、昨日の踵とお尻(後ろのクワ)の対応に加えて、それを基軸に全身のチャンスーがかかることを発見、面白くなってチャンスーをかけて48式をやってみた。師父に怒られてもいいや〜、なんて自由な気持ちで。

 48式が終わった時、師父が振り返って何かを言い出した。ああ、どこかの注意をしてるのね、と耳をチューニングしたら、師父は、「どうしたんだ?、なぜ急に進歩したんだ? ×式や△式がこれまでと全く違う。クワの松と回転がとてもよくできている。」と真顔で言っていた。あ〜、昨日、今日の発見は正しかったんだ〜!とやっとほっとした。

 私は後ろクワと踵の対応に気をつけていたけれど、師父の目からは前クワがよく緩んだと見えたらしい。確かに、そう言われれば、そうすると前クワも緩んでいる。師父に私の感覚を伝えると、「それが、力は踵から、ということだ。」と言う。「踵がクッションのようになり中に隙間がないとそうなりませんね。」と返したら、「そうだ、踵の空が必要だ。」と同意してくれた。

 

 踵に隙間や空間があるなんて、外側からはありえないこと。内側の感覚としてそうなった時、初めてそのクッションがクワのクッションにつながり、いや、全身の関節のクッションに連動し、それによって腰やクワの回転という”チャンスー”の原動力が、連鎖的に関節の回転をもたらしてチャンスー勁をもたらす・・・ 昨日の絶望が嘘のような大逆転。思いもよらないブレークスルーがあってそれだから練習は止められない、と思ったのでした。(でも堪忍袋の緒を自ら早々と切ってはいけない!と反省)

 

 そのあと、一人の生徒さんと話してていたら、彼も今日ブレークスルーがあったとのこと。これまで全く分からなかった両手の引っ張り合いが、練習途中に、あれ?、うまくキマってる⁈、と思いがけず分かってしまったということだった。「これまでどう考えてもよく分からなかったですが・・・やはり練習を続けないと分かりませんね。」身体の内側から知る感覚は頭で考えても分かりようがない。ブレークスルーは頭をすり抜けたところから発生する。頭が考えつかないようなことを身体は体現してくれる。

 

 

 

2020/7/24 <柔和な心 垂直の意識 水平の意識>

 

   ヨガの世界では菜食主義が当たり前。老子は菜食を勧めていたとか言われたりするが、太極拳では菜食が推奨されていたりはしない。肉を食べないと戦闘心が湧かないのかなぁ?と単純に考えていたが、菜食主義者の中にもイライラして攻撃的な人もいるとかいうとかいう話を聞くと、食べ物だけで心が柔和になるわけではないのかもしれない。

  

 この世の中にはごくまれに芯まで柔和な人がいるのかもしれない。

 そんな人に私はこれまで直には会ったことはないけれど、インドのラーマヤーナを(手っ取り早く)動画で見たら、ラーマやハヌマンの心のきれいさに驚いてしまった(各々、ヴィシュヌ神とシバ神のアバターなのだから当たり前といえば当たり前なのだけど)。戦士であっても心が寛大で柔和、憎しみで人を裁くのではなく諭すための裁きだった。そのあたりは中国の三国演義とは次元が全く違うかなぁ、と。人間同士の争いに見えて実は神々がリーラ(神の戯れ)として戦っている物語と、この世に100%拘泥してしまった人間たちの陣取り合戦の物語は比較できるものではない。

 

  ラーマヤーナは神ー人間という垂直線を伴った、人間界でのドラマ(水平線)。一方、三国志は垂直線のない水平線のドラマ・・・諸葛亮が辛うじて垂直線を描こうとしていた?・・・ちょうど1ヶ月前にピアノの先生のヴィヴィアンが私に「垂直の線」の大事さを教えてくれたからか(6/29、6/30のメモ)、そんな風に感じてしまった。

 

 これは意識としての垂直線。

 そういえば随分前にリストの曲を発表会で弾こうと奮闘していた頃、日本のピアノの先生が「リスト様が上から聞いていらっしゃると思って弾きなさい。」と言っていた。当時の私は単なるイマジネーションの問題としてしか捉えていなかったが、今思えばこれも意識としての垂直線を通す一つの方法だったのかもしれない。でないと、ピアノをただがむしゃらに弾いてしまって(特にリストは技術的に難しいのでそこに没入してしまう)、崇高なるものを忘れてしまうのだろう(リストはとても宗教色の強い人物だった)。ヴィヴィアンは神に自分を捧げている人だから垂直線を大事にするのは自然な成り行き。

 

  そうすると、太極拳で形として垂直線を通すこと(=タントウ功)が大事になると同時に、意識としても垂直線を通すことが大事なのでは? ああ、これが、虚領頂勁や天人合一か・・・。

 

 垂直の意識をしっかり持ち、究極まで意識を開花させたラーマやハヌマンは決して人を傷つけるような言動はしないだろう(し得ないだろう)。そこまで極端でないにしても、垂直線を持ち修行を積んだ人は内心が容易には乱れない。こちらがどんなに失礼なことをしたりナンセンスな質問をしても、イラついたりムッとしたりしないでうまく諭してくれる・・・相手に傷つけられることがない、という安心感があるとこちらの心もきっと柔和になる。とげとげしさがなくなる。

 一般的に武術家は、内側に攻撃性を潜めていて、必要があればその火種を使って防御をするが、もしそこから垂直に意識を高めて(通常坐禅をするようになる)意識を広げていけば、その心の広大さから戦わずとも相手の心を和らげてしまったりするのかもしれない。戦わずに勝てるというのは武術の最高の境地だと言われるが、それは相手がびびって手を出せないのではなく、相手がtamed(飼いならされて)しまって手が出せなくなるのかなぁ、と今は思ったりする。

 

 相手の懐が大きくて、決して傷つけられない、と分かっていると自分の心も和んでしまう。攻撃性が消えてしまう。

 が、人間社会は実はこの真反対ではないかしら?

 いつも誰かにどこかで傷つけられる。それが怖くてビクビクしている、もしくは、先手必勝で攻撃に出てしまう。批判してしまう。安心できない。イライラが続く。

 傷つけられるのが心、自尊心であれば、無心になればいい。

 無心になるにも相当な修行がいるだろうけど、このコロナのように傷つけられるのが身体の場合は生存欲に向き合う必要が出てくる。生存欲はいかなる生命にもインプットされた最も根っこにある欲求。肉体を超えた次元での自己の存在を知っていれば肉体に対する執着が少しは弱まるだろうけど、そんなことを考える人は少数派。

 

 私たちは豊富に持っているものは人に分けてあげることができる。執着が薄い。反対に、少なくなったものには執着が強くなる。歳をとれば達観して物質や命に対する執着は薄まる、と若い頃は信じていたけれど、自分自身いい歳になってきた今、あたりを見回すと現実はそうとも言えないようだ。殺られるかもしれないと思った動物は先に攻撃を仕掛けるかもしれない。自分の心や命を守るために他の心や生命を攻撃することのないよう、早急に心の強さ=広さ=柔和さを養わなくてはならないと(反省も兼ねて)思う今日この頃。

 

 ...と、この支離滅裂なメモ。なぜ菜食主義から始まってコロナ下でのキレる高齢者問題(日本特有だと思う)に想いを馳せたのかと考えたら、美味しいベトナムのフォーが食べたい♪と今日わざわざ出かけた店がビーガン(厳格な菜食主義)の店だった。知らずに行って着席してメニューを見て驚いた(と、ガッカリ)。肉の代わりにベジタブルミート。串焼きもベジタブル... お洒落な店で満員。こんなにビーガンが多いのかと驚いた。(ベジタブルミートは慣れなくて気持ち悪かった。個人的には豆腐で串焼きを作ってもらいたかった。) そして店を出てしばらく歩いたところには、コロナホテル...,泊まっている人いるのかしら?(が、こちらでは、コロナとは言わずにもっぱらCovidと言ってます。)  

 

 

 

2020/7/23 <入静状態から分かること 心・意・気・力>

 

  もう随分前のこと、生徒さんが来る随分前に御苑に行って先に一人でタントウ功をしていた時期があった。

 御苑は9時開園。開園と同時に中に入ると、植物の世界にお邪魔した気持ちになる。最も清々しく感じる時だ。そのまま人気のないいつもの場所で杉の大木に囲まれてタントウ功をするととても簡単に入静状態に入れた。

 入静状態に入っていても音は聞こえた。自分が自分の内側の奥の方に入っているから、洞穴から外の音が聞こえるような、そんな風に聞こえていた。内側はシーンとしていた。シーンとしていると自分は木の仲間のようだった。そんなある時、近くの散歩道を後方から歩いて来る人の声が聞こえた。その時私はとっさに「あっ、人間が来た!(危ない!)」と思った。言葉にはなっていなかったけど、入静状態から慌てて出て来て、そう思ったことを確信した。

 目を開けて周りの木々を見たら友達のようだった。カラスや人間は異質のものに見えた。木から動物を見たら、なんて騒がしくギャーギャー騒いでいるんだろう?と思うのかと思った。

 

 ・・・が、そんな風に入静状態に入ると困ることがある。それは生徒さんがやって来た時。生徒さんによっては、タントウ功をしている私に声をかけず自分も静かにタントウ功を始める人もいたが、私に「おはようございます!」と一言声をかけてからタントウ功をし始める人も多かった。

 「おはようございます。」という声は奥の方でちゃんと聞こえているのだが、それに対し「おはようございます。」と返すためにはまず声を出さなければならない。けれど、内側の私は声がない。「おはようございます」の語も生まれていない。<おはようございます>の9文字が<・>のように、ただ・の一点に集約されていて、「<・>?」だけが内側に生まれている。

 自分の内側はロシアのマトリョーシカ人形のように入れ子になっていた。

 洞穴の奥にいるようなのだけれども、後々再現すると洞穴にも層がある。

 

 A: 言葉が出てこないけど、言葉の種の・(点)だけが浮かんでくる状態。

 B: この・(点)を展開して言葉が浮かんでくる状態。

 C: そしてこの言葉を声として出す状態。

 

 BとCの違いは私たちは通常知っている。

 言葉が頭に浮かんでいるけど、それを声に出さないことはよくある。

 いや、私たちは歩いていても頭の中で声には出さない言葉をしゃべっていたりする。考え事をしている、というのはまさにこの状態。積極的な思考なら生産的だが、そうでもないどうでもよいこと、支離滅裂なことを頭の中で考えている時間の方が長かったりする。人によっては、頭の中で、ちくしょう、とか、このやろう、とか不平不満を言い続けているかもしれない。声になって他人に聞こえていたらとても恥ずかしいだろうことを頭の中で喋っているのが現実だ。

 

 が、この頭に言葉が上がってくる前に、その言葉達の種、全ての思考が入ったカプセルのようなものが生まれてくる場所がある。それがAの状態だが、その種は胸のあたりにある。頭ではない。頭になると言葉になっている。

 

 実は、こんな類の実験は高校生の時に遊びでやっていたことがある。

 数学を言葉を使わないで(言葉を頭に上らせないで)解けるか?と試してみて、できないことに気づいた。ピアノは暗譜して指が自動的に動くものなら言葉を使わない(頭を使わない)で弾けるけれど、少しでも怪しい箇所にくると頭が作用する(これは焦りになる)。

 その頃友達に、言葉の泡が湧いて来たらそこで押し殺す遊びをやろう、と誘ったら、「何を言ってるの?」と相手にされなかった。仕方ないから自分一人でやっていたが、言葉が出そうになったら止めようとすると、頭に上がって来る前、胸の位置で止めなければならない。胸に上がって来そうになる言葉(アイデア)の種をモグラ叩きのように叩いて上らせないような一人遊びはそこそこ面白かったけど・・・それがその後、数十年経って、瞑想の導入部になっているとは予想もしなかった。

 

 今では御苑でなぜ「おはようございます。」と返せなかったのか、その仕組みが随分はっきりしている。

 あの頃の私は入静状態の時にマトリョーシカの第3層(A)にいた。

 ここは気持ちのようなものは生まれるが、頭と身体が使えない状態。まず頭を起動させて言葉に変換して、それから身体を使って声を出さなければならなかった。遠い道のり。相当奥から出てこなければならなくて”たいぎぃ”だった(面倒臭かった)。

 もし第2層の(B)、頭にいたら・・・声を出すのはあと一歩。そもそも頭が作動している時は入静状態に入っていないので、”出てこなきゃならない”という感覚もない。すでに身体に接した表面にいる。

 

 馮志強老師の編纂した混元太極拳は本来、陳式心意混元太極拳。馮老師の二人の氏、陳発科の陳式、胡耀贞の心意(拳)を合わせた名称だ。

 太極拳は意気力の一体化。意気力は神気精、上丹田・中丹田・下丹田と関係している。

 気は意と力を結ぶもの。だから太極拳ではまず「気」を扱えるようになる練習をする。

 気を扱い出すと、気を運びたくなる。そして運ぶと詰まって失敗する。(気者滞)

 そうなって、次第に「意」の重要さを知る。意を通す(意者通)。(この時、全身はすでに気の海で満たされているのが前提となる。)

 なお「意」があっても「気」が通っていないと「力」を発せない、ということが身体ではっきり分かると、「気」を溜めて通す練習をせねば、と地道な練習の意義を再発見する。

 

 その先、「意」はどこから生まれるのだろう?と疑問に思ったら、それが「心」につながる。 「意」は頭、その「意」は胸にある「心」から作られる。これは上に書いたような入静状態に入るとはっきりする。

 達人は「意」ではなく「心」で捌いてしまうのではないか?

