2021/12/31 <血海穴を膝として使う効用>
12/28の動画「血海穴を膝として使う効用』(https://youtu.be/xHRYB5YH2fk)に簡単な見出し字幕をつけました。
以下、動画の見出しに沿って補足説明します。
①血海穴の位置
右の画像を参考。
血海穴は脾経上のツボ。
血の海という通り、血、女性の生理と関係が深い。「男は気、女性は血」、気血のうちの「血」。
足の親指、内くるぶし、ふくらはぎ、太ももの内側。衰えさせたくない部位。
女性は特に注意。
②血海穴を使う感覚を掴む
両足を揃えて立ち、太ももをわずかに内旋させる。膝が上に持ち上がるような感じになる。
③前屈で違いを確認
パリでのロックダウン中に昨日紹介したヨガの先生(ヴィシュワジ先生)のオンラインクラスを受けたりしていたのだが、その中で前屈をする際、まず、(1)揃えた両足のつま先を少し上げてから下ろして"happy toes"にし、(2)太ももを内旋させてタイトにする 、という注意があった。私は何のためにそんな指示をしているのか分からないまま真似をしていたのだがずっとその指示が疑問として残っていた。
その後、太極拳の練習で師父に血海のツボを使え、と言われそう練習していたら、ああ、あのヴィシュワジ先生のあの前屈の時の指示はそういうことだったのか〜、と気づいたことがある。太極拳でもヨガでも、マスターは同じことを言っていた。全身の関節をつないで勁を貫通させて動くのだ・・・
血海穴を入れて前屈するだけでも、その感覚が少し味わえる。入れずに前屈と入れて前屈、全身のつながりが全く違う。もちろん、太ももを内旋させて血海穴を入れて前屈した方が深く前屈できる(し、気持ちいい)。
④屈伸で違いを確認
動画でやって見せている通りだ。
太もも内旋で血海穴を入れてしゃがめば自動的に足裏が地面を蹴れる、いや、蹴れるというより反発力が出てしまう、と言った方が正しいかもしれない。跳ねれる。蹴らなくていい。
身体にチャンスーがかかると自然に跳ねられるようになる。血海穴を入れて脚に螺旋を描かせるだけでもそれが少し分かる。全身に螺旋がかかれば・・・足の反発力は半端ない、と想像できるのでは?
⑤両足を開いた状態で確認
<年を越えました。続きはまた書きます・・・>
2021/12/30 <松と勁 松の前提条件>
動画の説明をしようと思ったのだけど、後回し。
今日頭に浮かんだ教訓を忘れないうちに書いておこう。
『太極拳は松に始まり松に終わる』というのは馬虹先生が初めて言った言葉ではなく昔から言い伝えられている言葉。それほど、”松”(力を抜く)というのは太極拳の核心になっている。
が、これがなかなかの曲者。
私たち人間は生まれてからずっと”力を入れる”ということを教わってきたのだ。急に、”力を入れるな”と言われても・・・まあ、なんとなくぶらぶらやってみる、くらいのことしか最初はできない。
けど、あまりにもぷらぷら、ぶらぶらやっていると、それはそれで”松”ではなく”歇“(お休みモード)だと叱られる。”没勁”(内側の力がない)と言われるのだ。
”松”とは、「外側の力は抜いているけれども、内側の力(=勁)はある状態なのだ」と頭の中で整理する段階がくる。
それが、「いや、外側の力を抜くから(松するから)、内側の力(=勁)が現れるのだ」という理解に変わるのは、”勁”がはっきり感じられるようになった段階。松をしないと勁で動けない、松しないで動くということは筋肉に頼って動くことなのだ、と分かるようになってくる。
そこまで”分かって”も、練習中は「もっと”松”しろ!」とか「上半身の”松”が足りない!」とか言われ続ける。そう言われてもどこをどう抜けばよいのか分からない。松の正体が分かることと、実際に身体の隅々まで松できるか、というのは別物。ここからは私の場合。”勁”を頼りに練習してきた。
勁が通らない箇所に気づいてその箇所の勁を通そうと試行錯誤すると、別の箇所の”松”が足りない、松ができていない、ということに気づくのだ。ある部分の勁が通らないのは別の部分の松ができないから。その部分の松ができるとある部分の勁が通るようになる。
実際、師父や馮老師などがやっている内功は外から見ると何をやっているのか分からなかったりする(実際に馮老師が一人で内功している姿を目撃した人はそのように言う。生徒さん達に教えるものと全く違うのだ)。それは内側の勁を通していく作業で、身体の中に通路を開通させることだ。これは多くの人が分断された”力”を使うのと一線を画する方法で、より洗練された力の使い方、世の中の”達人”と呼ばれる人たちが意識的、無意識的にやっている体の使い方だ。
そして今日、改めて認識したのは、「松できるには、松できるだけの体のアライメントが必要」ということだった。身体には身体の知恵、安全装置がある。例えば私が、「膝の力を抜こう」と思っても、身体の方で「今膝の力を抜いたら姿勢が崩れてしまう」と思ったら、私がいくら力を抜こうと思っても力は抜けないのだ。その部分の筋肉が緊張していて松できないのは、そこが松した時に姿勢を保てるだけの他の部分の補完的機能が期待できないからだ。
整理すると、松は勁の前提条件で、勁を探ることで松せざるを得なくなったりもするけれど、松、それ自体にはそれを可能にするための体全体の補完性、協調性が必要だということ。身体全体の補完性、協調性は、身体のアライメント(骨組み、筋膜のつながり、経絡など)がガイドになるだろう。
ただやみくもに”松”しようとしてもうまくいかないのはそんなところにあるかと思う。
下はAkhanda yoga ヴィシュワジ先生によるdownward facing dogポーズ。
