2021/5/30 <以意行気 意と気を合わせる、区別する>
先日、勝手に腕が上がってびっくりしたと報告してきた生徒さん(5/24のメモ参照)、自分に起こったことがどのようなことか分かったらさらに練習が楽しくなったという。あの感覚を再現することにも次第に慣れてきたらしい。
気が満ちればちょっとした意念の一押しで身体がそのように動いてしまう。
その時の意念は、「こっちに動かそう」という意念というよりも、「こっちに動いて構わないよ」という意念だから、自分自身は意念を使った意識もなかったりする。勝手に腕が上がったと感じるのはそのためだ。
しかし、それに慣れてくると、実はほんのちょっとした「let go」中国語だと「譲rang」といった「・・・をさせてあげる」といった類の意念があることに気づく。それが起こることを許してあげるような意念、『行気』では気がそちらに流れることを許す、その通り道を開けてあげるような意識が必要になる。もともと体内に気が満ちているのを前提に、気の海に通り道を開ける・・・その通り道を通るのはもはや”気”ではなく、”意”ではないか?(最後の<追記>へ)
冯志强老師の入門書の第三章は「入門説要」。そこには12の要領について述べられている。どれも古来から言い伝えられてきた太極拳の核心的なものだが、とても内容が難しくて私から見ると、これが全て噛み砕けたら太極拳は卒業なのでは?と思うような内容だ。
その中の3番目が「以意行気 心为主」(意を以って気を行かせる 心が主)http://www.360doc.com/content/16/1103/18/5676298_603696090.shtml
内容をかいつまんで書くと・・・
<心が何かを感じると必ず意が動く。
心と意がひとたび動くと(神経系統の働きによって全身に反応が出る、すなわち)全体が動く。
心と意が静かならば全身も静かだ。
太極拳は意と気、そして神(精神)と形の運動。
意気神形が合一となるように、意によって気を行かせる(行気)するのが法則だ。
”意を以って行気する”ためには
意の練習の時は気から離れない、気の練習の時は意から離れないように注意する。
心と息、意と気を合わせる。
『意は気の頭、気は意に従う』と古人が言った通り、意で気を行かせる、気は意に従う。
意は神(上丹田)の中にある、気の中にはない。
意が気の中にあると滞ってしまう、意は神の中にあることで霊(素早く動くことができる)。
そして「以意行気」と同時に、力を用いない(不要力)を徹底して心がける必要がある。
「以意行気」は「以力帯気」(力を使って気を引っ張ってくること)ではない。
これが外家拳との違いだ・・・>
上で太字にした部分は練習する人全てが一度はつまづく場所だろう。だからこそ延々とその注意が喚起され続けてきているのだ
経典を読む面白さというのは、その箇所がピンとくるか否かで自分の進度が分かることだ。最初はほとんどちんぷんかんぷんで、読み進めることができない。しかし1年練習して再度同じ経典を開くと、理解できる場所が少しあって嬉しくなる。そして半年、半年、と練習が長くなるごとに、読んで分かる部分が増えていく。つまり、体感があればその体感の意味が頭で理解できるようになる、あるいは、まだ確固とした体感はないがそのあたりでうろうろしている段階で該当する内容の部分を読むと手引きが得られるようになっている。
お釈迦様が悟りを開いた時に、それを話すかどうか迷っていた・・という(私の好きな)話(寓話?)がある。
お釈迦様が迷ったのは、悟りの境地を話しても一般の人はちんぷんかんぷんで聞いても何もわからないだろうし、かといって、話が理解できるような人を見つけたとしてもそんな人はすでに悟っている人、そもそも話す必要がないのではないか? と考えたからだった。そこで神々が降りてきて、お釈迦様に言う。「世の中には、あともう少しのところで悟れるのに悟れない人々も少数ながらいます。そのような人々はあなたのお話を聞けばその境地に達するでしょう。どうそそのような人々のためにお話ください。」と。お釈迦様はそれに納得して説法を始めたというお話。
この話は何もお釈迦様や仏教の話だけの話ではなく普遍的な話だ。
あるボーダーにいる人にとってはこのうえなくありがたいものになる。
上の『以意行気』がとても大事になるのは、ある段階に達した練習者。
身体の中に気の感覚が生まれ、それを膨らませたり、腕の方や足の方に動かすことが面白くなった人たちがそこから先に進めなくなる問題、気に拘泥してしまう問題の解決策を示してくれている。 「気を構ってはいけない、知らんぷりをしなさい。」、私の師父はそのように私に何度も何度も注意してくれたのだけど、その頃の私は、気づくと気の中に意識が没入してしまっていた、という経験がある。
(といっても、今日久しぶりに上の章に目を通したら、理解できるのはまだ半分に満たない、いや、半分近く分かるようになった!というべきだ。目が文字の上を上滑りする箇所はその真意が分かっていないということ。体験があれば開く鍵・・・考えようによっては宝探しみたいで面白い。)
ともあれ、まずは気が体感できないとその次には進めない。
気で多少遊ぶことができるようになったら、上のテキストで太字にした箇所、「意と気を離さない」という点を意識する。わからなかったら、「心と息を合わせる」ことで「意と気」も合うようになる。
そのあたりから、意と気を区別できる練習に入る。
これが意、これが気。 意なのか気なのか分からない段階で周天ができたと言っている生徒さんもいたりするが、それは妄想、想像だ。気がぐるぐる回ると想像している。実際には、気はぐるぐるとは回らない。もっと重かったり、動きがぎくしゃくしていたり、思ったようには動かない。一方、意はくるくる回る、すばやく動く。(体内の)気が物質に近いとわかるのは意と気を比べられるようになった時だと思う。(体内の)気は神秘的なものではないと感じてくる。意、そしてその元の心はさらにintangible(手に取ることができない)・・・ 心意混元太極拳の真意はそこにあるようだ。気がゴールではないのは確か。
<追記>
『行気』と対比して言われる『運気』
運気は気を運ぶ、動かす、ということで、できるだけ運ぶことはしない、というのが太極拳。というのは、気を運ぼうとすると、意が気の中に入りこんでしまって気が滞る危険性があるからだ。
『行気』は上に書いたように、体内に気が満ちた状態を前提にしているが、『運気』の場合は、体内に気が満ちていない状態を前提にしていると思われる。気が満ちていないから、自分で気を運んで、気の流れる道を作る必要がある、ということだ。
『運気』でできるものは”気”の通路、『行気』で作られるものは”意”の通路ではないかというのが私の現時点での感覚・・・師父にも聞いたみよう。
2021/5/27 <肩甲骨と腕をきちんと繋ぐ ポールドブラの効果>
昨日の個人レッスンでは片足立ちが苦手な生徒さんに上半身をキメる技を教えてみました。
上半身がキマると途端、下半身の使い勝手が良くなる。蹴りやしゃがむのも楽になります。
上半身がキマる、というのは、上半身が纏まる、ということ。それは肩甲骨から腕の使い方がcrucialになる。
そのキーワードが『肘』、『肱』(二の腕)。 太極拳の技の名前によく使われている語だ。
肘が落ちてしまったら上半身は崩れている。
肘が落ちているのか落ちていないのか分からないとしたら、そもそも肘が保てていない。
肘が保てて初めて、肘を”墜”することができる。これが『墜肘』だ。
(以前、師父が一見逆説的な”墜肘”の説明をしてくれたのを動画で撮ったことがありましたが、その真意はそこにある。)
まずは肘が保てること。これは二の腕(肱)が使えること、と同義だ。
肘を保つためには二の腕を肩甲骨としっかり繋ぐ作業が第一歩。
太極拳の練習では腹に気を溜めるところから始めるので肩甲骨と二の腕をしっかり繋ぐ作業はともするとかなり先の話になってしまうのだけど、昨日のレッスンでは敢えてその箇所を教えてみた。結果は思った以上。ただ、肩と腕をつなげると最初は身体が窮屈でその状態を保ったまま太極拳をするのは無理だというのが生徒さんの感想・・・ そこが困ったところ。
解剖学的な観点から見ると、私たちは通常肩甲骨に腕をカチッとはめ込まないまま、半ば脱臼状態で腕を使っているそうだ。そう言われてみると、街歩く人たちの腕はただ、ぶらぶらしている。私が身近で見たことのある馮老師や劉師父などは、普段でも腕が胴体にはめ込まれているから不意に人が腕を引っ張ってもビクともしないだろう。太極拳の中正は肩関節と腕が分離したとたん=肘が落ちたとたん、崩れてしまう。
動作の説明は動画を見て下さい。
実はこれはバレエのポール ド ブラ(port de bras)と同じ。
portは着る、brasは腕。”腕を着る” という意味だそうだ。
腕を着る? ああ、なるほど・・・
上の骨格図を見ると、腕のパーツは、「肩甲骨➕鎖骨➕腕の骨」で成り立っている。
上からみると一番右の図のようだ。
このパーツは胸郭の上に被せて着せたお洋服(ベスト)のよう・・・
着脱可能なパーツ、これを正しく装着すると強制的に胴体の形が整えられてしまう。
拘束ベストか?