 マトリョーシカの入れ子の内側にいればいるほど、相手の表層の動きがスローモーションのようにはっきり見えてしまう。逆に相手は自分のこと(意の種)がわからない。

 意から動きが発するのと心から動きが発するのでは、速さだけでなく質も違うと思う。

 どうだろう?

 スポーツ、芸術方面では例があげられそうだけど・・・。

 誰か思い当たる例を出してくれたら嬉しいです。

 

 力と気の違い、気と意の違い、意と心の違い・・・・太極拳やらずに哲学書や心理学書を読んでいたら永遠に分からなかったと思う。言葉で説明できるものじゃない。体験する方法を伝えられるだけ。

 

 

 

2020/7/22 <喉と横隔膜、気道と食道 喉を閉じる表情、開く表情>

 

  昨夜ブログを書きながら、「喉を開くと横隔膜が広がるようだけど、なぜだろう?」なんて疑問が頭の中に湧いていた。

 喉と横隔膜の関係・・・これは声楽家の専門領域ではないか? そう思って今日早速少し検索したら、「横隔膜を広げて喉の負担を減らす」とか「横隔膜を広げて声帯を広げる」「横隔膜でビブラートをかける」といったような記事がいろいろあった。

 私は、喉を開けば横隔膜が広がる、と感じてたが、その反対、横隔膜を広げると喉が開く、というのも真なり、のようだ。

 

 横隔膜を広げる方法もいろいろと紹介されていた。

 横隔膜は肋骨の下の方にある。肋骨の下に両手を差し込んでその手を押し返すようにする、というのは横隔膜を広げるコツを掴むよい方法かと思った。息を吸わなくても横隔膜は広げられる、というのが分かるはず。腹式呼吸のコツになる。

 横隔膜を広げると喉は広がっているはず。

 

 喉が開く、とはどういうことか?については管楽器の演奏家のブログなども参考になる。

 私はまず、「食道と気道の関係」がよくわかっていなかったから、そこを調べてみた。

 とても分かりやすい図があった。(http://www.fukuchi-dc.com/article/14479235.html

 

こう見ると、食べ物ののルートと息のルートがあるところで交差するのが分かる。

 

別のサイトでは、ここを「魔の交差点」と形容していた。

誤嚥はここで起こるのね・・・と亡くなる前のお義父さんの状態を思い出した。

 

私の感覚での”喉を開く”と言う時の”喉”はまさにこの交差点あたり。ここが開けば、食道、気道、ともに開くだろう。

そうしたら、ある声楽の専門家の方のブログに、「喉を開くという意味」が簡潔に説明してくれているのを見つけた。

https://ameblo.jp/shirochannomusic/entry-12559027046.html

喉を開く、と言う意味は、「喉の奥の空間を広くする」という意味で、

「喉の奥の空間」というのは、左の図の赤丸のところ、と説明してくれている。

まさに私が感じていた場所だった。正確な表現、場所が分かって嬉しい。 

 

そしてそこでは、喉の奥の空間をひろくする方法を教えてくれていた。

 ①口蓋垂を上に引き上げて、②舌根を下げて舌をU字にする、ということだ。

(②はお医者さんが喉を見る時に薄いい板状の器具を舌に置いて押し下げる、あの感じだと思う。)

 

 が、普段私たちは口を閉じて生活している。私の関心はどうやれば息をたくさん吸えるのか(その結果気の量が増える)で、そのための”喉の開き”だったから、この息を発する時の要領は使えない(この口を開けた状態での喉の開き方は、発勁の「ハッ!」の時の要領になる。舌を下に押し付ける、と師父もよく言う。)

 

 普段口を閉じている時に喉の奥の空間を開いておくには、やはり舌を軟口蓋近くまで引いて貼り付けておくことになりそうだ。

 

また別の「管楽器のコツ」というブログには左のような図があって、一目瞭然だった。

そう、前後に開く感じ・・・まあ、舌貼上顎にしたら前後にしか開かないから当然と言えば当然だけど。念の為の確認事項。

http://rohkan.fc2web.com/windbeg.htm

http://www.fukuchi-dc.com/article/14479235.html
http://www.fukuchi-dc.com/article/14479235.html

 

 あと個人的に興味があったのが、食べる時(飲み込む時)の息。

最初のブログに紹介されていた。

 

 飲み込む時は息を止めている(嚥下時無呼吸というらしい)。

 

 逆に言えば、飲み込む時に近い喉をしていたら、気道に入る息の量は減ってしまう。つばを飲み込む時のような口や喉では深い息はできないということだ。

 7/20のメモを書く時に何人かの楊式太極拳の老師の動画を見て、息が詰まっていておかしいなぁ、と思ったのは、あたかも鼻をつまんでつばを飲み込むような表情だったからだと思う。なお、不機嫌な顔をすると口元や喉がつばを飲んだ時の状態に近くなるのが分かると思う。

 

 コロナ感染で世界が混乱しているこの時期、マスクをしているとはいえ、ウッと息を止めたり息を押し殺すことがしょっちゅうある。その時自分の喉がどうなっているのか見て見ると、きっと上の”食べる時”のような喉になっていると思う。 逆に、腹が痛くなるほど笑い転げているときは喉が開きっぱなし。全く面白くなくても微笑して面白いふりしているだけでも免疫力が上がる、とかいうのは、それだけでも息の量が増えるからだと思う。

 身体の内側がかすかに笑っている時はメタボリズムが高くなっている感じがある(波動が高い、とかとも言うのか?)。ある太極拳のマスターから、少し笑いながら打つとものすごい威力になる、と言っていた。笑いでガンを克服した話を聞いたこともある。

 日本では微笑みながら歩いてると変な人に見られがちだけど、マスクしていればバレない・・・マスクの下はいつも笑顔‼️だ。

 

2020/7/21 <深い息をする 喉を開く あくびで開く>

 

   今日は空き時間ができたので生徒さん2人のビデオレッスンを急にすることを決定。

 昨夜呼吸のことを書いたばかりだったので、特にそのうちの1人に対しては息を多くとりこむために喉から胸、腹、そしてできれば恥骨・会陰・肛門まで開くような体勢と要領を教えてみた。

 

 身体が弱そうな人は息が弱い。声が小さい。

 声が大きい人は気が多い。

 腹から喉に向かって押し出せる気(息)の量が多いと声量が大きくなる。

 

 ここで大事なのは、腹底までしっかり息を入れるには喉を開かなければならないということ。

 実際には腹に空気が入る訳はなく横隔膜や骨盤底筋の動きでそう感じるのだけれども、それらを機能させるには喉が詰まっていては無理だ。

 昔、声楽家のグループを教えていたことがあったから、声楽家たちが様々な方法を使って喉を開くことは直に聞いてしっている。喉に指を突っ込んでゲーゲーすることもあるみたいだし、大〜きなあくびを使って喉から下の身体の通路を開通させるような方法も使ったりするようだ。

 あくびは気功法でも使ったりするとても簡単な方法。意識的にあくびをしてその時自分の身体の内側の通路が開くのを観察してみるといい。自分が池の水面で大きな口を開けて餌をねだっている鯉のようになる。口にポトっと餌を入れてもらえば、そのままストンと肛門まで落ちてしまうみたいな、そんな通路が感じられたりしたらパーフェクト。もともと生物は食べて出すの繰り返し。シンプルな動物は消化菅で成り立っている。この管に滞りのないことが健康維持の要。

 

 喉をあくびなどで大きく開けると、それにつられて背骨も後ろに押されて胸腔や腹腔が大きくなる。これによって肺ににもたくさん空気がはいるし、横隔膜、さらに喉を大きく開ければ、骨盤底筋が動く。これによって気、息を腹底に溜めることができる。

 反対に、もし喉を意識的に開かないまま息を腹に入れようとしたら、フーンと息が腹で止まり、腹の前の方に固い塊丹田ができてしまう。固まった丹田をつくると腰にゆとりがなくなり(腰が曲げられない)股関節の可動域も減って動けない銅像のようになってしまう。丹田は腹腰に広げる必要がある。背中、腰側を気で広げるためにも喉を開けることが大事になる。(あくびで喉が開いて内側から外向きに背骨を押す感覚が分かれば、そんなに難しいことではない。文章で書くと難しく思うけど、やれば一瞬で分かるはず。)

 

 喉を開く、という要領は太極拳なあの有名な10個(?)の要領の中にはないけれど、実は、

『下顎内収』と『舌抵上颚』という二つの要領をクリアすると喉が開くようになっている。

 私たち日本人の話す日本語は舌を上にあげて発音する音がないので、舌を上顎に貼り付けておく訓練を少ししないと(以前紹介したヨガの舌のムドラーまではやらなくてよいけど、上顎に貼り付けた舌をできるだけ後方に引く練習をする)喉が開かないのではないかなぁ、と思う。(私はもともと舌がかなり落ちていて寝てる間に舌を噛んで起きたことがあったほど。だからかなり意識的に練習しました。)

 

 裏声を出すのも喉を開いた感じを知る方法。

 裏声は中国語では”頭声”と言うらしく、文字通り、頭の方へ気を通すやり方。

 裏声を出そうとすると分かると思うが、裏声を出す時は下顎を引いて、舌を後ろにひくはず。こうやって喉を開いて私たちは裏声を出している。地声の時と裏声の時と、喉の使い方がどう変わるのか自分でチェックしてみると、喉をどうやって開く要領(『下顎内収』と『舌抵上颚』)の意味がはっきりすると思う。

 

 喉を開く、というのは首を開通させるということ。

 喉が開かないと、頭部とその下の胴体が首で断絶してしまう。

 首、中でも、頚椎7番あたりにある大椎穴は背骨に気を通す時の難関中の難関の場所だ。

 ここを貫通させれば肩や首の筋肉に頼らずに頭部を子供のように立てることができるようになる。首は首の筋肉で立てずに喉(首)を通る気の束で立てる(ようになるように練習する)。そのためにはもちろん、下半身から一つ一つブロックを積み上げて行かなければならないのだけど、下から積み上げる練習をしながらも、上から開けていく練習も組み合わせていくのが太極拳的なアプローチだと私は思う。常に対立する2方向からアプローチ・・・

 

 とかく日本にいると呼吸が浅くなりがち。電車に乗るとまずウッと息を止める。隣に嫌な人が座ってくるとウウッと息を止める。ああ、すみません・・・と言いながら息を止める。コロナでさらに窒息状態に拍車がかかる。不機嫌だと息が止まる。うまくマスクを外して深呼吸できるところ、大笑いできるところを探さなきゃならない。

 

 

 

2020/7/20 <呼吸、息と身体、六字訣・・・そして鄭曼青へ>

人となりがそのまま佇まいと動きと絵になっているようだ。息遣いが人となりを決めるのかもしれません。 

 

 少し前に、あるインドのアストロロジャーから「あなたは呼吸法(プラーナヤマ)を極めるといい。あなたの場合はプラーナーヤマが祈りになる。神への奉仕になる。」そう言われ、そんなものかなぁと真に受けて、ちょうど興味を持ち始めていた呼吸に注目するようになった。

 ヨガにはいろいろな呼吸法がある。マントラを唱えることも呼吸法の一つだ。声、音は息で声帯えることによって出るが、どのような高さのどのような音を出すのかによって身体の中の使い方が変わってくる。

 私は腎に気に溜める感覚を生徒さんに教える時に、六字訣の ”吹chui” の音を使うことが時々ある。が、通常、私は”吹chui”の前に ”呼hu” を教えておく。

 お腹に手を当てて、「フーーーーーー」と息が続かなくなるまでフーの音を出し続けさせる。お腹が膨らんでくるのが分かるはずだ。胸がぺったんこになって苦しくても頑張る。もうだめだ〜!と思った時、大抵は我慢できなくて思いっきり鼻から思いっきり息を吸って胸に入れることになる。溺れそうになって慌てて自ら頭を出した時のように。この時鼻からシューっと息を吸う音が聞こえるはずだ。そして第2ラウンド目の”フー”をやる。今度も息が続かなくなるまでやる。こうやって何ラウンドか繰り返していき、息を吸い込む時に慌てず、息の音をしないように音を吸い込むように指示をする。フーーーで吐き続けてそれで死ぬことは絶対にないから、安心して慌てず音を立てずに息を吸うように、と。

