2020/9/30 <足裏で地面を踏み込み続ける ”力は踵から”は”丹田で動く”こと>
昨日書いた”身体を薄くして立つ”について動画で説明してみました。
説明しながら気づいたのは、結局、”身体を薄くして立つ”というのは、”アライメントを正しく”とか”アスレチック・ポジション”と言われるものと同じで、足裏にストン、いや、ズドンと気を落として足裏と地面の間で力のやり取りをし続ける状態だということ。この地面と足裏の間の力のやり取りがそのまま身体、上半身、手へと連動して発力として現れる。
ただ、このようにアライメントを正しく、身体を薄くして立つことを意識する前提として、まずは足裏に気を落とせないとならない。だから練習の第一歩は、身体の力を抜いて足裏に気を下ろすこと。これは初心者の練習という意味もあるけれど、熟練者でも毎日の練習の始まりはこの松して足裏に気を落とすところから始まる。
足裏に気が落とせて足裏が地面に貼り付いたようになったら、第二歩目として、会陰を引き上げて丹田に気を溜め足裏から丹田を繋げる。
(熟練者なら、松して気を足裏に下ろす時に同時に会陰を引き上げて丹田に気を溜めながら足裏に気を下ろせる。が、初心者の場合は、会陰を引き上げると足裏に気が落ち辛いので、第一段階で全身の気を足裏に落とし、そして第二段階で初めて会陰を引き上げて丹田に気を溜め始める=足裏と丹田を繋げる、とした方が結局は近道。)
いずれにしろ、足裏が使えないと(足裏が地面を踏み込むことによって得られる地面からの反発の力を使えないと)丹田に気を溜めることはできない。会陰を引き上げる=足裏を引き上げる、になっている(身体の構造上そうなっている)。
動画の最後の方に、足裏で地面を踏み込んでいる間だけ動ける、という話を少ししているが、これが太極拳で特に大事なところ。足裏で地面を踏み込める=丹田を使い続ける、ということになるのが実感として得られると、”力は踵から”と言われるのが”丹田で動く”と矛盾しないどころか、同じことだということが分かる。
2020/9/29 <身体を薄くして立つ、という意味>
背骨のS字カーブを減らして背骨を真っ直ぐ引き伸ばすののは太極拳に限ったことではない。
私たちが普通に立っている時、頚椎は前弯、胸椎は後弯、腰椎は前弯、仙骨は後弯、と、S字を二つ連ねたようなカーブを描いている。
しかし、私たちが急に走りだそうとか、ジャンプしようとか、しゃがもうとかする時は、バネばかりを伸ばすかのように脊椎を引き伸ばす。これは一気に地面を踏んでバネを起動するための準備の姿勢だが、これを以前紹介したNBAのスーパースターのステファン・カリーは”アスレティック・ポジション”と呼んでいた。
子供の時のかけっこの「よ〜い、ドン!」の「よ〜い」の時の姿勢。「ドン!」と言われたら一気に走りだすためには腹腰股関節に”タメ”を作って足に気を下ろしておく必要があるが、そんな構えはは先生から特に教えられる必要がない。猫でも似たようなことをしている。動物なら自然にやってしまう構えだ。
ただ、この誰でもやる構えも上手下手がある。絶妙に構えられる人は運動能力が高くなる。
時々太極拳の演武の動画を見て変だと思うのは、足腰のバネ力を増やすために背骨を引き伸ばしているのではなく、ただ背骨を真っ直ぐに硬直させている人が多いということ。これはきっと、なぜ脊椎を引き伸ばすのか、ということを考えずに、ただ”背骨は真っ直ぐに”と指導されてその通りやっているからだと思う。背骨を固めて棒のようにしてしまったら所謂老人の身体と変わらなくなってしまう。すぐに股関節や膝を痛めてしまうだろう。脊椎を構成する椎骨が関節として機能しなければ運動による衝撃が下半身の関節に集中してしまう。
老人の股関節や膝が悪くなるのは下半身が弱くなるからではなく、上半身、背骨が硬くなるからではないか?100メートル走の選手がなぜあんなに上半身を鍛えるのか?太極拳で蹴りやジャンプやしゃがむ動作を練習すると良くわかるが、足の技は腕を含めた上半身の使い方が決定的な役割をもつ。
下半身は上半身に依存し、上半身は下半身に依存する・・・
そして脊椎のS字カーブを引き伸ばし全身のバネ力を起動させる準備をする時、身体は”薄く”なる。薄くなることで、重力に身体が邪魔されなくなる。ジャンプする時、しゃがむ時、ダッシュする時、私たちの身体は(前後に)”薄く”なる。
馮老師や劉師父の套路を横から見ると、薄いのだ。後頭部から背中、踵までが揃っているのだが、かといって、膝もそれほど前に出ていない。
実践をやっている人は”薄く”構えないと速く動けず不利なことを知っている。
坐胯だからとお尻に坐って”居着いて”しまってはいけないのだ。
静止して立っていてもいつでも動き出せるような足裏の”もぞもぞ”(虫様筋のイメージ?)を保持するには仙骨を収めて身体を薄くする必要がある。
逆に言えば、身体を薄くしてすっきり立てるのは功夫が高い。丹田力がないと腰が反ってしまう。目指すイメージだけでも頭に置いていると役立つはず。間違えたお手本をお手本にしないように・・・
<下の写真、ブルースリーと対戦者。対戦者もなかなかだが、比較すると、身体を”薄く”しているブルースリーの方が、構造物としてスッと真っ直ぐだ。足裏がペタッと地面に貼り付いている。(二人を揺れる電車に乗せた時、ブルースリーは身体の力を抜いて足裏でバランスをとるだろうが、対戦者は様々な筋肉に力を入れることでバランスをとろうとするのではないかしら?)
そして下の馮老師の決闘(?)動画。馮老師が身体を”薄く”構えているのは他の人たちとの比較で分かるのではないかと思う。太腿に乗っからずに、あくまでも腹や腰という高めの位置でさばいている。套路ではもう少し低く練習するが、それでも太腿には乗っからない。ある程度丹田が使えるようになったら、素早く動くために身体を薄くする意識が必要になると思う。
2020/9/28
2週間前から子犬を飼い始めた。今年三月に老犬が逝ってもう犬は飼わないと思っていたけれど、いつも寝ているようなまったりした成猫たちだけだと家の中に活気が足りない、散歩も懐かしい・・・それに、家の中に犬猫私(人間)の3種がいた方がバランスが良いよう(友達二人より三人で出歩いた方が楽しい、と以前マツコが言っていたけど、確かに、2は対立、3はトライアングルで安定)・・・と、無性に子犬に育てたくなってしまった。
生後3ヶ月で引き取ってきたが、連れて来た時は足がまだよたよたしていた。けれど、1週間後には走ってボールを追いかけるようになった。そして2週間後の今は自分の身体よりも大きな靴を咥えて猛ダッシュしている。一日で人間の1ヶ月分くらい成長しているのでは?と思うくらいの成長の速さ。
子犬は動くものを見るとダッシュして追いかける。
猫は子犬に気づかれないように抜き足差し足でトイレや餌場に行く。途中で気づかれたら、子犬はキャンキャン吠えて追いかける。猫もこれまでの生活では必要とされなかったダッシュやジャンプを余儀なくされる。最後は高いところに飛び乗って終わり。犬はどうしてもジャンプ力が敵わない。
最初猫たちは、訳の分からない動きをする子犬を恐れて姿を潜めていたが、そのうち、子犬がいくら吠えても大したことがない、と気づいてきた。至近距離で吠えられてもビクともせず知らんぷりをしていたり、時には、鋭い目で子犬を圧倒し、子犬は吠えながら後ずさりをしていることも。
一戦を交えなくても、どちらが強いかは、ある程度わかるものだ。
そしてこの週末には20代の娘が留学のために日本からこちらに引っ越してきた。
子犬と娘が来たら、家がとたんに賑やかで華やかになった!
子供や青年のエネルギーは消費してもすぐに元に戻る。
一晩寝れば戻るのだ。
朝起きて、疲れが残っている、なんてことを感じたことはなかった。
コマーシャルなどで、”滋養強壮”という言葉を聞いても、なんでそんな薬が必要なのか意味が分からなかった。
身体が鞠のように動く頃、小学校の体育の先生が、「これは腰の運動です。」と言っても、どこが腰か分からなかった。背中かお尻、その途中に腰がある感覚がゼロだった。ここが腰だ、と自覚できるようになった時は既に背骨は硬くなっている。
身体に全く不自由がない時、私たちは身体に無意識だ。
身体のどこかに不自由があると、その部位に対して私たちは意識的になる。
身体全体が不調だと、私たちは身体に引きずられる。
幼い犬や若い娘に接しながら疑問が浮かんだ。
太極拳で目指しているのは、果たして、身体に全く不自由のない状態を作ることなのか?