バレエではport de brasでこのパーツを整えて動かす練習を徹底的に繰り返す。
太極拳だと、沈肩、墜肘、含胸 塌腰(ターヤオ)、あたりの話になってくるが、上で私がやっているように肩甲骨と二の腕を繋いでからそれを外さないように前腕をどうにか動かせたなら、昨日の生徒さんが驚いて言ったように、「沈肩」や「塌腰」が自然にできてしまうだろう。そしてチャンスーも。
実際には、チャンスーを自然にかけられるようになる頃に肩甲骨と腕が繋がるのが分かることが多いと思うのだけど、今回は無理やり繋いでもらいました。あとはどうやってそれを簡単に自然にできるようにするか・・・タントウ功や坐禅に戻るはず。
冒お姉さんが後ろを向いて肩甲骨の動きを見せてくれています。腕が動く時はああいう風に必ず肩甲骨が動く。太極拳やバレエに限ったことでなく、人体はそもそもそう作られています。
冒頭の画像はサルサのport de bras 入門の動画の一コマ。(https://youtu.be/rvTXj882SUE)
そして左はバレエのport de bras 入門の動画の一部。(https://youtu.be/q2wp6Axay5I)
いずれもお姉さん達が後ろを向いて肩甲骨の動きを見せてくれています。「力を抜いて〜、腕を長〜く使いましょう♪」と。「放松して、腕を撑しろ!」と師父が言うと全く同じなのだけど、口調が全く違うぞ(苦笑)
ともあれ、腕が動く時はこんな風に必ず肩甲骨が動く。
太極拳やバレエに限ったことでなく、人体はそもそもそう作られています。
2021/5/27
久しぶりにホロビッツの動画を見たら
聴いてる
弾いてるよりも聴いてる
聴力
感覚神経が主導
感覚神経→運動神経→感覚神経→運動神経... のループ
やはり2つ、陰陽がセット
太極拳の推手見るよりも分かりやすい
よく見る よく聞く
頭の中は常にクリアなまま
余計な妄想や感情移入は起こらない
2021/5/25 <2種類の運気の方法>
昨日の動画の中で私が最後に苦労していたのは、丹田の気の動きと腕の動きを反対方向に行うことだった。
円を描く内功でも、丹田の気の動きと腕の動きを反対方向、いや、正確には反対方向というよりも、丹田の気で描く円と腕で描く円、その2つの円を、半周ずらして同方向に回す、ということを練習させられたことがある。
例えば、壁拭きをしたとする。右手に布を持って手で右回りの円を描いて壁を拭く。
その時、丹田は右回りに円を描くのが自然だ。(丹田を左回りさせて手を右回りさせるのはとても不自然。)
丹田は右回り、そして手も右回り。
その時、私たちがやりがちなのは、手が上がる時に丹田の気も上がる、手が下がる時には丹田の気も下がる、手が右方向に動く時は丹田の気も右方向へ、手が左方向なら丹田も左方向、そんな風に手で描く円と丹田で描く円が相似的な動きだ。
しかし、もし壁の汚れがしつこくてかなり強く拭かなければならない時、手の動きと丹田の動きは離開する可能性がある。丹田の気を下げて手を上げていたりする。これが『对拉劲』=引っ張り合いの力、張力、と呼ばれるものだ。
太極拳はこの对拉劲、張力を基本とする。
壁拭きの例の最初の力の使い方は順的な力の使い方。気功的、一路的。
後者の对拉劲は逆的な力の使い方。武術的。二路的だ。
一路は二路のための準備だ。
劉師父が上の二つの動きを多少誇張して見せてくれたのでその動画を載せます。
私はいつも劉師父の对拉劲のポンを見ているのに、この動画を見て初めて分かったことがありました。ポンの時に師父は私にただ背中側を下ろせ、と言ったけれど、その前にしておかなければならない準備があった・・・
運気の方法とその路線は秘伝の範疇に入るもの。それをここまであからさまに公開している馮老師の混元太極拳は寛大だなぁ、と思う。あからさまに見せ過ぎてかえって秘伝だと気づかない(苦笑)・・・次回まとめます。
2021/5/24 <内気の充満 行気と運気 内気の運行路線>
ある生徒さんからの報告があった。
「練習中、タントウ功の形で気を溜めていたら突然仙骨あたりが前方に動いた。これまで感じたことのない仙骨の感覚・・・と、その後、次第に腕が前方に上がり出した。自分で上げている感覚はなかった。勝手に上がっていった。上がりきったところで腕は静止。降ろそうとしてもどうやって降ろしてよいのか分からなかった。最終的には頑張って息を腹底の方へ吐き下ろしてどうにか腕は降りていった。自分にとっては奇跡的な出来事。こんなことが起こるとは・・・ 翌日、また同じことを再現できるかどうかやってみた。前日と全く同じではなかったが似たような現象が起こった。安心した。 このような現象を起こすためにはその前に1時間、2時間、気を溜めたり動いたりいろいろ準備が必要だった。」
このような現象が起こるにはその前提として内気が充満する必要がある。
内気が腹腔に充満して(自転車のタイヤのように)はじめて腕が上がり始める(腕が上がっても良いというちょっとした意は必要)。
上の生徒さんの報告の中に仙骨が動いた、という箇所があったが、それはおそらく内気の圧力で仙骨が動いたのだろう。そして今までできていなかった『斂臀』がバチっと決まり仙骨(骨盤)が立ったのだと思われる。
骨盤が立ったと同時にストンと気が足裏までに落ちたに違いない・・・と、その時の足の状態を尋ねたら、案の定、「しっかり地面を踏んでいた」との返事。地面からの反発力があってはじめて腕は上がる。
一度このような体験をすると、自分が腕を上げるのではなく、気で腕が上がる(上がり得る)のだとはっきり認識ができる。
自分がやるのではなく、気がやるのだ。
自分がやるべきことは、気がそう働くように、そのお膳立てをしてあげることだけ。
そのお膳立て、準備が、気を溜めて内気を充満させること。内気が充満すれば、それによって内側から関節が開いたり、ツボが開いたり、詰まっているところが開いたりして自然に内側の通路が開通していく。節節貫通の工事が徐々の進んでいく。
このように、自分を消して、気を行かせることを『行気』という。
馮老師が強調していた太極拳のあるべき理想的な姿だ。
これに対して、自分の意で気の流れをコントロールすることを『運気』という。
『行気』は理想的だが、気はなかなかスムーズには動いてくれない。
特に入門したての頃は気の流れを待っていると腕を下げるのでさえ途方もなく時間がかかる→上の生徒さんの例がそれを示している。
(上の生徒さんのような内側、内気の経験をすると太極拳に”入門”したという。「太極拳は入門するのに10年かかる。」とも言われるのはそのため。(正しく練習すれば10年もかからない。))
そこで、練習の段階に応じてある程度は『運気』も必要になる。
(注:気を自分の意で運ぶのだ。が、ここでも”運ぶ”というより”運んであげる”という感じの意識でやらないと、すぐに気が詰まって動かなくなる。「気者、滞」ということだが、このあたりは皆試行錯誤しながらその塩梅を見つけていくのだと思う。)
内気の運行は太極拳では決定的に重要で、馮老師のテキストには套路の一式毎に<外形螺旋路線>と併せて意念と内気の運行路線(<意気運行路線>)が文章で示されている。
このあたりの話題について劉師父と話しながら練習しているところを動画に撮りました。
動画の中で師父が私に指示している気の運行路線は下の図を参照してください。