そしてその下は画像検索で探した同じポーズ。
このポーズは肩の柔軟性が極めて高くないとできないとヴィシュワジ先生は言うが、先生とその他の画像を比べると、先生の肩の柔軟性はその腰、お尻、脚、首、すべてとつながって成り立っているのが分かる。例えば、下の一番右の画像の女性だと、腰、仙骨の柔軟性が協調していないから肩甲骨の柔軟性も足りない。このままむりやりお尻を引いていったら腕が外れてしまいかねない・・・としたら、身体はこの位置でロックをかける。これ以上肩は緩まない。下画像一番左の女性もこれ以上肩を柔軟にするなら、仙骨をヴィシュワジ先生のように柔軟にする必要がある。それなしに肩だけ引っ張って伸ばすと、これも腕、肩を炒めることになる→身体はロックをかけてそうさせないようにする。
身体の防御反応を引き出さないような身体の全体的な環境が必要。
これは太極拳やヨガに限らず、日常動作、ただの立ち姿、座り姿を含めて、全ての体の操作、姿勢に当てはまること。
だから、股関節ができたら、腰、腰ができたら、肩、とは練習できない。常にぐるぐる少しずつ練習せざるを得ない。ぐるぐるといろんな箇所の”松”を少しずつ何循環もさせて行うような練習になるということです。循環自体が太極拳的です・・・
2021/12/28
今日撮った動画3本。 説明は後日書きます。
2021/12/26 <『左顾右盼』での脊椎の回旋>
今日のレッスンはとても良かった。私も十分学べた。
今日は寒波で気温が低かったけれど、御苑の芝生では陽光を浴びてとても快適に練習できた。冬でも日焼けを気にしなきゃならないなんてパリでは考えられない! 冬の太平洋側は陽気に恵まれる。
まずは血海ツボを膝として使うことを復習。内旋で使いやすい。ここをしっかり意識できると股関節が起動する。二の腕の骨も連動する。膝も守る。血海については先週教えたのだけれども、先週おやすみだった生徒さん達のために復習した。弓歩の時も血海を譲らない。そうすれば太ももの前側の筋肉が硬くなったり膝を痛めたりしない。
二の腕の起動のさせ方に新しい手法を試して見た。効果はてきめん。二の腕が入っている状態と、二の腕を外している状態、生徒さんそれぞれがこの区別をはっきり認識することができた。(二の腕が入っている入っていない、というのは正確な言い方ではない。腕が肩甲骨にしっかり連動している状態とそうでない状態、そう言った方が良い。普段私たちの腕はぶらぶらしている。)
二の腕が入ると肘がしっかりする、と一人の生徒さんがコメント。その通り。
肘が使える、ということは二の腕がしっかり肩甲骨に連動している、ということ。太極拳には肘技、二の腕を使う技が多いが、ここが使えると体幹で手を操作できる。(倒巻肱でその応用をやってみせた)
背骨、いや、脊椎の回旋は足の動きにダイレクトに直結する。半身に構えると脊椎の回旋がはいる。そうすると後ろ足が常に地面を推せる状態になる=いつでも動けるようになる。
もし半身にならずにまっすぐ前を向いてしまうと、後ろ足の動きが止まってしまう=次に動き出す時に膝や股関節に負担をかけてしまう。
半身に構えると左目、あるいは右目、どちらかが主導になる。左目右目がお人形さんのように揃って前を向いている状態では脊椎に回旋が起こらない→脚の関節が揃わず動きが止まる。
『左顾右盼』は眼法でもあるし歩法でもある。
これによって脊椎は回旋し、足が動くようになる。
それがはっきり分かったのが今日の練習。
『左顾右盼』を練習するために雲手(運手)をやってもらった。雲手は両手交互の外旋。混乱しそうであれば、右手、もしくは左手だけの重心移動を伴った外旋を練習すればよいと思う。どう目を使うのか?
ここで両目で手を見ているような人は完全にアウトだ。
膝に乗って足の運びを阻害してしまう。というのは、脊椎の回旋が得られないからだ。
右を向く時はまず右の目玉をぐっと右に向けてから顔を右に向ける。
以前メモに書いたことがあるが、目玉を向けてから顔を向けると頚椎一番から順番に回旋がかかる。
このあたりの練習を皆にさせて顔の向け方、目の使い方と足運びの関係を体感してもらった。おもしろ〜い!と言ってくれた生徒さん達。 一人の生徒さんが、結局、右目と左目は別々に使うのですね? と言ったのを聞いて、そういう言い方もあると思った。左目も右目もしっかり使う。顔を向ける前に目を向ける。当たり前のことのようだけど、私たち大人は特に、目を向けるべき時に顔を向けてしまう。巷に普及した健康体操の太極拳にも是非目玉の動きを取り入れて脊椎の回旋を入れたいもの。でないと、関節に余計な負担がかかってしまうと思った。
『左顾右盼』についてはこれまで納得する説明を得たことがなかったので、今日は記念すべき日。明日師父に報告してみよう。『左顾右盼』は決して”左を見て右を見る”なんていうものではなかった!!(といっても言葉で説明できるかしら?)師父は無意識でやっているので説明ができなかったのだろう。実践をやっている人なら無意識でできることも、実践の機会ができない人にとっては学ぶしかない。
上に書いたポイントについて動画を撮って説明できればよいのだけど・・・。
<下の画像>
顔から向いてしまうと首と胴体が断絶。脊椎に回旋がかからず背骨が棒状→膝にロックがかかってしまって動きが止まってしまう。(戻れないし、かといってそのまま前方にもう一歩動くことができない。)
『左顾右盼』で目から回旋させていくと脊椎が満遍なく回旋→膝にも角ができない(脚が弧になる=円裆になる)。足が動き続けられる。
どの画像が『左顾右盼』で脊椎回旋しているでしょう?