(太極拳で腕っ節を強くして勝ちたい、というような男の子の抱く幼い目標は最初から論外)
ただ、正直なところ、どんな人の身体も老化する。歳をとればとるほど身体が若くなる、ということはあり得ない。
身体が空になる時、私たちは身体に対し無意識か? いや、(限られた私の経験から言えば)超意識的、身体は意識で包まれる。その時、身体の輪郭はなくなり自分は光のようにその一帯を照らす。
今の時点でおぼろげながら描けるのは、太極拳で練習しているのは意の操作、そして意識の拡大。意で気を丹田に集めてそれを動かしながら次第に大きくし、最終的には丹田が身体を包んでしまう。その時、丹田はないも同然だが、代わりに意識が身体を包むようになる。
通常私たちの意識は頭の中に閉じ込められているが、それを身体に拡げる練習をする(精→気→神)。ここまでで終われば養生、健康目的=身体目的の練習になる(精気神の循環)。もしここから先に進み(神→虚→霊)身体を超えて意識を拡げられたら私たちは身体から自由になるのではないかしら?最終的には身体にとらわれないところに進もうとしているのではないかと思っています。
ただ、意識を拡大させるにもパワーが必要。
諦めたら身体の中に埋没してしまう。
身体で遊びながら身体に拘泥しない
同志が集まって励ましながら進んでいけたら理想的だ。
2020/9/25 <アライメントが正しいとエネルギーが湧き出る?>
公園に行ったら、赤ちゃん連れのママ達がエクササイズしていました。
先頭に立ってお手本を見せるママの動きはお見事♪
後ろのママ達が疲れてヘトヘトになっても、お手本ママは軽々とますます勢いづいて動いてる。
ぼぉ〜と暫く眺めてから、ああ、そうだ、と動画を撮りました。
先頭のママ(緑サークルで囲んだ女性)の姿勢、身体のアライメントがとても良い。(アライメント:関節や骨の並びのこと)
しゃがんだ時は避雷針のごとく、頭頂から足裏へと力が抜けていくようだ。
一番後ろのママ(黄サークル)のママと比較すると一目瞭然。
後ろで踊っていたほとんどのママが、黄サークルのママのように膝に落ちてしまっていた。先頭ママのような速さ、キレがでないばかりか、すぐにへたばってしまって脱落。最後列の黄サークルのママは最後まで食いついていっていた。
先頭ママはしっかり股関節に体重を乗せていて、そそこにため(クッション)がある。股関節に落ちた体重は絞られて足裏へと流れていく。
見ていて面白かったのは、先頭ママが、動けば動くほどノリノリで加速していくのに対し、その他のママは動けば動くほどへばって脱落していくこと。
動いて消耗するのか?それともエネルギーが充填されるのか?
実はそれこそが、太極拳などの内家拳とスポーツの違い。
眠っている(dormantな)先天の気が刺激されて活用されるような身体の動き方をすれば運動前よりも運動後の方が体内のエネルギー量は増えるが、今体内にある気(エネルギー)を使うだけの運動は消耗するからそのあとに休息が必要になる。
運動によってエネルギーを充填する、これを可能にするのが内功だ。太極拳自体が内功になるように練習を進めていけば、最終的には、「太極拳は休息だ」と馮老師が言っていたとおりになる。
先頭ママの動きは、良く見ると、腰を落とすたびに下丹田を刺激している。ははぁ、だから、ポンプのようにしゃがむ動作を繰り返せば繰り返すほどますます力が湧き出てくるのね〜。股間をすり抜けてすぐに膝に落ちてしまうようなママは会陰の引き上げをしっかりやる必要がある・・・・以前随分たくさんの出産後のママを教えたけれど、出産したらお尻が下がって太ももとお尻の境目がなくなってしまった、と言うママが多かったことを思い出しました・・・。確かに、一番後ろのママのようなしゃがみ方をしていたらお尻(股関節)が流れて太ももとの境目がなくなってしまうだろう・・・会陰を命門に向けて引き上げる練習が必要(私はよくママ達に後ろ向きに歩かせて引き上げるコツを教えていました。)。
犬や猫も歳をとると腹が大きくなってお尻(股関節)が退化する。これは人間でも同じなのだけど、私たちは意識的に身体を使うことができるから、可能なかぎりお尻(股関節)を柔軟に使って下半身の衰えを遅らせたい。
下丹田は股関節ラインにある(関元ツボの奥)。dormantなエネルギーは会陰付近まで広がる下丹田に存在するから、そのあたりを刺激するような身体の使い方を意識的にする必要がある。太極拳なら、気沈丹田で坐胯、円裆 敛臀/泛臀などで常に起動させている。普段の生活なら、椅子に座っている時に”そこ”(下丹田)で腹腰を立ち上げておくように意識する。骨盤を立たせて坐る、というよりも、下丹田で骨盤を立ち上げるような要領だ。これはヨガで「クンダリーニが蛇のように立ち上がる」という発端の練習だ。
ということで、今日のママを見て気づいたのは、アライメントが正しくないとエネルギーが消耗する、ということでした。けれども、アライメントが正しければ必ずエネルギーが増えるのか?というと、どうだろう? (身正心正(身が正しければ心は正しい)という言葉があるけれど、果たして”身が正しければ本当に心も正しいのか?”と問うのに似たようなところがあります。 まあ、そもそも、身やアライメントが申し分なく正しい、という人はなかなか存在しないので、そんな屁理屈は言わずにせっせと身を正しくするように精進すべきかなぁ。)
2020/9/24 <手の松ではなく手首の松、松には正しいアライメントが必要>
昨夜のメモは書きすすめるうちに収拾がつかなくなってしまって自分でも気持ち悪いので少し整理を。
<9/23付けのメモの要旨>
ボール練習から、手の松には肩(脇)を開ける必要性があることに気づくこと、そして脇肩を開くには胸も開かなければならないし、腰も開かなければならない、そしてその先の骨盤の中の股関節、これを”松する”(空間を開ける)必要がある、というところまで辿りつけたらしめたもの。
週末教えた生徒さんの課題は、その”股関節の空間の開き”とはどういうものか、というのを実感として分かることだった。脇を開くために股関節を開く(開く、というのは、空間を開ける、隙間を空ける、という意味)というのが分かると、股関節(胯)の”松”の感覚がそれまでのものとはまた一段変わってくる。
脇の空間と胯の空間が連動する、あるいは繋がる、これが肩と胯の合。外三合の一つだ。
これができると四正勁の基礎ができる。(起式はこれを練習)
<そしてここから先が別の論点>
どんなに手を”松”するために手首を開いておこうと努力しても(注:実際には手を松するのではなく、手首を松する。その結果、指は垂れる。松腕垂指)、手、掌の力を抜、肘の位置、肩の位置が然るところになければそうはならない。そういう意味では、松(余計な力を抜く)というのは、気持ちの問題(だけ)ではなくて、アライメントの問題がとても大きい。
ボールを握って試すとわかりやすいが、実際には、手、掌を”松”しようとすると手首がジワっと開く。ボールは掌に吸い付いたようになる。大事なのは”手首”の”松開”。手首が締まっていたら手は松(垂指)にはなっていない。”松”した気になっているだけ→假松:偽の松。松したら開いて通りがよくなる。ボールを握ってから注意深く少しずつ握った力を抜いていくと、最初は手首の中、それから徐々に前腕の中、そして肘の中、うまく肘の位置が調整できれば(正しいアライメント)肘を貫通して上腕、脇の中が開いていくのが分かる。勁の通路が開通していく過程。この通路を使って動くのが太極拳、だからこそ、”松”が必要になる。表面的な気持ちの”松”では中の通路は開通しないとボールを使えば分かるのではないかと思う。
松をして通路を開けていくにはその時その時に応じた正しい位置、アライメントを見つけることが必要だが、上の例で言えば、肘で松が途切れてしまった時に、肘の位置を変えながら、同時に脇の中や腹の丹田の位置を調整することによって、ああ、この体勢なら通る、という場所を見つけられる。最終的には丹田の調整(腹腰の中の調整)に尽きてしまうのだが、その結論に至るまでに自分で試行錯誤する必要がある。試行錯誤してうまくいかなければそれが分かる
松には正しいアライメントが必要、ということに今になって気づいたが、そもそも、日本の”整体”というのはそれをやっている?(中国語で”整体”というと”全身”という意味になるので師父に日本の”整体”を説明するのは困難。按摩だろう?と言われても、それだけじゃない・・・)
外反母趾などの足の歪みを治すには全身(胴体)を整える必要があるけれど、反対に足の中のアライメントを整えることによって全身のアライメントに影響を与えることも可能。
ただし、自分のこれまでの練習と教えた経験から言えば、中心から周辺へのおおまかな通路を開通しておかないと周辺から中心に影響を及ぼさせるのは難しいのではないかなぁ? まずは中心→周辺へとエネルギー:気の力で大まかな通路を開け、ある程度周辺まで達したら、周辺→中心へと通す練習をする。中心→周辺への開通工事には丹田の内気の馬力が必要。これで周辺まで大きな通路をつけてしまえば、周辺→中心には”松”で道を開けられる。
まだ中心→周辺へと突貫工事ができていない場合は、そちらを先にやる必要がある。
秋冬は丹田に気を溜めやすい(気が外に漏れにくい)のでこの時期に内気を増やして、春に一気に貫通させてしまえれば・・・これは春に芽が出て一気に成長する植物の現象と同じ・・・ああ、これが昔中国で行われていた百日护基功(冬の3ヶ月間毎日タントウ功をして気を溜める。男性はその間射精禁止。これで内気を倍増させて一気に内側の通路を開通させる=周天)!