起式のポンを下の図の真ん中の画像のように行う場合が多いところ、師父は右端の画像(内気の運行と腕が上がる力が引っ張り合いになる関係=2つの矢印を合わせると一個の円になるような関係)を私にやらせようとしていました。実践、二路では圧倒的にこのような使い方が多い。
(なお図は動画の説明をを助けるもの。ポンの際の気の運行の例は他にもあり得る。)
2021/5/22 <『旋』が重要な理由 旋転から纏糸へ>
(腰の話に戻ります・・・)
その後、旋腰と転腰、『旋』と『転』について師父といろいろ話しながら次第に明らかになってきたこと。
『旋」と『転』の基本的な定義は5/17のコマの図で示した通りだが、実際には中国語において『旋』を『旋転』、あるいは、ただ『転』と言うことが多いらしい。
例えば、地球が太陽の周りを回る(旋回する)は「公転」という。(これは日本語でも同じ)
一方で、軸自体が回転することは『転』で、決して『旋』とは言えない。
つまり『転』は『旋』を含む、広く”回転”の意味。
コマの例の更新
コマを軸とその周りの部分(青い部分)と分けて見たならば、コマの外周(青い部分)が軸の周りを回るの『旋』あるいは『旋転』(日本語なら旋回)。
軸も青い部分もひとまとめにして”コマ”と見た時、コマが回るのは『転』(日本語なら回転)。
一般的にはコマは『転』という人が多いだろう・・・
同様の考え方で改めて左の画像を見ると
これは腰を右左に回転させている動作=『転腰』
日本語の感覚としても『旋腰』とは言えないのは明らか。
そしてこの腰を”回す”動き。
テキストには『旋腰』とあったが、劉師父にこの画像を見せたら『転腰』と言った。
私が、旋腰では? と尋ねたら、いや、転腰だ、と言い張る。
腰全体が上のコマだとして、腰全体を回している(コマの回転が止まり出す時のような回転?)とみれば、腰は回転=『転腰』
腰の中に軸を想定して、その軸の周りを腰の外周が旋回しているという意識なら、『旋腰』になりうる。
しかし、腹腰が緩んで内側がバームクーヘン状になれば、軸とその外周がともに回転するような感じにもなる。旋転と呼ばれるものの真意はそこにあると思う。(左の”旋腰”と銘打った画像を見て師父がこれは”転腰”だと言ったのは、それが”旋転”であるからに違いない・・・)
文章で書くと難しく感じるので、下に図で表してみました。
ウエストの位置で胴体を輪切りにして上から見たと想定。
この部分を回す(腰を回す)といってもいくつかの回し方が考えられる。
転腰と呼ばれるのは腹腰全体を一つの塊=<実>にして回すもの。
旋腰というのは、ウエストの外周を回すもの。内功の「帯脈磨盤」がその典型。
この時腹は<虚>になる。(図では中心が白抜きになっている)
ここで興味深いのは、太極拳ではこの旋腰の時に現れる<虚>の部分がとても大事だということ。この<虚>が丹田になる。転腰のように腹を実にしていると(ぐっと力を入れている状態)丹田は感じられない。
最初の頃は、ぐっと力を入れて<実>にできても、その力を抜いたとたん、腹自体がしぼんでしまう(腹全体が虚になってしまう)。しかし正しく練習をしていると、そのうちに、腹の力を抜いて松しても外側はしっかりどっしりしたままになる(旋腰の時の図:外周は実で内側は虚)。
ラジオ体操など、一般的な体操では『転腰』(腰回し)はやっても『旋腰』はやらないのではないかと思う(腹にぐっと力をいれて回す人が多いと思う)。『旋腰』は腹腰の中を少なくとも二層に分ける必要がある・・・それ自体はほとんど回転しない内側とその周りを回る外側。
上は馮老師の纏糸功の教材ビデオから、左は『大旋腰』、右は『旋臀』。
よく見ると、馮老師は旋腰の時に息を止めずに行なっているのが分かる。
左のラジオ体操の動きとは息が違うし意識が違う(内側を意識するか否か)。
旋回させるためには力を抜いて内側を意識して行う必要がある。
回転(転)は一気にやる(内外の区別なし)
旋回は内側を層にする。内側の虚の部分が真の丹田になる。
転の時は全てが実、これを虚の丹田が膨らんだもの、と見ることもできるが、虚なしの実は実とはいえず、ただ力をいれてつくった丹田(のようなもの)は高岡氏が言うところの「拘束丹田」になってしまう。
→『旋』は太極拳に欠かせない
さらに、この『旋』は内側の層が一斉に(少しズレながら)回転する『旋転』になる(上の図を参照)。そしてその旋転が上下に繋がっていくと外周は螺旋状の『绕』(rao)(外を取り囲んで巻く意味)、中心の『転』は『纏』(へばついて巻きついている感じ)、合わせて『纏绕』纏糸へと発展していく。
纏糸はポンリュージーアンなどの八法の基礎で、本来の楊式太極拳はこの纏糸勁をさらに精化させて钻(ドリルで穴を開けていく)を使っていたらしい。今では楊式太極拳は大衆化されて平べったくなっているが、元をたどれば陳式をしっかり学び修めた人達(楊露禅、楊澄浦など)が作り出したもの。基本は同じだ。<続く>
2021/5/21 <目で見て 耳で聞いて 偏見のない心で判断する>
こちらでは時折ものすごくバイタリティのある器の大きい人物にお目にかかる機会がある。
今日お会いしたこちらの医療界の有力者である某理事は今年82歳ということだったが、顔の色艶、体格もよく、健康そのもの。元々はアメリカの弁護士だがパリで30年以上活動している。日本のことが大好きで、去年、アフリカで重症になったJICAの職員をフランスの病院で受け入れられるように真っ先に動いてくれたのも彼だった。人脈がものをいうフランスの社会ではとても重要な人物のようだ。
噂は前々から聞いていたけれども、話してみるととてもソフトで話題が豊富、自分の経験談が多いけれど、他の人たちの話も時々メモをとりながら熱心に聞いていた。この本を読んだか?読んだ方がいい、とか、芸術関連の話も多かった。そして面白かったのは、偶然にロストロポーヴィチ(旧ソ連のチェリスト)が空港の待合室で自動販売機がうまく使えなくて手伝ってあげたら、そのあと飛行機に乗り込んでびっくり、隣の席で、しかもその後ロンドンに着いて行き先を聞いたら同じ場所、そのあととても仲良くなったという話だった。このような”偶然”がこれまでの彼の人生に何度も何度も起こって多くの人と知り合いになってきたという。
そしてこの82歳の老人はこれまで知り合った人の名前を次から次へとタイトル付きフルネームで、いつどこで知り合ってどうしたのか、と克明に語ることができた。私なんて人の名前を思い出せないことがしばしばあるのに、どうしてそんなに覚えているのか不思議になった。最初はどんな健康法を行なっているのか尋ねようと思っていたのだけど、話を聞きながらそんなことを聞くのは馬鹿らしく思えてきた。それよりも、どうしてそんなに頭をクリアなのか?という疑問で頭がいっぱいになった。そんな時、横にいた私の友人がどうしてそんなに記憶力が良いのか?と老人に尋ねた。そうしたら彼は、
「目をよく開いて見て、耳でよく聞いて、そして偏見のない心で判断をしなければならない。」
と言った。
「偶然もそうやって起こる。」
なんだかこの前読んだ『アルケミスト』の中にある一節のようだ・・・
彼が会食をしながら談話をする姿を見ていたら、相手の話を聞く時は真摯に耳を傾け、大事な点は自分の小さなメモ帳にメモをとっていた。こんな高い立場になって歳下の人たち(私の娘もそこにいた)と話しをしながらメモをとっている・・・
目がずっときらきら輝いていた。
1回目の結婚での子供達は私とほぼ同じ歳。孫は私の娘とほぼ同じ歳。
2回目の結婚での子供達は娘とほぼ同じ歳・・・ということは相手は私とほぼ同じ歳?
