2021/10/30 <「膝を回す」時の『膝』はどこなのか?>
「もっと膝を回せ!」24式の第11式披身捶で師父に注意された。披身捶は腕、脚ともに内旋する動き。脚の内旋がうまくできていないのが膝の動きに表れていたようだ。
その後、脚の内旋を練習、細かく見てもらった。分かったのは右の胆経がうまく繋がっていないということ。節節貫通にはまだ時間がかかる・・・が、少しずつ完成形が見えてきた。
昨日は初心者の生徒さんがいたのだが、師父は彼女にも「膝を回せ」と言っていた。横でそれを見ながら、そもそも、なぜ動く時に膝を回さなければならないのか? とこれまで疑問に思ってこなかったことについて疑問が湧いた。
早速師父に質問。
すると師父は一言、「チャンスーのためだ」。
私が「チャンスーのためだけなのか?」 と聞いたら、「実践ではいつ膝を攻撃されるか分からない。膝を回していつでも躱せるようにする必要がある。それに膝が常時回せる状態になければ瞬時の方向転換はできない。」と師父は答えた。
・・・確かに、いつでも膝を回せる状態であることはとても大事。バスケットボール選手の動きを思い出しながら・・・納得。
その後、師父が別の生徒さんの膝を回す指導をしているのを見て、気にかかったことがあった。師父は「膝を回せ」と言って、その生徒さんの血海穴を押さえていた。
あら?膝って血海?
私は驚いたのだけど、たしかに、血海穴のある膝上の内腿を回そうとすると膝が気持ちよく回る。膝のお皿の位置を回そうとするとひっかかってうまく回らない(回しているつもりでもただ左右に行ったり来たりしているだけ)。私が師父に「膝のツボとして陽陵泉を使わないのか?」と念のために聞いたら、「膝を回す時には使わない」と言った。陽陵泉は膝のお皿より下にあるツボ。ここを回そうとしたら膝は回らない・・・
つまり、「膝を回す」と言っても、その『膝』が一体どこなのか? が問題。
『肩』といっても範囲がとても広いように、『膝』も範囲が広い。「膝を回す」と言った時に、通常私たちが意識するのは膝のお皿あたりではないだろうか? 「膝を曲げる」時もおそらく膝小僧あたり。
膝というのは大腿骨とスネの骨のつなぎ目。
骨のつなぎ目をドンピシャで意識する、というのは無理だから、少し上(大腿骨)か少し下(スネ)、もしくは少し前(膝の皿)を意識することになりそうだ。
膝の皿を意識して膝を回すと膝の後ろ側が回らないから膝全体がうまく回転しない。
スネ上のツボ(陽陵泉)を意識して回すと足首が固まって膝が回らなくなる感じ。
やはり師父が教えていたように、大腿骨上のツボ(血海穴)を意識して膝を回すと膝が一番よく回る。膝にかかる負担が少ない。そして、この時は、大腿骨が回るから嫌でも股関節が回らざるを得ない。足首もよく回って足裏に気が通るのが分かる。
膝を回すことによって股関節や足首に回転が連動するのは、大腿骨上のツボ、血海のラインを回した時 → 関節の連動、節節貫通が発生。チャンスー勁が可能になる。
膝小僧やスネの回転では節節貫通が起こらない(と言ってよいと思う。試してみてください。)
ここで、馮老師と陳小旺老師の二人の膝を比べてみる。
左側の馮老師は体重移動の時に膝のお皿より上、大腿骨上の血海穴あたりを回転させているように見えないだろうか?
それに比べ右側の陳老師の膝はほとんど回転していない。そして体重移動とともにダイレクトに膝のお皿に乗っていっている。特に左膝の負担が大きそうだ(左の股関節が開いていない)。
左は前の曲げた膝の負担を減らすための補助の一例だが、縄をかけて内腿を引っ張り出すことで膝への負担を減らしている。
内腿が伸びると股関節が開きやすくなり股間に伸びが生まれる(円裆)。
血海穴を意識的に動かそうとすると内腿、股間が活性化する。
早速私もそうやって練習しよう♪
と、立つ時や歩く時も血海を使うようにすると足裏と股の連関がよくなるのが分かります。
套路の時に意識し続けられるか・・・明日挑戦してみます。
2021/10/27
前回のメモの最後に陳小旺老師の写真を使ったところ数人の方から驚きの声を頂きました。
陳小旺老師は陳家溝の四大金剛の一人で現在の太極拳界のトップの座を占める方だと言っても過言ではありません。ただ、同老師が膝を痛めて手術をし一時その復帰が心配されたこともあったのは周知の事実。太極拳で膝や股関節を痛めて手術をしている老師は私が知っているだけでもかなりいます。養生、健康法として広まった太極拳ですがやり方を間違えれば体を痛める可能性がある。薬は毒にもなる。
同老師がなぜ膝を痛めたのかはその演舞を見ると納得できます。
”松”(力を抜く)とはどういうことか? ゆっくり動くのと”松”とは違う。
足裏まで気を落とすとはどういうことか? 同老師は膝で気が止まってしまってひざ下が固まってしまっているように見受けられます(結果として重心移動が不十分)。
ここからは独り言・・・
師がいるうちは師が問題点を指摘してくれるが、自分が師になってしまうと自分で気づくしかない・・・これほどの高手になると誰も指摘してくれない。自分の問題点を指摘されるといい気はしない、傷つく、腹が立ったりする。けれども、誰も何も言ってくれなくなったら気づかないまま脇道に逸れていくかもしれない。
私が理想とするのは、一緒に練習する仲間を作ってお互いにお互いを見て気付いたことをざっくばらんに指摘し合えるような環境を作ること。そのためには、”目”も養わなければならない。相手が誰であれ客観的に見られる目が必要だと思う。
2021/10/25 <内側→外形 脚を開くVS股を開く 脚の形>
街は面白いもので溢れている・・・
先週からメトロのホームに貼られているテニス選手のポスター。
太極拳の要領が浮かび上がる。