2021/12/25 <平視 凝視 凝神 内収 合 中正 眼力>
昨日『平視』ということを書いたら、早速今日のレッスンで一人の生徒さんが「で、先生、『平視』とは一体何ですか?」と尋ねてきた。
実は昨日メモを書いた時にそれが見て分かるような画像がないかと探していたのだが、結局適当なものが見当たらずに放っておいてしまった。文章だけではやっぱり理解できない・・・
ということで、私が平視とそうでないのを見せることにした。
横顔で見た方がはっきり違いがわかるだろうと、生徒さん達には横に立ってもらった。
まず普通に立って普通に前を見た場合。
左の画像の女性のようになるのだろう。
この時、目と耳は水平線状にない。
ここから平視にすると・・・
(と、ピッタシの画像がないので困るのだが)
ちゃんと前方の対象物を凝視したような目になる。
生徒さん達に見せて比較させると、「平視だと結局下顎を引くんですね。」とか、「サッカーのFGの時に見るような目の使い方ですね。」というコメントをくれた。思っていたより違いは一目瞭然だったよう。
できるかできないか、はともかくも、見て、そうかそうでないのか分かる、というのもとても大事。
動物が獲物を見つけてそれを見ている目も平視のはず。そのくらい平視には力がある。ただ前を向いている目、ではない。
スポーツ選手なら普通そんな目になっている・・・ここで久しぶりに大好きな馬龍を見てみよう♪
一枚だけ平視でないのはすぐ分かると思う。
平視はタントウ功や起式のはじめに使われる。
タントウ功だと、馮老師のテキストでは、「まず遠くを平視して何か対象物(樹木など)を注目し、しばらく凝視する」とある。
平視、注目、凝視、と言葉が並ぶが、やってみると分かるが、平視自体に注視や凝視の状態が入っている。(最初平視せずにただ遠くの木を見たとしても、それからその木だけを注視してさらに凝視すると、自然に下顎や引けて平視の状態になるはず)
ただ平視のままでは目の光(気、神)が外向きに出ているので、太極拳では、その後、その木に向けた目の光を眉間にグッと引き戻してくる。目を内収する、というものだ。引き戻した先、眉間の奥は上丹田で、ここで目と耳が一体化する。この上丹田から視線を下方の丹田の方に落とすことによって中丹田や下丹田を連動させていくのがタントウ功や起式の役割だ。
左は演武に入る直前の馮老師。
眉間に光を集めているのが分かる貴重な映像。
これは『凝神』とも言われる。
これをやって、神、気が漏れないように動き続ける。これが太極拳だ。外に発散してしまわない。内側に引いているからこその体の中正。ただ体がまっすぐ、という外側の中正ではなく、内側で引っ張っているからこその中正が見て取れる。心も体もブレない。https://youtu.be/J4w_62WX9Rk
目を内側に引っ張っている時は口の中もへそも会陰も全て”内収”になる・・・どんなに開いても合が残る、その核心部分。
上の馮老師は内側に目光を集めた後、丹田に下ろしている。口元も吸っている。
劉師父は平視になっている。獲物を凝視して飛びかかっていく寸前の目。
そして昔の私の写真。目線がぼやけているのが明らか。上の二人の老師と比較すると一目医療然。目が入っていないと首も立たないし頭も立たない。
眼力で功夫も知れてしまう。気が満タンになると神に溢れ出る=身体の気がいっぱいあると目にも力が出る、頭も冴える
そして掩手肱捶。
馮老師は軽々やっているが、目は引きっぱなしでブレない。
右側の生徒さんは後ろ姿から見えないけれど、右腕を引いた時に目線が外れているのが分かる。目の内収が全くない→体の奥で引っ張り続けるものがない→筋肉や骨で動く外家拳(空手?)のようになってしまう。
内収があるからこそ気(隙間)で動ける。内収がないと筋骨皮で動くしかない。
そんなことがわかる映像だ。
2021/12/24 <目VS耳 平視の意味 胆経>
前回のメモに関して付け足し。
電車に乗って気づくのは、日本の電車(といっても私が乗っているのは横須賀線や東横線)の中にはスマホを”見ている”人がとても多い。乗客の中に占めるスマホをしている人の割合は7割は超えていると思うけど、そのスマホをしている人の中で”見ている”人の割合は9割以上のようだ。滅多に”聞いている”だけの人はいない。例えイヤホンをしてもスマホを見ていたりする。
パリのメトロを思い出すと、スマホをしている人は多かったが日本ほどではなかった。(電車内やホームでスマホに気をとられていたらスられたりして危ないかも?)そして電車の中では(そして路上でも)イヤホンをして音楽を聴いているような人が多かった。
近い物ばかり見ていると姿勢は崩れる。耳を使おうとすると頭は立つ。
人間は視覚から7割の情報を得ている、とか言われるけれど、私たち日本人は欧米人に比べて視覚に頼っているかも、と思ったりする。30年前にロンドンにいた時、本屋にオーディオブックがたくさん売られていたのをみて驚いた。本は目で見るもの、と思っていたからだ。イギリス人の英語の先生が「イスラム系の生徒達はとても耳がいい、それはコーランは読んで聞かせて覚えさせるからだ。これに対して、日本人の生徒達は読むのが得意だ、が、聞くのと喋るのが苦手だ。」と言っていたのもその頃の話。劉師父は漢詩が好きでたくさんの漢詩を暗唱するが、中国でも小さいうちに漢詩などを読んで聞かせて覚えさせたりするらしい。
目と耳、とても大事。
太極拳には『双眼平視』いう要領があるが、この『平視』は何が平らかというと、耳と目(耳の穴と目玉?)が水平線上にある、ということだ。普段私たちは目が耳よりも微妙に上にある。顎を引いて頭蓋骨を回すと目と耳が合う場所がある。そこが『平視』だ。私たちがしっかり見ようとする時はこの『平視』になる。(例:野球でバッターがボールを捉えようとボールを見る時)ぼおっと見ている時はそうならない。
『平視』になった時は耳の穴も開いたようになる。つまり、目、耳、ともに覚醒させるのが『平視』ではないかと思う。
欧米人が私たちより無意識的に耳をよく使う、というのはもともと狩猟民族だったから? と勝手に推理。耳をすましてよく聞く、というのが狩猟ではとても大事。これに対して農耕民族は目重視?耳はそんなに必要ないのか?