 フーと吐き続けて苦しくて息が吸いたくなった時、「あっ、息の音をさせちゃいけない!」と気づいて用心深く息を吸えたら、あら不思議、その時息は鼻から(上から)ではなく腹やもっと下から吸ったようになる。一度このコツ(身体のメカニズム)が分かれば、それを何度か繰り返すと腹や腰が内側からマッサージされたようになる。

 そこから"吸 chui" に入る。

 ”chui"は日本語の”チュイ”ではない。 chuのchは舌先を上の歯の裏につけて、日本語で「ちぇっ、(面白くない。)」とか言う時の「ち」のときのようにする。舌先を歯の裏につけて「チュッ」とつばが飛びそうなくらい勢いよく息を出したあと、すかさず口の奥をしっかり左右に開いて喉の奥の方で「イー」という。「チュ」で前に飛びそうになったつばを「イ」ですかさず喉の奥に引き戻すのがコツだ(と私は思う)。こう勢いをつけることで「イ」の音が喉の奥の方で横広に広がり、口蓋垂(のどちんこ)で左右に分かれて喉から下へ2本のラインで降りていき左右の腎臓に達する、そんな風になる。両手を後ろに回して左右の手をそれぞれ左右の腎臓のあたりに置いていれば、「chui----------」と「イーー」を続けている間そのあたりが盛り上がってくるのが分かるはずだ。

  いろいろ試してみると、ただの「ウ」では胸あたりまでしか息は達さないが、これに「h」の風の息を足して「フー」にすると腹に達するのが分かるし、逆に「イー」はどうやっても腹にはいかない(腹は凹んでしまう)、背中側にいく音だということもわかる。(日本語の「イ」は口の中で終わってしまいがち。「y」の音が混じるような「yellow」の最初の「イ」くらい喉に近い音にしなければ腰まで届かないことにも気づく。

 武術で発勁する時のhaやheng(哼哈二气)も、そんな音の作用を利用して気を腹に落としたり、あるいは気を貫通させたりすることを狙っている。

 私たちが普段無意識でやっていること、例えばあくび、これも、「あ〜」と言わないで、「い〜」と言ったら、すっきりしない。「う」も「え」も「お」も、あくびとしては不合格。やはりあくびは「あ〜」なのだ。身体の中を一番大きく開けて酸素をいっぱいとりこむ、そうしようとすると身体は「あ〜」の身体になる。

 音で身体を開けることができるし、身体がそうなろうとするとそういう音が出る。

 音で身体が変えられる、と同時に、身体で音が決まってくる。身体⇆音

 

 六字訣が面白いと思ったのは、最後は次第に音を出さないでやる、ということ。

 最初は、へっ?と驚いた。声を出さなかったら六字訣にならないのでは?と。けれど、しばらくやっていたらある時、確かに声を出さない方が身体の中の気の流れ、息の勢いが強くなることがわかった。声を出すと気が外に漏れるのだ。

 音による身体の内側の開き方が分かれば、ある音を出しているようなつもりになればそんな開き方になる。

 

 ・・・ここから話は飛躍してしまうけれど、それが、最近師父に注意された、套路の時には息の音を出さない、それにつながるのだろう。

 そうやって見ると、套路をしている人を見ると、どこで吸ってどこで吐いてどこで止めているか、が分かる。そして、その息が上半身で止まっているのか、足裏まで達しているのか、それまでも見えてくるようだ。套路を唸ってやっていると丹田まで気が落ちても足裏まで落ちない。

 

 ・・・と息に注目して少し動画を見ていたら、中国の老師の動画で比較ができそうなものがありました。楊式はなかなか本物っぽいのにお目にかかれない中、あっ!と目が止まったものも。

 それぞれの鼻の辺りに注目して、その人になったつもりで、鼻からどちらに向かって息が出入りしているか見て(感じて)みると、最初の紺色の老師は静かだけどお澄まし顔で息が少なすぎて胸にも届かなさそうだ。左の白の老師はそれに比べたらも少し元気があるけれど目に鼻が引っ張られて息が丹田から離れてしまってる。最後の女性は演歌歌手?演じているて息が無関係。最後の女性老師は喉で息を止めているのが顕著。こうして見ると、白服の老師を除く3人は喉で息を押し殺したようになっている(なんでだろう?)。これが現在よく見かける楊式太極拳の典型的な演武なのだけれども、これが本来の楊式太極拳だとは到底思えない・・・太極拳たるもの、動きは静かでももっと活き活きしていたはず。

 が、そんな中で、あれ?と驚いたのがこの動画。

 

 私は楊式太極拳の型、形として何が正しい正しくないは知らないのだけれども、息だけに注目すると、常に鼻が丹田まで通っていて、しかもこの老師は息のライン(鼻頭から丹田、会陰、もしくは足裏)が身体よりも先に移動しているのが見て取れる。息の真っ直ぐなラインが先に先に動き、身体はその息の柱に纏う影のようになって、ただ付き添って動いているかのようだ。当然身体は松して柔らかい。頭から足裏まで一斉に動く。うわ〜、すごいなぁ、としばし見入っていました。

 この老師の名前、ローマ字で書いていたからピンとこなかったけど、漢字で書くと鄭曼青。ああ、聞いたことのある有名な老師だ・・と後で分かりました。私が評価できるようなレベルの老師ではないけれど、とてもレベルが高いことは息だけでも分かります。

 https://ameblo.jp/pushinghands0204/entry-12360781057.html

 日本語のウィキペディアが見つけられなかったのでこちらのブログを紹介しますが、「数々の神秘的な伝説があり、「腕なし名人」または「無招勝万招(技がないが、多くの技に勝つ)の拳」と言われている。」とか、「腕力とはまったく関係ないその神秘的の神技は、科学実証主義を第一とするアメリカ政府機関が、超能力、超常現象ではないかと驚嘆せしめ、本格的に実験の対象にしたと言われている。」「鄭曼青は「五絶老人(詩、書、画、医、武の五つでかなう者がない)」と称され、多くの人から尊敬をうけていた。」という記述は英語や中国語サイトの記述と一致します。

 

 全ては息・・・とすれば、息が通れば他のものも通ってしまうのか・・・?

 早速、鄭曼青の作品を調べてみました。 

 さすが・・・中に鄭曼青の写真も混ぜましたが、彼の絵の中にそのまま馴染んでしまう。

 ひととなりがそのまま佇まいと動きと絵になっているよう。息遣いが人となりを決めるのかもしれない、そんな風に思えました。

 見ていてとても気持ちいい。自分の呼吸が安静、安寧になる。太極拳から太極の境地に入って行った老師に違いない。

 

2020/7/18 <私は強い?弱い?>

  生徒さん達との会話の中で、「幼い頃から身体的、精神的に強くなりたいと思っていました。」という言葉を聞いた。子供の頃身体が弱かったのだろう。現在も本当に身体が弱いのかどうか?・・・ 低血圧で耳鳴りのあることは知っているけれど、しょっちゅう病に伏している様子でもないし練習もちゃんと続けているし、そこのところは疑問。でも、彼女は長引く梅雨で身体の調子が悪いらしく「心身が強ければそんなことは意に介さないはずだ。」と言う。
 別の男性の生徒さんは「幼い頃からブルースリーのように強くなりたかった。」と口癖のように言っている。この歳になってもまだそんなことを思うのか?と呆れるけれど、小さな男の子達の遊び方を見ると格闘して敵を倒すことが動物のオスの本能としてインプットされているようだから、仕方がないのかと思う(苦笑)。
 そういう劉師父も、子供の頃から喧嘩で負けなし、警察があてにならない時代には用心棒を頼まれることもよくあったよう。武器を持った複数の敵とどう戦ったなど、数々の武勇伝(?)を語る時の師父の目はきらきら輝き、戦国時代に生まれたら確実に武将として活躍しただろうと本人が言うほどだ。平和時に生まれたのが残念、そのくらい腕っ節が強く、身体に自信のある人もいる。
 馮老師のお宅でお話を聞いた時も、馮老師はとても喧嘩が強かったので、師が拳を教えてくれるに際に、決して喧嘩で拳を使わないことを固く約束をさせられたと、軽くウインクしながら話していたのを覚えている。陳項老師も、まずは家族を守れなければならない、と言っていた。
 自分の身、家族の身、そして周辺の人の身を敵から守れるくらい強くなる、というのは本来の拳の目的だが、男性が本能的に求める身体の強さは、そんな外向きの強さで、女性が「強い男性が好み」という時も同じ”強さ”を指している。
 同じように「身体が強い」と言っても、男性と女性では意味するところが違ったりする。
 女性の場合は普通、「身体が強い」というのは「非常に健康的」という意味で、一昔前なら、子供をたくさん産める、という意味だったのだろうと思う。
 私自身は子供の頃から健康優良児。丸々としていた。憧れていたのは青白くて病弱な女の子。小学生の時はキャンディキャンディの中のアニー、アルプスの少女の中のクララ、魔女っ子メグちゃんの中のノン、元気溌剌な女の子は嫌いだった。それは元気だと親を含め誰も心配してくれないから、そんな単純な理由だった。少し弱いと男の子にも大事にしてもらえる・・・そんなおしゃまさんな気持ちもあったかもしれない。
 一度、子供を産んで娘を抱っこして山手線に乗ってる時に、初老の男性がニコニコしながら私と娘を見ていたが、おもむろに「子供は何人いるの?」と聞いてきたことがある。私が「1人です。」と答えたら、「あんたみたいな人は3人は産まなきゃならない。」と返してきて、なぬ?と思った。どんな風に見られてるんだ、私? 自分が自分を見ているように他人は見ていないものだと思った。
 先天的に身体が丈夫な人は幼少期、青年期、中年前期あたりまではラッキーだ。あまり身体のことを気遣わずにいけてしまう。病弱で生まれるといつも身体を気にしながら生きていかなければならない。が、身体な丈夫な人には落とし穴がある。特に男性に多いけれども、自分の身体を気遣わずに好き放題に使って(過労、飲食、過激なスポーツ)、気がついたら身体が損なわれてしまっていたということはとても多い。身体が少し弱めの男性の方が細く長く生きるかもしれない。気功の先生によくあるのは幼い時に大病をしたというケース。大病を患うといやでも自分の身体と向き合うことになる。
 
 女性の場合は少し複雑。女性は大抵無意識的に自分の身体をチェックする癖がついているから、少し体調が悪いと感じるとやる気が失せてしまう。とても外向的でバリバリと男性並みに活動的な女性だと、朝起きて自分の身体の感じをチェックするよりも前に今日やらなきゃならないことを考え出して、頭と身体を回転させてしまう。だから少々の不調には気づかず突っ走れるし、そのエネルギーの回転によって不調がふっとんでしまうこともよくある。が、これも度を越せば男性のケースと同じ。いつか大病としてつけが回ってくるかもしれない。
 つまり、身体を気にしすぎるのもよくないし、身体を気にしなさすぎるのもよくない、ということだ。
 男性も、私と同じように50代に入った頃から、不調を感じる人、健康に自信がなくなる人が増えてきて、喧嘩で勝つことよりも自分自身の身体をどうにかしようと考える人が多くなる。食生活を変えたり、運動をしたり、健康的になろうと努力する。
 以前、国際松濤館空手の故金澤弘和館長と食事をした時に、なぜ太極拳を練習し始めたのかと質問をしたことがある。その時金澤館長は、52歳の時、弟子達と一緒に走っていた時にこれではもうだめだ、と思ったのがきっかけだ、と言っていた。外家拳の老師がある年齢に達すると引き続き外家拳を教えながらも自分は内家拳を練習する、という、まさにそれだと思った。故金澤館長の場合もそれまでのように、”空手が強い”、というのではなく、”身体を健康に”しなければならないと思ったに違いない。
 最初の女性の生徒さんの話に戻ると、馬力(マッスルパワー)という点では私の方が彼女より馬力はあるだろうけど、身体が強いとか精神が強いとかいうのは単純に比べられない。
 身体が強い、というのを免疫力が高い、と言い換えたら少しは数値で客観的に比べられるのかもしれないけれど、疾患があって手術も受けて弱いはずなのに長生きする人もいるし、強いと思っていたら突然逝ってしまう人もいるから、単純に強い弱いと言えないような気がする。精神力についてはなおさらのこと。
 彼女にも言ったけれど、強いと思ったら強い、弱いと思ったら弱い。
 そんなところがあるのではないかしら?
 強いから強いと思う、というのがスジのように思うかもしれないけれど、
 一度、間違いでも「強い」と思い込んだ人は本当に強くなる。
 暑いのが苦手、寒いのが苦手、と人によっていろんな苦手があるけれど、ただ一回だけでも何かちょっとしたことを乗り越えた時に、ああ、私も案外できるじゃない♪、とそこで即座にその感覚を自分の奥深くに植え付けしまう。うまくいかなかったことは忘れて、タントウ功を30分もできた、すごい♪と自分を褒めて、その感覚をまた植え付けてしまう。そんな成功体験的な”印象”(vasana)をせっせと植え続けているうちに、そんな”強い自分”の傾向(sanskara)が出てきて、自分でも 「強いかも?」、そして「案外強い!」と思えるようになってくる。そうしたらしめたもの。無意識層が「私は強い」に変わったら、少々のことがあってきつくても、どうにかなる、と身体を信用できるだろう。
 劉師父は寒さも暑さもへっちゃらで気にしないのだろう、と思っていたら、ドイツや北欧は寒いから住みたくない、と言って驚いたことがある。中国でマイナス15度のところでも練習していた人なのに・・・と意外だったが、やはり気候の良いところにいたいらしい。ただ、暑くても寒くても耐えられる、と言っていた。「人よりも忍耐力がある」らしい。確かに師父は辛抱強い。が、それは決して生まれ持ったものではなく、これまでの経験でいやでも辛抱しなければならなかったことが多かったからだろう、と師父のこれまでの人生から推し量ることができる。そういえば、師父は今も冬場気温が零下になっても薄いズボン一枚で公園に行って練習している。やはり忍耐力をつける努力はずっと怠っていない。そうやって、「私は忍耐力がある」と言い切れるようになるのだろう。
 