左の写真を師父に見せたら、「含胸が良くできている」、とコメントをくれた。
含胸をしないと足にしっかり気が落ちない。この選手はこれから重い球を打ち返すところ・・・しっかり腰を落として足裏に気を落とし、下半身の力で打ち返す。
含胸にしようとするなら下顎は収めなければならない。
含胸にして体内の気を上から下へと通していくと、順次、抜背→塌腰→敛臀、になっていく。
太極拳の外形の要領は内側の気の状態の現れ。
右側の選手、パッと見て、裆がよく開いてるなぁ〜、と思った。脚が開いているんじゃない。股の開きが良いのだ・・・これを太極拳では『円裆』と表現している。
両脚を開く VS 股(裆)を開く
股(裆)は胴体だ。股(裆)を開くということは胴体を開いている→丹田を広げて股まで落とし込む必要がある。
脚を開いても胴体は開かない。丹田には全く影響がない。
この選手のポスターでは脚の形に注目。
この股関節に対して、膝、足首の角度がピッタシ。だから足裏が地面に貼り付いている。
ひざ下、スネが真っ直ぐ。これが正しい脚の使い方。太ももの筋肉が上に引き上がっていて膝も引き上がっている。これが『松胯 曲膝』。その前提に 『提会陰』がある。
速く走ったりジャンプしようとすると会陰は引き上げざるを得ない。テニスの選手は『提会陰』を特段意識していないはずだ。
ゆっくり動いて力を出すような動作は踏ん張ったりきばったりして会陰を上げるのを忘れがちだ。力を出さずにゆっくり動くだけなら会陰は緩みがち。
太極拳の練習でゆっくり動く時は意識的に会陰を上げる必要がある。無意識だと下がりがち。
結果として太ももが引きあがらず膝に太ももが覆いかぶさるような筋肉のつき方になって膝を故障する。
下のようにテニスの選手の活きた脚を見た後で太極拳の脚を見るとどこか不自然。足裏に力が抜けずに膝に溜まりがち。これを回避するためにも上の含胸の要領はとても大事になる。(左端のテニスの選手は含胸がしっかりできている。右の二人は含胸、下顎内収が不十分含胸と脚、もしくは膝との関係についてはいつか書きたいと思っています。。)
2021/10/21 <手の冷えと経絡の関係 拍手功>
生徒さんの一人から冬場の屋外の練習で手が冷たくなるのをどうすればよいか?という質問をもらった。
師父に言わせれば、それは「督脈が通っていないから、すなわち、手三陰三陽が通ってないから」という。
タントウ功ではまず任脈・督脈という人体の大動脈(地球で言うなら0度経線と180度経線のようなもの?)を開通させ、その後、漸次十二経絡を開通させていく。
経絡は地球の経線と同じく縦線だ。
スイカの模様の方がイメージしやすいかも?
まずは真っ二つに割るような線(体の前面の任脈・背面の督脈)を通して、その後でその他の縦線を通していく。このような体のラインを通すために必要なのが内側の気だ。内側で気を流すことによってその圧力でラインを形成していく。気の流れる圧力が弱いと詰まっているところが開かない。だから丹田にできるだけ多く気を溜めておく必要がある。
丹田に集めた気の量が多くなれば(貯水池の水の量が多ければ)、それを一気に流した時に多少の詰まりは突破できて経絡の道が貫通する。
では師父がなぜ手の冷えと督脈を関連づけたのか?
それはその後の言葉、「手の三陰三陽」を思い浮かべると理解できる。
手には3つの陽の経絡と3つの陰の経絡が通っている。
陽の経絡は手の甲側、陰の経絡は手のひら側を通っている。
ここでは割愛するが、足にも同様に三陰三陽、計6本の経絡が通っている。
これら、手三陽三陰、足三陽三陰、6本づつの経絡を合わせて12経絡になり、それぞれ五臓六腑(プラス三焦)に対応している。
手が冷えるというのは手の経絡が通っていないということ。どこかに詰まりがあるということだ。が、そもそも手に問題があるというよりも、手に気が届く手前に問題があることがほとんどだ。
そもそも12経絡の流れというのは、肺経(陰)を出発点に、以下のような循環が想定されている。
肺経が手の親指末端に向かって流れ、その親指末端から隣の人差し指末端から大腸経が流れる→それから足の経絡の胃経(陽)で足の人差し指まで気が流れ、末端まで達したら→隣の親指から脾経(陰)となって体を上昇→そして手の心経(陰)で小指末端へ→末端で小指陽面に移って小腸経(陽)となって頭部へ→足の膀胱経(陽)で小指へ→足裏湧泉から腎経(陰)で上昇→手心包経(陰)となって中指末端へ→隣の薬指から三焦経(陽)で頭部へ→足の胆経(陽)で足の薬指末端へ→親指内側から足の肝経(陰)となって体中心へ→肺経へ・・・
知っておくべきことは、足と手の指先は陰陽の転換点になっているということ。指先はとても大事だ。
そして、手の経絡の流れは手の経絡だけで完結するわけではないということ。
手の陰の経絡が指先へと気を運び、手の陽の経絡が指先から頭部に向かって気を運ぶ。
上の12経絡の循環経路を見て気づくのは、指先へと気を運ぶ手の陰の経絡(肺、心、心包)の直前には足の陰の経絡が位置している(肝、脾、腎)。
即ち、足の陰の三経絡の力が弱いと指先に流れる気量が少なくなるということだ。
しかし、この足の三陰経絡が体を上昇していく力は、その直前の足の三陽(胆、胃、膀胱)の経絡がどのくらい頭部から足まで気を落とせるか、そのパワーにかかっている。
足の陽の経絡が勢いよく滝のように落ちればそれに続く足の陰、そして手の陰の経が重力に逆らって気を手に向かって流してくれる。パワーは陽面にある。太極拳の打撃でも陽の力が主流になるのはそのためだ。(病気を未然に防ぐのは陽面、背中。膀胱経が突破されると(寒気がするのはそのため)、次は胆経が頑張る(頭痛は鼻水)。これが突破されると胃経(お腹の調子が悪くなる)、いよいよ陽が突破されて脾や腎、肝とより内側の陰に入っていくと薬を処方してもらわないと治らなくなる・・・というのが中医学の考え方)
