2021/3/31 <心到意到 意到気到 気到力到>
前回触れた内三合『心与意合、意与気合、気与力合』(心と意の合、意と気の合、気と力の合)をもう少し考えてみる。これは別の言葉では『心到、意到、気到、力到』、一般的には『意到、気到、力到』と言われる。
内三合は太極拳に限った話ではなく、私達の日常生活における全ての場面に当てはめられるものだ。
心と意の関係については前回書いたが日常の場面だとどうなるだろう?
例えば、心の中で今日の晩御飯は何にしよう、と考えながら電車から降りた、とすれば、心と意は乖離している。というよりも、意、自体がはっきりしていない。電車から降りるという明確な”意”がないまま身体が自動的に動いている。
こうなったら、その後の 意と気、気と力の合は論じることができないだろう。
私たちはあることを考えながら別のことができる。カフェで携帯を見ながらコーヒーをすすっていたり、テレビを見ながらご飯を食べていたり、イヤフォンで音楽を聴きながら歩いていたりする。外から見ると変だなぁ、と思うけれど、自分がやっていると気づかなかったりする。
以前一度だけ本格的なヴィパッサナー瞑想の合宿に参加して心と動作を徹底的に一致させる練習をしたが、その時分かったのは、私たちが2つのことを同時にできる、と思っているのが実はそうではなく、心がものすごいスピードで2つ間を行ったり来たりしているということだった。そのスピードがものすごく速い(お釈迦様は心の速度は光の速度の約17倍と仰ったとか?)から、私たちは2つのこと、もしくはそれ以上を同時に行うことができる。しかし、もし100パーセントイヤホンから流れる音楽に集中していたら歩くことは不可能だ。100パーセント食事に集中していたら向かいの人とお喋りすることは無理だし、お喋りに没頭していたらタバコを吸うことはできない(フランス人の姿が浮かびました)。
心は時空的なもの、時間を含む、時間を超えられる(過去にも未来にも動ける)が、意は”今、ここ”からしか出発できない。「お茶を飲む!」と意が形成されたら、それは今なのだ。「明日お茶を飲もう」はまだ心だ。明け方トイレに行きたくなってでも起きたくなくて、「どうしよう、まだ寝たい、起きるの面倒臭い・・・」とむにゃむにゃ思っているのは「心」だ。そしてついに、よし、トイレに行く!と決めて起き上がった時は”意”→気→力になっている。意は動作の始まりだ。意は発火だ。(意は火で形容される。)
これに対し、「トイレに行く!」と決めて起きようとしたら、あれ、身体にうまく力がはいらない・・・と自分が未だに頭の中にいるようだったら意→気に問題がある。
「行く!」と決めて身体に力が入ったのに、起き上がれない、となったら気→力の問題だ。
前者は「意が達したのに気が動かない(達しない)」
意=will powerが発動したのに身体にエネルギーが回ってくれない状態。麻酔をかけられて神経系統が機能しなければ当然そうなるし、機能していても繋がりが悪ければ動かしたい場所にエネルギーがいかない。(例えば、耳を動かそうとした場合。私のように動かせない人にとっては耳を動かそうという意があっても気が達さない:耳を動かせる気がしない・・・)
後者は「気が達したのに力が出ない」
使おうとする部位にはエネルギーが達していつでも動かせるのに、そこから先、外界へと力を発せない状態。たとえば中途半端な寸止めの状態。触すだけで力を発しないおままごとのような推手もそうだろう。お互いに気を感じ合うことはできるかもしれないが、お互いの力を感じ合うことはできない。
最近推手の練習で、師父から「丹田のことは考えるな、ただ足の指と踵、それから手(から発すること)、その途中は要らない。」と注意された。「丹田は内視しなくて良いのか?」と思わず聞き返したら「丹田なんて見てどうする?力が出ないだろうが!」と言われ一瞬面食らったことがあった。
けれども、そう言われれば、確かに、推手の時に丹田を見ていたら手から先に力が出ていかない。それでは相手を推せない。丹田を内視するのは丹田に気を溜める時。気を力として外に発する時は丹田は見ない。(丹田が存在するうちは”気”。ひとたび気が力になった瞬間に丹田は消失する。*説明する必要あるかも)
これは気功と武術の違いでもあると思うが、気功として套路を練習する時は丹田を内視し、武術(力を発する)として套路を練習するなら丹田は内視しない(意識しない)。これは一路と二路の違いでもある。ただ、力を発するためにはそれだけの気(エネルギー)の量とそのための通路が必要なので、その前提として丹田を使って気の量を増やし身体の中の通路を開通させるための内功が必要になる。丹田が最終目標なのではないということ。丹田はそれによって体内のエネルギーを増やし開通させるための道具。節節貫通が達成できたら丹田は忘れて身体の中を素通りさせるだけ。身体は空になる。
<追記>
翌日師父に上の話をしたら、まずは「意到気到」を目標とすること、最初から「力到」を考えると間違った力の使い方になるので、「気到」がしっかりできる(自覚できる)ようになったらその次の段階に進むべきだ、と話していました。気到には丹田が不可欠。
2021/3/29 <篠田桃紅さん 心と意 心は時空を包含する>
ここ数日は今月亡くなった美術家の篠田桃紅さんに関する動画を見ていた。
私が篠田さんのことを知ったのは『103歳になってわかったこと』という本の紹介を机上雑誌で読んだのがきっかけだった。早速本を購入して読んだが、一番心に残っていたのは、100歳は90代と一線を画すというお話。
以下一部抜粋・・・
『この歳になると、誰とも対立することはありませんし、誰も私とは対立したくない。100歳はこの世の治外法権です。100歳を過ぎた私が冠婚葬祭を欠かすことがあっても、誰も私をとがめることはしません。パーティなどの会合も、まわりは無理だろうと半ばあきらめているので、事前の出欠は強要されません。当日、出たければ行けばいいので、たいへんに気楽です。しかも行けば行ったで、先方はたいそう喜んでくれます。今の私は、自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません。』
90代までは社会の中の人間、多少であれ責務を感じていたのが100歳になると社会から出る。それを「治外法権」と表現したり「半分あの世にいるようなもの」と言ったりもしている。
私の現在の位置からは90代と100歳以上の差ははっきりとは見えない。20代の時には50代も60代も同じようにしか見えなかった。下から見上げても雲の上がどのようになっているのかは分からない。それを通り抜けてのみ更に上から見下ろして雲の上の世界を知ることができる。
『この歳になると、誰とも対立することはありません・・・ 今の私は、自分の胃に染まないことはしないようにしています。無理はしま
せん』 100歳を超えた彼女の姿は老子や荘子を思い出させた。彼女のように100歳を超えてもしっかりと自分の道を追求し続けられたら、いつの間にか自然と解脱の境地に達するのかもしれない・・・ 篠田桃紅さんからは長生き、長寿の意義を初めて教えられた。死ぬまで貫いた熱い一本の意、これが彼女の一本一本の線に表現されているようだ。
動画を見ていたら、はっとする描写があった。(https://youtu.be/TUkNgs_JaL0)
『墨色にたすけられるように、想いが充ちてくれば、ある機が訪れてかたちが生まれるような気配もある。心の中に煙のように立ち昇るもの、煙よりもとらえがたく、見がたい、人の心という不可視のもの、しかし不可視であっても形を持つもの、を可視のかたちにしたい、と希む。』
なんと、上の篠田さんの言葉は、馮志強老師の『陳式太極拳入門』における、<無極から何かが生まれ(生機)それが両儀(陰陽)に分かれ太極になる>という極めて抽象的な説明の中の、混沌とした無極から生まれる何か、の描写にとても似ているのだ。
混沌としたものから生まれる命を持ったもの、とは、心?
太極拳の内三合とは『心与意合、意与気合、気与力合』と言われる。心・意・気・力の関係だ。
意→気→力 については過去になんどかメモを書いたことがあると思う。(とはいえ、そろそろ更新バージョンを書いても良いかなぁ?)
意は達しているが気は達していない状態、気は達しているが力は達していない状態、というのがはっきり分かるようになれば、内三合のうちの後ろの2つははっきりする。(例えばタントウ功や坐禅で周天をやろうとすると、意と気の乖離がしょっちゅう起こるのに気づく。)
私自身は、意(上丹田)をはっきり捉えるにあたって、その前段階の”心”をもう少しちゃんと理解したいと思っていた。しばらく「心の科学」とも言える仏教をかじったのもそれが目的だったが、仏教はとても分析的で細かく、肉体で悟る太極拳にはそこまで細かい理解は必要なさそうだった。心と意の関係、心がどのように意を形成するのか、これは套路を練習している時も問題となるのだが、套路を練習している時に身体や気、丹田などに意識があると、心や意や観察できない。かといって意を観察しようとすると気が頭に上がって動きがおかしくなる。師父には「意は重くしてはいけない」と注意された。「有るような無いような意が真の意」これが太極拳で言われる「意」についての言葉だ。分かるような分からないような・・・?