耳は胆経が通る場所。脇も含めた身体の側面。肩の肩井のツボも胆経上にある。胆経を意識できると頭がまっすぐ立つようになる。
2021/12/22<太極拳的な観点から座り姿を分析>
冬至。
電車に乗っていたら、おやっと目が釘付けになる姿をキャッチ。 すかさず近寄った。
やはり外人・・・(写真のAの男性)
この肩、上半身、身体の枠組みのしっかり感は日本人にはなかなか見かけられない。
一人だけ座り方が違うのが遠くからでも分かる。
勉強のため、と心で言い訳をして写真を撮ったのだが、あとからじっくり見ると気づくことがいろいろある。
座っている人たちの中で頭頂が立っている(頂勁)人は彼一人。となりのBの男性のような傾き具合の人が一般的で、中にはもっと俯いている人もいる。
Bのように頭が前に出た姿勢はストレートネック、あるいはスマホ首につながりやすい。
スマホ首についてはいろんな人が説明をしているが(例えばhttps://time-space.kddi.com/digicul-column/suguyaru/20180314/2267)、その防止法として一般的に言われるのは、スマホを高い位置で持って視線を下げないようにすること、だ。
確かに、Aの男性を見るとスマホを高めに持っている。(実際には”視線を下げないようにする”というよりも”頭を下に向けない”というのが大事では?A氏は頭を下げずに目玉を下に向けている。それに対しB氏など大多数の人は目玉を動かさずに頭を動かしている。)
けど、Aさんは別にスマホ首にならないようにこのような姿勢をとっているのではないようだ。というのは、全身のアライメントが自然にハマっていてとてもリラックスしているからだ。
私は最近、生徒さん達に腕から全身のアライメントを整えるような方法を教えているが、その観点から見ると、肩脇がキマっているから二の腕がキマって自然にスマホが引きつけられているのが分かる。
二の腕(肱)がキマる、というのは上腕三頭筋がしっかり作動する、ということだ。そうすると前腕から先のアライメントも整う(橈骨と尺骨の間の骨間膜のハリがでる)。そして広背筋などを介して骨盤も立つようになる。腹がしっかりする。足まで気が届きやすくなる。
Aの男性の足は床にぴったりと付き、必要であれば上半身を前に倒して座面を擦り、そのまま立ち上がれそうだ。座面に接した部分=裆、の面積が広いこと(太極拳の円裆に相当)は足裏の力に直結する。A氏の足裏の床への貼り付き感は彼の裆の状態を反映している。そして裆力は骨盤が立つことによる結果、そして骨盤が立つのは脇が締まる結果・・・(肩)→二の腕→脇→骨盤→裆→足裏(脚力)、というような流れが見て取れるのだ。
ここでCの女性の足元を見ると、ひざ下にすでに力がないのが分かる。
脚力の問題? いや、全身の問題なのは見て明らかだ。上半身がすでに萎んでいる。肩や背中は丸く、内臓の入っている部分(胴体)が凹んでいる。身体の調整をする時にはまず内臓の入っている部分から行う、というのは私たちの老化の仕方を見ると納得ができる。
Bの男性の足元は明らかではないが、椅子に座ってB氏のように少し前かがみになってスマホをすると、足は少し床から浮いたようになる。A氏のように座れば足は床を突っ張ったようになる。が、腹を保つ必要=腹圧が必要だ。腹圧を抜いてしまうと身体が萎れてすぐさま前肩、もしくは首が折れて顔が前に出てしまう。
つまり、
(肩)→二の腕→脇→骨盤→裆→足裏(脚力)
と書いた時の、肩の前には、 腹圧=丹田の気の充実 が必要ということ。
丹田の気の充実→首・肩→二の腕→脇→骨盤→裆→足裏(脚力)
このうち、
脇と骨盤(上半分)をつなぐのは中丹田の練習(臍下から鳩尾の間)
骨盤と裆(骨盤下半分)をつなぐのは下丹田の練習(自動的に足裏までつながる)
そして、私がやっと練習を始めたばかりなのが上丹田。
上丹田は腕、手、肩首、顎、頭部を含む。
二の腕のつながりの練習をすると”肩”や”首”の認識が変わる。
ある時、上焦は胸下、ブラジャーの紐ラインから頭のてっぺんまで、と感じてそれを師父に言ったら、その通りだ、と言われたことがあった。
このブラジャー紐ラインについては、師父から『隔兪』というツボで教わった。ここを意識できると、上の若い女性達の背中が理解できる。肩甲骨がしっかり出てくる。腕は胴体よりも後ろに落ちるようになる。肩がはっきりして首が立つのだ。(生徒さんによっては自動的に下顎が内収するという声あり。)
ここで沈肩を意識的にすると脇がさらに締まって含胸になるの。この時、含胸はただの凹んだ胸ではなく空気を含んだまま息を下に吐きこみ続けているような感じだと、また新たな感覚が生まれてくる。
上丹田までざっとでも繋げていくようにすると、中丹田や下丹田の重要さを改めて認識できる。そうやって循環させながら練習していくのだと思います。
2021/12/19 <46式から内功へ>
今日の御苑でのレッスン。
24式、48式を一通り学んだ生徒さん達を相手に二路の46式を教え始めている。
太極拳の套路には一路と二路しかない。どの流派でもその大元は変わらない。
一路をコンパクトにして〇〇式とか××式とか流派ごとにアレンジされている。例えば、混元太極拳の場合は、48式は一路に含まれる全ての技を重複なく連ねたもの、そして24式は女性や年配の人に配慮して48式から蹴り技などを省いて一路の入門的な内容になっている。言い換えれば、48式を学んでやっと一路を一通り学んだ、ということになる。
一路を学んで二路に入って最初に面食らうのは、常に行ったり来たり、と足がせわしなく動いているということだ。その場で体重移動、というのが少ない。いつも足は動いている。これが実践の動きだ。
実践重視の老師がタントウ功を嫌うのは、それが”居つく”ことになりかねないから、というのを聞いたことがあるが、二路で初めてその言葉の意味が納得できるようになる。
では、なぜ一路で、その場で(進歩や退歩せずに)重心移動をさせるのか?
それは足裏までしっかり根を下ろさせるためだ。
一路でそれを学ばずに二路に進むと、動き回りながら足から腕まで勁をつなぐことができずに力で打つことになってしまう。
生徒さん達を教えていて気づくのは、内功を長年やっている人たちは、勁をつなぐ、という体内の感覚を知っているため、形が多少歪でも、勁を頼りに形も良くなっていく。一方、内功があまりできていなくて形に頼っている生徒さんは、なかなか勁の感覚を掴めなくて太極拳なのに少林拳のような動きになってしまうということだ。
師父が以前言っていたのは、「一路は気功、内功のようなもの。内家拳である太極拳のミソを習得するもの。もし、一路を学ばずにいきなり実践的な二路を学んだら、それは少林拳と変わらなくなるだろう。」 そういうことだ。
太極拳のちょっとした不思議さ(これを”巧”という)は勁にある。勁が分からなければ太極拳にならない。丹田は勁を通すために必要となるエネルギーの貯蔵庫だ。
46式を教えていると、やはり内功が大事だ、と思う。そう気づいて、徐に傍で内功の練習を始めた生徒さんもいた。それで良いのだと思う。こうやって練習は循環する。これもとっても太極拳的だ。
内功のクラス、というのを設けられたらよいのだけどなぁ、本当は。
2021/12/18 <二の腕を使う 回内・回外 上腕三頭筋 丹田功>
練習で教えたことをブログに書くのを怠たりがちなのだけど、少しでもメモに残しておこう。
先々週は皆に、前腕ではなく二の腕を使う、ということをいろんな形で試してもらった。が、なかなかうまくいかない。私たちは無意識で前腕から腕を使う癖があるからだ。
私たちの脳のセンサーはその多くを手、末端につなげている。手を使おうとするとき、肩や二の腕を動かさなくても、手先でいろんな動きができてしまうのだ。私たちの手は他の動物達と比較にもならないほど器用だ。その器用さを作る一つの要素が前腕が2本の骨で成り立っていること。2本の骨が回転して交差したりして前腕を含めた”手先”が自由に使える。私たちが日常生活で行う多くの動作は、ともすると前腕以下の手先で終えてしまいがちになる。
<参考>http://www.alexanderswim.net/html/alexander/alex_fr.html
手のひらを上に向ける動き=回外
太極拳の順纏に相当?