2020/9/23 <手首の松から股関節の松へ 上下相随 肩と胯の合>
週末、東京の生徒さんからボールを使った練習を見て欲しいと言われビデオレッスンをした。
彼女とは長い付き合い。太極拳を始めた頃は虚弱体質のようだったが、続けているうちに確実に身体が変わるのを実感したらしく、とても意欲的に練習を続けている。
さて、彼女のボールを使った練習を見てみたら、問題は腕に起因するわけではなかった。
ボールを使った練習で握った手や手首に力が入ってしまうのは、”上下相随” ができていないからだと彼女を見て気づいた。
ボール練習で目指せるのは、肩や脇を開けて腕を胴体に差し込んでしまうこと、腕を胴体と一体化させる、腕を胴体にしてしまう、ということ。どこからが腕なのか、境目が分からないようになるのが理想だ。そのうち脚もどこからかが脚かわからなくなれば、全身が胴体なのか、腕なのか、脚なのか分からない、一つの”塊”として感じられるだろう。それが周身一家だ。
この周身一家を実現するにはまず”上下相随”をやる必要がある。
この上下相随をするための具体的な要領が、肩と股関節の合、だ。
外三合は”肩と胯の合、肘と膝の合、手と足の合”だが、上半身と下半身の動きを連結させるには、肩と胯の合、が最も大事だ。
私たちは身体の中心から離れれば離れるほど意識をしやすくなる=中心に近づくほど意識がしづらくなる→手は肩よりも意識しやすい、足は股関節よりも意識しやすい。背骨は肩よりも意識しづらい。
手と足の合は肩と股関節の合よりも意識しやすいが、手と足を合わせても、中心軸はまだまだぶれてしまう。中心に近い、肩と股関節を合できれば中心軸はほとんどブレなくなる。
私の生徒さんの課題は、この”肩と股関節の合”にあったのだが、では、どうやれば、”合”の感覚を得るれるのか?
通常のボールを持たない練習だと、脇を徹底的に松して胸の中を抜いて、松した股関節の空間と合わせることによって(四正勁を作る)肩と股の合が得られる。肩と脇の中、そして股関節の徹底的な”松”が必要だ。
しかし、ボールを持った練習をすると、ボールをもった手の腕が、ろくろっ首のように伸びて脇を通過して股関節(鼠蹊部)まで達するような感覚を作り出すことも可能だ。ボールを持った手の力を、さらに松、さらに松、と何度も何度も繰り返し松しようとすることによって、しだいに腕が胴体の中に侵入してろくろっ首のように伸びてくる。もちろん、含胸をして胸を横に広げ、股関節も広げていかなければならない。
うまく股関節に達すれば、股関節→脇→手、で、途中の”脇”がノンストップだから、股関節→手と直通するようになる。直通してしまえば、脇と股関節の合を見る(感じる)ことができる。
これは野球のピッチャーが股関節から投げる、と言うような理屈と同じはず。
と、少し調べたら、やはり、股関節の可動域が狭いと手投げになってしまって肩を壊すとか、股関節の可動域が広いと速い球が投げれるとか、投球と股関節は切っても切れない関係があるのがわかる記事がたくさんありました。ただどのくらいの投手が本当に肩の中を抜いて投げているのかは不明・・・・その点、昔見た通背拳の基本功はすごかったけど、その動画を探し当てられるか自信がありません・・・・
レッスンをした私の生徒さんは胯に坐れていない(坐胯ができていない)ために、胯の松が不十分→股関節の開き(空間が足りない)ので、股関節の(空間の)球が回らない。股関節の開きが足りなければ脇も開かない、ということで、まずは、股関節の球を回転させる練習方法を教えました。鼠蹊部にテニスボールを置いてくるくる回してみると松して回りやすくなるかと。
(自分の頭の中の整理)
アライメントを整えるにあたって肩と股関節の合が達成できれば大枠はキマる
どうやって肩と胯の合を達成するか?
前提として、坐胯が必要。
胯の開の力で肩・脇を開く(股関節が開かなければ肩・脇は開かない)
胯の球が回る→肩の球が連動して回る
胯の空間と肩・脇の空間が連動する
or 四つ足で這うのが最も手っ取り早い?
2020/9/20 <顧留馨の本 チャンスーと肋骨>
昨日書きかけて放ってしまった本の話。
『陳式太極拳』顧留馨著
あるマスターから勧められて入手した太極拳のバイブル本の一冊。
馮老師の本の内容と重なるところも多々ある。この本を読むと、馮老師の本の内容は馮老師が考え出したものではなくずっと以前から伝わってきた太極拳の奥義なのだと分かる。
チャンスーについては
「上肢の旋腕転膀 (手首の旋回と肩甲骨の回転)
下肢の旋踵転腿 (踵の旋回と脚の回転)
胴体の旋腰転脊 (腰の旋回と背骨の回転)
の三者結合によって作られる。」と書かれている。
やはり、旋回の”旋”と、回転の”転”の組み合わせだ。
腕だけがチャンスーということはありえないということ。
全身がチャンスーになる。
なお顧留馨についてはhttps://takeichi3.exblog.jp/25426423/参照。
太極拳を国民的体操になった経緯が書かれています。こうしなければ、太極拳は途絶えていたかもしれない。馮志強老師も当局にいつ取り締まられるか分からないような時期があったようだし、実際、馮老師の師の顧耀贞は文革四人組によって迫害死している。太極拳は国家に脅威を与えるとして一時練習を禁止されたが、それを国民の健康維持のための体操として組み替えたからこそ、日本にいる私達にも楽しめるものになった。その分、国民体操になる以前の、国家に危険視されたような太極拳の真髄は伝承が非常に難しくなったということだろう。
この本の中のこの図は有名(?)