 本当は案外強いのかもしれない。
 そう少しでも思えたら自分に対する風穴が開く。新たな認識が生まれる。
 いつまでも自分の自分に対する評価を固定する必要はないのでは?自分でいかようにも変えられる。変えるならポジティブ、明るい評価に。
 私は案外優しかったりして? 私は案外寛容だったりして? 
 そうしたら言動が優しく寛容になってしまったりする。だって、私は優しい人なんだもの(笑)
 
 自分の奥に入れば入るほど、空洞の”自信”の中に入っていくように感じたりする。
 身体や精神よりも内側にあるところはいつも不可侵の聖域で自信に満ち溢れている。
 太極拳もその場所から動けるようになったらまた全く違った境地になるのだろう・・・(動くと動きに気をとられてまだまだそこにはいられませんが。)
 ヨガで使うマントラ、Ananda Ham (I'm bliss) はそんな場所(かさらに奥?)を指しているように思う。Bliss(至福)は強さも含んでるはず。
 

2020/7/17 <男性マネキンの直立姿勢から分かること 形から精神へ>

 

   7/14に女性のマネキンを紹介しました。男性は女性のように肩を後ろに反らすことはなくて、S字カーブも女性より少なくなる。

 こちらの男性のマネキンで私が惹かれるのはなぜか決まってスーツ姿のマネキン。が、これはどう考えてもそのスーツ姿が好きなだけで、もし同じマネキンがTシャツに短パンだったり裸だったりしたらきっとスルーしてしまう。ただの好み。そんな中で、この体型は理想的(好みとは無関係)と思ったマネキンが一つある。これまで何度か写真を撮ったのだけどいつもショーウインドウのガラスに光が反射してうまくとれない。残念だなぁ、と思っていたのだけど、昨日その店の前を通ったら、あれ、マネキンが回転してる!わぁ〜、いろんな角度から見せてくれるのね♪私のために回ってくれているとしか思えない・・・

 と早速撮影しました。

 道のベンチに座っていたフランス人の若い女性、私が一生懸命男性マネキンを撮影している姿を後ろからずっと見ていたようでした。振り返って目があった時、私は思わず苦笑い。彼女もつられて苦笑い。

 

私が注目したのはこんな点。

①顎が引けて目と耳がが同じ高さ。百会が天を向く。

②耳から垂直に下ろしたライン上に肩がある。

③下ろした腕の肘は腰の高さで腰より後ろ、中指が太ももの側面の胆経ラインにある。

④お腹が収まっている(お腹が飛び出ず骨盤と一体化)

⑤太ももが軽く内旋して腿前面が腿を後ろに押していて、膝の裏がすっきりきれいに伸びている(ハムストリングスが使える、太ももがゴツゴツしていない)

⑥脚がまっすぐ。

⑦アキレス腱すっきり長い。ふくらはぎの位置が高い。

⑧ヒップアップしている(マネキンにとっては当たり前)

⑨背中がゆったり開いてかつ肩甲骨がしっかり出ている。

⑩腰に締まりと弾力がある(頚椎から尾骨までが分断せずに蛇腹として機能できそうな肉付きなので、腰は締まりがあっても弾力があるはず。)

⑪肘(小僧?)が自然に後ろに向くことも注目点→以前話題にしたボリショイのツィスカリーゼがそうでした。

⑫そして最後に、このマネキンの肩と腕の境目のラインの位置。むむ、あそこまで肩?(左の写真なら肩・腕のサポーターの青色の布部分が肩と腕の境目)肩が完全に開くと境目はあのライン。タンクトップを着た時のラインとは全く違う・・・どこまでが肩でどこから腕か? 意識改革が必要だ。(私の右腕のように)腕を回した時に肩まで連動してしまいがちな人は特に。

 

  こんな自然な直立姿勢があっての、ウルトラマンの姿勢(=気を足裏に落とした姿勢 無極タントウ功の姿勢)。

  ウルトラマンの姿勢をさらに進めると、動物が獲物を見つけて飛びかかる前の姿勢(意識的に力(気)を丹田に集めた姿勢)になる。

  

 

今日見かけた彫刻のポスター。

通り過ぎてからあれっ?と引き返して再度見に行きました。

通り過ぎてから、左から動物が付けてきてるのうな気がした・・・それは一瞬左目に入ったこのポスターのパンサーだった。

 

こんな風に動物が歩く時は何か企んでいる時。全身の注意深さが形から現れてくるのはすごいなあ、と思う。

丹田に気を溜めて全身を一つ(周身一家)にすると上丹田の”神”が発せられるようになる、これが一種の注意深さ、隙のなさ、として感じられる。

形(肉体)から精神が生み出され得る、そう納得させられた彫刻との出会い。今日の収穫。

2020/7/16 <自分が前にいるとは? 気と眼神 >

 

 昨日注意されたのが第6式白鹤亮翅で最後に右手を切り上げる動作。

 「前に相手がいるのだから前で打ちなさい。後ろにいたら脅威がない。」

 そう言われてやってみて、「ああ、確かに。自分が前にいれば一歩前に出る速度も速くなりますね。」と言ったら、「その通りだ。」と言ってくれた。

 

 もう一つ注意されたのが息遣い。「息の音が聞こえるような息をしてはいけない」と48式を一通りやった後にそう注意された。「あれ?ウジャイ呼吸(ヨガのocean breeze呼吸)はダメなの?」と内心思って理由がはっきりしなかったが、うちに帰ってから師父が撮ってくれた自分の動画を見たら、なるほど、これではダメだ、と納得した。丹田に気を落とそうと腹に息を吐き込んだ時に息の音が聞こえるような呼吸は、ある段階までは有効だが、気の流れがその度に丹田で止まってしまう。師父や馮老師などのようになめらかに(柔)潤滑に動けるようになるには、音を全く出さずに身体のどこにもあたらないように息を隅から隅まで通り抜けさせなければならない。

 「発勁の時以外には息の音はさせてはいけない、これがあなたの次の課題だ。」と言われた。

 武術では相手に自分の呼吸を読まれたら負けてしまう。相手の呼吸を見るのは卓球の時も同じだった(特にサーブの時)。相手に分からないように呼吸をすることは経験的に知っていたが、最近ヨガのプラーナヤーマをやっていたら、音を全くさせないように深〜い呼吸をすると(長〜くぎりぎりまで吐いて、それから音がしないようにゆっくり吸うと)横隔膜の呼吸になってしまうことに気づいた。するといつも気が腹に満ちているような感覚になる。

 

  そして、実はこの息が、自分を前の方に押し出しておくことにも繋がることも発見。

 意念だけでは身体が前に押し出せない。腹まで息でつなぐことが必要になる。

 

 <自分が身体の前の方にいるか、後ろの方にいるか?>

  太極拳の武術家と言われる人たちは普段でもそのような雰囲気がある。

  その一つが、自分が身体の前の方にいるということ。及び腰、腰が引けている、の反対だ。

  私たち一般人でも、対面で友達と話していて話が盛り上がってくると、自分が前のめりになって自分が相手に近づくように自分が前へ前へ、と出て行く感じになる。一方で、相手に責められて、しょぼんとなってきたり、相手の話がおもしろくないと、自分が後ろの方へ退いていく、引いて行く感じになる。もし椅子に座った姿勢が一緒でも、内側の自分は前の方にいったり、後ろの方にいったりする。これは気の身体、エーテル体の位置の変化。

 

  太極拳の武術家の場合は、気の体が肉体と同じだけかそれ以上に膨らんで気場が広がっているから、相手が接近し辛い。しかも意識が前の方にある(眼神=上丹田がブレない)。眼神は腹から膨らんだ気が充満した結果として現れる・・・

  

 と、このあたりのメカニズムが練習の過程と関連するのだけど、それについての説明はチャレンジングなので日を改めます。(息との関係を説明するのはさらに難しそう・・・)

 とりあえず今日はいくつかの画像を揚げるので、気が充満して意識が前にあるとはどんな風なのか、そうではないケースとの比較で何となく分かってもらえたら良いかと。(いつものことですが、私もこうやって書きながら整理して学んでいます。)

 

 

 <上のGIF動画>

 

 最初の4枚は第6式白鹤亮翅。最初の2人(馮老師と劉師父)は意識が体の前面にあるが、その後の(昔の)私ともう一人の老師の意識は背中側。気功法としては構わないと思うが、武術としての意念、身体の使い方ではない。

 その次の4枚は両手を開く動作。最初の一枚は陈项老师の单鞭、その他3枚 前蹚拗步。陳項老師と馮老師は腹から(身体から)開いているのが分かる。後の2人は気が充満していない中で目が前だけを向いてるから背中側が隙だらけ。背後からすぐに攻められてしまいそう。

 その次の2枚は掩手肱捶。馮老師と生徒さんの違い 腹VS背中 背中側で打つと背中が硬くなる。弾力がない。腹=気で打つとしなやか。

 最後の付け足しは懐かしい師父と私の動画。もこもこダウンで身体ははっきり見えないが、師父は前面に、私は背中側に意識がある。私の腰が落ちてる?

 

<追記>

 下の動画を見ると、実践では、”前にいる”=優勢 というのが分かると思います。

 さすがブルースリー♪

2020/7/15 <師の動画を撮る 師との関係>

 

   昨日、今日と師父の套路(48式)の動画を撮った。

 「”人误地一时,地误人一年”というだろう?だから今撮らなきゃならない。」と言い出したのが2日前。どう意味かと尋ねたら、「種を蒔く時期を逸すると翌年まで待たなければならないという意味だ。」と教えてくれたが、それがなぜ今この時期に動画を撮ることに繋がるのかすぐにはピンとこなかった。

 昨日三脚を用意して来た私に、24式は適当に流して、48式を撮ってくれ、と師父は言って来た。最初私は師父の後ろで24式をやったのだけど、師父の身体に隠れて映らないところがある。師父はそんなこと御構い無し・・・その時、ふと、一昨日の会話を思い出した。ああ、師父は自分自身の動きを撮ってチェックしたかったんだ・・・

 

 私が師父に中国の王戦軍の動画(7/13のメモの最後に載せたGIF写真の元の動画)を見せたのは4日ほど前。最初師父はそれが王戦軍とは分からなかった。が、それがそうだと分かると、ああ、中国ではもうこんな風になってしまってるのか、それもこれも共産党のせいだ!といつもの共産党批判に話が流れかけた・・・真の太極拳は共産党が国民体操に定めたところで廃れてしまった、陳家溝も形だけだ・・・と。私が見ても中国の主流の太極拳は健康体操か、もしくは力の武術になっていて、道教の修行法を取り入れた太極を目指した太極拳を教える老師はほとんどいない。真の老師はHPなんて書かないし、生徒を集めようともしないから探し出せなくても仕方がないのかもしれない。が、そもそも、真の×××がいなくなってしまったというのは太極拳だけに限らない。ピアニストを見ていてもそうだし、ダンサーを見ていてもそう。インドのグルだってそうだろう。そしてこっちで毎週日曜日に公園で見かける空手の練習も、日本人から見るとかなり違和感のある動き。そう見ると、どんな分野でも”正しい形”を普及させるだけでも大変なこと、真髄が薄れてしまうのも仕方がないかと思ったしもする。「大衆に分かるものは真理ではない。」と言ったのはサルトルかボーヴォワールか忘れたけれど、真理はいつも少数派のもの。共産党がいなくてもそうなっていたのでは? とうまく師父を慰めようとしたけど、そんな簡単なものではなかった。

 

 が、そんな時代の大きな流れより私が気になるのは、自らが師父、大先生、有名な老師などになると、誰も過ちを正してくれない、裸の王様状態になる危険性があるという事実。

 王戦軍に関しては、師である父親の王西安を信用せず、代わりに師爷の馮志強老師を師と思っている、という話を聞いたことがあるが、馮老師がこの世を去った今、王戦軍を導く師がいるかどうか分からない。素人目にみても体型が歪になっていっているのに本人も周囲の人も気づかないのか? 私が、王戦軍もあの動画を見たら自分で気づくはずだと思うけど?、と冗談交じりに言ったら、師父は「中国であのような著名な老師を批判するようなことをするのは危ないからやめなさい。」と真面目な顔で答えた。

 

 いわゆる師とよばれる人達はとても孤独な道を進むのかもしれない。

 弟子のうちは師が導いてくれる。間違っていれば直してくれる。

 師はどうやって自らを導くのか?