じゃあ、その前の”心”は? となると、太極拳で心について深く語った言葉はこれまで聞いたことがない。仏教のように「心とは何か」については論じたりはしないのだ。
が、上の篠田桃紅さんの心の描写を読んだら腑に落ちた。心、胸の奥で煙のように渦巻いているもの、これが心で、ここから頭に向けてすっと立ち上げていったものが意。心は渦巻いていて方向性がはっきりしないが、意になった時には方向性がはっきりとしている。心はつねにうごめいていて一瞬よりも短い刹那刹那の刺激に反応して形態を変え続ける。ここからその瞬間に合った意識的な動きをするには、心の中から何かを”意”として引き出してこなければならない。意として脳が命令をかけた動きを身体にさせることによって意識的な動きが可能になる。 目の前にハエが飛んでき無意識でハエを手で払った、というような動作や、貧乏ゆすりなどが、心が意を通さずに勝手に身体にやらせているようなもの、無意識の動作だ。
心というかたちがあるようなないようなものを形あるものとして外に出した時、それはすでに意となっている。逆に言えば、意の前に心が必要だということ。たとえば、最近の練習での例でいうと、旋風脚。ぐるっと回転しながら左足で蹴る技だが、蹴る位置を師父に直された。これまでは南方向で蹴っていたのを西南西にすることになったのだが、そうなると、脚を振り出す前にすでに”心”は打点(蹴る位置)を感じている必要がある。が、ここでもし”心”ではなく”意”を使ってしまうと振り出しのスピードが落ちてしまって結果として打点まで脚が届かない。振り出しの時は心で蹴る位置を感じていた上で、意を打点に向けて線のように引っ張る必要がある。
套路をやりながら、今は心なのか意なのか? としばし観察していたら、突然、昔聞いた、国際松濤館の金澤弘和宗家の言葉、「心の目で見る」が出てきた。目は上丹田=意、だから、「心の目」とは心と意が一体になっていることを指している。内三合の最初の部分だ。
なんで目だけで見てはいけないのか? それは目だけだと深さ、広さが足りないからだと思う。視野を広くするには心を使う必要がある。その視野の広さは眼科で測定するような面積的だけのものではなく、時間的な幅をも含んでいるようだ。
上の旋風脚の例だと、左足を振り出す直前に心はすでに打点までカバーしている。心は時間をも含んだ面、空間で事象を捉えている。そこからエイっと足を振り上げたら意はその心の時空の中を矢のように線で動く。目や頭が泳がないようにしっかり抑えが効いている必要がある。
双推手から技をかける練習をしているが、まだまだ慣れていないから、心の中で技をかけるタイミングを測ってよし、今だ、と動き出したところで、ん? 足はどうするんだっけ? と分からなくなったりする。これは技をかける前に、技をかけ終わるところまでを心が包み込めていないから。心の中の像が技をかけ始めるところまでしかないのが分かる。これも熟練すれば最後までイメージ(といっても時間ゼロの動画、あるいは動きを包含する静止画)ができてくる。
書きながら思い出してしまったけれど、昔、ピアノの先生に、「曲を弾き始める時には曲の最後まで感じていなければいけない。」ということを言われたことがあったけれど、きっとそれも同じことだったに違いない・・・当時は、どうやって最後まで感じながら今を弾くのだろう、無理、と早々にギブアップしたが、ああ、これは心の問題だった。私は頭でやろうとしていた・・・頭には広さと奥行きがない。心の時間をも包含する広さ、これは含胸とも関連しそうだ(と感じた今日の練習の一コマについてはまた今度)。
2021/3/27 <収縮させながらストレッチ マジックハンドを作る>
時々チェックしている山内流整体の動画。ただのストレッチの先をいく手法で、ポイントは「筋を収縮させながら伸ばす」ということ。実はこれが太極拳の時の身体の使い方に感覚がよく似ている。そもそも「収縮させながら伸ばす」という言い方自体が太極拳的。ただ伸ばしてはいけないし、ただ縮めてもいけない。縮めようとする力が働いている中で伸ばそうとするから引っ張り合い(撑)、張力がでる。
太極拳での「合の中に開あり」「開の中に合あり」というのも結局は引っ張り合い、張力を生まれさせるということだ。ただの哲学的な理念ではない。いたる箇所で張力が働いているような身体→それは弾力性のある身体、ということ。太極拳の目標とする身体は弾力性のある身体、鞠のような身体、そんな身体から出てくる力は弹簧力(バネ力)。特に二路で練習する力だ。私たちはそんな目標に向けて一歩一歩練習していく。
逆から言えば、到達点は弹簧力、身体の弾力性。そのためには張力を効かせる必要あり。張力を効かせるには、内側を気で膨らませる必要がある(この点についえは前回のメモで説明しました)。
①内気の充実→②内気が満タンになって内側が空洞化→③張力発生→④弾力性、弹簧力の発現
一路では主に①から②の過程を練習、二路では③④を練習する。
太極拳を練習する大半は一路を練習しているから、②の内気が内側を満たして内側が空洞化する状態(節節貫通)が目標になる。ただ静功で丹田に気を溜めただけでは節節貫通できないので、併せて動功や套路をする。動静双修といわれる所以だ。
最初の動画の話に戻ると、例えばジーの時に感じる腕の内側の”勁”は、下の動画のセルフ整体を行った時にとても近い。
たった10秒の整体。(具体的な動作の説明は4分20秒あたりから始まります。)
肘、そして二の腕(肱)は太極拳の要。ここがちゃんと使えたらもう太極拳の身体の使い方はマスターできていると言えても過言ではない(私もまだまだ不完全・・・)。一般人が見落としているとても重要なパーツ。
と、上の山内流動画を見たら、なんと、肘には手の位置とスピードを把握する大事な感覚センサーが埋め込まれていた。なるほど、掩手肱捶は一見パンチに見えるけれど、古人はちゃんと、「それは手ではなくて肱(二の腕)でやるんだよ。」と技の名称で教えてくれている。倒卷肱もしかり。そうか、私たちが通常、手(前腕)で行いがちな動作は全て肘より上、二の腕でやるのだ・・・とそのうち気づけば(というより、身体がそう躾けられてくれば)もう太極拳的身体の使い方、力ではなく勁を使うという道を進み出している(入門したということ?)。
上の動画では、まず①片手を前に伸ばしてグーにして、②もう片方の手の平で伸ばした腕の肘を覆い、それから手のひらを二の腕の方へスライドさせて肘の皮膚を持ち上げる。③伸ばした腕のグーを2秒かけてパーにする、を二回。④最後にグーパーグーバーを速めに3回。、と動作を指導している。
このエクササイズをした時に気づくのは、肘を覆って上にスライドしたまま伸ばした腕のグーをパーにすると、5本の指が肩や脇の中まで繋がってくるということだ。
そのイメージは右の図のようなマジックハンド。
肘の皮膚を覆って上に引っ張り上げると、手をしっかり開いた時に肩や腋の奥まで広がるのが分かる。
が、もし、肘の皮膚を覆う云々などの技を使わずに、ただ片手を前に出してグーパーしたらどうだろうか? おそらく、肘より先端部分の前腕の筋肉がギュッと締まる感覚しか出てこないだろう。
つまり、山内流を使った前者の感覚(腕の中から腋や肩甲骨まで繋がる感覚)が『勁』、そして技を使わない後者の感覚(前腕の筋肉の収縮)が『力』だ。
前者の勁の感覚についていえば、もし丹田が膨らんで肩や腋までもが一つの空間になっていたらグーパーの感覚は腹まで繋がるだろう。うまくいけば手のグーパーは足のグーパーまで繋がるかもしれない。
最初は片手で肘の皮膚を上にずらして勁を感じてみて、それから補助を外して、片手だけで同じ感覚が得られるようにグーパーの練習をしてみるのも良いかと思う。腋や胸の中を開けなければならない・・・ひいては、丹田が必要になる、丹田で引っ張っておく力(合)の力が必要になるのが分かるかもしれない。丹田で引っ張りながらグーパー、つまり、合しながら開=張力が働く、となる。
左の画像は陳正雷老師(黒い服)だが、その手、腕を見れば、上のマジックハンドのようになっているのがすぐ分かる。撑している手だ。
よく見ると、身体全体が撑している。
撑は身体全体から生まれる。
反対に、左の画像のような腕は肘で通路が断絶していて勁が通らない(腕相撲の時の腕のよう)。こうなると前腕の筋力に頼った”力”、身体の内側とは無関係の四肢の鍛錬になる。
生命は四肢ではなく頭を含めた胴体に宿る。
四肢を胴体の延長として繋げる知恵をぜひ学びたいものだ。
2021/3/26 <内棚外撑について>
昨日アップした動画の中で師父が言った『内棚外撑』とはどういう意味なのか?という質問があったので以下そのあたりの説明を試みます・・・
師父は動画の中で私に「力でなくて勁を使え」と注意している場面があるが、、太極拳では一般的に『力』と『勁』を区別して使う。『力』は外、筋肉の力、『勁』は身体の内側、どこから出てきたのか察知できないような力だ。世の中のどんな分野でも達人と呼ばれるような人はみな『勁』を使っている。お茶のお点前でも『力』を使ってお茶を点てている初心者と、『勁』を使って点てている人の身のこなしは全く違う。『力』を使うとごつごつと硬くてうるさい感じ、『勁』を使うと柔らかくて静かな感じだ。私が簡単に思い浮かぶ例は、柔らかい食パンをパン切りナイフで切る時に『力』で切るとパンが潰れてしまう。うまく”通しながら”ナイフを入れていくと潰すことなくうまくスライスできる。『勁』を使う時はそれに似たような”通す”感じがある。
動画の中で師父は、「勁は内側を撑していないと出てこない」と言っている(動画の中では師父が力と勁を逆さまに使っている場面があるが、これは後に訂正。外が力、内が勁。)
では「内側を撑する」とはどういう状態か?
焼きたてのふわふわの食パンをスライスしてみてほしい・・・息を止めて力をこめるとぐしゃっとなる。ぐしゃっとさせないように切ろうとすると、少しだが身体をふわっと膨らませようとしていないだろうか?息を吸って肺を拡げるようにしているかもしれない。
それは内側をあたかも風船のように膨らませようとしている状態。
内側の空気は身体で言えば『内気』だ。
その後で師父は「内側も外側も撑する」と私の身体をなぞりながら言ったが、最終的には『内棚外撑』ということだ、とまとめた。
まず、はっきり分かる必要があるのは、『撑』(引っ張り合い、張力)を得るためには、その前提として内側の『棚』が必要だということ。
『内棚』なしには『撑』はあり得ない。
上の風船の『内棚』と『外撑』を書き込んだのが右のイメージ図。
風船の中の空気がパンパンに膨らむと、外側のゴムが張ってゴムの表面のどこをとってもピンと張った引っ張り合いの力(張力)が働くようになる。
もし風船の中の空気が足りないと(内棚が少ないと)ゴムは伸びない=外側の引っ張り合い(外撑)は得られない
つまり、内棚は外撑の前提条件、内棚なしに外撑は得られない、即ち、勁は得られない、ということだ。
なお、師父が内撑とも言っているのは、右の風船の図で、ゴムの内側の壁(橙のライン)がピンと張っているところを指している。風船のゴムの内側の壁が”撑”すれば、外側の壁(水色ライン)も”撑”するのは自明の理。が、内側の壁の撑の前提は内側の内気の棚勁(四方八方に膨張する力)だ。・・・ん?皮膚のたるみの構造も同じ?たるみの原因は内側のハリ不足・・・
推手で相手の力と釣り合っておく時は内側のポンが内側の空間を満たして外側の囲いがピンと張っている状態を維持し続ける必要がある(左は陳項老師のジー)。
少しでも内側のポンが減ると、身体の風船がしぼんで外撑が失われ、動画の中で師父が見せてくれたような相手の攻撃を受けてしまう。
(なお、ジーの時の主要な内ポンは胸のところにあるが、その大元は丹田から広がった身体内部の内ポンです。外撑も主要なのは腕の高さのところの円で描きましたが、内側のポンの結果身体の外側全体が撑します。)
上の陳項老師を見てからこのようなジーを見ると、内棚外撑ができていないのがよく分かる。
このようにただ腕を前にだすと『力』になる。
推手ならすぐにやられてしまう(そもそも太極拳の力の使い方ではない、ということ。)
推手の練習をすると、自分の力が『力』なのか『勁』なのかを知ることができる。最初は勁を出せていても、動いている間に内側のポンが消えてしまっていることに気づかされることもしばしば。そもそも内ポンが足りないことを自覚させられることもある。
知れば套路での力の使い方も変わる。内気を養う必要性をさらに実感し静功や内功に励む気持ちにもなる。太極拳の理解がさらに広がるだろう。
力、エネルギーといった目に見えないものを体験的に学べるのが推手の面白いところ。勝ち負けではなく、かといってシナリオのある演技ではなく、お互いにお互いの身体とエネルギーを借りて自分のエネルギーと力を知るようなinteractiveな推手ができるようにしたい。
2021/3/25 <松の意味 単推手における松沈の重要性>
太極拳は松に始まり松に終わる、と言われるほど『松』、余計な力を抜くことを重視する。
解剖学的に言えば、意識的に筋肉を緩めると、身体の表面に近い筋肉が使われずに、その代わりに深層の筋肉が使われるようになるらしい。
例えば、バレエのアンディオールで股関節を開く動作だと、意識的にお尻の力が入らないようにする(放松する)ことによって、表層の大臀筋が収縮するのを防ぎ、代わりに深層の外旋六筋が働くようになるということだ。
身体全体の筋肉を繋いで(節節貫通)効率よく動くためには、表層の大きな筋肉に頼るのをやめ、骨に近い深層の筋肉を使う必要がある。表層の筋肉はそれ自体単独で頑張る感があるが、深層の筋肉を使うと骨沿いに筋肉の連関が続いていくようだ。
おそらく、私たちが幼い頃は表層の大きな筋肉はまだ発達していなくて、骨に近いコアの筋肉主流で動いていたのだろう。成長するにつれ、表層の筋肉が発達し、それに伴いコアの筋肉を使う比率が減っていく。巷でしきりに”体幹を鍛えろ”と言われるのはそのためだと思う。
では、体幹を鍛えるにはどうしたら良いのか?