頭の中でやると頭が狂いそうになるけど、身体を使ってやってみると、確かにそうなっている・・・
が、手がこのように翻るには身体がかなりうねって翻る必要あり→全身チャンスー
胴体のチャンスー(腰の旋回と背骨の回転)をしようとすると胴体がうねるようになる。
そのうち、「胸腹折畳」という太極拳の一つの特徴の現象も現れてくる。胴体がポンプのようになる。
ちょうど最近、肋骨を締める必要性、という点についていろいろ文献を見ていたが、肋骨は開きっぱなしでもよくないし、縮んだままでもよくない。普段は程よく締まっていて、必要な時に開く、という柔軟性のある肋骨が健康上必要だ。
肋骨というと全面の胸の下あたりをイメージしやすいが、背中側も肋骨だし、喉からみぞおちまでは肋骨だらけだ。このあたりをどのくらい動かせるか、が呼吸の強さ、生命力の強さに繋がるだろう。
腰痛やその他の問題もこの肋骨の硬さから起因するのでは?という下のブログは興味深かった。
https://minkyu.co.jp/archives/3887
太極拳で四正勁というのがあるけど、両肩と両股関節を結んだ線が長方形になるとはいっても、これが固定されてロボコンのようになってしまってはいけない、はず。
しなりのイメージについて
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43068160Z20C19A3000000/
チャンスーをかけると、(このブログの筆者が言うように)シャツに斜めの線が入りそう・・・
意識的に肋骨を動かすようにしてチャンスーの練習をしてみると、チャンスーもうまくできるし、肋骨も動くし、とても効率が良さそうだ。それに嫌でも含胸になる・・・生徒さんを実験台に試してみよう♪
2020/9/18 <チャンスーで関節を開ける 節節貫通へ
ボールを持って腕を回転させた時に力が入ってしまう箇所は順→逆、逆→順の転換点。
この転換点こそが相手の力を削いで攻撃へと反転する(化勁)の場所なのだけど、身体の中では足踏みポンプを踏んで急速にエネルギーが湧き上がるような現象が起こっている。
陰極まって陽が芽生える(冬至、子の刻、新月など)、陽極まって陰が芽生える(夏至、午の刻、満月など)といった陰陽の転換点は自然の摂理においてもとても重要視される場所。順纏⇆逆纏の転換点で自分の身体の中がどうなっているのか、何が起こっているのかを観察すると、それらに共通する現象の重要性を哲学的にではなく体験的に知ることができそうだ。
ボールを持った練習をすると、無意識的に力が入ってしまっていることに気づくことができる。転換点では特に、肩や胸、腰、股関節、膝、足首の中など、いたるところの関節の中を意識的に開く必要があるのが分かる。これを”松開”と言うのだと気づいたりもする。
ひたすら松して関節を開く、という練習もありなのかもしれないが、身体の中の関節を開く(=関節を構成する骨と骨の隙間を拡げる)には、チャンスー(纏糸)という力の使い方をするのが効果的だ。
チャンスーという回転ドリルの力を使って気の通る経路を押し開くことができる。
ただ”松”しただけでは開かないような場所も、チャンスーの力で通路を開通させることができる。
関節を折り曲げたり伸ばしたりしていては関節を超えて力が伝わらない。全身の骨や筋肉を一つとして使うには関節を折り曲げず、回転させることが必要だ。
チャンスーを意識的に強めにかけたり、かけなかったり、様々なスタイルで套路をやるうちに、年月とともに、身体の中の関節が開通して、”柔若無骨”(骨がないかのように柔らかい)となれば、チャンスー(ドリル)をかけることなしに、足で地面をふめば掌まで力が達してしまうのだろう。自分の身体は空となり 無職透明になる。身体の内と外の境界がなくなりまさに自然と一体化する。・・・楊式太極拳はチャンスーを使わずに最初からその境地を目指しているように見受けられるのだけど、ただ形だけ真似していては内側の通路を開通するのは不可能に近いだろう。ひょっとするとチャンスーではない隠れた秘伝の開通法が存在するのかもしれないが。
と、このあたりを動画で説明しようとしたら、案の定、こんがらがりました。
理路整然とは説明できない・・・
1つ目の動画の旋回と回転の違い、2つ目の順纏と逆纏の定義、は知っておくとよいと思います。その他の話は適当に聞いてもらって、参考になることがあったら参考にしてください。
2020/9/17 <旋回と回転 順逆チャンスー 転換点>
主人にテニスボールを持たせて、指を軽く立てたまま腕を一周外旋してもらい、どこで指に力が入るのか試してもらった。二箇所だと先にヒントを与えたら、「ここ(腕の下降時)のボールが落ちそうになるところと、腕が上昇する時に手がひっくり返る際二の腕に力が入るところだね。(それがどうした?)」とあまり興味なさそうに答えてくれた。
思った通りの場所を指摘してくれたけど、理由は、そうなんだ〜、ととても興味深かった。
馮老師の第三式懒扎衣の定式の形を借りて説明すると・・・
上の写真の形から、右手をぐるりと外旋した時、腕が一周する間に、右の図のような現象が怒っている。
円は、ポン、リュー、ジー、アン、で成り立っているが、この右手の外旋の場合のそれぞれの技の場所は図示した通りになる。円はどこでも技になる、という利点がある。これは太極拳の特徴であり醍醐味だから、逆に言えば、円の練習をする時は、一周、どの点をとっても意と気が繋がっていなければならないということになる。
それを可能にするのが螺旋纏糸の動きだ。
直線で平面的に(手旗信号やラジオ体操のように)腕を回すと、必ず、スキのある部分が出てしまう(技として使えない場所が出てくる)。
だから、腕を一周旋回させる間に、腕を一周回転させる。
旋回とは円の軌跡を描くように回ること、回転とはある軸を中心に回ること。すなわち、前者は公転で後者は自転だ。
上の図では、腕が円を描いて一周する間に、腕自体が回転する。
頭の中にジェットコースターが浮かんだのだけど、
右のは公転があっても乗り物の自転がない。
ひねりながらぐるりと一回転するジェットコースター(メビウスの輪のようなもの?)がありそうな気がするけど、どうなんだろう・・・?
メビウスの輪も大いに気にかかる・・・
が、頭を元に戻して、もう一度上の図に戻って説明すると、円の半分は順纏、残りの半分は逆纏、になる。
順纏は、小指主導で動く手の動きだが、簡単に言えば、動く時に掌が自分の顔に向かってくるような動きだ。人差し指の腹側が自分の顔を指すように動いている間は順纏、これは開合の”合”の動き、すなわち、気が丹田に戻ってくる動きになる。
これに対し、逆纏は、気が丹田から末端へ出て行くような手の動きで、掌が外に向いて動く。人差し指の腹が自分の方を向かずに外へ向いていく動きだ。逆纏は親指主導で動く。
円はこの順纏と逆纏がセットで成り立っているのだが、ボールを持ってゆっ〜くり腕を旋回させた時に気づくのは、この順→逆、逆→順の転換点(図の中の①と②)の自転でともするとボールを握りたくなってしまう。
転換点と言っても、実は順から逆、逆から順へは、突然切り替わるのではなくて、円一周を通じて徐々に変わっているのだが、感覚的には上のような2つの位置で転換点が現れる。この二つの中でも、難しいのは②。ここは穿掌とも呼ばれて、特別に練習をする箇所だ。推手の時も最初はこの動きがややこしく皆混乱するのだが、慣れてくると、この動きの”妙”にかっこよさを感じてしまう。(馮老師が生前、「ジーポン(ジーからポンの位置)で技がかけられたら命は要らない。」とオフレコで言ったという話があるが、これはまさに②の難しさを語っている。)
順逆の転換点は陰陽の転換点、転換点をどう捌けるか、どう転換させられるか、ここに功夫が現れる。
この2点で、あっ、力が入る!、と気づけば、その先の練習に入っていける。
まずは気づかないとどうしようもない。
2020/9/16
私がボールを使った練習をしてるのを知って、真似してやってみた生徒さん達からのコメントから気が付いたこと。
最初に聞いたのは「指が痛くなった」とか「指がつりそうになった」というもの。
どうしてかなぁ?と確かめてみたら、最初は指を放松させて掴まないように持っていても、腕を一周させる時に、内旋外旋に関わらず、二箇所、無意識的に指に力が入ってしまいそうになる箇所がある。
ははぁ、ここで気が詰まって指(手)が強ばるのね・・・
でも、こここそが、肩・脇の中を貫通させて手を胴体の中まで繋げるかどうかの腕の見せ所。チャンスーができているかどうかはこの二箇所がクリアできるかどうかで明らかになる。
元々私がこの練習で狙っていたのは、手の根っこ(掌根)にある骨をばらばらにして、前腕の橈骨と尺骨の隙間の骨間膜を開き、前腕のねじれをとって手をすっきり肘・肩へとつなぐこと。
私の頭の中のイメージは左の掃除機のようになっている。
手が掃除機のヘッド、パイプが腕、ホースの部分が腋・肩、掃除機の本体が胴体。
節節貫通は通常胴体の中の気の勢い(流れ)を使って、胴体→肩→肘→手首→手の中の関節 と中心から末端へと関節を開けていくが、ある程度練習したら、これを逆向きに末端から中心へと関節を開けていく練習も有効だ。
例えば・・・
もし肩にあたる掃除機のホースの部分にゴミが詰まっていたら、胴体側から勢いよく風を送ってパイプの方へ吹き飛ばしてしまうことができる。胴体から出てくる風圧がさらに大きければ、肩のホースの中だけでなく、次の肘のパイプの連結部や、手首というパイプとヘッドの連結部の詰まりも吹き飛ばしてヘッドからめでたくゴミが出てきたりする(=手の労宮ツボから邪気が出る)。
これは、通常の練習で(タントウ功や坐禅の周天で)胴体から末端に向けて関節を開けていく「節節貫通」の順序。(もちろん、掃除機は胴体に向けて吸うことしかできない。ヘッドからゴミを吐き出すなんてできません!)