手のひらを下に向ける動き=回内
太極拳の逆纏に相当?
?としたのは一見同じようだが、纏糸(チャンスー)にはただの回内や回外にはない重要な要素がある。それは、その回旋が身体の内側、丹田まで繋がること。
上の図には回外、回内それぞれに使われる主な筋肉が書き込まれているが、それらを見ると、上腕につながっているのは回外の上腕二頭筋(力こぶの筋肉)のみだ。試しに手のひらを下向きから上向きに回すと、確かに力こぶの筋肉が使われる感覚がある。逆に、手のひらを上向から下向きに回すと肘より下だけでスルッと回転する。上腕の筋肉は全く使われていない。
←回外で使われる上腕二頭筋(https://rehatora.net/%e4%b8%8a%e8%85%95%e4%ba%8c%e9%a0%ad%e7%ad%8b/)
起始が身体の前面にある→胸の筋肉と連結し得る。
←問題なのはこの上腕三頭筋
通常の回内、回外では使われない。
が、腕と肩甲骨をしっかり結びつけるにはこの筋肉を使うのが必須。
回内、回外の時にこの上腕三頭筋(いわゆる二の腕)をしっかり使うことがチャンスーの条件になる。
(太極拳の技の名称でよく使われる『肱』は二の腕=上腕三頭筋を表しているといってもよい)
お箸をもとうが、スマホをやろうが、歯磨きをしようが常に二の腕の(女性ならすぐにお肉がたるんでしまう箇所)が使われている=鍛えられている、ような身体の使い方が理想的な身体の使い方。
実際には、この上腕三頭筋を起動させるにはそれなりの姿勢が必要になる。それが頂勁、沈肩、墜肘、塌腰・・・と、結局タントウ功の姿勢になってしまうのだが、タントウ功だけでなく動きの中でもその姿勢を保持できるように動功を組み合わせて練習する必要がある。
以前私が撮った動画のポーズ、両手の手の甲を合わせる動作、は紛れもなく上腕三頭筋を起動させる動きだった。が、それを武術大好きな男性生徒さんに教えた時に、あれっ?この格好はどこかで見たような・・・と二人でピンときてしまった。それは心意拳の丹田功にそっくりだったのだ。
なるほど、こうやって丹田を作るのね。腕を締めた方がわかるのかもしれない、と納得。
そしてその生徒さんが併せて見せてくれた有名な老師の基本練習の動画を見てみると、その老師の二の腕、肩がしっかりと入っている(足までつながっている)がために、一緒に練習する生徒さんたちの動きとは全く別物になっている、というのも見て取れる。
上の動画白いシャツの徐谷鳴老師とその動きを真似する生徒さん達。
身体と腕がしっかりつながっている(=全ての動作が上腕三頭筋を巻き込んで使われている)老師と、ただ腕の動作を真似ている生徒さん達。パッと見は似ていても、その違いが一目でわかる箇所がある。
右の写真でそれがどこだか分かりますか?
2021/12/14 <前かがみ姿勢 腹圧、目玉>
今気になっているのは、前かがみ。
日本に戻ったくると道がきれいでびっくりする。パリなんて200メートルごとにゴミ箱があるみたいな気がするほど、ゴミ箱がいたるところに設置されている。そして大きな清掃車が道を塞いで清掃をしている光景は日常的だ。なのに道はゴミが至る所に捨てられている。私の犬はいつも道で宝探しをするかのように食べ物を探して歩いていた。
が、日本に戻ってくるとサンドイッチの食べかけや骨つきチキンの切れ端が道に落ちている、なんてことは滅多にない。外国人が日本に来て一番困るのはゴミをどこに捨ててよいのかわからないことだ、というのはよく分かる。師父が来日した時も道にタバコの吸い殻が落ちていないのでタバコが吸えない、とボヤいていた・・・
で、なんで日本の道にゴミが落ちていないのだろう?清掃車が道を掃除している姿はみかけないのに・・・ と、見てみると、近所のおばさんがちょくちょく箒で道を掃いている。うちの家の前も落ち葉が積もっていた、と思ったらある時きれいになっていたりする。近くの人が掃いてくれていたのだ(感謝!)
そんな風に思って道で箒を持って掃いているおばさん、おばあちゃん達を注視することが多くなって、あれっ?と気づいた。
すごい前かがみ!!
パリでも掃除のおばさんが掃除をする姿をよく見ていたけど、そんな前かがみは見たことがない。そのくらい、日本でおばさんやおばあちゃんが箒とちりとりを片手に道を掃いている姿は前かがみ。これじゃあ、お腹が潰れてしまう・・・と、背骨が丸くなっていた祖母を思い出した。歳をとって前かがみになって乳母車を押さないと歩けなくなる比率は日本人の方が欧米人よりずっと高いのではないかしら? 日本女性は若い子を見ても総じてお腹が弱く(腹圧が少なく)これじゃあ内臓が潰れてしまうのではないか? なんて心配してしまうことがしばしばあるのだけど、それに加えてこんな前かがみの動作をやっていたら腹圧はもっと減ってしまう・・・
家で「なんであんな前かがみで掃除してるのだろう?」と主人に話したら、「そりゃあ、箒が短すぎるんだよ、日本のは。」と一言。
ああ、そうそう、箒の柄が短すぎ!! あんな短い柄の道具を使っていたらますますこじんまりした身体になってしまう! そう思えば日本の道具、前かがみにならなきゃ使えないもの、多くないか? 日本の家や道は狭いから、なんでもコンパクトにするうちに私たちに前かがみを強いるものが多くなっているのかも。
これに対しレレレのおじさんのような竹箒なら前かがみにならない(欧米の道具はこのタイプ)・・・屋内でもこのくらい頭を上げて家事をしたいもの。
そこから、およっ?と、太極拳の『虚霊頂勁』を思い出した。
『虚霊頂勁』は裏返せば、「前かがみにならない」ということ。
前かがみになると(ここでいう「前かがみ」はお腹をくしゃっとしてしまうような姿勢。正しい「前傾」姿勢とは違う)、内臓に負担がかかる。胃が圧迫され脊椎に負担がかかる。
頭に王冠をつけて掃いてみたらどうだろう?
レレレのおじさんなら問題なし。けど、上のベルメゾンカタログの主写真のような箒ちりとりセットで掃除する場合は? 頭を上げたまま小さな箒で掃くのは功夫がいる。そうとう腹圧がないと無理だ・・・(腹圧を使わずに膝を曲げたら太ももがパンパンになってしまいます)。
そしてもう一つ、とても大事なことを発見!