と、この問題に対して、太極拳では(バレエでも)力を抜け、という。
力を抜くことによって、表層の筋肉が頑張るのを防ぎ、その結果、深層の筋肉が頑張らざるを得ない状況を作る、ということだろう(なんて賢い!) (上のイメージ図を参考にして下さい。)
面白いのは、私たちがいくら力を抜いていくと表層から抜けていく、ということ。表層を緊張させたまま深層の筋肉を弛緩させるような芸当はおそらく不可能なのだろう。だから、頑張って力を抜けば抜くほど、深層の筋肉が鍛えられる。力を抜き過ぎたら身体を保ってられなくなる(萎れてしまう)からぎりぎり身体を保って動ける程度を目指す。通常は抜き過ぎてふにゃふにゃになる心配をする必要はない。気づいたら力が入ってしまっていた、というのが大半の状態だ。
松がこのようなものだとして、松の練習をして最初に感じるのが『松開』と言われる。開いた感じ、身体の開放感だ。そしてその後、重力に引っ張られるような重さ、沈みが感じられるようになる。これが『松沈』という状態だ。(松開や松沈、そしてその先の松柔などについてはもう少し説明する必要がありそうだけれど、今はこの程度で省略。)
<単推手における松沈について>
前回の動画では、松沈とポンが表裏の関係にあること、松沈なしにはポンが成り立たないことを少し説明しました。今日はその続き、単推手においてなぜ松沈勁が必要なのか、というのを簡単に説明した動画をアップします。
単推手をすればお互いの功夫が分かる、と言われるのは、言い換えれば、お互いの『松沈』の程度、即ち、『松』の程度が分かるから。
松をした状態からさらに松をするには、それを可能とするだけの頼りになるものが内側になければならない・・・能敢松?・・・敢えて松するだけの勇気があるか? 難しいのは、自分が余裕でできることについては松できるけれど、不得意なものは松しにくい。3歳の子供相手に腕相撲する時に必死になる大人はいないが、相手の実力が自分と拮抗していると人はなかなか松できない。最初から諦めてしまうのは松とは違う。意の力が抜けてしまっている。 このあたりは意や心との問題も絡んで葛藤が出てくるのだが、推手をするとその内側での葛藤が意識できる。自分の心を客観的に見る訓練にもなる。套路練習ではなかなかできない類のものだ。
動画の中で『撑』と言っているのは、内側を繋げてシーツをピンと伸ばすように張ること。内側のたるみを無くしてピンと張る、そんな意味だ。それは深層の筋肉を繋げて使う、ということに等しい。逆に言えば、繋げて使う(節節貫通)のためには、ピンと張る必要がある、ということだ。(これは関節を伸ばす、という意味ではない。内側の勁の感覚です。)
2021/3/24 <棚(ポン)と松沈の関係>
先日こちらの師父の男性の生徒さんと推手をさせられた。が、相手の男性はまだ身体の力を使って推手をすることを知らないレベル。搭手(手を合わせて組むこと)した時にもうそれは明らか。推す前に勝負はついている。このまま推手(単推手)をやったら彼は可哀想なことになるなぁ〜。私よりもずっと身体の大きい白人男性でも推手のルール(やり方)を知らずにやったらあっという間に腕が耐えられなくなる。こちらは楽でも相手は汗だく、そんな場面がこれまでもよくあった。
この前の相手は日本人の男性だったから私は日本語で(師父に分からないように)、「これじゃあ公平じゃない、師父も人が悪い。先にやり方をもっと教えてあげればいいのに。」と言って、師父が別の生徒さんを教えている間、その男性に推手のコツを速攻で教えてあげた。要は腕ではなく、身体で腕を支えればいい・・・宅急便の人が大きなダンボールを抱えて持ち上げるのと同じだし、お相撲さんの突っ張りだって同じだ・・・
幸いその男性は合気柔術の経験のある人だったので少し教えれば即座に理解できた。
そしてそのままポンと松沈の練習へと移った。つまり、結局タントウ功に戻る・・・
相手の腕が重く感じられる時、相手は自分よりも松している(松して沈むから手が重く感じられる)。相手の松沈勁に対して自分のポン(棚)劲(上に支える力)が釣り合っっていれば相手の腕の重さは感じない。
単推手をすればお互いの功夫が分かる、というのはお互いの松沈の程度が分かるからだ。
より多く松している方が功夫は上。
松している、ということは丹田に気が沈み身体が一つに纏まっているということだ。
腕がより重い方がよく(丹田の奥の方に)気が沈んでいる→より松している
そしてより多く松沈できればより多くポンができる。
というのは、松沈とポンは表裏の関係だから。
ポンがちゃんとできているかどうかは、その時同時に松沈ができているか、をチェックすれば良いということになる。
・・・とそのあたりを説明した(つもりの)動画を撮りました。
文章よりもわかりやすいと思うので参考にしてください。
2021/3/22 <意気力を一つにすることについての考察>
前回のジーに関するメモの中で、卓球のバックハンドを思い出したらうまくいった、と書いたことに対してそれが具体的にどういうことなのか、という質問をもらった。
実は前回、できることなら、”力を一つに纏めるとは?”というタイトルで書きたかったのだが、あの、うまく力を一つに纏めて発することのできた時の状態、その条件などを引き出してくるにはある肝心な点についての理解が不十分だと気づいた。だから代わりにバックハンドの話で適当にスルーしてしまった・・・
補足すると、私にとっては卓球のバックハンドの時の力の使い方がその時師父に習っていた身体の正面でのジーの形に似ていると思ったのだが、その時見ていたのは、その瞬間の身体の中。打点の瞬間、正確には、打点の瞬間の直前、そして打点の瞬間、自分の身体はどのようになっているのか、というのを観察していた。
身体がとても面白いと思うのは、長い間それをやっていなくても過去に習得したものを感覚として記憶しているということ。たとえ筋肉はその感覚通りに動かなくなっていたとしても、内側の私はそれを”こうやってやるのだ”と覚えている。自転車に乗れるようになると長い間乗っていなくても身体が乗り方を覚えている。泳げるようになると歳をとっても泳ぎ方の感覚を覚えている。身体の感覚の記憶は頭で覚えたもの(概念)の記憶よりずっと長いようだ。
その身体の感覚の記憶を蘇らせるには、自分が再びそれをやっているようなイメージを持てばいい。すると身体の中のエネルギーが動き出して内側で勝手にその動作を再現してくれる。私は外から内側を観察するだけだ。
自分がバックハンドでうまく打てた時の感覚を再現した時、身体の中にあるのは、(表現にこまるのだけど)んーーバン!。 バン!と打つ前にんーーと溜める。(古い記憶から出せば、ピンクレディのウォンテッドの中の、”ウーーウォンテッド!”みたいなもの?)
発勁の前には必ず”ウー”なり”んー”なりもっと短い間だったりのタメがある。バレーボールのスパイクでもゴルフのスイングでも刀を振りかざした時でも怒鳴りつける直前でも同じだ。気を急激に溜めることによって一気にそれを発することができる。ダムを塞きとめることでそのあと一気に水を流せるのと同じだ。
けど、太極拳はどうだろう?
ここからがまだ感覚的な話に過ぎないのだが、バレーボールのスパイクや刀を振り下ろす時、弓道で矢を引く前のように、気をゼロから100に増やして発勁!という風にはならない感じだ。卓球のフォアハンドではなくバックハンドを思い出したのは、バックハンドは自ら打ちに行くというよりも、相手の球を吸い込むように待っていて相手の球の威力を借りて打ち返す感覚が強いからだと思うのだが、その場合、相手の力を吸い込む間は自分の気をゼロにはできない(バックハンドの時は身体の正面に球が飛んでくるからゼロにすると危険)。向かってくる球に何らかの回転をかけたり角度をつけて打ち返そうとする時、相手の球を引き込む動作自体がタメになり、発勁の前に更に溜める必要はない。(→いつでもどこでも発勁が可能。だからこそ套路練習では丹田の気を常に失わずに転がしながら動く訓練をし、どこにも隙がない=どの点をとっても技の一部分となるような動き方をする。緩急があっても休憩モードの動作はない。)
即ち、太極拳では既に気が溜まった状態を維持。いつでも発勁が可能。発勁するかしないかは意の問題・・・(身体の準備は完了。あとは発火するだけ)
質問では右手と左手のバックハンドで差はあるか?ということも含まれていたのだけど、手は全く関係ない。ただどうやって発勁をするか、その問題を見ていました。逆からいえば、なぜ最初、ジーがうまくできなかったのか?力が散じてしまっていたのか?力が二つになって一つではない、と言われたのか? それが分かればどうすれば力が一つになるのか、即ち、意と気と力が一つになるのか、そしてその先更にいえば、どうしたら”太極”になるのか、という問いの一部分が明らかになるはず。
そして、冒頭に示唆したように、核心的だと気づいたのだけどまだはっきり分からないのが、意、そして目。
バックハンドの時と私が最初にジーをした時の一番の違いは、実は内側の目の向き。
バックハンドを再現すると簡単に目が上丹田に入って下の丹田と揃う(合う)。が、師父相手にやっていたジーの時は目が明らかに頭の中で泳いでいた。もしくは、頭の中でギュッと絞ったようにしていた。バックハンドの時の内側の目は閉じていない。凝縮しているけど外向きに開いている。
どんなに腹の丹田を鍛えても上の丹田、目=意が揃わないと全身が一つにならない。
が、その”目”とは・・・意の問題は心の問題に遡り、本来の「心意混元太極拳」の名の由来に遡って行く。
前回のメモを各直前、しばし『凝神』について書こうかと材料を集めていましたが、話がとても難しくなりそうなので、ただのジーの日記にしました。
推手で技に展開していくと、目線、意の使い方が重要になってくる。そういえば以前十九代の老師に学んだ時も、目線を細かく指導されました。あの時はその意味が全く分からなかった・・・やっとほんのり分かり出したばかり。
目線を下げて歩く人、目線を上げて歩く人、たかが目線だけど、見えている世界が全く違う。志向するものも全く変わってくる。
本来、目は、爪先立ちをした時の目の位置らしい。踵を落としても爪先立ちの時と同じ位置に目を維持してみる・・・そうやって街を歩くと大抵の大人とは目線が合いません。たまに合うのはきらきら輝く子供の目。 で、実はその高さが上丹田。ここに目がないと意気力が一つにならない。目を落とすと力が揃わない。何でだろう? と、もっと掘り下げたくなったのが、上丹田を作る最初のメソッドである『凝神』でした。 もっとはっきりしたらまた書きます。
2021/3/20 <挤(ジー) 気づかれないようにジーして最後に止めを刺す 綿勁と寸勁>
推手からのリュー(捋)、そしてリエ(埒)を使った招数(技)をいくつか教えてもらい、まあまあ形になったところでジー(挤)の練習になった。ジーは特に難しくない、そのまま推せば良いのだから・・・と思って推したら、「一つの力になっていない」と師父から言われる。「あなたの力は二つの力になっている。」というのだ。二つ? とよく分からないという顔をしたら、師父が私のジーの真似をしてくれた。「じゃあ、一つの力だとどんな風になりますか?」と正しいジーをやってもらう。実際に推されるのは”あっ”という間の瞬間。ジーー、と套路の時に長く推し続けているようなのとは全く違う。
「あなたのように最初から”ジーしますよ〜”と相手に分からせてしまうと、相手は簡単にあなたのジーを化(躱して攻撃に転じる)できてしまう。相手が化勁できなくなるその位置までは相手に推しているのを分からせてはいけない。ジーの力が相手の体の中に浸透していって最後の最後に発勁すると相手は化できなくなる。」
師父はそう言って、再度お手本を見せてくれた(というより、やってくれた)。
力は受けてみてやっと理解できる。
なるほど、確かに師父の手が私の体を触った時、それからしばらくの間は推された感覚がないのだが、背中近くまで力が達した時にとどめのようにバン!と推されて倒れそうになる。
その時の感覚を私なりに図示してみました。
①は師父の手が私の体に触れたところ。
驚いたのはそこから背骨に届く直前まで、つまり、背骨の前側、腹の区間は何も推されている感覚がなかったということ。
これが②で示している矢印。
推された感覚が出たのは背骨の前側まで既に推されていた時・・・これが③
つまり、②の間は無感覚で、気づいたら③の寸勁(瞬間の力)で後ろに倒れそうになっていた。推されたのに気づいた時には既に時遅し・・・と、やってもらって初めて実感できた。(②のような相手に分からないような柔らかい力を使う発勁を綿勁という。綿勁の最後には寸勁が含まれているはず 明日師父に確認しよう。)
確かに冒頭に師父が私に言った通り。最後に仕留めるその一撃までは相手に力を分からせてはいけないのだ。
その時、ははあ、と何故か私も真似できる!と思った。師父に私にもやらせてほしい、と頼んで、師父相手に師父の真似をしてジーをやってみた。理屈は分からなくても、力の真似はできる。案の定、いや、思いの外うまくいって、師父は目を丸くして驚いた。非常好! 一回の示範で習得できるなんて、天才? と自分でも得意になってその日は練習を終えたのだが、実はそんなに簡単ではなかった。翌日同じようにやってみようとしたらうまくいかない。あれ?昨日はあんなにうまくできたのに・・・まぐれだったのか?
その後練習して分かってきたのは、師父が示範してくれたその直後、師父の気感を身体がそのまま受け取ってそのまま身体で返した時はうまくいく。が、頭(思考 うまくできるかなぁ、とか、ここはこうして、ここに注意して、とかという考え)が少しでも介入するとうまくいかない。意と気がバラバラになってしまうのだ。これを、師父は「二つの力」と表現したのだろう。
ジーがうまくいかないと、こっち向きに力を出せ!、とか、胯を松しろ! とかいろいろ注意されて、それを意識してやると間違いなく力はバラバラになる。一つに統一されない(整勁=丸ごと一つの力、にならない)。注意すればするほどできなくなる・・・ がっかりして帰宅して、あ〜あ、なんで最初の一回だけうまくできたのだろう? と思い出してみたら、あっ、あれは卓球のバックハンドに似てる! とこの前ブログに載せたばかりの馬龍のバックハンドの発勁を思い出した。なんだ〜、そっか・・・ とバックハンドの素振りを数回復習して、翌日再度師父にジーをさせて欲しいと頼んだ。バン!っとうまく推せて師父の身体がゴムまりのように後ろに退いた。念のため3回ほど連続してジーをさせてもらい、まぐれでないことを確認。師父は、できるようになったな、じゃあ、その次の招数に進もう・・・と、どういて私が開眼したのかも聞いてくれなかった。どうやってできるようになったかよりも、できるようになるのが大事、というのが師父のスタンス。私は、どうやってできるようになったのか、というのがとても気になるタイプ。人それぞれ気づき方は違くて、それを知るのはとても面白い。
←上の画像だと速すぎてよく見えないので、最後のジーの部分をスロー再生してみた。
核心部分が見えそうで見えない・・・その部分を更にパラパラで見てみると(↓の連続写真)・・・見えた!