一方、手首にあたるヘッドとパイプの連結部分が詰まっている場合は、手(ヘッド)から開けるのも有効だ。拍手功などはそのような狙いもある。手(掌)の衝撃や開きによって、手首を開き詰まりをとる。その部分を開く時に、掌根に連結して付いている橈骨と尺骨の間の骨間膜を開くように意識していればそのまま肘も開けることができる。
肘は肩の方からも開けられるが、その先の前腕から手首の調整は一方向からだけでは難しいので、肩からと手首からと二方向から調整していくのが効率的だと思う。
なお、太極刀や剣などの武器を練習すると、手から肘、肩、という方向に節節貫通させる使い方を学ぶことができる。(でないと、腕が痛くなってしまう。)
ということで、話を戻すと、私が元々狙っていたのは、掌根の骨の開きが悪くて前腕にねじれのある右腕の調整だった。が、この右腕の調整は右半身の調整にもなるし、ひいては全身の調整になりうる。
生徒さん達のボール(や卵!)の持ち方を見たら、一番左の図の青丸の位置だった。
最初はそこから始めて、徐々に真ん中の図の赤丸に近づけて、右端の図のように、前腕の二つの骨の隙間を開くようにしていくと、手首が開く=松腕、の感覚が体感できる。指が”掴む”ことはない。(掴むのは手首と掌、いや、掌は指なのだと分かる)
橈骨と尺骨の間の膜が開いて使えると、肘もしっかり張り出てくる。それにつれて腋が深くなる。
が、そこまで練習を進めるためには、ボールを使って雲手(外旋)や披身捶(内旋)の動きをした時に指に力が入らないように気をつける必要がある。
最初の話に戻ると、
外旋、内旋に拘らず、指に力が入りそうになるのは一周のうちに二箇所ある。
まずは、それがどこなのかに気づくのが必要。
太極拳がゆっくり練習をする理由は、力が入りそうになる瞬間に気づく、見極めるため。雰囲気でゆっくり練習しているのではなく、ヴィパッサナー瞑想をしているかのように気づいていなければならない。
その点に気づけば、その力を削ぐように動くように、一つ内側、奥に入り込んでいくことになる。
一周のうちの二箇所。
これがミステリアスな場所であり、チャンスーの核心、太極拳の醍醐味になる。
2020/9/13 <手を開くということ 末端から節節貫通させる練習へ>
”墜肘”とか”肘を下げない”とか”肘を使う”ということは、、太極拳の『節節貫通』の側面から言えば、”肘の中を通す””肘の中を開ける”、ということに他ならない。
私自身、右半身の開きが悪いのだが、最近家にあったテニスボールを、右手首を開くように持ってしばしタントウ功をしてみたら、いつもよりも短時間で、肘ー肩ー腰ー股関節ー膝ー足首 が連動して調整されるのを感じた。右手首の開きの悪さは、ピアノを弾く時には大問題で、無理して使うと腱鞘炎の原因になってしまう。五本の指が平行になるくらい手首をしっかり開けるのが腕に負担なくピアノを弾くためには重要なのだが、そこそこの練習ではなかなかそこまで手首が開かない。
ピアニストでなくても、日常的にしっかり手を開いて全身を使うような仕事をしている人は手首が開いていて、とても良い手をしているなぁ、と目が止まってしまう。
以前紹介したかどうだか忘れたが、フジ子・ヘミングのラ・カンパネラに感動して全くの初心者だった海苔の漁師が7年かかってラ・カンパネラを弾けるようになったという話があったが、あのおじさんの手は本当に開いていた。フジ子・ヘミングも彼の手を一目見て、「いい手してるわね。」と褒めていた。ピアノを弾く人は人の手を一目見ればだいたいのことが分かる。
私が以前、某私立の音大のピアノ科の教授の家に招かれておしゃべりをした時、その教授はおしゃべりしながら私の手をちらっと見て、「いい手をしているけど、右手が惜しいわね。開きが足りない。」とぽつっと言ったことを覚えている。その時はどこが開いていないのかさえよく分かっていなかったけれど、後々、その教授の指摘がその通りだったことを実感することになった。
自分の手が開いているかどうかは、開いていないことを実感して初めて分かるのかもしれない。そうすると、人の手を見て、開いているか開いていないか、が分かるようになってくる。手が開いていること(ということは手首が開いているということ)は、肘が開いている、肩が開いている、胸が開いている、腰が開いている・・・ということで、全身が開いている、ということに他ならなくなってくる。手(手首)が詰まったまま手をむりやり開いているとどこかに無理がでて、腱鞘炎になったりテニス肘のようになったりしてしまう。そのくらい、手(手首)を開くことはとても大事だ。これが太極拳の『松腕』の要領。(”腕”は中国語で、”手首”の意味。)
と、手のことを書き出したらキリがなくなりそう・・・チャンスーの話に行き着かないかも?
手が開いている、と言えば、ショパンの手。五本の指が平行でそのまま手首から前腕につながっていく感じ。普通の成人は右のように手の中と手首の中でねじれたようになっている。すると指の先端の関節が曲がってしまい勁が先端まで貫通しない。力がこもってしまう。(幼児の手はバーンともみじのように広がったりするよう。)
興味のある人はこちらの番組をどうぞ。https://youtu.be/5jribFOthfI
(うちの母親は番組を生で見ていたそう。)
そしてミーシン君の手。
巨匠の手を小さな身体に取り付けたようで不思議な感じ。手の中の骨がばらばらに動いてる=開いてる。
(そう、開いてる、ということは、骨がばらばらに動くということです!)
こんな風に手の中の関節を動かして手首も開きたい!とやってみたテニスボールを使った練習でしたが、やってみると、これはチャンスーの練習に他ならない。
自分の生徒さんたちにも試してもらったら指が痛くなったという声あり。そこで、ボールを手に乗せる位置、指で掴んじゃいけない、とかいう注意点を混ぜて動画をとりました。
指に力を入れないように動こうとすると節節貫通させてチャンスーをかけざるを得なくなる・・・。
説明など、続きはまた書きます。
2020/9/11 <肘を使うための準備 腹圧 内気で胴体を膨らませる 墜肘の意味>
昨日紹介したバスタオルを使ってしゃがみこんでいく動作をしてみると、腹圧がとても大事になることが分かる。
空手で、「気合い!」と言う時、卓球で、「よっしゃ!」と言う時、そして「わ〜い!」と嬉しくて思わず拍手パチパチしてしまう時も、私たちの身体にはこのような腹圧がかかっている。
今ではローウエストのスカートやズボンが多くなって一昔前ほど女性のウエストの細さが協調されることはなくなった。私はウエストを締めつけるような服はもともと好きではないのだけれど、中学高校の時の制服のスカートはまさにジャストウエストだった。食べ盛りで太りがちな時期、給食を食べた後、スカートがきつくて授業中ホックを外していたこともあった。ある時、生徒会室で憧れの先輩と立って話をしていた時のこと、急にくしゃみが込み上がってきて抑えきれず、「くしょん!」とやってしまった。と、その時、スカートのホックが腹圧で吹っ飛んで、スカートがスルッと落ちてしまった。下には体操服のブルマーを履いていたけれど、本当に恥ずかしくて、その後どう取り繕ったかは覚えていない。
今あの時のことを思い出すと、恥ずかしい、というよりも、今自分が多少きつめのスカートを履いてくしゃみをしたら、あんなに勢いよくホックを引きちぎれるだろうか?という疑問。平時のウエストと腹圧をかけた時のウエストのサイズの差がもうそれほどないだろうし、何と言っても勢いが違う。
そう考えると、はやり、腹圧というのは歳とともに減っていくのだろう。
で、この腹圧と少し前に書いた”広背筋を起動させる”というのは大いに関係がある。
腹腰周りには、後ろ側に、腰方形筋や広背筋、側面に内・外腹斜筋、前面に、腹横筋や腹直筋などがある。
これら全てを同時に連動して使って身体を全体的に動かすのが均整のとれた身体の使い方。
後ろ側が強すぎると前側が使えないし、前側ばかり使うと後ろ側が使えない。だから、太極拳やバレエでは筋トレとは無縁だ。
ではどうやって前も横も後ろも満遍なく使うか、というと、腹部の腹圧、丹田の気の量を増やして、内側から外向きに胴体を膨らまして内気で内側を満たしてしまうこと。内側から胴体の外周へと内気を膨らましていくとその内気に押されて全ての筋肉がストレッチされるようになる。筋肉が内側からストレッチされることで、動くたびに筋肉が総動員される。そんな感覚だ。
命門を開かなければならない、というのは、後ろ側(腰側)を内気で膨らませられないと、腰側の筋肉、広背筋や腰方形筋、多裂筋などが十分に稼働しない。背骨の柔韧性も高まらないし、腕が胴体と繋がらない。レッスンなどでテクニック的に広背筋を起動させて腕が広背筋で使える感覚を一時的に得られたとしても、内気で内側を満たせなければ(その新しい外形を保持できるように内側を気で満たせなければ)、その感覚を自分一人で再現することはできないだろう。が、もし、その時に、ああ、この感覚を保持する”気”が足りない!、と自覚が芽生えれば、それに向けて気を溜めていけばよいだろう。
生徒を導く者の役目は、その”新しい感覚”を体験できるように導くことだが、もしうまく導けても、それを体得できるかどうかは学ぶ側のその後の反復努力が必要だ(そうやっているうちに内気も増えてくる。)
命門を開くとはどういうことか?
と質問してくる生徒さんがいるし、実は、私も以前、何度かそんな質問を師父に投げかかけたが、今分かることは、その質問が出てくる、ということはまだ命門が開いていない、ということ。
命門を開ける人は、開いた感覚とそうじゃない感覚を区別できる。
命門を開くと腰が開いてくるが、命門を開かずに腰を開くとそれは開合のできないのっぺらぼうの腰になって腰のポンプが使えなくなってしまう。
そういう意味では、日本人に多い平腰の人は、まずちゃんとS字カーブの背骨を作れるように指導しなければならないと、これまでの失敗した経験から学びました。開いた身体の人は合できるように練習しなければならないし、身体が閉じている人は開けるようにならなければならない。最終的には、開合のメリハリがちゃんとつくようになるのが理想。
広背筋を含め、胴体一周の筋肉が総動員されて使えるようになってくると、”墜肘”の感覚が分かるようになる。バレエでは「肘を下げない」「脇が立つ」というような言葉で表現されるようだが、なぜに太極拳は”墜”肘?