久しぶりに経絡のことを書いたので多少くどくなったが、言いたかったのは、手の冷えは手の問題ではない、ということ。気を溜めて気の量を増やすことに加え、陽の経絡の通りをよくする必要がある。しっかり足裏まで気を落とせるようにする。足が温かくなるようにする。足が温かければ手も温かくなる。女性は足首を冷やさないようにするのも大事(冷え性、婦人科系の問題・・・これについてはまた別の機会に。)
手の冷えと陽の経絡との関係は以上の通り。
そして陽の経絡の大元が背中側の督脈。だから師父は、手の冷えは督脈の問題、と言ったのだ。
そしてそれらの経絡を貫通させるのにとてもよい練習が拍手功。師父が毎日欠かさずやる練習だ。師父は本来の拍手功をアレンジして、手足同時に練習しているが、足の蹴りによって足の陽の経絡を刺激している(一方の足の甲の胆経で別の足の外くるぶし(膀胱経)を打っている)。
見た目ほど簡単ではないのですぐには真似できないかもしれないが毎日継続して少しずつ開発していくことが大事だと思う。
師父の拍手功、そしてその要点説明の動画を撮ったので参考にしてください。
2021/10/19 <調息と調身 額まで息を入れる>
今日54歳になった。
が、54歳直前の数日は散々だった。
まず家の高い棚に置いていた犬のケージを棒でつついて取ろうとして失敗、落ちてきたケージが額に直撃した。打撲は大したことがなかったが額が少し切れた。そして翌日は家の壁の修理で使った巨大な脚立が後方から倒れてきて振り返った瞬間に額に直撃。そのまま倒れてしばらく動けなかった。
二日続けて同じ額の右上を打撲、幸いその場所にある硬い骨が脳を守ってくれているから頭の中身には問題なさそうだが、もし後ろから倒れてきた脚立が後頭部に当たっていたら・・・と思うと恐ろしくなる。
事故って突然起きるんだなぁ。
不注意が原因、というのも事実だけど、仕組まれているような感もなきにしもあらず。業(カルマ)かしら・・・ 太極拳の範疇を超えた問題がちらつく。
怪我の後しばらくして痛みが減ってきたのでゆっくり歩いて公園に行った。一応師父には頭を怪我したことを伝えておこうと思った。他にも生徒さんがいたので、私は一人で少しだけ練習して帰ろうと思った。タントウ功がよいかな?とし始めて、いや、そのまま24式にしよう、とゆっくり24式を一通りやった。面白かったのは、その時タントウ功をしようと考えたのは私の頭(マインド)。額を打っているからあまり動かない方が良いと考えてタントウ功をしようと考えた。しかし、その直後、「いや、24式をやった方がいい」、と思ったのは私の体、あるいは私の頭(マインド)よりももっと内側にある私。こちらの声には理屈がない、ただ、その方がよい、と知っている。
案の定、24式をやり始めたら、体はいつもよりすう〜っと動いて頭に血が登らないような呼吸の仕方にしてくれた。呼吸の”勻”(均一性)が動作をすうっと、”結”(結び目、滞る箇所)をつくらないようにしてくれるのだと感じた。普段元気一杯の時にはそのような”慎重な”息遣いはしない。こんな息があるんだ、とまた一つ発見した。こんな動作をしたい、と思うとそれに従って息遣いが変わる。息遣いが変われば動作が変わる。息⇄動作。
息⇄動作、と書いて、気功の3つの側面を思い出した。
調息、調身、調心。
息と動作の関係は調息と調身の関係として表されているのだろう。
動作をゆっくりにすればいやでも呼吸はゆっくりになる。動作を速くすると呼吸は速くなる。呼吸をゆっくりにしたければ動作をゆっくりにすればよい。ただそれだけ。
もともとせっかちな私は、体の動きをゆっくりにせざるを得なくなって初めて呼吸がゆっくりになる。ゆっくりになると息が深くなる。酸素がしっかり取り入れられる。体の新陳代謝が良くなる、治癒力が高まる・・・
そしてもう一つ、この額の怪我で気付いたこと。それは、息が深く入るとそれは鼻から鼻筋→額の中まで入っていくということだった。息を深くした時に額が痛くなって気付いた事実。深い息は眉間まで入れる、と思っていたけれど、いや、本当は額から脳の中に息を入れていた。
「良い匂いをかぐように息を吸って〜」と指導していたボイストレーナーは(過去に動画を紹介しました)、息を脳まで入れるように指導していたんだ・・・ 匂いを嗅がして意識を失わせたりできるくらい鼻と脳は通路で繋がっている。しっかり鼻呼吸をするように、というのはそういうことかもしれない。
(よく観察するとわかるが)鼻から脳まで吸える時は、同時に鼻から会陰まで吸えている。つまり、太極拳で会陰まで気を落とす(=息をつなぐ)練習をさせるのは、それによって脳まで息が入るようになって全身が一つの息で繋がるするためだ。
この先、筋肉、骨の練習から呼吸の練習に比重が移っていくのかもしれません。
2021/10/16 <指の力を抜く 手指の放松 放松と歇>
この前套路を一通りやった後に、師父が私に「今日は雲手の時にさらに指の力を抜けることが分かった。」と言ってきた。私は、う〜ん、だから? と、どう反応してよいか分からずただ頷いただけ。そこからしばらくそのことが気になっていた。
「さらに指の力を抜ける」とどうなるのだろう? さらに指の力が抜ける、ということがなぜそんなに大それたことなのだろう? そもそもいつも「もっと放松しろ、もっと力を抜け!」と言っているし、指の力を抜く、というのも当たり前のことなんだけど・・・