①でジーが始まって③に至るまで、相手の体は前方に突っ込んでいってしまっている。もし馮老師のジーが最初から硬ければ(松していなければ)、相手は①あるいは②の時点で馮老師のジーの力を削ごうとしたはず(化勁)。(私が師父に最初ジーをした時は、①のところで気づかれて簡単に躱されてしまった。)
相手は③の時点でもまだジーされていることに気づいていない。④で初めて気づくのだが、その時は既に馮老師の力は背骨近くに達している。背骨が崩されると後脚の突っ張りが消えてしまう(中正が崩れる 中正は背骨からハムストリングスを通るライン。ハムストリングスが使えない状態にされると簡単に崩される)。
①から④の直前までが相手に分からせない綿勁。全身松のままジーする(ということは全身でジーすることと同じ)。そして④から⑥は寸勁。股関節や腰の緩みを使って一気に発勁する。
ということで、ジーは二段階に分かれていたのだけど、套路ではこんな風にジーの最後に発勁をしないから新しい発見。套路の中のジーでいちいち発勁していたら気がもたないだろうけど、本当は発勁できるのだと知ってやると体の中の気の使い方、最後のジュワッと感が全く異なる。
まだまだ知らないことが多そう。知ると更に面白くなる。
2021/3/18 <ハムストリングスに着目 坐胯と坐臀>
今更ながらハムストリングスに注意を向けたら世界(人間?)を見る目が変わった。
世の中がハムストリングスを使っている人と使っていない人の2種に二分されているかのようだ。
動物、例えば馬を見るなら、前に歩く、あるいは走る動力は後脚の後方への蹴りだ。私たち人間の脚も後ろに蹴ることで前に進むように作られているのだが、次第にその機能は低下しているようだ。目を使う室内の作業が多くなればなるほど、姿勢が崩れて前肩になり股関節は屈曲する。いわうる猫背。股関節が伸展すると肩は開く。股関節と肩は連動する。
もう一度最近の画像を見直した。
一連の動作をどこで切り取っても、お尻から膝裏に繋がるハムストリングスに力がある。うっすら力こぶが見えそうなものもある。
下のように画像を並べると、いわゆるスクワットとは違うのが分かる。(通常のスクワットだと腿裏はぺったんこ。というのは、骨盤が立っていないから=斂臀のみで氾臀ができていないから。斂臀だと股関節は屈曲、氾臀だと股関節は伸展。胯の松は斂臀➕氾臀=骨盤(仙骨)を立てること。すっと分からなければ再度説明する必要あり)
と、ハムストリングスに注目していたら、今日は師父のズボンがベージュのぴったりめ。後ろからみるとハムストリングスが見えるではないか!! と、生徒さんを教えている姿を後ろから撮りました。生徒さんたちと比べると違いが歴然となる。
ハムストリングスを使うためには、ハムストリングスを使おう♪と思ってやってもうまくいかない。
動いている最中も骨盤を立て続けられるだけの腹(丹田)の力が必要になる。
上の生徒さんたちの下半身を見ると、脚は伸びているのだけど師父のように腰や骨盤が脚と一体化していない。
具体的な練習方法としてはタントウ功の時にまずは『坐胯』(kua股関節に坐る)をやること。 その場合はお尻のえくぼの位置にある環跳穴にひっかけて立てるようにする。
そしてそれができるようになったら、『坐臀』を練習する。
お尻に坐るといってもお尻の肉を固めて坐るのではなく、お尻と太ももの境目にある”承扶穴”(坐骨の位置 膀胱経)の”点”にひっかけて立つ(その場合お尻の肉は緩めておかなければならなくなります)。
坐胯(環跳穴に坐る)の段階では、ハムストリングスの坐骨に近い部分がまだ使い切れていないが、坐臀(承扶穴に坐る)までできるようになると、ハムストリングスの付け根から膝裏までしっかり使えるようになる。そして承扶穴が自覚できる時には股関節は伸展し、太極拳で言う所の『氾臀』になっている。
具体的な練習方法としてはタントウ功の時にまずは『坐胯』(kua股関節に坐る)をやること。 その場合はお尻のえくぼの位置にある環跳穴にひっかけて立てるようにする。
そしてそれができるようになったら、『坐臀』を練習する。
お尻に坐るといってもお尻の肉を固めて坐るのではなく、お尻と太ももの境目にある”承扶穴”(坐骨の位置 膀胱経)の”点”にひっかけて立つ(その場合お尻の肉は緩めておかなければならなくなります)。
坐胯(環跳穴に坐る)の段階では、ハムストリングスの坐骨に近い部分がまだ使い切れていないが、坐臀(承扶穴に坐る)までできるようになると、ハムストリングスの付け根から膝裏までしっかり使えるようになる。そして承扶穴が自覚できる時には股関節は伸展し、太極拳で言う所の『氾臀』になっている。
2021/3/17 <ちゃんとした伸展だとハムストリンズスが盛り上がる>
次の話に進む前に、股関節の伸展について面白い記事を見つけたので紹介します。
筆者は股関節の伸展によって膝を劇的に良くしたらしい。(https://kikoukairo.com/archives/2367)
リンク先には、「股関節がちゃんと伸展すると後ろ脚のハムストリングスが盛り上がっているのが分かりますね?」とある。
つまり、股関節がちゃんと伸展できているかどうかはハムストリングスを触ってみれば分かるということ。
左の走る姿は前後の弓歩と同じ。弓歩で前に重心移動する際は、後ろ脚のハムストリングスが盛り上がる(までいかずとも収縮して硬くなる)。これを手で触って確認してみると良さそうだ。
私自身は左足前、右足後ろの弓歩の前進の際、相当注意して動かないと右ハムストリングスが盛り上がってこない。右股関節の伸展が不十分ということなのだが、意識してハムストリングスを盛り上げていこうとすると、気を腹底まで沈ませて、股間(裆、骨盤底筋のエリア)の面積をさらに拡大ししなければならなくなる→踵で地面を推す感じが強くなる。
なお、腿の裏が弛んでいるのは股関節の伸展が日頃から足りない証拠。女性は特に注意。
そして、アキレス腱を伸ばすような動作ではハムストリングスは起動しない(弛んだまま)→右画像。
ハムストリングスを使うには骨盤底筋を広げる
→腸腰筋を使って股関節を伸展させる必要あり
上のリンク先(https://kikoukairo.com/archives/2372)で筆者が試している股関節伸展の運動の数々。
しかしどれも太ももの前を伸ばした感覚しかない。腸腰筋を使っている手応えがない・・・
と、筆者が最後に行き着いた運動が目から鱗。
ベッドや椅子を跨いだ弓歩の姿勢。
両手で椅子を押さえて(按して)股間を椅子スレスレに浮かすようにする(=会陰を引き上げる)のがミソ。そうすると前脚と後脚の間(=裆,股間 骨盤底筋)が広がり腹にグッと力が入る(腸腰筋が起動する=丹田が現れる)。
股関節の伸展をしっかり行うには股間がしっかり伸びなければならないのが分かる。これは太極拳なら『円裆』。そして『円裆』は”按”をした時のように腹底まで気を落とすことで作られる、というのもこの実験で分かる。
とすると・・・
<ここに4枚画像がありました・・・>
上のような後脚はどれも伸展が足りないということ・・・(ハムストリングスの盛り上がり、収縮が見られない)。 足裏で地面を推しているように見えて、その力はせいぜい膝裏までしか伝わっていない。股関節を突破して腰へと繋がらない。
左右の重心移動での蹴り足側についても同様のことが言える。
蹴り足側の股関節の伸展がなければ(左右でも伸展が必要!これを太極拳だと”膝のポン”と表現するが、実体は股関節の伸展を加えるということだ。)それがないと、反対側の膝に体重が移動してしまう(結果として右の写真のように中正が崩れてしまう)。
問題は蹴り足側・・・
それにしてもなかなかお手本になる画像が少ないのが残念。
左は最近撮った師父の懒扎衣での左右の重心移動。
蹴り足のハムストリングスがちゃんと使えているのは股間の状態から分かる。
実はこのようななめらかな重心移動には、股関節の伸展だけではなく内旋から外旋へのスムーズな変化が必要なのだけども、それはチャンスーの話になるのでまた追々・・・
2021/3/16 <股関節を緩める≠屈曲 発勁には伸展が必要>
昨日のメモの最後に股関節の伸展が足りないという事実に行き着いた。
太極拳を真面目に練習すると問題になりやすいのが膝。太ももの前側の筋肉(屈筋 前進に対しブレーキをかける筋肉)を使いすぎて股関節や腰にも負担がかかる。筋肉が縮こまり、各々の筋肉が分断して働いてしまう。結果、練習すればするほど、”身体の内側を開いて全身を一つの空間として繋げる”という太極拳の目指す方向から乖離していってしまう。
やればやるほど遠ざかってしまうその悪循環を断ち切る最初の一歩は、基本姿勢(タントウ功)での「松胯(股関節を緩める)」の認識を変えることではないか?と気づいたのは昨日のメモを書いた後のこと。
よくよく考えたら、私たちが「股関節を緩めろ」と言われて行う動作は、実際のところ股関節の”屈曲”だ。 しかし、”屈曲”が”松(緩める)”ことなのだろうか?
いや、違う!股関節を緩めるとは、股関節の6つの動き(屈曲・伸展、内転・外転、内旋・外旋)これら全てをすぐに行えるようなニュートラルの位置に置くこと、に違いない・・・と、頭の中には、下のようなイメージ図が湧き上がっていました。(https://blog.goo.ne.jp/alohadream/e/c3aefece8010dc8c6380bbdc55209c0d より)
つまり、基本姿勢の練習でもあるタントウ功で会得しようとしているのは、その位置からなら前にも蹴れるし(屈曲)、後ろにも蹴れる(伸展)、相手の脚を払う(掃腿)こともできれば掬うこともできる(外転や内転)、そしてすぐさま真後ろに向くように回転できる(外転:摆脚、内転:扣脚)、そんな股関節の状態ということのはず。 瞬間的に腿をどうにでも動かせる、どっち向きにも動ける、そんな股関節の状態が「松胯」、「股関節を緩める」ということだ。いわば、車のギアのニュートラルの状態。エンジンはかかっているけど進行方向を決めていない。前にも後ろにも進める状態(飛行機なら左右、上下もあるかな?)。
昔、一度だけロンドンのハイドパークのだだっ広い芝生の中で一人タントウ功をしたことがあった。いつもは御苑や代々木公園などの木に囲まれた場所で練習しているのに、ゴルフ場のような芝生の上にただ空があるだけ。広い空間の真ん中に一人ポツンと立つことがこんなに心細いとは思わなかった。後ろからいつ人に狙われるか分からない。横からだってありうる・・・
武術の世界なら敵にぐるっと囲まれることもあるだろう。そんな時に、どっちから来られても動けるような体勢・・・腹にしっかり気を落として冷静でいながらも、足は素早く動けるようにしておかなければならない。どかっと中腰で座っている場合ではないのだ。
タントウ功で実験してみると良いと思うが、まず、(相手が前から攻めてきて)そこから後ろに咄嗟に飛び退く(撤)ことをイメージする。すぐに後ろに飛び退けられるような股関節の状態・・・きっと鼠蹊部にいつもよりも隙間をとっているはずだ。では、逆に、後ろから押されそうになって咄嗟に前に飛び退くなら? 後ろに飛びのく準備をした時はつま先側に意識があって鼠蹊部に隙間があったが、前に飛びのくなら踵側、お尻の方に隙間を開けているだろう。同様に左に飛び退くなら?(微妙に右足に乗って左の股関節の外側に隙間を開けるかな?) もし咄嗟に右に振り返って反対を向くなら?(右股関節は外旋、左股関節は内旋の準備をする)
これらの動きをどれもできるような股関節の状態が「松胯」。「股関節を緩める」ということだ。股関節を緩める=股関節の屈曲、ではない。
ここを間違えると、太極拳は常に縮こまった伸びのない動きになってしまう。
屈曲ばかりで伸展がないとどうなるのか?