心も若いのだろうなぁ。
別れ際に、彼は私の娘に、一緒にポロを見に行こう、と誘っていました。もちろん、お父さんお母さん(私)も一緒にどうぞ、と(ウインク)。
頭の中が開いてる・・・目を開いて耳を開いて偏見にとらわれない
報道やゴシップを聞いて信じたいものを信じているようではその境地には達せない。
頭の中をカパッとひらく これは上丹田が開く、ということだけど、そんな境地に達しているような人物を間近に見られてとても嬉しかった。
上丹田が開くと考えることから閃くこと(霊感)に転換、偶然も多くなる。
思考に重きが置かれている西洋文化と見て分かることに重きが置かれている東洋文化、と単純に思っていたけれど、人が成長していくと自然にそうなっていくのだろう。
「目をよく開いて見て、耳でよく聞いて、そして偏見のない心で判断しなければならない」
見たら判断。聞いたら判断。
どこにも”考える”間はない。
太極拳でもそんな練習ができる。そんな練習をしたいもの。
2021/5/18 <卓球の捻腰と転腰>
今日はワクチン接種等のため練習お休み。
メモを書く予定ではなかったのだけど、寝る前に中国の百度で『捻腰』と画像検索したら、出てきたのは 1.卓球、2.バレエ、そして3.太極拳・・・なんと私が突っ込んでいるものばかり。
卓球は相当やり込んだから私にはとても分かりやすい。
『捻腰』はフォアハンドのドライブの時に使う。
球を擦って前方回転をかける打ち方だ。
字幕に『捻腰発力』と師父が言った四字熟語そのままが出てくる。
バックハンドで『捻腰』をするとこのようになる。
フォアハンドにしろバックハンドにしろ、捻腰で発力する前には、必ず『収』が必要になる。(収:球をぐっと自分に引きつける動き。ぐっと溜める。)。
これは『転腰』でのバックハンド(の素振り)
左から右への転腰だ。
上の『転腰』で実際に打ったら・・・
こんな瞬間芸になる。
転腰は外から見えない
かっこいい!!!
(私は当時ペンホルダーだったのでこんなバックハンドは打ったことがない。シェークハンドにするべきだった・・・)
最後のこれは下から上への『転腰』
転腰だと回転はほとんどかからない。(左の画像は少しドライブがかかってる感じがします)
捻腰だと回転がかかる。
一連のGIF画像はhttps://www.163.com/dy/article/EDFQGJI305298H1J.html
このサイトでは「打拳击时腰腹运动有点类似,但是它是这种像太极的动作一样内收拧出去」(卓球で打つ動作は太極拳の打撃が腰腹運動であるのと同様、内に収めて捻って出す(内収捻去))と、卓球と太極拳の相似性について言及している。
捻腰で発勁するにはその準備としての『内収』が大事。
転腰の時は内収をしないので腹は膨らませたまま。
息の使い方も違いそう。 続きはまた。
2021/5/17 <転腰と旋腰 旋回の中心軸を探す>
旋回と回転、似てるようで違う。
コマで言えば、軸は”回転”する。中国語なら『転』。
コマ自体は軸を中心に”旋回”する。中国語なら『旋』あるいは『旋転』。
面白いのは、中国語の『回』は『戻る』という意味で『回る』という意味は限られた熟語の中でしか使われないということ。
以前、道教の瞑想の書『黄金の華の秘密』を読んでいた時のこと。英文訳、日本文訳ともども、「眉間の奥で光を”回す”」と書かれていておかしいなぁ、と思い、中国語の原文を見たら、「回光」と書かれていた。『回光』は”光を回す”、のではなく、”光を(眉間の奥=上丹田)に戻す=引き入れる=収める” という意味だ。これはタントウ功をする時に一番最初にする手順だ→無極タントウコウの意念<1,2>
旋回と回転の話に戻ると、回転はそれ自体が回転するから、身体の中だと棒状のもの=脊椎を想定したような動きになる。これに対して旋回はある軸の周りを回る、ということだ。
馮老師の纏糸功のテキストの中には下のようなものがある。
『転腰』と『旋腰』だ。
捻る、というのは、「細長いものの両端に力を加えて、互いに逆の方向に回す。また、一端を固定して、他の一端を無理に回す。」ということ。 雑巾絞りやツイストドーナツのようなもの。
上の馮老師の『転腰』は腰自体を回転させている。腰自体が太い一本の棒、それ自体が軸になっている。を一本の太い棒と見立てて、その棒自体を”軸”にしている(というのがミソ、腹腰まるごと丹田!)。
普通の人がやるウエスト捻りとは全く別物だ。
なお、「重心転換は旋腰」、だったが、「発勁は捻腰」、そして、「塌腰は定式」に使う。
塌腰を馬鹿の一つ覚えのように使ってはいけない。
このあたりの話は別の機会に書きます。
←この動作は?
これは『旋肩』。(後に『肩纏糸』とも言われている)
”旋”というからには、その内側に中心軸、中心点がある。肩はその軸の周りを回っている。
肩全体が回転しているわけではない。
旋回の内側の軸なるものが感じられ、そこに纏わりつくように肩が旋回し出すとそれは肩の纏糸となって胸や腕へと纏糸が連鎖し伸びていく。
『旋腕』、または『腕纏糸』
”腕”は中国語では”手首”の意味だ。
ここでもやはり、手首は何かの周りを回っている。手首をごりごり回しているのではない。
この内側の軸→空間軸?なるものが感じられるようになるかどうかが太極拳の成否を決める、ともいえる。
この内側の、実体のあるようなないような空間的な軸が全身を貫き繋げる様を、『節節貫通』という。 そして、この軸は丹田をスタート時点とする。丹田が消えるとこの軸も消えてしまう・・・
纏糸功は一見とても単純で面白みにかけるかもしれないが、内側が分かってくるとやり甲斐のある練習だ。実際、馮老師にしろ陳項老師にしろ師父にしろ、毎日欠かさずやる練習は周囲の人が見たら何の注目も浴びないような地味な動作ばかり。発勁なんて滅多にしない。内側の節節貫通を維持する練習をしておけば身体の練習はそれで事足りる、そんな境地のようだ。
混元太極拳の基本功は内功と纏糸功の二本立て。内功は去年紹介したので、今年は纏糸功を突っ込んでみてもよいかも。参考までに動画を下に載せておきます。
2021/5/15 <重心移動の際の旋腰>
重心転換の時の旋腰は推手の時には特に重要になる。
中正を失わないぎりぎりまで重心移動した後、そこからさらに腕が伸びて押し込めるのは旋腰のおかげだ。もし単純に、自分が中正を失わない位置まで前方へ重心移動し、それに伴い相手も同じように中正を失わない位置まで後方に重心移動するなら、本当に”推す”ことはできないだろう。相手と自分の手は”合った”まま、ただ二本の棒を接したまま前後に行ったり来たりするようなもの。これではせっかく推手をしてもお互いの力が分からず、身体の松や聴力が全く養えない。
相手をちゃんと推すには中正を失わないぎりぎりの位置まで前方に移動した後、それから腰を使ってさらに推し続け、同時に自分はそれによって前足の前掌まで重心移動して最後はその前掌で地面を推して重心転換、後方へと移動することになる。(この前足のつま先(前掌)の使い方については以前動画で説明したことあり。なお、進歩(前進)は後足の踵、退歩は前足のつま先(前掌)を使う、というのは基本中の基本。)
腰の旋回で相手を推し続ける間に自分は重心転換をしていることになる。
進歩から退歩、あるいは退歩から進歩に転換する時点は太極図で言えば陰陽転換、最重要時点だ。太極拳の得意とする、相手の力を借りて攻撃に転ずる化勁はまさにこの時点で行われる。
以前使った馮老師の推手の動画とを再度見てみた。
さらに、馮老師の退歩から進歩への重心転換(化勁)のところを取り出してみた。
①が化勁の始まり。相手が推してくるのを受ける馮老師、もうこれ以上後ろには動けない。