そんな風に思いながら、夜ご飯の支度をしながら、包丁を握っている手の力を少しずつ抜いてみた。むむむ・・・包丁の柄を手のひらに密着させたまま力を少しずつ抜いていく・・・包丁が落ちないギリギリのところまで・・・すると肘の隙間、肩の隙間が生まれて力が丹田の方に逆流していく(集まっていく)。もっと抜けないか・・・と引き続き握力を小さくしていく・・・丹田(腹)に集まっていた気がさらに下に落ちていく・・・鼠蹊部やお尻の方の股関節の隙間を少し作ると気は足裏へと流れていった。ぎりぎりまでやれば、足裏と手のひらが合体するようだ(足裏が手のひらになる)。
そこでやっと師父が、「さらに指の力が抜けることが分かった」と格別なことのように伝えてきた意味がわかった。指の力をさらに抜くことができる、ということは、裏返して言えば、まだ節節貫通(周身一家)が完成していない、ということ。そして「さらに指の力を抜くことができた」というのは、節節貫通にさらに近づくための体の条件が整った、ということで、進歩している、という証だ。
ここで注意しなければならないのは、指(手)の力を抜く、といっても、それは指や手をぶらぶらにすればいいわけではない、ということ。本当に脱力してしまうのは”歇”と表現して”放松”とは違う。放松はいつでも力が出せる状態、車のニュートラルの状態でエンジンはかかっている。手指にエネルギーが通っている。”歇”だとエンジンがオフ 状態、手指にエネルギー(気)が流れていない状態だ。
左のような手タレの手は美しい(と言われる)けれど、内側のエネルギーが先端まで達して”活”(活き活き)していない。
これは太極拳でいう”放松”の手ではない。
”放松”の手指、というのは、職人、達人に見られる手指。
左は少し前に紹介したロストロポーヴィッチの手だが、手首が貫通して指先先端までエネルギーが伝わっている。指先から中心に向かって針金を通していったらどこにも引っかからずに腹まで、もしくは足裏まで貫通してしまうかもしれない・・・というのが大家、巨匠。
若いチェリストの手指を比較すると、これからまだまだ”力が抜ける”余地がある・・・上達の余地がある、のが分かる。
太極拳でもピアノでも習字でもお茶でも絵画でも、いや、日常生活のいかなる仕草、手指の使い方にその人の本質的なものが現れてしまう。
私はもともと力で無理強いしてしまうタイプだから、なおさら太極拳の練習が大事になっている。もともと力の弱い人は力を抜くことよりも気を通すことを心がけるとよいかもしれない。手がガチガチで強張っている人は手の筋肉をほぐす必要がある。どのタイプであっても、師父が毎日やるように勧める拍手功が有効だろう(目的意識が必要だと思う。無駄な力を削ぐ目的なのか、手に気を通す目的なのか、手を目覚ませて動き良くする目的なのか、毒素や邪気を排出する目的、など)
そして私が歩きながらできるとても有効だと思う練習かつ実験は、片手でスマホを握ったままその手の力を徐々にぬいていく、スマホを落とさないぎりぎりまで・・・
スマホを落とさないように徐々に握っている手の力を抜いていく。その時身体の中をよ〜く観察する。
力を抜いていくと手のひらがスマホの密着感が徐々に鮮明になっていく・・・これが『粘连黏随』の第一歩(仏教の五蘊の『受』の時点)。
この密着感を頼りにしてさらに手の力を抜いていくと、その抜いたエネルギーが手のひらから肘、肩に向けて動いていくのが感じられるのでは?その先、肩を突破できるか、そしてそれが胸から腹まで繋がるか、さらに下半身へと繋がるか・・・突っかかるところが課題の場所。
指も腕もアルデンテ状態(スパゲッティ、外が柔らかいけど芯がある状態)が放松状態なのかと思ったりする。内側の芯は気(エネルギー)だ。
2021/10/13
46式炮锤の中の『斬手』の中の動作の意味を教えてもらったのがとても面白かった。
とても太極拳らしい、見た目はなんてことない技。
師父は技とも言えない・・・と言ったけど、あの身体、放松して節節貫通した身体を作っていないと真似できない。私は左肩がひっかかってうまくできませんでした。
技の練習をすると自分の体のひっかかっている(貫通していない)部分が露わになる。さらに放松が必要になる、気を下ろすことが必要になる、と気づかせてくれる。
2021/10/11 <バランスVS 踏ん張る>
パリの地下鉄(メトロ)はガタガタと揺れる。
今日メトロに乗っていたら、前に立っていた二人の女の子(姉妹)がそんなメトロの中で手放しで立っていられるかどうか試していた。
←(こっそり撮影)
右側に写っているお姉ちゃんは真剣モード。中腰になってしっかり踏ん張っていた。
左の妹ちゃんはあまりやる気がなくて、突っ立ったまま。私がシャッターを押した時にはもう面白くなくなったのか手すりに体をつけてしまっていた。
写真では分かりにくいかもしれないが、二人の立ち方は対照的だった。
そしてお姉ちゃんは必死に倒れまいと始終踏ん張り続けていたのだが、妹ちゃんはというと、ただ普通に立ったままでほとんどバランスを崩すことがなかったのだ。
私は面白いなぁ〜、と思いながらそんな二人を見ていた。
お姉ちゃんは中腰になって重心を下げた”構え”をとっていた。身体を固めていた。
妹ちゃんは身体全身でバランスをとっていた。頭のてっぺんから足裏まで、全身のセンサーを働かしていた。
絶対に揺れまいとするお姉ちゃんと、多少ゆらゆらしながらバランスを取り続ける妹ちゃん。
ここにも太極拳の正解と誤解が見てとれるようだ。
バランスを取る(軸を通す)には体は伸びている必要がある。中腰になって体を固めてしまうとバランスを取る感覚(軸の感覚)は失われる。
が、身体が伸びきってしまうと軸は通らなくなる。伸びきると身体は硬直してしまう。
伸びきる手前、縮みの兆候のあるマックスの伸び、の時にもっとも良く軸が感じられる。
左の太極図の真上てっぺんがそんな位置だ。(季節でいうなら夏至か?)