墜は落ちるという意味では?「肘を下げない」とは真反対のように思うけど? と師父に質問をしたら、あらあら、中国語の”墜”は、ほんの少し日本語のニュアンスが違う?というよりか、墜肘は肘が墜落しているのではなくて、肘に何かが”墜”してぶら下がっているためにそれを支えなければならない”肘”だったよう・・・ひょっとして勘違いしていたのは私だけ?
右の首飾りの名前は「水晶墜」。
・・・ひょっとして微妙に勘違いしていたのは私だけかもしれないけど(苦笑)
垂れ下がった石が肘なのではなくて、石を引っ張り上げているのが肘。
あ〜、なら、「肘が下がらない」というパレエでの表現と同じ意味だ。師父は、当たり前だろう、落ちてはいけない、しかし上がってしまってもいけない。石をちゃんとぶら下げておけないといけない、と言った。(バレエだと肘を上げきってしまうこともあるだろうが、太極拳では肘を上げてしまうと腕を相手に取られてしまうのでどんなに上げても石を垂れ下げたような形になっている。)
自分の生徒さんようにざっと撮った動画を参考までに載せます。
2020/9/10 <丹田でしゃがむ練習方法、股関節の緩みは足で変わる>
昨夜のオンラインレッスンで使った練習法を紹介します。
丹田でしゃがむのと、脚の折り曲げでしゃがむのと違い。
丹田で股を押し分けていかないと、全身が協調して動けない。スポーツの基本姿勢の基本(?)
です。
幼児達のかけっこを見ていても、よ〜い!の時の構えで走るのが早いか遅いか分かってしまう。
スポーツが苦手な子は、丹田に気を集めるのが上手じゃない。ブレる。
私たち大人は理屈で自分の身体を調整できるのが子供よりも優位なところ。
丹田(腰の後丹田も含む)で堪えられないと、早いうちから漏れが始まる。頭の働きも悪くなる(気が下から漏れるから頭まで昇って循環できない。)
バスタオルを使うときっと違いが分かると思います。
あと、股関節の開きが悪いのは股関節だけのせいではなく、足首が硬い、足の中の関節が使えていない、ということが往々にしてあります。そのチェックもしてみて下さい。
足首や足の中の関節を開く練習方法は、ん〜、太極拳では足首回しくらいで大したものがない・・・考えます。
いずれにしろ、足にどかっと体重を乗せて足が一塊の石のようになったらアウト。足首を開ける(パイプにする)には足の関節(26個)が起動する必要あり(が、難しい・・・これが完成したらマスター級)
2020/9/8
生徒さん達を教えていて苦労する一つの問題点は、腕が胴体と繋がらないこと。逆からいえば、腕が胴体と切り離れてしまっていること。
太極拳の技の中には ”肱”(gong)(=上腕、二の腕)という言葉が使われているものがいくつかあるが、この”肱”が使える、ということは、”腕が胴体と繋がっている””、腕と胴体が一体化している”、ということに他ならない。
最近身体の仕組みについて勉強していて、”腕が胴体と繋がっている”ということが、具体的には、”広背筋によって腕が動いている”ということだと知った。
そう言われると、確かにそうなっている。
広背筋は骨盤にもくっついているから、足からの力が骨盤経由で腕、手へと繋がっていくのね、と、身体の中で行われていることを外から種明かしをされて納得。
じゃあ、広背筋をどうやって起動させるのか?
肋骨を締める、背中を広げる、脇を立てる、肘を下げない、などという表現をバレエやスポーツの世界ではするようだが、どれも腕を胴体化させるための表現だ。
短距離走の選手も、バスケットの選手も、テニスの選手も、水泳選手も、ゴルファーも、ピアニストも、バイオリニストも、指揮者も、そのように腕や手を使っている。そうでないと、速く走れないし、正確なパスはできないし、テニス肘になって痛めてしまうし、水を掻けないし、楽器を弾いたり指揮をすることで腕を痛めたり身体のバランスを損ねたりしてしまう。
広背筋を使って腕を使うのは、人間本来の身体の構造からしたら当たり前の話。広背筋がそのように作られているのだから。
腕を動かそうとしたら広背筋が起動してしまうのが本来自然なこと。
料理をする時も、パソコンを打つ時もそうなって然るべき。
が、私たちの多くはそうなっていない。
なぜか?
先週一人の生徒さんをビデオで教えていて、腕を胴体に繋げさせようと様々な試みをしたが効果はいまひとつ。下半身がそこそこできてきたから、もう教えられるだろう、と教えてみたのだが、本人もピンとこないようだった。
結論からいえば、含胸、塌腰、敛臀で、背骨が上から下へと抜け(抜背)、足裏にしっかり気が落ちないと(足裏でしっかり地面を押せるようにならないと)、上半身の肋骨や肩甲骨、腕の調整ができないというのが分かった。
塌腰、敛臀で気を丹田に沈み込ませて初めて広背筋が起動する。含胸、塌腰、敛臀で背骨を下方に引っ張って長くすることで広背筋もピンと張ったシーツのように広がるからだろう。
太極拳で身体を作っていく時はまず膀胱経から始める。これが含胸、塌腰、敛臀で調整される背骨沿いの部位。
これができたら、身体の側面の胆経を繋げる作業に入る。肋骨、肩、腕を繋げる段階だ。
ということで、もう一度、含胸、塌腰、敛臀をしっかりやって気沈丹田、足裏まで気を落とす練習をするように生徒さんには指示したのだが・・・
たまたま最近見ていたバレエ整体の動画に、太極拳の『敛臀』は実はこういうことだったのか!と目から鱗のものがあった。
これだとはっきりする。
腸骨はタックイン、坐骨は引っ張り出す(注:これは圆裆にあたる。骨盤底筋を広げる要領。本当に出っ尻にするわけではない、尾骨がまっすぐになる)。
太極拳をやっている私たちの多くが誤解している点かもしれないので、ここでその動画を紹介します。この人の動画は本当によく作られている。勉強させてもらって感謝しています♪
ちなみに、肋骨を締めることは、太極拳では『束肋』という要領で表されるが、これは肋骨を雑巾のように絞ってほそ〜くすることではない。下の動画で言うように、背中を広くして肋骨が上がらないようにする(それによって肩甲骨の下側が肋骨に密着して腕が胴体の一部として動かせるようにする)ということだ。
腕のチャンスーを使うと分かりやすいのだが、下の動画ように、内側でネジで示されているような気の動きができればそれで広背筋が起動するようになる。ただ、この動画を見て、そのようにできる人がどのくらいいるのかは疑問(内気を動かせない人でもできるのか?)。一応参考までに載せておきます。
私も以前、肱を使うための動画を何度かアップしているようだけど、今見ると、説明が下手くそ。肋を締めて広背筋を使うということを言えればよかったのかなぁ?それでも伝わらないものは伝わらない・・・か。今度はチャンスーで繋げるような動画を撮れたらよいなぁ。(私的にはチャンスーが一番簡単に繋がると思っていたら、なんと、上のバレエ整体の方も、有料サイトではチャンスーのような動きで腕を肋骨に繋げる方法を伝授していた!やはりチャンスーは賢い!平泳ぎの腕の動作のチャンスーが使いやすいかと思うのだけど、平泳ぎを教えている動画をいくつか見たら、どのインストラクターも、肘だの、脇だの、をなんども強調していました。皆伝えたいことは同じなのだろうけど、伝えるのに苦労している・・・身体の動きを誰にでも分かるような言葉で伝えるのは不可能。どこでピンとくるかは人それぞれ。一対一で習っているのでない限り、自分にピンくるものがあるところだけを採用して、ピンとこないものはどんどんスルーすれば良いと思います。)
2020/9/7
股関節の内旋、外旋について補足。
私たちが前に向かって歩く(進歩)の時、股関節は内旋。後ろ向きに歩く時は股関節は外旋。
なので、9/1メモの搂膝拗步は当然内旋。
股関節が内旋、ということは、腕(肩)の動きも内旋になる。
前に向いて進む時の腕のぐるぐるは内旋(身体の側面で回すなら縄跳びの前回しのような動きになる)。もし背泳の時のように腕をぐるぐるすると(外旋になる)身体は後ろに進む(退歩)。股関節と肩関節は同じ方向に動く。
進歩の内旋は逆チャンスー、すなわち、力は丹田から末端へ。
退歩の外旋は順チャンスー。力は末端から丹田へと戻ってくる。
回転する時は外旋。雲手(運手)で身体は360度回転できる。搂膝拗步の内旋では回転は不可能。
しゃがむ時も外旋。内旋(例えば披身捶)をしながらしゃがんでいくのは無理。
雀地龙や摆连跌叉で一気にしゃがむ時も腕は外旋。腕(肩)の外旋で股関節の外旋が自然に行われてうまく身体を沈ませることができる。しゃがむ時は腕(肩)の外旋を使って身体が落ちないようにするのがこつ。太極拳にはコサックダンスのような下半身だけを頑張るようなきつい動きはない。
上下相随。しゃがんだり、跳んだり、素早く前後に動く時などは、腕(肩)の動きで下半身の動きを助けてあげられる。身体内部のつながりを知れば知るほど、太極拳の身体の動かし方がとても自然で合理的なことが分かる。不自然だったら間違えている。人工的なとってつけたような動きはない。すごい!と思わせるような派手な動きは太極拳的ではないはず。
アクロバット的な動きを見て、すごい!と思う時、私たちの息は止まっている。見ている人の息を止めてしまうような動きは自然ではない。見ている人の呼吸が調い、心や身体が開くような、そんな動きのできる人は本物だろう。それは絵画でも音楽でも同じこと。究極的なものは真・善・美(Satyam Shivam Sundram)のどの面からも覗き見ることができるというが、美しいもの、は自然であること、と関連深いのではないかなぁ?