目玉をしっかり下に向ける必要あり!
私もそうなってしまっているが、俯く時に首から俯くと首こり、肩こり、もしくは猫背になってしまう。正しいのは目玉を下に向けて下を向くこと。
そう気付くと、ホロビッッツやルービンシュタインなどの巨匠はそうなっていた!
https://narushare.com/vladimir-horowitz/
https://kirakuossa.exblog.jp/27686752/
動きはまず目から始まる、というのが動きの基本。動物を見ているとそれがよく分かる。目玉がしっかり動く。目玉が動くから脊椎がてっぺん(頚椎)から下まで連動して動くようになる。目玉の動きは太極拳の眼法で学ぶものだが、その眼法がそのまま歩法に直結してくるのを今週のレッスンで生徒さん達に少し紹介したりしていた。
前かがみ、頭を下げる、という動作は再考に値する。
フランスでは絶対に頭を下げちゃいけない、とフランスに長年住んでいる日本人のおばさんから教えられたことがあった。お店に入る時も絶対頭を上げて胸を張って堂々と入るべき、でないと見下されて対等に扱ってくれない・・・・ということなのだ。
自分を大きく見せる、というのが動物の世界、そして大陸では当たり前。この島ではそれが嫌われ謙遜が美德とされる。けど、二足歩行の私たちは頭を上げているからこそバランスがとれている。頭を下げる代わりに目を下に向ける、目玉を活用する練習を私もしなきゃならない。
2021/12/10 <脚を胴体と連動させる 広背筋と腸腰筋の連動 横隔膜>
一昨日犬を連れて広場に行った時に思い出して撮った動画は映った自分の姿といい説明といい、決して満足できるものではなかった。
言いたかったのは、膝に負担をかけるのは「上半身を繋いでいないから」。あるいは、「胴体と脚を連結させていないから」。下半身が衰えた、ということ(だけ)ではないということ。
そして、「上半身・胴体を脚とつなぐ」ということは「背骨を脚にする」ということ。そうすれば背骨の蛇腹による微調整によって股関節や膝関節などにかかる負担が激減する。(子供の時はきっとそうやって歩いたり跳ねたり走ったりしていたのだろう。)
動画で紹介したのは、そのような「背骨を脚にする」ための一つの実験的方法。
両手の甲から肘までをピタッと合わせた時、<入った>かどうか分かる。手応えがなければ<入って>いない。繋がっていない。
この形をやって分かるのは、「背骨を脚にする」と『塌腰』になるということ。腰が下に伸びる。そして背中から脚までロックがかかる。すり足しかできなくなる。『塌腰』は腸腰筋を使うための要領だったのだ。
その後、背骨を脚化したまま腕を動かそうとすると、ものすごく大変なことになっていることがわかる。全身作業になるのだ。ここから順纏、逆纏が生まれてくるのも分かる。チャンスーは全身を繋いでいるからこそできるもの、そして、やればやるほど、ねばくなる。体のポンプが活性化する。
ここまでが動画の補足説明。
昨日、本棚の整理をしていたら、楊進先生が共著で出されている『太極拳と呼吸の科学』という本を見つけた。そういえばほとんど読んでいなかった、とページをめくってみたら、上の動画のからくりを学術的に説明してくれているような箇所がありました。
(以下p97より図をお借りしました。)
横隔膜ー腸腰筋ー大臀筋ーハムストリングス
というつながり。
ハムストリングスの終点が膝。
脚を引きつける(持ち上げる)のは腸腰筋(腹側)
脚を蹴り出す(遠くに出す)のは大臀筋、ハムストリングス(背中側)
上を前提として、腕を使う場合。
腕を引き下ろすのは広背筋。
腕を前方へ持ち上げるのは僧帽筋や三角筋。
同著の記述でなるほどと思ったのは、私たちが四肢で歩いていた時に、四肢を引きつける動作は広背筋、腸腰筋など、背骨の前側(腹側)に付着する筋肉、これに対し、四肢を伸ばす動作は僧帽筋や大臀筋・ハムストリングスなどの背中側に付着する筋肉主導、ということだ。
引きつける動作の時に使う筋肉は胸椎の下部、腰椎の上部の体の中心=”腰”に付着している。左の図の赤星で示している位置だ。
(四肢を伸ばす時の僧帽筋や大臀筋などは肩や骨盤など、中心から少し離れた位置に付着している。)
このような記述を前提に、改めて、私が動画で撮った動作を分析してみると、私が両手の甲から肘をぴったりくっつけようとしたのは、腕を思いっきり下げることで広背筋と腸腰筋をしっかり連動させようとしていたのだということがわかる。つまり、赤星のポイントを掴もうとしていたのだ。ここが入れば、上半身と下半身が連動する(広背筋は上腕に、腸腰筋は大腿骨に付着する)。
そして赤星のポイントが起動すると塌腰になり命門が開く。
タントウ功の第一の関門が命門を開くことだ。命門は腰椎2番と3番の間だが、そこをきちんと開くためには赤星の胸椎11、12番、腰椎1、2番を動かすことが必要だということだろう。
ここで何よりも大事だと思うのは、この赤星の位置には横隔膜が付着するということ。
だから、最初、腕を胴体と連動させるために息を使う必要があったのだ・・・(動画の中でも息が・・・と言っている部分があったはず)。 横隔膜が動いてくれないと赤星の連動がうまくいかない=広背筋と腸腰筋の連動が起こらない。
そして、一旦連動すれば、腕脚を動かせば動かすほど横隔膜が動いて体はポンプ化する。チャンスーも横隔膜が連動していたのだ〜
横隔膜の動きは私にはまだ自覚できないのでこうやって勉強して初めてその動きを知ることになるのでした。
とすると、塌腰も、そして沈肩も墜肘も、横隔膜の動きが必要だ・・・太極拳は横隔膜呼吸とも言われるのがそのことかな。
2021/12/5 <帰国して>
日本に戻ってきて既に三週間が過ぎた。
最初の二週間は自宅隔離。とはいっても、買い物や犬の散歩には出ていた。横浜の自宅周辺はアップアンドダウンが激しく車が通れない道も多い。おかげでパリでは味わえなかった自然の匂いが味わえる。家も薄っぺらい木造で、窓を開けると家の中も屋外のよう・・・室内と室外の温度が変わらない?
2年留守にしていると家もかなり劣化している。プラスチック製品は黄色くなっている。家には既に物が溢れている。持ち帰った荷物をどこにしまえば良いのか?