この太極図の中でのマックスの伸びの時、即ち、ほんの少しだけ関節を緩めたほぼ直立姿勢でまずは軸を通す。バランスを取る。頭から足裏まで、全身のセンサーをオンにする。綱渡りをするなら? とイメージすれば上の妹ちゃんのような姿勢になるだろう。
軸を通してから重心を下に下げると揺れにさらに強くなる。
股関節や膝を曲げるのは軸を通してからだ。
軸を通さずに股関節や膝を曲げると身体は”縮む”(合)のではなく硬く固まってしまう。曲げた関節の弾力性が失われてしまうからだ。
関節は”緩める”からこそ伸縮性、弾力性が出る。これが身体全体の伸縮(太極拳用語では開合)になる。
軸を通した後重心を下げようとする試みが丹田に気を集めていく動作になる。腹から骨盤へと気を下ろして集めるとただ軸を通した時よりもさらに身体が安定する。ふらふら感が減っていく。
伸びた身体を縮めるような方向に進んでいくが、どんなに丹田に気を溜めて身体を小さく纏めようとも内側での伸びは失われない。合(縮み)の中に開(伸び)あり、になる。
身体中の気を丹田に集結させた状態は上の太極図の真下の点、合(縮み)の極まった点だ。この丹田の気を頭頂⇄足裏まで広げると、太極図の真上の、開(伸び)の極まった点になる。この開合の反復を繰り返せば繰り返すほど、太極図の円自体の大きさが大きくなっていく(気の量が増える)のだと思う。
上の写真の妹ちゃんはまだ”力を入れて踏ん張る”ということを知らない年齢。筋力もなくただバランスだけで立っている。筋力のついてきたお姉ちゃんは、すかさず力で踏ん張って重心を下げようとした。が、全身のセンサーでバランスを取ることを忘れてしまったので重労働を強いられていた。”構え”た時点ですでに硬直している。だから師父は太極拳に構えなし、と言ったのだと今更ながら納得。
ここから先、バランスをとったまま重心を下げる、という道を選べば、力を抜いて丹田に気を集める、という太極拳的な方向に進むだろう。
バランスを取る、ということを忘れてしまって、ただ力に頼る道を選んでしまえば重力に引っ張られ軽妙さ、巧妙さ、”妙なるもの”とは無縁になるだろう。
<追記>
(例えば平均台に乗って)バランスを取ろうする自分をイメージすると、そこには一瞬息を吸って自分の体を広げようとする自分がいる。水中で浮こうとする時も息を吸って体を膨らましている。
一方、力を入れようとする時、力で踏ん張ろうとする時、そこには息を吐き止めている自分が想像できる。
無意識に行う呼吸、息が身体の状態、使い方に大きく作用しているのに気づくことが多くなりました。
2021/10/8 <内側の蠕動と外側の収縮>
そういえば数日前に師父が、「運動には一般的に行う身体を動かす運動の他に"ルー動"というのがある。実はこの"ルー動"がとても大事だ。我々が内功で行なっているのは実はこの"ルー動"運動だ。」と言っていた。 "ルー動(rudong) ?”・・・漢字が分からなくて意味不明のまま話が流れてしまっていた。
昨日、実はすべての運動は伸縮運動に尽きてしまうのではないか? と思ってメモを書いた。そして今日、師父に私の図を見せて私が書いた内容を説明した。師父は、ふんふんと頷いて聞いてくれていたが、突然私の頭の中で、あの”ru動”という言葉は”蠕動”に違いない、と閃いた。なぜなら、伸縮運動の原点は蠕動に違いないから。それを内功で練習している、といっても不思議ではない。
師父に、「蠕動」と言う0言葉を見せて、この前私に説明していたのはこのことか?とすぐに聞いた。師父はその通りだ、と言った。
Baidu(中国の検索サイト)で『蠕動』と調べると下のような画像が出てくる。
ウィキペディアでの『蠕動』の意味:
「蠕動は、筋肉が伝播性の収縮波を生み出す運動である。 蠕虫などの体壁筋や、動物体内の消化管などの中空器官で行われる。前者では動物体の移動のため、後者では内容物の移送のために行われる。 」
つまり、蠕動が見られるのは私たちの消化管:食堂や胃、小腸、大腸の動き、と、ミミズ系の動物の動きということだ。
消化管はミミズのようなもの? 私の体の中には巨大なミミズを飼っているようなものだ・・・そのミミズが元気だと内臓が元気、つまり健康、ということになる。この体内のミミズが元気がなくて蠕動が少ないと、不健康、になる。
そして内功は、このミミズの蠕動を誘発しているようなもの。だから師父は一般的な老師よりも多少くねくねと動いているのだ・・・太極拳の技をかけるときなどは全くくねくねせずにとても硬質なのに、練習の時はえらくくねったりする。套路でもわざとくねらせたりする。それは”蠕動”を誘発させていたんだ・・・ と初めて理解できた。
そして、蠕動が「筋肉が伝播性の収縮波を生み出す運動」という点は、太極拳での力の伝達方式に合致する。”伝播性の収縮波” ・・・収縮の波が次々と伝播していく・・・だから、ギュッと力をこめたり、このやろう!と拳を強く握ったりしないのだ。どこもかも力を抜いて波動が自分の中を通り抜けるようにする・・・と頭の中で次々と理屈がつながっていく。
←模式化した消化管の蠕動https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A0%95%E5%8B%95
”力”と”勁”の違いをわかりやすくいうと、”力”は動作を止めてもそこに止めておけるが、”勁”は動作を止めた途端消えてしまう。(外側を静止させても体の内側で勁を流すことはできるが、そのためにはさらに、そしてさらに、外側の力を抜いていく=動かす、必要がある。)
太極拳で使われる”勁”が、左の模式図で示されるような”伝播性の収縮波”=蠕動の類だと考えると、上のような力と勁の違いも納得がいく。
↑ なんかとても面白い。
消化管はこんな風に動いているのかと。血管や気の通る道が蠕動運動をするのかどうかは定かではないが、たとえ管や通り道自体が蠕動運動をせずとも、それを取り囲む筋肉の収縮運動がなされているだろう。蠕動運動が活発だと通りがよい 新陳代謝も良いだろう。