体重移動の時に後ろ足で地面を蹴ることができなくなる。
つまり・・・
http://www.cure-bodytalk.com/article/15659891.html
上記サイトで書かれている通り、股関節の伸展(股関節の反らし)には、”歩く時や走る時に、地面を後方に押して体を前方に運ぶという役割” がある。
しかし、私たちの生活の中でこの股関節の伸展の機会はますます減っているという・・・
上の図のようにうつ伏せに寝そべって股関節を伸展させるとお尻の中が動く感覚がある。これを覚えて、いざ、歩いてみる。歩いた時(着地して最後に後ろに蹴るところ)に同じようなお尻の感覚があればちゃんと地面を推して歩けている。そしてそれは太極拳での前への重心移動でも同じこと。前方に重心移動する時、後ろ足のお尻の中が股関節の伸展になっていく(お尻の中にイタ気持ち良い伸びる感覚がある)。
左は馮老師の斜行の途中の動作。<画像がありました>
前方への重心移動の際の後ろの右脚(右股関節)に注目。
前の左足が着地した時点では右股関節は屈曲。
その後、左足が地面を突っ張るように推すことで股関節は次第に屈曲からニュートラル、そして伸展になっていく。ここでは発勁はしていないが、発勁をするなら伸展する時。後ろ脚の股関節が屈曲のままだと発勁できない。ゴムをびーんと伸ばしてから離す感じ。伸ばせないと飛ばない。
・・・と言っても発勁は屈曲/伸展だけでも無理で、この話はチャンスーへと繋がるのだけど、続きはまた日を改めて。
2021/3/15 <肩と胯の合 お尻の中を使う>
纏糸勁を意識し出したら、至る所でそれを使っている(使うべき)ことに気づく。推手で粘りつく(粘连粘随)にも纏糸なしには不可能だ。
纏糸勁は松から初めて気を丹田に溜めてそれを煉っていくことで自然に現れてくる。煉る作業は内功(馮老師の混元内功 以前紹介した)で行なっていく。丹田で気を煉ることができるようになったら、それを四肢へと繋げていく。これが馮老師の編纂した纏糸功だ。内功なしに纏糸功をしても四肢運動になってしまう。また、内功をするにあたってはその前にタントウ功をして丹田に気を溜める必要がある。
整理すると、①タントウ功で丹田に気を溜め ②内功で丹田の気を練り、③纏糸功で丹田の気を煉りながら四肢に気を通していく。
とはいっても套路の中に纏糸勁を使うところはたくさんあるので、特に③をやらなくても套路の中でその練習をすることは可能だ。
推手の練習をしていて非常に大事だと感じるのは肩関節と股関節の開きと連動。
肩と胯(kua=股関節)は外三合の一つ。が、肩と胯が”合”する(連動する)には、その前提として共に”開”(開く)必要がある。肩がガチガチだったり股関節が詰まっていては肩と股関節の連動が得られないということだ。
そして最近特に大事だと思うのは、太極拳の套路は一路だけでなく二路も学ぶということ。一路だけでは身体は下へ下へと重くなりがち。中腰で踏ん張るのが太極拳だという誤解を招きやすい。跳んだり跳ねたり回転したりという動きがないので上半身と下半身の連動や軸の取り方、引き上げなどを学び辛い。馮老師は晩年、二路を一路のようにゆっくりやることを勧めていて、そのような教材ビデオも作った。本部でもかなり二路を宣伝していたのを覚えている。発勁も大事な練習だ。声を出し気を出すことでストレスも発散できるし、出したあとで新鮮な気を取り入れることができる。一路で静かな練習をして二路で活気のある練習をする。静かな練習は大事だが太極拳の最終的な目標は活き活きとすること・・・仏教ではなく道教だ(と以前馮老師の三女がそう話してくれた)
併せてここ数日、単推手で脚の内旋の力がそのままドリルのように手まで伝わる様子を何らかの形で表現したいと材料を探していたのだが、材料になりそうな陸上選手の動画を見ていた際、そのドリルの力が多くの場合、股関節(お尻 環跳穴)に届く前に切れてしまうことに気づいた。
まずは馮老師の二路、お尻がよく見える角度を取り出した画像をチェック。
お尻や腰にクッションが入っているかのように丸々しているのが分かるだろうか?
跳んで着地した時にその衝撃がお尻を通って上下から抜けている。衝撃が膝や股関節、腰、、その他に残らないのだ。身体が避雷針のようになっているのだが、そのためにとても重要なのが股関節のクッション。お尻側の環跳のツボをうまく使う(お尻を固めずゆるくしておいてお尻の”えくぼ”の奥の方を使う)のがお尻をクッションにする秘訣。
逆に言うと、左の図のようにスクワットをするとお尻の表面がカチカチになってお尻の奥の方の筋肉が使えない。お尻がクッションにならず、お尻に乗っかってしまったようになる=気がここで通らなくなる。=上半身と下半身が断絶。
内側の勁ではなく外側の力を使うような姿勢(筋トレだから当たり前・・・)身体に柔らかさがなくなる(そもそも丹田は作れない)
結局、骨盤(仙骨)を立てる必要がある。
ここでアスリートの美しいフォームを見つけて感動・・・
米国のアリソン フェリックスのフォームです。前から見ると四正勁(両肩と両股関節を結んだ長方形)が常にブレずに中正を保ったフォームを維持している。
そして左は横から見たフォーム。
お尻から脚なのがよく分かる。
お尻(股関節)から脚を回転させると腿の裏側(ハムストリングス)を使った走りになる。(https://youtu.be/x_DgqoxjpZQ)
走る時はお尻の肉は放松していないと走れない。股関節はお尻の肉が緩んでいなければ回転できない。
アリソンフェリックスのお尻を見てから馮老師のお尻を見たら、どこかに共通点はないだろうか? そう、お尻が柔らかく弾力性があるのだ。お尻が自由に動く。お尻に表情がある・・・
その後、いろいろ見ていたら、衝撃的な事実が・・・
上は中国と日本のトップスプリンターの歩き姿だが、着地した足の衝撃が太ももの前側で止まってしまって股関節(お尻)に抜けていない。日本の選手達は総じて前肩で猫背の人もいる。前肩だと股関節も開かないからお尻の筋肉が発達せずお尻が下がってしまう。そして脚が太くて重くなる(筋力に頼って走ることになる)。
私たちの骨格は背骨の湾曲が少なく平たいのでどうしてもお尻の中で股関節を感じ辛い。馮老師が恵まれていたのはもともと出っ尻でハムストリングスが使いやすいという点。私の師父も小さい頃からお尻が丸々していてそんなあだ名が付いていたという。お尻が使えないと背骨を通すこともできない。膝も故障しやすい。
ということで、お尻はどうにかしなければならないのだけど、一つの練習は脚を後ろにも上げること。脚を伸ばして前に上げる動作は股関節の屈曲、脚を後ろに上げる動作は股関節の伸展だ。屈曲と伸展、両方することが必要。そして、実は、しゃがむ時は股関節の屈曲、しゃがんだ状態から立ち上がるのは股関節の伸展。なので、しゃがむ時はあたかも脚を前に上げるかのようにしゃがむ。そうすると膝の屈伸でしゃがむのを回避できる。そして立ち上がる時は後ろに脚を上げるつもりで立ち上がってくる。股関節の屈曲と伸展を使えば太ももの前側の筋肉を収縮させる必要がなくなる。膝への負担もなくなる。そして下半身と上半身も繋がる。
股関節は鼠蹊部の方からもお尻の方からも意識することができるが、脚(大腿骨)はお尻の奥まで繋がっているという意識をもって生活したいもの。
こんな風に肩を開いて肩と股関節で歩けるようになるのが理想。私たち日本人はなかなかそうはいかないかなぁ。中国の老師ならこのくらい堂々としている。
肩と股関節の合から四正勁が生まれる
陸上選手にもそれを見ることができる。
2021/3/12 <纏糸功に対する新たな視点>
昨日の質問に対する回答を書きながら、チャンスー(纏糸)に関して改めて気づくことがあった。
まず、馮老師や顧留馨の書(『陳式太極拳』これもバイブル的存在の本)などを見ると太極拳は纏糸螺旋運動でこれが分からなければ太極拳とは言えない、というようなことが書かれている。
一方、師父によれば、太極拳の打撃の際の力の使い方はさまざまで、チャンスーだけが劲ではない、という。自分で思い出しても技の中にはチャンスーを使うものもあるが、チャンスーを使わずに爆発させるようなものも多くある。(師父は、チャンスーは防御で使う方が多いだろう、とつぶやいていた。)
この両者は矛盾していないか? と一瞬疑問が起こったのだが、おそらく正しいと思われる気づきあり。
思い出したのは、套路の中で馮老師が粘くチャンスー勁を使っている肘技があったこと。通常はバン!と肘で突くが、ゆっくり示範している時はチャンスー勁が外から見てとれる(下の上段2枚の画像)。(下は24式第20式の始まりの肘技(穿心肘)部分)
上段の2枚(日本で撮影した24式の解説動画)はゆっくり動作を説明しているせいか肘技にチャンスー勁がかかっている。
上2枚を見てから下段青ジャージの馮老師の肘技を見ると、発勁のギリギリまで丹田の粘さ(チャンスー)を維持しているのがわかる。(その横の師父の肘技になるとチャンスーが分かり辛くなる。)なお、このようにチャンスーの腹の球から糸を引き抜くように力を引き抜くのを抽糸という。抽糸勁は纏糸勁を前提にしていると言われるのは糸を引き抜くにはその前に腹に毛糸玉ならぬ気の球を作って置かなければならないからだ。抽糸をする直前には一つ円を描くことが多いはず。
そして実際にやってみると分かるが、最初は上段の馮老師のようにチャンスーを使った方がキマった感が得られやすい(内勁が感じられる)。最初から下段の師父のようにバン!と真似するとすっこ抜けたようになりがち(外形だけで中身が伴わない)。
二路の炮捶になると下段のバン!という発勁が多く、チャンスーの粘い技は少なくなる。二路は実践に近い打ち方だが、もし最初から二路を学ぶと外家拳の少林拳や長拳と変わらなくなってしまう可能性が高い(筋骨肉の運動になってしまう)ので、まず一路で放松を徹底的にやって内勁で動くことを身体に覚えこませる、というのが太極拳の修練方法だ。
一路で内気を溜めて内勁で動くことを練習する時に、必ず内気を煉るという作業が出てくる。内気を擦り合わせて(揉み合わせて)粘くしていく作業だ。内気を煉って量を増やし、そのうちそれを四肢に伝達する時に現れてくるのが纏糸勁。粘い線状で出てくる力だ。内気を煉ることから自然に現れてくる。そしてその延長線上に発勁がある。それはマッチを擦ってマッチ棒に火をつけるような感じだ。
(腰も含めた)丹田でゆっくり内気をこすり合わせれば纏糸勁が現れてくる。一気にこすり合わせると発勁になる。高レベルになればなるほど纏糸は見え辛くなる(感じ辛くなる)が出発点は纏糸勁だ。(冒頭に揚げた顧留馨著の『陳式太極拳』には”練習が進んでいくとチャンスーの円はますます小さくなり、有っても見えなくなる。最終的にはチャンスーは意で感じられるだけになる”と書かれている。)
実は普段練習している動功(立円、竪円、水平円)には全てチャンスーが含まれている。馮老師は内功と併せて纏糸功の練習方法も残してくれている。初心者のうちは纏糸功をやってもただ腕をグルグルしているとしか思えないが、丹田を使って内気を導けるようになればとても面白くなる。纏糸功によって内気を煉ることもできるだろう。再度新たな視点でやってみるべきだ。
2021/3/11 <纏糸(チャンスー)について>
昨日のメモの中で、「推手からの埒(lie)の力の使い方が”太極円での合”と同じ使い方だった」、と書いた点について、「その”合”とは”順纏のことですか?」という質問があったので補足。