ともあれ、太極拳のベースは自然との一体化。身体の自然な動きを活かすものであることは間違いない。肩(腕)と股関節(脚)の連動は自然な働き。腕を止めて脚を動かすのは不自然・・・こうやって手指でパソコン打ちながら、足指が動いていないというのも不自然か?
2020/9/5 <股関節の動かし方を見直す 動かしてはいけない場所>
股関節について新たな疑問が次々と・・・
最初に見たこの動画。股関節の外旋、ってこういうことだったんだ、と目から鱗だった。
動画で丁寧に説明されている通りだが、白丸の股関節を外旋させるには、大腿骨の骨頭を坐骨の方に近づけるようにするということ。お尻を固めることなくインナーマッスル(深層六筋)で外旋できる。
私がそうだったのか、と改めて知ったのは、この時、腸骨を動かしてはいけない、という事実。ここがブレると股関節がスムーズに回転しない。骨盤が傾いて(左右、前後)股関節自体や膝、足首などに負担をかけることになる。
動画での指導通り股関節を動かしてみると、あれ?思ったよりずっと下を動かしている感じ。しかし、そうすると、内腿から内踝、内踵、そして親指へと螺旋状に経が通り(脾経)足裏にしっかり気が落ちるのがわかる。足裏の細かな筋肉がブルブルして効いてる感じあり(虫様筋か?)
太極拳の動きの中にも股関節が外旋をするところが多々あるから参考にすべき。内旋させるにしたって、内旋に伴い腸骨が前に倒れてはいけないのは上の模型図を見ても明らかだ。
動画では片手で腸骨の縁を押さえて股関節を外旋させていたが、この片手の押さえを外して股関節を外旋させると、それに伴い腸骨の上の縁が開いたり、後ろに傾いてしまいがちではないか? と太極拳の動きでチェックしてみたのでした。
結論としては、このように腸骨の上縁を動かさずに骨盤を立てたままにして大腿骨を動かすためには、中丹田から下丹田まで気が充満していなければならないようだ。
もし、中丹田だけだと、腸骨は安定しているが、股関節を開いた時に股関節がカクッと外れたような形になってしまう。すると腹の気が股関節を迂回して膝に落ちていくようになるため、太ももや膝に負担がかかることになるだろう。
もし、中丹田の気が少なく下丹田のみだったら? 例として想定できるのは、とてもとても低い姿勢でスパイダーマンのように動ける太極拳の選手達の動きだが、通常このような動きができるのは若者。低姿勢でずっと動けるというのは中丹田も下丹田も充実している証拠。ただ中年になる頃には随分先天の気が減ってしまっているので、気を補充する練功をせずにただ同じ様に動いていたら、上半身の重みに股関節や脚、膝が耐えられなくなる可能性が高いだろう。
<下に3パターンを描いて考えてみました>
左:中丹田と下丹田 ともにあると、左右の腸骨はポンの力で安定。下丹田の気で股関節を操作可能。
真ん中:中丹田で骨盤上縁は安定。が、股関節は自分でもどこにあるかはっきり分からないまま操作することになりがち(その結果、股関節がすっこぬけた感じになる。)
右:下丹田は脚(股関節)を操作するが、中丹田の浮力がないので身体がズドンと下がった感じになる。地と繋がるが天と繋がれない(虚領頂勁にならない。頑張って背骨、頚椎を立てなければならない→虚ではなく実領?頭頂が開かないから天の気を得られない。地を這う動物のようになるような。そもそも下丹田は”精”の場所。肉体、地に引っ張られる。若者にありがちといえばありがち。精を気化してさらに神へと変容していくのが人間の進化の道:精気神、下丹田→中丹田→上丹田。ただ、下丹田が弱くなると肉体が弱くなる。精が減った中年以降は中丹田(気)を使って下丹田(精)を補充する。)
と、そんなことを考えながら街に出ていたら、またまたマネキンに目が惹かれた。
そうそう、こんなパンツ。
このパンツはまさに下丹田の領域。
こんな下の下の下っ腹に力がある、というのが理想(と以前師父に言われたのを思い出した。)
歳をとると臍付近の腹ばかりが大きくなってこのパンツあたりの腹が貧弱になってしまう。
ここに力があると、股関節もよく動くし脚も強い。
歳とって足腰が弱くなった、といって、1万歩歩いたりスクワットしたりする中高年がいるようだが、この下丹田の気を増やすのが大事ではないかなぁ。
最初に紹介した動画で指示されたように動くと、このパンツ部分に力がこもる・・・バレエダンサーって上へ上へと軽く動くイメージがあるが、実はこんなにも地に足ついたどっしりとした身体を作っていたとは。股関節もさらに見直しが必要だなぁ。
2020/9/3<捕捉:上下相随のための広背筋>
前回書いた上肢と下肢の連関について。
腕は右の赤い広背筋を使って動かすことになる。
丹田で内側を膨らませ、かつ丹田を移動させながら経をつなぐと、結果としてそうなるのだが、腕が胴体として動くような感覚を得るために広背筋で腕を動かしてみようとするのも一つの練習になる。
広背筋は腕にも腰にも骨盤にも付着しているから上肢、胴体、下肢のつながりが得られやすい。
ではどうやったら広背筋を使えるのか?
といって筋トレで広背筋を鍛えるのはナンセンスだろう
やはり息吹き込んで丹田作り、それを後ろに移動させて腰を膨らませ、肩甲骨と肋骨を併せて稼働させなければ腕が広背筋を使って動いている感覚は得られないだろう。
・・・実はこれは太極拳の練習で胆経をつなぐ練習に他ならない。胆経をつなぐ以前に気を足裏に落とし、気沈丹田ができるようになっていないといけない理由が、この広背筋のつき方(腰、骨盤まで覆っている)のを見てはっきりした。
上下相随には広背筋が欠かせない。
ジーだけでなく、ポン、リュー、アン、ツァイ、リエ、肘、カオ・・・すべてこれなしではできない。
陳式だとチャンスーで比較的簡単に広背筋を起動させられる。
チャンスーを使わない楊式は身体の内側を空洞にしないとなかなか難しい。息と放松を徹底する必要がある。前回紹介した中国の老師の動画で、老師が微妙な説明をしていた(手から回さずに肩から回す、など)のはその現れ。推し続ける腕の動力はその内側を流れる重いドロドロした液体・・・そんな感覚が得られたらよいのだけれど。
生徒さんたちに教えていてもここをクリアするのがなかなか難しいのが分かる。
ここができると、内勁が感じられてますます太極拳がおもしろくなる。
そこまでどう教えていくのか? コツだけではどうにもならないところが多分にあるので、各々の生徒さんの現時点での身体の状態に応じて、一つ一つ積み上げてそこまでもっていく必要がある。もう次の段階に移行できる状態になっているのに次へと導いてあげられない教師も問題だけれども、他方、教えても届かないものを一生懸命教える教師も問題だ。頃合いを見て、ここ、という時に教えれば生徒さんは”悟”できる。本質的には二人三脚的な練習が必要になる。
2020/9/1 <上肢で腰と下肢を繋げる>
今日ある生徒さんのzoomレッスンで最後の最後に発覚した問題点。
前後の重心移動が苦手だというので、具体的な動きを見せてもらった。
彼女がやってくれたのは楊式の搂膝拗步。陳式なら斜行拗步に相当する。
見ると、推掌で前足に体重が乗り切ったところ(右のGIF画像参照)で、ガクっとくる。続けてそのガクっときた脚を軸足にして後ろ脚を引きつけてくるのは本人ににとって辛いのがよくわかる。
この動作のどこに問題があるのか?