 30代前半に気功を学んでいた頃、高名な老師が、こうやって腹で呼吸をする、と舞台上で示範しながら胸式呼吸をしていて驚いたことがあった。なんだか足元が以前よりふらついてるなぁ、と見ていたけれど、加齢とともに昔と同じように機械的に練習を続けていると次第に誤差が大きくなってくる。練習は常に微調整が必要だけれども、それを手探りで一人でやっていくのは大変なんだろうと思った。

 

 ・・・・そんな一連の話を師父にした後のことだった。師父が動画を撮るから三脚を持って来なさい、と言い出したのは。

 24式を一緒にやりながら、師父の目的がはっきりしたので、その後の48式は、師父一人でやってもらうことにした。そして、師父が自分の動きをはっきりと見えるように、三脚で遠くから撮るのではなく私が手にカメラを持って近くで撮ることにした。

 

 48式を一通りやり終わった師父は、第△△式と第○○式の二つがうまくいかなかった、と苦笑いしながら言った。私は撮りながら別の箇所に疑問があったので、第××式のここはこうなっていたけれど・・・どうでしょう? と注意を促した。師父は、そこは大丈夫だ、後で動画を見るから送ってくれ、と言い、昨日はそれで別れた。

 

  今日は昨日の良くなかった点を改めて再度動画を撮ることにしていた。

  朝一番公園で顔を合わすなり、師父は私に「あなたが昨日指摘した点は全くその通りだった、他にも良くなかった点があったら言って欲しい。」と言って来た。それまでの師父からは考えられないような言葉だった。師父は昨日家で動画をチェックしたら、自分が満足できない箇所が思ったより多かったと言った。そのうちの一つは私が数年前に指摘して師父の機嫌を損ねさせてしまった点だった。「これからも私はあなたを引き続き教えるが、あなたも気づいたことがあったら私に言って欲しい。一緒に協力して練習しよう。」と師父は言った。

  そして再度48式を撮った。

  今日の動画のできは昨日のよりは良いとは言っていたが、満足はできていないようだった。 

 (とは言っても、私の比ではないレベル。私にはまだまだ師のような切れ目のない柔らかい動きはできない。ただ下半身が強くて安定している、その一点が師父が私を羨むところ。)

 

  2006年に師父について練習を始めた時は、師父は雲の上の上の人。師父が苦労して私に内側の動きを教えてくれてからは、いつの日か師父が私がいることで練習にさらに精が出るようになればよいなぁ、と思うようになった。私は私で教えがいのある弟子になりたかった。その後”見る目”が培われてきたら、太極拳のことで対等に意見を交わせるようになりたい、と思うようになり、次第にそうなってきた。そして今回の滞在で、その関係性が協力関係も帯びるようになってきたような感がある。これは私にとってはとても理想的な関係なのだけど、子供が成人して一人前になった、と言えるにはもう数段レベルアップしなければならない。功夫が未熟なことの言い訳ができなくなりつつある。

 

2020/7/14 <肩が後ろに引けるということ>

 この練習をすればするほど気づくのは、自分の姿勢が良くないという事実。こんなに捻れてしまっている、こんなに固まってしまっている、と直ぐには治らない長年ついた身体の癖を少しづつ少しつづ調整し続けている。
 もともと身体に対するコンプレックスが強いからなおさら身体に対する意識が強くなるのだろう。街を歩いていてもすぐに”身体”に目が行ってしまう。
 今回パリに来て最初に気づいたのが、マネキンの体つきの違い。そういえば以前ロシアに行った時もマネキンのお尻がかっこよくて写真を取っていたっけ。
 こちらで見る若い女性のマネキンは、ああ、そうだったのか、と目から鱗だった。

 

どれも肩が随分後ろに引けているのだ。

腕が体側よりも後ろに垂れ下がっている。

 

昨年こちらに遊びに来た時の娘の写真もそんな風に写っていた。22歳・・・中学生までバレエを習っていた名残がまだ残っている。

 

若い子の場合、後ろに引けた肩は胸ではなく腹でバランスをとっている。胸は突き出していない。

 

胸を突き出すと顎が上がってしまう。

下顎をきちんと収めれば胸は下がって腹に力が出る(首や背中の筋肉が硬直していないのが前提。大椎ツボが関門になる。大人になると首の付け根周辺が固まってしまうので顎を引いても胸骨が動かない場合が多いようだ。)

 

  下の水着のマネキンを見ると丹田がしっかりしているのが良く分かる。

  腰が反って腹が突き出てしまうのではなく、肩を後ろに引いて(鎖骨や肩甲骨が十分に稼働できるようにする)顎を引くことで頭を立てると、胸の気が腹に落ちて腹の重さでバランスをとることになってしまう、そうやってできた自然の丹田で立っている。(最終的なバランスはその下の股関節:環跳ツボでとる。自然にヒップアップする。)

  腰を反った場合は顎が上がって胸が突き出てしまう。腹に気が落ちないので丹田にならない。

 

 子供の背中はこんな風になっている。

 頚椎(首)と胸椎(背中)には境目がないのだ。

 そして、胸椎(背中)と腰椎(腰)にも境界はない。

 すると、上のマネキンのように肩は腰よりも後ろに位置し、背中や腰は凹んで身体の前面は腹に向けて次第に凸になっていく。

 

 

 

 男性も20代になる頃には随分筋肉がつき、背骨のS字カーブを使わずに首を立てることができるようになってしまう。

首(頚椎)が胸椎以下から分離する。

首や肩周りが硬くなっていく。

 (写真は私が公園で一人で練習していたら戦いを挑んで来た男性。タントウ功をさせました。笑)

 

 こうなると、顎を引いただけでは胸椎は動かず胸の気を腹に落とすことができない。他の操作を併用しなければならない。

 冬に近所で見かけたおしゃれな女性はその年齢とは思えないような歩き方をしていてびっくりした。

肩を引いてこのように歩ける老人はなかなかいない。

 

 普通は老人でなくても前肩になり背中が丸くなる(私も気を抜くと・・・こうやって夢中になってパソコンを長い間打っていると次第に姿勢が崩れてきてる!)。

 

 肩が後ろに引けなくなる最初の理由は腹の重し(先天の気)がなくなるからだと思うけれども、一度肩が前に入ってくると肩甲骨も動かなくなり首も固まり、一気に首や背中が硬くなる。ここが固まると腰も動かなくなってくる。本来のS字カーブが消失し身体のバネがなくなっていく。

 

下の二枚の写真はお気に入り。

左はかっこいいおじさん♪と撮ったけど、やはり頭が前になって首が収まっていない。老夫婦も背中が老父婦だと分かる。右端の座った女性も前肩になって背骨のS字カーブがなくなってる(前肩になると骨盤も立たない)。

 とは言っても、裸で暮らしている一部の人達以外は皆こんなものだから、、これは自然な身体の変化、それはそれで味があると思う。必死になって身体のリメイクばかり考えているのも不自然な気がする。心身の修練をして身体をそれなりに保てればよいのかもと思う。私達は決して若くはならない。皆一緒に歳をとる。

 

 とはいえ、師父は首こり、肩こりがないというから羨ましいかぎり。今回のパリ滞在中の私の目標は首こり、肩こりゼロかなぁ。跳んだり跳ねたりするよりずっと難しい・・・

2020/7/13 <直立姿勢を見直す 会陰を引き上げて骨盤を立てる 氾臀から斂臀へ>

 

  昨日のウルトラマンを師父に見せたら、師父は、この線がとても良い、と百会から督脈を通って尾骨、そしてそのまま地面に延長した線(私が青色で描いた線)をなぞってくれた。ウルトラマン、ちょっとしたギャグだったのに、全くニコリともしなかった。ウルトラマンを知らないだろうから仕方がない、いや、師父には冗談というものが全く通用しないし、そもそも中国人はユーモアのセンスが違うのかもしれない・・・笑いがとれないのはいつものことだから私はめげない(苦笑)

 

    師父は、「頭頂から督脈を通って尾骨を真っ直ぐ地面の方に落とすと、その線はこの辺りに落ちるんだ。」と自らウルトラマンのように立って、尾骨から下へ指を下ろして言って、自分の両足の踵を結んだ線よりも少し後ろに指を指した。「以前教えたはずだ。」そう言われて、両足と尾骨を伸ばした架空の尻尾が、三脚のようになるのを思い出した。

 

  私はこの時尾骨は垂らすのかな?と思い、「溜臀ですね?」と言ったら、師父は、「違う、少し氾臀だ。お尻が上がってるだろう。」とウルトラマンのお尻を指して、「こういうお尻は很好(とても良い)。」と真剣な顔で言った。

「このウルトラマンは本当の人じゃなくて作り物なんですけど・・・」と私はぶつぶつ言ったけど、そんなことはどうでもよいようだった。

 

 顎を引いて腰を反らずに下向きに気を落としながら、かつ骨盤を立てて(もしくは多少前傾させて)尾骨を少し上げるのは、子供にはできても私達大人にはなかなかできない技だ。

 このウルトラマンの中に入っている人の年齢はどのくらいでしょう?とクイズを出したら、大体の人は20代と答えるのでは? 40代でこのくらい立てたらすごいだろうし、ましてや、60代や70代でこんな風に立っていたら皆驚くだろう。

 

 このように立てるには、筋トレで鍛えるような筋肉だけでなく、私達の身体を構成するあらゆるものを調整する必要がある。老化は筋肉や骨の衰えだとスクワットをしたりひたすら歩いたりするだけではなく、筋肉を動かす神経自体を活性化させるような”意”(脳による司令)を気によって運ぶような練習が必要になる。

 姿勢を意識的に保持するだけでかなりの運動量になる。

 

 そして上のウルトラマンの「氾臀」だが、ここにとても重要な要領が隠れている。それは会陰や肛門が引き上がっているということ。

 直立で会陰や肛門を引き上げて「氾臀」できなければ、会陰を引き上げたまま「斂臀」をすることはとても難しいだろう。というのは、会陰や肛門を引き上げようとすると、お尻は突き出した方が簡単だからだ。

 

<横道に逸れます>

 スクワットの時、会陰や肛門をちゃんと引き上げられれば(骨盤が立てば)、ハムストリング(太腿の裏側の筋肉)を引き伸ばして座ることができる(から楽チン)。会陰や肛門が上げられないと(骨盤が立たないと)太腿前面の縮んで固まった筋肉に座ることになる。その硬くなった筋肉がブルブルして忍耐が必要になる。

  ・・・と、写真検索したら、思いの外、いろんなスクワットがあってびっくり。それぞれ鍛えている場所が違う。

 私が思っていたスクワットの形は一段目の左端の黒タイツの女性。会陰と肛門が引き上がり、ハムストリングスが伸びている。美しい形。 隣の一段目真ん中の男性もだいたいできている。お尻の突き出た感じ(会陰の引き上げ)が左の女性に敵わないのは男性の方が骨盤の可動域が狭いから仕方がないかなぁ(おそらくお尻と太腿の境目のあたりは使えていないと思う)

 一段目右端は力を入れすぎて全ての筋肉が固まってしまった例。両手を拳にせず開けばよかったのに、と思う。形はそこそこいけてるのに残念。全身を固めると会陰が引き上げられなくなってしまう例。

 中段は3つとも腰を反り過ぎた例(命門を閉じてしまっている=会陰が上がっていない)。こうすると腰で上半身と下半身が分断して気が脚を貫通せず、仙骨からお尻と足裏の力に頼ることになる。脚(ハムストリングス)の力が使えないから、この状態から前方に跳ねることができない(跳ねようとしたらダイレクトに膝に負担がかかってしまう)。

 下段の左端の男性は骨盤が立っていない(尾骨が前方に巻いたまま、会陰が上がっていない)。前に差し出した両手と上半身でどうにか倒れないようにバランスを取っている。真ん中の女性はまだ股関節に座れてない、スクワットになっていない。逆に一番右は座り過ぎて太腿がすっこぬけている(前面も裏側も縮んでいる:太腿が短くなっている)。気が太腿で分断して脛下の力に頼っている(これも前に跳べない)。 