両足をよく見ると、この時点では完全に後ろ足に体重は乗っていない=前足を上げること=片足立ちはできない。
つまり、もうこれ以上後ろには動けないが、かといってこの状態から前方に移動することもできない。→腰を旋回させる
②腰を旋回させることで、体重が後足に乗っていっているのが分かる。
③ここで既に体重は後足に乗っている。前足を外しても大丈夫な状態。ここから攻撃に転じる。
④腰の旋回と後足の力を合わせて前方へ
こう見てから上の推手套路の演武を見ると、そもそも上半身と下半身が別人格のように動いていてお互いに中正を崩したまま動いている。重心転換の妙を論じる手前の状態のよう。まずは下半身の力がきちんと上半身に繋がるように動く練習が必要=中正のまま動く練習が必要。(背骨をまっすぐにすれば中正だと勘違いしているケースが多いかも。)
旋腰は正確には”旋腰転脊”と言われる。
旋は旋回。棒が立ったままぐるぐる回るような動きだ。棒自体は回転しない。
転は回転。それ自体がぐるぐる回る。
旋腰転脊
背骨を回転させることによって腰が旋回する
腰を旋回させようとしたら背骨を使わざるを得ない・・・
左図はイメージ的に加筆をしたが、馮老師のようになると、腰は水色の四角の範囲に止まらず全身が腰!になってしまうのだと思う。つまり、全身が(内側で)旋回している。表層は動いていないように見えてもその下の層が旋回、そして核心的な部分=背骨は回転している・・・
先日アップした私の動画の中で、ここだと片足立ちができないが、ここなら片足立ちができる、というのを見せました。外からは大した差がないように見えても本人にははっきりと分かる。そのあたりの差をはっきり自覚するような練習をすると、身体の内側と外側に隙間ができてくる。その隙間で腰は旋回する。推手を正しく練習すると内外の分離が短時間で得られるというのが最近の私の確信。
2021/5/14 <過去のメモについて>
読者の方から言われて気づきましたが、練習メモアーカイブにある過去のメモの画像が落ちてしまっています。編集の仕方に問題があったようで画像を回復することができません。
もし過去のメモを読んで理解不可能なものがあったら、気軽にリマインドしてください。過去に考えたこと、気づいたことを再度見直すよい機会になるかもしれないと思っています。
また、初歩的なことも含めてメモに書いた方がよいテーマがあれば教えて下さい。過去にそのテーマのメモがあるなしに拘らず歓迎します。
2021/5/13 <片足立ちと虚歩・重心転換 転換は旋腰>
金鶏独立から単腿(片足立ち)に注目。そもそも私たちは両足に均等に体重をかけたまま立っていることはほとんどない。いつも右か左かどちらかに体重をかけたり、交互に変換させながら立っている。単腿が基本、と思えば、鳥が片足立ちで寝るのもあまり不思議に思わなくなったりする。(タントウ功でさえ詳細に観察すると常に両足への力のかかりかたは変化している。銅像のようにズドーンと両足に均等に気が落ちるのはある意味特殊な状態だと思う。)
単腿から派生して大事なことがあった。
一つは虚歩。これは単腿。そうでないと、蹴り足の暗脚という虚歩の目的が達成できない。
もう一つは重心転換の際の”旋腰”。これは一瞬単腿にするための腰の動きだ。これをしないで直線的に行ったり来たりすると流れが途絶えるし上半身と下半身の連結も切れてしまう。膝などに負担がかかる
これら虚歩と重心転換の際の旋腰について単腿の観点から簡単に説明した動画を撮りました・・・が、終わり近くにスマホが墜落してしまった。撮り直す気がなかったのでそのままです。(旋腰を助ける腕の動きについて説明しかけたところで途絶えたけれど、それについてはまた別の機会でよしとしよう。)
片足立ちがどこで可能になるか、自分の腰(丹田)の位置を微妙に移動させてその位置を確認する作業をしてみるべき。
その位置で片足立ちになれば、脚力はゼロ? そんな風に感じる場所が本来の片足立ちの場所。だから鳥は一本足で寝るんだ、と納得できる場所。片足立ちは脚力よりも節節貫通をできるかどうかにかかっている。
2021/5/11 <金鶏独立から学べること>
太極拳の中には金鶏独立という技があるが、この片足立ちのポーズは健康法としても有名で、年老いた親には毎日1分やらせるべき、と中国の人気の気功の先生が言っていたのを聞いたことがある。
と、サイトで、ふと目にした楊澄浦の金鶏独立。目が釘付けになった。
足首が見える!!!(足首が華奢・・・着物の裾からちらりと見えたら、”小股の切れ上がった”男性か??)
https://daydaynews.cc/zh-my/lose/167624.html
このサイトの解説で書かれているように、太極拳のどの流派でもこの型があるが、なかなか完璧に行うのは難しい。
左の写真の場合は左脚が実、右脚が虚。
太極拳は虚実をはっきりくっきり分ける(虚実分明)という特徴があるが、左の写真の姿はそれが一目で見て取れる。
そしてその上に乗る胴体は”収”している(こぢんまりとまとまっている)。
引用サイトの解説では、多くの場合、胴体が”散”ってしまって、脚が不安定になりがち、とある。
そうか・・・片足立ちがぐらつくようになるのは脚力が弱るからではない。
胴体を収束すること=合すること=丹田にぐっと引きつけて集めること、ができなくなるからだ・・・
これは片足立ちだけではない。
ジャンプでも同じこと。(私の二起脚が本当に下手くそだった時、師父が頭を捻っていた。私の脚力は十分あるのになぜできないのか、と。が、正面に標的があるとうまく蹴りあげられる。問題は脚にあったのではなく、標的があって真剣になったとたん、跳び上がる瞬間に頭から会陰まで(胴体)が一気にぐっと収縮していたのでした。標的がないと胴体は棒のように伸びたまま、すると高く素早く蹴れない)
そして素早くしゃがみこむ時も同様だ。
つまり、胴体が合になるから下半身(脚)を大きく動かすことができる=開になる。
片足立ち、ジャンプ、しゃがむ、そんな動作では、脚を動かし始める前に胴体を合にしてこぢんまりさせる必要がある。といっても、普通私たちはそんなことを意識しなくてもやっているはず・・・ジャンプする前には身を屈めるし、全速で走ろうと思ったらまず身を小さくする(ことで足が大きく前にでる)、いつでもしゃがめる(動ける)体勢は胴体を小さくまとめている(ボクシングで、卓球、バスケット・・・ただ、観賞用の種目、バレエなどの演舞やおそらく武術の演武ではできるだけ上半身を大きくしたまま動くことが求められるのかもしれない。)
丹田に向けて収束させること、これが合。開はその反対、丹田から周辺に向けて膨張させること。
身体を合にすると脚は軽くなる。開にすると脚は重くなる。
片足立ちやジャンプ、しゃがむ時は丹田に力を集めて脚を軽くする:丹田に力(気)を集めるための大事な容量の一つが会陰を引き上げること。が、その時に、併せて頭や肩や胸の力を丹田に向けて抜いてあげることも必要だ。
本当の金鶏独立を見たくて検索してみました。
鳥が一本足でいるのは体温を奪われないようにするためとか聞いたことがあるが、実は一本足の方が疲れないのではないかと思う。私も疲れた時は一本足(台所でいる時とか洗面台にいる時とか)・・・の方が二本足で仁王立ちになっているより疲れない。だから、「気をつけ、休め」の「休め」は虚実をつけて立っている・・・実質的には一本足。太極拳で虚の足は蹴り技が隠れている(暗脚)。だから、日常的にも休めの姿勢をしたい時はこっそりと虚の足裏を持ち上げて実脚一本で立つと良いかと思う。中途半端な重心で「休め」をするよりも中正をとる練習になるのではないかと思う。