ともあれ、私がイメージ的に捉えたのは、伸縮運動の原点に蠕動運動があるのではないかということ。内側の蠕動運動は外側の伸縮運動になって現れる。カエルのジャンプ、猫の疾走、赤ちゃんのくねくねや伸び、若者のHiphop、いたるところに伸縮運動が見てとれる。私たちの直立歩行もカエルのジャンプ、伸縮運動の延長線上にあるはず・・・子供の頃の私は歩いている時でも跳ねているようだと言われていたのを思い出した・・・跳ねていたんだ、昔は。足を引きずるように歩く頃には内臓の蠕動運動も減っているんだろうなぁ。逆に言えば、内側の蠕動運動が活発だと足取りも軽くなるに違いない。内功、そしてタントウ功は内臓の蠕動運動を活発にするのに最もよい方法(外側を激しく動かしていると内臓は活発には動けない)・・・練功をする時の意識がまた変わりそうだ。
2021/10/7 <伸縮運動に尽きる>
今日の套路練習中、左右の重心移動をしながら、あれ、カエル?、と思った。
それは、例えば左から右に重心移動する時に、”左足踵が地面を踏み込んでその力(地面からの反発力)が足から胴体に向けて伝わっていく”のではなく、”胴体が右に移動しようとする時に左腹がポンプとなってそれまで曲げていた左脚の関節(股関節、膝、足首)が順次押し伸ばされていく”ような様だった。
左はよく見かける太極拳の移動のイメージ。
上半身は真っ直ぐ、下半身で動け!と言われるので、下半身が荷車として動いて上半身がその上に乗った荷物のようになっている。
こうすると上半身の力が抜けて『上虚下実』になっていると思いがちだが、実は、下半身の荷台が動くのに伴い上の荷物(上半身)は崩れないように頑張らなければならない。結果として上半身はギュッと硬くなってしまう。これは太極拳の言う所の(中医学が言う所の)『上虚下実』ではない。
右は上半身の気を腹に落として圧縮した上で(丹田を作る)、動く時には、その圧縮した気をお尻、太ももに向かって注ぎ込む。するとまず太ももが伸び、そして脛が伸び、足首が伸び、脚がバネとなって地面を押すことができる。このままビョ〜んと飛んだらカエルのようだ。結局、縮んでいたものを伸ばすのにエネルギーが必要だということでは? 伸ばしていく時に脚は突っ張ってる力が必要、それに伴いもう片方の脚は曲がっていく(縮んでいく)。縮むのは放松だ。 乳母車に乗った赤ん坊を見ていても、普通は腕や脚が曲がっていて、力を出した時(発勁した時)は手足を伸ばして突っ張っている。腹のエネルギー(気)を伸ばす力、突っ張る力として使っている。力を抜けば(腹にエネルギーを戻すと)また腕脚は縮む。
ヴィパッサナー瞑想をすると、身体の動きは究極的には伸び縮みしかない、と分かる、と聞いてはいたけれど、歩くのも実は伸び縮みだった。発勁も縮めたものを伸ばす動作。身体を五弓だというのも伸び縮みを前提にしている。太極拳が最終的に得ようとしている運動の質は弾性だ、という時の”弾性”は他ならぬ”伸び縮み”でした。当たり前のことなのに、なんだかとても新鮮に感じた今日の気づき。
思わずカエルのジャンプを超スローで見てしまいました。
飛ぼう!と思った時に、まず頭から飛んでいってるように見ることもできるし、足裏から飛んでるように見ることもできなくもない。
太極拳で言う『梢節領 中節隨 根節催』というのがこのカエルの状態を示している。
ここでの梢節は頭部。頭部が動きをリードする。真っ先に動く。
中節、胴体・腰、は”随”う。空だ。
そして根節が足。これが”催”(急き立てる,促して始動させる)、力を与えて動きをもたらす部分だ。(力は踵から、というのはこの根節の働きを表現した言葉だろう)
つまり、末端から根っこまで、すべてが一体にならないと伸縮運動はできない、ということだ。下半身だけで飛ぶのは無理だ。バスケットボールで空中で少しでも長く止まりたい時に「相手よりも先に落ちない、という気持ちでしがみついている」と答えてくれた人がいたけれど、そういう人達はジャンプが脚力だけでないことをよく知っている。
下半身を荷台にしてしまうと平坦な動きしかできない。上半身という重い荷物を持って動き続けたらいつか下半身が悲鳴をあげてしまう。老人が股関節や膝を痛めるのは下半身が弱くなるから、というよりも、上半身の気が減って重くなるから。まさに下半身に乗っかる荷物のようになってしまうからではないかなぁ? 上半身は気を蓄えることで浮かびやすくなる=伸縮がしやすくなる。水中で浮かぶような身体をイメージすれば分かるが、それには息(気)をいっぱいとりいれる必要がある。
この下は8月のメモで使った画像。肩がうまく使えている人といない人と・・・肩甲骨が先に動いて肩が動き終わった後に二の腕が動くのか、肩甲骨が動く前に腕が動いてしまっているのか・・・そんな観点で比較することができる。
最初の2枚、馮老師と劉師父は体重移動とともに胴体が膨らんで肩の靠→肘(の靠)→手首→手(同時に下半身は胯の靠→膝(臑)の靠も可能)と技が繰り広げられる。
その他の老師たちは、腕だけ、手だけ開いている。
胴体の膨張=気の膨らみ=”開” がベースとして必要なのも見て取れる。
2021/10/6 <五弓ではなかった>
9/30に紹介したチェリストの話には重大な訂正点があります・・・
あのメモでは、若い黒人チェリストの後ろ姿を見て肩がよく開いていること、肩甲骨と上腕が一体化していることを書きましたが、実は、私の頭の中にはずっと一つの疑問点がありました。それは、彼のチェロの音量が思いの外小さかったこと。私はオーケストラの後ろの席で聞いていたのでチェロの音が小さいのは仕方ないと思っていたのだけど、後で前方の席に座って聞いていた人の話を聞いたら、やはり音が小さかったという。「とても上手なのに音が小さいのが残念。」そう言っていた。
あんなに身体が大きく肩が開いているのになんで音が小さいのだろう?