 

  ということで、上の写真の中で会陰や肛門が引き上がっているのは最初の2枚。

  二段目の腰の反ったものは、肛門は引き上がっているかもしれないが、会陰がきちんと引き上がっていない(会陰をが引き上げられれば命門が開くから上半身と下半身が断絶しない)。

  

 座る時、坐骨に座れば骨盤は立つ。尾骨には座らない。

 そして私達が骨盤を立てて座ろうとするなら(坐骨に座ろうとするなら)往往にしてお尻を出して座ったような感じ、太腿に座るような感じになる。

 すると多くの人は腰が反ってしまう。(余裕ある女性は是非この動画の20分あたりを見てみて下さい。叶姉妹が「お尻の山を潰さない」セレブな座り方を教えてくださっています。→https://youtu.be/3kOujJ7bLMg 坐骨に座って骨盤は立っていますが腰は反っています。)

 

 この時、腰を反らせないように踏ん張るには腹の力、丹田の力が必要になる。

 お尻を出して骨盤が前回転して腰が反りそうになるのを、腹の気で骨盤を後ろ回転させて寄り戻しをかけるような力が必要だ。

 順番としては、まず氾臀させて、それから腹の気で斂臀をかけるような力の使い方だ。

 これを逆の順番にやってもうまくいかない。

 

 

  すなわち、太極拳では最初に「斂臀」が要求されるけれど、その前提として通常の直立姿勢が「氾臀」であることが要求されていると思えてならない。

  それは初めから背骨のS字カーブがない人に、背骨を真っ直ぐにするように要求するとかえって腰を痛めてしまうのと同じ。練習を始める前にその人の自然な姿勢に注意して指導をする必要がある。

  練習すればするほどウルトラマンのような立派な直立に近づいていかなければならない。すればするほど不自然な直立姿になっていくとしたら方向を間違えている。普段の姿勢をチェックすれば練習がうまくいっているかどうか分かる。そして普段の姿勢を意識的に調整すること自体が練習になってしまう。

<付け足し>

左は衝撃を受けた動画の一部。

現在中国で最も強いと言われている陳家溝の王戦軍。

含胸抜背を教えているというから参照しようと見たら、頭がかなり前に出ている!首の曲がりがひどい。

師父に動画を見せたら、これが王戦軍とは信じられなかったようだった(ぱっと見では老人だと思ったらしい)。

 

 最近は中国でも太極拳はほとんどスポーツもしくは健康体操になってしまった。

 時間をかけて丹田に気を溜めて気で身体を操ろうとするような時間的余裕もなくなってしまったかのよう。

2020/7/12 <タントウ功の目的とイメージをはっきりさせる>

 

  昨日は師父に含胸と抜背の関係を教えてもらうつもりで動画を撮ったが、実際には、師父は、太極拳の基礎となるタントウ功のやり方を教えてくれたのだった。

 

 今日師父に、「本当は含胸と抜背のことだけに絞って撮りたかったのに・・・。」と言ったら、「建物全体のことを論じずに、どうやって、例えば1階の入り口のドアと3階の部屋の窓の関係を語れと言うのか?」と切り返された。

 そう言われてみると、確かに、虚領頂勁という頭のてっぺんの要領から始まり、上から下、足までの要領をそこそこ揃えて、普段は胸あたりにある気を足先まで貫通させ、丹田に重心がくるようにある程度立てるようになって初めて各々の要領について語ることができる。

 つまり、タントウ功を語らずに含胸と抜背だけを語ることはできなかった。

 

 私自身ラッキーだったのは、何度も師父に説明を繰り返してもらい、しかもそれに字幕をつけたりしたものだから、初心者がタントウ功をする際にネックとなる点、そして多くの人が間違えてしまう点、自分自身が教える際の指導の順番、気をつける点、などが随分はっきりしたということ。

 (昨日の動画で 注意し忘れた会陰の引き上げについては、今日の日付で下に別メモとして書きました。)

 

 (通常タントウ功は師に定期的に直してもらいながら行うが、もし)一人でタントウ功を練習する場合は、タントウ功の目的、イメージをはっきりさせておくことがとても重要だ。イメージが間違えているとやればやるほど誤差が大きくなってその後の修正が大変になってしまう。目的とイメージが合っていれば一人で練習しても方向性が合っているので大きな誤差は生まれないだろう。

 

 タントウ功は、普段私達の重心が胸近くに上がってしまっているのを、本来の腹に据え戻すことが目的で、それにより、下半身がどっしり安定してくる。

 武術だけでなく、人間がどんな営みをしようとも、重心が臍、腹、にあることはとても大事なことだ。健康上もそれが必要とされる。これがブレてくると身体や精神に異常が出てくる。肩こりだってその一つ。私達、ほとんど全ての大人は異常な状態で生活している、と思って間違いない。その根本は気が腹に落ちていないこと。腹の気が満ちていないこと。

 子供の頃は腹が気でパンパンで身体に重さがなく身体に引っ張られることがなかった。無意識的な太極状態だった。が、大人になると、ここが痛い、あそこが調子が悪い、だるい、重い・・・と四六時中身体にひっぱられてしまいがち。 このあたりと修正するのが最初の目的だ。

 

 イメージは「上虚下実」。 上は軽く、下が重い。上を軽くすれば下が重くなる。上が重いまま下を重くしたら全身ガチガチになる(中腰の多い太極拳ではそうなりがちなので特に注意)。

 上実下虚にすると、気は心臓や頭の方にのぼり、高血圧や心臓病、脳梗塞などの原因になる。

 山のように立つ。足の方に力がしっかり下りるように立つ。そびえ立つ。

 そう、こんな感じ♪

https://kaiyodo.co.jp/k-blog/character-classics/b=1753/

 

 

 股関節や膝裏を緩めずに直立するならこのウルトラマンのようになる。

 後頭部から首→背中→腰→尾骨、頭から太腿裏側→ふくらはぎ→アキレス腱→踵→足裏→足指、のラインが、緩みのないようにピーンと張った状態(撑)。

 師父が直立している時はまさにこんな風。台所で作業している時もピンと張っている。

が、それは内気が充満して身体が膨らんだ結果現れるピーンというハリ(ボトックス注射で皮膚がピーンとなるようなもの?)決して筋肉を緊張させてできるものではない(筋肉を緊張させると縮まるからピーンとならない。逆に筋肉が伸びるように働いている。)

 

 このウルトラマンは気が上から下向きに通っているからとても安定感がある。重心はパンツのあたりかと。

 

 これを見てから下の様々なイラストを見ると、子供を除く一般的な人間の重心は肩か胸にあることが分かる。足に力がおちていない(お相撲さんなのに・・・地を踏みしめていない 苦笑)。

 

 やはり真のお手本はこのようなお方たち。

 優しいお顔でもどっしり安定感がある。そして柔らかい。

 究極的な太極拳的理想はここにあるのかも・・・

 必死に立つのではなく力を抜いて優雅に立つ。タントウ功のイメージに使ってみよう。

2020/7/12  <昨日の動画の補足>

  

      含胸のあと、塌腰をしたが、その時には会陰を引き上げていなければならない。

  含胸は会陰を引き上げていなくてもできるが、塌腰の時に会陰を引き上げていなかったら気を下げる代わりに身体が落ちてしまう:膝に乗ってしまう。

  実際には、塌腰をする前、丹田の気で命門を押し開く時に会陰を引き上げている。会陰を引き上げないと命門が開かない。命門を開かないと気の運行が始まらない。命門を開かずに運動をしていると腰が固まり股関節や膝に負担をかける(太腿の筋肉が固まる)ので注意。

2020/7/11 <含胸→塌腰 松胯→抜背 周天への準備>

 

  昨日一昨日と”含胸と抜背の関係”について書いたが、改めて調べてみると、中国でも老師によって「抜背」の意味するところが微妙に違っていたりする。

 実際には「抜く」と言う限りは「背骨を抜く」必要があるのだが、ただ「背中を広げる」という意味で「抜背」を使うことも多々あるようだ。

 


 注意しなければならないのは、中国での「背」「腰」の位置は、日本のそれとは異なるということ。太極拳を学ぶ時はそれを知っていないと大問題になる。

 背中は胸椎、腰は腰椎、仙骨以下は胯(kua 股関節)の領域だとしっかり覚えておくこと。

 

 左の上中下、は三焦(上焦、中焦、下焦)に対応する。

 

 含胸は上焦の動き。

 含胸をすると背中が広がるのはあたりまえ、

 

 この時、虚霊を逸すると昨日見せたラクダの背中になってしまう。

が、百会を上に向けたまま含胸ができるのか?

百会を上に向けたまま、ということは肩の位置を変えないまま、ということ。前肩にならずに含胸をするのは通常の大人にはとても難しい(動画では師父は簡単にやっているけど)。

 

 含胸→背中が広がる、これで抜背ができた、とは本当はいえない。

 このあと、命門を開いて塌腰(腰を抜く)して初めて抜背が現れる。

 頭頂を動かさなければ、上から下向きにそこそこ抜背(脊椎と脊椎の間の隙間を開けていく)ができるが、完璧にやるには、一度は、尾骨を引き下げて命門から尾骨まで気を注ぎ下ろすその反射的な作用として、命門から上向きに督脈沿いのツボを開けていく必要がある。

 一度開けられれば、そのあとは、下向きにも上向きにも気を通すことができるようになる(周天へとつながる)。

 

 と、言葉で説明するととても難しそうになるけれども、実は、含胸から塌腰へつなぐことがきちんとできれば、その後は自動的に進んでしまう。

 難しいのは含胸から気を腹に下ろして、丹田で内気を増やしてその圧力で命門を開けるところ。

 命門が開けられるようになれば、その後はスムーズにいく。

 ここがその後、気功としての太極拳になるのか否かの分かれ目になる。

 

 このあたりを師父にやってもらおうと動画を撮りました。

 が、肝心の内気の流れ、師父が一瞬のうちにやって通り過ぎてしまうので、私達の参考にならない!何度もやり直してもらいました。(動画に字幕で説明をつけたので参考にして下さい。)

 

 できるようになれば、一瞬のうちにできてしまうことも、最初は時間をかけて一歩一歩進むしかない・・・含胸、松胯で腹に気を下ろすのに最初は随分時間がかかる、そして、命門を開けられるだけの丹田の気の量を増やすのにまた時間がかかる。毎日タントウ功や内功をするのはせっせと気を溜めるため。一旦命門が開けられればその先、気を運行させながら練習できるようになります。

 

2020/7/10 <含胸と抜背の関係② 外形の抜背と気を使った抜背>

昨日の続き。

 今日再度師父と話して理解したのは、私が抜背と思っていた状態は、師父によると、抜背そのものではなく、抜背ができて周天ができるようになった時に逆循環で周天をするための「行気」の方法でした。訂正します。(行気については改めて説明します。)

 

 師父の説明を整理すると、含胸で気を腹に落とした後、まずその腹(中丹田)の気を使って後ろの命門を開ける。これが第一歩。

 命門が開けられたら、臍→命門そして命門から下向きに仙骨そして尾骨へと気を下ろすように意識を使う。

 命門から督脈沿いを下向きに下ろすに伴い、命門から上向きに上がっていく気が必ずある。

 この上向きに気が流れていく時に、背骨がところどころポキッ、ポキッ、っと鳴ることもある。これによって督脈を上向きに開けていく、これが「抜背」。

 

 下向きに下ろす気の量が増えれば増えるほど、上むきに上がる気の量も増える。

 この現象を 「下一寸上三尺」 のように表現するようだが、下に(=仙骨、尾骨方向へ)一寸気が降りれば、命門から上方向に三尺(大げさではあるけど)上がる。誇張しているのは、下方向へ下ろすことがどれだけ大変かということ。ずっと昔に馮志強老師の一番弟子の陳項老師の講義録を紹介したことがあったような気がするが、その講義録には、命門から下向きに気を下ろして尾骨まで気を通す辛抱強い過程が述べられていた。

 絶対に上むきに通そうとしない!