それにしても鶏の4本の足指はしっかりパーしている。幼児に手でパーをさせると紅葉の葉のように開けるが、鶏さんの足指も紅葉状態。だから脚が細い・・・小股の切れ上がってる・・足の中に隠れている骨が鶏の足指のように身体の重さを分散させて抜ければアキレス腱や足首はすっきり、脚もすんなり、だっただろう(私自身の話です・・・)靴を履いているとあたかも包帯で鶏の4本の足指をぐるぐる巻きして使っているような状態に陥りがち。力が足にこもって地下に抜けないから、ふくらはぎや太ももなど、別の場所の筋肉を収縮させてバランスを取らざるを得なくなる。
続きはまた書きます・・・
2021/5/9 <スプーンの油をこぼさないように外界を見る>
私がこれまで教えた生徒さんの多くは、健康志向か武術志向だったが、師父のところに来るフランス人の生徒さんの中には、天、あるいは神、あるいは不可知なる大いなる力と一体化するために太極拳を学んでいる人がたまに現れる。
そんな人たちにタントウ功をさせると入静状態ではなく陶酔状態に入ってしまう。内功をさせてもいつの間にか気持ち良くなって顎が上がり出し、頭が泳ぎ始める。宗教的な踊りや特定の気功集団で見るような状態・・・ 酒や麻薬に溺れる様子に近い。
これで天人合一を体験したといってもそれは幻覚だ。練習で多少気持ちよくなっても溺れてはいけない。手綱は握っておかなければならない。これは気功法であれヨガであれ、正当な修行法の鉄則、これを間違えると邪道に陥る危険がある。
日光浴を兼ねたmeditationや海辺の気持ち良さを味わうmeditationは陶酔系(さらには洗脳系)に流れやすい。
きちんと内側の手綱を握ったmeditationが真の瞑想。外見から区別可能。
少し前に、私の生徒さんが107歳で亡くなった篠田桃紅さんの動画を見た感想を送ってくれた時に、『アルケミスト』という小説の中の一部を引用してくれた。それを思い出した。
・・・桃紅さんの動画見ました。
最後の方の、「(墨は)絶対に絶望させないけど、いい気にもさせない」と言ってたのが太極拳にも通じるところがあるような気がして印象に残りました。
『アルケミスト』という本のなかにある場面を思い出しました。幸福の秘密を学ぶために宮殿に住む賢者にある若者が会いに行きます。賢者は何も教えることは無いと言い、ただ宮殿にある芸術を観てきなさいと若者に言います。ただしスプーンにオリーブ油を垂らし、それがこぼれないようにと。
若者は宮殿の中を探索するが、スプーンの油が気になって芸術どころではない。賢者の元へ戻り、何も楽しめなかったと言うと、もう一度、美しい絵画や織物をみてきなさいと促す。若者は今度は十分楽しんできたけど、戻ってきたらスプーンの油は消えていた。そこで賢者が一つだけ教えてあげようと言う、「幸福の秘訣とは世界のすべての素晴らしさを味わい、しかもスプーンの油を忘れないことだよ」と。
私がこの本を最初に読んだときは、あまりよくわからなかったけど、いま思い返すと、これってどんな歓喜に沸いていたとしても決して丹田は外さないってことかなぁ、と今では思います。・・・
このメッセージを見て私は早速その本を入手して読んだのだけど、上のパッセージは太極拳的にいえばいかなる時も丹田を外さない、ということだし、もっと普遍的にいえば、目を内側に向けたまま外側を見る、ということだと思った。
私たちの目は生まれて目が開くと外側の世界に釘付けになる。見たくて見たくて仕方がない。いくら見ても飽き足らない。見て楽しむ。見て悲しむ。見て怒る。ここでは”目で見る”という視覚だけを言っているようだが、実際には、五感全てが外向きにアンテナを張ってそれによって自分は様々な感覚を享受する。
が、私たちは成熟すると(内奥の成熟、年齢とは関係ない場合も多い)、常に外向きに使っていた目(感覚器官)を内側にも向けるようになる。見ている私は誰なのか?何が聞いているのか?、痛いといっている自分を目撃している自分がいる、とか。何か内側に目撃者のような実体が365日24時間ずっと流れているのに気づくのだ。
その内側の、変わらずに流れ続ける実体を常に意識しながら外界の出来事を経験する。すると何を経験しようがその内側の実体が影響を受けないということが分かる。どんなに嬉しくても、どんなに悲しくても、怒っても、苦しくても、内側の実体はそのまま。それが、「スプーンの油をこぼさない」ということ、賢者の言う幸福の秘訣だし、武術、武道での真の平常心?・・・いや、心よりも内側にあるから平常心とはもはや言えない・・・無心? 無我、このあたりの話だ。
丹田を内視するのは、目を内側に向ける一つの方法。呼吸を見るのも一つの方法(観息法)。仏教の止観法はいかなる修行法の基本だと師父が言っていたが、これも思考を止めて(サマタ)、それから観察する(ヴィパッサナー)ということで、目を内側に向けざるを得ない。
太極拳など内家拳は目を内側に向けて意や気を操作することで身体を内側から調整するのが最大の特徴で、だからこそ奥の深い養生法になり得る。目を内側に向けるのは最初の一歩だ。
ただ、目を内側に向けるにあたって注意しなければならないのが、冒頭に書いた、陶酔状態にならない、ということ。陶酔状態になると自分が溶解してしまって何が外やら内やら分からなくなる。かと言って、内側に埋没してはいけない。内側だけ見ていると眠くなるか暗闇に落ちていく。内側を見ながら外側を完全には忘れない(そのための要領が半眼だったり、少し笑顔にする、舌を上顎につける、百会を天に向けて背骨を意識するとか)。つまり目は外側と内側のベクトルで引っ張り合いになるのが理想的なのだろう。すると意識はピーンと澄んで頭はすっきり明快、頭寒足熱(上虚下実)状態になる。(上の画像の中のオレンジの服の僧侶の顔がそのような感じ。仏像を思い出せばよいかと思う。)
最近書いている腰を割るとか股関節をどうするとかの話は肉体レベルの話。太極拳を健康目的に行うと肉体の話は切り捨てられないのだけど、私が個人的に思うのは、私たちがどんなに体を鍛錬しても老化の速度には追いつかない。鍛錬によって体の老化の速度を多少遅くできても、若い時の体に戻るのはどうやっても不可能だ。脚が高く上がったり、バク転ができたり、開脚ができたり・・・これらは”外”の話。おそらく、ある程度の歳になったら、”外”を鍛錬しながら、せっせと”内”=心や意識、の鍛錬=観察の訓練、をしていくべきなのだと思う。
上の桃紅さんの言葉、「(墨は)絶対に絶望させないけれど、いい気にもさせない」という(墨は)を(身体は)に置き換えてみる。それが真実なのでは? 身体は実はそんなもの。どれだけ追いかけても追いつかない、いい気にさせてはくれない。でも、身体を通して内側を知ることができる。身体(外側)は内側を見るために必要だ。外側がなくても内側を外さないようになったら、眠っていても内側は起きている、うまくいけば、肉体が死んでも内側がどこにいくのか見ていられる?・・・と思って、私はこの手の修行法に興味をもって始めたけれども、最近は肉体(外界)に気を奪われてそれを忘れそうになっていた・・・『アルケミスト』で復活。
盲目のピアニスト、辻井伸行君のこちらでのリサイタルに行ったのは2020年1月。そのあとすぐにロックダウンになってそれ以降美術館やコンサートには行けなくなったが、ここ数ヶ月はもっぱら辻井君の演奏をYoutubeで見ていた。何と言っても心が素直。素直さが身体に、そして演奏に現れる。辻井君ばかり見ていて時に別のピアニストの演奏を見ると、余計な動きや感情が目についたり、あるいは暴力的な部分に気づいてしまう。目の見える私たち一般人は生まれながら目の見えない人達に比べて心がもっと汚れやすいのではないかなぁ?