まず、太極円と書いたのは、下のような両腕の回転(そのような腕の回転をもたらすような丹田の回転がまずあって、それが腕に伝わって腕の回転が起こる。)
下は馮老師による右回り(時計回り)の太極円の前半の動き。
<1>前半:右手が上、左手が下、でスタート。
①右手は下向きに回転。左手は上向きに回転する。
→これを”転”(回転)という。
②そして①の回転をしながら
右腕は内旋・右手の掌心が内側を向いていく=右手は順纏
左腕も内旋・左手の掌心も内側に向いていく=左手も順纏
(二の腕が内旋する・掌が自分の方に向いていく動きは順纏、
二の腕が外旋する・掌が外に向いていく動きは逆纏)
③スタートは右手と左手が開いた状態=開
前半終了時は右手と左手が近づき=合、前半は開→合の動き。
右手と左手は共に順纏。合の後で逆纏へと変化していく。
続いて下が後半の連続写真。これで太極円、一回転完了。
<2>後半
①左手は下向き、右手は上向きの回転
②右腕は外旋・掌心は外向きへ=右手は逆纏
左腕も外旋・掌心は外向きへ=左手も逆纏
③後半は合→開の動き。右手も左手も逆纏。 開の後、順纏へと変化。
なお、上は時計回りの太極円ですが、同様に反時計回りもあります。
ということで、最初の質問に戻って、「”合”とは”順纏”ということですか?」については、上のように分析すると正しいということになる。
ただ、その質問を師父に投げたら、「開合と順纏・逆纏は別物。開合の時に纏糸劲は論じない。」と言っていた。ちなみに八法(ポン リュー ジー アン ツァイ リエ 肘 靠)もチャンスーは使わない。
私が埒(リエ)の時に太極円の開→合の身体の使い方をすれば良いと思ったのは、腕の順纏を意識したのではなく、前半の馮老師の連続写真の第1枚目(開)から一瞬で第6枚目(合)になる時の腹腰の中の動きをイメージしたのだけれども、その時は急アクセルを踏むので腕に缠丝劲が生まれない。(そもそも腹腰の動きが急アクセルでないとリエにならない。)
師父も言ってが、缠丝劲は確かに陳式太極拳の特徴だけれども、缠丝劲を使わない打撃方法はたくさんある(24式内なら野马分鬃、双推手など)。第二路の炮捶ではほとんど使わない(というより全く使わないのでは?) ただ、爆発系の力の出し方をする前提としてチャンスー(纏糸)の力の出し方(丹田の回転がグルグルと骨に纏わり付いて手まで伝わるような力の使い方)を会得する必要があるのかもしれない。実際、チャンスーをかけるよりもチャンスーをかけずに発勁する方が丹田の気の量がずっと多く必要・・・(だから一路を練習してから二路の炮捶の練習をするのではないかと思う・・・確認の必要あり)
いずれにしろ、大事なのは、纏糸(チャンスー)は腕の動きに現れるけれども、その原点は丹田で、丹田から腕、手への力の伝え方。肩から先だけで回転させるとタコの踊りのようになってしまうので注意が必要です。馮老師の纏糸功のテキストに、纏糸功を練習する前は必ずタントウ功を30分はすること、と書いてあるのはそのため。
2021/3/10
太極拳は”妙”とか”巧”という形容がよくなされる。”妙”でなかったり”巧”でなかったりするのは太極拳ではない、と師父も言う。套路練習だけではその意味がよく分からないけれども、技を練習するとその意味が体感できるようだ。
若い頃はまった『少林寺』の映画の中のリーリンチェイ(ジェットリー)の動きはとても格好良かった。ブルースリーだってジャッキーチェンだって物凄い速さで打って打って打ちまくる。ものすごい運動神経♪と見ていてスカッとする。これらはアクション映画だ。
これに対して太極拳の場合はアクション映画になりにくいかもしれない。連打もあるけれど基本的には一発芸だ。相手を引き込んで一発で仕留める。格闘をできるだけ少なくする。蛇が太極拳のイメージなのもそのようなところにある。
太極拳が妙だとか巧だとかいうのは技が力づくでなく、気づいたら倒されていた、というようなものが多いから、というのもあると思う。ただし、接触せずに気で相手を吹き飛ばす、みたいな芸当は本来の太極拳ではない、と師父は言っていた(それを流行らせた老師の名前を言っていたが聞き取れなかった)。太極拳は元代に道士の張三豊が少林寺で武術を修めた後、武当山に入って陰陽五行思想や吐納法を取り入れたりして作り出したものだという伝説がある。そこにはどこかしら神秘的な匂いがするのだが、実際には、静功や呼吸法を取り入れて身体の中のエネルギー(気)の量を増やし流動させて身体を内側から開通させることにより感覚神経、運動神経を最大限に開発していく、という(今ではヨガと同様、)科学的に合理性を証明し得るような練功を行なっていたに過ぎないのだと思う。ただ、外から見れば、ただ立つだけ? なぜ坐禅? と不思議さが漂うのは間違いない。
昨日の推手の練習動画では私はただ笑いこけていたが、動画を改めて見てもしや・・・と今日は樹を相手に埒(lie)の力の使い方を確認してみた。あ〜、なんだ、これは套路の中でよくある太極円を描いた時の合と同じ使い方では? 早速師父に見てもらう。それでいい!、とOKサインがでた。推手ではどうしても相手のことが気になり気が上の方に上がってしまう。相手がいてもいないかのようにやるべきことやれば技はうまくかかってしまう。私としては今後推手の達人になるとは思えないけれど、推手の中の技と套路の中の動きのマッチングをしていきたいものだと思う。推種の技が套路のどこでどのように使われているかを知れば技の習得も速くなるだろうし、推手をしながらも套路の練習もできるだろう。套路、推手(対練)、これに武器(刀や剣)、この三つをグルグル回して練習できれば理想的・・・・定年後皆(生徒さん達)が暇になったらそうやって遊ぶかなぁ。
2021/3/9 <埒lieの練習 妙な技>
今日の推手は昨日までの捋(リュー)から埒(リエ)に移った。
すぐにはマスターできなさそうだったので、一部撮影。
動画で見てみるとなぜ師父がそんな注意をしたのかよく分かる。やっている最中は自分の感覚だけが頼りで、自分が自分の身体をどう使っているのかがよくわかっていない。外側から自分の形を見ることができないからだ。内側の感覚と外側の形を合わせていく必要があるが、そんな時に動画はとても役立つ。
自分の練習のために撮影したものですが参考材料になると思うので下にアップします。
套路で気をつけなければならないことを別の角度から学んでいる・・・
笑いが止まらない自分を見て笑ってしまう。
技は”妙”である、という言葉を字幕をつけながら思い出しました。
2021/3/8 <見事な技 、まず知己>
毎日練習の最後には四正手から基本的な技への移行の仕方を少しずつ教えてもらっている。
まずはリューに足技を組み合わせたものをいくつか教えてくれた。リューと足技(足払いや足掬いなど)を組み合わせると相手の重心を崩して転ばすことができる(摔法になる)。
最初師父にリュー+足払いをされた時は、一瞬何がどうなったのか分からなかった。リューだけならただ身体が向こうに運ばれていくだけで意識がはっきりしているのだけど、これに足払いを併せてされると、あれ〜っ?と一瞬頭の中が真っ白になって、転んでしまう(練習の時は師父が私の腕を握って最後まで転ばないようにしてくれている)。このような体験はほとんどしたことがないので(卓球ではあり得ない。柔道などをやっていればすぐに理解できるのだろう)、感心するばかり。私もやってみたい!と師父にゆっくりやってもらって、それを真似てやってみるのだが、最初は必ずと言っていいほど、どっちにリューしてどっちの足を使うのか?と頭がこんがらがる。全くやったことのないことは頭がフル回転しても追いつかなくて、理解できないまま言われた通りにやるしかない。2回、3回やっても身体が思うように反応しない時は自分はバカか?と思ったりするけど、自転車に乗れるようになるのもかなり練習が必要だったし、自動車の免許をとる時も案外大変だったことを思い出して、やはり慣れるしかないのだと思う。師父に、「最初はこうやって一つ一つ学んだのか?」と聞いたら、「没有(学んでない)」と言う。そうだろうなぁ、子供の頃から打架(けんか)と武術の世界で生きてきたのだろうから知らないうちに身体が覚えてしまっているのだろうなぁ〜。師父の地元でかなり名を馳せていたようだし、馮老師も血気盛んで、武術を決して喧嘩に使わないように、と師父たちからかなり厳しく言われていたようだ。
何度も繰り返すうちに次第にしっくりしだすのだが、その段階になるとかえって師父と自分の技の決まり方に決定的な差異があるのに気づくようになる。ただ技がかかる、かからない、ではない。私も一応技をかけられるようになっている。しかし、師父のようにスマートではない。どこか無理やりなのだ。
師父に何度も技をかけられて気づいたのは、師父に技をかけられても身体を痛めつけられた感じがしないのだ。摔法(転ばす技)だからというのもある。しかしそれにしても、お見事!という感じで、「よくも転ばせやがったな」みたいな気持ちにはならないのだ。
馮老師の内弟子の一人、張吉平老師の48式の技の解説で、「(第46式煞腰压肘は摔法、)摔法は最も紳士的な技だ。相手を傷つけることなく、相手に負けを認めさせる。48式の最終的な技にふさわしい。」と言っていたのを思い出した。転ばされて、「あっぱれ、この人には敵わない」と思うようなスマートさが必要なのだ、おそらく。
蛇足だが、同じ張老師の解説で、第47式当頭炮、第48式が収功だから実質的には最後の技に関して、「とはいっても、やはり太極拳の花は打撃。やはり最後は打撃で終える。」と言っていたのを聞いて、(いくら太極拳は紳士的とは言っても)やっぱり殴りたいのね、と笑ってしまったことがある。
2021/3/7 <意で手を繋ぐ 内視の必要性>
昨日のメモはまとまりがつかないまま終わってしまったが、今日はそれを別の角度から書いてみたい。
手を使う、というのは私達人間にとって中核的な動作だ。人間という動物が他の動物達と一線を画すのもこの手の器用さにある。二足歩行に至った経緯については諸説あるようだが、それによって手が使え脳が発達した、というのは事実だ。
手は第二の脳、とか、身体の外に現れた脳、だと言われたりする。実際、大脳の中の役3分の1の領域が手のコントロールに割り当てられているという説もある。
手を使え、と幼児教育ではよく言われていたが、今では痴呆症防止のために手指を使うことが勧められている。
でもここで疑問。私達は一生を通じてずっと手を使い続けている。スポーツでも趣味でも、そして日常生活でも手を使わないということはあり得ない。なのになぜ痴呆症が予防できていないのだろう?なぜ特別に手指を使うエクササイズが必要になるのだろう?
ここで分かるのは、私達の日常的な手指の動作は、ほとんどが半分眠っている状態、無意識的なオート(自動)の状態で行われていて、動作の度に脳をフル回転させているようなものではない、ということだ。幼児の時に脳をフル回転させて一つ一つの動作を行なっていた、というものとは大違いだ。一通りの動作は覚えてしまえば、車の運転だってお喋りしながらできてしまう。つまり、一つ一つの手の動きが脳からのはっきりとした指令に基づかない、いつのまにか手が動いていた、という状態がほとんどなのだ。こうなると、いくら手を使っても脳は新たな刺激を受けない。活性化しない。毎日同じ回路をグルグルするだけ。シナプスも活性化されない・・・
大事なのは、ただ手を使えばよい、というのではなくて、手をどのように使うか、ではないか?