 気が背中を上がってくると、早く背骨を通してしまいたい、という誘惑にかられて、ついついそこに意識が行ってしまう。ということは丹田から離れてしまっている。もう少しでポキっと開きそう、とそこに気を通してやろう、とやってしまうと、気がそこで詰まってしまって痛い思いをすることもある。気を追いかけてはいけない。個人は、「気者、滞」と気を追いかけることを戒めている(とはいっても、ついつい気の流れを追いかけてしまう。生徒さんたちを見ていても、気の流れが分かるようになると皆気を追いかけてしまっている。失敗しながら、次第に気の傍観者、「意者、通」になっていくようだ。)

 

 師父の話してくれた「抜背」を手書きの絵で示すとこんな感じ。

 

  太極拳の練習で注意しなければならないのは、太極拳の経典の掲げる要領は、出発点として背骨にちゃんとS字カーブのある体を想定していること。日本人の中には平腰の人も案外いて、その人達に同じように命門を開くような指導をすると腰痛になってしまう。その場合はまずS字カーブを取り戻させる必要がある。

 

  含胸・抜背がほぼできるようになると、背骨が牽引されたように長くなる。

 


  一方、大抵のサイトでは(中国のサイトを含めて)、含胸と抜背は同時に起こる現象のように説明されている。含胸も抜背も気の流れは上→下向き。

  師父にこの事実を伝えたら、それは間違っている、と一言。が、さらに話し込んでいってわかったのは、それは最初の外形をおおざっぱに示したにすぎないということ。

 実際に試して見るとわかるが、直立から胸を押し込んでいくと、(松の要領がわからない)初心者の場合は特に、猫背のようになってしまう。電車で眠り込んで椅子からずり落ちそうに座っている人のような姿勢、バナナのような姿勢だ。

 このバナナ姿勢では骨盤が寝てしまっているので胯を松するという要領を満たせない(鼠蹊部が緩まない)し、そもそも頭が倒れて中正を失ってしまっている→右の図。

 

 もしできるだけ中正を失わないように胸を後ろにひいた場合は肩甲骨のある背中部分が盛り上がり、命門の位置する腰は凹んだままになる(らくだの背中:驼背)

 

 含胸をして松胯をすればここまで極端ならくだの背中にはならないが、それでも多少腰の凹みは残る。

骨盤を前に滑らさずに腰を開く(命門を開ける)には、上で示したような気の操作が必要になる。

 しばらく静かに立って胸の気が腹へ落ちてくるのを待つ必要がある。

 

 

 

 ちなみに猫背は中国語では哈腰。

低頭と合わせて「低頭哈腰」とよく四字熟語で使われる。

 

 中国サイトではその例としてこんな写真が使われていた(ショック・・・)

 

最終的にはこんな風な背中とお腹になる・・・ゆったり、どっしりになる。

 

狭義では督脈のツボを開けていって貫通させるのが「抜背」では?

 

ただ背中を広げるだけなら、「抜く」という漢字は不必要。開背、で事足りる。

何を抜くのか?

背骨を抜く、背骨を引き抜く、すなわち、ツボを開けていって督脈を貫通させる、これが「抜」の意味だと思う(師父も同意してくれた)。

 

背骨を抜いて、背中を開く。

背中を開こうとすると背骨は抜けない。

が、最初の外形は背中を少し開いておく。

それから内気を使って命門から背骨沿いを開けていく、督脈が開いて背骨が抜けてくると、背中はさらに開く。

このあたりは急がず少しずつやるしかない。

気を溜めたり気を動かしたりするのはマスターでない限り一瞬ではできないので。

2020/7/9 <含胸と抜背、裏表? 別物?>

 

   ネットサーフィンしていたら「太極拳から学ぶ会」という別の組織があることを知った。主催しているのは様々なボディーワークや中国拳法を学んできた方で身体の使い方の説明が私より専門的で参考になると思った。

 その中で、あら?そうなんだ・・・と読んだのが「含胸」と「抜背」の関係。

 これら二つは同じことを示すとしながらも、人には「含胸」を意識した方が軸のとりやすいタイプと、「抜背」を意識した方が軸をとりやすいタイプがいるという。

 (https://note.com/kuroneko2019/n/ne31c399d871b

 自分はどっちなのかなぁ?

  (「含胸抜背のコツについてはhttps://note.com/kuroneko2019/n/n645c039c9cbd

 

 今日は昨夜の自宅設宴の後遺症で朝から疲労感がマックスだった。

 練習では動くよりも静かに立っていたかったので套路をやる師父から離れて一人でタントウ功をしていた。

 疲れていると余計なことを考える気もしないから入静状態に入りやすい。

 放松して気の流れを整えられれば十分・・・

 数十分立って出てこようとした時に、あれ?と思った。

 「含胸と抜背は全く違う、逆さまなのではないか?」

 頭の中に浮かんだのは、)と( 。

 含胸が )なら 抜背は (  (=背骨です。 

 

  ←やはり )と( では伝えられなさそうなので、ざっとイメージ図を書いてみました。

 

 抜背が背中を緩める、ということなら、背中の皮に肉が貼り付いてしまうような=含胸と同じような ) ではだめなのでは?

 実際、背中が心地よく開くのは、どちらかと言えば ( 。

 斂臀ではなく氾臀に転換させた後だ。

 

 

  含胸の時に作られる背中の弧は斂臀へとつながる。

  このとき背中は前から押されて押し広げられるけれども、これは広がっただけで、”抜いた”感じにはならない=背中が広がっても背骨が抜かれる感覚がとれない。

  背中が空気を含んで背骨がはっきりするのは氾臀にしてからなんだけれども・・・自分のさっきの感覚では。

 

 そのあと、以前私が肩甲骨のへりが凝って痛かった時に、師父が背中を楽にする姿勢を教えてくれたのを思い出した。それは氾臀で多少背中を( 気味にする姿勢。

 小学校の時に意味不明だった、ラジオ体操第2の中の動作もこの姿勢だ。

 

https://www.jp-life.japanpost.jp/radio/instruction/folder2/
https://www.jp-life.japanpost.jp/radio/instruction/folder2/

 このサイトの説明では背筋を強化する、となっているが、ラジオ体操は元々、筋骨皮を鍛える体操だからしかたがない。この運動を気の運行を使った運動として百会から会陰まで繋いでやれば、背筋に負担はかからない。背中を緩めて背骨を引き伸ばすことができる(脊椎間の隙間を開ける)。そうすることにより背骨の可動域、柔軟性を上げることにつながっていく。

 

 先日(6/27)のブログで紹介したヨガマスターのこの中心軸で立つポーズも同じ。

このように立つと背中を固めることなく背骨をしっかり引き伸ばすことができる。

 

 左の写真をみると分かると思うが、お尻はしっかりと突き出している(丸まった尾骨を引き伸ばす=この先生のお尻に尻尾をつけたら尻尾は持ち上がっているはず)。

しかし、腰は全く沿っていない。

まで引き出している

 背骨は真っ直ぐだ。(含胸で尾骨が前方へ入り込んだような形からこの形になると、多少反ったような感覚になる。)

 このポーズの時は身体の前面(任脈側)の気を使って身体を保っているような感覚。背中側の気を使ってポーズをとると背中が硬くなり太ももが辛くなる。→丹田で立つ、という原則。

 

  座って開脚して身体を前に倒す時、骨盤がしっかり立たないと前屈しても背中が丸くなりうまくいってもせいぜいおでこが床につく程度。身体の前面がべた〜と床にはつかない。

  つまり、骨盤た立たない=仙骨が倒れている、と背中が丸くなって背中が開かない。

 

 斂臀は仙骨は立てたまま尾骨を少し前方に入れるが、開脚で斂臀して前屈しようとすると身体にストップがかかって前屈がしづらくなる。背中は丸くなる。逆にお尻を突き出すように氾臀して前屈すれば上半身が気持ちよく開いて前屈が容易になる。背中が内側から開いて背中が抜けるように開く、という感じはこの時に得られるとというのが私の感覚。

http://tos-ballet.com/180%E5%BA%A6%E9%96%8B%E8%84%9A%E3%82%92%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%97%E3%81%A6
http://tos-ballet.com/180%E5%BA%A6%E9%96%8B%E8%84%9A%E3%82%92%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%97%E3%81%A6

 

ということで、まずは開脚で骨盤を立てられなければならないのだけど、これは坐禅の練習も同じ。坐骨で座れるということは骨盤が立つ、ということ。骨盤が立つと尾骨は巻き込まれず、坐骨2点と尾骨1点の三角形で座ったようになる。斂臀ではなく氾臀になる。

(氾臀になる前に必ず斂臀で命門:腰を開けておく。氾臀になっても腰は反らない、命門を押し拡げ続ける。でないと腰で気が詰まって腰を痛めてしまう。)

 

←(左の写真)骨盤を前回転させながら前屈すると、2つのお尻がもりもり、と盛り上がったようになる。

(女性の中には骨盤は回転しないまま、うちももの筋の伸びで開脚できてしまう人もいるが、腰と連動しないので筋の伸び過ぎで腰痛になってしまう人もいる。)

 

 ・・・と、上のようなことがいっぺんに頭に浮かんで、抜背と含胸は同じことではない!と思ったのだが、その後、師父に意見を聞いたら、またびっくり。

 

 師父によると、含胸と抜背は同時にはできない。まずは含胸、それから抜背。

 しかも、含胸で気を胸から下向きに下ろすが、抜背は下りた気が上むきに反転して命門から頚椎に向けて気が貫通する時におこる現象だと言う。

 

 含胸と抜背、全く別物?

 

 その後師父と議論しながら次第に明らかになった全体像、それはまた書きます。

2020/7/7 <アリババの馬雲の言葉から学ぶこと>

 

  今日の練習中、師父と雑談をしていたら、アリババの馬雲(ジャック・マー)の話題になった。師父の話では、馬雲は王战军(陳式太極拳第21代)に師事していたが、ある時からその父親である第20代の王西安(陳家溝の四大金剛の一人)に師事するようになり、自ら第21代継承者となったという。

 馬雲は30年近く太極拳を練習していて、その太極拳好きは有名なようだ。

 功夫はそこそこにしても、彼の話を聞くと、太極拳は自分のためのみならず会社の従業員の心身の健康を保つためにとてもよいということ以外に、彼自身が太極拳の理念に惚れ込んでいるのが分かる。

 彼の有名な言葉の中に、

 『没钱的时候练太极,有钱的时候还在打太极,一半的成就是太极给的』

 というのがある。

  「お金がない時は太極拳を練習し、お金がある時もやはり太極拳を練習する。自分が成し得たことの半分は太極拳が与えてくれた。」そんな意味だ。

 

 彼は多忙だが、英語と太極拳だけはずっと欠かさず練習してきたという。

 

 彼はインタビューで、「MBAなんてとってきても何もつかえない、ただの知識でしかない、そんなものは忘れてもらわないと仕事はできない、創業には知識ではなく知恵が必要なのだから。」と言い切る。そして知恵をもたらすのが太極拳なのだそう。その理念に従えば、すべてうまくいくという。

 陰陽転換の原理に加え、静、慢、定、随、舍・・・そんなキーワードだ。

 

 「自分が静まれば、会社も静まる」

 「他人がどうであれ、外がどうであれ、自分のやるべきことをしっかりやればそれでよい」

 「対人関係も推手同様、競っても”楽趣”として行う、憎んだり嫌ったりしてやらない。

 「静かにして、ゆっくり行う。ゆっくりだからこそ速くなる」

 

 太極拳で培う心の状態をとても重要視しているのが分かる。

 平静で落ち着いていること、善良であること。

 

 「商売をしている人は心が善良でなければならない。それは太極拳の中の競い合いである推手と似ている。推手は楽趣だ。競う時には決して憤りや憎しみ、凶悪な心を持ってはいけない。推手をやって怒ってしまったら推手の楽しさがなくなってしまう。競う目的は自分が楽しんで相手を怒らせる・・・それが太極拳だ(笑)」

 

↑動画最後に太極拳の表演が少しある。

 

 「自分は楽しんで相手を怒らせる、これが太極拳だ。」というのはあながち冗談でもない。

 推手に限らず他のスポーツやゲームで競った場合に起こり得るパターンは

 ①二人とも楽しむ

 ②二人とも怒ってしまう

 ③自分は楽しみ相手は怒る

 ④自分は怒り相手は楽しむ

 の4パターンだ。

 

 理想的なのはもちろん①。

 所詮ゲームなのだから勝っても負けても楽しむ。勝ち負けにこだわらない。

 次に良いのは③ 自分の心が汚れない。

 まずいのは④ 自分の心はよごれ、しかも醜い見世物になってしまっている。悲しい。

 最悪なのは② ともに理性を失い自分たちの心だけでなくその場も汚してしまう。

 

 にらめっこと同じで、怒ったら負け。

 怒ると明晰な判断ができず実力が発揮できない。(と、学生の頃卓球の試合でサーブのタイミングをずらしたり、相手をムッとさせるような表情を見せたりして挑発したことがあったことを思い出した。卓球は心理戦。心が少し崩れただけでミス続きになる。)

 

 怒る、は中国語では”生気”と言う。気が生まれる、と書くが、実際には”気が上がる”、日本語でいうところの”頭にくる”、という感じだ。

 怒ると顔が赤くなるのは気が頭に上がるから。

 気が頭に上がるのは健康上とてもよくない。頭寒足熱の逆だ。高血圧の人が激怒したら脳の血管を切ったり心臓麻痺を起こしたりする可能性さえある。

 気が頭の方へ上がる=丹田の気が上に移動

 すなわち、怒るときはすでに丹田を失っている。

 

 太極拳は常に丹田に注意する、絶対に丹田を失わない練習だから、それを続けている限りは怒りようがない。丹田がないのは太極拳ではないから、怒った時点で太極拳ではない。

 日常生活でも怒らない練習として丹田を失わない練習をすればそれは太極拳の練習になってしまう。

 

 丹田は身体のエネルギーだけでなく心のエネルギーをも統制している。

 太極拳には細々とした教えはないが、実社会でも十分応用可能なのだと馬雲が示してくれたようだ。

 

2020/7/6 <体内に響かせる発音、舌の重要性、舌のムドラ>」

 

  今日早速ビデオレッスンでビージャ・マントラを使ってみたが、大きな問題があることに気づいた。それは、発音。日本語発音でやると効き目がなさそう・・・(これは気功の六字訣でも同じ。)

 

 LAM、VAM、RAM、YAM、HAM (第1チャクラから第5チャクラ)

 どれにも”A"が含まれるが、これを日本語の”あ”で発音するとそれぞれのチャクラに全く響かない。逆に音が口の中から口の外に向けて出て行く感じさえする。

 チャクラに響かせるなら、音は体内に響かせるように出さなければならない。出す、というよりも、出しながら内側、喉の方へ引いている、と表現した方がよいような”ア”。それはあくびをする時に出てきそうなア〜の”ア”に近い。喉の奥を開いた”ア”だ。

  

 日本語は喉をそれほどしっかり開かなくても口の中で発音できてしまうので注意が必要。

 マントラは音と身体の中をしっかりつなぐことで効果がでる。

 サンスクリット語はその点で理想的な言語だけれども、英語でもインナーマッスルをしっかりつかっているという(下の表の1を参照)だから喉が開く?