彼がヴァンクライバーン・コンクールで優勝した時に、「もし目が見えたら何が見たいか?」という質問に対して、「お母さんとお父さんの顔が見たい・・・・けれども、今は心の目で見ているので十分満足しています。」と答えたという。”心の目で見る”、という言葉は、一度パリでお会いしたことのある国際松濤館の金澤弘和宗家が言っていた言葉で私はとてもよく覚えていた。辻井君は武道家と同じ言葉を使う・・・これも内側の目の話。スプーンの油をこぼさない、(ブッダの)気づきを失わない、全て同じところを指し示している。桃紅さんのいうところの、”肉体の衰退と反比例して得られるもの”(得られ得るもの)に違いない。向かうべき方向を間違えないように進みたい。
2021/5/7 <腰を割る、腰を入れる、と松腰は両立するのか? 試論>
うつぶせカエルのポーズがそこそこできると、相撲などでいうところの ”腰を割る”とか”腰を入れる”という感覚が得られるようになる。やってみて気づくのは、その「腰を割る、腰が入る」というコインの裏側は「丹田」、ということだ。
丹田がないと腰は割れない、腰は入らない。丹田なしに腰を割ろうとしたら腰が砕けてしまう!と身体はそれ以上開かないようにストップをかけるだろう。丹田なしに腰を入れようとすると腰が反ってしまって危険な感じだ。
太極拳では最初に、丹田、丹田、といって、腰を入れろ、とは言わない。むしろ、「松腰」にしろという。というのは、もし最初に「腰を立てろ」と指導したら、必ずと言ってよいほど腰の筋肉を締めて緊張させてしまうからだ。身体の一部分を緊張させた瞬間、全身のテンセリング構造は歪んでしまう。
左は4/30のメモで使用したものに加筆したもの。
テンセリング構造は全てのパーツが引っ張りあい(張力)で結びついているが、中心は空洞だ。これを人体の構造として見た場合、中心の空洞から周辺に向かって張り出す力があることで、全てのパーツが相互に引っ張り合う関係が生み出されている。(皮膚のたるみをなくすのに内側に詰め物をするようなものも同じ原理?)
この中心の張り出す力が広義のポンの力。狭義のポン、リュー、ジー、アン、・・・などの八法は全てこの広義のポンがあっての話。内側の膨張力がなければ、八法はなりたたない。そしてこの内側の膨張力=ポンの力を持つのが”丹田”だ。
つまり、上のように”腰を割る”、”腰を入れる”にしても、全体のテンセリング構造を壊さないように=丹田を失わないようにやる必要がある。割りすぎたり、入れすぎると、一気に筋肉系の運動になってしまう。
空手の練習では股割りは当たり前、うつぶせカエルのようなものも必ずやる、先生方は180度開脚は当たり前、と空手歴の長い友人から聞いたが、そうやって腰を割って立てても、”松”をせずにひたすら練習すると身体は硬くなる。かなり高名な師範たちと一緒にいたことがあるが、40歳をすぎると大抵背骨は棒のように硬そうだった(おそらく、そのような硬い”棒”としての背骨を作ろうとしてきたのかと思う)。太極拳やその他の中国武術のように背骨は”しなる”もの、という感覚ではなさそうだ(日本の武道は背骨が棒のようにまっすぐ、日本の平面文化の一部かと勝手に考えている。文化としては独特で美しさもあるが、身体は平面ではない・・・)
師父にうつぶせカエルはできるか?と聞いたら、やったことがないから分からない、と言われた。が、右のような仰向けのカエル(合せきのポーズ)を私に見せて、こうやって夜眠ってみろ、と言ったことがある。私はそれは無理だ、と答えたら、じゃあ片足ずつでいいから練習しろ、と言ったと思う。当時は両足ぺったんは難しかったけど、太極拳の練習をしていたらいつの間にかできるようになっていた。(後日、師父は家でうつ伏せカエルをやってみたらしい。お腹も床について問題なくできたそう。)
うつぶせカエルは仰向けがある程度できるようになってからでないと難しい。まずは仰向け、片足ずつでいいから少しずつ進めていく。チリも積もれば山となる・・・
仰向けではどれだけやっても腰が入る感覚は得られない。立位になった時にそれを応用できない(上半身と下半身の連動がほとんどわからない)。だからやはりうつぶせカエルまで(ぺったんこではなく腰がある程度入るところまで)できるようになっていたいもの。そうすれば腰の位置が思っているより高いことにも気づくだろうし、斂臀の意味もさらに深くわかるだろう(決して”便意を堪える”とかいうものではないのがはっきり分かる)
それにしても難しいなぁ、と思うのは、「腰を割る、入れる」が腰を緊張させることになったり、逆に「松腰」になったりするということ。意識と息の使い方で身体使いは全く逆方向に向かう。
空手のシルエットは腰を締めて腰を入れている。
楊澄浦は腰を締めてはいないが腰は入っている。
腰を締めると上半身と下半身が分断する。画像を比べると一目瞭然。
太極拳では「腰を入れる」とは言わないが、拔背 塌腰 敛臀 松胯 圆裆 などをやると実質的には腰を入れた感じになる。そしてその腰が臨機応変に形を変えて動くので『太極腰』と呼ばれる(きっと双葉山の腰もそのようなものだったのだろう)
腰を入れても腰が締まらないのは、腰を入れた時にそれが帯脈となって腹回り全体が腰化する、腰が広がって腹回りと一体化した感じになるからだと思う。ゆったりとした息が必要だ。空手のような「気合い!」は入れてはいけない(太極拳だと左画像の空手の選手のような顔にはならない 顔に力みがあれば体にも力みがある。)
師父はこれまで何度か腹を指して”腰の一部だ”と言ったりしたが、腹が腰?と聞き返したら、腹も腰も同じだろう!と当然のように答えた・・・・そういう感覚。
身体を前後、表裏、と見るのは身体を平面的に外側から捉えているから。
身体を筒と捉えて内側から見たら、腹も腰も空間として一体化している。
内側の目で内側から自分の体を見ているか否か、そこが決定的な違い、なのだろう。
うつぶせカエルも外側の窮屈さがなくなって内側から見られるようになった時に内側から腰が入った感覚=丹田が入った感覚が得られる。腰と丹田が一体化すると腰も丹田も消える。
最後に腰や股関節の柔軟性を高めたり維持するエクササイズは各自工夫して毎日ルーティン化する必要がある。あっという間に硬くなる(と実感中)。太極拳の套路練習だけでは不十分だ。
2021/5/5 <うつぶせカエルで立ち上がる?>
ずり這いとうつ伏せカエルの練習をしていたせいか、今日の24式は第3式懒扎衣で左から右へと体重移動した時に、「あれ? ここなんだ、本当は。」と自分の形が変わったのに気づいた。
腰はもっと前。すると内腿で体重移動ができる。とても楽!