足の運びのどこに問題があるのか? 彼女はそこが知りたいらしい。
ちなみに右上のGIF画像(https://youtu.be/scvGP-AliCY)では
①二人が同時に推掌している画像の左側が正しい動作。(推し切ったところで後脚も地面を推し切れている。)
②二人画像の右側は間違い。脚が地面を推し切った時に手がまだ推し切れていない。
③一人画像も間違い。手は推し切ったのに後脚が推し切れていない(余っている)。
ということを言っている。
ではどうしたら①のようになるのか?
実はこの鍵はその前の搂膝の動作にある。
この左の動作で手から足まで経をつないでしまう。
この動作が終わって、いざ推掌へ、と右肩の上(右耳の横)に右手をセットし左足を惹きつけた時には、既にその後の推掌(前進の出来不出来も含めて)の運命は決まってしまうのだ。
それはあたかも、ミサイルを発射する前に、そのどのくらいの威力のあるミサイルをどの方向にどのくらいの距離を飛ばすのか、というのを全て計算、準備してミサイルをセットするようなものだ。
セット完了すれば、あとはスイッチを入れるだけ。セットされたように飛ぶ。ミサイルが飛んでいる最中に軌道修正をかけるのが不可能なように、一度、体重移動=推掌が始まれば動作の修正はできない。
ミサイルの威力に相当するのは丹田(内気)のパワーだが、どの方角にどのくらいのパワーでどのくらいの距離を推すのかはこの搂膝の動作で準備する。
ただ意味もなく右手と左手を振っているように見えて、実は、節節貫通させた身体の軸が上肢の振りで捻りがかかり(上のGIF画像の動きで言えば、まず左へ少し捻り、それからその左捻りを”残したまま”右捻り)、最大限の捻りでセット完了。推掌はその捻りが解けて元に戻る動きで自然に発されることになる(重心移動も捻りが解けて行く動きに他ならない)。注意を要するのはこの捻りが雑巾を絞るような捻りではなく、丹田を潰さないような胴体の表層部分(バームクーヘンの外側の方の層)で行う捻り(旋回)であるということ。だから搂膝の時は更に放松して気を腹に落とす必要がある。
今日の生徒さんはレッスンでさんざん上腕(肩から肘まで)を腰まで繋げる練習をさせた直後だったので、上のような捻りの説明ではなく、搂膝、推掌の時に一瞬たりとも肘と腰の連結を外さない、という教え方をして、推掌(打撃、発力)にはその直前の動作がとても重要な意味を持つこと、重心移動は下半身だけで行うものではないこと、腕の動きが下半身の動きを助けることに気づいてもらった。
ジャンプをする時、腕を下に降ろしたまま脚だけでジャンプする人はいない。腕で身体を引き上げようとするのが自然な動きだろう。走る時、私たちは腕を振ってしまう。太極拳で前進する時もできるだけ効率よく素早く前進するなら腕はどう動くか・・・いつもスローな練習ばかりしていると身体全体をひと塊りにして動く感覚を忘れてしまう。たまに動物としての本来の素早い動きをやってみる(思い出す)必要がある。ピアノの練習でも、正確さを増すためにゆっくり練習する必要があるが、ゆっくりばかり弾いていると本来の曲のイメージ、フレージング、力の配分、などがわからない。ボクシングの真似事をすると拳や掌が身体の一部として胴体や下肢と連動して動くのがわかりやすいかもしれない。連打の練習は二路で行うことになるが、一路の練習でも蹴りや連打やジャンプを少し取り入れると、上半身が下半身を軽くすることが早く分かると思う。腕は前足、前輪。私たちは直立した四つ足動物?
なお、下の老師は搂膝を随分細かく注意して教えている。これは中を繋ぐことが分かっている老師の教え方。「搂膝の時は”手”を先に降ろさない・・・」(動画の”間違い動作”の解説 1"20あたりから)肩(や脇)を放松してそこから降ろすのが正しい・・・その通り。手から足まで内側で繋げるための要領の表現は人さまざま。老師によって言い方は違うけれども、同じことを言っているのが分かる。
搂膝の段階でちゃんと繋いでしまっていれば、推掌はそれほど考えなくてもうまくいくはず。
下の老師は(いつも)よく研究されている。
搂膝の時に左脚がゆらゆらしてはいけない、というのは、そうするとせっかく振った腕が脚まで繋がらず胴体のネジがまけない。ネジがまけないと推掌がうまくできない(重心移動が失敗する)。背骨の旋回は丹田の回転と裏表。太極拳の動きの核心になる。四肢に心を奪われない。奪われてもすぐにそれを背骨(→腎)や丹田に引きつける癖をつけよう。(太極拳の動作は隅々まで意味があるのだけれども、全て丹田と関係付けるようにすれば間違いは起こらないはず。頭を使う手間が省ける。)
なお中国の老師でも経を繋がずに動いている老師はたくさんいる。
下のような教え方だと不自然な体操にしかならないだろう。
左側の搂膝の動作は全身を見るまでもなく、彼女の目線を見ただけで経が繋がっていないのが分かる。目が手を追っていては経はつながらない(目が前に出て泳いでしまってる)。目は手よりも先に動く(手が目を追う)。これは眼法だが、なぜ目が手を追うと経がつながらないのか・・・やってみると繋がらないのが分かるのだけれども、それを理屈で説明するのは難しい(というかちゃんと考えるのが面倒くさくてやっていない)。まあ、生徒さんたちに試してもらって各自その違いが分かればそれでよいと思っています。
2020/8/31 <気功と内功、調身・調息・調心、息>
六字訣をやって、久しぶりに『気功』という言葉を使ったが、ふと『気功』と『内功』はどう区別されるのかしら?と疑問に思った。
例えば四大気功と呼ばれるの六字訣、五禽戯、易筋経、八段錦。
六字訣は其々に対応する臓器を想定していて内臓を調える効果がある。これに対し易筋経は”易”=変わる、”筋”=スジ、すなわち拉筋の要素が強く、主に筋骨皮、に効果を発揮する。そして五つの動物の動きから成る五禽戯、八つの一連の動作から成る八段錦は拉筋とともに内臓を調える効果がある。どれも動作に呼吸を合わせることが要になる。
『内功』という言葉は、武術の世界において主に(筋肉ではなく)内気をパワーの源として使う内家拳の修練で使われる言葉だ。「内練一口気、外練筋骨皮」と言われるが如く、”内”とは”気”(エネルギー”を指している。ここでは”筋骨皮”は”外”の練習と位置付けられる。(内臓は物質と見れば”外”になるのだろうが五臓の”気”をターゲットにすれば”内”と捉えられるのかと思う。確認の必要あり。)
呼吸をエネルギー(気)に変え、そのエネルギーを体内で増やすこと、そしてそのエネルギーを使いたいところに届けられるようにすること(身体の”節節貫通”を完成させること)、これらを狙っているのが内功だ。
気功には3つの側面がある。調身、調息、調心だ。
今この「調身、調息、調心」という言葉を見て思い出したのは、ヨガにはそれぞれのためのヨガがあるということ。
調身はアーサナ・ハタヨガ(フィジカル体=第1身体のための修練)
調息はプラーナヤーマ:呼吸法(エーテル体=第2身体の修練)
調心はラージャヨーガ:瞑想(アストラル体・メンタル体=第3、4身体の修練)
気功の場合は、どの気功法にも調身、調息、調心のどれもが含まれているとされるが、厳格に見ればやはり気功法ごとにターゲットとする調整箇所は異なるように思う。
例えば、八段錦や易筋経は調身:フィジカル体の調整の色合いが強いし、六字訣は調息の側面が最も強い(もともとは動作もないし、最終的には声を出さずにやるというから、そうなればエーテル体そのものの修練になる)。調心にターゲットをおいているのは静功だ。
内功は調息にはいるのか?
文字通り「息を調える」というだけでは内功のダイナミックなエネルギーの発現は得られないが、この”息”という言葉を呼吸がなくなったような”胎息”だと読めば内功は『調息』だといえそうだが・・・
すなわち、吸って吐いて吸って吐いて、という鼻から肺までの呼吸(”外呼吸”)をいつまで繰り返してても息からエネルギーを取り出す感覚は出てこない。肺にとりいれられた酸素が血液に溶け込んで心臓から送り出されて隅々の細胞にある届いてはじめてミトコンドリアでエネルギーが取り出される。この”内呼吸”を調整するのが調息だと厳格に定義すれば、調息は内功そのものになるだろう。
同じ”息”と言っても、呼吸を意味しているのか、呼吸の先にある”息”を意味しているのかで、エネルギーに関わるのか否かが変わってくるようだ。
呼吸は意識と無意識をつなぐもの、意識的に無意識につなぐことができるもの、操作することができそうでできない、びみょうなもの。六字訣などで、一度、意識的から無意識的な呼吸に変わるところを見極めることができれば(その妙を知れば)、呼吸を使って作為から無作為へ、意識的世界から無意識的世界へ、有為から無為へ、と、努力から無努力(お任せ)へ、という身を任せて流れていくTAOの世界が垣間見られるようだ。