疑問に思った私は家に戻ってから彼の演奏を前方から撮った動画をいくつか見てみた。弓の当て方、引っ張り方、圧、がいまいちなのかしら?指先の力が足りないのかしら?ひょっとした楽器自体の問題? などいろいろ考えたのですが、最後は、チェロの巨匠、ロストロポーヴィッチと比較してみよう! とロストロポーヴィッチの演奏を見て、あ〜、若い彼は『五弓』になっていなかった、ということに気づいたのでした。
翌日、練習の時に師父に二人の動画を見せて、なぜ若者のチェロの音がオーケストラに負けてしまうのか、巨匠のように音が大きく通らないのか、と意見を聞いてみた。師父はクラッシック音楽のことは全く知らないが、演奏者の形からその良し悪しは判断できてしまう。
師父は一眼みて、「これはとても簡単。この巨匠は全身が丸ごと一つになっているが、若者は顎が上がって背中が弓になっていない、全身が一つではない。確かに肩は開いているが、下顎が内収していないので(背中が弓にならず)力が散ってしまっている。」と即答した。
背中の弓は、背骨の先端から先端まで、すなわち、頚椎の一番(もしくは延髄)から尾骨の先端まで、これが弓状になっていること。下顎が上がっていると、頚椎と胸椎が断絶してしまう。頭のてっぺんから力を下向きに流すことができない。手足に流れる気の量は激減する(下顎が上がると沈肩もできなくなる→気を丹田に向けて押し下げることができない。)
<参考 身体の五弓> 左図https://www.sohu.com/a/425041240_166622
なぜ身体を”弓”として捉えているのか? それは、矢を射るために矢を弾く時、弓が撓んで弧状になるが、この状態はいつでも矢を放つことのできるようなエネルギーを蓄えた状態だからだ。太極拳的に言うと、いつでも発勁可能な気(エネルギー)を蓄えた状態(蓄気)になっている、ということだ。
だから、ただ背中が丸いだけでは”弓”とは言えない。矢を放てるような背骨ではないからだ。太極拳の究極的な力が”弾性”だというのもこの”五弓”の表現に現れていると思う。
そしてチェリストの話で気づいたのは、五つの弓の中で中核となる背骨の弓は下顎の操作によってその弓のしなりの強弱まで決めてしまう。というのは、下顎の操作で鼻からはいった息がどれだけ腹底まで届くかが変わってくるからだ。発勁の時に舌を下顎(上顎ではなく下顎)の方に押し付けて「ハッ!」というのも息を一気に腹底に押し込んで背中の弓を一気に放つためだ。弓は息の道を外から見た表現だ。
ここで上の二人のチェリストの姿を画像で見るとその違いがわかると思う。
(二人の動画の冒頭だけでもその音質、音量、迫力、緊張感、気場の違いよくわかります。巨匠は巨匠だと分かる。https://youtu.be/nJSlmoXpzfM (ロストロポーヴィチ)https://youtu.be/7kIacmJ_eRc (シェク)
どの世界でも巨匠と呼ばれる人は”酔わない”。下顎を引いて目は鼻先方向を見るよう・・・これは半眼の要領だ。こうすることで息が鼻筋のてっぺん=眉間まで入るようになる。すると鼻筋が真っ直ぐ、正しくなる。ピアニストのホロヴィッツも上のロストロポーヴィチと同じような姿勢だ。
最近のクラッシックの演奏家はパフォーマンス重視で頭を振ったり上を仰ぎ見たりオーバージェスチャーで演奏する人が多いが、それは聴衆が耳を澄まして”聴く”のではなく、”見て”楽しむようになったからかもしれない。大衆化するに従って誰にでも分かりやすいところでアピールするようになるのは太極拳やクラッシック音楽だけではないだろう。鑑賞する私たちの見る目、聞く耳を磨かないと奥の深い真理に迫る芸術が脇に追いやられて分かりやすい表面的なものばかりが残ってしまう可能性がある・・・と思ったりするけれど、いや、いつの時代も本物を探す人たちはいるはずだから大丈夫、かな。 若い芸術家を育てていくのも年配の観衆の役目かもしれない。
ところで、下顎を引く(内収)ことは含胸に直結する。下顎を引いた時に喉を開くことができるかどうかがキーになる。このあたりは最近のビデオレッスンで少し教えたばかり。また書ける時に書きます。
2021/10/2 <脇下の伸び>
昨日のメモでうまく表現できなかったことを動画で伝えられないかと撮ってみました。
上腕と肩甲骨が一体化して動く、ということは、腕が胴体化する、ということ。
腕が胴体化する、ということは、腕と胴体(肩甲骨)をつなぐ複数の関節が関節として昨日するということ。
関節が関節として機能する、ということは、そこに”隙間”ができるということ。
隙間は伸縮可能な場所、そしてエネルギー(気)の貯蔵庫。力を出す時(発勁の時)のエネルギーの伝達を可能にする。
”胴体化した腕”を一旦肩から切り離したように使う、と表現したのは、腕と肩甲骨のつなぎ目の関節を機能させるように使うと肩から腕が外れてぶらぶらになったようなそんな感覚があるからだ。本来腕はそのぐらい肩からぶらぶらと垂れ下がっているのだろうが、成年になる頃には肩甲骨周りの筋肉の硬直によって肩と腕のつなぎ目(関節)が自由に動かなくなっている場合がほとんどだ。(下はヤマシタ整骨院院長ブログより。https://yamashita18.com/blog/archives/2328 肩甲骨のありさまが分かりやすく説明されています。)
上の模型図を見て分かる通り、腕は胴体よりも後方に落ちている。このポジションが本来の位置。日本人はほとんどの人が前肩だ。
漫画、イラストの世界では当たり前。
左はhttps://www.clipstudio.net/oekaki/archives/151546
この男性の腕も胴体より後方にある。というのは、肩が落ちて開肩甲骨がちゃんと機能しているから(肩が開いている)。
すると自然に脇下の赤点線のラインが出てくる。
お腹が飛び出ないようにするには腰に力が必要だ。