と、帰国直後から掃除と断捨離が始まった。
凝り性の私はいったんハマるとそればかり考える。様々な汚れをそれぞれどう落とすのか? 的確な洗剤が必要だ。どう収納するのか?いや、収納の前にものを減らすべき。何が必要で何が必要でないのか?
今後こんなにたくさんの食器は必要ではないのでは? 洋服もこんなに必要でないのでは? 不要だと思ったものは娘が欲しいといって引き取ってくれたりする。欲しい欲しいと拡大していく年代もあれば、人生身軽に生きていきたいと思うようになる年代もある。今はその転換点なのかもしれない。
先週から日本の生徒さん達のレッスンを始めた。
しばらくは最小限。これまで教えてきた生徒さんだけ教えることにした。
2年半私の帰りを待ってくれた生徒さんがいることはとても嬉しい。
今回のパリ修行で学んだことを教えながら私自身復習していくのだと思う。
2021/11/16 <パリから帰国>
パリを出る前の3日間は練習どころでなかった。借りていた家を元の状態で戻す、これだけのことをするのに相当なエネルギーを使った。
猫が引っ掻いてできたソファーの傷。かなり酷かったが地道に修復作業をしたらかなり目立たなくなった。いつの間にかできていたカーテンのシミ。これはシミをとろうとしてかえって広げてしまった。IHコンロも毎日磨きに磨いた。結局、最後の点検で、これは磨き過ぎて却って痛めている、と指摘された。 けど、この引越し作業で、私は片付けは苦手だけれども、汚れ落としには精が出てしまうことを知った。昔、クリーニング店でバイトをしたことがあったが、染抜き職人に憧れたことを思い出した。染抜きは化学作業、と言っていたっけ。汚れがスルッと取れると爽快だ。
が、私の欠点は一点集中し過ぎること。意が強くなり過ぎる。一点集中し過ぎると全体を逸する。シミ取りで失敗するのも太極拳で失敗するのも同じ原因。
こんな話がある・・・
学校の先生が教室のホワイトボードの真ん中にマジックで黒い点を描く。それから生徒たちに「ここに何が見えますか?」と聞く。すると普通は皆、「黒い点が見えます」と答える・・・ 「ホワイトボードが見えます」と答える人は滅多にいない。
それが私たちの目、意識の使い方だ。
99.9パーセントが白くてもそこに一つの黒い点があると目はその黒い点に集中する。白い部分は忘れ去られてしまう。
太極拳ではそのような人間の特性を利用しているようなところが多々ある。
陳項老師が実践の説明をしている動画の中にも、「私たち(太極拳の者)は”点”を狙わず”面”を切っている」と言っている場面がある(下の動画の冒頭)。相手が拳を打ち出してきていてもその拳だけを見るのではなく相手の体全体を見ていれば防御+反撃、もしくは、相手の拳が届くよりも速く攻撃することが可能というこだ。劉師父は多少相手の拳が当たってもどうってことない、恐る必要なし、と言っていた。恐れたら意は集中してしまう。
意の使い方はこれからまだまだ学ぶ必要がある。
先週金曜日に日本の戻ってきてからも片付け掃除が続いている。14日間の隔離期間があってよかったと思った。計3匹の犬猫たちはスッとこちらの生活に馴染んだ。が、私たちが留守の間にこの家で娘が買い始めた雄猫は、私たちがドッと押し寄せたために天井裏の部屋に隠れたまま出てこない。どうするかにゃ〜・・・
戻ってきて最初に感じたのは空気のきれいさ。パリの空気が悪いのは知っていたけれど、本当に悪かったのだと知った。鼻がスッとして気持ちいい(マスクをとって呼吸すれば)。
家の近くの広場で少しだけ練習してみたら、しっかり根付く感覚があった。パリでは”土”が浅くて地下深くに根付く感覚がなかった。砂、岩の多い土地と土の多い土地では感覚も違う。そして何と言っても日本に戻ってくると安心感がある。
ただ、気になるのは日本人の歩き方。目が慣れるまでは皆が股下から脚を動かしていてその場足踏みをしているように見えた。腰を使わないで歩くようだ。だから腕がぶらりと垂れてしまって欽ちゃんのような横振りをしている人も案外いる。肘が落ちている、すなわち、肩甲骨が滑っていしまっている。同じアジア人でも、中国や韓国の大陸の人たちとは異なる歩き方だ。
私も太極拳を練習していなかったら今頃かなりの猫背で前肩になっていただろう。まだ完璧ではないにしても、随分マシになったと思う。ちゃんと立ってちゃんと歩ける、そしてちゃんと座れて、ちゃんと寝られる。 それができたら完成ではないか?
太極拳を練習することでそんなことが可能になるはず。
太極拳を練習する意味が変わりつつある。
2021/11/7 <慢と松の関係、松と丹田の関係>
今週気になったのは、ゆっくり動くこと(慢)と力を抜くこと(松)の関係。慢と松は必ずしも結びつかないのでは?という疑問。
太極拳の大きな特徴はゆっくり動くこと(慢)。
空手や少林拳ではそんな風な練習はしない。スローな動きだから誰でも真似しやすく、手軽な健康法として世界に普及したという感じもある。
そして太極拳のもう一つの大きな特徴は力を抜くこと(松)。
常に放松、放松、力を使うな! と言われる。力を使わない運動? 筋トレとは無縁の運動だ。
ゆっくり動いて(慢)力を抜く(松)。
慢と松はいつもセットで言われるから、なんとなく、ゆっくり動けば松する、松できているような気がしていた。
が、この前メモを書く時にある老師の動画を見たら、ゆっくり動いてはいるけれど体が強張っていて松できていないことを発見、そこから、ずいぶん前に師父が”暇松”(偽の松)という言葉を使ったことを思い出した。ゆっくり動いていると力が抜けているように見えたりするけれど、実は力が抜けていない。こんな状態を”偽の松”と評していたのだ・・・
そうやって自分の動きをよく観察すると、ゆっくり動いたからといって体の余分な力が抜ける訳ではない。丁寧に動こうとしてかえって身体が緊張していたりもする。『意』が強すぎるようだ。『意』が身体の動きの輪郭を包むように張り出ている。身体のバリアを張っている。こうなると動きの中に自分が溶け込めず”一体化”ができなくなる。無心になれなくなる。スポーツの世界なら自分の実力を十分に出せない状態だ。カメラで撮影されたり人前で演武すると緊張するのも同じような現象・・・自分(意)が自分の動きの中に溶け込めない状態・・・すると身体は放松できない。
そう見ると、放松とは、自分が自分の中に溶け込んでいる状態、では? 周囲が気になって神経がピリピリしているような時は身体は緊張している。心が緊張しているのだから仕方がない。それに対して、トイレで一人で座っている時はほっと安心する。安全だから自分は自分の中に溶け込むことができる。
自分が自分の中に溶け込んでほっとしている状態、この時”自分”は自分の腹、丹田にいないだろうか?