そんな疑問がずっとあった。
手の正しい使い方は、意と手をしっかりつないでおくこと。それには自分の手の動きを常に”知っている”(内側の目で見ている、観察している)必要がある。外から自分の手を見ている(眺めている)だけでは意(脳)と手は連結していない。勝手に動いた手を目で見ているだけだ。
実はこのような練習が太極拳に含まれている。自分の内側、あるいは、自分の中心から自分の手を見続ける(意識し続ける)。そうすると目は内側に引いたようになる(目の内収)。太極拳の眼法の基本だ。
この眼を失うと腕は中心との連結を失い、肩から先だけで動いたようになる。「自分はここにいて手はあそこにある」、そんな感覚になる。意で手を内側から繋いでいれば「手が自分の中にある」と感じるのとは対照的だ。
そして昨日、腕の使い方として「(肩からではなく)体幹から腕を使う」と書いたのは、内側からいえば「意(上丹田)で手を繋いでおく」あるいは「(中心から)手までを(線として)内視する」ということに等しかった。内側で繋いでいれば外側は体幹(体幹といっても筋肉ではなく、もっと内側の空間、あるいは中枢神経)から使うことになる。
と、文章で書くと難しそうだけれども、実際にやってみるとそれほど難しくない。
左の老師、名前が出てこないのだが、パッと見て太極拳の真正な老師であることが分かる。
眼の使い方でいえば、左の図の中の緑の矢印③が上丹田(意の場所)で手を内視しているのを示している。
ただし、③を行うためにはその前に上丹田を作る必要がある。
その作業を示すのが①②。
まずオレンジの①で手を見て、それから今度は①で目から手へ出て行った光を逆に手から目(眉間、その奥の上丹田)へと引き戻す。目を凝らして引き込むような感じだ。これは「凝神」と呼ばれる。これによって眉間奥の上丹田目を作る。
(ちなみに道教の修行法『太乙金華宗旨』はユングが解説書を書いているが、そのなかで、光を戻す(回光)を”turning the light aroud”と訳しているようで。結果、日本語訳も”光を回す”となっている。が、中国語で”回光”は”光を戻す”という意味。目から対象物、外界へと出て行った光を内側に戻していく、引き込んでいく、という作業を指している。言い換えれば”凝神”だ。)
対照的に、このようになると、目から一方的に光が出ていく。目はただ手を見ている。
目(私)は手を対象物、外界の物体として見ている。
すなわち、手は私ではない。
<私>という感覚の原点は上丹田(意)にある。
上の老師のように、上丹田から自分の内側を通して(緑の③のライン)内側から自分の手を見た(感じた)時、手は<私>となる(<私>の中に包含される)。
左の写真、どうして中央が老師で後ろの二人が生徒なのか、目の使い方だけでもすぐに分かる。
老師は手を内視している。
生徒は手を見ている。
そして面白いのは、内視をすると自然に身体の外形も柔らかくなること。衣服から出た手首、手のひら、指先、、それらが老師はふわっとしている。手を見て生徒は、放松しているつもりでも内側が開かない(緑のラインがない)から放松できない。手首や腕の中身がぎゅっと詰まってしまっているのだ。これを師父などは”偽の松”という。
本当の放松をするには内側に意の通路を開通する必要があるということだ。
意を通すことによってそこに気が通る。
(気は中丹田から出発だから、意の上丹田を腹の中丹田まで下ろすのが必須。
→タントウ功の立ち始めに目で前方の遠いところを見て、それからその光を目に引き戻していく(半眼になっていく感じ)=この段階が凝神
それから半ば目を閉じたまま意を腹の丹田へと落としていき丹田を内視する=この段階が意と気をドッキングさせるところ)
このあたりの要領は、タントウ功を始める最初の手順なのだが、初心者の頃はあまり注意していないかもしれない。知らないうちにやってしまっている人も多い。
套路の時は一通り外の動作を覚えたら、内視の練習を意識的にやる必要がある。
内視できればその部分は開いて(通路が開通して)気が通り放松できる。
推手の時は相手に気をとられて内視を忘れがち・・・現在の私の課題。
まずは上丹田から腹の丹田までの中枢の縦ラインを内視できるようにすること。
それから足裏まで内視するラインを伸ばしていく。
腕、手の内視はそのあとだ。(地面からの反発力を得た後で腕や手を繋ぐ)
なお、上丹田(意)と腹の丹田(気)をつながずに上丹田から直接手を内視すると意は通るが気は通らない。意が通って気が通っていない時の感覚、意と気が通った時の感覚、その違いを実験的に知るのも面白い(意だけではその部分を動かせない)。周天に関する体験のブログなどを読むと、気を回しているのではなくて意をまわしているだけ、というのが多々ある。意ならくるくる回せる(疲れない)が、気を回すのはとてもエネルギーが必要、疲れます。
内視の練習はお遊び的にいつでもできるので試してみると良いです。今、すぐ、パソコンの画面を見ながらでも試すことができる・・・
2021/3/6 <体幹から腕を使う 胸郭を動かす 真正面に飛んで来た球やハエを払う>
推手で課題になっている、肩甲骨と手の引っ張り合い。うまくできて師父に褒められる時もあるが自分では偶然? という感じで、常に再現できるような気がしない。なんだかはっきりしない・・・ともやもやが続いていた。
が、つい2、3日前、内功をしていて、もしや? と閃いた。頭の中では卓球で相手の球が真正面に飛んで来た時に自分がどう球を打ち返すのか、そのイメージシーンが現れていた。
そう、こう身体を使って打ち返すよね、と思った瞬間、身体は思わず含胸になり胸から肩までの距離が広がった(右の串焼きを食べる女性のイラスト 胸(ダン中)の黄色の円が含胸。そこから両脇に向かってピンク矢印が現れる)。 後ろの肩甲骨はかなり外に動いている様子。こうなると、肩の付け根から肘まで(つまり上腕、二の腕)がぐっと引き出される(イラストのオレンジ矢印)。結果として、胸から肘までが一本の線で繋がる(ピンク矢印とオレンジ矢印の合体)。これを背中側から見ると、夹脊(神道穴)から肘までが横ラインで繋がる。
(ちなみにイラストは中国の大きな羊の串焼きを引きちぎって食べる時の腕の使い方のようだ・・・日本の小さな焼き鳥の串だと前腕しか使わない・・・)
卓球なら・・・
手前の馬龍選手、向かいの張本選手、共に身体の正面に来たボールを打ち返している。
このラリーでは馬龍選手が優勢、張本選手はは身体が詰まってしまいボールを当てるのに精一杯。一方、馬龍選手は一定して肩甲骨から肘までを繋いだまま。”枠”が安定していて体勢が崩れない。そう見ると、張本選手はまだ胸から脇(肩甲骨)の使い方の改良の余地がありそうだ(一般的に日本の選手と中国選手の打ち方の違いはそこにある。中国選手の体幹が強いのは腕を肩関節からではなく肩甲骨本体、胴体部から使っているからだと思う。)
と、先日友人からぜひ見て欲しいと言われて見てみた、落合博光の現役時代のバッティングフォーム。一目見て、これは太極拳的だと感じた。百会からすっと通す神主打法。筋トレとは無縁のような膨らみのある身体。一体どんな練習をしていたのだろう? と検索したら、正面打ちをしていたとのこと。あ〜、さもありなん。と納得したのでした。(詳しい説明は次回に譲ります)
・・・そんなことに気づいて結論として分かったのは、師父の私に対する「肩甲骨を後ろに引いて手を前に推せ」という指示は、言葉を変えれば、「身体の中央から腕を使え」「身体の中央から手までを腕として使え」ということだった、ということ。
ただし、肩甲骨の操作がうまくできなかった私自身の感覚からすると「肩甲骨から腕だと思うな、背骨、胸から腕だと思え」といった方がよさそうな気もする。
というのは、肩甲骨と手を引っ張り合い、と言われて肩甲骨を操作するには胸(含胸)や背骨付近(神道穴付近)から操作をする必要があるからだ。
つまり、肩甲骨(左の図の赤色部分)自体を動かそうとするのではなく、肩甲骨が乗っかっている胴体部(緑の円で囲まれた部分:胸郭)の形を様々に変えることで結果として肩甲骨が滑って動く、という感じだ。
胸郭(胸椎、肋骨、胸骨、鎖骨)の動き、これが肩甲骨の動きとなって現れてくる、そんな感覚に変わった。
そして胸郭の動きが肩甲骨を動かすことによって初めて、”肱(二の腕、上腕)”、そして”肘(上腕の末端)”を活かして使うことができる・・・
気づいたら二の腕が振袖状態になっていた、というのはいかに私たち(女性だけなのか?)が普段上腕を使っていないかを証明している。
振袖になってしまう二の腕の後ろ側は上腕三等筋の場所だが、ここを使うには右画像でも示唆されているように肩甲骨や背中(広背筋)を連動させておく必要がある。姿勢が崩れてこの繋がりが消えると振袖状態になってくる。
上腕の胴体部との連携が減ると、私達の手の動作は前腕主導で行われてしまう。上腕は置いてきぼり状態。手先の細かな作業をする機会の多い女性は特にそうなりがち(肉体労働をしない男性も多いから今は男女の差異はそれほどないかもしれないですが)。
そしてその状態を改善するのに必要なのが、身体の中央から腕を使う要領を身に付けること。私は卓球の体験からそれを思い出すことができたが(師父にその要領で推手をしたらOKが出ました)、そんな体験のない人なら、例えば、目の前に飛んできたハエを手で払う仕草をしてみるとよいかしら? 顔や身体にとても近い位置に飛んで来たものを手で振り払おうとすると嫌でも身体の中央から腕が動くはず(上腕に力が入る感じ)。胸は含胸になる。 落合選手の正面打ち練習もその原理だった・・・
二の腕に力がある、ということは体幹が使えている証。
そんな目で下の馮老師のポン、リュー、ジー、アン、を再度みると、見方が変わるのでは?
どれも背中から二の腕。手ではない。
<以上、今回の話題は自分の中でやっと繋がってきたばかり。そのうちも少しまとめます>
2021/3/5 <捋(リュー) 自分の丹田で相手の丹田を運ぶ>
今朝になって、技をかける時は相手の重心を崩すと教えられたことを思い出し、それなら、昨日のリュー(ワンコのリード使いも含めて)は丹田で相手の丹田を引っ張る(運ぶ)ということに違いないと閃いた。
今日再度リューを練習した時に師父にその点を確認したらその通りだ、と補足をしてくれた。
それが下の動画。
結局、自分の丹田で相手の丹田を動かせばリューができる。
それを知ってさっとできてしまうならそれで話は終わりなのだけど、それを聞いても、「じゃあどうやって丹田で相手の丹田を引っ張るのですか?」と聞いてくる生徒さんは多いはず。
その場合は、動画の最後に私が拙い感じでやっているように、まず①相手に触れた手のひらの感覚で自分の丹田を確認し、②同様に同じその手のひらで相手の丹田を確認する。そうやって自分の手のひらが自分と相手の2つの丹田を確認できれば③自分の丹田で相手の丹田を引っ張ることができる。①と②ができれば自動的に③ができてしまう仕掛けになっている。
つまり、手のひらの感覚で自分と相手の丹田を探せるかどうか、言い換えれば、手のひらを自分と相手の丹田と繋げられるかどうか、が鍵になる。相手の丹田と自分の丹田は手のひらの感覚によって仲介されているようなものだ。
もし手のひらの感覚で自分の丹田を探せない、そして、手のひらの感覚で相手の丹田を探せない、というのであれば・・・さらに遡って基本の練習をする必要がある。
内功の基本中の基本は双手揉球だが、これは丹田と手のひらの労宮穴を感覚的に繋げるものだ。木や壁に手のひらを当てて自分の丹田を手のひらで感じるような実験も役に立つ。
手は脳、上丹田の末端。意の現れだ。手と丹田を合わせる、ということは、上丹田と中下丹田を合わせること、意と気と力を合わせることにほかならない。
手のひらで自分の丹田を聴く練習がすすめば、そのうち相手の丹田を感じることもできるようになる。 丹田を感じるに当たって手を切り離すことはできない。具体的な練習方法についてはまた別の機会に。
<追記>昨日分析していたリードをたるませて犬を引っ張る方法はそれによって自分の丹田で犬の丹田(胴体)を動かすことになっていました。犬の散歩中にも練習可能・・・リード使いの達人への道?
2021/3/4 <捋(リュー)は引っ張らない 相手を運んであげる>
師父から何度か「技をかけられることを恐れるな。技を何度もかけてもらって初めて学べるのだから。私が技をかけたら放松して抵抗するな。」と言われたのだけど、私としては全く抵抗してるつもりはない。抵抗していないのにそんな風に言われるなんて・・・ と多少心外だったのだけど、今日、双推手の最中に技をかけられた瞬間、自分の身体が咄嗟に固まるのに気づいた。あ〜〜そうか、これが師父の言うところの、”放松できていない”、という状態なのだ。心の問題ではなく無意識的な身体の反応。
注射の時に力を入れないように、と意識的に努力することはできるにしても、咄嗟の際に身体を放松し続ける、というのは本来の生物的な反応の真逆。原始脳からの脱却? いや、ただ慣れの問題か? これは今後の課題。
そして今日は四正手から捋(リュー)、その際に、リューしていった側の足を大きく後ろに一歩下げる(順歩牽羊?とか言ってた)やり方と、リューする時に同時に相手の足を掬うやり方二つ。これらは基本中の基本らしい。何度かお手本をやってくれて私にやれ、というからやってみたけれど、ばちっと決まらない。リューに力が入っている、腰の力を使え、と言われて、師父自身が、私の真似をしてくれた。私は腕で引っ張っている。腕で引っ張ると相手は固まって動かないのだ。一方、師父は腕ではなくなんだか柔らかい力で引っ張っている。引っ張られた私は引っ張られたくないのに身体が自動的に付いていってしまうのだ。引っ張られたという感覚よりも運ばれてしまったという方が正しい感覚。リューする側も、引っ張ろうと思うと緊張する。相手を運んであげようと思えば力まないのでは?