膝はちゃんと収まり脛が伸びる。
スーツは男性の体を最も美しくみせる服だと言われるが、スーツの仕立てでとても大事なのが肩と脇ラインの作り。日本の政治家などが着ているスーツは概して寸胴で色気がないが、イタリアやフランスで男性が着ているスーツには脇ライン、ウエストの曲線があって色気がある。曲線は伸びがある。
太極拳にそんなことは関係ない、と思っていたけど、いや、私が見た生前の馮老師、そして師父も肩や脇ラインに伸びがある。ちょっとした色気がある。
上のイラストを見てから下の写真を再度見ると、馮老師の体の”色気”が感じられるのでは?(逆に、他の老師達は脇ラインに伸びがない=体に伸びがない)
左は師父の退歩圧肘の発勁。
ここでも脇下ラインの伸びがよく分かる。
脇下ラインの伸びはそのまま足までつながっていく。
主に胆経のラインだ。
少し話がくどくなりましたが、下に肩と腕と脇についての私なりの説明をした動画を貼ります。
タントウ功についても多少触れています。参考になればよいと思います。
2021/10/1 <肩甲骨と上腕の一体化と分離>
チェリストの後ろ姿ばかり眺めていたせいで、人の後ろ姿、肩甲骨に目がいってしまう。
先週、リューをする時に重心移動の初めは腕は動かさずに肩(胴体)で引っ張って、これ以上動くと肩から腕が引きちぎれてしまう〜、くらいになって初めて腕が引っ張られるようにすると相手の根(足元)が引き抜けて簡単にリューができることを教わった。(文章で説明できるのか?)。この時ちょうど合気柔術をかなりやり込んでいる日本人の生徒さんがいたので、師父の説明を翻訳してそのようにリューができるかどうかやってみてもらった。彼が私の腕をリューする間、師父が彼の腕と肩を引き離すように引っ張る。すると不思議、彼が重心移動するに伴ってなぜか私の足がすくわれてしまい、その後簡単に引っ張られてしまう。腕が引っ張られる前に足がすくわれる、だから”巧”。力ずくで引っ張るのでは美しさがない・・・が、その合気柔術の彼は師父の補助でうまくリューができたのだけど、その瞬間、脇の筋肉が攣ってしまった。使ったことのない部位の筋肉を使った〜!と彼。
巧みで美しい技の裏にはそれを可能にする身体の創りがある。普通の人が使わないようなところを使う、それが太極拳の練習の核心。
上のリューの時の腕と肩の境目がぎりぎりまで使われている様は左の師父の動きで分かる(かもしれない)。
そして下の画像はリューで師父の肩甲骨と腕が一直線になったのがはっきりわかる時点を切り取ったもの。
二の腕の骨が肩甲骨の延長線上にある。
太極拳で目標とする動きはこのような二の腕と肩甲骨の一体化(ゼロポジションはその中の一つの局面、スキャプラープレーンという概念が太極拳の上肢の動きを示すのか?)を維持して動き続けることだと思うが、それができる老師は中国でもかなり少なくなっている。
肩の張り出し感が後ろから見るとわかると思う。
肩を開発すると下に示されているような肩甲骨のツボがどれも意識的に内側から動かすことができるようになる。肩甲骨の上縁にあるツボたちは特に『沈肩』の時に使うし、グリーンの丸で囲んだツボは左のリューの時に特によくわかるツボだ。
ちなみに、肩甲骨の中央にある”天宗”のツボが意識的に使えるようになると(意と気が通ると)、肩甲骨から腕が出ている、背中から羽が生えている実感が持てるようになる。6番の臑兪が意識的に使えるようになると腕と肩甲骨の引っ張り合いが実感できる。推手でもここが使えるか否か大問題で、腕が切り離れないと太極拳の多くの技が使えない(腕で力づくで引っ張ったり、相手の腕を外そうとしても力がバッティングしてしまうから)。 これらの重要性を知ると、タントウ功や動功、内功の仕方がまた変わってくる。
下の師父の後ろ姿で肩甲骨を見ると、どれも肩甲骨と二の腕が一体化かつ分離することが分かる。(一体化しているから分離させた時に発勁ができる、もしくは分離して相手に腕を”与える”ことができる。)
この下は8月のメモで使った画像。肩がうまく使えている人といない人と・・・肩甲骨が先に動いて肩が動き終わった後に二の腕が動くのか、肩甲骨が動く前に腕が動いてしまっているのか・・・そんな観点で比較することができる。
最初の2枚、馮老師と劉師父は体重移動とともに胴体が膨らんで肩の靠→肘(の靠)→手首→手(同時に下半身は胯の靠→膝(臑)の靠も可能)と技が繰り広げられる。
その他の老師たちは、腕だけ、手だけ開いている。
胴体の膨張=気の膨らみ=”開” がベースとして必要なのも見て取れる。
下の空手のサンドラ選手と清水選手、卓球の孫選手と伊藤選手にも同様の違いがある。
肩の張り出し、これがないと全身が丸ごと一つにならない。
最後のそして馮老師と他の老師たちの違いも肩甲骨と腕の一体感にあるが、これは脇のライン、脇にちかい肩甲骨のツボ(肩貞)を見るとよくわかる。
馮老師の場合は脇のライン(赤線)が肩になってしまっている。肩が脇から腋下を通って二の腕につながる。肩貞のツボ(肩甲骨の下縁の外端)を”肩”だと意識できるようになれば肩の認識革命が起こる。腋が肩になると、二の腕は腋→脇→骨盤外側→足へ、とつながる。主に胆経ラインだ。腕と胴体を繋げるには必須の経。
オレンジ色の服の老師は肩は張り出ているののだが、腋が甘いから二の腕と脇(体側)が繋がっていない。下半身は股関節から下は繋がっているようだが、股関節と肩関節が連動していないから身体が落ちてしまっている。
真ん中の女性の老師はそもそも丹田に気を溜めていないから肩も股関節も活性化していない。推しても力がないし打たれても痛くない、パワーがない。放松するのはパワーをつけるためだったはず・・・ パリの公園で幽霊のような太極拳をする女性を見かけたことがあるけれど、そのような人の持っている太極拳のイメージは幽霊、いや、天女なのかもしれない。
今度はパワーについて何か書けそう。