と気づいて、私の前で24式をやっている師父の動きをチェックしてみたら、確かに、腰がまったく”引けて”いない。師父はとても自然にやっているので気づかなかったが、それに近い格好になった私の感覚的は、うつ伏せカエル状態。
これで初めて脚のラインが背骨に連結して頭に抜けていくようだ。(これまでのように)腰を後ろに下ろしてしまうと、下半身と上半身が分断してしまう、かつ、身体の前側(腹側)が効果的に使えない。図式的には三日月状態だったということ(膨らんでいる方が背中側、欠けている方が腹側。)うつぶせカエルのような感じになって初めて前後共に使えるようになる・・・満月型。これまでまだまだ甘かったのが分かってしまった。
ずり這いは前回の動画通り。うつ伏せカエルのポーズは幼児がお手本(上の写真の女の子、リンクを貼っています)。私たち大人にはハードルが高いので、冒頭のイラストのような格好から練習したりする(寝ながらストレッチhttps://myrevo.jp/fitness/402)
バレエの練習でカエルのポーズをよくやっているのは知っていたが、このストレッチがそのまま身体を丸ごと一つとして使うことに連結するとは思っていなかった。 やってみてわかるのは、このカエルはただ股関節を開くのではなく、お尻の中の細かな筋肉を稼働させてお尻と腰を連動させ、腰を広げて背中、脇、肩まで内側から押し広げて身体を一つの筒にしてしまうのだ(といっても私は女の子のようには完璧にできません。が、大体の感じは分かる。)
そう気づいてから馮老師の懒扎衣を見るとカエルに見えてしまう。
そして、『四股探求の旅』第21回に掲載されていた双葉山が前に落ちる時の身体の動作、通常なら手をついた後膝をついて四つん這いになってしまうところを、手がついた後に”全身がしなるように腰がおちていく”、”普通なら腰が残ってしまうところを、腰が割れて廻しが土俵につくほど腰が入って落ちていきます。全身が全く力みなく、しなやかに柔らかく使われ・・・腰が動きの中心にあるからこその落ち方です。”と説明されている。 これもまさにうつぶせカエル。
松田氏の説明文章からわかるのは、うつぶせカエルは股関節の柔らかさというよりも腰の柔らかさを呈したもの・・・同様な説明が前回のずり這い動画の中にもありました・・・股関節が柔らかくなるのは腰が柔らかいから。腰が硬いのに股関節だけが柔らかくなるということは有り得ない。太極拳の練習で徹底して腰を回す(丹田も腰の一部という言い方をしたりする)のはそのためかと納得。逆にいえば、股関節が回るように腰・丹田を回さなければならないということ。
そしてうつぶせカエルで立位になると、腰が後ろに落ちない。スクワットのような腰にはならないということ。 どう説明しようかと思っていたら、これも『四股探求の道』第9回”四股の変遷について”の中に書かれていました。
四股と仕切りが混同されている、という指摘(左図)
立会いでは仕切りの形をとるが、実際に当たっていく時は腰の高さを上げないと大きな力を発揮できない、とのこと。
これは、100メートル走のクラウンチングスタートで、「ヨーイ」と声がかかった時に腰をあげるのと同じ、という。(腰を下ろしたままスタートダッシュは切れない)
この論理は太極拳にそのまま当てはまる。套路は最初から最後までが技の羅列。どこにも腰をどかっと下ろしている場面はない。そして腰を建てたまま両足を開いて立つには・・・やはりうつぶせカエルの方向に持っていかなければならない。でないと、スクワット状態で移動してしまうことになる。(現在の相撲や太極拳のほとんどはスクワット状態=筋肉分断型。)
お尻を中に入れろ(斂臀)というのは、うつぶせカエルの方向に持って行かせるための指示。肛門を締めろ、という意味では全くない。タントウ功もうつ伏せカエルに近く感覚が多少必要(完璧にカエルになってしまうとペラペラになってしまうので、股間から内腿が起動して背骨が股から立ち上がるような位置を目指せばよいと思っています。目下練習中。)
2021/5/3 <ずり這いを思い出した>
双葉山の後ろ姿を見ていたら、そういえば、バレエ整体の島田氏がメルマガで赤ちゃんの”ずり這い”を勧めていたなぁ、と思い出した。
再度チェックしたら、タイトルは『赤ちゃんに学ぶ仙腸関節の柔軟性をアップする動き』。
ずり這いは”整体にとても合理的な連動育成法”だとして下のような簡単な説明があった。
”両手をついて上体を起こすことで腰を伸ばし、胸を張ることで肩甲骨を内に閉めています。これは、腰と肩甲骨の連動をつくっているのです。”
”そして、両脚の内腿と母趾の内側が床についた上体で床をこぐ・・・これは腰と仙骨をつなぐ関節と仙腸関節に弾力をつけることで体全体の連動をつなげる作業をしています。”
”つまり、仙腸関節を軸に二の腕と太ももを連動させているんですね。”
”ただ、大人になってからのずり這いは恥ずかしい以前に動きとして難しい点があります。(肩甲骨と骨盤の連動がとぎれていることが多いので)”
このメルマガを読んだ時は、そうだろうなぁ〜、と思ったものの、そこまで深くつっこまずにスルーさせてしまっていた。
が、双葉山の動き、なんだか関係ありそうな気がする・・・
と、まずは本物のずり這いをよく見てみる必要あり・・・
さすがYoutube、ぴったりの動画がありました。
正しいずり這いを教えて赤ちゃんのうちから体幹を鍛える、今やそんな時代?
https://youtu.be/paR2hRjd6P8 |
私も赤ちゃん連れのクラスをやっていたことがあるので彼らのずり這いはよく目にしていた。気づいていたのは、左右均等な形でやる子は案外少ないということ。大体左右どちらかの手足を主にして前進している。赤ちゃんの時にすでに体の癖はあるようだ。そして、赤ちゃんの母趾の強さは驚異的!
動画でも指摘しているが、結局大事なのは脇や腰で手足を引きつけること。手足主導で動いているのではない・・・
他のお座り動画やハイハイ動画も見たい。。。なんて衝動に駆られながら、とりあえず双葉山の動画に戻る。赤ちゃんのずり這いを見た直後に双葉山を見たらどう見えるだろう?
う〜ん、確かに、体の連動がさらによく感じられる。全身が一になる、周身一家、というのが、一つの岩や山のように一つ、というわけではなく、アメーバーのようにどんなに形を変えても一体化している、そんな風だ。伸び縮みがある。伸縮自在、これが柔らかさの正体なのかもしれない。筋肉を鎧のようにつけたボディビルダーの身体とは対照的だ。
ずり這い、やってみたら、右股関節の硬さがよく分かる。母趾と鼠蹊部の連動も良く分かる。腰は伸びて気持ちいい。股関節を開くためにやる腹ばいのカエルの形(平泳ぎの形)のストレッチは無理にやると股関節が悲鳴をあげるから、ずり這いでもぞもぞしながら身体全体を連動させてほぐしていくのがよさそうだ・・・家で人に見られないようにこっそりやるような練習かな。
2021/5/2 <双葉山 柔らかい腰が周身一家を作る>
20世紀の名力士、名勝負という動画があったので見ていたら、昔の力士のお尻、下半身のなんて美しいこと! 動物のようだ(といっても人間も動物だけど)・・・うちの猫が後ろ足で立ち上がった時の後ろ姿のよう・・・ と、目が釘付けになった。(https://youtu.be/tHL9efgqxbw)
腰が柔らかくて位置が高い。お尻にたるみがない。正中線を崩さない。
それがとても顕著だったのが双葉山。
後ろから見ると双葉山の腰(腰椎だけでなく脊椎全部)が小刻みに動いて畝っていて、正中線が崩れないように常に身体が微調整をしているのがよく分かる。このような広い意味での腰の柔らかさが太極拳で目指すところ。太極腰、と言われるものだ。腰が柔らかいからこそ正中線が通る=身体が”一”として機能する、分断されない。
なお、身体が柔らかい、というと180度開脚ができる、脚が高く上がる、身体を反らせる(ブリッジ)みたいなイメージを持つが、それらは柔らかいというより、開く、という言葉の方が適切なようだ。柔らかい、というのは肉がゴツゴツしていなくて微妙な動きができて粘りがある、そんな感じだ。アメーバー系?
「体操選手は身体は開いているが柔らかくはない、身体が開くと柔らかいは別物だ。」と師父から言われた時は一瞬驚いたけれど、言われてみればその通り。太極拳の練習だと、まず力を抜いて、「開」を目指す=「松開」:関節を開いて可動域を大きくする、ということだ。そのあと、第二段階目に「松沈」と重さが出て、そのあと第三段階目になってやっと「松柔」という柔らかさが出てくる。
上のような双葉山の身体や動きを見ると、本当に柔らかいなぁ、と思う。
←猫の下半身の踏ん張り そんなイメージ
そう見ると、以前ブログにアップした、下の二枚の画像、左の馮老師の後ろ姿は双葉山的。右の千代の富士は双葉山と対極的だ。
面白いので比較してみました。
双葉山の寄り切りと白鵬、千代の富士の寄り切り。
相撲の技について詳細は知らないのだけど、身体の使い方として全身が一になっているのか否かは比較してみると分かりやすい。
白黒写真が双葉山。紫の廻しは白鵬、灰色の廻しは千代の富士。
双葉山は全身丸ごと突っ込んでいってる。身体の伸びがとてもいい。
白鵬は上半身と下半身が分断されている。
千代の富士は筋肉をバランス良く(全て)鍛えたのか崩れがない。が、双葉山に比べれば伸びがないよう。(比較すると股関節や腰の開きが少ない)
こう見ると、松田晢博氏の『四股探求の旅』第二回”相撲は腰で取れ!”の中で、前傾姿勢に関して下のような指摘があることが納得できる。(月間『武道』2018年10月号51,52Pより)
上の左の図のように、全身の重さを丸ごと相手に預けながら中正を保つのが太極拳なのだが、一人で套路練習ばかりしているとどうしても右図のように折れた形になりやすい。腰が立たないので、下半身の力を腕に伝えられない。左図のような形を取れるようにするためにタントウ功があるのだが、この完成図にもっていくためにいくつかの段階を経る必要があるので最初からそのようには立てないのが実際のところ。一つの段階をクリアするごとに立ち方を変えていく必要がある。この微調整が難しい・・・ それは相撲界でも、そしてきっと武道界全てに渡る課題なのではないかしら?(ピアノ界でも似たような傾向あり) 大衆化すればするほど、単純な筋肉重視、力重視の練習になりやすいよう・・・