 また、一つの語の中に微妙に吐気と吸気のリズムがあるとリズムが出る(下の図の2.ドッグブレス)(http://www.ace-schools.co.jp/method_lp.html より表の一部を掲載)

 LAMなら、Lは吐き出し、Aは微妙に吸い、Mで止める、という感じ。Aを吐いてしまうと日本語のラ・ムになってしまう。

http://www.ace-schools.co.jp/method_lp.html
http://www.ace-schools.co.jp/method_lp.html

  

 そして、その”A"の前に子音がくっついて最初の音が出るが、

 L→V→R→Y→H

 と進むごとに口の中で最初の音を形成する発火点(発音点)がスライドする。

 大雑把に書くと右の図のような感じになる。

 

 第1チャクラ、会陰に響かせるなら、舌の先を前の上の歯の裏にぐっと押し付けてLを出した瞬間に、舌は、あたかも水泳で折り返しターンの時に足でプールの壁を蹴るかのように勢いよく後ろに戻って喉の深いところで”A"を出す。”A"は喉を開かせる。Lの時の舌の歯の裏へのタッチ&蹴りの勢いと素早さで息がAで開かせた喉を通過して一気に仙骨あたりを通り抜け会陰に達する。最後の”M"で両唇を合わせると会陰部に届いた息がそこで定着するようだ。LAM LAM LAMと繰り返すと会陰部がペコペコ動くのが面白い。

 馮志強老師の本に、「身体を上に引き上げる箇所は3つ。会陰と舌と百会。」と書いていて、会陰は分かるけど、なぜ舌?とクエスチョンマークが残ったままだったが、このLAMをやると、なるほど、舌と会陰は直結、エレベーターで地上階から5階までノンストップで行けるのだと分かる。舌の力、舌が上顎に貼り付いている、ということの重要さも再認識。ただ舌に力が出て来るのは、全身の肉に気が充満した最後の現れだ(舌は肉の末梢)。

 

 第2チャクラの”V"は前の上の歯を下唇に合わせてそこから息を出す音だ。(図にVを書き忘れました。唇の位置です。)これも勢いよく歯と唇の間から摩擦音を出して、前方に出しながら後方の喉の”A"へと繋げる。Aで喉を開いていることに注意(舌の奥の方が盛り上がっている。それには口の形を横広にする、イーと言う時の口の形)。Vの音を出すと、Aの喉の開きが第1チャクラのLの時ほど大きくならない。音はVの唇での音の後、喉を通り抜けて一気に下腹部に届くようだ。(Vの音で下腹部を刺激、何度も繰り返して言っていると、次第に、Aの喉の開きが大きくなり、下腹部の後方、仙骨の方まで開いていくようだ。)

 

 第3チャクラの”R"は出発点が”L"よりも少し後ろ。口の真ん中あたりだ。巻き舌のRは私たちが学校で習うR。舌を巻いて発音するせいか、Aで喉を通り抜けた息は臍あたりまでしか届かない。けれども舌を巻いたせいか息が腹のの中で渦を巻いたように感じる。

 

 第4チャクラ(ハートのチャクラ)の”Y”は日本語の”ヤ”ではなくて、”Yes!"とか、イェ〜イ!と言う時の”イェ”だ。ヤよりももっと喉の奥の方の音。”A"の少し前。”イャム”に近くなる? すると胸が少し凹む感じになるのが分かるはず。含胸の要領だ。含胸にすると実は胸郭は広がる。Y(イェ)で胸郭の背中側が息で押し広げられて、Aに移行する時に背骨から左右に胸郭が広がったようになり腋下が広がる。

 太極拳では哼(heng)哈(ha)の二気を使って発勁をするが(哼は上方へ 哈は下方へ、日本の阿吽(あうん)とともにサンスクリット語の最初の文字aと最後の文字humをとったものらしい:哼哈二气については過去にこのブログでも書いたと思う)、師父によると打撃の際の第3番目の音があるという。それが「ハーーイ!」。日本語でハイとよく言うだろう?これは身体を突き抜けてどこにも止まらないとても良い音だ、と言っていた。撃ち抜く時に「ハーーイ!」と使うとのこと。確かに「ハーーイ!」と言いながら打つと、拳がどこまでも伸びていくよう。そういえばカンフー映画でそんな声を聞いたことがあるような。と、この第4チャクラの”YA"もそんな”胸のすいた”ような感覚がとれる。胸のつまりがなければ爽快。(ハーーイはHで下の第5チャクラの喉、イでこの第4チャクラの胸を開けるように感じます。)

 

 第5チャクラの”H"はアラビア語でよく耳にする、喉の音から出て来る”ハ”の空気の音をイメージしている。寒い時に手にハ〜っと息をかけて温めるようなあの”ハ”だ。そのハでハァム、ハァムと言えば喉が開くの分かる。顎もちゃんと引けてくる(下顎を収める、という太極拳の要領)

 

 

 第1チャクラに関してだが、LAM LAM LAMと繰り返すと会陰部がペコペコ動くのが面白い。

 馮志強老師の本に、「身体を上に引き上げる箇所は3つ。会陰と舌と百会。」と書いていて、会陰は分かるけど、なぜ舌?とクエスチョンマークが残ったままだったが、このLAMをやると、なるほど、舌と会陰は直結、エレベーターで地上階から5階までノンストップで行けるのだと分かる。舌の力、舌が上顎に貼り付いている、ということの重要さも再認識。ただ舌に力が出て来るのは、全身の肉に気が充満した最後の現れだ(舌は肉の末梢)。

 

 

   ヨガでは舌のムドラ(印)があるが、調べたら、それは舌を上顎に貼り付けて定着させておくものだった。さらに上のレベルは舌を奥に引いた後、その舌先を鼻腔の中に差し込むのだと言うけれど・・・どういうこと?!ヨガは極めていくと信じられないようなところまでいくみたい。(こんなブログもある。

https://blog.goo.ne.jp/yoga-kailas/e/c5ca2a3e9d05ff87323f2859e03e77e0

 

 私が見てわかり易かったのは下の動画だった。これがうまくできると含胸、首と肩の位置が整い、ひとりでに百会がに気が通る。私にとっては肩のの正しい位置を知るのにとても良い方法。この位置でずっとキープするなら命門も開いて・・・肛門や会陰まで繋げることになる。背骨と背中の間が押し広げられて背中に空気のクッションが入るような感覚。(ここで固定して待っていれば徐々に身体の前面(腹)にも気が溜まっていくはず。まだやっと少し固定できるようになったばかりで、そこまではまだ試していません。この舌の状態で真面目に坐禅をするべきだなぁ。)太極拳の舌抵上顎の要領がここまで要求しているとは思わないのだけど、舌の位置は後ろにいければいけるほど、全身の気が貫通してひとまとまりになりやすいから更に無敵になるのでは?

 いずれにしろ、練習がある程度進むと、舌の位置はとても重要になる。舌の位置が悪いと首が立たない。頭が前に出て猫背になる。もしくは首の筋肉で首を立てるから首や肩が凝る。舌で首が立つ、いや、舌で頭部を支える、というのが本当のところなのだろう。マスクをしてるなら歩きながらでも舌のムドラの練習ができるぞ。

 

2020/7/4 <ビージャ・マントラを使ってみる>

 

 ヨガでは7つのチャクラを開くための様々な技法がある。

 ヨガの目的はサマーディに達し輪廻転生から離れることで、そのためには会陰部の第1チャクラから百会の第7チャクラまで開き貫通させ身体を空洞にし深淵なるものとの一体化を図ることが必要になる。

 一方、太極拳はヨガとは違って拳法だから、天人合一に至る以前にこの世で身体を使って力強く素早く動けるようになることが必要になる。

 

 チャクラと太極拳は一見関係なさそうに見えるけれども、チャクラを開いて使えるようになると、身体の動き、働きがとてもよくなる。

 

 今日はヨガの主に第1チャクラと第2チャクラのビージャ・マントラを使いながら24式をやってみた。第1チャクラは会陰や肛門を引き上げた場所、第2チャクラは下腹、仙骨の位置にある。このあたりは太極拳なら下丹田と言われる場所だ。

 第1チャクラのマントラは「LAM」

 第2チャクラのマントラは「VAM」

 これらのマントラを心の奥で唱えながら動くと、予想以上に”その”場所が反応して力が出てくる。なんて賢い♪

 

 マントラはその意味だけが大事なのではなく、その音を発音する際に使う身体の部位、その音が出てくる場所、声帯で声が作られる前に身体の内部で音を作る準備がされる時の気の発生場所、気の通り道、それらが決定的な意味を持つ。サンスクリット語は特にそのような”音”を研究して作られた言語。その音が、腹から来るのか、胸なのか、声帯なのか、喉なのか、鼻音なのか、同じ語を発音しても人それぞれ音が違う。人の喋る声を聞いて、その人の気の状態を聞き分け、その人の健康状態、そして精神状態、性格などを言い当てることができるのは、声にはその人のチャクラの状態が現れるだろう。

 

 今日24式をやりながら実験した結果わかったこと。

 LAMで第1チャクラが刺激されるとお尻が座ってどっしりしてくるということ。”坐胯”(zuo kua:股関節に坐る)がいつもより容易にできる。通常、その日第一回目の24式の套路練習であった場合、まず腰が緩んで(松腰)、それから股関節が緩んで(松股)、そして最後の方にやっと股関節に坐る(坐胯)ことができたりできなかったり。調子が悪いと最後まで坐れず、師父に、「坐れ」と注意されることもないとは言えない。が、今日はすんなり1回目の前半早いうちに坐れた。(坐れると下半身がどっしりし、下半身が自分の言うことをよく聞いてくれて操りやすくなる。)

 VAMの第2チャクラ。これは第10式の掩手肱捶で明らかだったが、打撃のパワーがアップする。下腹がそこで固まることなく仙骨をおし拡げるように膨らむと拳が底なしに貫通するかのよう。下っ腹が前に膨らむと同時に仙骨が後方、横方向に広がる感覚はVAMを使うと得られやすい。Vの発音で下腹前方向、最後のMで仙骨が後方横方向に膨らむからだろう。ほんと、誰が考えたんだろう、このマントラ?

 

 第4チャクラ(胸のチャクラ)のYAMも少しだけ試したけれど、これは含胸を即座に作る。

 ヨガでも含胸をするのか?と不思議に思ったけど、YAMと言うと胸の真ん中あたりが空洞になって凹んだ感じがするのは皆同じでは?

 

 ヨガと太極拳の関係が次第に明らかになってきてとても面白い。

 

 24式1回やった後、師父から46式をやって見せなさい、と急に言われて、久しぶりに師父に套路を通してみてもらったが、終わった後、師父が一言「不错!」(悪くない→良い)と言ったのには驚いた。師父はめったにそうは言わないから。ビージャマントラをその前に使ったのがよかったかなぁとか、ずっと続けている裸足練習、そして太陽礼拝、ヨガのつまみ食い・・・まあ、何が効いているのかはともかくも、間違えてはないと一安心。

 

 ビージャマントラは検索すればいろいろ出てきますが、簡潔に説明しているのは

   https://flareplus.com/dictionary_yoga/bija

 

 時間があればもう少し詳しく書きたい話題です。

 そのうち私の生徒さんに試させてみたい・・・

 

 

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『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

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練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

   馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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