練習の際に動画は撮らなかったのでそれに近いものを探していたら、馮老師の動画にそのようなものがありました。(https://youtu.be/YVB9iUY_deU からGIFを作りました。)
ここでは馮老師がとてもゆっくりリューをしている。その時相手の身体はおっとっと・・と持って行かれてしまう。抵抗ができないのだ。
馮老師にしても師父にしてもとても自然に簡単そうにやるのでどこにも不思議さはないのだが、いざ真似してみるとこんな風にはいかない。リューすると多少相手と綱引き状態になってしまうのだ(力対力でぶつかってしまう)。
力学的な理屈があるはずだと思うのだけど私が現在言えることは、相手に抵抗させないような丸ごとの力、頭頂から足裏まで貫通した周身一家を崩さない状態での力が使われている、という程度のことだ。
以前陳式第十九代の老師がこんな話をしていた。「改札で向こうからおばさんが走って入ってきた時に私にぶつかりました。その時、そのおばさんは私のことを全く意識していなかった。太極の状態です。片や私は向こうから走ってくるおばさんを見て、危ない!と一瞬思いました。その時点で私がふっとばされるのは決まっていたのです。」
さらに私の頭の中では犬の散歩でのリードの使い方に飛び火して、最近学んだ犬の散歩でのリードの使い方が上の太極拳のリューと同じ原理に基づくのではないか?と勘ぐり始めたのでした。
一つは、ウロウロする犬に対しリードをどう扱えば犬が付いてきてくれるのか、という問題。それはhttps://youtu.be/NHWl5WgsNpQでのおかげで見事に解決。
ウロウロする犬に合わせてはいけない! ひたすら前を向いて我が道を行く・・・と(なぜか)犬は付いてくる。(この場合人間の方が圧倒的にく重いから丸ごとの力で引っ張れたら付いて行かざるを得ない、ということか? 最近テレビで見た犬ぞりレースまで頭に浮かんでくる・・・)
そしてもう一つの問題は、立ち止まって動いてくれない時にどうすれば動かせられるのか、というもの。この解決策も動画で知ったのだけどそれがどの動画だったのか忘れてしまいました。ポイントは、力任せに引っ張ってはいけない、身体を斜め後ろに向けてにしてリードをたわませれば動いてくれる・・・なぜ?(ワンコにも聞きたい)
左が座って動かないジェイくんを私が必死に引っ張っている様子。引っ張れば引っ張るほど動かなくなる。以前はそれでもむりやり引っ張って引きずってしまったこともあった(やってはいけません 苦笑)。
そして右はその解決策。動画で言われた通りリードをたわませてから自分も歩いて行く。するとジェイも素直に歩き出す。
でも、なぜ? とその理由がわからないまま。しかし、今日の師父のリューを味わった時、これもきっと同じことなのだろうと直感的に感じた(のだけどどうだろう?)
こうやって撮影して客観的に見てみると、左は完全に綱引き状態。
私の腕は胴体から切り離されている。(肩の隙間がない、股関節の隙間もない)
これに対し、リードをたわませる、という裏技を使った場合、リードをたわませようとして私の身体は関節を緩めている(↓下の画像の1枚目)。
その後頭から足裏までが一つの円の中に入り(2枚目)、さらに丹田の位置を下げ(下丹田だ 3枚目)、それから丹田を移動させて左足に重心が移っていっている(4枚目)
と分析すると、セオリー通り、丹田を使って下捋(下方向へのリュー)をしているにすぎないのだけど、そうすると自分の力の範囲内(大きな緑円)にジェイの頭、そして身体が入ってくるような感じだ。
相手を引っ張ろう、と思った瞬間に敵対する(引っ張り合いになる)。
相手を(一緒に)連れて行こう、とすると相手もやってくる。
ここら辺が合気、”愛”気? に通じるようなところだけれども、確かに、相手を敵視したり嫌がったりしたらうまくはいかない。相手の中に入り込む、そんな心がないと身体は緊張してしまう。 放松は心から、包み込む心から生まれるようだ・・・深い・・・
2021/3/3 <仙骨の筋膜の癒着をとるとどうなるか?>
Youtubeでは治療家達の様々な手法を見ることができる。無料で学ばせてもらえるのはとても嬉しい。
最近見ていた動画の中で、おや? と思うものがあった。
今やはりの筋膜系の手法だが、その中でも一歩先を行っている感のある治療家の手法だ。
数秒あるいは数十秒のとても簡単な動作で筋膜が剥がれるのが実感できる。
キーワードは 収縮させながらストレッチ、そして呼吸。 太極拳の動作と通じるものがある。
指示通りの身体を動かすと、太極拳の時に感じる身体の表面近くの感覚ととても似ている。そうか・・・太極拳は①放松して②ゆっくり③呼吸に合わせてすることで筋膜の癒着がとれて筋肉や骨がスムーズに動くようになるという効果があったのだ・・・。
肩甲骨剥がしや腰痛対策など試してみて、個人的には仙骨の筋膜剥がしはとても役立った。一気に裆(座った時に座面に触れている股の部分)と足裏の筋膜が連結したのでした。仙骨の癒着をとると骨盤底筋の筋膜はダイレクトに足裏の筋膜に連動してしまう・・・が、立位ではどうだろう?
試しに、仙骨の筋膜を引っ張りあげたまま立位前屈をしてみる。すると骨盤底筋からハムストリングス、ふくらはぎ、そして足裏までが面で繋がるのが感じられる。経筋とかアナトミートレインで見る人体図を思い出した。
じゃあ、直立姿勢では?とやってみるとその繋がりは消えてしまう。どうやったら繋がりを保ったまま直立姿勢になれるだろう・・・(各自模索してみて下さい)。 結局はタントウ功の要領、仙骨を立てる、仙骨の上部は前側へタックイン仙骨の下部は出っ尻の方向へ、と前後への押し引きが必要になるのでは?(今年1月に検討した仙骨の立て方参照)
このような仙骨内での押し引きは、ある意味、下に紹介する山内氏が言う所の”収縮させながらストレッチ” で、仙骨の筋膜を剥がすような動きになっていたのかなぁ、と見方がまた一つ増えたようだ。
といっても、初心者の生徒さん達には仙骨の微妙な調整はまだ無理だろう・・・と、そうだ、仙骨の皮膚をつまんで引っ張りあげたままタントウ功の形をとってみたらどうだろう? と試してみたら、あら、 裆、お尻の下側がスースーする。このままでは骨盤底筋の筋膜と足裏の連結は感じられないけれど(骨盤底筋まで息をぐっと押し込む必要あり→そのままお相撲さんのようにしゃがんでいけばどこかで骨盤底筋に力が入って足裏筋膜との連結が感じられるはず)、もし仙骨の皮膚を引っ張りあげたまま体重移動をしたら、信じられないくらいスルスル動けるのでは? 股関節がなくなったかのよう→膝もなくなる。
ん? まわしには仙骨の筋膜を上に引っ張り上げる作用があったりしないんだろうか?
と、思わず左のような写真を凝視してしまいました。
(まわしで仙骨の筋膜を常に引っ張りあげているようなもの?と推測すると、 仙骨も引き上がるし会陰も引き上がる
→左右のお尻はそれぞれ脚として使える(①)
→胴体部が脚になる
→いずれ①のエリアが頭頂まで拡がる(下丹田から中丹田、上丹田へと繋げていく)
→全身一つになる(四肢は胴体になる)
もちろんまわしをつけただけではそうなりません・・・突進して体当たりするのに必要な地面への踏ん張りと前方へ向かおうとする意の火が必要(上下へのエネルギーの動き)。
2021/3/1 <相手に合わせようとすると緊張する リズム感とコントロール力>
師父と推手をしていて、もっと推さんか!と注意された時の話。
私は「推手は粘连粘随で相手にぴったり貼り付いておくものだから、一方的に推してはいけないのでは?」とブツブツ言ったのだが、それに対し練習の後で師父が思い出したように一言。
「あの偽松の推手、あれはお互いに相手に随おうとしているから緊張してしまう。力が抜けない。」
ん? 何の話? と私の頭の中がぐるぐる回る。
分かった! と左の映像が頭の中に浮かんだ。
確かに・・・二人ともお互いに合わせようとしている。
そうすると共に緊張してしまうのだ。
一見放松しているようで全く放松していない。緊張の局地だ。なぜなら、ずっと相手に合わせなければならないのだから・・・。
じゃあ対比させた馮老師の方はどうだったかというと、相手を気遣って推してはいないのだ。相手が推してきた時は”放松”しているから勝手に身体(腕)が相手に引っ付いてしまう。相手からすると馮老師の腕が常に絡みついてきて引き離せない状態。 一方、左の右側の写真、馮老師の相手側の手は馮老師の腕から離れてしまっている(化勁がうまくできていない)。 これは身体の中に空洞がないため内側で化勁ができず手や腕で力を躱そうとしているからで、この身体の中に空間のない状態を、”放松できていない”という。(最初の空洞は丹田)
・・と、私は思わず笑ってしまった。
相手に合わせようとして緊張してしまう・・・それは真理では? 私たち日本人が他の国の人たちに比べて緊張、萎縮してしまう理由ではないか?
フランスで暮らしていると、こちらの人は私ほど気を遣っていない、と感じる場面がとても多い。
例えば、ヴィヴィアンにピアノのレッスンを受けた時。窓を開けっ放しなのにものすごい大音量で弾くように言われた時(パイプオルガンの曲だった)、周りがオフィスで勤務時間中だったのが気にかかり、「こんな大きな音出して大丈夫かなぁ?」と私は心配した。すると彼女はすました顔で、「これまで誰かにそのように注意されましたか?」と問うてきた。「いいえ」と答えたら、「じゃあ、大丈夫です。心配しないでください。音楽は全ての人への光になります。」と堂々たる態度だった。
また、クリスマスの頃、隣のオフィスから包丁を貸して欲しいと女性がやってきて包丁を貸して上げた。夕方までには返します、と言って持って行ったっきり夜になっても返しにこない。晩御飯の支度をするのにもう一本包丁を持っていたからよかったけれど、もし一本しか持っていなかったら大変だった・・・翌日になってその女性が包丁を返しにきたが、「ごめんなさい、昨日のうちに返せなくて」と当然謝るだろうと思ったら、笑顔で「ありがとう!」と包丁を私に返して行ってしまった。あれ?謝らないの? と私は一瞬呆然としたのだが、おそらく彼女には何の罪悪感もない。それに私も替えの包丁があったから別に困ったわけでもなかった。そんなもの?
そしてこちらのロータリー、中でも凱旋門のロータリーを車で通り抜けていくのは至難の技。カオスだ。けど、そのコツはただ一つ。自分の進む方向だけを見ること。絶対に他の車のことを考えてはいけない。横や後ろの車に気を遣った瞬間にパニックに陥る。皆が自分のことだけを考える、そうすれば事故は起こらない、そんなルールで成り立っている。日本人の考え方と全く逆だ。
中国ではトイレにいくのがある意味とても楽だった。日本のトイレでは絶対に音を立てないように皆が個室の中で息を殺して沈黙を保っている。緊張してしたいこともできなかったりする。(だから音姫なるものがある。)一方中国はきれいな空港のトイレでもいろんな音がしていて最初はびっくりしたが、慣れるととても気楽。放松できる。
相手、周囲のことを気にしてストレスがたまる、というのはとても納得できる。
推手も同じことだ。
相手に合わして推すのが推手ではない。推す人は相手を推す意図で推さなければならない。
推された側は相手の力に合わせて動くのではない。相手が推してきた力が無力になるように身体を(咄嗟に)動かさなければならない。
推す人は剛、躱す人は柔道、あるいは、推す人は陽、躱す人は陰。
そして推した人が躱す側になり、躱す人が推す側へと変わる。陰陽転換だ。
推手はその繰り返し。
それをやっていると、次第に二人の手(身体)がくるくる自動で粘连粘随になる。
粘连粘随は結果であって意図して作り出されるものではない。そうなった時、確かにそうなるのだと知る。身体の中は空洞になっている。
卓球のフォア打ち連打の基本練習と似てないか? いや、同じでは?
リズムとコントロール、そこから次第に技の掛け合いになる。
相手に合わすとかなんとかではなく、リズム、そしてコントロールを崩さない。リズムとコントロールが掴めたら波に乗っている。波に乗った時に粘连粘随が現れる。
ビクビクして緊張していたらいつまでたっても波に乗れない。中に入っていかなきゃならない、相手の懐の中に入っていく勇気。それが松。 「松する勇気がなきゃいけない」と今日も師父に言われたところだ。
私は卓球に置き換えると理解可能。人それぞれこれまでの体験で似たような境地を味わったことがあるのでは?
1000本ラリーが続かないと家に帰れない、という時は緊張してなかなかうまくいかなかった。
・・・今になってまた似たような練習をしてるような? けど、気づくことは随分違う。
↓懐かしかったので思わず見てしまいました。基本打ちからの展開。練習の順序も同じ。まずは基本打ちで身体の中にリズムを刻み込み身体をコントロールする力をつけるのが大事。(推手でもリズムとコントロールは不可欠だ。リズムを逸すると隙ができてしまう。コントロール力は体幹力=丹田力=空胴の余裕力?=放松力? もう少しやり込めばもっとはっきりしてくるだろう。)
馬龍、世界一レベルの練習風景もあった。リズム感最高♪ 昔から思っていたけど、卓球は太極拳にとてもよく似ている。にしても二人のラリーかっこ良すぎてドキドキします。