右の馮老師の腹の中心の円の中に”自分”が入り込んでいる時、私たちはほっと一安心している=放松している。
これに対して、周囲に危険があったりする時、”自分”は身体の外周に意識を張り巡らす(緑の点線)。真ん中の丹田は空っぽになる、もしくは、身体と意(自分)が分離する。そんな時私たちは緊張している。ストレスがかかっている。この状態が続くと身体に影響が出てくる。
理想的な外敵、外的ストレスに対抗する方法は、真ん中の丹田の気を意で外周まで押し広げて身体を包むことだろう(丹田が身体を包むことになる、もしくは丹田がなくなる:意と気が離れない)。太極拳では腹の丹田に気を溜め、それを押し広げたり、また腹の丹田に戻したり、を繰り返すことで(開合の練習)、随時状況に対応させられるようにしている。弾性が太極拳の特徴となる所以となるところだろう。
つまり、放松は丹田と結びついている。立ったらまず『三性帰一』をする(目で丹田を見、耳で丹田を聴き、心で丹田を想う)。これは自分を丹田に戻す、溶け込ませる作業、すなわち、放松の作業に他ならない。
これに対して、ゆっくり動く、という『慢』は必ずしも丹田と関連がない。
小学校の時に自転車競技会というのに参加した時、ある区間はとても道が細くて、そこを何十秒か忘れたけれども、長い時間かけて通らなければならない、というのがあった。自転車でほとんど静止状態、ゆ〜っくり動く、というのはとても難しい。全身力が入って腕がブルブルしていたのを覚えている。達人なら力を抜いてそんなことも可能なのかもしれないが、多くの場合は、必要以上にゆっくり動くことでかえって身体が緊張したりする。そう書きながら、パソコンを打つ手の速度をずっと遅くするとどうだろう?・・・身体の力が抜けて放松するだろうか? いや、リズムに乗ってブラインドタッチしている方が脱力が簡単だったりするのだ。
ゆっくり動いて、松するのは、難しい。
実際、ゆっくり動いて、松している老師を見つける方が難しい。
ヒップホップをしている若者の方が簡単に放松できる。慎重になればなるほど身体は硬直する。
まずタントウ功や内功で丹田を使う練習をして、それを套路の動きの中でも再現しようとするとゆっくり動かざるを得なくなる。
慢→松、というよりも、松→慢 なのかも?
初めに松ありき。
最後に・・・
松するために、時にはいつもより速めに動いてみる、というのも有効、太極拳だからといっていつもゆっくり練習するわけではない・・・
『慢而不散 快而不乱』
という言葉を師父が教えてくれました。
2021/11/2
帰国まであと10日。
振り返ればこの2年は身体の歪みを調整することに費やされた。
日本を出る時はそれほど自分の体が歪んでいるとは思っていなかった。けれどもパリで練習を始め師父の与える課題をクリアしようとしたらことごとく壁に当たった。原因は身体の歪み、言い換えれば、経絡のラインがちゃんと繋がっていない、あるいは、筋膜の歪み、というようなもので、これが整えば『節節貫通』が可能になる。
太極拳の太極拳たる所以、太極拳に人が惹かれる最大の理由はその神秘性、不思議さにあるのではないかと思う。太極拳で「妙なる」というものだ。「妙」にして「巧み」、それは『用意不用力』(力を用いず意を用いる)というところから発生する。力任せでないのに相手を負かしてしまう、”力”ではなく”気”を媒介にして”意”で”勁”を通す。そんな風な”勁”で技をかけられたことのある人なら、技をかけられた時に”無理やり倒された”という感覚が全くないことを知っているはず。『あれ?」という間にやられている。何をどうされたのか分からないのだ。
この”勁”は勢いのある内側の気の流れだが、このような”内気”の流れを意識的に作り出せるような練習はまぎれもない気功法で、だからこそ、太極拳のベースは気功法だ、といわれるのだ。気功法だけでは武術にはならないが、太極拳は気功法抜きには成り立たない。太極拳の”内功”はまさに気功法で、それによって身体中どこにでも内気を通せるような身体=『節節貫通』によって『周身一家』になった身体、を作ろうとしている。
そして私のこの2年間は『節節貫通』を課題として、その時その時、貫通しない箇所を開けるためのさまざまな練習がほとんどだった。技も習ったけれど、私の意識は常に”繋がらない”ところをどうやって繋げるのか、そこにあった。こんなに歪んでいたのか・・・と気づいたのもそんな練習をしていたからで、もしこの2年がなかったらずっと気づかないまま練習を続けていただろう。
『節節貫通』させるには身体の歪みがとれて身体が整理整頓されている必要がある。中医学の経絡図は地下鉄マップならぬ人体マップといえるだろう。通常私たちの体は完璧ではないからその人体マップの中の路線が途中で途絶えていたり狭くなっていたりして電車(気)が通れなくなっているような場所があったりする。これを自分の内気で貫通させていくのが内功で、そのためには内気の流れにある程度以上の勢いが必要になる。(詰まったパイプに勢いよく水を流して詰まりをとる、そんなイメージ) 勢いをもたせるためには貯蔵池(丹田)に気をたくさん溜めておく必要がある(ダムのイメージ)。だからタントウ功や座禅で気を丹田に溜める練習をする。
体の歪み、と一言でいってもどこがどう歪んでいるのか具体的に知るのは指導者の力を借りる必要があるかもしれない。太極拳の外三合(肩ー胯 肘ー膝 手ー足)、あるいは、四正勁(右肩ー右胯、左肩ー左胯)をやってみるとどのくらい身体の中が繋がっているのか分かる。それらが完璧にできるようになれば『節節貫通』はほとんどできていることになるのでは? と、もう少し、もう少し、とやり続けて、そろそろ時間切れ。日本に帰ってからも同じような練習を自分で続けることになるようだ。でもトンネルの先の光は見え始めてる。手探り状態の段階は過ぎた。家の中も体の中も整理整頓してスッキリできるようにしたい・・・そう、心の整理整頓もありました。引っ越し準備で頭が乱雑にならないようにするのが目下最大の課題。